行動経済学 伝統的経済学との統合による新しい経済学を目指して

行動経済学を知る6冊 – 入門・基本から最先端・応用まで –も確認する

新版はじめに

本書の初版の出版後2017年にリチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞し、行動経済学と特に彼がキャス・サンスティーン教授とともに推進してきたナッジの政策手法がますます注目を集めている。新版では,初版の第11章で規範行動経済学の理論とナッジを含む応用・政策をまとめていたものを,第12章の理論と,第13章の応用・政策とに分けている。また,初版の第8章での社会的選好の神経経済学以外の研究の解説が2000年ごろまでの不平等回避モデルで終わっていたのに対し、それ以降の社会的選好の研究の発展を中心に解説する章を追加し、新たに第9章とした。

第9章には、利己的な経済人(ホモ・エコノミカス)なら選択しない利他的な行動について、社会的選好だけでは説明できない実験結果を多く含んでおり、第10章での規範や倫理観・価値観などの世界観による説明への橋渡しとしての役割がある。そこで、第9章では応報性の規範や倫理観で説明することが多い贈与交換の実験結果も解説した。その他の初版からの大きな改訂は、第4章でブロスペクト理論と累積ブロスペクト理論の違いについて解説し、これに伴い「確率ウェイト関数」の用語を累積ブロスペクト理論に限定して用いたことである。

神経経済学の分野でもここ数年で大きな動きがあった。神経経済学のアブローチから,意思決定の機能障害として、疾患や問題行動のメカニズムを調べる”Computational Psychiatry’という新たな研究分野が注目されてきている。この新しいアプローチをより深く学びたい読者らに情報を与えることを目的とし,第2章ではその概要とレビュー論文を紹介し,第6章では筆者(田中)らが行った疾患患者を対象とした具体的な研究結果を紹介した。
大垣はすべての根源と信ずる創造主に新版の完成を感謝する。初版の出版後,また初版とその英訳をもとに執筆し、2017年にSpringer社から出版した英語

Behavioral Economics: Toward a New Economics by Integration with Traditional Economicsとその執筆過程で,多くの研究者やゼミ生や履修生からコメントや示唆をいただき、それらは新版に反映されている。初版に書評を書いていただいた池田新介教授,川越敏司教授、福田慎一教授と、講義で用いたうえでコメントをいただいた大竹文雄教授,英訳を手伝っていただく過程でコメントをくださった才木あや子准教授に特に感謝したい。

初版から引き続き新版も編集を担当してくださり、新版の企画時から多くのご意見とコメントをいただいた有斐閣書籍編集第2部の渡部一樹氏に感謝したい。新版の執筆活動も支えてくれた妻の利恵子に感謝をこめて本書を捧げたい。

田中は、新しい手法やアブローチの研究が行われ続けている脳研究の分野において,それらを紹介する機会を与えていただいた大垣昌夫教授と渡部一樹氏に感謝したい。そして、いつもサポートしてくれる家族に心から感謝したい。2018年10月大垣昌夫 田中沙織

大垣 昌夫 (著), 田中 沙織 (著)
有斐閣; 新版 (2018/12/22)、出典:出版社HP

初版はじめに

行動経済学を紹介する一般書の中には、行動経済学は伝統的経済学を完全に否定するという立場で書かれているものが見受けられる。本書は行動経済学も伝統的経済学もそれぞれの有用性と限界を持つ道具であるという立場を取ることを第1章で説明するが、さらに全体を通して行動経済学を十分に理解するには伝統的経済学の知見を基礎にする必要があることを明らかにする。

現時点では、まだ行動経済学と伝統的経済学が統合されて新しい経済学が誕生したとはいえないが、本書はその方向性を目指して書かれている。この観点から,2002年と2013年のノーベル経済学賞を考えると,2002年受賞のダニエル・カーネマン教授の貢献は、伝統的経済学の仮定に対する反証の発見で終わったのではなく、プロスペクト理論(本書の第4章を参照)という新しい意思決定理論とヒューリスティックスという新しい限定合理性へのアプローチを提唱したことが意義深い。2002年に同時受賞のヴァーノン・スミス教授の貢献は,実験経済学という伝統的経済学にも行動経済学にも重要な実証研究の手法を確立した。2013年の同賞がラース・ピーター・ハンセン教授とユージン・ファーマ教授、ロバート・シラー教授の3人に対して授与されたことにもこの観点で大きな意味がある。ファイナンスの分野で、ファーマ教授は伝統的経済学の立場から,シラー教授は行動ファイナンスの立場から大きな貢献をした。

ハンセン教授は新しい統計学的手法を開発し、伝統的経済学の資産価格モデルに対して重要な反証を発見して、ナイト流不確実性を含む新しい経済モデルを構築した。本書はミクロ経済学の基礎と最小二乗法などの計量経済学の基礎をすでに学んだ経済学部3,4年生の講義やゼミに用いられることを想定している。また大学院生や研究者の読者にとって行動経済学の入門書としての役割を果たせると期待している。ひとつの講義で全章を順番にカバーする必要はなく、例えば應義塾大学では学部3,4年生を対象に第1章第1~2.2節,第3章(不確実性下の経済行動),第4章(プロスペクト理論),第5章(限定合理性),第6章(時間を通じた行動)の内容を中心とした講義と,第1章第1~2.1節,2.3~2.4節,第8章(社会的選好),第9章(文化とアイデンティティ)の内容を中心としたもうひとつ別の講義を1学期に同時に提供し、両方の講義を取った方が内容の理解が深まるが、片方だけの講義を取ることも可としている。

