まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか

【まとめ – タレブ書籍おすすめ本 – まぐれ、ブラックスワン、半脆弱、身銭を切れ 】も確認する

はじめに

知識を真に受けてはいけない

この本は私の二つの個性が結びついて生まれた。私は、偶然にだまされないように抵抗し、偶然に引きずられがちな感情をなだめすかし、現実の世界で不確実性を相手にプロとしての人生を送ってきた人間だ。しかし同時に、美に取り憑かれ、文学を愛し、洗練されて品があって独創的で趣味のいいナンセンスならどんなものにでも喜んでだまされる人間でもある。たまたまの出来事にだまされるのは避けられない。できることといえば、ただ、そういうことになるのを美的に楽しめる分野だけにしておくことだけだ。

 

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2008/2/1)、出典:出版社HP

この本は、筆者が思うところを真っ正直に書いた私事のエッセイであって、基本的に、リスク・テイクの実践に関連した考えや営み、観察にもとづいている。学術論文というわけではないし、どう見ても、おお神よ許し給え、科学的な調査報告でもない。楽しみのために書かれた本であり、(基本的には)楽しむために読んでもらえる本、そして楽しんで読んでもらえる本を志している。

ランダムな事象を扱うときの(身についたものにせよ、生まれついたものにせよ)私たちのバイアス(偏り)については、ここ一〇年ほどの間にたくさんのことが書かれている。この本の第一版を書くときに自分で決めたルールは、(a)題材について、自分で見たことか自分で考えたこと以外は書かない、そして(b)題材についてほとんど苦もなく書けるぐらいよくわかっていること以外は書かない、ということだった(訳注:日本語版は原書改訂第二版のペーパーバックをもとにしている)。ちょっとでも仕事みたいな感じのすることは全部ルール違反だ。学者の名前を並べてふんぞり返ったりといったようなことも含め、図書館で調べてきたみたいに見える文章は削る羽目になった。覚えていて自然に浮かんだものや、長年私が親しくやりとりしてきた人の書いたもの以外は引用しないようにした(借りものの知恵を好き勝手に使うというやり方は大嫌いだ。これについては後で詳しく)。Aut tace aut loquere meloiora silencio (沈黙は金なり)である。

そうしたルールはこの版でも生きている。でも、人生に妥協はつきものだ。友だちや読者からの圧力に負けて、この版では、でしゃばらない程度に文献を並べた付注をつけた。それから、ほとんどの章は書き加えたし、とくに第1章を大幅に拡張したため、本全体の分量は三分の一以上も増えた。

勝ち馬に乗る
トレーダーが言うところの「勝ち馬に乗る」ことで、この本が生き物みたいに成長してくれればと思う。手に入れた新しいアイディアを、別の本のためにとっておくのではなく、この本に私自身の成長を反映させたいと思う。おかしなことに、この本を世に出して以降、いくつかの章で書いたことについて、以前よりずっと考えるようになった。具体的には次の二つの分野だ。(a)私たちの脳が、この世界で起きることは実際よりもずっと、はるかにずっと、偶然ではないと思い込む仕組み、そして(b)「ファット・テイル」、つまり大きく極端に振れた事象を起こす強い種類の不確実性だ(私たちの生きている世界が、めったに起きないはずの出来事で説明できてしまうケースがどんどん増えている。それなのに、そういう出来事は私たちの先祖の時代から相変わらず直感に反して起きている)。この第二版は、著者である私が、ほんの少し、以前ほど不確実性の研究者ではなくなり(ランダム性について私たちにわかることは本当に少ない)、むしろ人が不確実性にどうだまされるかの研究者になったことを反映している。

