【最新】アフリカの今を学べるおすすめ本(経済、政治、文化を知る)

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現在のアフリカが面白い!

2050年までには世界の人口の1/4はアフリカ人になると言われています。アフリカでは今は、資源の高騰もあり経済も右肩上がりになっていますが、アフリカとと言っても地域によってそれまでの歴史は違った道を歩いています。今回はそのようなアフリカの現在、未来を知ることのできるアフリカ専門、入門書を紹介します。

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出典:出版社HP

 

アフリカを見る アフリカから見る (ちくま新書)

アフリカについて知り、今後日本はどう変わるべきか

本書の中心は「PKO原則の見直しの必要性」です。読み応えのある本で、特に、後半の東京外国語大学の篠田氏との対談「アフリカに潜む日本の国益とチャンス」がおすすめです。この本をきっかけに視野を広げてみてはいかがでしょうか。

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/8/6)、出典:出版社HP

目次

はじめに

I アフリカを見る アフリカから見る

第1章 発展するアフリカ
1 援助ではなく投資を!」
2 激変する世界――躍進と変革のエチオピア
3 「危険なアフリカ」の固定観念
【コラム】黒人女性が造る南アフリカワイン

第2章 アフリカはどこへ行くのか
1 アフリカ農業−アジアで見た発展のヒント
2 「愛国」と「排外」の果てに
3 「隣の友人」が暴力の担い手になる時
4 若き革命家大統領は何を成し遂げたか
【コラム】匿名の言葉、実名の言葉

第3章 世界政治/経済の舞台として
1 中国はアフリカで本当に嫌われているのか
2 中国がアフリカに軍事拠点を建設する理由
3 北朝鮮は本当に孤立しているのか
4 アフリカに阻まれた日本政府の「夢」
5 アフリカの現実が迫る「発想の転換」
【コラム】英語礼賛は何をもたらすから

第4章 アフリカから見える日本
1 武力紛争からテロへ−変わる安全保障上の脅威
2 南アフリカのゼノフォビア−日本への教訓中
3 アフリカの小国をロールプレイする
4 忘れられた南スーダン自衛隊派遣
【コラム】日本人の「まじめさ」の裏にあるもの

Ⅱ アフリカに潜む日本の国益とチャンス
あとがき
初出一覧

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/8/6)、出典:出版社HP

はじめに

本書は朝日新聞社のウェブメディア「朝日新聞GLOBE+」に、二〇一七年四月から二〇一九年四月までの二年間、月一回のペースで書き続けた連載エッセイからいくつかを抜き出し、加筆修正したものである。アフリカについての入門書ではなく、特定の問題を論じた専門書でもない。現代アフリカ社会の諸相に焦点を当てつつ、時にアフリカ側に自らの視座を定めて日本を観察したエッセイ集である。各項の内容は独立しているので、最初から順に読み進める必要はなく、気が向いたところから読んでいただければ幸いである。

私が初めてアフリカに足を踏み入れたのは一九九一年二月のことだった。大学の探検部員だった私は仲間と六人で、サハラ砂漠の南側に位置するニジェールという国を訪れ、首都ニアメから遠く離れた半砂漠の村にテントを張って住み込んだ。井戸水をすすり、下痢やマラリアに悩まされながら、農作業や祭りの様子を映像に収めてテレビ番組を制作したり、紀行文を執筆したりした。その時の体験が契機となって、以来三〇年近くにわたって断続的ながらもアフリカに関わり続けている。
当時の日本は世界第二の経済大国であり、バブル経済に沸いていた。
一方、アフリカ諸 国の多くは世界の最貧国であった。バブルが弾けた後も日本の政府開発援助(ODA)の総額(ドルベース)は一九九〇年代を通じて世界最大であり、多額の援助がアフリカに供与された。少なくとも一九九〇年代までの日本・アフリカ関係の基調は「援助する豊かな日本」と「援助される貧しいアフリカ」であった。多くの日本人にとって、アフリカは「援助し、何かを教えてあげる対象」として認識されていた、といっても過言ではないだろう。しかし、日本とアフリカを取り巻く状況は大きく変わった。日本の経済成長はほとんど停止し、一九九〇年には世界第六位だった一人当たり国内総生産(GDP、名目値、ドルベース)は、二〇一八年には世界二四位にまで低下した。いまや国内には、「アンダークラス」と呼ばれる平均年収一八六万円の人々が九三〇万人存在すると言われている。人口減少社会が到来し、少子高齢化の流れが止まらないにもかかわらず、女性が働きながら子供を育てやすい社会に向けた改革は遅々として進まない。阪神淡路、東日本と二度の大震災を経験し、原発事故が起きた。閉塞感と不寛容な空気が社会に横溢し、インターネット空間には他人を罵倒、冷笑する言葉が溢れている。経済同友会の小林喜光・代表幹事(二〇一九年四月に退任)が平成の時代を「敗北と挫折の三〇年」と総括したのも、あながち誇張ではないかもしれない。

一方のアフリカは、一部の国・地域では武力紛争が続いているものの、平和と民主主義の定着が各地でみられ、多くの国々で経済成長が長期にわたって持続し、初等就学率が上がり、乳幼児死亡率の顕著な低下が観察される。一人当たりGDPは今なお日本には遠く及ばないが、日本社会の停滞とは対照的に、アフリカ諸国は総じて上り調子にあると言えるだろう。ビジネスフロンティアとしてのアフリカの存在感は急上昇し、アフリカは貧困削減支援を一方的に受け入れるだけの大陸から、各国の企業が鎬を削る大陸に急速に変貌した。「自分たちの方が進んでいる」と信じて疑わなかった日本人が気づかぬ間に、両者の差は急速に縮まり、ケニアにおけるキャッシュレス決済の普及のように日本の先を行くビジネスモデルも出現している。

本書を上梓しようと思い立った理由の一つは、こうした状況の変化を受け、「日本はアフリカの発展にどのように貢献すべきか」という従来の発想に基づいた関係ではなく、日本とアフリカの双方に利益をもたらす関係を構想してみたいと考えたからである。
新しい関係を構築するためには、アフリカを知るだけではなく、アフリカという鏡に映し出されている日本の姿を観察し、自画像を適切に再認識する必要があるだろう。
本書において「アフリカを見る」だけでなく「アフリカから日本を見る」ことにもこだわった理由はそこにある。一人の日本人としては、アフリカという鏡を用いて日本社会の病巣をあぶり出し、日本の再生に向けた手がかりを得たいとの思いもある。
私一人では手に余るこの作業に力を貸して下さったのが、東京外国語大学教授の篠田英朗さんである。篠田さんは国際政治学から平和構築研究までを幅広く手掛け、アフリカ諸国の政治事情にも精通している碩学である。

二〇一八年秋、その篠田さんと新潮社の国際情報ウェブサイト「Foresight」で、『「アフリカ」から見える「日本」「世界」のいま』と題して長時間対談する機会に恵まれた。
本書の山には、その対談の記録が掲載されているので、こちらも読んでいただければ嬉しい。掲載を快諾して下さった篠田さんと新潮社 Foresight 編集長の内木場正人さんに、この場を借りてお礼申し上げたい。

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/8/6)、出典:出版社HP

日本人のためのアフリカ入門 (ちくま新書)

アフリカに対する偏見への警鐘

この本では、大手紙記者としてアフリカに赴いた著者の取材余話を基に、日本人の心に潜むアフリカの人々に対する偏見を指摘しています。とても密度の濃い読み応えのある本です。文章がとても読みやすいので入門書としておすすめです。

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2011/4/7)、出典:出版社HP

目次

やや長めの「まえがき」

第1章 アフリカへの「まなざし」
1 現代日本人の「アフリカ観」」
2 バラエティ番組の中のアフリカ
3 食い違う番組と現地
4 悪意なき「保護者」として。

第2章 アフリカを伝える
1 アフリカ報道への「不満」
2 小国の内政がニュースになる時
3 「部族対立」という罠

第3章 「新しいアフリカ」と日本
1 「飢餓と貧困」の大陸?
2 「新しいアフリカ」の出現
3 国連安保理改革をめぐる思惑
4 転機の対アフリカ外交

終章 「鏡」としてのアフリカ
1 アフリカから学ぶことはあるか?
2 「いじめ自殺」とアフリカ
3 アフリカの「毒」

アフリカについて勉強したい人のための一〇冊
あとがき

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2011/4/7)、出典:出版社HP

やや長めの「まえがき」

「本当にヨハネスブルクでいいのか? 今まで国内でせっかく頑張って働いてきたのに、 アフリカに行くんじゃあ、もったいなくないか。考え直してはどうだ」
毎日新聞の南アフリカ・ヨハネスブルク支局への赴任をおよそ三カ月後に控えた二〇〇 四年一月のことでした。東京本社 の外信部で勤務していた私はある日、社内の他の部署で 働く先輩記者に「ちょっと話したいことがある」と呼び出されました。そして言われたの が冒頭の「忠告」でした。
毎日新聞は一九八〇年にジンバブエの首都ハラレに支局を開設し、一九九三年に南アの ハネスブルクに支局を移しました。記者一人が常駐しており、サハラ砂漠以南四八カ の取材を担当しています。私は七代目のアフリカ駐在特派員でした。

私は大学時代に初めてアフリカを旅し、その後、大学院でアフリカ政治の研究を専攻し、 新聞社に入社してからは日本国内で勤務しながら、ずっとヨハネスブルク駐在を希望して きました。そして、入社一〇年目の二〇〇四年になって、ようやく当時の上司である外信部長から異動の内示をもらい、学生時代からの十数年来の夢が実現する喜びを噛みしめて。 いました。

二〇一〇年にサッカー・ワールドカップが南アで開かれて以降、アフリカは日本人にと って少しは身近な存在になったのかもしれません。しかし、日本の新聞紙面におけるアフ リカの存在感の低さは基本的に変わっておらず、ましてや二〇〇四年ごろの存在感は今以 上に低いのでした。私に忠告してくれた先輩記者からみれば、せっせと取材して記事を 書いてもなかなか紙面に掲載されないアフリカに、わざわざ赴任を希望する私の心情は理 解を超えていたのかもしれません。
結局、私は二〇〇四年四月に妻子とともにヨハネスブルクに赴任し、以後四年間、サハ ラ砂漠以南の国々を駆け回る充実した日々を送りました。だが、出発前に受けたこの「忠 告」は、日本の社会に、アフリカへの異動を「左遷」や「ドロップアウト」と考える意識 が確かに存在していることを強く感じさせる体験でした。
もう一つ、興味深い個人的体験があります。

毎日新聞の朝刊には「記者の目」という欄があります。記者が特定のテーマについて署 名と顔写真入りで私見を披露する評論コーナーです。私はヨハネスブルク在任中の二〇〇 六年三月一〇日朝刊の「記者の目」欄に「世界一の格差社会で暮らして」というテーマで執筆したことがあります。
記事の骨子は、南アフリカは殺人や強盗など凶悪犯罪の発生率が世界最悪の国だが、そ れは南アが世界一貧富の差が大きい社会であることと深く関係している……というもので した。南アは、芝生の庭の片隅にプールがある邸宅街とスラム街が近接しているような究 極の格差社会です。異様な貧富の差が放置されている必然の結果として、都市部では富裕 層や中間層を標的にした凶悪犯罪が多発し、地域によっては危なくて昼でも街を歩くこと ができません。プール付きの邸宅で暮らす富裕層も、結局は犯罪という暴力から自由では いられず、電流フェンス、鉄格子、レンタル番犬、民間警備会社に守られた暮らしを送っ ています。私はそんな南アの実情の一端を日本の読者に伝え、格差社会の負の側面につい て考えてほしいと思い記事を書きました。

当時の日本は、人々が格差を意識し始めた小泉政権後半の時期に当たり、私の記事には 読者から多くの反響が寄せられました。大半が記事の趣旨に賛同し、格差社会の弊害につ いての意見を述べたものでしたが、中には思わず「ウーン」と考え込んでしまう反響があ りました。
それは「なんてひどい所に住んでいるのでしょう。一日も早く日本の暮らしに戻れるこ とをお祈りしています」という、私と家族への真摯な同情の声です。インターネットの掲示板には「こいつは左遷されてストレスを溜めているから、早く帰国させてやれ」という 同情(?)の書き込みる登場し、妻と二人で唖然としたこともありました。
私は大学院生だった一九九〇年代初頭にヨハネスブルクで暮らしていたことがあり、特 派員としての赴任は二度目の南ア暮らしでした。したがって、治安の悪さは出発前から 重々承知しており、犯罪対策に苦慮しながらもなんとか日々の暮らしを楽しんでいました。 「住めば都」とはよくいったもので、幸いにして妻子台南ア暮らしを心底気に入ってくれ たようであり、二人の子供は「日本に帰りたくない」と言うほど現地に溶け込み、数多く の友達を得ました。南アには一二〇〇人前後の日本人が主に仕事で駐在しており、我が家 は多くの在留邦人たちと親交がありましたが、私が知る限り「一日も早い帰国」を毎日祈 りながら暮らしていた日本人家族は稀だったのではないかと思います。

私の「記者の目」は南アの「負の側面」に焦点を当てたものでしたから、「アフリカで の暮らし」について読者がマイナスイメージを抱いたことは当然かもしれません。しかし、 この時もまた、アフリカでの暮らしを「気の毒」と信じて疑わない日本人の「思い込み」 のような色のを感じ、少し寂しい気がしました。
人は日々の暮らしに不満や不安を抱きながらも、基本的には祖国に愛着の念を持ち、自分の故郷での暮らしを肯定して生きていく存在でしょう。したがって、日本人が日本の暮 らしを肯定することは、ごく自然なことです。その結果、豊かで平和な日本で生まれ育っ た平均的日本人が、飢餓、貧困、紛争といった暗いニュースがあふれるアフリカでの暮ら しを想像し、「日本の暮らし = よい。アフリカの暮らし = 気の毒」という感情を抱くこと は理解できます。先輩記者や「一日も早い帰国」を願って下さった読者には何の悪気もな かったでしょうから、個人的には、こうした人々に対する怒りや恨みの気持ちはもちろん ありません。

しかし、人が祖国での暮らしを肯定して生きていく存在であるならば、日本人が日本の 暮らしを基本的には肯定しているのと同じく、アフリカの人々もアフリカでの暮らしを肯 定しているでしょう。したがって、私のような日本人が人生の一時期アフリカで暮らすこ とを「気の毒」に思うのはよいとしても、アフリカで生まれ育ったアフリカ人に向かって、 安易に同情のまなざしを向けることには慎重であるべきだと思います。 確かにアフリカからは政治の混乱や貧困に耐えかねた多くの人が域外に流出しています が、圧倒的多数の人は生を受けた土地での暮らしを主体的に肯定し、祖国で生涯を終えま す。アフリカから「脱出」してアフリカ域外で暮らしている人々でさえも、祖国に誇りの 念を抱き、アフリカの社会や文化に強い愛着を抱いていることが一般的です。

そこで私は考えました。私たちは、アフリカの人々のそうした気持ちに、どの程度思いを馳せたことがあるだろうか。少し踏み込んで言うと、私たちは、アフリカの人々が少な くとも我々と同じ程度に祖国に誇りを持ち、我々と同じ程度に優秀で、我々と同じ程度に 幸せな暮らしを営んでいることを知っているだろうか。日本とアフリカの経済規模や科学 技術の水準の差に目を奪われ、国力の差を個々人の幸福度の違いと錯覚し、「進んだ日本、 遅れたアフリカ」「幸せな日本の暮らし、気の毒なアフリカの暮らし」と思い込んではい ないか。そうした認識に拘泥することが、巡り巡って日本社会を覆う閉塞感に関わってい るのではないか……。
この本を書いてみようと思った動機はここにあります。

「アフリカ入門」と銘打った書物は、少ないように見えて、実はかなり数多く出版されて います。入門書の多くは、主に日本人のアフリカ研究者によって執筆されています。日本 にはアフリカ各地の政治、経済、社会、文学、民族、人々の暮らし、宗教などを専門とす る多数の研究者がいます。主に大学に在籍しているこうした研究者は、しばしば単著で、 多くの場合は共著という形でアフリカについての入門書を執筆し、人々のアフリカ理解に 貢献しています。私は今回、その末席に加えていただこうと思い本書を書きました。

ただし、本書はタイトルに「入門書」と記しているものの、アフリカについて体系的に 記述した一般的な入門書とは、相当に趣が違います。第1章から読み始めると、本書がア フリカの自然、民族、歴史、政治、経済、文学、芸術、言語、社会など様々な分野につい て、ほとんど何る記述していないことに気付かれるでしょう。アフリカについて一から真 塾に学んでみたいと思って本書を手に取って下さった読者の方には、正直なところ申し訳 ないという気持ちすらあります。
そんな本がなぜ「入門書」なのか。
アフリカについて全く基礎知識を持たない人がアフリカについて勉強する際の最も一般 的な方法は、アフリカに関する基本的な知識を段階的に吸収していくことです。各分野の 専門家によって分担執筆された概説的な入門書は、読者のこうした要求に応えるべく編集 されています。これらの本は、いわば「アフリカそのもの」について書かれたものです。

これに対し、私はこの小著で「アフリカそのもの」についての情報を体系的に記すので はなく、「現代を生きる日本人はアフリカの人と社会をどう認識してきたか」という点に 焦点を当ててみました。それは次のような理由によります。
特派員生活を終えて帰国した二〇〇八年という時期がワールドカップ南ア開催に近かっ たこともあり、二〇〇九年から二〇一〇年にかけて、各地の大学、市民講座、ラジオ番組など様々な場でアフリカの政治・経済・社会情勢等について、アフリカ各地で撮影した写。 真を使いながら話をする機会をいただきました。どこの会場でも多くの方々から質問を受 け、時には終了後に一緒に飲み会に繰り出し、アフリカ談義に花を咲かせました。

その際に何よりも印象的だったことは、人々のアフリカに対する関心が、かつてないほ ど高まっていること。そして、私の話を聞いた方たちが「今までアフリカに対して抱いて いたステレオタイプ化されたイメージと現実は大きく違っていた」と話したことでした。 逆説的に言えば、アフリカに対するステレオタイプ化した理解が日本社会に強固に根付い てしまっている現実を、私は改めて痛感させられたわけです。 「貧しい」「部族対立が深刻」「発展が遅れている」……。日本から地理的にも心理的にも 遠いアフリカに対しては、こうした負のイメージが定着しています。確かにアフリカは貧 しく、紛争が多発し、近代国家として未発達としか言いようのない国もあります。しかし、 結論を先に言うと、こうした負のイメージ の中には、明らかに誤解や誇張に基づいて形成 された「思い込み」もあるのです。

こうした状況の中、「本当のアフリカ」について知ってもらうためには、アフリカの歴 史や社会に関する情報を羅列した入門書を新たに一冊増やしてるダメであり、私たちがど のような「まなざし」でアフリカを見ているかという問題そのものに切り込む必要があるのではないか。「思い込み」を取り払うきっかけになるような本が書けないだろうか……。 これまでの経験から、私はそのように考え、この小著を記すに至りました。 「思い込み」は、文字通り自分がある物事について誤った認識を抱いていることに気づい ていない状態です。たとえて言えば、自分が色眼鏡をかけてモノを見ているにもかかわら ず、色眼鏡をかけていることに気づいていない状態です。見ている対象の本当の色を知る には、まず自分が色眼鏡をかけている事実に気が付き、その眼鏡の色が何色であるかを知 って、その色を取り除かなければなりません。私がこの小著で試みようとしているのは、 私たちがアフリカを見る際にかけている色眼鏡の存在を意識し、それが何色であるかを知 った上で、その色を可能な限り透明にすることです。

機会がありましたら、大手書店の旅行ガイドのコーナーをのぞいてみて下さい。北米、 アジア、欧州など世界各地のガイドブックがどっさり並ぶ書棚に、アフリカのガイドブッ クは、ほんの数冊が置かれているだけです。いや、ゼロのこともあります。
先ほど各地の大学や市民講座でアフリカについての話をさせていただく機会が多いと書 きましたが、その際に「アフリカに行ったことのある方は手を挙げて下さい」とお願いし てみると、一○○人を超える聴衆がいてる挙手はゼロということが多い。援助関係者の会合にでも顔を出せば別ですが、アフリカの大地を実際に足で踏みしめた日本人というのは 極めて少ないのが現実です。
国民の大半が一度も足を踏み入れたことがない土地であるにもかかわらず、先ほどから 繰り返し書いているように、日本社会にはアフリカに対する負のイメージが確固として存 在しています。

理由は二つしか考えられません。一つは学校教育。もう一つはメディア(新聞、テレビ、 ラジオ、インターネットなど)を通じて流布される情報です。日本の学校ではアフリカのこ とはほとんど教えられませんから、日本人のアフリカ観の形成に圧倒的な影響を及ぼして いるのはメディアと考えて差し支えないでしょう。
そこで、本書では「日本のメディアはアフリカをどう伝えてきたのか」という問題を取 り上げたいと思います。先ほど、本書の狙いを「アフリカを見る際の色眼鏡を透明にする こと」と書きましたが、良かれ悪しかれメディアが人々の色眼鏡の形成に大きな影響を与 えている以上、まずはメディアが自らの色眼鏡の存在を自覚しなければなりません。した がって、本書は「メディアはアフリカをどう伝えてきたか」ということを題材にした、あ る種の「メディア批評」の性格を帯びています。
私は、いわゆる「メディア論」の専門家ではありません。ただし、現職の新聞記者なので、日々の仕事を通じて自分が身を置く業界を内側から観察する機会には恵まれています。 そこで本書では、日本メディアの「アフリカの伝え方」について自戒を込めて書くつもり です。

第1章では、ある人気テレビ番組の撮影の内幕を題材に、私たちがアフリカに対してど のような「まなざし」を向けているのか、という問題について考えてみます。私たちのア フリカに対する「思い込み」は、アフリカの人と社会に向けられる「まなざし」となって 姿を現します。この章では、表に現れた「まなざし」の性格を突き止めることで、私たち の「思い込み」の正体に迫りたいと思います。
第2章では、私自身が身を置いている日本メディアが、アフリカをどのように報道して きたかという問題について考えてみます。日本にも優れたアフリカ報道を展開してきたジ ャーナリストはいます。しかし、日本メディアのアフリカ報道は、ステレオタイプ化した アフリカのイメージを人々に広めるのに、残念ながら大きな役割を果たしてしまいました。

章では自戒と反省を込めながら、日本メディアのアフリカ報道の問題点に向き合い、 メディアが人々の「思い込み」を形成していく構造について考えたいと思います。
第3章は、日本政府の対アフリカ外交が直面する課題についての章です。二一世紀に入 ってからのアフリカには、ステレオタイプな負のイメージを覆すダイナミックな経済成長が観察されます。また、欧州の旧宗主国や米国以外に、中国がアフリカで存在感を発揮す。 る新しい時代が到来しました。こうした新しい情勢ゆえに、日本の対アフリカ外交は大き く変わることを迫られています。この章では、日本とアフリカの関係が「援助する側、さ れる側」という単純な図式には収まらない時代を迎えていることを読者に知っていただき たいと考えています。

そして終章は、ステレオタイプ化した負のイメージを排して向き合ったアフリカから見 えてくるものについて、個人的体験を題材にしながら思いつくままに記しました。具体的 には、思い切ってアフリカの「良い面」に積極的に着目し、日本の社会を照らし出す鏡と してアフリカを位置づけてみました。
貧困や紛争が今なお深刻な問題であるアフリカの「良い面」などと書くと、「アフリカ の人々が直面する厳しい現実から目をそらし、アフリカを過度に美化している」と反感を 抱く読者がいるかもしれません。以前、毎日新聞紙上で「アフリカの社会にも見習うべき ところがある」という趣旨の記事を書いたところ、毎日新聞社が当時開設していたインタ Iネットのブログで早速、匿名の方に「日本に帰らず南アに永住してはどうか」と皮肉ら れたことがありました。
しかし、本書の狙いは、当然のことながら「日本とアフリカのどちらが良いか」を論じることではなく、一方を美化することでも卑下したり蔑んだりすることでもありません。 人間が生まれる国を選ぶことのできない存在である以上、国や地域を比較して「どちらで 暮らす人間が幸せか」を論じることには、ほとんど何の意味ないでしょう。アフリカに 対する「思い込み」をできるだけ払拭し、アフリカの人々を今までより少しだけ身近に感 じるためのささやかな材料を提供したい……。本書の目的はただその一点にあります。

なお、本書で単に「アフリカ」と記述した場合は、サハラ砂漠以南のアフリカ(サブサ ハラ・アフリカ)を意味することをお断りしておきます。エジプト、チュニジア、リビア、 モロッコ、アルジェリア、西サハラの北アフリカの国々は、地理的にはアフリカ大陸に位 置してはいるものの、民族、文化などの面でサハラ以南の世界とは大きく異なり、アフリ カを論じる場合には含めないのが一般的だからです。
また、文中の登場人物の年齢は、特に断りがない限り、私が出会った当時のままとして います。
私は二〇〇九年、資源開発に牽引された経済成長を遂げる現代アフリカの内幕について、 アフリカ各地での取材を基に『ルポ資源大陸 アフリカー暴力が結ぶ貧困と繁栄』(東洋経 済新報社)という単行本を記しました。本書をお読みになった方で、アフリカで多発する紛争や犯罪の背景などを詳しく知りたいと考えた方は、そちらの拙著るお読みいただけれ ば幸いです。

白戸 圭一 (著)
出版社: 筑摩書房 (2011/4/7)、出典:出版社HP

アフリカ経済の真実 ――資源開発と紛争の論理 (ちくま新書)

アフリカ諸国の現状を理解

この本は、現代のアフリカ経済の影を描く本です。貿易事業や国際開発協力などに興味があり、将来そうしたことに関連する職業に就きたいと考えている学生にとっては、必携の本と言えます。とてもおすすめの一冊です。

吉田 敦 (著)
出版社: 筑摩書房 (2020/7/7)、出典:出版社HP

目次

はじめに
「絶望の大陸」から「希望に満ちた大陸」へ/消費市場としてのアフリカ/もうひとつのアフリカ/外国投資の真実/外資による収益は人々に富をもたらさない/「新自由主義」に飲み込まれるアフリカ/本書の構成

第1章 紛争と開発
1 世界の「こちら側」と「むこう側」の論理
アフリカは日本と無縁の世界か/私たちは関わりあっている/間接的暴力が介在する世界
2 アフリカの紛争をどのように捉えるか
多発する紛争/紛争の犠牲者たち/アフリカの紛争の特徴/「国家建設」の挫折と紛争/「新しい戦争」の出現/「戦争経済」/金儲けの機会としての紛争/どのような国で紛争が起きやすいのか/産油国では紛争が起こらないのか/国境を越えた暴力の拡散
3 開発と紛争
なぜ貧困国では紛争が多発するのか/開発」による間接的暴力/ダイヤモンドを欲するのは誰か/「最後の市場」の含意

第2章 混迷するサヘル
1 激化する暴力の中心地
サヘルはなぜ不安定な地域になってしまったのか/一四万円で買われる命/サヘルとはどのような地域か
2 トゥアレグ―砂漠の支配者から無法者への
トゥアレグとは/「アザワド国」の分離独立/リビアのトゥアレグ傭兵/トゥアレグの帰還
3 マリにおけるイスラーム急進派勢力の拡大
マリの「タリバン化」/アルジェリア・イナメナス事件―「国境を越える脅威」の顕在化/イナメナス事件はなぜ起こったのか/イスラーム急進派が利用する構造的暴力
4 サヘル危機で激増する麻薬取引
懸念されているもうひとつの問題/「コカイン航空」事件の衝撃/麻薬ルートとしての西アフリカ・サヘルの重要性/「統治されない空間」が莫大な金を生む/イスラーム急進派と国際犯罪組 織共通のメリット/サヘルの空白地帯で生み出される暴力

第3章 蹂躙されるマダガスカルの
1 疲弊する人々と大地。
地上の楽園か、呪われた大地か/政治混乱がつづくマダガスカルの地で/乱掘されるサファイア原石/蔓延する売春/高級木材の違法伐採
2 ラヴァルマナナ政権と外資による農地開発
二〇〇二年政治危機とラヴァルマナナ政権の誕生/ラヴァルマナナ政権/外資主導による大規模農業開発/韓国企業への国土の投げ売り/インド・ヴァラン社との契約/狙われる未開発の農地
3 国家崩壊の危機と大規模開発プロジェクト
二度めの政治危機劣等国家への転落/社会的影響/資源富裕国という幻想/アンバトビー・プロジェクト/QMMプロジェクト/失われた時を求めて―マダガスカルに未来はあるのか

第4章 「資源の呪い」に翻弄されるアルジェリア
1 石油の富の幻想
産油国アルジェリア/二○○○年代初頭の首都アルジェ/アフリカの資源大国/「ヒッティスト」の苦悩/石油富裕国の貧困/「資源の呪い」/「オランダ病」/油価の変動にさらされる経済
2 アルジェリア資源開発史
アルジェリア独立戦争/「国家のなかの国家」ソナトラックの誕生と重工業化の時代/重工業化の挫折と一九八八年一〇月暴動/危機の一〇年−なぜテロリストの温床となったのか/アルジェリアの悪夢/テロ実行犯の実像
3 「プーヴォワール」に支配された国
ブーテフリカ大統領への期待から失望へ/誰も予想しえなかった長期政権/ブーテフリカ大統領はなぜ権力を握りつづけたのか/取り残される民衆/外資に依存する公共投資政策/アルジェリアはどこに向かうのか

第5章 絶望の国のダイヤモンド外
1 紛争と先進国の影
紛争多発地帯としてのアフリカ/アフリカの紛争地ではなにが起きていたのか/「血塗られたダイヤモンド」とアフリカ
2 絶望の国−コンゴ民主共和国の歴史
「アフリカの心臓」/植民地統治下の「赤いゴム」の国/コンゴの独立とは何であったのか/「ザイール化」政策/「ザイール化」政策の挫折/モブツ王国はなぜ維持できたのか/東西冷戦構造の落とし子「虚栄の権力者」/冷戦終結から崩壊へ
3 内戦に明け暮れるアフリカ諸国
「アフリカ大戦」とダイヤモンド/なぜダイヤモンド鉱床は制圧しやすいのか/戦費として利用されるダイヤモンド/アンゴラ、シエラレオネの内戦
4 なぜダイヤモンドの密輸はなくならないのか
憎しみを生むダイヤモンド/鉱山街へ一変する村々/原産国での密輸の現状/原石のゆくえ/国際市場に流出しつづけたダイヤモンド/ダイヤモンドはなぜ輝くのか/「紛争ダイヤモンド」とキンバリー・プロセス/それでもダイヤモンド採掘はつづく

第6章 「狩り場」としてのアフリカ農地
1 食料価格の高騰
食料価格高騰の衝撃/「食料の安全保障」
2 農地というフロンティアの発見
「未耕作地」はどこにあるのか/加熱する「ランドグラブ」/農地取引の実際の規模
3 アフリカの大規模土地取引の実態
グローバルな推進主体/事例①エチオピアのカルトゥリ社/ケニアからエチオピアへ/「狩り場」となるエチオピア/事例②シエラレオネのアダックス社−標的となるポスト紛争国/「バイオ燃料」という磁力/残されたのは荒地と住民/事例③モザンビークのプロサバンナ事業計画−日本政府が主導する「三角協力」/プロサバンナ事業計画とは/「悲しみの開発」
4 「底辺への競争」はなぜ止まらないのか
「開発の遅れた」地域の近代化/「ニュー・アライアンス」によって囲い込まれるアフリカ諸国/現代版「新植民地主義」/「貧困の罠」という罠

