反脆弱性[上]――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

【まとめ – タレブ書籍おすすめ本 – まぐれ、ブラックスワン、半脆弱、身銭を切れ 】も確認する

目次

反脆弱性[上]

目次

章のまとめとマップ

プロローグ
I. 風を愛するには
Ⅱ. 反脆さ
予測に頼らない
反脆さを奪うとどうなるか
他者を犠牲にして利を得る「逆英雄」に気をつけよ
Ⅲ. ブラック・スワンの特効薬
頑健なだけじゃダメ
(一部の)モノの測定可能性について
フラジリスタ
シンプルなほど洗練されているケース
Ⅳ. 本書
(むしろ幸せな)無秩序一家
唯一無二の本
勇気なくして信念なし
何かを目撃したら……
化石化を進行させる
V. 構成
付録: 三つ組(三つの性質に沿ってとらえた万物の世界地図)
物事は三つ組で成り立っている
実際の三つ組

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社; 1版 (2017/6/21)、出典:出版社HP

 

第1部 反脆さとは

第1章 ダモクレスとヒュドラーの間で
世の中のモノの半分には名前がない
私の首を刎ねてくれ
名前の必要性について
反脆さの祖先
領域非依存は領域依存
第2章 過剰補償と過剰反応はどこにでもある
心的外傷後成長とイノベーション
競馬で勝つ方法
冗長性としての反脆い反応
エビデンスペースのウェイト・トレーニング
暴動、愛、そしてストレスの意外なメリットに潜む反脆さについて
私の本を禁書にしてください―情報の反脆さ
別の仕事に就け
第3章 ネコと洗濯機
生命と無機物を分ける神秘、老化の2層構造
複雑系と非複雑系
ストレスは情報である
均衡なんてもううんざり
子どもに対する罪――薬漬けの社会が奪うもの
言語習得のいちばんのやり方
「観光客化」という現代病
偶然への密かな欲望
第4章 私が死ねば、誰かが強くなる
反脆さの階層構造
進化と予測不能性
生物は集団、集団は生物
間違いに感謝
他者の失敗から学ぶ
マザー・テレサになるには
なぜ集団は個を嫌うのか
私が死ななくても、誰かが死ぬ
「私」と「私たち」
起業記念日

第2部 現代性と、反脆さの否定
プロクルステスのベッド
第5章 青空市とオフィス・ビル
2種類の職業、2種類の運命
チューリッヒのレーニン
ボトムアップ型の変化
果ての国を離れて
大いなる七面鳥問題
1万2000年続く繁栄
戦争、牢獄、あるいは戦争と牢獄
パクス・ロマーナ
戦争の有無を生むもの
第6章 ランダム性は(ちょっとなら)すばらしい!
「たゆたえども沈まず」
腹ぺこのロバー
政治の「焼きなまし」
安定という名の時限爆弾
二次的影響―(小さな)戦争は命を救うか?
外交政策の立案者に告ぐ
「現代性」とは何か
第7章 浅はかな干渉―医原病
確率論的な殺人
干渉と「医原病」
何よりもまず、害をなすなかれ
医原病の反対とは
エラい人たちが起こす医原病
クジラはワシのように飛べるか?
何もしなくなくなくない?
浅はかでない干渉主義へ
先延ばしの妙――フェビアン戦略
産業化社会の神経症的傾向
ノイズと信号―合法的に人を殺すには
メディアがもたらす神経症
国家もたまには役に立つ――無能な国家なら
みんなが思うよりもめちゃくちゃな国、フランス
スウェーデンと巨大国家
「きっかけ=原因」という錯覚
第8章 予測は現代性の生みの子――ブラック・スワンの世界へ
予測の成績はいつも0点
ガミガミ屋のガミ子さんには敵が多い
予測が必要なのは誰か
虫歯のあるなし
七面鳥にならない
さらば、ブラック・スワン

第3部 予測無用の世界観
第9章 デブのトニーとフラジリスタたち
怠け者の旅行仲間
ランチの重要性
蔵書の反脆さ
カモか否か
ネロの孤独と「空気」同然の証拠
予測しない人間が予測できること
第10章 セネカの処世術
反脆さの問題を解決した裕福な哲学者
人生からダウンサイドを減らす
ストア哲学の「心を頑健にする法」
感情を手なずける
運命の主人になるには
根本的な非対称性
第11章 ロック・スターと10パーセント浮気する――バーベル戦略
壊れた小包の不可逆性について
セネカの「バーベル」
90パーセント会計士、10パーセント・ロック・スター
“黄金の中庸”を忘れよ
不確実性を手なずける