もう一つ起きたことがあって、それは書いた私自身がこの本によって変わったということだ。最初にこの本を書いて以降のほうが、私はこの本どおりに振る舞うことが多くなった。まったく思いもしなかったところで運の要素に気づくようになった。なんだか、星が二つあるみたいな感じだ。一つは私たちが実際に暮らしている星、そしてもう一つは、私たちが暮らしていると信じている、ずっと決定論的な星だ。これはとても単純な話だ。すでに起きたことはいつだって実際ほどには偶然には思えないものだから(後知恵バイアスと呼ばれる)。誰かが自分の過去の経験を語るのを聞くと、ほとんどは勘違いした頭で振り返ってでっち上げた後知恵の説明だったりする。そういうのは我慢がならない。
社会科学(とくに主流派の経済学)をやっている人たちや投資の世界の人たちを見ていて、こいつらバカじゃないのかと思うことがよくある。誰かの言葉が、その人が語ろうと思っている対象よりもその人自身について語ってしまっていることがよくある。浮世がそんなだと、とくに、生きていくのは楽じゃない。今朝歯医者で『ニューズウィーク』を手にとると、記者が財界の大物について書いていて、「機を見るに敏」などと述べている。はっと気づくと私は、記事に書いてあることを考えるよりも、その記者が陥っているバイアスを頭の中で並べたてている。書いてあることのほうは真に受ける気にもならない。(マスコミっていうのは、どうして自分で思っているほどわかっちゃいないということがわからないんだろう?半世紀前、「専門家」たちが過去の失敗から学ばないという現象を研究した学者たちがいた。専門家とは、一生ありとあらゆる予測をはずし続け、それでもなお次こそは間違いないと信じてしまう人たちなのだ。)

不信と確率
大事に育てていかないといけない自分の財産は、心に深く根ざした自分の知性への不信感だと私は 考えている。私のモットーは「自信満々で、自分の知性を信じきっているやつらはいじめてやろう」 である。そんな不信感を知性への自信に満ち溢れた場所で育てていこうというのは奇妙なことだし、 簡単ではない。自分の頭から、最近よく見る知性への信頼を追い出さないといけない。

最初は読者で、その後文通相手になった人のおかげで、私は一六世紀のフランスの哲学者で根っからの懐疑派だったモンテーニュを再発見した。それからというもの、モンテーニュとデカルトの違いが意味するものに取り憑かれた。確かなものを求めるデカルトの探求の後を追った私たちは道に迷ってしまった。あいまいでいい加減(しかし重要)なモンテーニュの方法ではなく、デカルトの厳密な 方法にもとづく思考に従うことで、私たちの視野は間違いなく狭くなった。五〇〇年経った今、とても懐疑的で不信に満ちたモンテーニュは、現代哲学者のお手本として高く評価されている。加えて、この人は並外れて勇敢だった。懐疑的であり続ける――物事を疑い、自己批判し、自分の限界を認める――のは勇気のいることだ。私たちが自分で自分にだまされるように、母なる自然は私たちをつくった。そんな証拠が科学者の手でどんどん積み重ねられている。

確率とリスクを把握する枠組みはたくさんある。一口に「確率」といっても、分野が違えば意味もちょっとずつ違う。この本で扱う確率は、数量的あるいは「科学的」なものではなく、質的で人文的なものである(だから経済学やファイナンスの先生に警告しておく。この手の人たちは、自分たちは確率をちゃんとわかっていると信じていて、そのうえ便利なものだと思い込んでいるからだ)。ギャンブル本に出てくる考え方ではなく、ヒュームの帰納法(もっと一般的にいえばアリストテレスの推論)の問題から生まれた概念として確率を扱う。つまりこの本では、確率とは本質的には懐疑主義を応用したもので、工学の一分野ではない(確率を数学的に扱おうとするとものすごく大仰なことになる。でもそうした確率解析周辺の話はだいたいが脚注に書くほどの価値もない)。

そんなことをするのはなぜか?確率はさいころの目や、あるいはもっと複雑な変数のオッズを計算するためだけのものではない。確率とは、私たちの知識が不足していて、確実なことはわからないと認めることであり、自分の無知を相手にするためにつくられた方法なのだ。教科書やカジノの外では、確率が数学の問題だったり頭の体操だったりすることはほとんどない。母なる自然はルーレットにポケットがいくつあるかなんて教えてくれないし、教科書みたいな形で問題を出すこともない(現実の世界では、正解よりも問題そのものを推測しなければならないことが多い)。