おわりに
主要参考文献

吉田 敦 (著)
出版社: 筑摩書房 (2020/7/7)、出典:出版社HP

はじめに

「絶望の大陸」から「希望に満ちた大陸」へ

「かつて「絶望の大陸」として語られてきたアフリカは、二一世紀にはいり「希望に満ちた大陸」へと変貌をとげたと言われている。
絶え間のない政治的混乱、頻発する内戦、永遠に目覚めることがないかのように低成長を続ける経済……。そのようなアフリカのイメージは消失して、代わりに一二億を超える膨大な人口(加えて若年層が多数を占める人口ボーナス)と高い経済成長に牽引される「希望に満ちた大陸」として描かれるようになった。
実際に二一世紀にはいってからのアフリカの経済成長率には、目を見張るものがあった。

二〇〇一年から二〇〇八年までの経済成長率は、アフリカ全体の平均は五・五パーセントで、これは同じ期間の世界の経済成長率の平均四・三パーセントを上回る高水準であった。また各年ごとに見ても、すべての年でアフリカが世界の経済成長率の平均値を上回っていた。そして二〇〇九年以降も、世界金融危機の影響により一時的な経済成長率の減速が記録されたものの、二〇一三年から二〇一七年に至るまで概ね三パーセント台の堅調な水準を維持してきた(数値はIMF統計資料)。
米国に本拠をおく戦略系コンサルティング会社のマッキンゼーは、この時期のアフリカ経済を「動き始めた獅子」と評している(Mckinsey, 2010)。これまで深い闇のなかで眠り続けてきたアフリカがついに目を覚ました。「すでに八六○○億ドルに膨れあがったアフリカの消費市場は、将来も拡大が見込める。ビジネスチャンスを掴むのに、各国企業は乗り遅れるな」というわけである。

このようなアフリカに対するポジティブなイメージが描かれているのは、投資会社のマーケット調査報告だけではない。メディアが報じるアフリカの評価も一変した。イギリスの『エコノミスト』誌は、アフリカについて、二〇〇○年五月号に「希望のない大陸」(The Hopeless Continent)と冠した特集を組んでいたが、その一一年後の二〇一一年一二月号の特集は「希望に満ちた大陸」(The Hopeful Continent)だった。そのイメージを一八○度転換させたのである。
日本においても、「最後の市場」「成長する資源大陸」等々をタイトルに冠した、アフリカ経済を好意的に評価する書籍が続々と刊行されている。このように二一世紀にはいり、アフリカに対するポジティブな見方が、広く一般に共有されはじめているのである。

消費市場としてのアフリカ

マッキンゼーや『エコノミスト』誌の例のようにアフリカがプラスのイメージで語られるようになった背景には、高い経済成長に牽引された消費市場の拡大がある。
ユニリーバ市場戦略研究所は、南アフリカの中・高所得者層を「ブラック・ダイヤモンド」と呼び、購買力の増加と旺盛な消費意欲を賞賛する(Unilever Institute of strategic Marketing, 2007)。アフリカの各地で大型ショッピングモールが建設され、外国製の日用雑貨(衣料品、靴・鞄)や耐久消費財(自動二輪車、家電製品、家具等)の旺盛な消費がみられるのも確かだ。

テレビや生活家電の販売数の急激な拡大が続き、いまやアフリカの人口の半数が携帯電話かスマートフォンを所有していると言われている。あるいは、ネスレやダノンの加工食品やユニリーバの衛生用品などの売り上げ規模の増大等々、民間企業によるアフリカ市場への積極的な参入とその消費の爆発は、確かにアフリカの現状の一部を表していると言えそうだ。

視点をふたたび国家レベルに移して、アフリカの経済成長とならび、好調が続いている貿易額や投資額の動向をもとに、次のような「希望に満ちた大陸」アフリカを描きだすことも可能であろう。
まずは貿易額である。サハラ以南アフリカにおける輸出額は、二〇〇〇年の八二一億ドルから二〇一六年には一六五一億ドルへと倍増し、輸入額は同じ期間に六六二億ドルから二二六六億ドルへと三倍以上の伸びを示している。くわえて外国直接投資額も大きく増加しており、アフリカへの直接投資の流入額は、1000年の八一億ドルから二〇一六年には六○○億ドル近くにまで大きく増加した。「その結果、アフリカの市場は、貿易を通じて世界各国からの輸入品であふれかえるようになり、また外国企業によって大量の資本が投下され続けている。「これが、国際社会が評価するアフリカの「希望に満ちた大陸」の姿である。確かに、現在のアフリカは、九〇年代までの状況とは大きく異なっている。潜在的な購買層の発掘が見込めるアフリカの市場は、飽和状態に達している先進国市場と比べても、企業にとって魅力ある投資先へと変化し始めているのかもしれない。

もうひとつのアフリカ

しかし、本当にアフリカの経済や社会はそのように良いことずくめなのだろうか。アフリカは本当に「希望に満ちた大陸」に生まれ変わったのか。これが本書の問題設定のひとつである。

本書が描きだすのは、企業にとってのビジネスチャンスやリスクがどこにあるのかといった、いわゆる「最後の市場」としてのアフリカの姿ではない。そうではなく、市場原理や自由競争にもとづくグローバルな経済統合がアフリカ市場を飲み込もうとしているなかで、いまなお絶望と悲しみの淵に取り残され続けているアフリカの人々の姿である。

もしかしたら、本書の試みは、悲観的なアフリカ像の再生産として、もしくは「第三世界」の焼き直しとして、読者に凡庸な印象を与えてしまうかもしれない。
しかしながら、本書では、そのように決して明るくない話をしなければならない。なぜなら、アフリカが誰にとっての「希望に満ちた大陸」であるのか、ということを問わなければならないからである。アフリカは、原料供給先の確保やさらなる消費市場を獲得しようとする企業にとって「希望に満ちた大陸」であるのか。それとも国際機関や先進国政府による「さらなる市場の自由化」という勧告にしたがって、貴重な資源や土地を切り売りする政治家たちにとってなのか。それとも、日々の生活の糧を得るために、自らの命を危険にさらし続けなければならない人々にとってなのか。これらの問いに答えるためには、現在のアフリカでどのような開発政策がおこなわれており、そしてその結果どのようなことがアフリカの地で生じているのかを考える必要がある。

外国投資の真実

先ほど、アフリカへの直接投資の流入額が、約六○○億ドルに増加したと指摘した。
この数字だけをみれば、アフリカへの投資を計画しようとしている企業にとっては、もしくは市場の自由化を通じた外国投資の促進を政策目標に掲げるアフリカ諸国の政治家たちにとっては、賞賛すべき数字として捉えられるに違いない。だが、そのように急増する外国からの直接投資がどこに向かっているのか、少しだけ立ち止まって考えるならば、その評価はたちまち輝きを失ってしまうだろう。

たとえば、二〇一六年の外国直接投資の受け入れ国のトップは、アフリカ最大の産油国であるナイジェリアである。次に、近年急速に石油開発が進むガーナやコンゴ共和国、鉱物資源の開発が注目されているマダガスカルが肩を並べる。さらに深海油田の開発で石油の生産量が急増を続けているアンゴラ、レアメタルやダイヤモンドなどの貴石類を豊富に産出しているコンゴ民主共和国などの国名があげられている。つまり、いずれの国もアフリカ有数の資源国なのである(後ほど説明するが、これらの国は同時に、紛争やクーデターなどの政治的不安定性を抱える国々でもある)。
すなわち、外国企業がアフリカにもっとも期待しているのは、アフリカ諸国で暮らす人々の創造性や彼らが生み出す付加価値に富んだ商品ではなく、依然として石油や天然ガス、鉱物資源などの地下天然資源なのである。

特に、二○○○年代後半の原油・天然ガスや鉱物資源の国際市場価格の高騰を背景にして、アフリカで未開発のままに眠る豊富な地下資源は、世界的な注目を集め、国際資本による資源開発が本格化した。
そのような外国資本による資本集約的投資によって、アフリカの各地には「砂漠のなかで最新の工場群が乱立する光景」や「森林を切り拓き、鉱物資源を採取し続ける巨大な採掘場」が出現した。これを輝かしい発展と捉えるならば、確かにアフリカは「希望に満ちた大陸」であると言えるだろう。
だが、本書はそのような視点をとらない。私が注目したいのは、これらの石油や鉱物資源の開発によってアフリカの人々にいったい何がもたらされたのか、もしくは、もたらされなかったのか、失われたのか、ということなのである。

外資による収益は人々に富をもたらさない

なぜそのようなことに注目するのか。それは、一国のマクロ経済変数(経済成長率、貿易総額、直接投資額)がいかに改善されようとも、それが外からもたらされた収益(外生的収益)によるものである限り、産業の多様化や国民の生活水準の向上に直接に結びつけるのが困難だからである。そればかりか、硬直的な政治権力構造をさらに肥大化させ、独裁的な政治体制の構築や補強へとつながってしまうケースが多々見られる。外からもたらされた収益は、その国が抱えている病をますます進行させてしまう可能性をはらんでいるのだ。

あえて誇張を恐れずに表現すれば、そこにあるのは、地中深くに眠っていた資源をベルトコンベアに乗せて、そのまま先進国の生活を支える原材料として提供し続ける「富の移転プロセス」である。読者のなかには、企業による資源投資によってアフリカにも利益があるのではないかと考える方もいるかもしれない。もちろんこの「富の移転プロセス」では、アフリカの国々にも資源採掘によって得られた外貨収益の一部がもたらされることになるが、その収益の多くは、その国に暮らす国民の助けとなるわけではなく、一部の特権階級に流れ落ち、彼らをますます肥大化させてしまっている。
このような現状が多くの国でみられているにもかかわらず、果たして今まで述べてきたような開発を、アフリカにとっての「発展」と呼ぶことができるだろうか。

「新自由主義」に飲み込まれるアフリカ

冒頭で述べたように、かつてのアフリカは「絶望の大陸」と語られていた。国際社会では、アフリカの貧困は、「開発の失敗」としてしばしばみなされ、近代化を成し遂げるうえで障害となる「病」として問題視されてきた。そして、その「病」を癒す「万能薬」とされているのが、外国企業の投資を通じた「市場の自由化」であった。
ではなぜ、アフリカは「市場の自由化」を迫られるようになったのか。
かつてアフリカ各国は、先進国に政治的にも経済的にも従属しない国民国家の建設を目指してきた。その過程で、多くの国では「市場の自由化」とは真逆の政策をとってきた。

すなわち、自分たちの製品は自分たちで生みだそうという、国営企業を中心とした中央集 権的な社会主義政策が採用されてきたのである。だが、これらの計画経済にもとづく国民になると膨大な借金だけを残して行き詰まってしまった。その際に、IMFや世界銀行などの国際機関から求められたのが、非効率な国営企業の解体 (民営化)や「市場の自由化」に向けた一連の経済政策(農産物の自由化、公共投資の見直し、政府補助金の廃止など)であった。これらの経済政策は、融資条件としての金融の引き締め政策の枠を超えて、政治構造や社会構造の変革を目指す「構造調整政策」と呼ばれた。この政策は、アフリカの三八カ国以上で実施され、大きな社会変動をまきおこした。
その結果、アフリカは大きく変わっていった。続く一九九〇年代、アフリカ各国は、市場経済の原理にもとづく「新自由主義」の荒波に完全に飲み込まれていく。そして、二〇○○年代にはいるとアフリカ各国の政治指導者たちも、世界を席巻する「新自由主義」という「万能薬」の効用を信じ、グローバリゼーションの「積極的な推進主体」へと変貌していった。

制度的な基盤が整わないなかで、「新自由主義」を受け入れざるを得なかった国では、急速な市場経済化から生じた歪みが、そこかしこで表面化することになり、その歪みは、ときにはテロや紛争といった暴力的なかたちで顕在化した。
自らの国家のヴィジョンを描くこともままならず、グローバリゼーションの歪みでテロや紛争が生じ、そして人々が市場競争から取り残され、貧困と絶望のなかで手足をもがれたまま「沈みゆく大陸」―これがアフリカの本当の姿なのである。

本書の構成

繰り返しになるが、本書の目的は、国際社会が賞賛するアフリカの経済成長や投資機会といった、いわばアフリカ経済の光の部分を描くことではない。そうではなく、アフリカに依然として残る影の部分を描き出すことを、この本の使命としたい。影の部分とは、アフリカでおこなわれている石油やダイヤモンドの採掘、鉱物資源採掘が、その国にどのような問題をもたらしているのか、その国で暮らす人々がどのような問題や苦悩を抱えて生きているのか。日本をはじめとして我々が暮らす先進諸国とアフリカとのつながりを考えながら、各章ごとに具体的事例を検討し、いまのアフリカで何が起きているのかを考えていきたい。各章の考察事例は次のとおりである。

第1章では、グローバル経済が進展するもとで、「向こう側」(アフリカ)に住む人々が、「こちら側」(先進国)の人々の欲望にいかに影響を受けているのかを考える。この章は理論的な話が多いため、やや難しく感じられる方は、より具体的にアフリカ各国の政治経済状況を解説している第2章以降から読み進めていただきたい。
第2章では、サハラ・サヘル地域という過酷な気象条件のなかで、貧しい資源を分かち合いながら暮らしてきた人々が、なぜ、なんら主権を持つこともできずに国家から排除されたのか、そして他国の傭兵としてしか生きる術をもたなくなり、周辺地域の治安を脅かすほどの暴力的主体へと変貌 してしまったのか、ということを考えたい。

第3章では、インド洋に浮かぶ、多様で豊かな自然環境に恵まれたマダガスカルをとりあげる。二一世紀にこの国で起きた政治的混乱の理由はどこにあったのか、過酷な労働条件のもとで地中深くに眠る宝石を掘りださなければ人々の生活が成り立たないのはなぜか、ということを考察したい。
第4章では、フランスの植民地支配から、多くの人民の命を犠牲にして独立を獲得したアルジェリアをとりあげる。アルジェリアでは、独立以降六〇年以上にもわたり、日量一六〇万バーレルもの石油を産出し続けている。それにもかかわらず、なぜ、いまなお町中に失業者が溢れ、政権に対する民衆の憤りが爆発するレベルにまで達してしまったのか。

アルジェリアの歴史と人々が耐え忍んできた苦悩を通して考えたい。
さらに第5章では、アフリカ中南部に位置し、世界有数の資源大国であるコンゴ民主共和国に注目する。世界中の人々を魅了してやまないダイヤモンドや現代の先進技術産業に不可欠なレアメタルを提供し続けているこの国で、豊富な資源をめぐって殺し合いが続いているのはなぜなのか。

最終章である第6章では、栄養不足と飢えに苦しむ人々が存在する傍らで、他国の家畜の飼料用に大量生産されるトウモロコシの畑について考える。アフリカでは、そのような目的でトウモロコシ畑をつくるために、人々が無償で土地を提供しなければならない国が
増えている。それはなぜなのか。そのしくみについて考えたい。
五四カ国もの国(西サハラを含めると五五カ国)にわかれ、多様性に富んでいるアフリカを一言で表すことは、もとより不可能である。だが本書では、いくつかの国の現実の姿をしっかりと捉え、そこにアフリカ諸国に通底する問題、語られざる「もうひとつのアフリカ」の姿を描きだすことを課題としたい。お付き合いいただければ幸いである。

吉田 敦 (著)
出版社: 筑摩書房 (2020/7/7)、出典:出版社HP

経済大陸アフリカ (中公新書)

アフリカ経済について知るならこの1冊

表題にあるアフリカ経済に限らず、グローバル経済の問題点に言及しており、著者の視点、分析、思考力に感銘を受けます。また、データが多く、多角的な見方・検証がなされていて、新しい視点を得られて自分で考えるきっかけにもなります。

平野 克己 (著)
出版社: 中央公論新社 (2013/1/24)、出典:出版社HP

はじめに

今世紀にはいってからアフリカは、植民地時代以来ともいえる大変動をきたしている。い まアフリカは確実に、着実に、変貌しつつある。なにせ二〇年以上経済成長していなかった ものが、一転して継続的な高成長を謳歌しているのである。そして、その新しい、アフリ カにこれまでとはちがった関心が集まっている。本書は、そういったアフリカの姿をえがき だし、アフリカに対する新しい関心にこたえようとするものである。

アフリカを大きくわけると、イスラーム圏に属しアラビア語を公用語とする北アフリカ地 域(五ヵ国、西サハラ共和国をカウントすれば六ヵ国)と、サハラ砂漠以南にひろがるサブ サ ハラ・アフリカ地域(二〇一一年に独立した南スーダンをふくめて四九ヵ国)からなるが、二〇 一○年末に政治革命がおきた北アフリカのみならず、サブサハラ・アフリカもまた前世紀と はまったく様相がことなっている。それゆえ、これまでの通念では現在のアフリカを理解す ることができなくなった。 従来のアフリカ論はアフリカのなかに閉じられた議論がほとんどだったが、現在のアフリカを理解するにはグローバルな視界のひろがりがどうしても必要である。それゆえ本書は、 アフリカにかんする既存の書物とはことなる論じ方をしていこうと思っている。どうするか というと、さまざまなグローバルイシューがはなつ照射線をこの大陸にあて、スキャンして いくつもりだ。つまり、アフリカをかたるのにアフリカ自体から説きおこすことをせず、ア フリカの外から視線をそそいでアフリカの輪郭をえがこうと思っている。
通常、アフリカ研究をふくめ地域研究は研究対象国や対象地域の歴史文脈にそって記述を 進めるものだ。だが、アフリカ経済が突然成長をはじめた理由を正確につたえるためには、 本書の手法はきっと適している。そして、今後アフリカがどうなっていくかを占ううえでも 適していると思う。文化人類学の目的が人類の普遍的な姿を知ることにあるように、そもそ も地域研究の究極の目的が特定の地域をとおして世界全体のあり方を具体的に知ることにあ るとするならば、全体から個別を観察し個別から全体をかたるという道筋において、本書も かわるところはない。

こんなことができるようになったのは、今世紀にはいってようやくアフリカがグローバラ イズされたからである。またこれを試みるのは、アフリカという鏡に映しだされているはず の現代世界の姿にせまりたいと思っているからでもある。辺境化していたアフリカを世界に くみこもうとするプロセスは現在も進行中だ。この「くみこみ」にともなう経済構造のつくりかえによって、いまアフリカ経済は急成長している。つまり、アフリカ経済の急成長はア フリカを必要とするようになった世界経済の写像なのである。世界からアフリカを読み、ア フリカから世界を読みとく――この視線がぶれないように筆先をたもっていきたいと思う。

とはいえ、これまで低開発の集積地として描出されてきたアフリカの特徴は、急成長をは じめたいまもひきつづきアフリカ大陸のなかに厳然としてある。世界中ですっかり定着した 感のある「貧困アフリカ」のイメージは根強い。それはそれで事実なのだが、しかし、その 固定観念にしばられていたのでは、新世紀アフリカへの対応をただしくとれない。アフリカ は、貧困削減支援をうけいれるだけの大陸から、各国各企業が競合して戦略展開する前線に なりつつある。よって、アフリカの情勢はもはやアフリカだけをみていてはとらえきれず、 各国の政策や企業のビジネス戦略を視野におさめておかなければ把握できないものになった のである。グローバルな視点が必要だというのはそういうことだ。

これから順次のべていくが、日本もまた新しいアフリカに対するあらたな対応をせまられ ている。新しいアフリカへの新しい関与は日本の国益にかかわっている。東日本大震災の発 生によって日本は、経済の再生にくわえ国土復興という大きな課題をせおうことになった。 この最優先課題に、国際関係をあつかう分野も当然貢献していかなくてはならない。 日本の再生にとってアフリカはどのような意味をもちうるのか、どのような国益がそこに潜在しているのかを鋭利に考えていくことが肝要だ。アフリカの開発にどう貢献するかとい う、従来対アフリカ政策を論じる際に使われてきた古い型紙ではなく、日本とアフリカ双方 に実利をもたらす関係を構想して、相互利益の実現をはかることがもとめられているのであ る。

援助によって国際社会に庇護されるアフリカではなく、国際社会における自立したパート ナーとしてのアフリカ。これはアフリカ自身が望んでいる姿だ。相互利益こそ持続的で安定 的な関係を築くためのいしずえである。中国の積極果敢なアフリカ攻勢をまのあたりにして いる現在、日本もまた東アジアの国として「アフリカは遠い」とはいえなくなった。この地 球上に「遠い」といえるところなどもうない。どのような関係を望むかという尺度しかない のである。

著者

平野 克己 (著)
出版社: 中央公論新社 (2013/1/24)、出典:出版社HP

目次

はじめに

第1章 中国のアフリカ攻勢
開発途上国にして経済大国
資源需要の拡大
資源暴食
中国の 戦略
アフリカ走出去、始動
中国の「先見の明」
元首のアフ リカ歴訪
対アフリカ政策文書
破竹の資金投入―北京宣言
援 助と投資
アフリカの対中投資
外資との提携中国版マーシャ ルプラン
シャルムエルシャイク行動計画
中国がアフリカをかえる
対アフリカ輸出
中国が問題をひきおこす
中国進出をめぐる事件
中国に対する警戒
中国のアフリカ政策は新植民地主義か
的外れな中国批判
中国との協調
ビジネス = 援助ミックス
米諸国とは異なる道自立にむかうアンゴラ

第2章 資源開発がアフリカをかえる
資源高時代の到来
レアアースショック
日本もアフリカに活路を
対アフリカ投資の拡大―メガプロジェクト時代
世界の投資はどのよ うに展開してきたか
開発なき成長―赤道ギニア
アフリカ経済と 原油価格の相関性
消費爆発が示すアフリカの姿
資源の呪い、資 源の罠
アフリカは呪われているのか
ガバナンスの改善と経済の 成長
アフリカのイスラーム武装勢力

第3章 食料安全保障をおびやかす震源地
世界の農産物貿易
穀物の特殊性
穀物輸入大国の日本
こえたアフリ カの穀物輸入
増えつづける負担、貧しいままの農民
停滞するアフリカの食糧生産
土地生産性は世界平均の三分の一以下
なぜアフリカでは生産性が停滞したか
低投入低収量農業
肥料という資源
農業の低開発は工業化を阻止する
唯一の例外モーリシャス
ランドグラブ
食糧自給への道
アフリカに農業開発は根 づくか

第4章 試行錯誤をくりかえしてきた国際開発
国際開発という理念
ODAは国際開発の手段たりえているか
ポ スト植民地政策としてのスタート
アメリカの“本音と建前”
日 本の経済協力とその変質
アメリカの援助政策論理とはなにか
経 済開発からBHNヘ
ケネディ政権からニクソン政権へ
南北問題 における援助論
ロメ協定の誕生
南北問題テーゼの挫折
NI ES研究がかえた開発論
構造調整
ネオリベラリズムとの相克
南北問題からアフリカ問題へ
開発の理念は「人間の安全保障」へ
ODAはなぜふたたび増えたのか
援助政策の“理想と現実”
ODAによって経済成長 を始動できるか
ODAは国際福祉政策たりうるか
社会政策とODAの矛盾
評価されない日本の巨額のODA
新世紀のODA

第5章 グローバル企業は国家をこえて
南アフリカの先行、牽引
サンラム・グループの挑戦
ギルバート ソンの辣腕
南アフリカ白人の起業家精神
資源分野以外のアフリカビジネス
アフリカの潜在需要にのって急成長する企業
南アフ リカ以外の企業はどうか
母国で起業するということ
先進国企業 の投資
BOPビジネス
“消費”を開発する
貧困ビジネスとCSR
「拡大CSR」という防衛策
グローバル化するなかでい かに働くか
企業が国境をこえるということ

第6章 日本とアフリカ
人口ボーナスの喪失
東アジアの問題
内向経済
アフリカは日 本を救うか
官民連携はなぜ必要か
二一世紀をいきのこる企業
相互利益の実現にむけて

あとがき
主要参考文献

平野 克己 (著)
出版社: 中央公論新社 (2013/1/24)、出典:出版社HP

現代アフリカ文化の今 15の視点から、その現在地を探る

アフリカ文化の「今」がわかる

社会や建築、音楽やファッション、コミックやアートシーンなど、15の領域から、アフリカ文化の“今”を探っています。アフリカに興味のある方はもちろん、視野を広げたいという方にもおすすめの一冊です。

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

現代アフリカ文化の今

15の視点から、 その現在地を探る

CONTENTS

MAP アフリカ大陸
序文 現代アフリカ文化の今—5の視点から、その現在地を探る ウスビ・サコ
座談会 「現代アフリカ・カルチャーの現在地」 ウスビ・サコ/和崎春日/鈴木裕之/川瀬慈
第一部現代アフリカ文化とその根底にあるもの
道端這いから世界を生きるストリート都市カーアフリカ生活力の都市人類学和崎春日
グローバル・カルチャーから見る現代のアフリカの若者 :抵抗か「ポップ」か清水貴夫

第二部 アフリカのカルチャーシーンを視る
アフリカの都市生活とアート緒方しらべ
Column 国際的に活躍する「アフリカ系」アーティストたち 塚田美紀
アートシーンのフィールドワーク 現代アフリカ美術を取り巻く場と人々―中村融子
Column 「Yinka Shonibare CBE: Flower Power」初の日本個展インカ・ショニバレの姿正路佐知子
現代アフリカ建築と建設の今,ウスビ・サコ
アフリカのアニメについて クラベール・ヤメオゴ(訳,補足 遠藤聡子)
よりワールドワイドに発展/躍進を続ける、新世紀のアフリカ音楽 吉本秀純
ボルトガル語圏アフリカのポップス : 無形文化遺産モルナの価値と評価青木敬
西アフリカの「パーニュ」のファッション 遠藤聡子

第三部 グローバル空間で紡がれるアフリカ文化
大陸の外で変容し続けるアフリカ文化を繋ぐ
~フランスにおける新たなアフリカ文化クリエイター達の肖像から~阿毛香絵
日本社会に生きるアフリカ地域出身者たち 菅野淑
いまだ遭遇していない者を織り込んだ「コミュニティ」―香港のタンザニア人の事例から 小川さやか
「私たち」はどこに向かうのか?―まとめにかえて清水貴夫
謝辞
関連のおすすめ書籍
引用・参考文献一覧

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

序文

現代アフリカ文化の今—らの視点から、その現在地を探る―ウスビ・サコ
アフリカ大陸をどのように捉えたらよいのか? 様々 な分野で頻繁にこの問いに遭遇する。アフリカを考える にあたっては、便宜上、サハラ砂漠を境に北と南に分けることが多い。サハラ砂漠以南のアフリカは、多様な課 題と可能性とを同時に抱えており、グローバル化が進む 現代においても、その位置づけは今なお不明確である。 将来を見据えるなら、アフリカの人口は今後も爆発的に 増加し、2050年までには世界人口の4分の1を占めるのみならず、その半数以上は18歳未満、また大多数は 都市部に居住すると予想されている。地球の未来を左右 する存在になるアフリカをどう理解すべきか、また世界 の各地域、とりわけ同様の条件を備えるアジアとの関係 はどのようなものになるのかが重要な課題となるだろう。

日本におけるアフリカ研究の歴史は長く、すでに8年 以上に及んでいる。その内容は、人類学をはじめとして様々な領域に広がっており、各領域において一定の成果 が挙げられている。アフリカが抱えている諸々の課題に ついても、フィールドワークと分析が同時に進められ、 様々な表現方法でその成果が発表されることによって、 世間でもアフリカに対する認識は深まってきた。しかし ながら、こうした豊かな研究の積み重ねにもかかわらず、 現在、そして将来を視野に入れたアフリカの位置づけは いまだ不明確である。とりわけ現代のアフリカを同時代 の現象として認識している日本人研究者はいまだに少な く、現代アフリカ文化における状況について関心を抱く 者となると、ほぼ皆無だとさえ言えよう。その原因は、 現代アフリカに関する情報へのアクセスが見えづらいことだ。結果、関心や気づきが生まれにくい状況が続いている。

世界の変化とともに、アフリカもまた、その政治的、経済的な立場を変えてきた。世界が期待するアフリカの 役割も徐々に変化し、アフリカはそのつど期待に応えて きたものの、世界が思い描くアフリカとアフリカの自己 認識との間には、なおもギャップが存在している。近現 代史を振り返るなら、9世紀以前の西アフリカでは様々 な王国・帝国が繁栄し、トンブクトゥにはアフリカ初の 高等教育機関となるサンコーレ大学が学問・教育の拠点 として設立され、マリ帝国では世界最古の民主的憲法で あるクルカン・フガ (Kouroukan Fouga or Kurukan Fuga) (Cissé, Youssouf Tata 2003) が公布された。また、アフリカの 東海岸ではアラブ文化と土着文化が融合し、独自の社会・ 経済システムが成立していたと考えられている。しかし 19世紀初頭になるとヨーロッパによるアフリカの植民地 化が始まり、それまでの社会・文化、共同体のあり方は 否定され、過去との断絶が生じてしまった。ヨーロッパ による「アフリカの文明開化運動」の過程では、歴史的 事実だけでなく、アフリカ固有の文化・芸術すら抹消さ れた。植民地時代以降に書かれた歴史においては、アフ リカはその独自性を剥奪され、社会システムすらアジア から移植されたものだと考えられたのである。こうした 見方に異議を唱えたのは、アフリカの考古学者・歴史家のシェク・アンタ・ジョップ(Check Anta Dior) (Dep. Cheikh-Anta 1999)であり、彼は人類発祥の地をエジプトと し、そこに居住していた人種が黒人であったことの科学 的根拠を提示した。また、歴史家のジョセフ・キゼルボ (Joseph KiZerbo) (Ki-Zerbo, Joseph 1978) が ブラック・ア フリカの史実を整理したことをきっかけに、奪われたア フリカの歴史を回復しようとする動きが生まれた。バ ン・アフリカニズムの運動が二度にわたる世界大戦を経て世界的に拡大し、アフリカ諸国の独立とアフリカの自 立につながったと言われている。 _1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では、アフリカとアジアからの代表 者が互いの状況を認識し合い、当時の冷戦構造において、 いずれの勢力にも属さない、第3の勢力(ブロック)の形成に向けて連携することを決意したバンドン・スピ リットに賛同した。しかし、アフリカの年ともいわれる 1960年にはアフリカの多くの国が独立し、旧宗主国 と袂を分かったが、その多くは社会主義路線を選択する こととなった。さらに、1970年代になると、こうした国々でクーデターが相次ぎ、なかには旧宗主国の支援 を受けた独裁政権の樹立を許す国も少なくなかった。冷 戦時代を通じて、アフリカ諸国はいずれの陣営にも与し ない立場から世界政治に参画しようとしたが、その試み が一定の成果を上げなかったことにより、進むべき道を 見失ってしまった。独裁政権下にあった多くの国々は、 旧宗主国への資源輸出のみに頼ることで主要産業の育成 を怠った結果、経済的な困難から重債務国になっただけ でなく、内戦や貧困による社会の混乱に陥ってしまった。 ベルリンの壁の崩壊、アパルトヘイトの廃止といった 1980年代の世界構造や経済の調整を経て、1990 年代以降はアフリカ各地で民主化運動が起こり、ようやく社会的な成熟を見せる国と地域が増加していった。かつてのアフリカ諸国連合や、アフリカ統一機構と、その 後継機関であるアフリカ連合の設立を経て、ネルソン・ マンデラのような指導者が出現したことによって、アフリカの未来はアフリカ自身が作るという機運が高まった のも、この時期のことである。他方で都市人口の爆発的 な増加と国民の消費能力の高まりは、産業の発展とは結びつかない都市化を招き、今日の様々な課題を生み出す ことにもなった。