第4部 オプション性、技術、そして反脆さの知性
私たちは行き先を本当に理解しているのか?
「目的論的誤り」と「分別ある遊び人」
アメリカのいちばんの財産って?
第12章 タレスの甘いぶどう――オプション性
アリストテレスの「高度な」誤解
オプションと非対称性
「甘いぶどう」のオプション
「ロンドンで過ごす土曜の夜」のオプション性
「家賃」のオプション性
非対称性(オプションの)
「ばらつき」を好むもの
タレス的な人とアリストテレス的な人
バカになる方法、「賢者の石」
いじくり回し――自然はオプションを行使する
理性とは
人生はロング・ガンマだ
ローマの政治はオプション性がお好き
まとめ、そして次へ
第13章 島に飛び方を教える――ソビエト=ハーバード流の錯覚
車輪つきスーツケースにみる「発見」と「実用化」
見つけられるのを待っている「半発明」
もういちど言う、少ないほど豊かだ
ギャップにご注意
財宝の探索と、失敗が投資になりうる仕組み
創造的破壊と非創造的破壊
ソビエト=ハーバード大学の鳥類学部
「随伴現象」という名の思いこみ
危機の原因はいつだって「欲望」なのか
随伴現象の正体を暴く
いいとこ取り(=追認の誤り)
第14章 ふたつが同じものじゃないとき
アブダビに欠けているもの
ストレスはどこにある?
芸術のための芸術、学びのための学び
洗練された夕食の友――教育の本当のメリット
グリーン材の誤謬
デブのトニーはどうやって金持ちに(そしてデブに)なったか
同一化――あるものとその関数の混同
試行錯誤のプロメテウスと講釈のエピメテウス
第15章 敗者が綴る歴史――試行錯誤の汚名をすすぐ
学問は「手柄」を横取りする
私が「鳥に飛び方を教える」現象の誤りを暴いたとき
証拠がこっちを見つめている
料理とコンピューター科学は似ている?
産業革命(科学過大評価の事例1)
政府がお金をかけるべきなのは、研究ではなく非目的論的ないじくり回しである
医学(科学過大評価の事例2)
マット・リドレーの反目的論的な議論
企業の目的論――戦略に効果はない
逆七面鳥問題
7プラスマイナス2回、失敗する
偽医者、学者、見世物師
第16章 無秩序の教訓
生きた世界とお遊びの世界
教育ママの観光客化
反脆い(バーペル型の)教育――半自伝的教育論

反脆弱性 下 目次
第17章 デブのトニー、ソクラテスと相対す

第5部 あれも非線形、これも非線形
第18章 1個の大石と1000個の小石の違いについて
第19章 賢者の石とその逆

第6部 否定の道
第20章 時と脆さ
第21章 医学、女性、不透明性
第22章 ほどほどに長生きする――「引き算」の力

第7部 脆さと反脆さの倫理
第23章 身銭を切る――他人の犠牲と引き換えに得る反脆さとオプション性
第24章 倫理を職業に合わせる――自由と自立
第25章 結論
エピローグ 生まれ変わりに生まれ変わりを重ねて
謝辞
参考文献
追記、補足、関連図書
付録Ⅱ(非常に専門的)
付録Ⅰ
用語集

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社; 1版 (2017/6/21)、出典:出版社HP

 

章のまとめとマップ

第1部 反脆さとは
第1章 「反脆さ」という言葉が教室で見落とされていたことを説明する。脆弱・頑健・反脆弱とダモクレス・フェニックス・ヒュドラー。領域依存性。
第2章 過剰補償が起こる場所とは。経済学以外では、執着的な愛情ほど反脆いものはない。
第3章 有機体と人工物の違い。人生から変動性を吸い取ろうとする観光客化。
第4章 多くの場合、全体の反脆さは部分の脆さに依存する。人生に死が必要なワケ。失敗が全体にもたらす利益。リスク・テイカーが必要な理由。この点を見逃している現代性について二言三言。起業家とリスク・テイカーへの敬意。

第2部 現代性と、反脆さの否定
プロクルステスのベッド
第5章 ランダム性の2種類のカテゴリーを、その性質から読み解く。スイスはなぜトップダウンじゃないのか。月並みの国と果ての国の違い。都市国家、ボトムアップ型の政治システム、地方自治体のノイズが持つ安定化作用のメリット。
第6章 ランダム性を好むシステム。物理学内外の焼きなまし手法。有機体や複雑系(政治、経済など)を過度に安定化させることの影響について説明する。知識偏重主義の功罪。アメリカの外交政策と似非安定化。
第7章 現代性の産物の中でいちばん軽視されている、浅はかな干渉と医原病について。ノイズとシグナル。ノイズによる過剰な干渉。
第8章 予測は現代性の生みの子。

第3部 予測無用の世界観
第9章 脆さを嗅ぎ取る名人、デブのトニー。ネロ。長い昼食。フラジリスタから金を搾り取る。
第10章 自分の作った薬を飲もうとしないトリファット教授。反脆いものは必ずダウンサイドよりもアップサイドのほうが多いので、変動性、間違い、ストレスで得をする。これを根本的な非対称性という。これをセネカとストア哲学にたとえて説明する。
第11章 組み合わせていいものといけないもの。人生におけるバーベル戦略。脆さを反脆さへと変換するもの。

第4部 オプション性、技術、そして反脆さの知性
(秩序好きの教育と無秩序好きのイノベーションの対立関係)
第12章タレス対アリストテレス。状況を理解していなくてもへっちゃらなオプション性という概念。同一化のせいでオプション性が誤解されている理由。オプション性を見落としていたアリストテレス。私生活の中のオプション性。いじくり回しが計画よりも効果を発揮する条件。分別ある遊び人。
第13章 成長の裏にある非対称的なペイオフについて。ソビエト=ハーバード流の錯覚、別名「鳥に飛び方を教える」現象。随伴現象。
第14章 グリーン材の誤謬。エピステーメー(知識)と試行錯誤の対立関係と、その歴史を通じた役割。知識は富を生むのか?そうだとすれば、どんな知識が? 知識と宮が同じものじゃないとき。
第15章 技術史の書き直し。科学の世界で、歴史は敗者によってどう書き直されるのか。私がトレーダーの世界で目撃した歴史の書き直し。その一般化。生物学の知識は医療の邪魔になるのか?隠蔽されている運の役割。よい起業家とは何か?
第16章 教育ママへの対処法。遊び人の教育。
第17章 デブのトニー、ソクラテスと相対す。私たちはどうして、説明不能なことを実行できないのか? そして自分の行動を説明せずにはいられないのか? ディオニュソス的。「カモか否か」で物事を考える。