この本では、実際に起きた結果とは違う結果が起きていたかもしれないことを考慮したり、世界はこうではなかったかもしれないと考えたりすることが確率論的な考え方の核心となる。実際のところ、私は仕事を始めて以来ずっと、確率を数量的に扱うことを批判してきた。私にとっては(懐疑主義と理性主義を扱った)第13章と第14章こそが、この本の中心となる部分なのだけれど、だいたいの人は第11章(この本の中で一番独創性に欠ける章で、確率に関するバイアスを扱った文献を押し込んだ章だ)に挙げた、確率の間違った計算例に関心を持つ。それに、自然科学ならまだ確率がわかることもいくらかあるけれど、経済学のような社会「科学」の世界では、専門家がいくらはやしたてようが、ほとんどなにもわからない。

(一部)読者の汚名をそそぐ
私の仕事は数理系トレーダーだ。でも、できるだけそんな仕事の話は出さないように努めた。市場での仕事がこの本に与えた影響といえば、きっかけになったということぐらいだ。つまりこれを市場のランダム性を語る本だと思うのは、『イーリアス』を軍事教本だと思うようなものだ。全一四章のうち金融の話をしているのはたったの三章だけである。市場というのは、ランダム性の罠の特別なケースであるにすぎないけれど、運がとても大きな役割をするという点で、圧倒的に一番興味深いケースだ(私が剥製職人かチョコレートのラベルの翻訳屋だったら、この本はかなり短くなっていただろう)。また、金融の世界では、誰も運の何たるかをわかっていないのに、そんな彼らのほとんどが、自分はちゃんとわかっていると思い込んでいる。そのおかげで私たちのバイアスに拍車がかかる。市場をたとえ話に使うときは、たとえば(第二世代の友人ジャック・メラブを頭に思い描いて)知的好奇心を持った心臓内科医と晩ごはんを食べながら話をするときに出すような具体例にした。

第一版を出してから大量の電子メールを受け取った。そういうやりとりができるのはエッセイストとして夢のようだ。第二版を書くのにはうってつけだからである。メールをくれた人にはそれぞれ(一回は)返事をして感謝の気持ちを表した。そんな返事の一部をいろんな章に盛り込んである。私は偶像を壊して回る人間だと見られているので、「ウォーレン・バフェットを云々するなんてお前何様だ」だの「バフェットの成功がねたましいだけだろ」だのといった、怒った読者の手紙が来るのを楽しみにしていた。だから、そういう悪口のほとんどが名無しのまま書けるアマゾン・ドット・コムあたりでしか見られないのにはがっかりした(云々されて困るなんてことはこの世にはない。他人の仕事の悪口を言いふらし、結局は売上げを伸ばしてくれるような人までいるのだ)。

攻撃されなかったのは残念だけれど、代わりに、この本で救われたという人たちから手紙をもらったのはうれしかった。一番報われた気がしたのは、自分のせいではないのに不運な出来事に出くわした人たちからもらった手紙だ。この本の話を使って、奥さんに、自分は義理の弟ほど運がよくないだけだ(能力が低いわけじゃない)と説明したのだそうだ。一番私の心に響いたのは、ヴァージニアに住む人からの手紙だ。この人はほんの数ヵ月のうちに、仕事を失い、奥さんを失い、財産を失い、そのうえあの恐ろしげな証券取引委員会の捜査まで受けた。そんな彼が、本を読んでいくうちに、理性的になるべきなんだと悟ったという。

「黒い白鳥」、つまり大きな衝撃をもたらす予期しない事件(お子さんが亡くなった)に出くわした人からの手紙を読んでしばらくは、偶然でひどい目にあったとき、人がどうやってそれに適応するかを扱った文献にどっぷり浸ってすごした(そういう分野でも、不確実性の下で人が見せる非合理的な行動の研究という分野を切り開いたダニエル・カーネマンが第一人者だ)。トレーダーをやっているころ、別に(自分以外の)誰かの役に立っているなんてぜんぜん思わなかった。エッセイストになって、人のお役に立っているという気高い気分を味わった。