このように諸々の課題を抱えつつもアフリカが自らの 将来を構想し、その実現に取り組み始めた背景には、ア フリカ連合、すなわちワン・アフリカの理念があった。 すなわち、アフリカが一丸となって世界の他の様々な地 域と関わりを持ち、その責務を果たすこと。さらにこう した理念と並行して、アフリカが持っている文化的・歴 史的な潜在能力を掘り起こし、旧宗主国の基準に従うの ではなく、アフリカ本来の文化を再評価する動きも始 まった。いわゆるアフリカ・ルネサンスの可能性が模索 されるようになったのである。

このアフリカ文化復興の機運において重要な役割を果 たすべく期待されているのが現代文化である。文化や芸 術の価値は誰によって決められるのか――。アフリカの 若者たちによって提起されたこの根本的な問いかけの中 で、これまでヨーロッパの視点から眺められてきたアフ リカ文化が独自の基準で定義し直された。それは現代アフリカの現在地を新たな視点から見つめ直す作業でもある。これまでのアフリカ研究が採ってきた視座に加えて、 同時代のアフリカを検討し、その価値を再発見するため の視座を作ることが本書を手掛けることとなった理由の 一つである。もう一つのきっかけは、2020年4月に 京都精華大学に発足するアフリカ・アジア現代文化セン ターと、2021年4月に同国際文化学部に設置される アフリカ・アジア文化専攻である。センターの設立趣旨 では次のように謳っている。

– アフリカ・アジア現代文化研究センターは、ますますダ イナミックな展開を見せるアフリカ、アジアの現代文化の 動態を捉え、これまで過去の出来事を視野に入れてきた従 来型の学術の枠に収まらない、自らが実践し、未来を志向 した研究を通した文化研究を行うとともに、こうした実践 や研究の当事者との直接的な交流から、新たな世界秩序の 意義やあり方を追求する。 -20世紀が経験した二つの大戦と、その後の冷戦下での復 興、そして冷戦の終焉とともに生まれた新自由主義世界が 9世紀に引き継がれたことで、世界は引き続き激動のさなかにある。大きな戦争こそなかったとはいえ、世界人口の爆発的な増加とグローバル化によって、2世紀は人々と情 報が昼夜の別なく世界中を飛び回る目まぐるしい時代と なった。

第二次世界大戦後に「開発途上国」と呼ばれていたアフ リカ、アジア、ラテンアメリカの諸地域も例外ではなく、 「アジアのいくつかの地域は五世紀に入って劇的な経済発展 を遂げ、もはや「開発途上」とは呼べないほどに発展した。 そして次にアフリカがアジアと同じステージに立とうとし ている。「世紀を通じてほぼ変わることのなかった経済の 世界地図は、ここ数十年で大きく塗り替えられた。こうした変動の原動力となったのは、インターネットや携帯電話 と行った情報ツールの普及と、比較的安価で安全になった 移動ツールの発展である。結果、人々の生活も大きく変化 した。例えば古典的な民族誌に描かれたアフリカのマー「ケットマミーたちは、今では航空機に乗ってドバイや広州 へと商売に出かけ、牧歌的な光景を残すアフリカの小都市 の七日市には、これらの女性たちが買い付けた商品が並ぶ ようになった。急速に発展するアフリカ・アジアの経済的 ポテンシャルがせめぎあい、グローバリゼーションの爛熟 を迎えつつあるというのが、現代世界の一つの様相である。 他方で、アフリカ発、アジア発の文化が共鳴し、共有され て、新たな文化が誕生しつつあることも間違いない。映画 の世界では、アジアのボリウッド(インド)、アフリカの ノリウッド(ナイジェリア)が、すでに世界で最も映画が 生み出される地として成長し、欧米資本を介さない交流も 生まれている。音楽やファッションなどの分野でも、インターネットなどを通じた交流が複雑なネットワークを形成し始めている。

今後、アフリカとアジアは互いに刺激し合い、絡み合う ことによって、欧米社会が主導してきた世界の中で、経済 的のみならず文化的にも、ますますその存在感を増していくはずである。
アフリカ・アジア現代文化研究センターは、大きく分けて二つの課題を掲げてアフリカ・アジアに関する研究と実武の発展を目指す。第一の課題は、研究の視点と対象の潮新に関わるものである。かつてアフリカは歴史や文明を持 たない「暗黒大陸」とみなされ、欧米、そして日本の研究者は、アフリカを「未開」の地と考えてきた。こうしたオリエンタリズム的な視点はアジアに対してもあてはまり、 これまでアフリカとアジアの歴史の多様性を無視した一方 的な評価を形成してきた。今日、私たちはこれらの地域で 営まれてきた人々の生活や文化の多様性から多くのことが 学べることを知った。すでに世界経済の中心となったアジ ア、そして経済的発展と文化的・社会的な変容を遂げつつ あるアフリカに注目が集まっている。これらの地域の文化 と経済は、欧米とは全く異なる近代化を経てきた。現在の アフリカとアジアのダイナミズムは、かつてのような外部 からの偏った視点から捉えきれるものではなく、この地域 の人々が蓄積してきた文化的・学術的な資産に対する水平 で多元的な視座を新たに構築する必要がある。

二つ目の課題は未来志向の実践的な研究体制の構築である。これまで学術研究の領域では、欧米や日本からアフリ カ・アジアを学ぶことは盛んになされ、またアフリカ人研 究者が旧宗主国である欧米を研究する機会も多かった。そ の一方で、ともに急速に変化したアフリカとアジアの間で 相互に研究が進められる機会は極端に限られていた。近年、アフリカが新たな市場として注目を集めるようになり、ア ジア諸国からアフリカへと経済進出がなされるようになったことに伴い、アジアにおけるアフリカ研究は次第に盛ん になりつつあるとはいえ、アフリカ諸地域でアジア研究を 行っている研究機関はまだまだ数が少ない。両地域の文化 交流も近年ようやく端緒についたばかりであるが、将来に わたって様々な発展が期待される。 – アフリカ・アジア現代文化研究センターは、アジアとア フリカの相互研究、相互理解を促進し、アフリカの人々が アジア、そして日本について学ぶためのプラットフォーム として機能することを目指す。また、従来のアフリカ研究 を踏まえながらも、現代のアフリカ・アジアにおける文化 の諸相や変容について、日本を含めたアジアからアフリカ へ、そしてアフリカからアジアへという環地域的な視点か らアプローチし、双方向的かつ学際的な研究体制を構築し ようとするのである。このプラットフォームを基盤として、アフリカとアジアの社会と文化に関する相互理解を深め、 過去と現代を前提としつつ未来志向型の新たな知の体系の 形成に寄与しようとする。」

急速なグローバル化に伴い、外国、とりわけ旧宗主国からの文化の流入とその消費といった外的要因によって、 「地域特有」の文化を発展させることはますます困難に なっているという指摘がある。本書は、変化の波にさら されているアフリカの多様な現代文化の現在地の特色と 本質を、社会、芸術、現代アート、建築、音楽、ファッ ション、アニメ、映画など、5の領域において形成され てきた在来知を観察することによって探ろうと試みる。 アフリカが抱える諸課題に対する一定の解決策を提案す るというよりは、むしろグローバル化の影響下にあるア フリカについて異なる分野から多様な視点で問いを立て ることに重きが置かれている。そして、これらの問いを 通じて現代アフリカの在来知を体系的に理解することに より、ひいては現代文化の新たな可能性が発見されるこ とを願っている。
Amadou Hampâté Bâ (“En Afrique, quand un vieillard meurt, c’est une bibliothèque qui brûle”).
「老人が一人亡くなることは、図書館が一つなくなるよ うなものである。」

注1. パン・アフリカニズム(PanAfricanism)は、アフリカの黒人の解 放を、アフリカ全土の課題として捉え、 さらに北アメリカやカリブ海域のアフ リカ系黒人とともに進めようという運 動。第二次世界大戦後の1960年のア フリカ諸国の独立につながった。 (https://www.y-history.net/appen dix/wh1503-152.htmlより)
注2.1955年4月、インドネシアの ジャワ島にある都市、バンドンで開催 されたことから「バンドン会議」とも 言う。略称はAA会議議長を務めた インドネシアのスカルノ大統領は、こ の会議を「世界人口の約半数の13億 (当時)を占める有色人種の代表による、 世界最初の国際会議」と位置づけた。 4月18日から24日の7日間にわたって 開催され、29ヵ国(そのうち23ヵ国 がアジア)が参加した。この、第三世 界の存在を世界に示した最初の会議に は日本もオブザーバーとして参加した。
注3. アパルトヘイト(人種隔離政 策とは南アフリカ政府が1910~91年 に実施した人種差別政策。
注4、アフリカ諸国連合(Union des Etats africains)とは、1958年にガー ナ・ギニア連合として発足し、1961年 にマリが参加した西アフリカ三か国に よる国家連合。1963年まで存続した。
注5. アフリカ統一機構(Organisation de fUnité Africaine)とは、新植民地 主義に抵抗しつつ人民の生活向上のためにアフリカ諸国の連帯と相互協力を 促進することを目的に1963年に発足 し、2002年に後述のアフリカ連合へ と発展した国際組織。
注6. アフリカ連合 (Union africaine /African Union)とは、前身のアフリ カ統一機構を改組し、欧州連合(EU) のような政治・経済的統合を目指して 2002年に発足した国家統合体。現在 ではアフリカの全ての独立国家が加盟 している。

座談会

現代アフリカ・カルチャーの現在地
ウスビ・サコ(京都精華大学学長)
鈴木裕之(国士舘大学教授)
川瀬慈(国立民族学博物館准教授)
和崎春日(中部大学名誉教授)
司会 清水貴夫(京都精華大学准教授)

清水:「現代アフリカ・カルチャーの現在地」を、これ から始めさせていただきたいと思います。司会を務めさせていただきます清水貴夫と申します。まず、京都精華 大学学長ウスビ・サコより、本日の主旨をご案内いたし ます。よろしくお願いいたします。
サコ:2020年の4月に、京都精華大学に「アフリカ・ アジア現代文化研究センター」を立ち上げます。現代ア フリカの文化とは何かということは、ひと言で言っても あまり通じない。アフリカ研究の中で見ると、今まで文 化人類学から追求する人が多かったり、地域研究とかも あると思います。ただ同時代のアフリカで、どのような 変化があるのか、その変化をどう評価していくのか、と いうことの話し合いができる場は日本の学問の領域でも 必要かと思っています。新センターでは、現在のアフリ カ研究にプラスして京都精華大学ができるのが、そういう現代文化、また、アフリカが今どういう位置づけにあるのかを研究することではないかと思っています。
今日登壇していただく、三人の先生たちには、アフリ カ現代文化を見る上で、三つの視点を提示していただき ます。それぞれが、アフリカの現代、もしくは現代のア フリカをどういう風に見ているのか。特に文化の面で見ると、実はアフリカの国々というのは、一つは過去から の文化を継承している地域もあれば、また一つはその時 代その時代でかなり文化の内容を変えていく地域もある。そういう両面があると思います。こんなところに気 を配って話をしていただきたいと思います。

鈴木裕之

それでは、始めさせていただきます。私、国士舘大学 の鈴木と申します。今日は「文化の進化 or 変化 or 衰退」 というタイトルで話をさせていただきます。私はマンデ のグリオの研究をしているので、それに関連づけながら、 現代アフリカにおけるカルチャーの特徴およびそれが抱 える問題について考えてみたいと思います。
アフリカのほとんどは無文字社会です。そこでは声の 文化や音の文化が非常に発達しており、声や音がコミュ ニケーションの中心に位置しています。特に西アフリカ では、言葉を操る専門家が発達している文化が広くみら れます。そこではカースト制が存在し、豊富な知識を持って、民族の歴史や一族の系譜とか、故事やことわざなど を覚えて、みんなのために歌ったり語ったりする語り部 が存在します。この語り部をマンデ語では「ジェリ」と言うんですが、一般的には「グリ オ」と呼ばれています。
「マンデ」というのは西アフリ カの民族なんですが、3世紀にス ンジャタ・ケイタという英雄が出 てきて、現在のギニアからマリの 辺りにあった様々な国々を統合してマリ帝国をつくったんです。これは歴史的な事実で、マリ帝国は 300年くらい栄えたんですね。
帝国が滅びた後も、その末裔たち はマンデと呼ばれ、いくつかの民族に分かれますが、似 たような言葉を喋って、似たような文化を保ち続け、同じルーツを持つ者としてアイデンティティも共有しています。

グリオは木琴や、「コラ」というハープのような弦楽 器や、「ンゴニ」というアメリカのバンジョーの起源と なったといわれるリュート系の楽器を演奏します。これ らはグリオだけに許された楽器で、彼らはそれを演奏し ながら、歌と語りで、過去の歴史や、今生きている人々 の家族や一族の系譜などを伝えていきます。
これはいわゆる木琴で、マンデ語で「バラ」と言いま す。ヨーロッパ人がこれをヨーロッパへ持って行って改良し、我々の知ってるマリンバやヴィブラフォンに変化 していきました。マンデでは木琴は手作りで、二台か三 台で合奏することが多いです。

木を選び、それを削って鍵盤をつくり、バチもつくって、その叩き方を父から子に伝えていくという作業を 延々と700年間も続けてきたのでしょう。そういうことを世代から世代へと継承しながら、言葉と身体を使って語りを伝えています。 – グリオには木琴を演奏する者もいれば、様々なことを 記憶して語る者もいます。グリオは一族経営になっていて、各家族を中心に演奏グループが形成されます。それぞれの子どもの得意技を見ながら、お前は木琴係になれ、 お前は歌う係になれ、お前は語る係になれ、という形で なんとなく各パートが揃うようです。 「語る係は木琴のリズムを聞きながら、それに乗りなが ら喋るんですね。そうすると聞いている人は心地よく語りの中に入っていく。でも、たとえば私なんかが真似してやってもグズグズになっていきますから、木琴の演奏も崩れていくし、お客さんも興味を失っていってしまう。
決まった物語にはそれに付随する楽曲が発達していて、 グリオはそのレパートリーをもとに、アドリブを交えながら臨機応変に演奏してゆきます。もちろん昔はアンプ もマイクもなかったので、声を張り上げて大きな声で歌 いました。こうした歌い方がアメリカに渡ってゴスペル やソウルミュージックのシャウトという歌い方に変化していきますから、アフリカとアメリカの音楽的つながり が深く感じられます。 – グリオにはもう一つ重要な仕事があります。
彼らは結婚式や子どもに名前を付ける「命名式」など の儀礼・祭礼にやってきて、人を誉める「誉め歌」を歌 うんです。その式の出席者を誉めるんですが、誉められた人はご祝儀としてグリオにお金を渡さなければなりません。同様の文化は、マンデのみならずアフリカ各地で 発達しています。

誉められた人は、ご祝儀としてばらまくおカネが多いほど尊敬されます。だからアフリカに行ったら、引っ込み思案になってはいけないですね。とにかく私も、誉められたらばらまきます。もしけちってお金をあげないと、 「ああ、あいつはとんでもない奴だ、こんな奴はもうこ こから出ていってもらいましょう」って話をその場で歌いはじめます。つまり、炎上させられるわけです。アフ リカの無文字社会では、グリオの言葉が一番重要かつパ ワフルですから、炎上させられると翌日からその人はもう町や村を歩けません。三回くらい炎上すると、本当に 自殺するような村人も出てくるくらい、言葉の力が非常 に強いんですね。

〈映像〉

これは私がアビジャンで結婚式をして、その直後に、 妻の故郷であるギニアのカンカンにいって報告をしたときのお祭りの映像ですが、お金が舞ってますよね。誉められたらお金を渡す、という慣習の実際の現場です。グ リオというのはアグレッシブな人たちで、本当に気合を 入れてきます。で、 すから、それに対 して誉められた人 は、お金をばらまくことでやっとつり合いが取れます。 お金のない人はグー リオの前では虫けら同然になります。
今度はひとりの女性が誉められる場面です。誉められる女性の周りに女友達が集まってカンパしてます。お金 足りなくなると困るので、友達がカンパして洋服やス カーフの間にはさむんですね。そして、みんなで踊りながらグリオの前にすすんでゆき、誉め歌が歌われます。 映像に出てくる女性はこの町の有力者の娘なので、数人 のグリオがリレー形式で誉めちぎるんですね。共同作業 で警察の職務質問みたいな感じで、みんなで取り囲んで どんどん攻める。誉められた人は気持ちいいんです。し ばらくすると、彼女はおカネを配り始めます。グリオに もいろんなレベルがあって、コバンザメみたいなグレー ドの低いグリオがたくさん集まってくるので、そういう のに少しずつあげて黙らせておいて、最後に大きな額を メインのグリオに渡すんです。そういう心遣いといいま すか、お祭りの中での作法がいろいろとあるんです。誉める作法もあれば、誉められてお金をどうやって渡すか という作法もあります。

先ほどの木琴はアコースティック楽器でしたが、今度 はドラムスとベースとエレキギターによるバンド形式に なります。こういうエレキ楽器が使われ始めたのは60年代末くらいからですね。
さて、次は現代のショウ・ビジネスに進出しているグ リオの話です。彼らには強力な音楽的才能があるので、 アフリカ社会が変化する中で、ミュージシャンとして活躍するようになります。
例えば、ギニアにウム・ジュバテという有名な歌手が います。彼女はグリオで、私の妻の叔母に当たります。 その妹にあたるミシア・サランも、ギニアのイケイケガー ルみたいな感じのアーティストです。また、パリではモ リ・カンテ、カンテ・マンフィラ、ジャンカ・ジャバテ など、1980年代から30年代のワールドミュージック・ ブームで名を成したグリオが活躍しています。

〈映像〉

これはギニアの人気アーティスト、セクバ・バンビノ がアビジャンに来た時の映像です。みんなヒット曲に合 わせて踊っていて普通のコンサートみたいですが、途中 から伝統的なグリオの演奏になっていきます。彼がグリ オのレパートリーをエレキ楽器でアレンジして歌うんで すが、それはある特定の一族に対する誉め歌なんです。 そうすると、お客さんの中からその一族の方がステージ に上がってお金をあげはじめる。この時はカンテ一族を誉めていたので、カンテの人が上がってきてお金をあげ てるんです。ずっとあげるんです。まだあげてます。ま だあげてますねー。手にはおそらく数十万 (CFA) 持っ ていて、それをあげちゃうんです。お金が終わらないほ どみんな喜ぶんですよね。もう終わるかなと思ったら、 全然終わらない。まだまだっていうんで、またポケット から出して始めるんです。これ、とても盛り上がるんで すね。
グリオは700年前のマリ帝国の時代から、伝統的な アコースティック楽器を使いながら同じことをしていま した。やがて植民地化と共にアコースティックギターが 入ってくると、このギターをいち早く取り入れます。白人に押し付けられたのではなくて、自分たちがギターを 気に入って、木琴の横でギターでも演奏を始めました。 和音とか西洋式の演奏の仕方を知らないまま、自分たち で工夫しながら独自に演奏を始めたんです。

グリオはそうして新たな楽器を手に入れることを厭いません。その後、独立前後からエレキ楽器が入ってきた ので、バンド形式の演奏が誕生し、さらにワールドミュー ジック・ブームでそれがステップアップしていきました。 2000年くらいからはデジタル化の時代に入ってきて、 スマホやらノートパソコンが普及してきて、音楽をダウンロードするようになってきました。いろんなソフトを いじれるようになってきたので、例えばアビジャンの町 の中の結婚式などのお祭りでも、グリオの歌のバックが デジタル化された演奏だったりする。昔は村のお祭りで ジェンベを叩いてみんな喜んでたけど、マリの村落を調査した若手の研究者によると、最近はジェンベよりもそのデジタル化したものを、アンプを通して流したほうが、若者なんだそうです。もはや楽器すら演奏せずに、なにが違う同に向かうということが、今、始まりつつ あるのかもしれません。

たとえば、マンデの人がニューヨークで結婚式をする 時にeラーニングみたいなのを使って、ギニアでグリオ が歌うとニューヨークでもキャッチできて、ご祝儀も電 子マネーで送るというようなこともすでに技術的には可 能なので、将来的にそんな風になるのではないかと思う わけです。エレキ楽器までは、彼らが自分の身体を使って演奏していたんだけども、デジタル機器が普及すると 身体を使って演奏することがなくなっていく。むしろ、 そのほうが今の社会ではヒット曲になる可能性が高い。 デジタル技術と電子マネーの普及によって、誉め歌の伝 統が変わる可能性がでてきています。 そうするとこれからのアフリカは、その文化的特徴として世界の他地域よりも優越しているであろう「身体性」 や「口頭伝承」の伝統を捨てつつあるのかなと思ってしまうわけです。それは、先進諸国においてグローバル化 や経済発展に伴って起こったことが、アフリカでは今始まりつつあるというところにいて、ちょうど日本が明治 維新で経験したような大きな社会変化が、アフリカで起 こりつつあるのかなという気がするんです。

それはたしかに「変化」なんです。しかし、伝統的な アフリカが持つ身体性や即興性が次の段階に「進化」したと捉えるか、あるいは、それらが「退化」していると 捉えるか、それは評価の問題です。ですから、我々が外 からアフリカと関わる際に、彼らの変化する姿を目の前 にして、それをどういう風に感じながら付き合っていくかということが重要なファクターになってくるのではないかと思います。

川瀬慈

私は主にエチオピアの地域社会で活動する楽師や吟遊 詩人の活動を民族誌映画に記録し、発表することを研究 の主軸に据えてきました。彼ら、彼女たちの歌の世界は、 私自身の視点や思考を揺さぶり、変化させていく主体でもあります。研究をすすめるなかで、映像の話法とでも いいましょうか、イメージや音をとおした語りにおいて 様々な方法論を試してきました。まず、拙作を見てください。

〈民族誌映画3作品上映〉
1 『ラリベロッチー終わりなき祝福を生きるー」
2 『僕らの時代は』
3 『精霊の馬』

以上、3作品を見ていただきました。一本目の作品は ラリベロッチと呼ばれる集団を対象にしています。これ は、家々の軒先、玄関の前で歌って人々を祝福して金品 を受け取り、町を移動していく、いわゆる門付けを行う 集団です。二本目と三本目は、アズマリと呼ばれる楽師 の活動を記録しています。アズマリは結婚式をはじめと する地域社会の様々な祝祭、娯楽の場で弦楽器マシンコ を弾き語ります。三本目の映画は、霊媒と人々のやりとりが主題なのですが、本作にみうけられるように、アズ マリは歌と演奏を通して、精霊と人々のコミュニケー ションを仲介していきます。 一本目の『ラリベロッチー終わりなき祝福を生きる』は、歌い手の夫妻と人々が繰り広げる路上のコミカルな やりとりに惹かれ、それを淡々と観察するオブザベーショ ナルシネマのスタイルをとっています。二本目の『僕ら の時代は』では、撮影者である私はカメラの前の出来事 に積極的に参加しています。すなわち、撮影対象のアズ マリの少年たちと意見交換したり、ジョークを言い合ったりして、撮影者の存在を作品のなかで前景化しています。これは、私と対象の心理的な距離の近さが可能にさ せた映像の話法ともいえます。ところどころで、私と少 年たちのコミュニケーションがかみ合わないような場面もみうけられるのですが。

いずれにせよ、撮影対象の人々と撮影者である私の関 係によって、カメラの動き、映像の話法は変化していく わけです。人類学においては、対象と距離を保ちながら 観察記録し対象を分析するための、いわば、科学的な道 具としてカメラはとらえられがちです。しかし実際は、 撮影者と対象とのかけひきや関係性のなかで、カメラの 動き、映像の話法が規定されていきます。もちろん被写 体は、撮影者の意図を真っ向から覆す力も持ち合わせて います。被写体も、さらには作品を受け取るオーディエ ンスも、決してこちらの意図どおりに客体化し、コント ロール可能な存在ではありません。エチオピアのスト
リートで、あるいは、各国の様々な上映機 会において、制御できえない存在や声にいかに対峙し映像を介して対話していくのか、 という点に試行錯誤してきました。
楽師アズマリたちの歌の魅力の一つとで も言っていいと思うのですが、サムナワル ク、すなわち《〜と金》という歌いまわし があります。これは、彼らが演奏を始める 前に必ず歌う歌、ゼラセンニャのなかに顕 著です。ゼラセンニャは、演奏を始める際 に男性アズマリの独唱によって歌われます。
歌に一定の拍子はなく、いわゆる語りに近いです。

<『ゼラセンニャ』の歌唱の実演>

こんなかんじで、短い歌詞が続いていきます。通常、 蝋は歌詞上で字義通りに理解される特定の単語や節、ひ とまとまりの段落を意味します。一方、金は、蝋が徐々 に溶けることによってあらわれ出る詩の深淵、イメージ の鉱脈を指します。聴き手は蝋を頭の中で溶かし、金、 すなわち歌が包含するイメージの鉱脈を自ら掘りおこさないといけない。言葉を字義通に受け取ったら全然違う 意味になっちゃう。ちゃんと言葉の金を掘らないといけ なのです。そのため、聴き手は蝋のパートを注意深く聴き取る。そして金を導き出すための修辞上の作業、すな わち、特定の語を、似た発音の語と入れ替えたり、一つ の単語を異なる二つの単語に分離させたりと、いろんな 作業を頭の中で行います。そうこうするうちに、金、す なわちある種のイメージが頭の中にうかびあがってくる のです。じゃあ、具体的にそれはどんな内容かって言う と、なかなか簡潔には言語化できないのですが、浮き世 の儚さであったり、人の生死に関する諸行無常のような 観念とでもいいましょうか。あとは権力批判だったり、神への畏敬の念など。神というのはこの場合、キリスト 教エチオピア正教会の脈絡における神です。

エチオピアの地域社会の中で様々な役割を担うアズマ リは、道化師のようなコミカルな楽師として親しまれて います。しかしながら彼らは、歌によって空間を異化し、 蝋と金を通して、我々に語りかける、ある種のスピリ チュアル・リマインダーでもあるのです。金が包含する イメージの世界は一元的で、固定的な答え、わかりやすいメッセージの類いではありません。聴き手は、ゼラセ ンニャを聴きながら、広大なイメージの海を、自らの想 像力のみを頼りに、深く潜行していくのです。 「さきほど、鈴木さんのお話の中に、デジタル技術の革 新や電子楽器の隆盛のなかで、アフリカが持つ身体性や 即興性がどうなっていくのか?というお話がありまし た。アズマリたちは基本的に、マシンコというアコース ティックな楽器を弾き語る楽師なのですが、シンセサイ ザーの演奏やDJのパフォーマンスとともに、歌い演奏 する機会も飛躍的に増えています。演奏のスタイルや脈 絡が変容する中、今後も私は、楽士の活動や生きざまに ついての記録方法を模索していきたいです。同時に、さきほどの蝋と金にように、私が魅了されてきた彼らの詩 やイメージの世界を身体でとらえながら、より深く学んでいきたいとも思います。そして、おせっかいなアウト サイダーの立場から、その魅力について当事者たちにリ マインドしていく。これも私のミッションなのではないだろうかと考えています。

和崎春日

アフリカのカルチャーの現在ということですが、私の 話は文化性よりもやや社会性を帯びた話になります。
日本に来ていたアフリカ人の仲間は、大使館の関係者 だったり、上層関係の子どもたちやその親族だったりしたんですけど、今日ご存知のよう にいろんな形で日本でも出会いが 増えてますよね。日本で会ったア フリカの人たちが戻って、その故 国へ行くと経済的には中層階層、 あるいはローワーだったりします が、アッパーローワーぐらいの人 でもお金をなんとか工面して日本 になんとかやってくるような時代 になっています。その様子を、いろんなところへ行ってるよっていうことを、写真でできる限りお見せします。これは僕自 身の経験、出会いの経験でもあります。 「資料的なものを見てみると、マクロな統計でも、その、 苦しい状況を突破してというよりも、かなりポジティブ な動機があることがわかります。そういう姿を写真から むしろ感じていただけたらなあと思います。 – 中部大学は愛知県春日井市にあるんですけれども、そこで調べてみると、歴史的に関係の深い韓国、朝鮮籍の 人、中国、台湾の人、ブラジル、ペルー、中南米の他に、 いわゆる帝国をつくったり植民地主義を行使したり、経 済的に産業革命があった、市民社会を先につくったよう な人たち、つまり、北側と通称呼ばれるアメリカ、イギ リス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポルト ガル、ロシアのような人たちも来てます。最近多いのは、 ベトナム、ネパール。コンビニで働く人たちのネームプ レートが漢字だった人が、今はこの二つの国がほとんど ですよね。セネガル、南ア、ウガンダ、エジプト、チュ ニジア、ナイジェリアの人も春日井市に住んでるんです よ。だから、合計何か国か、中部大の学生にこれを書か せるんですけど、最初は15か国くらいだろうと思ってましたが、これだけでももう5か国。もうそういう地球規 模交流の時代なんだなということがわかります。

僕はカメルーンに住んで長いんです。1970年代くらいから行ったり来たり。カメルーンには計7年くらい 住んでました。その村はカメルー ンのバムン民族の村で す。以前は、みんな小学校で裸足でしたが、最近は靴も 履いてるし、小学校も整備されている。学校の普及率は タンザニアとカメルーンはアフリカの中でも高いですね。 アフリカ全体が上がっています。でも問題は、学校施設 の数をユニセフとかそういう統計でよく取るけれど、じゃ あ、寺子屋数えてますか?って。じゃあ、クルアーン 学校数えてる?っていうことをやっぱり問われますよ ね。西洋的価値だけで、学校を規定するのはおかしい。

東アジア人っていうのはものすごく実年齢よりも相対 的に若く見られますから、ちょっと張り合わなきゃと 思って、鈴木さんの髭以上にバチっとこういう髭でいったこともあるんです。そしたら、もう、アラブの人たち に見えるかなと思って行ったら、村のちっちゃな子が寄ってきて、本当に僕をアラブ人と思ったのか、アラビ ア語で話しかけてくるんですよね。日本ならアラビア語 は東京外大や昔の大阪外大など、諸外大に通わないとできないでしょう? 相当の知識人です。だから、ユニセ フなどの統計もそこの現地性に即して考えないと。決し て、国連機関がすべて是であるという風には考えられない。常にそこを問うていかねばと 思います。

日本におけるアフリカ人

日本にいるアフリカ人は関東で すと、越谷、北越谷、南越谷、蕨、 それから千葉のほうの野田にたくさん住んでます。それで、中古自 動車とか電機製品とかエレクトロ ニクス、いっぱい買い入れて故国 へ送り返しています。この商売を経て新たなビジネスに 入るんだけど、なかなかうまくいかないと、また中古自 動車業に戻るという人も非常に多いです。彼らは大体2 週間から3週間くらい滞日しますが、日本からのインビ テーションがあって2か月のビザがとれる時もあります。