第5部 あれも非線形、これも非線形
第18章 凸性、凹性、凸効果。規模そのものが脆さを生む理由。
第19章 賢者の石。凸性についてさらに詳しく。ファニー・メイはどうして破綻した? 非線形性。脆さと反脆さを見分けるヒューリスティック。凸バイアス、イェンゼンの不等式と、それらが無知に及ぼす影響。
第6部 否定の道
第20章 最新性愛症。「否定の道」で未来を観る。リンディ効果(新しいものより古いもののほうが、その年齢に比例して長く生き残る)。エンペドクレスの煉瓦。非合理的なもののほうが、一見すると合理的なものより勝るワケ。
第21章 医学と非対称性。医療問題における意思決定の法則。重病患者のペイオフが凸で、ぴんぴんした人のエクスポージャーが凹である理由。
第22章 引き算的な医療。環境内のランダム性の種類と個人との相性について。私が不死になんてなりたくないワケ。

第7部 脆さと反脆さの倫理
第23章 脆さを移転させるエージェンシー問題。身銭を切る。ドクサ的コミットメント。または魂を捧げる。ロバート・ルービン問題、ジョセフ・スティグリッツ問題、アラン・ブラインダー問題。三つともエージェンシー問題であり、ひとつはいいとこ取りの問題。
第24章 倫理のひっくり返し。個人個人に分別があっても、集団になると問違えることもある。人はどうやって意見にとらわれていくのか。そこから解放するには。
第25章 結論。
エピローグ ネロがレヴァントを訪れ、アドーニスの儀式を見学していると……。

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社; 1版 (2017/6/21)、出典:出版社HP

プロローグ

I.風を愛するには
風 はろうそくの火を消すが、炎を燃え上がらせる。
それは、ランダム性、不確実性、無秩序も同じだ。それらから隠れるのではなく、利用しなければいけない。炎になって、風が吹くことを期待するのだ。このたとえは、ランダム性や不確実性に対する私の前向きな考え方をずばり言い表わしている。
不確実性を生き抜くだけじゃいけない。乗り切るだけでもいけない。不確実性を生き抜き、ローマ時代の積極的なストア哲学者たちのように、不確実性を自分のものにするべきなのだ。その目的は、見えないもの、不透明なもの、説明不能なものを手なずけ、支配し、さらには征服することだ。
でも、どうやって?

Ⅱ. 反脆さ
衝撃を利益に変えるものがある。そういうものは、変動性、ランダム性、無秩序、ストレスにさらされると成長・繁栄する。そして冒険、リスク、不確実性を愛する。こういう現象はちまたにあふれているというのに、「脆い」のちょうど逆に当たる単語はない。本書ではそれを「反脆い」または「反脆弱」(antifragile)と形容しよう。
反脆さは耐久力や頑健さを超越する。耐久力のあるものは、衝撃に耐え、現状をキープする。だが、反脆いものは衝撃を糧にする。この性質は、進化、文化、思想、革命、政治体制、技術的イノベーション、文化的・経済的な繁栄、企業の生存、美味しいレシピ(コニャックを一滴だけ垂らしたチキン・スープやタルタル・ステーキなど)、都市の隆盛、社会、法体系、赤道の熱帯雨林、菌耐性などなど、時とともに変化しつづけてきたどんなものにも当てはまる。地球上の種のひとつとしての人間の存在でさえ同じだ。そして、人間の身体のような生きているもの、有機的なもの、複合的なものと、机の上のホッチキスのような無機的なものとの違いは、反脆さがあるかどうかなのだ。
反脆いものはランダム性や不確実性を好む。つまり、この点が重要なのだが、反脆いものはある種の間違いさえも歓迎するのだ。反脆さには独特の性質がある。反脆さがあれば、私たちは未知に対処し、物事を理解しなくても行動することができる。しかも適切に。いや、もっと言おう。反脆さがあれば、人は考えるより行動するほうがずっと得意になる。ずば抜けて頭はよいけれど脆い人間と、バカだけれど反脆い人間、どちらになりたいかと訊かれたら、私はいつだって後者を選ぶ。
一定のストレスや変動性を好むものは、身の回りにいくらでも見つかる。経済システム、人間の身体や精神、それから栄養だってそうだ(糖尿病のような現代病の多くは、食事のランダム性やたまの絶食というストレスがないことと関連があるようだ)。また、反脆い金融商品なんてものまである。そういう商品は、市場のボラティリティ(変動性)で利益が出るよう意図的に設計されている。
反脆さを理解することは、脆さをもっと深く理解することに通じている。病気を減らさなければ健康にはなれないし、まず損失を減らさなければ金持ちにはなれない。それと同じで、反脆さと脆さは同じスペクトル上に並んでいるわけだ。