あるかないか
この本で言いたかったことについていくつか。私たちの脳みそは確率が高いとか低いとかの話が簡単にわかるようにはできていない。すぐ「あるかないか」なんていう極端な話になってしまう。この本で書いたのは「物事は私たちが思っているよりもたまたまなんだ」ということで、「物事は全部たまたまなんだ」ではないということがなかなかわかってもらえない。おかげで「疑り深いタレブは、すべてはたまたまで、成功した人なんてみんな運がよかっただけだと主張している」なんて扱いを受けた。

「まぐれ」病はあの有名なケンブリッジ・ユニオン・ディベートにまで広がっていて、「肩で風切って街を歩く連中なんて、ほとんどは運がよかっただけだ」と言っているのに、「肩で風切って街を歩く連中なんて、全部運がよかっただけだ」と言っていることにされてしまった(恐るべきデズモンド・フィッツジェラルドとの討論では完全に負けた。あれは生まれてからやった中で一番楽しい討論だった。考えを変えようかとさえ思ったほどだ!)。(この本でも書いたが)恐れを知らないのを傲慢さと取り違えるのと同じように、彼らは懐疑主義をニヒリズムと取り違えているのだ。

一つはっきりさせておこう。準備を怠らないからこそチャンスも生まれるのだ!一所懸命に仕事をして、約束の時間を守って、清潔な(できれば白い)シャツを着て、ちゃんと風呂に入って、そのほか普通にやるべきことをやっていてこそ成功できるのだ。そういうことをやっていないと成功できないけれど、それだけで成功できるわけじゃない。そういうことが成功の原因ではないからだ。粘り強さ、根気、忍耐力も同様。大事だ、とても大事だ。宝くじだって買わないと当たらない。ということは、宝くじの売店へ行ったことが宝くじに当たったことの原因なんだろうか?もちろん、能力があれば助けになるけれど、歯医者の業界に比べると、たまたまの要素が多い世界で、能力が果たす役割は小さい。

いや、仕事に対する意識の高さが大事だというあなたのおばあさんの教えが間違っているなんて、私は言ってない!それに、稀にしか見られない「チャンスが訪れたとき」を捉えてこそ成功できるのだから、そんなときを逃せばキャリアもおしまいかもしれない。運を味方につけろ!

私たちの脳みそは因果の方向をさかさまに捉えてしまうことがある。いい仕事が成功の原因だとしよう。そう仮定すると、頭がよく、よく働き、粘り強い人がみんな成功しているからといって、成功している人がみんな、頭がよく、よく働き、粘り強い人だとはかぎらないのに、なんとなくそんな気がしてしまう。いつもはとても賢い人たちがこんな初歩的な論理の誤りを犯すのにはいつも驚かされる。おかげで今書いた話が再確認できるのだ。このあたりの話は、この本では「二重思考」の問題と呼んで検討している。

どうすれば成功するかの研究には、こじつけの類がよくあって、こんなうたい文句とともに本屋に並んでいる。「億万長者はこんな人たちだ。彼らのように成功するためにあなたに必要なこととは」とか。(第8章で触れるけれど)「となりの億万長者』の勘違いした著者の一人が「なぜ、この人たちは金持ちになったのか:億万長者が教える成功の秘訣』という輪をかけてバカな本を書いている。それによると、彼が調査した一○○○人を超える億万長者たちのほとんどは、子供のころ、さほど頭がよかったわけではなかった。そこで彼は、人は生まれつきの能力でお金持ちになるわけではなく、むしろよく働くからこそお金持ちになるのだと考えた。それを見て、成功にはたまたまの要素が入り込む隙はないなんて無邪気に思う人がいるかもしれない。