日曜はオークションないでしょうと、休みということ で六本木に行こうやって言って約束しても、何回もすっぽかされました。ものすごく真面目なんです。あんまり 六本木とかに行かない。話題としてはものすごくよく 知ってますよ。知ってるけど、行かないね。結局、いろんなものを買って帰るかっていうことに賭けてるから。
寝て、起きて、買いに行ってという生活をずっと繰り返 してます。

毎月一回在日本カメルーン人の会があるんですけど、こ の写真(2ページ、下段)、正月に会長選挙をした時のもので、 私はいかにも顧問みたいでしょう? いかにも顧問みた いに、参与として司会の横に鎮座させてもらって、「セ・ ボン(いいじゃないの)」とか言っているところです。 「カメルーンと日本の交流では、カメルーン人男性と日本人女性の結婚が大変増えてます。これは埼玉のカメ ルーン人の女性がやってるレストランで、結婚の祝賀 パーティーがあったところですね。非常に増えてます (4ページ、写真5参照)。 「池袋で会ったナイジェリア人、イボ人の在日協会の会 にも参加しました。日本にいる在アフリカ人ではこのナ イジェリア人が2千数百名でトップです。二位が2千前 後のガーナ人。三位になると一挙に500名とかになり ますね。ナイジェリアでは、イボ人が多くて、しかもこれアナンブラ州に集中している。イモ州、アナンブラ州、 エヌグ州とかいくつか州がありますけど、州だけでも何 百も集まる。アナンブラだけで何百人っておかしいな、 多すぎるって。全部で二千人くらいだからです。それだけオーバーステイの人もいるっていうことですよね。儲けるだけ儲けて帰る。カメルーンの人もコンテナーに自 動車を入れてドアラ港で受け継いで売ります。
カメルーンでは、中古自動車の右ハンドルを左ハンド ルに変えるほうが売れやすい。カメルーンはフランス式 ですので右側通行。日本のハンドルでは上手くいかない ので、右ハンドルを左に変えてます。カメルーンには、 トヨタとか、日産とかあるんですけど、JUDHO AUTOS という風に店名を日本の名前(ここでは柔道) がついているところが多いです(8ページ、写真3参照)。そ のほうが、信頼を得て売れる。

ヤウンデで日本との交流が深まったのは、カメルーン 人と日本人との結婚があって、日本にも行き、日本から カメルーンにもやってくる。ただ日本からやってくるの はいつでも個人のレベルだけれども、中国は人がどーん とやってきますよね。 – 日本は精緻な、あるいは技術的にハイレベルなものが 象徴的にやってきます。だから、名古屋大や中部大で国 際シンポジウムしてカメルーン人やヨーロッパ人研究者 を集めると、みんな名古屋の駅前のヨドバシカメラでパ ナソニックとかヒタチとかミッビシとか、うわーっと買 うんですよ。みんなそればっかり写真に撮ります。それ が日本なんです。だから、人じゃない。身体性の逆のもっとも離れた人工的なものが 日本だと捉えられてるんだなっ ていうことも考えていかなくて はいけない。

今日、ヤウンデで日本語コン テストさえ行われています。ポ スターもちゃんとした日本語に なってますね。という風に20 07年に、(ポスターに) 神社の 図案なんかわざわざつけちゃって日本風を謳ってますね。日本 風絵画が描いてあって、こういうものをつくってます。 (他の写真を見ると)在カメルーン日本会の代表チャオさんがいます。慶應の大学院に3~8年前にきて、現地 の三菱商事に勤めていました。三菱はもう引き払いまし たから、チャオさんがカメルーンで拠点をつくってます。 なので、いろんな日本の会社がカメルーンで仕事しよう と思うと、結局彼を通さざるを得ないんですね。ネット ワークを持ってます。そういう人たちがこういう交流会 「Africa Japan House」をつくっています。という風に、 日本がカメルーンに、アフリカに根付いてきてますよっていうことです。

アジア諸国のアフリカ人

中国の広州にはアフリカ人がいっぱいいます。香港の 北側にありますよね。 – 日本社会自体が非インターナショナルなのは、中国の 発展を素直に受け止められない点です。いつもどこかで ルックダウンしてるんじゃないの?と日本社会の人たち にやっぱり問わなきゃいけない。広州、すごい大都市で す。人口規模や国際性など東京以上だなという場面に しょっちゅう出合いますよね。広州は香港の北側にあり ますから、香港の持ってる国際商業性、経済力は、こう いう広州のマニュファクチャーに支えられている。ホン ダや日産など日系企業の部分パーツもたくさんつくって るし、中国で一番売れてるフォルクスワーゲンもある。 そういうものの経済力を支えてるのは広州ですよね。 – 日本には公式に2万人弱とされたアフリカの方が来てるんだけど、広州には10万人いると聞いた。10万人! じゃあ、行ってみようと。現地へ行きました。 – サコ先生もご存知ですけど、アフリカの人、広州のそこら中にいます。それで、英語も聞こえるしフランス語 も聞こえるんですけど、アカン語が聞こえてきたりね、 スワヒリ語が聞こえてきたり、フランス語やカメルーンのバミレケ・バムン系の言葉を聞いたこともあります。

ギニアとベナンの婦人に「何しに来てるの?」って聞 いたら、「観光だよ」って言うんだけど、「誰に会いに行 くの?」って名刺入れを見せてもらったら、もう中国の 商店の名刺がいっぱい一冊の中に入ってる。商売ですよ。 いろんな小物を買いにきてる。おばちゃんたち、観光だって言ってたけど、嘘つけっていう感じです。スモールス ケール、ミディアムスケール、ラージスケールの商売が あって、どんなスケールでも、とにかくアフリカの女性 たちの持ってるインターナショナルな、コマーシャルの 力っていうのはすごいですよ。もとよりその意味での、 男女のアクティビティの平等性というか、お互いのアク ティビティを認める力っていうのはアフリカにはありま す。フェミニズム論でも、アフリカから問う必要がある。
広州のタンキー市場っていう小北っていうところの近くなんですけど、タンキー市場にはアフリカ人ばっかり もう繊維製品の市場だからいっぱい買いに来てるっていう噂を聞いて、行ったら、もちろんいっぱいいました (%ページ、写真7参照)。それで、このビル内に入ると、アフ リカの人が中国のお姉ちゃんを雇い入れて、この中国女 性たち正式レジスターに店舗を借り入れて、二階も三階 もアフリカの人ばっかりです。

エレファントビルという建物にはアフリカ人理容院が あります。アフリカのチリ毛の人たちはパーマの技術が いります。カメルーン人理容師がいます。このお店は人 気があって、いろんな各国のアフリカの人が来ます。
広州で買い物すると、運搬のサービスというのが発達 して、中国とラゴス、ナイジェリアを4日間で結んでいる。これを通してもナイジェリア人が多いというのがわ かるんですけれど、これはナイジェリアの国際空港地ラ ゴスと4日で結びますっていうロジスティックスの戦略で すよね。広州―アフリカ国際輸送が商売として成り立つ。
次にベトナムです。ベトナムの一杯飲み屋街に、最近 よくアフリカ人が現れるよっていうことを聞きました。 社会主義体制から経済開放しています。日本の企業も名 古屋でアンケートをとったんですけど、中国から次どこ に拠点を移すかっていうのは、ベトナムとインドネシア でした。中国から会社の支店や工場を移す計画を立てて いる会社は多いです。だから、日本もベトナムを拠点化 しようとしてるところだし、ベトナムからもいっぱい来 てるという相互状況だったんですね。国際化が進みアフ リカ人にきっと会えるだろうと思ってハノイの飲み屋街 タヒエン地区に行き、アフリカ人に、やはり会いました。 ベトナムではアフリカ人が活躍するサッカーのトヨタ杯があります。トヨタがスポンサーのVリーグ(日本の J1リーグにあたる)、ここのアフリカ人の評判が非常 にいいので行ってみました。今年の得点王はサムソン・ カヨデ。ナイジェリアの人ですけど、その後のチームの Tシャツを買って応援します。僕はだいたい日本とカメ ルーンの試合があると、カメルーン側に招待されますか ら、カメルーンの旗を持って、日本をやっつけろーって 応援するわけです。得点王サムソンは、ナイジェリア人 です。イボですけど、ハウサ圏で育ってるので、ハウサ 語ができます。ハウサ語であいさつすると、一挙に信頼 が増します。

次の時の試合では、南のハイズオンっていうところか ら来たチームなんですけど、アフリカの選手がやっぱり いました。(写真に写ってるのは)ケニアのルヒヤ・ルオ 系人です。ナイジェリア人もいます。イボ系です。こち らにもう一人、ナイジェリアのハウサ人です。ルヒヤ人 選手の奥さんは、ケニア人ですけど、今ウガンダに住んでるという風に、非常に人の動きも国際的だっていうことがわかります。この時にびっくりしたのは、その時、 笛を吹いたのは日本人だったっていうことです。びっくりしました。そういうようにもう交流しているんだ。そういう日越アフリカ交流の時代なんだっていうことがわかりました。
タヒエンに行くと、ちゃんとアフリカのおちんが ベトナムのお姉ちゃんと連れだって、にやにやって きました。彼は、去年、その前の年のベトナムリングの 得点王です(ページ、写真参、キンタイナーら楽だな 手で、僕が織の表面にカメルーンの後はってそれを ぱっと見せると安心してカーっとし、すでに高線して きた交流がわかるわけね。
ハノイのここでびっくりしたのは、出会った数人の選 手が、実はカメルーン人のベトナムリーグの選手かと思 いきや、中国リーグの選手だったことです(ページ、写真 1参照)。だから、中国とベトナムとのネットワークがあっ て、選手間のネットワークがあって、シーズンの時期が 違えば二股もできます。それから、この写真は、ちょう と試合の間の休みの時に、重慶と上海と北京の三チーム のカメルーン人選手が今のベトナムの繁華街に来たとこ ですね。この世界も、ものすごいネットワークがあるんだなっていうことがわかりました。

ベトナムのサッカーリーグにアフリカ人がどれだけ進 出しているかを整理してみると、選手は東アフリカから 6か国、西アフリカから9か国、中部アフリカから2か 国、南部アフリカからは7か国からと、多数来ています。
ちなみに、ベトナムでは、トリニダード・トバゴやジャ マイカなどのカリビアンの選手もアフリカ人扱いです。
それで、そのタヒエンで、僕がどこから来たの?と 聞いた人たちの中には、カメルーン、セネガル、モザン ビーク、ナイジェリア、コンゴ、タンザニア、スーダン ケニア、ガーナの人がいました。彼らには中国やロシア にもネットワークがありますよ。この中のカメルーン人 は、最初ドバイに行って、そこでロシア人に出会ってモ スクワに行って、商売をして、その旧社会主義ネット ワークが現在化されて、ベトナムに来ていた。こういう グローバル状況です。 _FPTというベトナムのコンピューターの電気・電産 関係の最大手がありますけど、それが私立大学をつくったんですよね。ハノイ国家大学は国立のトップなんです けど、アフリカの人たちがFPT大学にいっぱい留学し に来ていました。カメルーンのユニフォームをFPT大 学のアフリカ人大学生に見せると、いっぺんに打ち解け ます。

最近はハノイの街でトラベルエージェンシーが目につくようになって、ケニア旅行も出てるんですよ。ああ、 そうか、もうベトナムの経済力も上がって、ケニアへサ ファリ観光に行く時代なんだって思ったら、ケニアエアラインがハノイにダイレクト便を出していた。ケニア人 もこっちへ来ている、そういう国際交流の時代なんだっていうこともわかりました。
僕はカタカナのグローバルという言葉は軽くて好んで は使いませんけれど、地球規模に人々の活動が動いているというのは好ましい状況です。それをもってまたみなさんとのディスカッションの中で、じゃあ、カメルーン ではどうなんだっていうことね。つまり、今までのカッ コ付き伝統とされるものも現代的に変容していくわけ でしょう。それと、変容と持続ということを問うわけで すけど、これだけマイナス要因ではないディアスポラが あります。ポジティブな動機による国際移動を行った後 に、どういう風に自分の認識なり、自分を維持していく のかっていうことをまあ、 問われている、そんなこ とも議論していきたいと 思います。ありがとうございました。

注1.東アフリカはウガンダ、ケニア、 タンザニア、ルワンダ、ブルンジ、エ チオピア、西アフリカはナイジェリア、 シェラレオネ、マリ、トーゴ、セネガ ル、ガンビア、ガーナ、コートジボ ワール、中部アフリカからはカメルー ン、DRコンゴ、南部アフリカからは 南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、 アンゴラ、ナミビア、マラウイ、モザ ンビーク

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

ディスカッション

サコ:現代アフリカをどう見るのかというところで、最 後の和崎先生の話の中では、アフリカからグローバルに、 地球規模にアフリカが拡がっていると。でも、先の二名 の話を聞くと、アフリカ内のグローバル化が指摘されま した。例えば、それが伝統音楽であっても、徐々にやり 方が伝統からグローバル的な視点が取り入れられてる んじゃないかという話をされました。
鈴木さんの話の中で出てきたグリオに関してはですね。 実は最近私がマリに行って間違いを起こしてしまいまし た。グリオには誉められたらお金を出すんだけど、お金 を出す前に、私のことを応援する人たちからお金をもらうんですよ。私が出すお金が足りないかもしれないから。 足らないと恥になるので、いろいろくれるんです。でも その時、私はちょうど到着した日で、弟の結婚式だった んで、みなさんがお祝い金をくれたのかなという風に 思っていて、私は一切グリオに出さずに…。二日間分の ガソリン代を稼げたなと思って、本当に出さなかったんですよ。次の日、町中で「日本から来たやつはお金ない のかよ」と。「この人なんで30年間海外にいるんや」という風に言われました。それで、そのグリオを日本に呼ぶということを無理でも約束しました。ババニ・コネという人なんですけど、3~4年前に京都へコンサートに呼 びました。それでなんとか今、私もマリを歩けます。 – おもしろいのが、ここにテクノロジーが入ってきても、 人間関係やコミュニティは変わらないんじゃないかなと 私は思ったんですよね。そこをどういう風に三人が考え るのか、と。現代アフリカでいくらグローバル化されて も変わらないものはなんでしょうか、と。例えば和崎先生の話で、タイやベトナムへ行っても、実はアフリカン コミュニティは、アフリカにいる時と同じ人間関係や生 活様式、つまりコミュニティのあり方を継承するんです。 変わらないものとは何なのかを、三人から聞きたいと 思っています。では、鈴木さんから。

鈴木 : 変わらないもの? アフリカ人ってあまり変わらないですよね。世界中どこに行っても、基本的に保守的だ と思います。日本に来て、積極的に日本料理とか食べようとしませんし。サコさんも私の妻も和食を食べますが、 他のアフリカ人はあまり食べたがらなかったりする。常 にアフリカ人同士でつるむし、アフリカ人でいることに 対して安住しているような気がします。それでも徐々に 変わっていることはたしかです。それは、和崎先生のお話にあったアジアに対する積極的な展開を見れば明らか で、サコさんのような学長が日本で生まれたなんていう のも、変化の一つですよね。

川瀬 : 現在、葛飾の四ツ木駅界隈を中心にエチオピア人 が百人ぐらい暮らすと言われています。ここには、エン クォファートゥ、通称リトルエチオピアと呼ばれるエチ オピア料理店があります。エチオピアの主食インジェラ をみなさんもご存知かと思います。インジェラはテフと いうイネ科の穀物を主体につくるパンケーキ、クレープ のようなものです。ただし、日本ではインジェラの材料として極めて重要なテフがなかなか手に入りにくい。そのため、米 粉をはじめ、エチオピア現地で使わないような様々な材料をまぜあわせてなんとかつくっている。変 えないように見せつつも変えていく。そういう創意工夫に僕は ちょっと注目しています。変える か、変えないかっていう二者択一 の世界ではなく、ブリコラージュ とでもいいましょうか。

和崎:今、サコさんが言われたことの答えとして思い浮 かべるのは、六本木のアフリカ人です。僕も清水さんと 一緒に調査しましたけれども、六本木にいるアフリカン の人たちの生活につきあったことがあるんですが、そこ で、勉強してて博論を書こうとしてる女性がナイジェリ ア人と結婚したんですよね。それで、結婚してからもなかなか食えないからね。ナイジェリアに進出してる企業 いっぱいあるから、日本の企業のどこか、あるいは関係 企業でもいいし、日本の大きな商社はどうだと言ったら、 まったく関心ないんですよ。つまりね、アントレプレナー シップ(起業家精神)というか、自分で商売していくっていうことには関心があるけど、大企業にはあんまり関 心がない。六本木で会った多くのアフリカン、そういう 野心的な人が多いですよ。根っからの商人であり、文化 をまたぐメディエーターであるっていう感じはしますね。 その才も持ってるし。

そして、基本的にポリグロットでしょ。カメルーンの 週に一回あるマーケット市場で、揚げパンみたいな小麦 でつくったのを揚げてる村から町に出てきたおばちゃん は、英語が喋れる、フランス語が喋れる、バムン語が喋 れる、ハウサ語が喋れる、フルベ語が喋れる。四つか五つ言葉を喋るのは当たり前ですよ。そのおばちゃん、外 に出たことないけど、国際的に生きるっていうのはそう いうことですよ。日本で言ってる、与えられた完成形みたいなのがあってね、それに近づいて、外国語を習得するなんてことはまったく道筋が逆で、生きるためにメディ アとしてどういうものを獲得していくかっていうのが生 きる姿なのであって、変化と持続はかならず両方生まれるということだと思うんです。メディア化した生き方を しているわけであって、本質は僕らにとってもそうある。 日本の教育はそうじゃないけど。特に英語教育だって、 外国語教育は逆だと思うけど。生きることをそのまま追及すれば、持続と変化が同時に起こると僕は思いますね。
サコ:少し話題を変えますが、中国でもタイでもそうなんですけど、最近アフリカのマーケットに行くと、中国 製品が多いんですね。中国製品が多いことが悪いかどうかは別として、非常にアフリカの人たちの消費能力というか、購買能能力は高くなっている。物を買うお金も増 えてきている。でも、自分たちで使うものをつくらない。 それは何なんだろうと思ったんですよね。
最近私はおもしろい傾向を観察しているんですけど、 今、パリにアフリカ人がたくさん住んでいるんですよね。
実は彼らが使っている食材というのは、バングラディシュ 人とか中国人とかが売ってるんです。アフリカ人が売ってないんです。日本では新大久保に行くと、アフリカ人 が持っている店ってないんですよ。新大久保にも。でも、 基本的にはアフリカの食材は買えるんですよ。ネットで 買えるものもあるんですが、アフリカ人が売ってるのだ と、1店舗前後しかなくて、ほとんどがブラジル人とか。 なんで、こんな現象があるのかなという風に思うんです よね。この、結局は自分たちがある意味で姿勢を変えず に、でもいろんなものを持続したいっていうことは、何 から来ているんでしょうか。文化人類学の視点からちょっと語っていただきたい。

鈴木:自分たちの姿勢を変えずに、他の国の人が売って いるものを消費者として買うということですか?
サコ:変えずに、持続性を重んじるんですよ。だから、 日本に来てもアフリカの料理を食べたいんですよ。もっ とね、アフリカから取り寄せたり、買ったり売ったりし たらいいのに。でも、別にそうしないんですよね。

鈴木:自分たちでそれを売るようなネットワークをつくったりしないってこと?
サコ:そう。すればいいのになと思って。これが実はいろんなところで起るんですよ。どこに行っても、アフリ カ人は消費してるけど、売る立場にならないんですよ。何でだろうなと思って。

鈴木 : なぜでしょうかね。たしかに私もそうだなって思 いますが、どうしてやらないんでしょうかね。でも、白 人が来る前からアフリカの中で商業ネットワークは生まれていました。アフリカの中で職人たちがいろいろな物 をつくるということは、今は衰退してきていますが、伝 統社会ではずっと継続されてきました。だから、そうした手工業や商業のシステムをつくりあげて、自分たちが オーガナイズしてやってきたんだけども、どこかでやめちゃったんですかね? もしかしたら、植民地化と奴隷 貿易によってイノベーションのレベルで何かの断絶があっ たのか。アフリカに行って、どうしてあなたたちは働か ないんですか、と聞いてみます。そうすると、我々は我々 なりに働いていると答える。でも日本人の私から見ると、 それは働いているカテゴリーには入らない、といった見 解の相違がでてきます。だから、働くとかオーガナイズするということに関して、ある種の国際標準というか、あるいは日本人の考える世界観における労働のレベルを彼 らは認識していないのかなと思ってしまう。自分たちの 社会をつくる際に、何か向こう側から、すでにできたものが落ちてきて、その中で自分たちの使える部分だけを 使うというようなスタイルをとっているような気がします。

川瀬 : 最近、東京をベースに活動するエチオピアのビジ ネスマンがエチオピアのワイン、リフトヴァレーを売り 込み始めました、都内のレストランやバーに。そこそこ 話題になっているのではないでしょうか。エチオピア産 のワインをご存じでしょうか。今後展開を見ていきたい のですけど、例外的な事例、あるいは突出したイノベー ターのような存在が、全体の流れを変えていくこともあるのではないでしょうか。

和崎 :今、川瀬さんが言ったようなことと似たような感じの感触を僕も持っていて、これは、カメルーン人じゃ なくてナイジェリア人ですけど、越谷にアフリカンレス トラン、ナイジェリアン・レストランがあって、そこは 食材をいっぱい持ってるんですよね。だから、いろんな 国の人が買いに来ます。そこで、フランス系のアフリカでは、通称クスクスと呼ばれる、 それはトウモロコシとかヤムを粉 にしたものです。ヤムをパウンド して、練り団子にするような食方 式ですけど、彼らものすごく好む んですよ。カメルーンの英語圏や フランス語圏へ行ってもその系統 は、ずっとナイジェリア、それか らガーナの方、ずっと西アフリカ、 中部から西アフリカに広がってます。それは、東アフリカのスワヒ リの世界に行っても、その食べ方をするんですね。もち ろん、日本のNPOなりNGOなり、手を貸そうと一緒 にやろうという人たちの協力なんだけど、パウンデット・ ヤムを沖縄産のヤムに置き換えて売ろうという動きがあるんです。今、全部ガーナとナイジェリアから輸入してるんですけれども。ダイジョって、大芋って書くんです けどね、ダイジョていう沖縄琉球国にあるヤムを入れて みると、結構うけるんです。アフリカの越谷にあるレストランで。みんなアフリカの人たちです。ナイジェリア 人も、カメルーン人も、ガーナ人もサウスアフリカンも 来るし、ケニア、ルワンダ、タンザニアからも来ますけれど、そういう人たちが、これは結構いけるじゃないか と。ただちょっと水分が多いんです、日本のは。でも今 3キロ2500円だったかな、まだ商売にならないんです。だけど、そのリーダーが突出した人で、そういうも のを売っていこうという動きが始まりかけてるというところがありますね。実はパウンデットヤムを食べるという食生活、もっとも嗜好の強い食生活の伝統性、維持性、 連続性の中に、日本産、沖縄産みたいなものが混じって くる可能性があって。まだ水分多いんだけど、粉にして パウンデットするのはもういいんですね。だけどその ガーナとナイジェリアから来たヤムですね、ギニアヤム でつくったパウンデットャムを食べると、もう王様、神 様を見るような目つきになって、うっとりと食べるんで す。そのくらいまあ、嗜好の強い食文化、その中にも一 種の可能性、フュージョンの可能性が出てきてるというような現状です。

サコ:一番冒頭にお話ししましたけど、現代アフリカを 見るっていうのは、別に過去とかではなくて、今のアフリカを見るっていうのが前提なんですよね。その時代の アフリカを見ていく中で、私は依存関係をつくったらいけないなと思ったんです。
アフリカの人口は爆発していくし、この人口が自給自 足できないと、アジアも食われると思います。これはもう間違いなく。3年後くらいに、アフリカの農村の人たちが都市に移動して食料生産ができなくなって、これか らも食材をいろんなところに依存するんだったら、多分、 食材だけじゃなくていろんなものを依存していくんじゃ ないかなと。だから、その中で音楽とか伝統とか、いろんなものがどういう風にこれから変化していくかという ことは、この現在の時代で見ていかなきゃいけないなっていうのを私は思ったんですよね。

もう一つは、和崎先生に写真を見せていただきました が、一緒にガーナへ行ったんですね。夜になると、飯食 おうって言った時に、なぜか、これ悪口じゃないんです けど、和崎さんたちは中華行こうって言うんですよ。私 たちはガーナに滞在している間に中華に5~6回行って るんです。アフリカのちゃんと接待ができるレストラン はないのかと。今もやっぱりいいレストランに行こうと 思えば、ヨーロッパ風のレストラン、フレンチに行くか、 イタリアンに行くか、中華に行くかということになって くるんですよね。さらに私も周ってみてびっくりしたの が、今、ベトナム料理とかコリアン料理、タイ料理もで きてるんですね。マリでも日本大使館の人とはタイ料理に行きました。これからの現代アフリカの中で、さっき 食文化の話もあったけど、なぜもうちょっと独自の食文 化なども展開して定着しないのかなと。現在とこれから を見ていくと、アフリカの独自性で発展していくべき文 化は何があるのか、みなさんにひと言ずついただいて、 そのあとフロアからコメントいただきたいと思います。

鈴木: 難しい問題ですね。たしか昨年だったと思います が、ケーブルテレビでフランスのテレビ局のニュース番 組を見ていたんですね。すると、ブルキナファソの村に 紡績機が設置されたというニュースが流れました。綿を 紡ぐのに、今までは、昔のマハトマ・ガンジーの写真を 見たことある人もいるかもしれませんが、一人ひとりが 一本一本手でやってたんです。そこに機械が入ったというんですが、見ると四個の糸巻きのようなものがとりつけられていて、それが一気に綿を紡いでいくという、非 常に「初期的」な感じの機械なんです。そしたら村のおばあちゃんが出てきて、私たちは一本一本紡ぐような大 変な仕事はもうできない、ほら、見てくれ、四つ一緒に できるようになった、ってドヤ顔で言うんです。すごい ことですよね。だって、何百年も前にイギリスで産業革 命が始まったのは、その紡績の機械が発明されて、何十個、何百個といっぺんにできる工場ができたからだという事を、たしか中学で習ったと思うんだけど、2017 年か2018年に、ブルキナファソの村では四つできたっていうことでニュースになってるわけです。それを見て、 アフリカにおける産業化の現実を実感しました。

最近は、グローバル化のなかで最先端のアフリカの産 業や文化が生まれているというような報道や研究が目立ってきています。それは確かに大切なことで注目しなければなりませんが、ブルキナファソのニュースを見て私が 思ったのは、こうした最先端のトピックは「お祭り」なんだということです。つまり、アフリカが4世紀にはいって発展しているという祝祭的側面がある一方で、村人の 日常生活とか、あるいは、アビジャンのゲットーの若者 たちの生活は全然変わらないわけです。たしかに、スマ ホだけ持つようにはなりましたが。そうした格差が存在 する中で「上」の方の話だけする。たとえば、中国の資 本が入って、エチオピアでモノレールが…という風に。 こうした差がなくならない限り、アフリカ社会の安定は ありえない。サコさんがさっき「世界がアフリカに食われる」って言いましたけど、問題は食糧だけではありま せん。彼らの人口は増えるけど、ブルキナファソの村で は紡績機はまだ「四つ」なんだから、生きるためには外国に行くしかないじゃないですか。だからこれは食べ物 だけではなく、移民の話につながります。神崎先生が結 介してくれた移民は自分で何とかしていく商人根性を 持った移民ですが、人口爆発が起きる中で、商人の才覚 のない人々も地中海をわたってヨーロッパに行くという ことがどんどん増えていく。私は個人的にアフリカ人が 好きだから、これから日本にいっぱい来てくれてもいい んだけど、そういう状況がどんどんひろがっていくよう な気がするんですね。

川瀬:現代アフリカを見るということ。僕はエチオピア を対象にした映像作品をつくってきましたが、作品を公開するといろんな意見をいわれます。作品が巻き起こす 議論の中には、もちろん厳しい意見や感情的な反応もあります。例えば僕の場合、調査地のエチオピア北部の人 たちに拙作を見せる分には、それほど問題はありません。しかしエチオピア文化保護行政に関わる役人たちや、エ チオピア外に拠点を置くディアスポラの中には、エチオ ピア文化の表象のありかたに対して極めて強い理想を持つ人が多い。僕がこれまで撮ってきた、路上に生活の基 盤を置く子供たちであるとか、路上で音楽行為をする職 能者は、そういった人たちから見れば、現代アフリカどころか、後進的な世界であり、それを作品にするという のは、けしからん、となる。役人たちはユネスコ世界遺 産の遺跡であるとか、オーソライズされたものをできれば見せたい。それで拙作の撮影対象に対して眉をひそめ 僕と激しい議論になることもある。でも、この表象をめぐる議論もおもしろいんですよね。僕が正しいわけでも なければ彼らが正しいわけでもないし、僕が間違っているわけでもなければ、向こうが間違っているわけでもない。黒と白をはっきりさせることが大事なんじゃない。 映像を上映することによって喚起される視聴者のいろんな想い、感情の深淵を探求することも、僕はある種の フィール ドワークだと思います。作品を介したコミュニ ケーションの中で、お互いの立場・視点を比較していく。 そういうエンドレスのコミュニケーションしかないんじゃ ないかと思ってます。そういう意味では、僕はなんらか の作品をつくることをゴールに設定しません。公開を通 して、新たなコミュニケーションを創発させるデバイス として映画を位置付けています。 和崎 : サコさんの問いが非常に難しかったから、どういう風に答えたらいいのか。

具体的にね、経済活動や生産活動でなくても、カカオ にしてもコーヒーなどの農業もそうだし、農業生産物に対するそのいろんなヨーロッパや日本からの引き合いは あるから、それはできている。それは減退しているので はなくて、できているからそれを輸入しているんで、最 近コーヒーでも裏を見たらカメルーン産のものがありま す。僕のいるバムンはカメルーンの中でもコーヒーの産地 なんですよ。バムンとかバミレケっていうのは。だから 例えば、スイスのコーヒーのメーカーであるネスレの商品 の裏を見たら、原産国カメルーンと入っていることがあります。というように、工業生産性という風にはまだ直 接に結びついてないけど、例えばナイジェリアだったら ノックダウンでたくさんつくっていましたよ。自動車とかオートバイとか、日本と提携の工場もたくさんあるし。 カメルーンからわざわざ国境を越えてナイジェリアに買いに行くんですよね。そこでつくっているから。マークは 日本のマークですけどね。そういう風に徐々に、経済とか工業とかいう面でも徐々には上がっている。徐々には。
もう一つ、サコさんがさっき僕に言ってくれましたが、 文化的な創発性っていうのも生きるんじゃないかって思っています。どこに行ってもアフリカ人は固まるじゃない かと。それは、海外の日本人会だって、在日チャイニー ズだって、在外国コリアンだって、さっき話したナイジェ リアのも、カメルーンのバミレケも。どの民族も集まって相互扶助しようとするアソシエーションがありますよね。だから同じ村でできた相互扶助と、病気を治す、死 に至った残念な困難状況と、相互に助け合うかとか。バ ミレケでトンチンという伝統的な貯蓄方法があるんだけど、それは日本に来ても生きてるし、国際的にもそのア ソシエーションは国を越えて広がってるというか輪を持ってる。その村の知恵のデバイスが、それぞれのコンテク ストに適応しながら、広がったり縮まったりして生きてると考えれば、一種の文化的な創発です。しかし、それ によって経済的な生きぬき、食っていくということが可 能になるのだから、それもまた大事なことかなという風 に思います。

サコ:ご存知のように大体アフリカの要人が日本に来て、 帰っていく時に、援助を求めるんですよね。村を発展さ せようとか、村の文化を維持しようとかは一切出ないんですよ。どっちかというと、もっとデジタルなものを入れようとか。この間マリの大臣が来て、デジタルライブ ラリーをつくるので、日本にお金出せ、とかね。でも、 じゃあグリオの歌をアーカイブ化しようという話もない し、もっと大事にしていこうという話もない。だから現 代アフリカっていうのは、衰退なのか進化なのか、言い換えたら、西洋の真似事になるのか。もしかしたらアフ リカが先進国のセカンドハンドになるのか。みなさんの いらないものがどんどんアフリカに入っていて、それが 現代アフリカを成しているのではないかと。ご存知のようにタンザニアに行くと、10%近くの車が日本製なんで すよね。日本からの中古で、しかも幼稚園の名前が書いてある車も走っているわけですね。

でも、現代アフリカっていうのは独自性やもっといい ものがあるはずなんです。今、鈴木さんも言っていたよ うに、昔はこういうことがあった、ああいうことがあっ たと。でも、そこに向かっていくというより、西洋の真 似をすれば、自分たちの生き残る道が見えるというのが、 結構多くのアフリカの政治家の考えていることかなと思うんですよ。だからアフリカは、ちょっと早く気づいて もらわないと、アフリカに(第2の)日本をつくる、ま たは(第2の)フランスをつくるということになってしまうんじゃないかと、私はちょっと心配しています。
最後にひと言ずついただきたいのですが、その前に澤 田先生からコメントをいただけませんか?