予測に頼らない
反脆さの仕組みを理解すれば、不確実な環境のもとで、予測に頼らずに意思決定を下すための体系的で包括的な指針を築くことができる。ビジネス、政治、医療、生活全般のように、未知が大部分を占める場所や、ランダムで、予測不能で、不透明で、物事を完璧に理解できない状況では、反脆さが大きな役割を果たす。
システムに害をもたらす事象の発生を予測するよりも、システムが脆いかどうかを見分けるほうがずっとラクだ。脆さは測れるが、リスクは測れない(リスクが測れるのは、カジノの世界や、”リスクの専門家”を自称する連中の頭の中だけの話だ)。私は、重大で稀少な事象のリスクを計算したり、その発生を予測したりすることはできないという事実を、「ブラック・スワン問題」と呼んでいる。脆さを測るのは、この問題の解決策となる。変動性による被害の受けやすさは測定できるし、その被害をもたらす事象を予測するよりはよっぽど簡単だ。だから、本書では、現代の予測、予知、リスク管理のアプローチを根底からひっくり返したいと思っている。
応用する分野や領域は何であれ、本書では、脆さを緩和したり反脆さを利用したりすることで、脆い状態から反脆い状態へと移転するための鉄則を提案する。そして、次の簡単な非対称性テストを使えば、たいていは反脆さ(や脆さ)を見極められる。ランダムな事象(や一定の衝撃)によるダウンサイド(潜在的損失)よりもアップサイド (潜在的利得)のほうが大きいものは反脆い。その逆のものは脆い。

反脆さを奪うとどうなるか
今日まで生き残ってきたありとあらゆる自然界の(複雑な)システムに、反脆さという性質が備わっているとすれば、変動性、ランダム性、ストレスを奪うのはかえってシステムにとって有害になるはずだ。システムはみるみる弱まり、死に、崩壊するだろう。私たちはランダム性や変動性を抑えこもうとするあまり、経済、健康、政治、教育など、ほとんどすべてのものを脆弱にしてきた。1か月も布団にくるまって、『戦争と平和』の完全版を読んだり、『ザ・ソプラノズ』の全部話を観たりしていれば、ストレスを失った筋肉は萎え、複雑な人体のシステムは衰え、悪くすれば死んでしまうかもしれない。現代の構造化された世界の大部分は、トップダウン型の政策やシステム (本書でいう「ソビエト=ハーバード流の錯覚」)を通じて、私たちを傷つけつづけている。ひと言でいえば、システムの持つ反脆さを侮辱しているわけだ。
これは現代性のもたらした悲劇だ。ノイローゼみたいに過保護な親や、よかれと思って何かをする人たちが、いちばんの加害者であることも多い。
トップダウン的なもののほとんどが脆さを生み出し、反脆さや成長を妨げているとすれば、ボトムアップ的なものはみな、適度なストレスや無秩序のもとで成長する。発見、イノベーション、技術的進歩のプロセス自体を担っているのは、学校教育ではなく、反脆いいじくり回しや積極的なリスク・テイクなのだ。

他者を犠牲にして利を得る「逆英雄」に気をつけよ
社会を脆くし、危機を生み出している主犯は、~身銭を切らない、人たちだ。世の中には、他者を犠牲にして、自分だけちゃっかりと反脆くなろうとする連中がいる。彼らは、変動性、変化、無秩序のアップサイド(利得)を独り占めし、損失や被害といったダウンサイド・リスクを他者に負わせるのだ。そして、このような他者の脆さと引き換えに手に入れる反脆さは目に見えない。ソビエト=ハーバード流の知識業界は反脆さに対して無知なので、この非対称性が着目されることはめったにないし、教えられることは(今のところ)まったくない。さらに、2008年に始まった金融危機でわかったように、現代の制度や政治事情が複雑化しているせいで、破綻のリスクを他者に押しつけても、簡単には見破られない。かつて、高い地位や要職に就く人というのは、リスクを冒し、自分の行動のダウンサイドを受け入れた者だけだった。そして、他者のためにそれをするのが英雄だった。ところが、今日ではまったく逆のことが起こっていて、逆英雄という新しい人種が続々と出現している。官僚。銀行家。ダボス会議に出席する国際人脈自慢協会の会員のみなさん。真のリスクを冒さず説明責任も果たしていないのに、権力だけはやたらとある学者など。彼らはシステムをいいように操作し、そのツケを市民に押しつけている。
歴史を見渡してみても、リスクを冒さない連中、個人的なエクスポージャーを抱えていない連中が、これほど幅を利かせている時代はない。
いちばん重要な倫理規範を挙げるとすればこうだ。他者の脆さと引き換えに反脆さを手に入れるべからず。