私はというと、もし億万長者の特徴が普通の人と変わらないなら、それは彼らの運がよかったってことだと不穏なことを考える。幸運というのは民主的なもので、人の能力がどうだろうと関係なく、准に訪れても不思議はない。先ほどの著者たちは、お金持ちにはいくつか普通の人とは違う点もあることに気づいた。たとえば粘り強いとかよく働くとかといったことだ。これも必要なことと結果として起きたことを取り違えている。お金持ちはみんな粘り強くてよく働く人たちだからといって、粘り強くてよく働く人がみんなお金持ちになるとはかぎらない。失敗した起業家はたくさんいるけれど、多くの場合彼らだって粘り強くてよく働く人たちだ。

教科書にでも出てきそうな単純な実証主義に従って、著者たちは億万長者に共通する特徴を探し、彼らが皆、リスクをとるのを厭わない人たちであることを発見した。大きな成功を収めようと思ったらリスクをとる必要があるのは当然だ。でも、大きな失敗のほうにもそれは言える。著者たちが調査したのが破産した人たちだったとしても、やっぱり元々リスクをとるのを厭わない人たちであるのを発見しただろう。

読者の一部(や、私が運よくこの本を出してくれたテクセア社に行き着く前に話をした、人まねしかできない出版社)から、「データ」やグラフやチャートや絵や座標や表や数字や推薦図書や時系列やその他を示して、この本の主張を裏づけてくれと言われた。この本は論理的な思考実験を積み重ねたもので、経済学の期末試験の論文ではないのだから、実証で裏づけたりする必要はないのだ(これもまた、私が「逆もまた真」の誤りと呼ぶもののせいだ。マスコミや一部の経済学者がよくやっているけれど、理論の裏づけなしで統計を使うのは間違いだ。でも、その逆は間違いではない。つまり、統計の裏づけなしに理論を使うのは間違いではない)。

お隣さんが成功したのは、仕事に偶然の要素があって、大なり小なり運に恵まれたおかげなのだと思うと書いたとして、それを「実証」する必要などない。ロシアン・ルーレットの思考実験で十分だ。ただ、お隣さんは天才だという仮説に代わる別の説明がありさえすればいい。残念な知能水準の人を集めれば、そのうちほんの数人しかビジネスマンとして成功できないだろうけれど、そういう成功した連中だけが目立つのだと示すのが私のやり方だ。ウォーレン・バフェットなんか能力があるわけじゃないとは言わない。ただ、投資家をでたらめにたくさん集めれば、ほとんど必ず誰かは、運だけでバフェット並みの成績を上げると言っているだけだ。

からかうチャンスを逃す
この本でマスコミを信じるなとさんざん書いているのに、北アメリカやヨーロッパでテレビやラジオの番組に呼ばれたのには驚いた(その中にはラスヴェガスのラジオ局での「聞くのに不自由同士の会話」もあった。あれには笑った。インタビュアと私は話がかみ合わないままずっと喋り続けたのだ)。私を守ってくれる人なんて誰もいないので、インタビューを受けることにした。おかしなもので、マスコミは毒だという話をするにもマスコミを通さないといけない。短いコメントに編集されて、ぜんぜん違う話として使われるんじゃないかと思ったけれど、それでも面白かった。

マスコミの主なインタビュアたちは私の本を読んでもいないし、私がバカにしているのをわかりもしない(ああいう連中は本を読んでいる「時間がない」から)。彼らほど稼げていない連中のほうは深読みしすぎで、自分たちのやっていることが認められたと思っていた。そんな中での逸話をいくつか。有名なテレビ番組の連中が「このタレブってやつは株のアナリストの予測なんてみんなデタラメだって言っている」と聞きつけて、番組に出てきて説明してほしいと言う。ところが、私の「能力」を証明するために株の推奨を三銘柄持ってこいというのが条件だった。結局出なかったので、デタラメに銘柄を三つ選んで、さもありそうな説明をでっちあげるというすばらしいいたずらをするチャンスを逃してしまった。