澤田(京都精華大学): 先ほどサコ学長のおっしゃっていた話なんですけど、僕は、最近はそんなにアフリカに行ったり来たりしていないので、感覚的にちょっと遅れてるか もしれないのでお尋ねしたいんですが、身の回りのいろいろ頑張ってる人とか頑張りそうなアフリカの人たちを 見てると、資本の蓄積が難しいのではないかと思います。 現代は送金が容易になっているので、資本を蓄積する度 に世界中からむしり取られて、なにも残らないということはですね、学長も私もひょっとすると鈴木先生もそう いう目にあってるんじゃないかんと思うんですけど。
つまり資本を蓄積して大きくしていこうということが できない。逆に言うと助け合いをしているうちに、お互い貧しい平等に戻ってしまうというところがあるかと思 います。繰り返しになりますけど、デジタルによる送金 が容易になったので、なおさらですね。外国に行って働 いていても、結局は自分でその行った土地で何か事業を 起こすよりは、お金はみんな大陸のほうに送金されていくということになっているんじゃないでしょうか?そういうようなことを思いました。

鈴木 : まさにその通りでね。私は日本人で、私立大学の 先生で、給料もらってボーナスももらっています。でる 調査と妻の里帰りを兼ねて毎年アフリカに帰るんですが、 すると飛行機代、お土産代、現地での生活費、親族・友人への資金援助などの出費が重なり、一年たつと収支が ゼロになってしまう。つまり、貯金がないんです。だか ら、私、退職金が出ないと老後は大変困るんです。こん な風に、私も同じ状況に陥る訳ですね。ですから、資本 の蓄積がなくて、次の事業が展開できないというアフリ カ人の気持ちがすごくよくわかります。

サコ・澤田先生が言ってるのもごもっともで、私も当然 毎月家族に仕送りするんですけど、この間、学長になってからも何で仕送りが同じ額なのか、って来たんですよ。 しかもお母さんから。なぜかというと、最近の仕送りは 自分たちの家族だけじゃなくて、親戚のおじさんもプラ スにしたので、額を増やせと。学長になったんだからと。 意味がわからないですよね。私はサラリーマンなので、 お金がないと言ったら、じゃあそれだったら学長やめて マリに帰ってこいと。もし帰ってきたら、もっとお金も らえるかもしれないからって。 「何言ってるのかよくわかんないですけど、こういう共 同体の維持っていうのが変わらない。相互依存というの は大事なことかもしれないけれど、でもこれが少しでも 「進歩するというのはどういう意味なのか。東京のマッ 「人と話した時にその人が、マリで個人が給与だけで成功するためには、悪い人になるしかないと言ったんですよ ね。いい人でいると、とことん依存されるので。最近で いうと、電話が Whatsapp というSNSでかかってくる。 おじさんが今病院に行って、薬の処方箋をもらったので、 お前明日中にお金送ってこいと。でも、そのおじさんって3~4年も会ってないような人なんですよね。
私は、コミュニティは大事だと思うんですけど、こう いう依存体質は変わらないといけない。その意味で、現 代アジアとアフリカのコミュニティとが、どういう差が あって、アジアのほうがちゃんと資本を蓄積できて発展 してきたのか、アフリカではできなかったのか、という 点に関心があります。
それでは、先生方からひと言ずついただいて終わらせたいと思います。和崎先生から行きましょう。

和崎 : サコさんがずっと言われてる産業化、工業化って いうことでは、例えばザンビアの宝石、ダイヤモンド業っていうのは、ご存知のようにオランダの1家族ぐらいネットワークが牛耳ってたんですよ。それでザンビアとかジ ンバブエとか南アフリカは、ダイヤモンドを買って、それを国内で新たに山を開く時に使って、民衆と政府は頑 張ったわけ。簡単に言えば、株を国内化することに成功したわけですよ。だから今、その研磨産業が、ザンビア の中で起こっていて、かなりの金額。ザンビアはそのお金によって、今は、小中高まで教育無償ですよ。 ・ だから、そういう形で結ばれる文化のデバイスによって、もしくは社会的な戦略によって、結んでいった暁に ね、産業発展していくんじゃないでしょうか。だから、 みんな騙して真似して、それをいろんな産業的な技術に 根を張って、そしてそこから芽生えていくわけでしょう。 全部が全部じゃないけれど、そういう面も出てると。

それから、お金をむしり取られてますと、澤田さんも、 サコさんも鈴木さんも言うけど、逆に言うとね、バミレ ケのやってるトンチンていう共同貯金、そこで積み立て たものは、誰かが病気になった、誰かに不幸があった時 に、そこからまとまったお金がいくわけですよ。それに 十人、百人とくっついていくということは、一人の幸せ なりというものをみんなで共有するということです。と いうことは、リスクを全員が持つんだよという形になる ということです。ということはね、幸福の方式が一人の 富士山をつくるんじゃなくて、その範囲が広がっていく。 だから、むしられる幅が拡がっていくわけですよ。という形で集団のボトムがちょっとずつ上がるのか、その中の代表が金持ちになるのか、ということで言えば、ちょっとずつ上がってるのは現代アフリカの現代だと思うんで すよね。ザンビアのように。
という風に考えていけば、文化的知恵、生きる力って いうのは、やっぱり役に立つで、と言いたいし、アフリカの人たちはそうやって生きていけると言いたい。(座 談会が始まる前に)入試の話を鈴木さんがおっしゃって たんですけど、ポリグロット、マルチ、多様性を持って ますよ、アフリカの一人ひとりの個人が。だって、宗教 で言えば多宗教、多民族、多言語、多国籍にさらされて 彼らは生きてるもの。一人の人がダイバーシティをいっぱい持ってますよ。だから、多言語でポリグロットです よ。それは、財産ですよ。文化的財産は必ずどっかね、 経済的な幸福に、一人の栄達かその幅がひろがってく形 で結びついていくんではないのかなと期待してます。

川瀬 : エチオピアにひきつけてちょっとお話すると、みなさんもご存知の通り、この1、2年でエチオピアの政 治、経済、社会の状況はものすごいスピードで変化して います。先日アビィ・アハメド首相がノーベル平和賞を もらった話はニュースになりました。アビィが首相に就 任して間もなく、敵対してきたエリトリアのエサイアス 政権との対話の機会が頻繁に設けられ、様々な問題がものすごいスピードで解決されました。弾丸外交と言って いいのかな。そのスピードの早さは驚くべきなのですが。 「それはさておき、撮影を長時間行っていると、うまく いえないのですが、カメラを通して、私と撮影対象の相 互の存在が貫入しあっていくような、不思議な感覚にと らわれることがあります。他者としてのアフリカをまなざすということは、同時に、私とは何かということを省 察的にとらえ考えることでもあります。アビィの外交姿 勢ではありませんが、対象との切磋琢磨した対話の中に、 日本の、あるいはアフリカの、互いの魅力とは何かを考 え、引き出しあうような可能性があるんじゃないかと 思ってます。究極の正しい答えを出すことを急ぐのでは なくて、むしろ、互いに議論する場を設け、その機会を 増やすことが重要なのではないでしょうか。

鈴木:和崎先生が経済の話をして、川瀬さんが政治の話 をしたんで、私は精神世界の話をしようかと思います。 アフリカに行ってね、アフリカの人と付き合っていて一 番おもしろいのは、神を信じて、精霊を信じて、呪いを 信じてることなんです。だから、彼らと一緒に過ごす時 間は、日本人と過ごす時間とは質的に異なっている。感 発的にすごく違う。例えば、昔、グリオがですね、本巻を叩くと精霊がやってきて、隣に座って、木琴を聴いて いたと。えらいグリオじゃないとその姿が見えないとか、 そういう言葉がいっぱいありました。それがだんだん町 に明かりがついてくると、精霊がいなくなってくるんで すね。そうすると、デジタル化していったら、本当に精 霊もいなくなるんじゃないかと思いますよね。でも、私 はホラー映画が好きなんだけど『リング』だと呪いがビ デオテープで伝染するんですね。あと、『着信アリ』っていうホラー映画が一時流行ったんですけど、これは携 帯電話を通して、呪いが伝染ってくんです。だから、デ ジタル化しても大丈夫かなっていう…アフリカでデジタ ル化が進んでいったとしても、例えば、貞子のような キャラクターが生まれるようなことがあれば、デジタル 化されてもアフリカ人の精神世界は、安泰なんだろうな と思ってます。ちょっと今日はアフリカ版貞子に希望を 託して、デジタル化した後もその先にまだアフリカ人の 精神性は損なわれずにいけるような道もきっとあるんだろうなということで、観察していきたいなと思います。

サコ:ありがとうございました。和崎先生が言ってたような話で、トンチン、実は私も入ってるんですよ。いわ ゆる知らないもの同士のつながりと、一個のファミリーのつながりと実は立場が違うんですよ。トンチンに入ってでも、例えば京都に、あるいは日本に住んでいるマリ人同士、アフリカ人同士で支え合ってるんですよ。でも、 一族の話とはまた別なんですよね。これ、ダブルなんで すよ。そういう意味でこれからはもっとアフリカの多様 性というのは個人の中にもあるけど、アフリカ人同士が 混ざることによって、もっと力強くなっていく面がある かなと。この潜在力をどのように認識し、これからのア フリカをつくっていくべきかを考えていかないといけ ないと思います。今日はありがとうございました。
※本内容は、2019年1月29位に京都精華大学にて行われたシンポジウムを、編集したものです

川瀬恋(かわせいつし)
国立民族学博物館准教授。エチ オピアの楽師、吟遊詩人の人類 学研究、民族誌映画制作に取り 組む。主な著作に『ストリート の精霊たち」(世界思想社、2018 年、第6回鉄犬へテロトピア文 学賞)、『あぷりこーフィクショ ンの重奏/遍在するアフリカ」 (編著、新曜社、2019年)等。
鈴木 裕之(すずきひろゆき)
国士舘大学教授。文化人類学。 西アフリカの音楽・文学を研究。 妻はギニア出身の歌手ニャマ・ カンテ。主な著書に『ストリー トの歌:現代アフリカの若者文 化(世界思想社、2000年)、 恋する文化人類学者:結婚を 通して異文化を理解する(世 界思想社、2015年)など。

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

アフリカ 希望の大陸―11億人のエネルギーと創造性

アフリカだけでなく、グローバル経済についてもわかる

この書籍が提供してくれる情報は経済と成長で、タイトルが示すようにアフリカ大陸にある希望です。アフリカの現在を生き生き描写しています。自分自身の見方を少しでも上書きするために、素直に受け入れながら読んでみてください。

ダヨ・オロパデ (著), 松本裕 (翻訳)
出版社: 英治出版 (2016/8/24)、出典:出版社HP

目次

1方向感覚
なぜアフリカの新しい地図が必要なのか
「誰かに聞けばわかる」
秘密の庭園
世界は太っている
アフリカはひとつの国である

2 カンジュ
天才と犯罪者の間を歩く、アフリカ流生存戦略
ナイジェリアのメール詐欺に隠された真実
リサイクルとレジリエンス
灰色の経済
不正を暴く

3 しくじり国家
アフリカの政府はなぜうまくいかないのか
分離する国家
国家に巣食うハゲタカたち
悪い境界線は悪い隣人を生む

4ほしくないもの
アフリカにとってのありがた迷惑
Tシャツは自分で取っておいて!
部外者が立てた計画
行動する村

5家族の地図
アフリカ人は元祖ソーシャルネットワークに生きる
一緒にボウリング
口コミネットワーク
助け合う医療
頭脳流入

6 テクノロジーの地図
アフリカのデジタル革命に学ぶこと
急上昇する携帯電話普及率
電子マネー
クラスター経済
「とにかくアプリを立ち上げろ」
誰かの肉は誰かの毒

7商業の地図
商取引から見えるアフリカの明るい未来
取引をしよう
私立学校
売れよ、さらば来たらん
カンジュ的資本主義

8自然の地図
アフリカの食糧と資源が世界を変える
電力問題
食べるのは私たちの番
特区都市
電力を育てる。

9若者の地図
走り出すアフリカの新世代
「待ち期」
次世代の起業家を育てる
適切な進路を
放課後改革

10 二つの公的機関
結局、誰に責任がある?
脱出、声、忠誠心
最強の国家
市場試験
中心が中心でいられなくなる
謝辞
原注

架空の地図を本物だと信じて使う者 [1] は、地図をまったく持たない者よりも道に迷う可能性が高い。
経済学者エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハ
エクス・アフリカ・センペル・アリクイド・ノヴィ (アフリカでは日々新しきものが見出される)
古代ローマの博物学者 プリニウス

ダヨ・オロパデ (著), 松本裕 (翻訳)
出版社: 英治出版 (2016/8/24)、出典:出版社HP

第1章 方向感覚
なぜアフリカの新しい地図が必要なのか

「誰かに聞けばわかる」

ナイル川が発見されるまでには、二〇〇〇年もの歳月が必要だった。もっとも、それを発見と考えるのはおかしな話 だ。ウガンダ東部からエジプトの広大なデルタ地帯まで伸びるその穏やかな流れは、人類が存在する前からずっとそこに あったのだから。にもかかわらず、アフリカに最初に足を踏み入れた海外特派員たち(つまりヨーロッパから来た白人) は、この川の水源から河口までの地図を描こうという、驚くべき競争に夢中になった。アフリカの水路をたどって密林へ と分け入る彼らの旅の物語は、一八五〇年代のロンドンやブリュッセル、ニューヨークの新聞社へと送られた。エチオピ アで未知の部族に遭遇したことやアフリカ中部の奥地の湖へ無事たどり着いたことを報告しながら、彼らはアフリカについて仰々しい文章を書くという伝統の基礎を築いていったのだ。「暗黒大陸」という言葉を生み出したのは、コンゴの旅 について一八七八年に記したヘンリー・モートン・スタンリーだ。

アフリカが「暗黒」だという誤解は、西暦紀元前にすでに始まっていた。ヘロドトスが西暦紀元前五世紀に描いたアフ リカの地図は、この文明のゆりかごをほんの付け足しのようにしか描写していない(のちのメルカトル図法でも、アフリカ を文字通り過小評価して小さく描いている)。ヘロドトスはこう書いた。「人類がアフリカとアジアとヨーロッパを現在の ように分けたこと自体に唖然としている [1]。その分け方が非常に不公平だからである。ヨーロッパは他の二大陸の長さ全体を上回るほどで、その奥行きにいたっては(私の見解では)比較にすらならないほど深い」

その後一〇〇〇年にわたって、北へ向かって流れる川の謎はヨーロッパの地図製作者たちを悩ませ続けた。ディオゲネ スというギリシャの商人が、ナイルの水源は「ヌビア」の奥地、いわゆる「月の山脈」の合間にあるという噂を広めたり もしている。アフリカ大陸の西岸で交易が盛んになると、すでに知られていた部族や目印となる建造物などは、一八世紀 ヨーロッパの商業学校で教えられる精巧な筆致で地図に描きこまれた。だが、世界最長の川が伝説の「月の山脈」ではなくビクトリア湖から始まっていることをジョン・ハニング・スピークという探検家が「発見」するのは、それからしばらく経った一八五八年のことだった。

白ナイルの水源が発見されたという知らせがヨーロッパ中をさざなみのように伝わっていく中、エチオピア駐在のイギ リス領事R・E・チーズマン少佐がこのように述べている。「これほど有名な川が……これほど長い間無視されてきたと いう事実は、信じがたい」。ヘロドトスと同様、チーズマンもヨーロッパ人の文化的偏見を露呈してしまった。なにし ろ、ナイルはサハラの北と南を結んで言語や気候の橋渡しをし、モーゼの時代から何百万もの人々を養い、運んできたの だ。スピークがナイルを探検したころ[2]、ナイルの水源近くで生活し、交易をおこなっていた人の数は三〇〇万近か った。探検家たちも血眼になって探すより先に、地元の住民に水源がどこにあるか聞けばよかったのかもしれない。きっ と教えてくれただろう。「ここだよ」と。

このナイルの源流を探す旅は、非効率だっただけではない。現代アフリカの歴史を動かしてきた力学を象徴している。 何世紀にもわたる接触(主に奴隷貿易による)にもかかわらず、ヨーロッパ人は、その無知と尊大さで、アフリカを底知れ ぬ未知の大陸―小説家ジョゼフ・コンラッドが呼ぶところの「闇の奥」 と捉えてきたのだ。
ポルトガルとフランス、イギリス、ドイツを中心としたヨーロッパ勢力が自分たちの解釈で描いた地図を使い、勝手に 国境線を引いてアフリカを切り分けようと決めたのも、この尊大さの産物であったわけだ。一八八四年のベルリン会議 で、彼らは大陸にそれまで一切存在しなかった国境線を引き、タバコからピーナッツから黄金(その後まもなくして石油 も)まで、さまざまな天然資源を奪い合った。以来この国境線は、外国からの認識とアフリカの現実との間に横たわる埋めがたい構であり続けている。
その後一世紀以上経って、グーグルが誕生する。二〇〇七年以降、このアメリカの巨大IT企業はガーナやケニア、ナ イジェリア、セネガル、南アフリカ、ウガンダに支店を開設し、世界一使われているこのアメリカ製アプリにアフリカの 情報を取りこみ始めた。中でも、地図は最優先事項だった。グーグルのデジタル地図製作チームが大陸中に散り、アフリ カの街や通りをワールド・ワイド・ウェブという織物の中に織りこんでいった。アメリカ人たちは金に糸目をつけず、カ メラを搭載した真っ赤なプリウスで南アフリカ中の都市を駆けめぐり、グーグルのストリートビュー用の画像を撮影しまくって、どうにか二〇一〇年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会に間に合わせた。
ナイルの水源を探したかつての地理学者たちと同様、現代のグーグルマップ作成者たちも方向感覚に関しては欧米の考え方を持ちこんだ。だがアフリカで道を聞いたことのある人ならわかるだろうが、この大陸では欧米とは異なる種類の方 向感覚が使われている。先進国では、かわいらしい女性の合成音声がわかりやすい指示で指定の番地まで案内してくれる かもしれない。だがアフリカでは、こんな感じになる。

タスキスの交差点のほうから来てるんだったら、ずっとランガタ通りのまま、ランガタ通りの「カーニヴォア」に 入る道を通り過ぎるまで走っていくんだ。そのあと、最初に出てくる右に曲がる道でランガタ通りを離れる。ランガ タ通りを〇・五秒くらい行ったら、「ラフィキズ」の隣にあるガソリンスタンドのすぐ手前で左に曲がる。その道を 三〇秒行って、右手に「サイズ・ランガタ」が見えたら、その左に入るんだ。
混乱しただろうか? これは私が本書の執筆中に暮らしていたケニアの首都ナイロビで実際に聞いた、典型的な道案内 だ。もちろん、ナイロビをはじめとしてアフリカの多くの都市では通りや地区には正式な名前があるし、建物にも番地が ついている。だがナイロビのようにもっとも国際的な都市であっても、住所はたいてい無視される。

地元の住民は道案内の強力な手段として会社や看板、バス停、美容院を活用している。時間や相対的な距離、自分を中 心に見た方向(右や左)、共通の知識に依存した方法をとるのだ。北スーダンの首都ハルツームでは、特に目立つ目印の ひとつが、かつて中国料理店の入っていたビルだった。そのビルが修繕中だった半年間、私は当時住んでいた家への道案 内を、道に開いた特に大きな穴ぼこを基準に伝えていた。だが最終的には「誰かに聞いて」と言うこともしょっちゅうだ った。
人類学者なら、ナイロビの通りを「ハイコンテクスト(訳注 : 実際に言葉として表現した内容よりも、言葉で表現していな いのに相手に理解される内容のほうが多い表現方法)」と呼ぶだろう。そのような道案内は、中央集権型のシステムが存在 しなかった時代の遺物だ(そして今もそのシステムが存在しない場合が多い)。そして、ここでもっと重要なのは、A地点 からB地点への道案内がハイコンテクストだったからと言って、B地点が存在しないというわけではない。ただ、普通と は別の地図が必要だというだけだ。

同じことが、現代のアフリカにも言える。道案内を標準化しようと苦労しているアメリカの大手IT企業でも、ビジネ スチャンスを探しているブラジル人起業家でも、冒険を探し求めるフランス人観光客でも、人々の暮らしをよくしようと している非営利組織でも、好奇心旺盛な世界の傍観者でも、サハラ砂漠の南側で営まれる暮らしを正しく記した地図はたぶん持っていないだろう。
実際、世界がほとんどアフリカのことを考えていないという事実が、私には不思議でならない。これは、時間と評価の 両方の意味でだ。ナイジェリア系アメリカ人二世である私自身には、アフリカに注意を向けるべき個人的理由がある。だ が、そういった事情がなくてもアフリカについて考えたときにその内容から学べることは非常に多いのだ。二〇一〇年 に、HIV感染対策から世界中の教育の質の改善まで、国際社会共通の八つの壮大な目標を掲げたミレニアム開発目標 (MDGs) 採択一〇周年を祝ったとき、国際連合はその記念として、ポスターのデザインコンペを企画した。優勝した デザインは、権力(主要八カ国の首脳たちの上半身)と貧困(難民キャンプで列に並ぶ若いアフリカ人たちの下半身)を合体さ せたものだった。このポスターはグラフィックデザインとしては気が利いているかもしれないが、そこにつけられたコピーには心が痛む。「世界中の指導者たちへ―私たちはまだ待っています」。貧しく、受け身なアフリカ人は欧米の行動 に恩恵を受ける形でしか存在しない、という近代史で一番の大嘘を、国連の審査員たちは受け入れたことになる。
「開発」関係の本を読んだことがあるなら、そのような印象を受けたことはあるだろう。世間一般で対アフリカ援助の論理が議論されるようになってもなお、議論は「欧米」がどうすればもっと成果を上げられるかという点に集中している。 開発業界でおなじみの論者たちは、G8の首脳から世界銀行の一般職員、果ては中央アフリカ共和国のような内陸国の首 脳にいたるまで、いわゆる万人向けの対処法を提示するだけだ。経済成長を妨げる固定観念や問題について多くの人々が 何十年もかけて検証しているが、ごく普通のアフリカ人たちが自ら前に進むためにすでにやっていることについては、めったに耳にしない。
本書は、その状況を変えるための本だ。一ジャーナリストとして、私は哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの 助言、「考えるな、見ろ!」に従っている。アフリカ大陸に必要なのは、想像だけでお決まりの対応をすることではなく、目と耳を向けることだ。店主や日雇い労働者、経営者、教育者など、アフリカに暮らす現実の人々の声を聞き、彼ら の物語を伝えることに専心すれば、一度は隠れてしまった彼らの力強さに再び光が当たるのだ。
その物語はたとえば、歩いて仕事に行くという単純なものであったりする。あるとき、私は母と一緒にケニアからウガ ンダ行きの早朝便に乗ることになった。太陽が昇るよりも早く目をさまし、空港へ車で向かう途中、列をなして歩く人影 が道の両側に見えてきた。「みんなどこへ行くのかしら?」と母が不思議がる。都心へ向かって流れていく人影は、行進 する子ども兵でもなければ蚊帳の配給を求める母親の列でもない。何千人というごく普通の人々が、仕事に向かっている のだった。アフリカでは何億もの人々が毎日夜明け前に目をさまし、家族を養うためにこうして歩いて通勤しているのだ。

秘密の庭園

本書を執筆していた間ほぼ毎日、私は自分が住むケニアの首都ナイロビの共同住宅の窓から、隣にある空き地で土を耕す女性、グラディス・ムウェンデの姿を目にしていた。厳密には、彼女にそのようなことをする権利はない。マチャコスという小さな町からナイロビに移り住んできたグラディスと夫のベンソン・ムサメ、そして六人の子どもたちは、私の家 の窓から見える植民地時代から残る空き家に住みついた。石とタイルづくりで、上は一三歳から下は一〇カ月までの六人 の子ども全員に行き渡るだけの部屋数がある二階建てのきれいな家だ。その家の全盛期がはるか昔に過ぎ去ったことを教 えてくれるのは、穴の開いた窓と朽ちかけた木の装飾だけだった。

ケニア最大の都市のにぎやかな交差点に建つこの家で、この家族がアフリカの田舎暮らし焚き火で料理をし、水を 運び、ニワトリを育てる生活を再現しているのは奇妙な光景だった。だが、問題は空き地のほうだ。勝手に土地の管 理人を自任した一家は、大都会の畑をまるで、世界のコーヒーと紅茶と花を育てるアフリカ大地溝帯の大農園のように扱 っていた。
春になると、一家はヤシとミモザの木が影を作るところは慎重に避けながら、トウモロコシを畑に植えた。夫のベンソンが警備員として働く間、歩ける子どもたちはグラディスを手伝ってトウモロコシやマメの種をまき、草をむしり、なん とサトウキビまで育てていた。雨期の間、私は取材メモをタイプし、国の開発政策について調べるかたわら、若芽が育つ のを眺めた。夏の盛りには、トウモロコシは人の背丈を超える高さまで成長していた。一家は最初に収穫したトウモロコ シの一部を焼いて、夕暮れどきに家路を急ぐ労働者に売った。私が夕食を作る時間帯には、売店代わりのバス停のあたり から、排気ガスにまじって焚き火の煙のにおいがしてきたものだ。だが基本的には自分たちが食べるために植え、生きる ために食べるのさ、とグラディスは言った。

ミシェル・オバマ米大統領夫人も誇らしく思うことだろう。私は、一家のずぶとさに感服した。彼らは正式にはなんの 権利もなく、支援も受けず、農業技術も持たないが、アフリカ中の何百万という自給自足農家と同じように、一エーカー (約四000平米)の土地から価値を引き出す方法を見つけたのだ。彼らの静かな努力こそ、国連のポスターに直接反論 する行動であり、アフリカの発展の道筋を大きく、楽しみな方向へと変えていく大胆な日和見主義のいい例だ。
彼らの行動は、我々がアフリカに対する判断をいかに誤りがちかを思い知らせてもくれる。満員のバスから転がり出た り、バイクタクシーを呼び止めたりする何千人もの通勤客たちは、この秘密の庭園に気づいていない。近所の住民にすれ ば、廃屋は目障りなだけだ。政府の政策立案者にしてみれば、一家は不法侵入者だ。私は窓から俯瞰で毎日目にしていた からこそ、その土地は実質的に一家の資産であると捉えることができたのだろう。
このような目につきにくい成功について人々に伝えることが、首脳たちが口にするような、アフリカの発展をかえって 妨げてしまう重苦しい話に対抗する、私なりの最善の手段だ。そのために私は、ほかの多くの先達ナイジェリア人と同 様、物書きという道を選んだ。物語は、欧米の新聞でほんの小さなコラムを埋めたり、ケーブルテレビのニュース番組で 画面の下を横切るテロップで伝えられたりする、悲観的なニュースに対抗する力になってくれる。本書に記した物語の 数々は、私が「形式的バイアス」と名づけたもの――廃屋は廃屋でしかなく、A地点からB地点にたどり着く方法は地図 に描かれた正式な道路を通る以外にないという思いこみーに対抗するものだ。
国連などの国際機関、経済学者、人道活動家、私のようなジャーナリストなどは往々にして、歩いて通勤する人々や都 会の空き地で育つ野菜、目印になる穴ぼこや雑貨店から目を背けがちだ。では何に目を向けているのかというと、アフリ カの公式な組織と公式な解決策にばかり注目している。いくつ学校を作ったか? 去年何人の母親が死んだか? 選挙は 公明正大におこなわれたか?