Ⅲ.ブラック・スワンの特効薬
私は、自分の理解できない世界で幸せに暮らしたい。
ブラック・スワンとは、巨大な影響をもたらす、大規模で、予測不能で、突発的な事象を意味する。ブラック・スワンの予測に失敗し、不意を衝かれ、被害を受けた人たち全般を、本書では「七面鳥」と呼ぶことにする。私がずっと主張してきたように、歴史の大半はブラック・スワン的な事象で成り立っている。なのに、私たちは正常な状態に関する知識を微調整して、モデル、理論、説明を構築しようとする。でも、そういうモデルではブラック・スワンを追跡することなどとうてい無理だし、衝撃の起こる確率を測定することもできない。 ブラック・スワンは私たちの脳を乗っ取り、ブラック・スワンを”なんとなく”とか”だいたい”予測していた気分にさせる。後付けならいくらでも説明がつくからだ。私たちはこの予測可能性という幻想に惑わされ、ブラック・スワンが人生において果たす役割に気づいていない。人生というのは、私たちの記憶の中にあるイメージよりも、ずっとずっと迷路のように入り組んでいる。人間の脳は、歴史を滑らかで線形的なものへと変えようと躍起になる。そのせいで、私たちはランダム性を過小評価してしまう。ところが、いったんブラック・スワンが姿を見せると、恐怖し、過剰反応する。この恐怖と秩序への渇望のせいで、人間のシステムは目に見えない(見えづらい)物事のロジックを破壊することがある。その結果、ブラック・スワンから損害をこうむることはよくあっても、利益を得ることはまずない。秩序を求めようとすれば、得られるのは似非秩序だ。ランダム性を受け入れてはじめて、一定の秩序と統制が得られるのだ。
複雑系は、見つけづらい相互依存性や非線形的な反応に満ちている。「非線形的」というのは、たとえば薬の用量や工場の労働者数を2倍にすると、効果が元のぴったり2倍ではなくて、それより増えたり減ったりするという意味だ。フィラデルフィアで2週間を過ごすのは、1週間過ごすより2倍楽しいかというと、そこまでじゃない。ソースは私だ。反応をグラフにすると、直線(「線形的」)にはならず、曲線になる。このような状況では、単純な因果関係を当てはめるのは間違いのもとになる。個々の部分を見ただけで、物事の全容をつかむのは難しいからだ。
人工的な複雑系では、暴走的な連鎖反応が起きることが多い。その結果、予測は難しく(時には不可能に)なり、思ってもみなかった規模の出来事が起こる。そのため、現代社会では、技術的知識はどんどん増えているのに、逆説的にも物事は今までよりずっと予測不能になっている。人工物が増え、昔のやり方や自然界のモデルが軽視され、あらゆる設計が複雑化して頑健さが失われている現代、ブラック・スワンの役割は高まりつつある。しかも、私たちは本書で「最新性愛症」と呼んでいる新しい病に冒されている。そのおかげで、私たちはブラック・スワンに対して脆弱な「進歩」という名のシステムを築いている。
ブラック・スワン問題には、困った一面がある。稀少な事象の確率はずばり計算不能であるということだ。これは実はとても大事な点なのだが、たいがい見落とされている。100年に1回の洪水は、5年に1回の洪水よりもはるかに予測しづらい。微小な確率となると、モデル誤差は一気に膨らむ。事象が であればあるほど、とらえづらくなり、発生頻度は計算しにくくなる。ところが、予測やモデリングを専門とし、学会でカラフルな背景色や数式を使ったパワーポイント・プレゼンテーションを行う^科学者、たちは、事象がまれであればあるほど、自信たっぷりになる。
幸いにも、反脆さを備えた母なる自然は、稀少な事象にかけては一流のエキスパートであり、ブラック・スワンの最高の管理者でもある。アイビー・リーグの大学で教育を受け、人事委員会から指名された取締役が指揮を執ったりしなくても、母なる自然は、その数十億年の歴史をここまで見事に生き抜いてきたのだ。反脆さはブラック・スワンの特効薬というだけではない。反脆さをきちんと理解すれば、私たちはブラック・スワンが歴史、技術、知識といったすべてのものにとって不可欠な役割を果たしていることを、知的に臆することなく受け入れられるようになるのだ。

頑健なだけじゃダメ
母なる自然は、安全、なだけじゃない。破壊や置き換え、選択や改造を積極的に繰り返す。ランダムな事象に関していえば、「頑健」なだけでは足りない。長い目で見れば、ほんのちょっとでも脆弱なものはすべて、容赦ない時の洗礼を受けて、壊される。それでも、私たちの地球はまあW億年くらいは生きている。とすれば、頑健さだけじゃない、何かがあると考えるのがふつうだ。小さな亀裂がシステム全体の崩壊につながらないためには、完璧なる頑健さが必要だ。だが完璧な頑健さなどありえないことを考えると、ランダムな事象、予測不能な衝撃、ストレス、変動性を敵に回すのではなく、味方につけ、自己再生しつづける仕組みが必要なのだ。
反脆いものは、長い目で見れば予測ミスから利益を得る。この考えに従うなら、ランダム性から利益を得る多くのものが今日の世界を支配し、ランダム性から害をこうむるものはとっくになくなっているはずだ。実をいうと、それが正解だ。私たちは、世界がプログラムされた設計、大学の研究、お役所的な助成で成り立っていると思っている。でも、これが実は錯覚だという強力な証拠がある。私はその錯覚を「鳥に飛び方を教える」現象と呼んでいる。技術というのは、オタクが作った設計図を押し入れにしまいこみ、リスク・テイカーたちがいじくり回し(試行錯誤)という形で反脆さを開拓する結果として生まれるものなのだ。モノを生み出すのはエンジニアや試行錯誤する人たちなのに、歴史書を書くのは学者だ。私たちは、成長やイノベーションなど、色んなものの歴史的解釈を見直す必要があるだろう。