別のテレビ番組で、株式市場はデタラメに動くものだという話と、何かが起きるといつも後づけの説明が出てくるという話をしていて、「人は材料なんてなくても何かあるに違いないと思うものだ」と言った。そこですぐに番組のキャスターが割って入った。「今朝はシスコに材料が出ています。何かコメントはありますか?」そして最高傑作:ラジオの金融番組で一時間の討論に招かれたけれど(彼らは第11章を読んではいなかった)、番組が始まる数分前になって、この本の話はしないでくれと言う。トレーディングの話をしてもらうために呼んだので、ランダム性の話をしてほしいんじゃないからと言われた(このときも絶好のいたずらのチャンスだったけれど、そんな準備はしてこなかったので、番組が始まる前に帰ってしまった)。

記者のほとんどには、それほどひどい思い込みはない。結局、このジャーナリズムという商売は純粋にエンタテイメントであって、真理の探究ではないのだ。ラジオやテレビはとくにそうだ。大事なのは、自分たちは単なる芸人なんだということがわかってなくて、自分はインテリだと思ってそうな連中(第2章に出てくるジョージ・ウィルなんかがそう)には近寄らないようにすることだ。

マスコミにはそれ以外にも、人の言っていることを正しく理解できないという問題がある。このナシームってやつは、市場はランダムだ、つまり市場は今後下落すると思ってるんだ。おかげで私は、そんなつもりはないのに、大災害を予言する人に祭り上げられてしまった。黒い白鳥、つまりめったに起きず、思ってもみないときに起きる異常事態は、いいほうに異常であることも悪いほうに異常であることもあるのだ。

しかし、マスコミには、一見して思うよりもずっといろんな人種がいる。考え深い人もけっこういて、耳ざわりのいいキャッチフレーズで埋め尽くされた商業主義マスコミを抜け出し、視聴率よりも伝えることに重きを置いた活動をしている。コージョ・アナンディ(NPR)、ロビン・ラスティック(BBC)、ロバート・スカリー(PBS)、そしてブライアン・レーラー(WNYC)と話したかぎりでの素朴な観察結果でいえば、ジャーナリストでも、お金のためにやっているわけではない人たちは、全体として知能がある種族だ。見たところ、番組での議論の質はスタジオの豪華さと逆相関している。WNYCで、ブライアン・レーラーは議論を深めようととても努力していた。そして、あそこのオフィスはカザフスタンよりこちら側では一番みすぼらしいのだ。

最後に文体について一言。第一版からそのままに、この版でも独自の文体を貫くことにした。善かれ悪しかれ、私は人間だ。間違いだってするし、ちょっとした間違いなら、それだって私の人格の一部なのだから、隠す必要があるとは思わない。写真を撮るときにカツラをかぶったり、人に向き合うときに誰かから鼻を借りてきたりしようなんて思わないのと同じように。

下書きを読んだ編集者はほとんどみんな、(私の文章のスタイルを「もっとよく」するために)個組別の文のレベルでも(章の構成などといった)文章のレベルでも修正したほうがいいと言っていた。彼らの言うことはほとんど全部無視した。読者にそんな修正が必要だと思った人はひとりもいなかった。実際、(不完全な点も含めて)著者の性格が現れた文章のほうが生き生きしていると思う。出版業界も古典的な「専門家」問題に冒されていて、実証的にはぜんぜん有効でない、いい加減な経験則が山ほどあるということだろうか。その後私は、読者が一〇万人を超えたあたりで、本というのは編集者のために書くもんじゃないと悟ったのだった。

改訂第二版での謝辞

図書館の外へ
この本のおかげで、私は精神的に孤立した状態から抜け出すことができた(完全に学界の住人でないと、たくさんの点でいいことがある。独立独歩でいけるし、住人になるための手続きも避けられる。そのかわり、他人から孤立してしまうのだ)。第一版のおかげで、晩ごはんを食べたり文通したりする頭のいい友だちがたくさんできた。それに、彼らのおかげで、書いた題材のいくつかをさらに深めることができた。