ゼミや卒業論文のための研究では、本書の内容をもとに、学生が個人やグルーブでアンケート調査や社会学などで広く行われている質的研究法としてインタビュー調査などを用いての研究が可能である。伝統的経済学の研究では一国などの大きなグループでの無作為抽出による調査には意味があるが,身近な学生のみを対象とするアンケート調査などの研究にはほとんど意味がないと考えられる場合が多かった。しかし実験研究では例えば第8章と第9章で紹介する「懲罰ルール付き公共財ゲーム」実験で、チューリッヒ大学の学生を対象にした実験で重要な結果が得られたことから15ヵ国での実験が行われ、もともとのチューリッヒ大学の実験結果のうち、さまざまな文化で普遍的な結果と文化によって異なる結果が明らかになった。アンケート調査でも、同様に、まず身近なグループを対象にして重要な結果が得られるかどうかを調べることには大きな意味がある。非常に重要な研究結果が得られれば、よりコストの高い日本全体での無作為抽出のアンケート調査などで同様な質問が使われることもありえよう。

本書は、日本語の行動経済学の入門書としては、ほぼ初めて神経経済学の章を設けた書であろう。経済学において,神経経済学は行動経済学の新しい流れとして注目されているが、いわゆる「文系」である経済学部の学生にはなかなかハードルが高いのも事実である。本書は、その初めの一歩を助けるために、神経科学の基礎的な知識から始まり、代表的な研究の概要をいくつか挙げている。より深く学びたい者には、英語の専門書や論文を読むことをお勧めする。

なお、本書の神経経済学に関わる部分(第2章,第4章補論1,第6章第4~6節,第8章第5節)と神経経済学と関連の深い第7章は田中が執筆を分担し,それ以外の部分は大垣が執筆を分担した。

大垣はわれわれが「偶然」と呼ぶものを支配されていると信ずる創造主に本書の完成を感謝する。慶應義塾大学で2010年度にボランティアで行動経済学のゼミの立ち上げに協力してくれた大垣ゼミ第0期生の小柴太郎,高野昌也,仲田真の各氏,研究と議論で刺激を与えてくれたゼミ生たち、本書の内容と練習問題について示唆をくれた行動経済学の履修生たち,本書の内容や関係の深い研究について意見交換や質問に対する回答をいただいた経済学のプロフェッションの同僚や共同研究者の赤林英夫、Ali Akkemik,安藤寿康,飯星博邦,石野卓也,大竹文雄,奥野正寛,金子守,亀坂安紀子,窪田康平,グレーヴァ香子,Simon Gachter,坂井豊貴,斉藤蔵敷島千鶴,田村輝之,中村亮介,Vipul Bhatt,平田憲司郎,船木由喜彦,Robert Veszteg, Colin Mckenzie,矢口裕一, Sun Youn Leeの各氏,本書執筆中や校正の段階でサポートページやメールなどでコメントをいただいた池田新介,市村英彦,今藤俊,大蔵洋子,大簡陽子,川西論,高野紗織里,田中美幸の各氏,本書の共著者の田中沙織氏.本書の企画時から多くのご意見とコメントをいただいた有斐閣書籍編集第2部の渡部一樹氏に感謝したい。本書の執筆活動を支えてくれた妻の利恵子に感謝をこめて本書を捧げたい。

田中は、まずこのような機会を与えていただいた共著者である大垣昌夫先生と渡部一樹氏に感謝したい。また、そもそも田中が経済学の世界に入るきっかけを作ってくださった大阪大学社会経済研究所の大竹文雄先生,大学院時代に辛抱強くご指導くださった沖縄科学技術大学院大学の銅谷賢治先生、そして日ごろからサポートしてくれる家族に感謝したい。2014年2月大垣昌夫 田中沙織

大垣 昌夫 (著), 田中 沙織 (著)
有斐閣; 新版 (2018/12/22)、出典:出版社HP

目次 – 行動経済学 伝統的経済学との統合による新しい経済学を目指して

新版 はじめに
初版はじめに

第1部 行動経済学と神経経済学
第1章行動経済学とは何か?
1 経済学とは
2 行動経済学とは
経済人の仮定と行動経済学
選好は外生的で安定的か?
経済人的合理性
人間は利己的か?
補論 ナッシュ均衡

第2章神経経済学とは何か?
1「報酬」に基づく意思決定
2 脳の 構造と働き
脳 の構造と神経活動
脳の働きを調べるための測定手法
脳の働きを調べるためのアプローチが
神経経済学の新しい動き一意思決定の機能という視点から疾患を理解する