(一部の)モノの測定可能性について
脆さはかなりのところまで測定できる。だが、リスクは測定できない。特に、稀少な事象にまつわるリスクとなれば、なおさら不可能だ。
*1 カジノの中や人工的な環境・構築物などのごく限られた世界は除く。
私たちは脆さや反脆さを評価し、さらには測定することさえできる。だが、人類がどれだけ高度化しても、衝撃的な出来事や稀少な事象のリスクや確率を計算することなんてできない。現在実践されているリスク管理は、未来にどんな出来事が起こるかを研究するものだ。しかし、そういう稀少な事象の将来的な発生率を”測定”できると豪語できるのは、一部の経済学者や狂人だけだ。そして、カモたちは過去の経験や予測の成績を忘れて、連中の話を「はいはい」と聞いてしまう。しかし、脆さや反脆さは、物質、コーヒー・テーブル、会社、産業、国家、政治体制に備わった性質のひとつだ。
とはいえ、リスク同士の比較は(今のところ)当てにならないとしても、脆さを見分け、観察し、たいていは測定することができる。少なくとも相対的な脆さなら、わずかな誤差の範囲内で測ることができるのだ。ある稀少な事象や災害が、別の事象よりも起こりやすいと信頼性を持って述べることはできないが(思いこむのが好きだというなら話は別だが)、ある事象が起きた場合に、こっちのモノや構造のほうがあっちよりも脆い、と断言するのはずっと簡単だ。気温の急激な変化に対して、あなた自身よりもあなたの祖母のほうが脆いとか、政治的な変化に対して、スイスよりもどこそこの軍事独裁政権のほうが脆いというのは、ちょっと考えればわかる。また、危機が起きた場合に、こっちの銀行のほうがあっちよりも脆いとか、地震が起きたときに、シャルトル大聖堂よりも現代の欠陥ビルのほうがよっぽど脆いというのも簡単にわかる。そして、重要なことに、どちらのほうが長く残るかを予測することだってできる。
憶測的で弱気なリスクの話なんかするヒマがあったら、私は脆さについて考えるべきだと思う。脆さには予測は無用だし、リスクとは違って、それとは機能的に正反対のものを言い表わせる面白い言葉もある。「反脆さ」という強気な概念だ。
反脆さを測るコツとして、コンパクトで単純化された法則を用いる「賢者の石」風の手法がある。この方法を使えば、健康から社会の構造まで、色々な分野の反脆さを見極められる。
私たちは実生活では無意識のうちに反脆さを利用している。ところが、知的な生活となると、意識的に反脆さを否定してしまうのだ。

フラジリスタ
理解できないものはいじらないでおこう、というのが本書の考えだ。だが困ったことに、世の中にはそれとまったく逆の連中がいる。本書で「フラジリスタ」と呼んでいるのがその種の連中だ。彼らは決まってスーツにネクタイという身なりで(たいてい金曜日にも)、ジョークを投げても能面のような表情を返してくる。椅子の座りすぎ、飛行機の乗りすぎ、新聞の読みすぎで、若いうちから早くも腰を痛めていることが多い。それから、かいぎとかいう奇妙な儀式によく参加する。それに加えて、自分に見えないものはそこにない、理解できないものは存在していないと思いこんでいる。根本的に、「未知のもの」を「存在しないもの」と誤解しているわけだ。
訳注1 フラジリスタ(fragilista)は、「脆さ」や「脆弱性」を意味する「fragility」と、「~する人」を表わす接尾辞「-ista」を組み合わせて作った造語と思われる。「-ista」は悪い意味を表わすことが 多い。日本語にすれば「脆さを生み出す連中」というくらいの意味。
フラジリスタは「ソビエト=ハーバード流の錯覚」に陥りやすい。これは科学的知識の適用範囲を(非科学的に)過大評価する現象だ。この錯覚を抱える人々は、「浅はかな合理主義者」「合理化主義者」、または単に「合理主義者」と呼ばれる。彼らは物事の根底にある「道理」が、自動的に理解可能なものだと決めつけている。だが、合理化と合理的を混同するのは禁物だ。このふたつはほとんど正反対だからだ。物理学以外の複雑系の分野全般では、物事の根底にある道理は私たちには理解しづらい。フラジリスタにはもっと理解しづらい。ところが、自己紹介をしてくれるユーザー・マニュアルがないというこの自然界の事物の性質は、悲しいことに、フラジリスタにとってはあんまり障害物にはならない。フラジリスタたちは彼らの「科学」の定義に従い、団結して自分の手でそのユーザー・マニュアルを書き上げるのだ。
フラジリスタのせいで、現代社会は世の中の神秘的なもの、不可知的なもの、ニーチェのいう「ディオニュソス的」なものに対して、ますます盲目になっている。
本書の登場人物であるデブのトニーは、これをブルックリンの言葉遣いで「カモのゲーム」と呼んでいる。ニーチェほど詩的ではないが、意味深さでは劣らない。
ひと言でいえば、(医療、経済、社会計画の分野の)フラジリスタとは、利得は些少で目に見えるが、潜在的な副作用は深刻で目に見えない、人工的な政策や活動を推し進めようとする連中のことだ。
医療のフラジリスタは、人体に備わる自然治癒能力を否定して過剰に医療介入し、とても重い副作用があるかもしれない薬を平気で処方する。政治のフラジリスタ(干渉主義の社会計画者)は、経済を(自分の手で)修理しつづけなきゃいけない洗濯機のようなものと勘違いし、経済を崩壊させる。精神医学のフラジリスタは、知的・感情的な営み”改善”させるためといって子どもを薬漬けにする。金融のフラジリスタは、人々にリスク・モデルなるものを使わせ、銀行システムをぶっ壊す (そしてまた同じモデルを使う)。軍事のフラジリスタは、複雑な体制をかき乱す。未来予測のフラジリスタは、人々にリスクを冒させる。ほかにも挙げればキリがない。
*2 ハイエクは自身の有機的な価格づけという考えを、リスクや脆さの概念に取り入れたわけではない。ハイエクにとって、官僚は非効率的だというだけで、フラジリスタではなかった。本書では、まず脆さと反脆さを導入し、副次的な議論として有機的な価格形成の話をする。
事実、政治的な議論には「反脆さ」というコンセプトが欠けている。政治家たちがスピーチ、目標、約束で掲げるのは、反脆さではなく、「耐久性」や「堅牢性」とかいう弱気な考え方だ。そして、その過程で成長や進化のメカニズムを邪魔してしまう。私たちがこうして現世に生きているのは、「耐久性」とかいう軟弱な概念のおかげではない。もっといえば、議員さんのおかげでもない。一部の人たちが貪欲にリスクを冒し、失敗を繰り返してきたおかげなのだ。私たちはそういう人々をもっと応援し、守り、尊敬するべきだ。