加えて、書いた話に興味を持ってくれた人たちとの議論に刺激を受けて、夢の生活にまた一歩近づくことができた。本代を返さないといけないんじゃないかという気さえする。考えを進めるには、図書館を這い回るよりも、賢い人たちと話したりやりとりしたりするほうがいいという実証結果もあるみたいだ(人のぬくもりってことだろう。私たちに自然に備わった何かが、他の人たちとやりとりしたり付き合ったりしている間にアイディアを育むのだ)。ともかく、「まぐれ」前の人生と「まぐれ」後の人生は違っていた。第一版での謝辞は今でも生きているけれど、ここでは私がその後お世話になった人たちを挙げる。

世界を狭くする
ロバート・シラーと初めて直接会ったのは、朝食の席上で行われたパネル・ディスカッションで席が隣同士になったときだった。私はうっかりして、彼の皿にのっている果物を全部食べてしまい、そのうえ彼のコーヒーと水も飲んでしまった。彼にはマフィンやなんかのあんまりうれしくない食べ物ばかりが残った(そして飲み物は無しだ)。彼は文句も言わなかった(気づいていなかったのかもしれない)。

第一版で彼のことを書いたころは、まだシラーと知り合ってはいなかった。会ってみると、彼が親しみやすくて謙虚で魅力いっぱいなのに驚いた。そのあと、彼は私をニューヘイヴンの本屋まで車で連れて行き、『多次元・平面国:ペチャンコ世界の住人たち』を見せた。物理学の寓話で、高校時代に第一版を読んだそうだ。短く、個人的な本で、ほとんど小説だった。今回の書き直しで私がずっと心がけていたことだ(彼は第二版なんて書かないほうがいいと力説した。私は彼に、私のためだけにでもいいから『投機バブル 根拠なき熱狂』の第二版を書いてくれと言った。どっちの件でも勝ったのは私だと思う)。

本には第10章で説明するようなバブルを起こす力が働く。つまり、すでに世に出た本の改訂版のほうが、まったく新しい本よりも臨界点に達する可能性が高い(宗教や流行でも、ネットワークの外部効果のおかげで、新しいものより焼き直しのほうがずっとうまくいく)。物理学者にして暴落理論家のディディエ・ソネットは、第二版を出すことの効果について強力な説明を語ってくれた。情報カスケードのおかげで食っていける出版社の連中が彼のいう効果をわかっていなかったので、二人とも驚いた。

イタリアで二回にわたって行ったダニエル・カーネマンとの激しい議論は、この本を書き直す過程のほとんどを通じて私に働く原動力を与えてくれた。彼との議論には、知的探究の次の臨界点へと「後押し」してくれる効果があった。彼の研究が単なる不確実性下の合理的選択よりはるかに深いところまで行っているのを見て以来そうなった。彼が経済学に与えた影響(ノーベル記念賞も含めて)のせいで、彼の発見の広さや深さが注目されない。あれは幅広く一般的に当てはまることなのだ。

経済学は退屈だ、でも彼の研究は重要だ、私は自分にそう言い聞かせ続けた。彼が実証主義者だからというだけでもなければ、最近のノーベル記念経済学賞受賞者と彼の研究(や人となり)の重要さは好対照だからというだけでもない。むしろ、並外れて重要な疑問に対して彼の仕事が大きな意味を持つからだ。つまり、(a)彼とエイモス・トヴァスキーは、ギリシャ時代の教条的な合理主義に始まって、その後二三世紀の間私たちが持ち続けた人間観をひっくり返した。あの人間観のおかげで、私たちは、今になってひどい結末に苦しむはめになったのだ。(b)カーネマンの重要な仕事は、(さまざまな段階の)効用に関する理論で、幸せなどの重要な問題に大きな意義を持つ。今や、幸せは本物の研は究対象になった。

生物学者にして進化経済学者のテリー・バーナムとは長々と議論した。進化心理学を、気取ることなく紹介した本、『いじわるな遺伝子:SEX、お金、食べ物の誘惑に勝てないわけ』の共著者だ。偶然にも彼はジャミール・バーズの親友だった。子供のころからの友だちだそうだ。そのバーズは二○年前、私がランダム性について考え始めたころに、考えをぶつけて意見を聞いた相手だった。ピーター・マクバニーは人工知能をやっている人たちに私を紹介してくれた。この分野は哲学、認知脳科学、数学、経済学、そして論理学を合わせ、融合させているようだ。私は彼と、いろいろな合理性の理論についてなんとなくやりとりを始め、いつの間にか書簡は膨大になった。