つまるところ、私たちはからっぽの会場でパーティーを開いていただけだったのだ。世界がアフリカに対して長年抱いてきた印象には、大きな問題がいくつもある。そのうち最大の問題のひとつが、もっとも活発で本質的かつ経済的に重要 な交流が、個人やばらばらの集団の間でおこなわれているにもかかわらず、世界は政府間または公式な組織間の交流のほうばかり重視してきたということだ。グラディスとベンソン夫婦のような非公式なやり方のほうが実は日々の暮らしを構 成しているのだということに、私は気づいた。「開発」に関しても、こうした非公式なやり方のほうがもっと早く、もっ と多くの、あるいはもっといい成果を上げられる場合もあるのだ。
例として、騒乱にまで発展した二〇〇七年のケニアの大統領選挙後に立ち上げられた非営利のソフト開発組織、「ウシ ャヒディ」を見てみよう。民族という境界線で引き裂かれた現職のムワイ・キバキと対立候補のライラ・オディンガのそれぞれの支持者たちが、何週間にもわたって地方都市や主要都市でもみあった。約一二〇〇人の死者が出て、暴動によって家を失った人は三五万人を超えた。その間ずっと、テレビ局とラジオ局はその責務を果たしていなかった。通りで血が 流れている間、退屈なバックグラウンドミュージックをひたすら流し続けていたのだ。身のすくむようなこの期間、アフリカでもっとも安定している民主主義国家のひとつが、混沌の淵を転げ落ちるかに見えた。

最初はブログで、次はメールで各地の情報が集まり始め、それからケニアの技術屋たちのチームが実際に集結し、市民 が携帯電話を使って暴力行為を報告できるマッピングソフトを開発し始めた。スワヒリ語で「目撃者」を意味するこのソ フト、「ウシャヒディ」を使って何千という地点から情報が共有され、リアルタイムで地域に特化した情報を取り込んだ 地図が作り上げられたことで、秩序を回復して救援の手を差し伸べようという努力が加速していったのだ。
以来、ウシャヒディはさまざまな形を取って世界中に広がっていった。パレスチナのガザ地区での混乱を監視し、スー ダンや南米での選挙を監視し、二〇〇九年には豚インフルエンザの蔓延を追跡し、アメリカではメキシコ湾原油流出事故 で流れ出た石油を監視し、二〇一〇年にハイチを襲ったマグニチュード七・。の地震では生存者の支援に役立った。ビ ル・クリントンとヒラリー・クリントン夫妻もこのウシャヒディの活動を称賛している。ケニアが二〇一三年に新大統領 を選んだときは、ウシャヒディから派生した「ウチャグジ(「選挙」の意味)」が政府の対応と市民の行動に目を光らせた。

ナイジェリアで二〇一一年四月に選挙がおこなわれたときにも、ウシャヒディは活躍した。その一カ月間、私はナイジ リア最大の都市ラゴスで過ごしていた―不安いっぱいで。ケニアの二〇〇七年の選挙と同様、ナイジェリアの前回の 選挙も詐欺と不正行為、票の数え間違い、開票の遅れなどで台無しになっていたからだ。次の投票日が近づくと、「リク レイム・ナイジャ (ナイジェリアを取り戻せ)」と呼ばれる市民社会団体が大陸の反対側にあるケニアに助けを求めた。その開発者たちが一貫して主張しているように、ウシャヒディのモデルは市民がリアルタイムで問題を報告しなければ機能 しない。そのためには、正確に電話番号を伝える必要があるのだ。
この共同プロジェクトを率いた直情型の活動家、ンゴジ・イウェレは、ナイジェリアで長年にわたってHIVの予防な どの医療関連のコミュニケーション戦略に取り組んできた人物だ。広報活動なら、どこから手をつければいいか彼女は確 実にわかっている。テレビや新聞を使った大々的なキャンペーンを打ち出す代わりに、リクレイム・ナイジャは仕立屋や 肉屋、車のバッテリー交換屋、家具職人、石工、整備士、美容師、露店商人、バイクタクシー運転手たちに協力を求め た。実は、多くの同業組合が定期的に集まっては支払いなどをすませるついでに、政治についておしゃべりしていたの だ。こうした組合に対して、イウェレたちは一般大衆向けのスローガンを伝えた。英語と現地語をないまぜにしたピジン 英語で、そのスローガンはこう訴えた。「登録や投票のときにはっきりしない、あやしげな動きを見たら、リクレイム・ ナイジャに報告しよう!」 「あれは、私が見た中でもっとも見事なマーケティング戦略でした」と語るのは、ケニアからはるばるナイジェリアまで ウシャヒディの展開を支援しにやってきた開発者の一人、リンダ・カマウだ。ナイジェリアで「オカダ」と呼ばれるバイ クタクシーは、毎日何十人もの客を乗せて走る。投票箱が盗まれるような事件が起きたときに、ショートメールで報告するための電話番号を伝えるのに最適な場所だ(美容師たちは、さらにじっくりと客に情報を伝えた)。
オカダのドライバーはシンボルとしてはちょっと風変わりだが、内側から外に向かって働きかけるという、発展の新しい一面を代表している。これまでの海外からの介入は演繹的、つまり外から中に働きかける形だった。時間と予算を投資 して「業界」の「利害関係者」たちの「ネットワーク」を構築し、所定のメッセージを宣伝したり二元論的計画を実行し たりしてきたのだ。多くの人々がヨーロッパ中心の地図作製者と同じように、もっと適応能力が高いだけでなく、無料で 活用できる既存のプラットフォームを見落としていた。

本書では、サハラ以南アフリカのそのようなプラットフォームあるいは地図―を五つ見ていく。特に注目するの は植民地としての過去と比較的開発が遅れている現状が共通している、四五の地続きの国だ(北アフリカの国々はこの条件 にあてはまらないので除く)。奴隷制度と帝国主義に、政府の弱い統治能力が組み合わさって、これらの国は同じような不満と似たようなチャンスに沸き立ってきた。東南アジアや中南米、東欧と比べても、アフリカはひどく過小評価されている地域でもある。私が紹介する「家族」、「テクノロジー」、「商業」、「自然」、そして「若さ」という五つの地図 は、ブラック・アフリカを団結させて明るい未来を形作っていく個性的な仕組みを見せてくれる。 「家族」の地図は、必要不可欠な構成要素だ。私が旅した先はどこでも、社会的な人間関係が暮らしを定義し、向上させ ていた。この拡張された「家族」という現象は、政府によるセーフティネットが欠如している場合には特に有用となる。 本書で紹介するように、アフリカの中に構築された横のつながりは命を救い、ビジネスを立ち上げ、暗闇を照らすことが できるのだ。アフリカの家族には、階大な数の海外移住組も含まれる。彼らも財政、イノベーション、そして影響力の面 で重要な資産だ。
「テクノロジー」の地図はサハラ以南のアフリカで一番の隠し玉で、ニーズと才能が出合う刺激的な領域だ。インターネットと携帯電話の爆発的な普及は、サービスの提供、情報の拡散、経済成長のまったく新しい基礎を築き上げている。数 えきれないほどの地方ベンチャーがこのグローバル化の波に乗って、合理的かつ驚異的な成果を上げているのだ。 「商業」の地図は、大小問わず市場についてのものだ。ここでは何百万人というアフリカ人消費者が生きていく基盤を見 出し、発展のためのいままでにない策を編み出している。市場の力と人のニーズとを引き合わせるベンチャーは、まったく新しい形の資本主義そのものを作り出しているとまではいかないにしても、新しい形の発展手段を作り出していると言 える。

「自然」の地図は、アフリカの圧倒的な地理的メリットである土と太陽、水、そして世界の東、西、北との歴史的なつながりに関するものだ。アフリカの資源という富が、石油や鉱物だけにとどまらないことはますます明白になってきてい る。実際、食糧生産とエネルギー消費、都市化の未来は、アフリカで形作られるのだから。アフリカには、地域の繁栄と地球環境のバランスを両立する、独自の態勢が整っている。

同様に、サハラ以南のアフリカは、驚くべき規模の「人口ボーナス(訳注 : 就労人口の増加によって経済発展にプラスの影 響が得られること)」を誇る。ここは世界でもっとも年若い地域で、人口の七〇%が三〇歳未満なのだ。無垢な状態から 力を得ていく何億という若者の存在は、いい方向にも悪い方向にも可能性を秘めている。「若者」の地図の基盤となるの は、私たち全員にとって未来を左右する、独創的な教育方法だ。

これから見ていくことだが、アフリカは資源と公的機関が豊富な土地だ――公平な目で見さえすれば。これらアフリカ の非公式な地図は、同時に使うにしても、それぞれ使うにしても、政府や慈善活動、既存のNGO等の正式な仕組みより も、強い生産力と影響力を生み出す。その力を発揮すれば、巧妙かつ効果的な方法で従来の開発活動に爆発的なエネルギーを与えられるはずだ。ただし、地図を読む際の基本原則通り、自分が今どこにいて、何を持っているかがちゃんとわかっていないと、これからどこに行こうとしていて、何が必要なのかはわからない。

世界は太っている

ここで、用語について一言。「開発」という表現が大嫌いな人間が、「開発」についての本を書くのはけっこう大変な ものだ――私自身がそうなのだが。「開発」という言葉は、特定の国が何かに向かって「開発」を進めていて、そこに到 達する道はひとつしかないということを示唆している。文中で「開発」という言葉を使いはするが、世界を「太っている (裕福である)」と「痩せている(貧しい)」という言葉で説明するのもわかりやすいのではないかと思う(*)。 「太っている」と「痩せている」という枠組みは、古くさい「第一世界」「第二世界」「第三世界」という言い方や、より新しい「グローバル・サウス」「グローバル・ノース」という言い方からは一歩離れた見方だ。昔は基本方位も好まれ てきた(開発に関する本の多くが、貧しい国と「西側」を対置している)が、そのような方向感覚は今ではもう意味がない。 ヨーロッパ中心の地図でさえ示していることだが、今世紀の経済エネルギーの大半は東方向にあるアジア亜大陸や、中南 米の嗜大な数の取引相手との間で発生しているのだ。「開発」と同様、「南北」という用語は、私たちを取り巻くこの世 界をちゃんと理解する手助けにはなってくれない。

では、「太っている」経済とはどんなものなのか? 私が生まれた国、アメリカがそのひとつだ。経済協力開発機構 (OECD)に加盟している富裕国では、豊かさはあたりまえのことだ。物が大量にある状態が普通[3] で、国民総所得 (GNI)は年間一人当たり約四万一一〇〇ドル。問題を解決すると言っても、衛生環境や予防接種、電化といった基本 的問題とはかけ離れたものになる。当事者にとってはあまり慰めにならないかもしれないが、「太っている」経済では一 番貧しい人でも、歴史的に見れば過去のどの時代の人類よりも快適な暮らしをしているはずだ。

もちろん、マイナス面もある。アメリカの肥満率は世界最悪だし、ほかにももっと比喩的な意味での「肥満」問題にも 苦しんでいる。サブプライムローン問題、見返りを求める献金が蔓延する政治、甘すぎるがゆえに多くの問題を生む石油 の蜜の味。ヨーロッパ、オーストラリア、韓国などの太った国も、やはり富の報酬を管理するのに苦労している。消費に よって加速し、さざ波のように広がっていったここ一〇年の経済危機は、OECD全体の慢心を暴く結果となった。これ を受けた「緊縮」制作は、一部の太った国を今後何十年も続くであろう危機にさらしている。

一方、アフリカは「痩せて」いる。東・中央アジアの新興経済国とサハラ以南アフリカのほぼすべての国(国連はこれ らの国を「後発開発途上国」と定義している)では、GNIの平均は年間一人当たりたったの一二〇〇ドルだ。このような 痩せた国、特にアフリカでは、病気という重荷の負担がかなり違う。マラリア、HIV/エイズ、そして出産は、アフリ カ大陸では死因の上位を占めるのだ。私の両親の生まれ故郷であるナイジェリアも、衝撃的なほどの乳幼児死亡率、とど まるところを知らない失業率、毎月二六日間もの停電に悩まされている。

こうした問題の陰には、希望の兆しが多く隠れている。アフリカ人一人ひとりを個別に見てみると、食べ物は無駄にし ないし、借金は少ないし、地域全体の二酸化炭素排出量は世界でも最低水準だ。そして無謀な世界市場からおおむね排除 されてきたこともあって、アフリカは最悪の金融危機も回避することができた。これから見ていくように、アフリカのビ ジネスの多くはより効率的な運営を目指して、「痩せている」モデルを実務と財務の両方に適用している。世界が財政の スリム化に向けて着実にベルトを締めていくのであれば、目指すべきは「アフリカ」という印のついたベルト穴だ。 「痩せた」国と「太った」国の区別を分かりやすく説明するため、私はよくトイレの「音姫」を開発した日本の企業、T OTOの話を引き合いに出す。いまや日本で数多くのトイレに取りつけられている「音姫」は、水洗の音をリアルに再現 する機械だ。「音姫」が解決したのは比較的裕福な国だからこそ生じる問題で、つまりは日本人女性が用を足す際の音を 恥ずかしがって公衆トイレでずっと水を流し続けるのをやめさせるためだった。TOTOの発明で、水の無駄遣いという 問題は解決された。お財布にやさしい携帯タイプが、今はベストセラー商品となっている。(訳注 : 現在は販売終了)
痩せた国では、トイレ関連の発明はだいぶ様子が違っている。アフリカでもっとも人口が密集した地域で一時期もてはやされた排泄物処理方法が「空飛ぶトイレ」―排泄物をビニール袋に詰めて、できるだけ遠くに投げ捨てるというもの だった。無理もない。日本の滅菌された全自動の公衆トイレとはまったく違い、アフリカの非公式居住区に暮らす人たちのほぼ半数が、近代的な衛生設備という基本的な尊厳を欠いているのだ。汚物まみれの水は、病気を蔓延させる。そのう え、大都市特有の犯罪を恐れて、夜中に公衆トイレを使うことを避ける住民が多い。「空飛ぶトイレ」はそうした背景で 生まれたその場しのぎの発明で、明らかに問題のある方法だ。 ケニアのコミュニティ組織「ウマンデ・トラスト」[4]は、もっといい方法を思いついた。非公式居住区のひとつ、ガトウェケラの住民グループと協力し、彼らは巨大な円筒形の堆肥装置を作り、そこに作りつけたいくつもの個室トイレから出た排泄物で堆肥を作れるようにしたのだ。ウマンデはトイレの使用料としてほんのわずかな額を徴収し、毎月四〇 0ドル程度の収入を得ている。さらにいいことに、このシステムなら従来の水洗トイレのように水資源を浪費せずにすむ うえ、排泄物からバイオガスを生成することでコミュニティの集会所で使う電気を作ったり、毎日シャワーを浴びに来る四〇〇人の住民が使えるだけのお湯を温めたりすることもできるのだ。

このように、人の尊厳を守るという目的は一緒でもまったく異なる発明が生まれるのが、「太った」国と「痩せた」国 の違いだ。「音姫」は、経済のピラミッドの上層部向けに作られた発明品の数々の一つだ。この階層の発明品はほかにも 駐車場で空きスポットを見つけてくれるソフト、本物ではないデジタル作物を育てる「農場」アプリ、iPhoneを振るとムチの音が出るアプリなどがある。いずれも、トイレのような基本的な問題が解決したあとで生じる問題に対処する発明だ。
だが、空飛ぶトイレがまかりとおる現状では、なんでもありだ。痩せている経済は、どれほど大きな課題を抱えていよ うとも、発明を生む土壌となる。必要が発明の母だと言うなら、アフリカの逆境は必要の母と言えるだろう。

植民地主義と独裁政権、貧困の歴史という酸っぱすぎるレモンが、アフリカになかなかいいレモネードのレシピを与えてくれたわけだ。ここからの何章かでレシピについて説明して、それからレモネードの話をしよう。指導者たちによる一 番まずいやり方ではなく、現地の人々による一番うまいやり方を検証するとどうなるか、何世紀も前から存在していた非 公式経済や非国家ネットワークに正式に耳を傾けるとどうなるかを見ていく。
本書では、アフリカに問題がまったくないと言いたいわけではない。すべての政府、すべての援助、すべての近代化がアフリカにとって悪いと言いたいわけでもない。当然、投資のアドバイスをするものでも、きめ細かい経済分析をするも のでもない。だが、進歩を妨げる「形式的バイアス」を暴き出し、アフリカに生きるすべての人々の未来を後押ししていける名案に光を当てたいと思う。

アフリカに関わる上で、何よりも重要なのが異なる点から学ぶことだ。太った国は痩せた国が自分たちから学ぶべきだ と思いこんでいるかもしれないが、太った国が痩せた国から学ぶべきことがあるのもまた事実だ。太った国で金融経済崩 壊後に広まった節約精神――少しの時間、少しのエネルギー、少しのお金でもっと多くのことを成し遂げようという精神は、サハラ以南アフリカでは必要不可欠な生活手段であると同時に、世界にとっての新たな責務なのだ。

アフリカはひとつの国である

最後に、方法論についてもう一言。本書で紹介するすべての事例は、外部の出典が明記されている場合を除き、私の直 接の取材によって得られたものだ。そして文中では「アフリカ」について語っているが、これは一〇億近くの、私がほとんど会ったことのない人々を指す。「アフリカについての書き方」という、ケニア人作家ビニャヴァンガ・ワイナイナが 書いたエッセイがある。これは、私のような人間が「してはいけないこと」を記した、広く出回っているリストだ。ワイ ナイナの風刺に富んだ助言は、このように述べている。

正確な描写にこだわって、身動きが取れなくなってしまってはいけない[5]。アフリカは広い。五四の国に暮らす九億という人口は、移住したり戦争したり命を落としたりするのに忙しすぎて、あなたの本を読む暇などないの だ。この大陸は砂漠とジャングル、高原、サバンナ等々だらけだが、あなたの本の読者はそんなことは少しも気にかけていない。だから説明はロマンティックかつ刺激的にして、そして細かくし過ぎないことだ。

私は、アフリカをひとつの国としては扱わない。三年をかけて一七カ国を取材した私は、到底ひとくくりになどできないほどの多様性を目撃してきた。それでも、本書は汎アフリカ的だと胸を張って言える。私たちは似たような困難からしっかりと学ぶことができるし、多種多様な成功からはさらに学べると信じている。大陸を横断して事実を比較しようというのも、ひとつの必要な熱意だ。ただその点については、私はその表面をほんの少し引っかいただけに過ぎない。
まずは一九世紀の、アフリカの地図を作ろうとする物語から始めた。この物語は、二〇世紀の開発へ向けた屈辱的な努 力を映し出す鏡だからだ。MDGsが終了し、二一世紀における人類の進歩が展開していく今、私たちは一九世紀のとき よりももっとうまくやっていかなければならない。ナイル川に沿って旅していた探検家たちは、歴史的に無知だったという言い訳ができる。なんといっても、空からの視点で川や道路を地図に描いていくという考え自体を人間が受け入れるまで、何世紀もかかったのだから。ジャングルの中を歩き回り、山を登り、草原を横断している間は、俯瞰したときに自分 の歩みがどんなふうになっているかなど想像もできないし、物の見方を変えることがどうして役に立つのかもわからない ものだ。

これまでに目にしてきた戦争、あって当然のものとみなしている貧困、愛想を尽かしたくなるような政府などの側面か らアフリカについて考えると、核心を見失ってしまう。画期的な技術と情報がすぐに手に入るこの時代、無知は言い訳に ならない。本書で紹介する物語は、新たな羅針盤を提供してくれるだろう。アフリカ大陸のためだけでなく、世界経済の すべての分野のための羅針盤だ。
* 資本の社会的利益を重視する投資会社アキュメン・ファンドのネイト・ローレルが、最初にこの区別を定義した。

ダヨ・オロパデ (著), 松本裕 (翻訳)
出版社: 英治出版 (2016/8/24)、出典:出版社HP

「アフリカ」で生きる。ーアフリカを選んだ日本人たち

アフリカで働く人々から学ぶ

本書は、アフリカ大陸での生活はどんなものか? 貧困や感染症は?といったことはもちろん、青年海外協力隊、NPO活動、NGO活動、ボランティア活動、起業、ビジネス等、知られていないアフリカを知ることができます。

ブレインワークス (著, 編集)
出版社: カナリアコミュニケーションズ (2017/4/20)、出典:出版社HP

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はじめに

「アフリカ」と聞くと、多くの日本人は「砂漠」「サバンナ」「不便、不衛生」「飢餓」といった言葉を連想するのではないだろうか?
確かにアフリカ大陸にある各国は欧米や日本と比較すれば、経済が発展途上の国が多い。また、日本からすれば距離の問題もあり、なかなか現地に足を踏み入れる機会も少ないだろう。

しかし、日本人は肝心なことを忘れてはいないだろうか?
かつて、日本の商人(商社)たちは世界の海を渡り、あらゆる大陸に商売の種を植えにいっていたことを。その種が番となり、やがて大輪の花を咲かしたことを。残念ながら、今の日本は保守的な思考が蔓延していると感じる。豊かで便利さに満たされた日本は、かつてのローマ帝国と同じ道を辿っていると思える。「パックス・ロマーナ」で平和と繁栄に満たされたローマ帝国の終焉の原因は実はこの「パックス・ロマーナ」を享受した人々の堕落にあるといわれている。豊かさと便利さを享受する先進国、特に日本はそれが永遠に続くと信じているのかもしれない。かつてのローマ時代の人々のように。

不便であり、不衛生、そしてインフラもままならない環境においても人々は逞しく生活をしている。それは東南アジアのビジネスの現場を3年以上見続けてきた私たちの率直な感想だ。そこに、ICTなど生活を一変させる技術が津波のように押し寄せてくる。ICTなどの高度な技術でなくても構わない。日本のような先進国が数十年の間で築き上げてきた技術や経験、ノウハウをもってすれば、多くの場面でイノベーションを起こせる現場を目の当たりにしてきた。それこそが途上国や新興国のビジネスの醍醐味であり、日本が失いつつあるイノベーションによる社会変革の姿なのだろう。道路や鉄道が整備され、ストレスなく目的地に到達できる日本において、これ以上速く人間が移動する手段を考えることは無理があるのではないだろうか?労働力不足が深刻化する日本でこれ以上、人間によるサービスの高度化を求めることは必要なことであろうか?日本が世界に貢献するならば、今まで築き上げてきた高度な技術やノウハウをいかに世界に伝播させ、その土地で真のイノベーションを生み出すことにもっと目を向けるべきなのではないだろうか。

東南アジア各国は途上国から新興国と呼ばれ、力強い経済成長力を見せている。
しかし、そこには、社会や経済に変革を起こすイノベーションの余地がまだまだ残されている。一方でアフリカには多くの政治問題、民族問題の影響もあり、20世紀から1世紀にかけた途上国、新興国の経済成長の波に乗り遅れた国々が多い。だからこそ、この土地にイノベーションの可能性を賭ける人々も少なくない。
本書はそんなアフリカ大陸と共にさまざまな分野で懸命に生きる人々にフォーカスを当て、紹介させていただいた一冊である。ここに登場する人たちの他にも多くの人たちが現地で奮闘していることは間違いない。本書で取り上げたアフリカと共に生きる人たちはその一部であることを申し上げておきたい。これからも広いアフリカ大陸で活躍する方々をすべからく紹介し、1人でも多くの日本人にその生き様を伝えていきたい。
若者から人生の大ベテランの方々まで本書を多くの人たちに手にとっていただければと思う。そして、皆さまの人生における無限の可能性を感じていただければ幸いである。

ブレインワークス

ブレインワークス (著, 編集)
出版社: カナリアコミュニケーションズ (2017/4/20)、出典:出版社HP

目次

はじめに

Alphajiri Limited 薬師川智子
Paradise Beach Bungalows 三浦砂織
KAI LIMITED 薬師川恭平
VIVIA JAPAN 株式会社 大山知春
有限会社Moringa Mozambique 山家友明
Kenya Fruits Solutions Ltd. 山本 歩
元青年海外協力隊(コミュニティ開発) 吉岡繭
Maki & Mpho ナカタマキ
WBPF Consultants.LTD / CourieMate 伊藤淳
NPO法人AYINA、株式会社African Network 内藤俊輔
Burundi Japan Friendship ドゥサベ友香
アフリカ工房 前田眞澄
Life Style Rwanda Ltd. 唐渡千紗
一般社団法人アフリカ協会 淺野昌宏
レキオ・パワー・テクノロジー株式会社 松尾泰介
RWAMITTU LTD. 木下一穂
社団法人アフリカ開発協会/早稲田大学招聘研究員 佐藤正幸
NPO法人まちのつながり推進室代表理事、狭山市議会議員 矢馳一郎
Chuui (チューイ) 坂本厚子
株式会社3WM 川地茂
Alizeti (アリゼティ) 根津朋子
モンスーンジャパン合同会社 横山和歌子・川尻翔太
Zimba Mission Hospital 三好康弘
国連開発計画(UNDP) Youth Volunteer 備瀬千尋
EXCIA East Africa Limited, 松本義和
アジア・アフリカと共に歩む会(TAAA)南アフリカ事務所 平林薫
特定非営利活動法人ケニアの未来 橋場美奈
サイディアフラハ 荒川勝巳
国際NGO野生生物保全協会 西原智昭
KISEKI CORPORATION LTD 山田耕平
大分工業高等専門学校 久保山力也
モリンガの郷 藤井千江美
阿南工業高等専門学校名誉教授 青木茂芳
株式会社きとうむら 中川公輝
任意団体「NPO学校をつくろう」 堀田哲也
日本ベアフットランニング協会 吉野剛
国際協力機構(JICA) 山形茂生
国境なき医師団 菊地紘子
NGOアフリカと神戸俊平友の会 神戸俊平
一般社団法人エチオピア・アートクラブ 山本純子
アフリカ女性子供を守る友の会 長島日出子
JKUAT NISSIN FOODS Ltd. 荒殿美香・飯村 学(ンポテ★飯村)
ワンブルーム株式会社 伊藤弘幸
COTS COTS LIMITED 宮下芙美子
KISEKI Authentic Japanese Restaurant 山田美緒
日本食堂兼日本人宿「和心」 原田翔太
株式会社Asante (AFRIKA ROSE) 萩生田愛
株式会社ヴェルデ 田野島鐵也
特定非営利活動法人アフリカ日本協議会 津山直子
会宝産業株式会社 山口未夏
GOODEARTH 藤原宏宣
株式会社ブレインワークス アジアビジネスサポート事業部 渡辺慎平

全ての人が、自ら人生を選び取れる社会をつくるために

Alphajiri Limited 代表取締役社長 薬師川智子

私は2016年から、ケニア最西端にあるミゴリ県を拠点に、現地法人Alphajiri Limitedという大豆商社を経営しています。4人の社員とともに、約500名の小規模農家と大豆栽培契約を結び、種子の配布から集荷、選別、加工メーカーへの卸売をしています。
私は中学時代から、「不公平な社会を変えたい。生まれつきの貧困や差別により、自分で人生を選び取ることができない人々の暮らしを変えたい」という強い思いがありました。しかし具体的に何をすれば良いか分からなかった私は、進路を国連職員として国際協力をしようと決めました。その進路に向けてアメリカの大学に進学し、必死で勉強し努力をしてきましたが、就職しても具体的に何をしたいのかがわからず苦しむ毎日でした。そんな中、現場を肌で感じながら仕事をしたいと青年海外協力隊に応募したことで、私の人生は大きく切り開かれました。

協力隊として赴任したのはケニアJAバンクとの仕事をしていた経験が活かせるようにと思い、第一志望として「大豆農家組合とともに大豆の栽培と加工の普及を行う」という要請に応募しました。私は幸いにも第一希望に合格しました。

協力隊の活動で痛感したのは、ボランティアができることの時間的・金銭的限界、そして国連など公的機関ができる支援の範囲の限界でした。貧しい人々が、満足な教育・健康・収入を得るという使命は同じです。しかし教育や栄養やお金は、与えるだけではその人には生かされないということを実感しました。自身の労働から対価を得ることと、その対価を何に投資するかという各々の意志が必要だと気づいた私は、ビジネスによって、その使命を叶えられるのではと考えました。
統制された農協のほとんど存在しないケニアでは、市場のある農産物を作っても、農家がメーカーの望む量・品質・納期に応えることができないため、作っても売れないことが日常茶飯事です。

そして農家の自助努力では、到底市場の要求に応えることは難しく、生産者と市場のロジックを取り持つ存在が必要であるという結論に至りました。そこで私は、協力隊時代に深く関わった大豆で、農家との契約栽培(組織化や種子・農業資材の貸付も含む)から品質管理、在庫管理、営業と都市部の加工メーカーへの卸までを行う商社を設立しようと決めた のです。

今は、ケニア西部ミゴリ県の小規模農家約500名と栽培契約を結び、集荷・調整した大豆を、首都ナイロビの食品加工メーカーのオーダーに合わせて出荷しています。この仕事で何より嬉しいのは、生産者や社員の成長を見られること、生産者・社員・お客様から感謝の言葉をいただけることです。基礎教育を満足に受けていない農家と上手に対話し協力してもらうこと、ビジネスでの教育を受けた経験の全くない地方のケニア人社員に、基礎的な事務やビジネスマナーを教育すること、先進国と一切異なる商習慣において、ケニア人と交渉し売り上げをあげていくことなど、どの側面を切り取っても、簡単なことなど一つもありません。

しかし今後も、現在の事業を着実に成長させ、近い将来には当社自身が加工の一端を担ったり、ケニアにとどまらずアフリカ各国で、大豆だけではない農業のサプライチェーンを改革する事業へと手を広げたいと考えています。

まだまだ私自身も会社も発展途上です。今10代の人たちに何かメッセージを送るとしたら、「自分が正しいと思うことを、決して諦めずにやり続けて」と言いたいと思います。志を実現するためには、社会で様々な人や事象と関わり、そこに自分自身がどう向き合うかという作業を、丁寧に行うことしかありません。それは、日本であろうと、アフリカであろうと、どの場所・時代でも、不変のことです。私は、意志を切り開いた始めの一歩が、たまたまケニアだったというだけです。もし、自分の意志の実現がアフリカにある気がする、そんな方がいらっしゃったら、まずはとにかく来て、体験し考えてみてください。応援しています!