シンプルなほど洗練されているケース
人々の考えとは裏腹に、複雑系には、複雑なシステムも規制も政策も不要だ。「シンプルであればあるほどよい」のだ。複雑化すると、想定外の影響が連鎖的に膨らんでいく。不透明性のせいで、干渉は予測不能な影響をもたらす。“予測不能”な結果について詫びたあと、二次的な影響を正すために別の干渉をする。すると、”予測不能”な反応は枝分かれ的に急増する。しかも、先に進むたびに影響は深刻になっていく。
なのに、現代の生活でシンプルを実践するのは難しい。自分の職業を正当化するために、何でもかんでも専門化しようとする連中の考え方に反するからだ。
少ないほど豊かだ。そして、ふつうは少ないほど効果的だ。そこで、私は本書でほんのいくつかのコツ、指針、禁止事項を提案したいと思う。理解不能な世界をどう生きるべきか。いやむしろ、絶対に理解できない物事に臆することなく対処するにはどうすればよいか。もっと原理的にいえば、そういう物事にどう対処すべきか。さらにいえば、自分たちの無知に面と向かいあい、人間であることを恥じることなく、人として積極的に堂々と生
きるにはどうすればよいのかを提案したい。だが、それにはちょっとした構造的な変化が
必要かもしれない。
私が提案するのは、人工的なシステムを修正し、シンプルで自然なシステムに舵取りを任せるためのロード・マップだ。
しかし、シンプルを実現するのはシンプルじゃない。スティーブ・ジョブズは「思考を整理し、シンプルにするには努力がいる」と述べている。アラブには、明快な文章についてこんな表現がある。「理解するのに技術はいらなくても、それを書くには名人の技がいる」
ヒューリスティックとは、物事をシンプルで実践しやすくする単純化された経験則だ。
しかし、ヒューリスティックのいちばんの利点は、それが完璧ではなく、単なる応急策だとわかっている点だ。だから、その威力にだまされることはあんまりない。危険なのは、そのことを忘れたときだ。

Ⅳ.本書
反脆さという概念に行き着くまでの旅は、いってみれば非線形的だった。
ある日、私は突然、それまで厳密な定義のなかった「脆さ」という概念を、「変動性を好まないもの」として表現できることに気づいた。そして、「変動性を好まないもの」はランダム性、不確実性、無秩序、間違い、ストレスなどを好まない。脆いものを思い浮かべてほしい。たとえば、居間にあるガラスの写真立て、テレビ、食器棚の磁器など、何でもいい。「脆い」と形容されるものは、安定的で、静かで、秩序的で、予測可能な環境に置いておきたいと思うものばかりだ。脆いものというのは、地震の発生やおてんばな姪の訪問で利益を得ることはまずない。さらに、変動性を好まないものはみんな、ストレス、害、渾沌、事件、無秩序、予測不能、な影響、不確実性、そしていちばん大事なことに、時の経過を嫌うということだ。
そして、反脆さは、この脆さの明確な定義からいわば自然と生まれる。反脆さは変動性などを好む。時の経過も歓迎だ。それから、非線形性と強力で有益な関係を持つ。非線形的な反応を示すものはみんな、一定のランダム性の根源に対して、脆いか反脆いかのどちらかなのだ。
何より不思議なのは、脆いものはすべて変動性を嫌う(およびその逆)という当たり前の性質が、科学や哲学の議論からすっぽりと抜け落ちてしまっていることだ。すっぽりとだ。私は成人してからの3年間、「変動性に対する物事の感応度を調べる」という、摩訶不思議な仕事を生業として生きてきた。おかしな生業だというのはわかっている。これについてはあとで説明する。この仕事で、私は「変動性を好む」ものと「変動性を嫌う」ものを見極めることに神経をすり減らしてきた。だから、私がしなくちゃならないのは、この考えを金融の分野から実世界へと一般化することだけだった。政治科学、医療、夕食の計画といった色々な分野において、不確実性のもとで意思決定するにはどうすればよいか を考えるわけだ。
*3 「変動性(ボラティリティ)を嫌う」を専門用語でいえば、「ショート・ベガ」、または「ショート・ガンマ」となる。これは「変動性が上昇すると損害をこうむる」という意味。その逆で利益になる場合は、「ロング・ベガ」、または「ロング・ガンマ」という。本書の残りの部分では、「ショート」、または「ロング」と言ったときには、それぞれ負および正のエクスポージャーを指す。言っておくが、私は変動性を予測できるなんて思ったことはいちどもない。私は変動性に対する物事の反応の仕方だけに着目してきたのだ。
そして、変動性を相手にするこの摩訶不思議な職業には、2種類の人種がいる。ひとつ目は、未来の事象を研究して本や論文を書く学者、レポート・ライター、評論家だ。ふたつ目は、未来の事象を研究するのではなく、変動性に対する物事の反応の仕方を理解しようとする実践家だ(だが、実践家は実践するのに手一杯で、本、記事、論文、スピーチ、数、理論を作っているヒマなんてないので、崇高なる学者様方からは尊敬されない)。ふたつの違いは重要だ。先ほども話したとおり、巨大なブラック・スワンのような有害な事象を予測しようとするよりも、何かが変動性で害をこうむるかどうか、つまり脆いかどうかを理解するほうが、ずっと簡単だ。ところが、この点を自然に会得しているのは、たいてい実践家(物 事を実行する人)だけなのだ。