第Ⅱ部プロスペクト理論と限定合理性
第3章 不確実性下の経済行動
1 くじと期待効用
2 リスクに対する態度
リスクに対する好中
リスクに対する選好と効用関数の形状
3 危険回避の測度
2つの危険度
危険回避度の性質
4 危険回避度の推定
5 期待効用理論とパラドックス
アレのパラドックス
エルスバーグのパラドックスとナイト流不確実性
話感と自制の意思決定モデル
補論1選好を効用関数で表現するための公理
補論2 絶対的危険回避度の性質
補論3相対的危険回避度の性質

第4章 プロスペクト理論
1 価値関数と参照点
2 意思決定ウェイト
3 アレのパラドックスとプロスペクト理論
アレのパラドックス再考
価値関数と確率ウェイト関数の推定
4心理会計
5 初期保有効果
初期保有効果の再検証
交換実験による初期保有効果の検証
6 プロスペクト理論の応用
補論1 効用関数の脳内表現
AI 報酬・損失に関わる部位
A2 不確実性に関わる部位
A3 プロスペクト理論との対応
補論2 累積プロスペクト理論

第5章限定合理性
1 美人コンテスト・ゲーム
2思考費用と無限回問題
3 心理学的アプローチ
4 フレーミング効果
5 ヒューリスティックス
ヒューリスティックスの定義が
代表性ヒューリスティックスが
利用可能性ヒューリスティックス
アンカリング
合計と平均値の属性代替

第Ⅲ部 時間割引と社会的選好
第6章 時間を通じた行動
1 フィッシャーの無差別曲線
2期間モデルの予算制約
2期間モデルの最適費
2 指数割引モデル
3 双曲割引モデル
双曲割引
準双曲割引
時間非整合性
コミットメント
4 実験で時間選好を測る
5時間選好に関わる脳機構
6時間選好研究の最近の動向

大垣 昌夫 (著), 田中 沙織 (著)
有斐閣; 新版 (2018/12/22)、出典:出版社HP

第7章 学習理論と神経経済学の実験
1 条件付けと学習理論
2 強化学習理論
3 脳の数理モデルとしての強化学習
4 予測誤差の脳機構
5 強化学習における時間割引とその機構

第8章 社会的選好:基礎編
1 他者への関心の存在を示す実験
公共財ゲーム
信頼ゲーム
2市場実験
スミスの市場実験
ホルトらの市場実験
3 最後通牒ゲームへの競争の導入
4 社会的選好モデル
3つの社会的選好モデル
純粋利他性モデル
不平等回避モデル
5 社会的選好の神経経済学
信頼ゲームにおける裏切りと報酬系
最後通帳ゲームと不公平
不公平に関する神経経済学
社会的感情の神経経済学
補論1 市場実験の理論分析
補論2 不平等回避モデルと競争

第9章 社会的選好:発展編
1 社会的選好と価格理論
2 アウトカム・ベースト社会的選好モデルの限界と修正の方向性
意図の重要性
社会的評生と不平等回避
独裁者ゲームの発展
3 贈与交換
贈与交換モデルのラボ実験
贈与交換モデルのフィールド実験
4 フィールド実験とラボ実験
ラボ実験の外的安当性の問題
倫理的な問題

第Ⅳ部 行動経済学のフロンティア
第10章文化とアイデンティティ
1 文化経済学とは
2 文化経済学のデータと実証分析
3 文化経済学と実験
独裁者ゲーム
最後通慄ゲーム、
公共財ゲーム
4 規範とアイデンティティ経済学
規範と経済学
アイデンティティ経済学
5 文化と世界観
6 文化伝達モデル
タフ・ラブ・モデル
タフ・ラブと文化差
補論1 均衡としての制度と文化
補論2 Krupka and Weber(2013)の独裁者ゲームの実験での理論予測
補論3 タフ・ラス・モデルの背景

第11章 幸福の経済学
1 厚生の3概念
2 厚生の個人同比較を避けた研究
人生のイベントの幸福度への影響
東日本大震災の幸福度への影響
利他的行動と幸福度
3厚生の個人間比較を含む研究結果
補論 固定効果モデル

第12章規範行動経済学:理論編
1 リバタリアン・バターナリズム
2 伝統的経済学の政策評価の理論的枠組みの限界
パレート基準
社会的厚生数
内生的選好モデル
3 3つの倫理観
4徳倫理の規範経済学への導入
徳倫理の導入のための基準
道徳評価関数と社会的目的関数
徳倫理の導入による最適政策への効果
5 無条件の愛の学習の原理
無条件の愛と徳
ワーク・ライフ・バランスのモデル
ボランティアのモデル
無条件の愛の学習と共同体
補論1 政府の財政問題とリカード等価定理
補論2 内生的選好モデルと条件なしと条件付き選好順序

第13章規範行動経済学:応用・政策編
1 ナッジとは
2 ナッジの介入の費用対効果
3 教育経済学で研究されている介入
非認知能力に関する介入
ソーシャル・キャビタルに関する介入
おわりに
1 行動経済学の将来
2 神経経済学の将来
付録 授業での経済実験と仮想質問アンケートの例
索引
事項索引
人名索引