プロフィール

1988年奈良県生まれ。2011年テキサス大学アーリントン校にて、政治学およびフランス語学士号を最優秀で取得。同年農林中央金庫へ入庫、長崎県内のJAバンクに対する財務モニタリング・業務推進等を担当。2014年より青年海外協力隊員としてケニアに赴任、大豆栽培・加工の普及に従事。2016年、大豆商社Alphajiri Limited設立。

企業名 : Alphajiri Limited (アルファジリ)
ケニア国内の農産物流通に不足している「包括的なサプライチェーン」を提供すべく、小規模農家との大豆契約栽培・買取・加工メーカーへの卸業を行う。

パジェの愉快な仲間たち

Paradise Beach Bungalows オーナー 三浦砂織

東アフリカ、タンザニア連合共和国東のインド洋上に浮かぶ島、ザンジバル島で宿泊施設と日本の家庭料理レストランを始めて、2017年7月で早9年になります。
ペパーミントグリーンの海を見渡す浜辺にバンガロー3軒で始めて、現在は2棟のバンガローを欧米、日本、中国、韓国など世界中のお客様にお貸しして、日本の家庭料理と、ここザンジバルのスワヒリ料理でおもてなしをしています。最近はアジアのお客様向けに朝、お粥もお出ししています。始めたころは、村にはまだ水も電気もなく、トイレのない家庭も多く、村人は浜辺で用を足していらっしゃいました。

現在ここではWi-Fiも使え、お湯のシャワーもあります。料理はガスで調理し、パンは木炭で焼いています。始めは何年も、バケツの水をカップですくう式のシャワー、夜の明かりは石油ランプ、料理も木炭とまきで作っていました。そして、水は井戸から釣瓶であげていました。釣瓶で水をくみ上げてくれていたおじいさん(ムゼールーム)はもう亡くなり、今はその息子さん(ティンベ)が働いてくれています。彼も歳を迎え定年です。
ここに来る前の仕事は、毎日放送ラジオ局のリポーター。その後、和歌山放送ラジオ局のアナウンサーを務めさせていただきました。加えて司会業では10組以上のカップルの結婚式で司会させていただき、そのときの貯蓄がこのパラダイスを始めるにあたっての資本金になっています。

ここでは現在、7人の従業員を雇っています。私以外は全員タンザニア人です。ほとんどが隣村の村人。そして夜の警備員には、恐れ知らずのマサイ族のモラン(若い戦士)を雇っています。村人たちにとっては初めてのホテルレストランでの仕事で、教える事が山積みです。毎週木曜日には全体ミーティングです。初めは声も出なかった子たちが少しずつ不足している物品や、故障個所などを言えるようになりました。もう少し高度なビジネス、サービスの向上を目指す意見交換の場にしたいのですが、それは無理でしょう。ホテルに泊まったことがなく、レストランで食事なども私が連れて行く以外にはしたことがない皆さんです。そして終わりには私達パラダイスの決まりを参加者の中から1人選んで言ってもらいます。

「お客様へ、そしてスタッフへも必ず挨拶をする」。現地の年長者には挨拶をしますが、私など外国人には挨拶をしません。「謝る」。彼らはミスを犯しても決して謝らず、相手の非を探します。自分のミスでなくともその場では謝り、後で説明をする。「嘘はつかない」。皆さん嘘つきです。「ごみはひろう。ポイ捨てをしない」。現在は、以前にはないプラスチックやビニール袋があり、昔捨てていた果物の皮や種のようにそれも捨ててしまう。家庭では教える人がいません。「ありがとうと言う」。お礼を言うというしつけがされていない。まるで幼少児教室? そうかもしれませんがこれが私たちの現実です。

それでも私の小言に耐えて、料理人は漬け丼、てんぷら、煮つけ、グラタンにタコのザンギと、私の好物を何種類もとても上手に作ります(ファトゥ、ムアへ、アミーナ)。読み書き計算が苦手だった子にも、運転免許を取らせて、今では1人で街へ買い出しに行きます。簡単な電気水道工事ならできるようになりました(タッキー)。英語が得意ではないと言っていた子には英語の専門学校に入学してもらい、いいレセプショニストとしてお客様の信頼を得ています。おまけに日本語まで話します(アリ)。
皆チャーミングでかけがえのない私のファミリーです。

さて、私の仕事は集団生活での基本的なマナーを教える事。料理もすべて何度も作って見せて教えました。掃除も注意しています。クリスマスには飾りつけをして、暇になると焼き肉パーティーを催して、評判のいいレストランには料理人、ウエイターを連れて行き、朝は起きてから予約の管理をして、犬にしつけをして、ネコにえさをやり、新しいスタッフのインタビュー、いつも数珠つなぎで起こる問題の解決。私の行動のすべてが仕事につながっていると言っても過言ではありません。
そこでストレスもたまります。子宮筋腫になりました。一昨年に初めて帯状疱疹を出しました。日本大使館の医務官に個人的に大変お世話になりました。お守りまでいただきました。本当にありがたく思っております。

考えてみますと、資金は少なかったですが、若くて体力のあるうちにこの仕事を始められたことが良かったと思います。そして元気で素直で、柔軟な精神を持つ人間に私を育ててくれた両親に本当に感謝しています。加えていつも勇気づけてくれて、笑わせてくれて、心からのアドバイスをくれる友人にも心から感謝しています。
そしてここで過ごしてくれたお客様方、これからお越しくださるお客様に感謝しています。お元気で、毎日楽しく生きましょうね。

プロフィール

1959年北海道室蘭市生まれ。1982年に京都女子大学文学部国文科卒業後、毎日放送ラジオレポーターとして入社。1985年-1990年4月、和歌山放送ラジオアナウンサーとして活躍。1990年日本アフリカ文化交流協会スワヒリ語学院入所(ケニア ナイロビ)。1992年7月4日Paradise Beach Bungalows(パラダイスビーチ バンガローズ)を建築し、現在に至る。
Paradise Beach Bungalows URL: http://nakama.main.jp/paradisebeachbungalows/

東アフリカ・ケニア初となる持ち帰り寿司の販売を開始

KAI LIMITED (カイリミテッド)代表取締役社長 薬師川恭平

なぜ、アフリカなのかというと、チャレンジしている人間がまだまだ少ないからです。2003年に2歳でベトナムへ留学した時もそうでしたが、人と違うことをしたいという思いを強く持っています。日本人にとって物理的にも心理的にも遠いアフリカ進出している日系企業も少なく、まして起業家は数えるほどです。また、マーケットとしても、先進国 や東南アジアの途上国と比べても手がつけられていない事が多く、自分が成すべき事を見つけられる場所だと思ったからです。
本当はベトナムにおいて飲食業で起業したいと考えていました。しかしなかなか踏み出す勇気が持てず、そのうちにベトナム経済はどんどん成長しました。初めて訪れた2003年からの10年間で、名目GDPは約4倍となりました。個人資本で商売を始めるには難しい時代になったと感じました。そんな時、参加していた勉強会でアフリカの話題が持ち上が りました。また知人が駐在していたこともあり、一度行ってみることにしました。
2014年6月にケニアと南アフリカを訪れました。アジアとの文化の違いはあるにせよ、特にケニアは、10年前に見た発展前のベトナムを思い出させました。このチャンスを逃せば後はないという強い思いから、7月には退社し、9月にはケニアに移住をしていました。当時ベトナムで勤務していた会社には大変迷惑をかけましたが、20代前半から持ち続けた起業への思いに突き動かされました。

ナイロビを中心に展開している中間富裕層向けのスーパーマーケットチェーンと提携し、現在6店舗にて持ち帰りスタイルの寿司を販売しています。まだまだ売上自体は小さいですが、購入してくださるお客様の半数近くは意外にもアフリカの方で(主にケニア人)、今後のポテンシャルを大変感じます。また、寿司には欠かせない鮮魚やお米についても、小さい規模ではありますが独自の取り組みを行っています。そもそも生食がない食文化ですから、内陸に位置するナイロビでは新鮮な魚は手に入りません。ケニア第二の都市で港町であるモンバサに毎月通い、漁師や仲買人との関係作りに時間を使い、新鮮な魚を入手するためのルートを構築しています。また、お米については、これまで灌漑公社にて研究目的で 栽培されていたコシヒカリの籾をいただき、専門家から栽培を学んだ農家と契約し、独自に栽培してもらっています。収穫したお米は現在、弊社の寿司にのみ使用していますが、マーケット調査を行い、卸売や小売を始める予定です。

アフリカと一口に言うのは難しいですが、ケニアに来て良かったと思うことは、ビジネスにおいてチャレンジしている人が少ない、手をつけられていることが少ないという点です。また一方でナイロビなどの都市部ではある程度のマーケットがすでにあり、今後の成長も大いに期待できる点です。また、容易なことではありませんが、自分が取り組むべき社会問題を見つけられたことも、短い人生において大きなことだと思います。

直近では、内陸国で隣国であるウガンダの首都カンパラにオープンする日本食レストランへ、モンバサからナイロビを経由して鮮魚を供給します。
また今の事業規模からはまだまだ夢物語ですが、目標としていること、今後取り組みたいことは次の通りです。
1 寿司がバーガーやピザと同じ外食の一つに位置付けられる時代を作る。
高所得者だけでなく、中間層の人にも寿司を広める。
2 もともと肉食で、魚を食べるとしても淡水魚(ナイルパーチ・ティラピア)というこの食文化において、海の魚が一般的に食べられる時代を作る。
3 資源枯渇を抑制するため、また安定的に鮮度の良い魚をマーケットに供給するために、海洋面での養殖を行う。
すでに最後のフロンティアとしてアフリカは注目されています。ビジネスにおいても、社会問題にしても、あなたが取り組むべきことは必ずあると思います。しかし、それは一朝一夕に成せるものではありません。この地の人と共に生き、骨を埋める覚悟で臨まなければ痛い思いをするだけでしょう。特に「人」のマネージメントは大変難しいです。毎日、目を、耳を疑うことが起きます。強い覚悟がなければ、それらの困難を乗り切ることはできません。私自身、まだまだ駆け出しで、時に心が折れそうになることもあります。しかし、前述の将来像を思い描くといつも魂が震える思いで、今日もまた頑張るぞと力が出ます。あなたが本気なら、退路を絶ってこのブルーオーシャンに飛び込んでみてください。良くも悪くもあなたの人生を方向づける何かが見つかるはずです。

プロフィール

大阪外国語大学(現・大阪大学)外国語学部地域文化学科ベトナム語専攻(在学中に2年間休学しベトナムへ留学)卒業後、ニ ュージーランド、シンガポール、ベトナムにて物流会社で勤務。2014年、ケニア・ナイロビに渡り最初の会社を設立し、日 本食レストランをオープン。2015年末にビジネスパートナーに譲渡。2016年KAI LIMITEDを設立し、現地のスーパーマ ーケットと提携し、持ち帰りスタイルの寿司の販売を開始。現在6店舗にて販売。 企業名 : KAI LIMITED
URL : https://www.kai.co.ke FB: https://www.facebook.com/kailimited/

生命の木「モリンガ」を通して、アフリカの豊かさを日本に

VIVIA JAPAN 株式会社 代表取締役 大山知春
私とアフリカの最初の出会いは、2012年、オランダのビジネススクール在学中のことでした。世界9カ国から集まった3名の学生たちと、1年間同じキャンパス内の寮で家族のように暮らす中、打ち解けやすく自然と仲良くなっていったのが、アフリカ出身のクラスメイトでした。周囲との協調や調和を大事に考えるアジア人と通じるところがあり、教養 が高く、自国の文化や歴史に精通し、気張ったところもなくオープンで……これまで関心がなかったアフリカに好感を持つきっかけになりました。
ガーナは、近年、商業用オイル生産が始まったこともあり、アフリカの中でも特に経済成長が目覚ましい国でした。当 時、まだオンラインショッピングサイトがないと知り、ガーナ人クラスメイトと共に、卒業論文を兼ね、現地で1ヶ月以 上マーケットリサーチを行い、会社を登記しました。その様子を見守ってくださっていた前職からお世話になっていた個 人投資家が投資してくださり、卒業後、そのままオランダからガーナに移住しました。
1年かけて、ようやくガーナ初のファッションに特化したオンラインショッピングサイトをソフトローンチした頃、舌 癌を疑い検査のため日本に戻りました。ステージ2の舌癌でした。無事、手術は終わりましたが転移・再発の可能性が高 いこと、2、3週間毎に経過観察の必要があることから、現実的にアフリカで暮らすことが難しくなりました。転移予防 のため何ができるか調べ「体に取り入れるものが、そのまま体になる」と考え、自分なりに食事療法を取り入れることにしました。
この先どうしようか悩みながら、病院のベッドで、乾燥で痒くなった肌にクリームをつけていたときのこと。ヌルっと するだけで、肌はいっこうに潤わずパサパサのまま全く効かないので、何が入っているのか表示を見ると、よく分からない原材料が何十種類も一つのクリームの中に含まれていました。「ガーナで使っていたモリンガオイルを取り寄せよう」と思い、ハッとしました。
何でもある日本にないものは、これではないだろうか? 肌につけるものは、10分で体内に吸収されていきます。毎日 使うスキンケアは、食事と同じ。アトピーで悩んでいた人が、毎日入浴できるとは限らないアフリカの生活で改善した面 白い事例があります。癌も現代病と言われ、物質的に豊かなはずの先進国で患者が増加しています。どれも化学物質の多 用が要因として懸念されていました。ガーナのあまり知られていない素晴らしい天然素材を、日本に紹介しよう。

モリンガは、ガーナで「生命の木」と呼ばれており、運命的なものを感じました。%の栄養素を持ち、葉、実、種、 茎、花、根、全て活用できるモリンガ。世界で唯一、人間に必要な必須アミノ酸を全て含む植物です。とても生命力が強 く、痩せた土地でも一定以上の気温があれば、1年で4~5メートル成長していきます。一般の植物の3倍の二酸化炭素 を吸収し、水を浄化する作用もあることから、貧困、環境問題の解決策として注目されています。
そうして、モリンガオイルや、ガーナの特産シアバターなどを用いた、誰もが安心して使えるアフリカの自然生まれの ナチュラル・スキンケアブランド、JUJUBODY [ジュジュボディ]を創設しました。これまで、多くのメーカーが素材 としてアフリカを利用してきましたが、アフリカにアイデンティティーを置くブランドは見たことがありません。
ガーナの人は、未精製素材を好んでスキンケアに使うため、JUJUBODYも未精製素材にこだわっています。白米より 玄米に、より栄養価が含まれるように、未精製の天然素材は栄養が豊富ですが、気温によって素材感が変化するので扱い にくく、スキンケアに使われるのは稀です。皮膚科に通っても治らなかった肌トラブルに悩んでいた方から、出来物がな くなった、ステロイドを使わずにすむまでにアトピーが改善したという声をいただくようになりました。
モノなんかなくても笑顔と生きる喜びが溢れる、そんなガーナの「豊かさ」と共に、本物の素材を味わうという最高の贅沢を届けていきたいと思います。

プロフィール

1983年、千葉県出身。東京、バンコクの金融業界で勤務後、オランダでMBA取得。卒業後、ガーナで起業中に舌癌発症の ため日本に帰国。療養を機に、化学物質に依存したライフスタイルに疑問を抱き、ガーナの伝統医療の価値を再実感するように なる。生命の木「モリンガ」などを用いた、アフリカの自然生まれのオールナチュラル・スキンケアプランド「JUJUBODY」 〈ジュジュボディ>を2015年8月に日本で発表。
企業名 : VIVIA JAPAN株式会社

URL: www.viviajapan.com
www.jujubody.com

ブレインワークス (著, 編集)
出版社: カナリアコミュニケーションズ (2017/4/20)、出典:出版社HP

地図で見るアフリカハンドブック

地図を見て理解を深める

着眼点が個性的でユニークなので、楽しく読めます。色々なテーマを基に描かれたアフリカの地図を立て続けに見る事で、この大陸のどの地域にどのような特色があり、それがどのような問題に繋がっているのか、という事柄が、立体的に理解出来るのは非常に面白いです。

ジェロー・マグラン (著), アラン・デュブレッソン (著), オリヴィエ・ニノ (著), 鳥取絹子 (翻訳)
出版社: 原書房 (2019/3/26)、出典:出版社HP

目次

はじめに
グローバル化でのアフリカの軌道を問いただす

2050年には25億人のアフリカ人
人口がかたよっている大陸
人口の動態——とりもどした人口と不確実性
教育は人口と開発の中心問題
不確実な公衆衛生の向上
大陸内部を移住する人の多さ
都市の挑戦——万人のためのアフリカの都市を創案する
キンシャサ——創造の熱気あふれるインフォーマルの中心都市

重圧のかかる環境
不確実で変わりやすい気候
水地域で共同管理する方向へ?
ナャド湖——人口と気候変動の重圧
ナイル、つねにもっとも狙われる川問題となっている森林破壊
砂漠化——その定義と答え
保護区の多いアフリカ

経済の転換期か?
不変の1次産品経済か、それとも新経済か?
農業問題の方程式
2段構えのケニア農業
採掘事業で新機軸?
不可欠なエネルギー
インフラ一大工事中の大陸
産業で新興なるか?
ICT——新しい経済?
南アフリカ、グローバル化しつつ弱点のあるアフリカの巨人

国家、社会、国土——緊張と再編成
各国、分離独立の論理と国内強化にゆれる
紛争のアフリカ
中央アフリカ共和国、失敗国家
地域統合の長い歩み
民主主義の過渡期——小休止か、それとも沈滞か?
不可分一体の都市と地方経済成長で利を得るのはだれか?

アフリカと世界
新旧のパートナーシップ
アフリカでの中国の存在感にみる両面性
未開発地と土地の争奪戦
アフリカ、世界的な犯罪市場の中継地
サハラ砂漠、グローバル化で狙われる連結地点
アフリカ人のディアスポラ(民族離散)

付録
参考文献
参考ウェブサイト
略語一覽

ジェロー・マグラン (著), アラン・デュブレッソン (著), オリヴィエ・ニノ (著), 鳥取絹子 (翻訳)
出版社: 原書房 (2019/3/26)、出典:出版社HP

はじめに

・グローバル化でのアフリカの軌道を問いただす
グローバル化による世界の再編成の現状を分析すると、アジアが新興しているのに対し、ヨーロッパとアメリカが相対的に衰退しているは明らかなのだが、アフリカの占める地位はどうもはっきりとしない。はたしてアフリカは、これからも紛争と環境破壊、破綻した公衆衛生の犠牲になり、貧しく不安定な大陸のまま、世界の中心からはずれていくのだろうか?それとも、世界的な資本主義の最後 のフロンティアとして、ほかに類を見ない自然資源「鉱物資源、生物資源、景観など]と、人口の伸び、都市化を成長の担保に、いまこそ変わりつつあるのだろうか?

・ほかと同じ大陸か?
アフリカについて問いただすとは、つまり「アフリカ悲観論」や「アフリカ楽観論」といった型にはまった考えから完全に離れ、その多様性をとりいれて考えることである。2つの偏見から透けて見えるのは、この大陸を世界のほかの大陸とは違うと見ているのは明らかで、それではカメルーン人の歴史家で哲学者のアキーユ・ンベンベが強調するように、現実のアフリカを反映しないことになる。アフリカ大陸の面積は3030万平方キロメートル―中国とインド、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国を合わせた面積に相当で、そこに2018年現在、12億5000万人が住んでいる。ひと塊となった大陸部周囲につらなる大小の列島は、1億6000年前にあったとされる巨大なゴンドワナ大陸が分裂した結果である。

しかし、アフリカが細分化されているのはなにより政治的な要因によるもので、大半が熱帯である大陸の多様な地形や、何千という言語を話す民族のことは忘れられている。そんなアフリカの国々に共通しているのは、少数の例外(リベリア、エチオピア)をのぞき、19世紀の終わりからヨーロッパの大国の植民地となり、1960年代に多くが独立してからは、開発途上国に埋没したまま抜けだせていないことである。アフリカには現在、54の国家がある。国境の制定は外的な要因だったとしても、いかんせんその影響力は決定的だ。各国はあたえられた領土の枠組で、平和的にしろ、悲劇的にしろ、それぞれ特異な歴史をきざむことになったのである。

アフリカ情勢についての西欧の分析の多くは単純化されるきらいがある。フランスの農学者でエコロジスト、ルネ・デュモンが「アフリカはハンディを背負ってスタートした」(1962年)で述べた意見は、1960年代においては異端で、当時支配的だったのは、「アフリカはヨーロッパからの開発の遅れを猛スピードでとりもどしている」という見方だった。続く1980-1990年の10年間は、災害大陸(干ばつ、飢饉、戦争)として、世界体制の周辺に追いこまれることが多くなる。近年の2000-2018年間はもっと複雑だ。多くは、元世界銀行副総裁のジャン=ミシェル・セヴェリーノと彼の特別補佐官オリヴィエ・レイの意見と歩調を合わせ、2人の共著書のタイトルのように「アフリカの新時代」(2010年)が来たとみなしている。

その要因としては、新興各国との新しいパートナーシップ、人口増加と都市化による国内市場の拡大、教育とインフラの向上、独裁政権の減少と民主化の要求、国連で2015年までに達成する目標として合意された「ミレニアム開発目標」(MDGs)に象徴される開発政策の新たな高まり、などがあげられ、アフリカは新興地域に仲間入りしたようでもある(実際、大陸内の市場が大きくなったことで経済が活性化、グローバル化のなかで力をつけていることが確認される)。しかしそのいっぽうで、さまざまな危機(内戦、テロ、感染病など)によって、「アフリカ悲観論」が根強く残っている面もある。たとえば、開発問題の専門家セルジュ・ミハイロフは、著書「アフリカニスタン(アフガニスタンの過ちとアフリカを引っかけた造語)、アフリカの危機はわれわれの近くにもおよぶのか?」で、地中海からそう遠くないサヘル地域「サハラ砂漠南縁部」で、貧困にあえぎながらも人口が爆発的に増えていることが、ヨーロッパにとって事実上の「爆弾」になっていると訴えている。

・軌道と分岐点
本書では、データにもとづいた地図でグローバル化のなかでの現在のアフリカの立ち位置を明確にしたいと思っている。現在の活力に満ちた状況は、アフリカ大陸のさまざまなレベル(国家、地方、大都市)で、軌道を多様化させるのには絶好だ。ちなみに、一部の国は新興国(南アフリカ、モロッコ)に組み入れられているのに対し、貧困と政治的な無秩序の負のスパイラルにおちいっている国(中央アフリカ共和国、ソマリア)もある。状況はきわめて複雑で、経済と人口、環境の動向が同時期に、さまざまな時点でからみあっているのが特徴だ。「アフリカ経済の歩みはいたって遅い。

人口の動向は、アフリカを専門とするイギリス人歴史家、ジョン・イリフェが強調するように(2009年)、鍵となるパラーメーターの1つである。広大な空間を移動しながら暮らす、多いとはいえない人口に税を課すのが非常にむずかしいことから、アフリカの指導者は遠方との貿易を管理することで権力を築くことが多かった。それはたとえば、フランス人地理学者のロラン・プルティエが指摘するように、18世紀から19世紀に最盛期を迎えていた奴隷貿易である。これが先例となって、未加工の原材料(農業、鉱業林業)の輸出に頼る姿源依存型経済に頭襲され、19世紀終わりから、植民地時代をへて独立してからも実施されている。こうして、経済が原材料の世界相場に左右される脆弱な国家が生まれることになる。これらの国々は、現在までのところ、多様な工程で経済全般を押し上げることができず、結果、より多くの人々の生活 が持続的に向上する意味での発展からは見放されている。

1960年代の至福の時代(原材料の相場が高騰)のあとは、相場の下落で経済成長が失墜(1970-1980年)した。つづく冷戦の終了(1990年)と、関連する支援の打ち切りなどで、アフリカの国々は貧困と政治危機のスパイラルにおちいり、各国は構造的な修正計画をよぎなくされた。次いで2000年から2014年にかけて、新たな好機が訪れる。中国の成長が世界の原材料相場を支えたのである。債務の帳消しと、新自由主義経済の改革(ゆるい税制と、法的な安全性)に引きつけられた対外投資が、とくに新興国(中国がいちばん目立つが、一国だけではない)から競ってつぎこまれた。くわえて、国外移住者からの送金や、グローバル化された金融が、合法・違法にかかわらず流れてくる。この間、経済は成長して、資金が流通、各国はふたたび開発計画をスタートさせた。しかし、2014年から2017年はふたたび原材料相場が下落し、実行中の変革の本質が問われるようになる。

ところでアフリカの人口は、奴隷貿易や植民地時代の武力衝突などで減少していたのだが、第2次世界大戦以降、猛烈な勢いでとりもどしている。世界の人口転移の最新版では、アフリカ人は1900年には1億人だったのが、2000年には10億人になり、2050年には24億5000万人に達し、2100年に32億人から44億人のあいだで安定すると予想されている。都市化率も上昇している(人口に占める都市住民の割合は、1950年には、パーセントだったのが、2015年、+10パーセント)。これらの変化は、かつてない規模とペースで起きており、好機をもたらすと同時に挑戦にもなっている。好機といえるのは、新興国を目ざすには、けた違いの消費とインフラ整備が欠かせないのだが、その点、都市化で経済力をつけた中流階級には相当の消費が期待できるからだ。

そうなると、外部依存型経済で貧困におちいってきた長い歴史とも決別し、大陸内部で生産性のある多様な分野に活路を提供する可能性も見えてくる。総人口のなかで非労働力人口(15歳以下と、65歳以上)の割合が減少すれば、アフリカにもついに「人口ボーナス」期労働力人口が増加して、消費や投資への購買力が高まり、経済成長が促進されること――が訪れることになる。そのいい例が、経済で急成長している中国だ。このシナリオでは、毎年、労働市場に参入する若い世代に見あう雇用が生まれることが想定されるのだが、そのいっぽうで、 政治・社会が急激に不安定になるリスクもはらんでいる。これらをふまえたうえで、別の新たな開発軌道として考えられるのは、世界の投資をアジアからアフリカへ移動させ、安価な労働市場としては最後の鉱脈を発掘することで、産業に舵を切ってスタートすることだろう。この過程をふむと、都市部の新たなサービス業と、農村経済の多様化につながり、アフリカの農業と都市部市場の関係もより密接になるはずだ。

それにくわえて、人口の伸びで想定されるのは、環境との均衡を保ちつつ、増加した人口を養うために農業のパフォーマンスを向上させることである。そのためには、フランスの地理学者ジャン=ピエール・レゾン(1997年)や、農学者ミシェル・グリフォン(2006年)が強調するように、環境に配慮しつつ農作物の増産をはかる「緑の革命」が必要になるだろう。しかも、アフリカ大陸の大半はいまだに農村部で貧困なことから、気候変動の影がよけいに重くのしかかっている。それによる結果はさまざま――その地域が乾燥化に向かうかどうかにより――であろうし、住民が気候変動に対応できるような設備にしても、いまだ確実なものはないのが現実だ。この不安を反映しているのが、2015年、国連の「ミレニアム開発目標」(MDGs)を受け継ぐ形で合意された「持続可能な開発目標」(SDGs)[2030年を目標]に、環境問題が統合されていることだろう。ちなみにこの重要問題は、2014年、「アフリカ連合」(AU-2001年に創設)に属する各国首脳が、前身「アフリカ統一機構」(OAU)の創設100周年を見越して合意した、長期的ヴィジョン「アジェンダ2063」にもしっかりと明記されている。

最後に、本書で使用した統計の出典についてひと言ふれておこう。強調したいのは、アフリカにかんする数字のデータでは信頼できるものがきわめて少ないことである。これは毎度のことなのだが、近年は状況が新しくなっている。実際に現在は、さまざまな組織が過剰なほどの統計的な情報を発信している。しかし、国連アフリカ経済委員会によると、アフリカで国際的基準に合致する統計を所有しているのはわずか12か国だけである。これでは情報は豊富でも、世界銀行チーフ・ディレクターのシャンタ・デバラジ ャンの表現を借りると、「アフリカの統計学の悲劇」は防ぎようがないだろう。アフリカでは、統計にかける国家予算や調整能力不足、計算方法の変化などから、慎重に扱うべき統計がおろそかにされている事実がある。たとえば2013年、ナイジェリアではGDP国内生産が再計算されて89パーセント増となるなど2倍近くに上昇、一挙に南アフリカを抜いてアフリカ最大の経済国になったのだが、貧困度はいっこうに減少していないのだ。それでも、いまや豊富な情報があれば、それを地図にして、将来を展望し、アフリカのおもな動向を理解することは可能なのである。

ジェロー・マグラン (著), アラン・デュブレッソン (著), オリヴィエ・ニノ (著), 鳥取絹子 (翻訳)
出版社: 原書房 (2019/3/26)、出典:出版社HP

喰い尽くされるアフリカ 欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日

グローバル経済の実態がわかる

しっかり取材されたノンフィクションの上、一般読者にも読み易い良著となっております。
内容が濃く、アフリカ諸国についての知識に乏しい読者にもわかりやすく、浮き彫りにしてくれる本で、読み物としてもテンポ良く読ませてくれます。

トム・バージェス (著), 山田 美明 (翻訳)
出版社: 集英社 (2016/7/26)、出典:出版社HP

目次

喰い尽くされるアフリカ 欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日
はじめに
序章 富の呪い
第1章 フトゥンゴ
第2章 貧困の温床
第3章 関係
第4章 ゾウが喧嘩をすると草地が荒れる
第5章 北京への懸け橋
第6章 融資とシアン化物
第7章 信仰は関係ない
第8章 新たな富裕層
エピローグ 共犯
*編集の都合上、原著の本文の一部を割愛いたしました。

喰い尽くされるアフリカ
欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日

母と父、そして二人のキッチンテーブルに

トム・バージェス (著), 山田 美明 (翻訳)
出版社: 集英社 (2016/7/26)、出典:出版社HP

はじめに

二〇一〇年の暮れごろから、私の体の具合が悪くなった。吐き気が治まらない。最初は、数か月前に選挙の取材に行ったギニアでマラリアにかかったか、胃腸を侵す悪い菌でも拾ったのかと思った。しかし、しばらくしても吐き気は一向に 消えない。当時、フィナンシャル・タイムズ紙のアフリカ西部特派員として、ナイジェリアの大都市ラゴスで仕事をして いた私は、一週間ほどの休暇のつもりでイギリスに戻った。帰国すると医師に胃カメラで診てもらったが、何も見つからない。やがて私は、眠ることもできなくなった。さまざまな物音にびっくりしたり、急に涙が止まらなくなったりするの だ。休暇の終わりに、空港までの電車の中で読む新聞を買いに行こうとしたが、脚ががくがくしていうことをきかない。 結局私は、休暇を延長して別の医師に診てもらった。するとその医師は、精神科医を紹介してくれた。その精神科医のところへ行き、原因不明の症状に悩まされ、途方に暮れていることを説明していると、なぜか涙が出てきた。自分でも訳が わからないまま、すすり泣いていた。精神科医の見立てによると、私は重度のうつ病だった。すぐにでも精神科病棟に入ったほうがいいと言われ、その場で抗不安薬のジアゼパムや抗うつ薬を処方された。そして入院して数日すると、このうつ症状とともに、もう一つのものが私を苦しめ始めた。

一八か月前、私はラゴスからジョスへ取材に行った。ジョスはナイジェリアの都市で、イスラム教徒が多い北部とキリ スト教徒が多い南部の境にある。そこで、対立する住民の間で暴動が発生したという。私がジョスの外れの村に到着したのは、暴徒が家々に火を放った直後だった。中には住民がいた。もちろん子供や幼児もだ。私は写真を撮り、死体を数 え、記事を書いて送った。この殺戮の原因を突き止めようとしたが、数日後には別の仕事のため、その場を離れた。それからの数か月間は、遺体の映像が頭に浮かぶたびに、本能的にその映像を頭から追い出し、見ないようにしていた。

このジョスの亡霊が、病院のベッドの端に現れたのだ。井戸に詰め込まれた女性たち、首の骨を折られた老人、それに 赤ん坊だ。亡霊たちは、一度現れるとそのまま居座った。そこで精神科医は、軍で働いた経験のあるセラピストとともに (二人とも、ものわかりがよく親切だった)、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療に取りかかった。PTSDに ついては、自身も怖ろしい体験をしたことがあるという私の友人が、わかりやすいたとえ話で説明してくれた。その話に よれば、人間の脳は、ゴルフのパットの練習に使う簡易ホールのようなものだという。ボールは普通、スムーズにカップ に落ちる。あらゆる経験は次から次へと処理されて、記憶の彼方へと落ちていく。しかし、交通事故や暴行や残虐行為な ど、重大な精神的打撃を受けると、ボールはカップに落ちない。脳の中を騒々しく動き回り、ダメージを与える。不安が ふくれ上がり、そのことだけしか考えられなくなる。その経験の生々しい鮮やかな映像が 蘇ってくる。それは、何の理 由もなく不意に現れることもあれば、その映像を連想させるものが引き金になることもある。私の場合は、映画の暴力シーンや炎が引き金になった。

それでも、家族や友人がしっかりと私を支えてくれた。幸いにも入院して六週間が過ぎたころ、寒々しいユーモアで笑 わされたこともあった。BBCでウィリアム王子とケイト・ミドルトンの結婚式の模様が中継されたときに 、司会者がこう言ったのだ。「視聴者のみなさんはきっと、この場面を目にした場所を一生忘れることはないでしょう」すると、病棟 のロビーで放送を見ていた依存症やうつ病の患者たちが、一斉に皮肉めいた笑い声を上げ、画面に向けてさまざまな野次 を飛ばした。