(むしろ幸せな)無秩序一家
専門的なコメントをひとつ。さっきから繰り返しているように、脆さや反脆さとは、変動性に関連する何かに対するエクスポージャー(さらされている状態)から、利得や損失を受ける可能性があることを意味する。何かとは? 簡単にいえば、無秩序の親戚に当たるものだ。
無秩序の親戚(仲間)とは、次のとおり。①不確実性、②変化、③不十分で不完全な知識、④偶然、⑤渾沌、⑥変動性、⑦無秩序、⑧エントロピー、⑨時、⑩未知のもの、⑪ランダム性、⑫混乱、⑬ストレス、⑭間違い、⑮結果のばらつき、⑯似非知識。
うまいことに、不確実性、無秩序、未知のものは、その効果という点ではまったく同等なのだ。どれも、反脆いシステムにとっては (ある程度までは)利益になり、脆いシステムにとってはたいてい有害になる。でも、これらは大学の別々の建物で教えられているし、人生で本当のリスクなんて冒した経験もない(もっといえば本当の人生なんて生きたこともない)似非哲学者は、「これらは明らかに別物だ」なんて平気で言ったりする。
項目⑨に時が入っているのはどうして? 時は機能的には変動性と似ている。時がたてばたつほど、色々な事象が起こり、無秩序は大きくなる。あなたの受ける事が限られていて、あなたが小さな間違いに対して反脆いとしよう。すると、時はやがて、あなたにとって利益になるタイプの間違い、いわば逆間違いをもたらしてくれる。これこそ、あなたの祖母が「経験」と呼んでいるものだ。一方、脆いものは時とともに壊れゆく。

唯一無二の本
このアイデアこそ、本書が私の主要な研究であるゆえんだ。雛形になるたったひとつのアイデアから始めて、私は考察のたびに一歩ずつ進化させてきた。だが、その最後の一歩、つまり本書は、大ジャンプと言ったほうが私の感覚に近い。私は今、”実践的な私”、つまり私の実践家魂と再びひとつになっている。というのも本書は、実践家や「変動性の専門家」としての私の歴史全体と、ランダム性や不確実性に関する私の知的・哲学的な興味を、ひとつに融合させたものだからだ。このふたつは、今の今まで別々の道をたどっていたのだ。
私の著作は、具体的なトピックについて書いた独立型のエッセイではない。始まりと終わりがあるわけでもないし、賞味期限があるわけでもない。むしろ、核となるアイデアから枝分かれした、独立した章の集まりである。
著作全体のテーマは、不確実性、ランダム性、確率、無秩序だ。人間には理解できない世界、目に見えない要素や性質に満ちた世界、ランダムで複雑な世界をどう生きればよいのか。ひと言でいえば、不透明性のもとでの意思決定だ。私の著作群は『Incerto』と呼ばれ、(今のところ)三部作+哲学的・専門的な補遺からなっている。書くときの決まり事というのがあって、ある本(たとえば本書)の任意の章と、別の本(たとえば『まぐれ』)の任意の章との距離感を、一冊の長い本の章同士の距離感と同じにするようにしている。この決まり事のおかげで、混乱することなく、科学、哲学、ビジネス、心理学、文学、自伝を自由自在に横断できるわけだ。
訳注2 『Incerto』はラテン語で「不確実な」という意味。今のところ、『まぐれ』『ブラック・スワン』(『強さと脆さ』も含む)、本書の三部作と、『ブラック・スワンの箴言』『Metaprobability, Convexity, & Heuristics: Technical Companion for The INCERTO(メタ確率、凸性、ヒューリスティック――Incertoの技術的手引書)』の五つで構成されている。最後の手引書はウェブで無料公開されている300ページ超の論文集で、数式を使った専門的解説がなされている。
そこで、この本と『ブラック・スワン』の関係について言っておくと、次のようになる。時系列には反するが(本書は『ブラック・スワン』のアイデアから、自然で規範的な結論を導き出したものだ)、本書のほうが主要書である。『ブラック・スワン』はいわば本書の補助的な作品であり、理論的な裏づけを提供している。本書のミニ付録のようなものといってもいいかもしれない。なぜか? 『ブラック・スワン』(とその前作の『まぐれ』)は、危機的な状況をみんなに訴えるために書いたもので、そこにかなりのウェイトを置いていた。でも本書は、次のふたつを前提として書きはじめている。
(a)ブラック・スワンが社会や歴史を支配していること(そして、後付けの合理化により、人間がブラック・スワンを理解できると思いこんでいること)。
(b)したがって、特に非線形性が激しいところでは、何が起こるかなんてわかったものじゃないこと。
この前提のおかげで、すぐに本題に入ることができるわけだ。

勇気なくして信念なし
実践家の精神に従って、私は本書でこんなルールも設けている。自分の作った飯は自分で食うということだ。
私が職業人生を通じて書いてきたどの一文を取っても言えることは、自分で経験したことしか書いてこなかったということだ。私が他人に冒すよう(避けるよう)提案したリスクは、私自身も冒して(避けて)きた。間違えたときに真っ先に傷つくのは私だ。『ブラック・スワン』で銀行システムの脆弱性について警告したとき、私はシステムの崩壊にちゃんと賭けていた(私の忠告がまだ注目されていなかったころでさえ)。そうでなければ、そんなことを書くのは倫理違反だ。この個人的なルールは、医療、技術的イノベーション、人生のどうってことない物事など、どんな分野にも当てはまる。

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社; 1版 (2017/6/21)、出典:出版社HP