PTSDの治療は単純だが、かなりの荒療治だ。たとえばクモ恐怖症の治療の場合、まずはクモの絵、次いでクモのビ デオを見せ、それから本物のクモを見せて、最終的にはタランチュラに触れるようにする。それと同じように、私もジョ スの記憶に真正面から立ち向かわされた。まず部屋を、心を落ち着かせるアロマで満たす。カモミールの香りと、昔のざらざらした日焼け止めクリームのようなにおいだ。どちらも幸せだった幼年時代を思い出させる。その中で私は、自分が 目撃したことを思い出し、書き留めていった。紙を漏らすほど涙が流れてくると、セラピストが優しく励ましてくれた。 そしてその作業が終わると、自分が書いたものを声に出して読み上げた。それを来る日も来る日も繰り返した。 すると少しずつ恐怖は薄れていった。そして罪悪感が残った。自分は、ジョスの殺戮で亡くなった多くの人々と同じように苦しまなければならないと思った。同じ形でではないにせよ、同じ程度に苦しまなければいけない、と。死んだ人々 に対して、自分が生きていることが償いきれないほどの負い目となった。しかしそれから数か月してようやく、私はある 疑問に答えを出すことができた。もし自分が、ジョスでの殺戮行為について裁判にかけられたとしたら、私の想像の中に 出てくる厳格な裁判官はともかく、私と同じような立場の陪審員は私を有罪とするだろうか?おそらく有罪にはしない だろう。そう考えられるようになると、亡霊は消えた。

しかし、それで完全に罪悪感が消えたわけではない。私は以前、ジョスの暴動は「民族間の対立」が引き起こしたもの だと報道した。実際、そのとおりではある。しかし、何を巡っての対立なのだろう? 一億七〇万人のナイジェリア 国民は、ほとんどが極貧状態にある。しかしナイジェリアという国は、少なくともある一面だけを見れば、信じられないほど裕福でもある。原油の輸出により、毎年数百億ドルもの利益を生み出しているのだ。

私はやがて、アフリカの辺部な村で起きた殺戮と、裕福な世界の人々の快適な暮らしとをつなぐ糸があることに気づいた。その糸はグローバル経済を通じ、紛争地帯から、権力や富が集中するニューヨークや香港やロンドンへとつながって いる。その糸をたどってみようというのが本書の内容である。

誰もがフォークの先にあるものを見つめる、あの凍りついた瞬間
―ウィリアム・バロウズ「裸のランチ」

序章

富の呪い
天然資源に恵まれた国々に暮らす人々の大半は貧困に苦 しんでいる。アフリカも例外ではない。エコノミストはこの 現象を「資源の呪い」と呼んでいる。フィナンシャル・タイム ズ紙特派員としてアフリカに赴任した著者は、「資源の呪 い」の実態に加え、資源に依存しているアフリカ諸国で行 われている組織的な略奪について取材を始めた。

「世界の金融の交差点」と記された旅行者用の案内標識のそばに立つニューヨーク証券取引所。その向かい側、ウォール 街二三番地に、堂々たる石造りの建物がある。立派なたたずまいは、その建物を建てたある銀行家の力をまざまざと見せ つけている。ある銀行家というのは、アメリカの大資本家J・P・モルガンである。このビルは、モルガンが自分の銀行 の拠点として一九一三年に建てたものだ。ビルの外観は、ハリウッド映画でもよく知られている。二〇一二年の映画『ダークナイトライジング」で、ゴッサムシティの証券取引所として使われたのだ。しかし、二〇一三年末に私が訪れたと きには、赤いカーペットは薄汚れ、大西洋から吹き込んでくる霧雨に濡れていた。かつて巨大なシャンデリアがきらめいていた内部は荒れていた。金属製の門は閉ざされており、汚れたガラスを通して見えるものといえば、数本の蛍光灯、ベニヤ板で覆われた階段、それに赤く光る「出口」の表示ぐらいだ。

しかし、これほど荒廃しているにもかかわらず、ウォール街二三番地はいまだにエリートの象徴である。変わりゆくグ ローバル経済のゲームの勝者だけが、これを手にできる。この建物を現在所有している人物を調べると、香港の高層ビル の一〇階のオフィスにたどり着く。かつてイギリス軍の兵舎があったクイーンズウェイ八八番地は、鏡張りの高層ビルが 並ぶ複合施設パシフィック・プレイスに姿を変えた。太陽光がビルに反射し、金融街の上でぎらぎらと輝いている。一階 は豪勢なショッピングモールとなっており、アルマーニ、プラダ、シャネル、ディオールなどの店舗が軒を連ねる。エア コンがきいていて、外のじめじめした湿気もここまではやって来ない。七つ並ぶ高層ビルのうち、いちばん高いビルの上層階には高級ホテルのアイランド シャングリ・ラ 香港が入っており、一泊一万ドルでスイートルームを提供している。
そんな中にあって、その一〇階のオフィスはほとんど目立たない。そこを本拠地として、あるいは企業グループの登記 住所として使用している男女もまた同様である。この企業グループは、その足跡を追っている人々から非公式に「クイー ンズウェイ・グループ」と呼ばれている(1)。このグループは、秘密のオフショア会社を含む複雑な企業ネットワークを通じ、モスクワやマンハッタン、北朝鮮やインドネシアで事業を展開している。そのビジネスパートナーには、中国の 国有企業、BPやトタルなどの欧米の石油企業、スイスを拠点とする巨大商社グレンコアといった名前が並ぶ。ただし、 クイーンズウェイ・グループの資産や力のもとになっているのは主に、アフリカの大地に眠る天然資源だ。

ニューヨークのウォール街二三番地からも香港のクイーンズウェイ八八番地からも同じく一万1000キロメートルほど離れたところに、もう一つ高層ビルがある。アフリカ南部の国アンゴラの首都ルアンダの中心部に、大西洋の波が打ち 寄せる湾を見下ろすように、二五階建ての金色のビルがそびえている。正式名称はCIFルアンダ・ワンだが、地元では トム&ジェリー・ビルと呼ばれている。二〇〇八年に完成した際に、外壁にそのアニメーションが映し出されたからだ。 ビルの中には、ダンスルーム、シガー・バー、そして、海底の巨大油田から原油を採掘する外国の石油企業のオフィスがある。
がっしりした体格の警備員が見張っている入り口の上には、三つの旗が翻っている。第一の旗はアンゴラの国旗、第二 の旗はアンゴラで勢力を増しつつある中国の国旗である。中国は、アンゴラに道路、橋、鉄道を気前よく提供している。 その見返りにアンゴラは、中国が輸入する石油の七分の一を供給しており、それが中国の猛烈な経済成長を促進してい る。どちらの旗にも共産主義の黄色の星印があるが、最近では両国の指導者は、社会主義的な政権運営のかたわら、信じ られないほどの個人財産を築き上げている。

第三の旗は国旗ではなく、このビルを建てた企業の旗だ。白地に「CIF」というグレーの文字が並んでいる。CIF とは中国国際基金 (China International Fund)のことだ。クイーンズウェイ・グループの謎に満ちた多国籍ネットワー クの中では比較的、表舞台に出ることの多い企業である。これらの旗は三つ合わせて、新たに生まれた帝国の象徴となっている。
二〇〇八年、私はフィナンシャル・タイムズ紙の特派員として、南アフリカ共和国のヨハネスブルグに赴任した。そのころの南アフリカは好況に沸き返っていた。いや、それまではと言ったほうがいいかもしれない。南アフリカや近隣諸国 が豊富に抱える天然資源の価格が、二〇00年代に入ってから絶えず上昇を続けていた。中国やインドなど、急成長を遂げている国々が、いくらでも天然資源を欲しがったからだ。一九九〇年代、プラチナ一オンス(およそ二八・三五グラム)の平均価格は四七〇ドルだった(2)。また、銅一トンは二六〇〇ドル、原油一バレルは二二ドルだった。それが二〇〇八 年になるころには、プラチナは三倍の一五〇〇ドル、銅は二・五倍の六八〇〇ドルになっていた。原油は九五ドルと四倍 以上になり、二〇〇八年七月のある日には一バレル一四七ドルを記録した。だが間もなく、アメリカの金融システムが崩 壊した。その衝撃は世界中の経済に波及し、天然資源の商品価格は急落した。遠く離れた国の銀行家が無茶をしたせい で、アフリカ経済の生命線である資源収入が危機に陥ったのだ。企業幹部や大臣、解雇された鉱山労働者はなす術もなく 事態を見守るしかなかった。ところが中国など一部の国は、それでも成長を続けた。数年のうちに商品価格は金融危機以 前のレベルに戻った。景気が回復したのである。

私は一年にわたりアフリカ南部を行き来し、選挙や政変、汚職裁判、貧困対策、ヨハネスブルグに拠点を置く巨大鉱業 企業の資産について報道した。二〇〇九年にはナイジェリアのラゴスに移り、紛争の危険をはらむ西アフリカ諸国を二年 間取材した。
アフリカの貧困や紛争の原因については、数多くの説が唱えられている。しかしその多くは、サハラ砂漠以南のアフリ カ四八か国、九億人の人々を一くくりに考えている(3)。一部の学者は、植民地化によりアフリカが荒廃し、世界銀行 や国際通貨基金(IMF)の独断的な命令により被害がさらに悪化したと主張する。また別の学者は、アフリカ人はきわ めて「部族的」であり、腐敗や暴力に走りやすい傾向があるため、自らを統治する力がないと説く。あるいは、アフリカ はさほど問題なく統治されているのに、刺激的な記事を求めるジャーナリストや、支援者の気を引こうとする慈善団体 が、アフリカのイメージをゆがめているのだという人もいる。こうした原因の分析と同じように、提唱される対策もまた 多種多様だ。中には相反する対策さえある。政府支出を削減して民間企業を活躍させる、軍隊の改革や「よい統治」の 促進や女性の地位向上に取り組む、支援金を注ぎ込む、市場を開放してグローバル経済にアフリカを引き込む、などだ。

ところが、裕福な国が景気後退に苦しんでいたころ、評論家や投資家、専門家などが、アフリカは逆に成長していると 主張し始めた。商業指標によれば、商品相場の急騰による経済革命のおかげで中流階級が成長し、紛争や衝突が減り、携帯電話や高価なウィスキーの消費が大きく増えたという。しかし、こうした明るい分析は、アフリカのごく一部の地域にしか当てはまらない。私が実際に訪れてみると、ナイジェリアの石油産業の本拠地であるニジェール川のデルタ地帯は油 まみれになっていた。鉱物が豊富なコンゴ民主共和国(アフリカにはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国がある。本書では以下、コンゴ民主共和国を「コンゴ」、コンゴ共和国を「コンゴ共和国」と表記する)の東部地域は戦場と化していた。私はやがて、アフリカの貴重な 天然資源は、アフリカを救うどころか、アフリカに呪いをかけているのではないかと考えるようになった。
二〇年以上にわたりエコノミストたちは、天然資源がどうしてアフリカに害をもたらしているのかを明らかにしようと している。コロンビア大学のマカータン・ハンフリーズ、ジェフリー・サックス、ジョセフ・スティグリッツは、二〇〇 七年の著作でこう述べている。「矛盾しているように聞こえるかもしれないが、石油などの天然資源の発見や採掘により 富もチャンスも増えるものと期待されたにもかかわらず、こうした資源は、バランスの取れた持続可能な発展を促進する どころか、むしろ妨げている場合がほとんどである(4)」 コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーの アナリストによれば、貧困に苦しむ人々の六九パーセントは、石油や天然ガス、鉱物資源が経済的に重要な役割を果たし

ている国で暮らしている。また、こうした国の一人あたりの平均収入は、世界平均をはるかに下回っているという
(5)。実際、天然資源だけを見ればきわめて恵まれた国に暮らす人々の大半が、明日をも知れない生活をしている。世 界銀行によれば、一日一・二五ドル未満で暮らす貧困者の割合は(国ごとにそれだけの額で何が買えるのかを調べ、調整 を施している)、ナイジェリアで六八パーセント、アンゴラで四三パーセントに達している。ちなみに、アフリカの石 油・天然ガス生産量の第一位がナイジェリア、第二位がアンゴラである。また、ザンビアとコンゴの国境周辺は、アフリ カ有数の銅産出地帯となっている。だが両国の貧困率を見ると、ザンビアが七五パーセント、コンゴが八八パーセントに 及ぶ。比較のためにほかの国の貧困率を挙げておくと、インドは三三パーセント、中国は一二パーセント、メキシコは 。・七パーセント、ポーランドはO・一パーセントだ。

エコノミストはこの現象を「資源の呪い」と呼んでいる。もちろん、アフリカにしろほかの地域にしろ、それだけで紛 争や飢餓が蔓延している理由を説明することはできない。たとえばケニアなど、資源産業がさほど重要な地位を占めていないアフリカ諸国でも、汚職や民族対立はある。逆に、資源が豊かな国が必ずしも呪われる運命にあるというわけでもな い。ノルウェーを見るといい。しかしたいていの場合、石油産業や鉱業など、資源産業が経済を支配している国は、好ましくない状態に陥る。資源の売買によりドルが流入してくると、経済そのものがゆがんでしまうのだ。そもそも、政府が 天然資源から得る収入は、いわば不労所得である。政府は単に、外国の企業が原油を汲み上げたり鉱石を採掘したりする許可を与えているだけだ。この種の収入は「資源レント」と呼ばれるが、健全な管理が行われることはなく、国家を支配 する人々が勝手に使える資金を大量に生み出す。極端な場合になると、統治者と国民との社会契約さえ破綻させてしま う。支配階級の人間はもはや国民に課税して政府の資金を集める必要がないため、国民の同意を取りつける必要もなくなってしまうからだ。
このように天然資源で利益を上げている政府は、国民に対する借りがないため、政府の利益になることに国の収入を費やす傾向がある。そのため、教育支出は減り、軍事予算がふくらむ(6)。また、資源産業には汚職がつきものだ。泥棒 政治が幅をきかせる。一度権力の座につけば、そこを離れようとはしない。その結果、大量の資源収入に基づいた経済 は、独裁政治を生み出す。大統領在職期間が世界一長い人物の上位四人は、いずれも石油や鉱物資源に恵まれたアフリカ の国の支配者である。具体的には、赤道ギニアのテオドロ・オビアン・ンゲマ、アンゴラのジョゼ・エドゥアルド・ド ス・サントス、ジンバブエのロバート・ムガベ、カメルーンのポール・ビヤだ。この四人の在職期間を合計すると一三六 年になる。

石油で財を成したロシアの新興財閥や、数世紀前にラテンアメリカの金銀を略奪したスペインの征服者を見ても明らか なように、資源レントは少数者の手に富や権力を集中させる。そのため、「生き残りをかけた熾烈な戦い」を生み出す。 これは、西アフリカの国連高官として、さまざまな政変の仲裁役を務めてきたアルジェリアの政治家サイード・ジニット の言葉だ(7) 生き残りとは、そのレントの分け前を獲得することである。獲得できなければ死ぬほかない。
この資源の呪いは、アフリカに限ったことではない。だが、世界でもっとも貧しいと同時に、おそらくもっとも資源が 豊かであるこのアフリカにおいて顕著に表れている。
アフリカは、世界の人口の一三パーセントを占めている。それにもかかわらず、世界の国内総生産(GDP)の二パー セントしか占めていない。しかしアフリカには、世界の原油の一五パーセント、世界の金の四〇パーセント、世界のプラ チナの八〇パーセントがある。アフリカ大陸がほかの大陸ほど調査が進んでいないことを考慮すれば、それ以上の石油や 鉱物が眠っている可能性さえある(8) アフリカには、世界最大のダイヤモンド鉱山がある。ウラン、銅、鉄鉱石、ボーキサイト(アルミニウムを作るのに利用される)など、火山性の地質が生み出すありとあらゆる鉱物の大規模な鉱床が ある。ある試算によれば、世界の炭化水素資源および鉱物資源のおよそ三分の一がアフリカにあるという(9)。

内情をよく知らない人は、アフリカに援助しても無駄だと言う。いくら支援をしても、それをがつがつ飲み込むばかり で、その見返りにグローバル経済に貢献することはないと主張する。しかし、そんな人には資源産業をもっとよく見てほしい。アフリカとほかの世界との関係が、違った形で見えてくるはずだ。二〇一〇年にアフリカから輸出された燃料や鉱 物資源の総額は、三三三〇億ドルに上る。これは、アフリカへの支援額の七倍以上に当たる(汚職や脱税によりアフリカ から流出した膨大な資金はここには含めていない(1))。だが、こうした資源を供給するところと消費するところで は、かなりの生活格差がある。その格差を見れば、石油や鉱物資源の取引でどちらが得をしているかがわかる。大半のア フリカ人がいまだにぎりぎりの生活をしている理由もそこにある。たとえば、女性が出産時に死亡する割合を見ると、フ ランスは砂漠国家ニジェールの10分の一である。だがフランスは、その経済を支える原子力発電の燃料であるウラン を、主にこのニジェールから輸入している。また、フィンランド人や韓国人の平均寿命は八〇歳ほどである。両国の経済は、フィンランドはノキア、韓国はサムスンといった巨大企業に支えられている。どちらも世界有数の携帯電話メーカーだ。その携帯電話のバッテリーの製造に欠かせない鉱物の世界有数の鉱床がコンゴにあるが、この国では五〇歳過ぎまで 生きられれば運がいいほうだ。 「アフリカの石油や鉱物は世界のあちこちに運ばれていく。主に北アメリカやヨーロッパだが、最近は中国も増えてき た。しかし全体的に見ると、アフリカの天然資源はグローバル市場に流れ、ロンドンやニューヨーク、香港を拠点とする トレーダーが価格を決める。そのため、南アフリカが金の輸出を減らしたり、ナイジェリアが石油の輸出を減らしたり、 コンゴが銅の輸出を減らしたりすれば、世界中で価格が上がる。もちろん、貿易ルートが変わることはある。たとえば、 最近アメリカではシェールオイルの生産が増えたため、ナイジェリアからアメリカへ向かう石油の量が減り、その分アジ アへ向かう石油の量が増えている。しかし、世界全体の石油供給量に占めるアフリカの石油の割合を考えると、自分の車 にガソリンを満タンに入れた場合、一四回に一回は、アフリカの原油から精製したガソリンを入れている計算になる(= 一同様に、携帯電話の五台に一台は、コンゴ東部の荒れ地で産出されたタンタルの小片を使用している。

アフリカは、天然資源が過度に豊富なだけではない。天然資源に過度に依存している。IMFは、輸出の四分の一以上 を天然資源に頼っている国を「資源の豊かな」国と定義している。こうした国は、資源の呪いに陥りやすい国でもあるの だが、アフリカの実に二〇以上の国がこれに当てはまる(2) 輸出に占める天然資源の割合は、ヨーロッパで一一パーセント、アジアで一二パーセント、北アメリカで一五パーセント、ラテンアメリカで四二パーセントだが、アフリカでは 六六パーセントに及ぶ。旧ソビエト連邦よりやや多く、中東よりやや少ない値である(B)。実際、ナイジェリアでは輸 出の九七パーセント、アンゴラでは輸出の九八パーセントを、石油と天然ガスが占めている。残りの大部分はダイヤモン ドである(1) 二〇一四年後半、天然資源の価格が下がり始めると、アフリカの資源国家があまりに資源に依存しすぎていたことが浮き彫りになった。こうした国は、好況時に度の過ぎた支出や借り入れをしていた。そのため資源レントが 急落する見込みが高まると、国の財政の不安定さが露呈することになった。
資源の呪いとは、こうした目に見えない力が生み出す不運な経済現象だけに留まらない。現在、資源に依存しているア フリカ諸国では、組織的な略奪が行われている。その犠牲になっている人も、その利益を手にしている人もはっきりして いる。アフリカ南部での略奪は一九世紀に始まった。ヨハネスブルグの開拓地の近くでダイヤモンドや金が発見される と、それに刺激され、ヨーロッパ列強から開拓者、使節、鉱山労働者、商人、傭兵がアフリカにやって来た。彼らは豊か な鉱物資源を求め、海岸から大陸内部へと分け入り、大西洋岸から奴隷、金、ヤシ油を運び出した。二〇世紀の半ばになると、ナイジェリアで発見された石油も国外へ運び去られた。やがてヨーロッパ列強による植民地支配が終わり、アフリ カ諸国は独立を勝ち取ったが、資源産業を牛耳る巨大企業がアフリカから離れることはなかった。現在では、新たな時 代の始まりを告げるさまざまな技術革新が行われている。化石燃料が地球に与える脅威についても理解が進みつつある。 それでも、アフリカに豊富に存在する主要資源は、グローバル経済の主役であり続けている。

数多くの裕福な多国籍企業から成る石油産業・鉱業のリーダーたちは、自分たちが悪いことをしているとは考えたがらない。むしろ、いいことをしているのだと考えている場合もある。世界最大の鉱業企業BHPビリトンの最高経営責任者 アンドリュー・マッケンジーは、二〇一三年にロンドンのローズ・クリケット・グラウンドで開催された夕食会の席で、 鉱業界の指導者五〇〇人を前にこう述べた。「世界のGDPの半分は、資源に支えられています。いや、全部が資源に支 えられていると言っていいでしょう。私たちの仕事の崇高な目的はそこにあります。私たちが経済を成長させれば、数十 億人とは言いませんが、数百万人を貧困から救い出せます(5)」
採掘と略奪は違う。略奪することなどまったく考えていない鉱業企業や石油企業もある。私が実際に会って話を聞いた こうした企業の幹部、地質学者、投資家の多くは、崇高な目的に貢献しているのだと信じている。自分たちの取り組みがなければ事態はもっと悪くなるだろうと、もっともらしい主張をする人もいる。それは、天然資源を利用して国民を貧困 から救い出そうと努力しているアフリカの政治家や公務員にも当てはまる。しかし、アフリカを略奪しているシステム は、こうした人々の力よりも強い。
略奪のシステムは近代化されている。かつては銃で脅し、アフリカの住民から土地や金やダイヤモンドを奪う協定に強 引に署名させていた。ところが現在では、年商数千億ドルの石油企業や鉱業企業が法律家の一団を派遣し、アフリカの各 国政府に欲深な条件を押しつける。こうして税金逃れをして貧しい国から利益をしぼり取るのだ。以前の列強諸国に代わ り、多国籍企業、アフリカの支配者層、その仲介人から成るネットワークが密かに幅をきかせている。このネットワーク は、国家権力と企業の力を結びつけるが、どこの国にも支えられていない。むしろ、このグローバル化の時代に成長して
きた多国籍エリートと結びついており、自分たちの富を増やすことだけを考えている。

[原注] 部分はカット

トム・バージェス (著), 山田 美明 (翻訳)
出版社: 集英社 (2016/7/26)、出典:出版社HP

東大塾 社会人のための現代アフリカ講義

あらゆる角度から現代アフリカについて学べる

大学の講義を、交代でそのまま口語収録しているので、臨場感があります。内容としては、産業資源のページにおいて農地をげんやと思ってしまう日本の企業や、アフリカの農業低生産性、中国はなぜアフリカで受け止められるのかといったことについて現場からのメッセージを強く発信しています。

遠藤 貢 (編集), 関谷 雄一 (編集)
出版社: 東京大学出版会 (2017/9/28)、出典:出版社HP

まえがき

2017年の夏に駒場で例年開講している後期課程の「アフリカ国際関係」の授業を履修していた中に,ケープタウン大学でのサマースクールに出かけるという二人の学生がいました。1980年代に学生時代をおくっていた身から顧みると、まさに「隔世の感」を抱かずにはいられませんでした。当事研究対象にしていた南アフリカは、アパルトヘイトの改革と変動を迎え混乱している時代でしたが,現地調査に行くというようなことは選択肢の中にはありませんでした。ただし,サマースクールに限らず、また学部生,大学院生に限らず,最近では指導学生などが頻繁に,しかも長期にわたる調査などを目的としてアフリカ滞在することがきわめて一般的になっています。それだけ,アフリカという地域が「近く」なったのだろうと思います。

しかし,他方で依然としてアフリカは「遠い」大陸だというのが普通の日本の人たちにとってはより実感に近いのかもしれません。最近は頻度が減っているような印象を持っていますが,以前はよく「なぜアフリカ(などという日本とそんなに関係のない地域)のことを研究しているのか」ということを質問されました。確かに多くの人にとってアフリカという地域をよりよく知ることが何か大きな意味を持つということは無いだろうとは思います。しかし,アフリカという地域は、いろいろと「知的好奇心」をかき立てる魅力にあふれ,勉強すればするほどわからなくなるところが面白いということもできるように思い重す。

アフリカは現在54カ国から構成されていますが、本講義で主に対象となっているサハラ以南アフリカ(サブサハラアフリカ)は、北アフリカ諸国を除く48カ国からなる多様な世界です。人口も約10億人(2016年現在)を突破しています。ルワンダの大虐殺やソマリアでの「ブラック・ホークダウン」などで「紛争大陸」とみられ,今日でもナイジェリアのボコ・ハラムに代表されるような不安定性を有しているという見方は一般的だと思います,他方,人口規模にも示されるように経済市場として「最後のフロンティア」と考えられたり,稀少資源の産出に注目して「資源大陸」とも考えられるなど、,現代世界におけるユニークな地域としての認識もあります。さらには近年の中国の経済進出の影響が,様々に伝えられ,最近ではケニアでの鉄道建設(ナイロビから、ンバサ)に注目が集まりました。その多様性とその変容過程の全貌を理解することは非常に難しいのですが,本書では,執筆者(講師)それぞれの立場から。変容するアフリカへの様々な問題がユニークな視座から検討されています。

本書は,2015年秋季に開催された「グレーター東大塾」アフリカ「飛躍するアフリカと新たなる視座」での10回の講演をもとにしてその内容を編集したものです。2015年は、翌年の2016年に初のアフリカ開催(ケニアの首都ナイロビ)となる第6回アフリカ開発会議(TICADVI)を前に、「最後のフロンティア」とも評されてきたアフリカに一定の関心が寄せられた時期でもあり、日本在住のアフリカ出身の方をはじめ民間企業の方からも多くの参加者を得ることが出来,また高度な質問を出していただきました。その後,TIVADVIに向けてはアフリカが抱えるいくつかの課題ガ現われることになりました。
第1に中国経済の減速などに起因する国際資源価格の下落による経済成長の後退,そして第2にエボラ出血熱の流行のもとで明らかになった保健システムの脆弱性,そして第3に西アフリカや北東アフリカ地域での暴力的過激主義の拡大,といった課題です。換言すれば,第1の課題は,2000年代に入ってから,アフリカには特に資源価格の上昇と連動する形での高い経済成長がみられてきたものの,一局面として経済の停滞が生じていることでした.また,第2,第3の課題に示されているように、アフリカにおいては依然として十分なガバナンスが実現していない,あるいは政府が機能しないといった状況の下に,様々な安全保障上の課題が表出されている状況が継続している状況があります。しかし、本書でも改めて示されているように、アフリカは課題の山積する地域というだけではなく、多くの潜在的な力を持つダイナミックな大陸でもあります。本書が,少しでもアフリカに関心を持った読者にとって、この魅力的な地への一つの導きとなることを強く願っています。

2017年8月
遠藤貢

遠藤 貢 (編集), 関谷 雄一 (編集)
出版社: 東京大学出版会 (2017/9/28)、出典:出版社HP

目次

第1講 変容するアフリカ
――その新たな視座への誘い 遠藤 貢
はじめに
1 人々の移動と交易の盛んな大陸
2 15世紀以降のアフリカを考える視座
3 植民地主義国家(colonial state)
4 独立期のアフリカ国家の特徴
5 グローバル化の進行下でのアフリカの新たな適応の様式とその現象化
6 「主権」をめぐる問題群

第2講 グローバル化するアフリカをごう理解するか
――資源・食糧・中国・日本 はじめに 平野 克己
はじめに
1 アフリカ経済はどうして成長してきたか
2 アフリカに投資が入ってきた
3 アフリカの消費爆発
4 サブサハラ・アフリカの輸出構成
5 各国のアフリカ輸入
6 資源の戦い
7 国際テロとアフリカ
8 アフリカの経済成長はいつまで続くか
9 経済予測比較
10 日本および東アジアの食料安全保障
11 アフリカは物価が高い
12 中国のアフリカ政策
13 中国をめぐる各国の動き
14 南アフリカのアフリカ域内貿易
15 南アフリカ企業の展開
16 日本経済の閉鎖性と低成長
17 日本企業の課題

第3講 政治
――長期の視点でアフリカを理解する 武内 進一
はじめに
1 独立後アフリカの政治経済
2 アフリカ諸国の共振を理解する独立をめぐって
3 冷戦期アフリカの政治経済
4 冷戦終結と紛争の頻発
5 2000年代以降のアフリカ政治
おわりに−アフリカ政治の見取り図

第4講 産業資源
――アフリカ・ビジネスの可能性と課題 白戸 圭一
はじめに
1 サブサハラ・アフリカのGDP成長率
2 サブサハラ・アフリカ向け外国直接投資額の推移
3 アフリカにおける日本の直接投資総額
4 日本による投資受け入れ上位5ヵ国
5 EUによる投資受け入れ上位5ヵ国
6 アメリカによる投資の受け入れ上位5ヵ国
7 中国による投資受け入れ上位5ヵ国
8 資源開発
9 アグリビジネス
10 産業資源の投資が1つの国を作り替えてしまうくらいのインパクトとは
11 地元の反対運動に直面する石油企業ケニアの事例
12 プロサバンナへの反対モザンビークの事例
13 土地,経済成長を巡る認識のギャップ
14 アフリカ農業の低生産性
15 「農地」を「原野」と誤認する外国企業
16 土地制度の問題
17 アフリカにおける「国家」とは?
おわりに−人口爆発にどう対応するのか

第5講 アフリカと日本のかかわり
――そのあり方に新しい展開 高橋 基樹
はじめに 「リオリエント」とアフラジア
1 「希望の大陸(?)」アフリカとその高度成長
2 日本の自助努力支援と東アジア
3 開発・工業化のための条件とは−先進国と東アジアの経験から
4 アフリカに開発・工業化の条件はそなわっているのか
5 世界経済の構造変化とアフリカ
おわりに−アフラジアの復興と日本の役割

第6講 アフリカにおける〈伝統〉の創造と変容
――マダガスカルの改葬儀礼から考える 森山 工
はじめに
1 マダガスカルと〈シハナカの地〉
2 シハナカにおける墓とファマディハナ
3 シハナカにおける墓の個別化
4 メリナにおける墓の形態
5 メリナにおけるファマディハナ
おわりに

第7講 現代アフリカの農村開発
――三国三様の現状 関谷 雄一
はじめに
1 ニジェール(参加型アグロフォレストリー)
2 ケニア(地域社会組織の台頭)
3 マラウイ(農民自立支援の最先端)

第8講 アフリカにおける紛争と共生
――ローカルな視点から 太田 至
はじめに
1 アフリカにおける紛争とその解決のための「主流の試み」
2 パラヴァーという「伝統」
3 ボラナ社会のクラン会合
4 トゥルカナ社会の婚資交渉
おわりに

第9講 アフリカにおけるグローバル化を考える
――ナイジェリアの紛争から考える 品田 周平
はじめに
1 ナイジェリアの政治概観
2 ナイジェリアの軍事政権の影響
3 1999年以降の民主政治と二つの紛争
4 過激化する二つの紛争とその現在
5 2015年の総選挙
6 ブハリ政権が直面する問題

第10講 アフラシアを夢見る
――アフリカアジアの架橋を目指す国際関係論 峯 陽一
はじめに
1 予見可能な未来
2 アフラシアの汎民族主義者の夢
3 歴史から学ぶ

あとがき

遠藤 貢 (編集), 関谷 雄一 (編集)
出版社: 東京大学出版会 (2017/9/28)、出典:出版社HP