マイケル・シュレイグは書評を書いてくれた一人であり、現代的(したがって科学的)インテリの典型だ。重要そうな本をかぎ当てて全部読む、そんな才覚がある。彼と話すと本物の知性を感じる。標準的な学界のしばりにとらわれていない。ラマズワミ・アンバリッシュとレスター・シーゲルは著作(注目されていないのがまったく不思議だ)を通じて、運用成績を評価する際、ランダム性にだまされていると、パフォーマンスの違いがいっそう見分けられなくなることを教えてくれた。マルコム・グラッドウェルは直観と自己認識を扱った文献から面白いものを見繕って送ってくれた。アート・ド・ヴァニーは非線形と稀にしか起きない事象が専門の経済学者で、洞察力があってとても興味深い人だ。彼が初めてくれた手紙はこんな宣言で始まっていた。「私は教科書をバカにしている」彼みたいに考えの深い人が、同時に人生を楽しんでいるのを見ると勇気が湧く。

経済学者のウィリアム・イースタリーは、経済発展をもたらす要因が勘違いされているのはランダム性が原因の一つだと教えてくれた。彼はよく、懐疑的な実証主義者であることと、政府や大学といった組織が知識を独占するのが嫌いであることの関係を語っていた。熱心な読者で、ハリウッドでエージェントをしているジェフ・バーグは、マスコミ業界に見られる強い種類の不確実性について考えを語ってくれた。彼にも感謝している。本のおかげでジャック・シュウェイガーと夕食の席上で興味深い議論をすることができた。彼は、いくつかの問題について、今生きている人の誰よりも長く検討してきたようだ。

ありがとうグーグル
次に挙げる人たちは、この本を書く際に手助けしてくれた人たちだ。アンドレア・ムンテアヌが厳しい読者として得がたい意見を言ってくれたのはとても幸運だった。彼女はデリバティブの世界で目覚ましい仕事をする傍ら、この本で引用した内容が正しいかどうか、グーグルで調べてくれた。アマンダ・ガルゴーもそうした検索を手伝ってくれた。

それから、イタリア語版の翻訳者がジャンルカ・モナコだったのは幸運だった。彼は文中の間違いを片っ端から見つけてくれた。私がやっていたら一世紀かけても終わらなかっただろう(この人は認知科学者であり、また翻訳者から数理ファイナンスの研究者に鞍替えした人だ。彼は出版社に電話して自分に翻訳させろと交渉した)。

科学哲学者で論文を一緒に書いたこともあるアヴィタル・ピルペルは専門的な確率の議論に付き合ってくれた。エリー・エイヤッシュは私と同じレバノン人で、トレーダー兼数学者兼物理学者から科学と確率と市場の哲学者に転身した人だ(神経生物学はやってないけれど)。この人のおかげで、私はボーダーブックスの哲学と科学のコーナーで膨大な時間を費やした。

フラヴァ・シンバリスタ、(今はライリー社にいる)ソール・マリティーミ、ポール・ウィルモット、マルク・シュピッツナーゲル、グル・フーバーマン、トニー・グリックマン、ウィン・マーティン、アレキサンダー・ライス、テッド・ジンク、アンドレイ・ポクロフスキー、シェップ・デイヴィス、ガイ・リヴィエア、エリック・シェーンバーグ、そしてマルコ・ディ・マルティーノは書いてあることについてコメントしてくれた。ジョージ・マーティンは、いつもどおり、考えをぶつける相手として得がたい人だ。読者のカリン・シシェリュー、ブルース・ベルナー、そしてイーリアス・カトソニスは膨大な量の誤植をeメールで指摘してくれた。シンディ、サラ、そしてアレキサンダーの支援にも感謝したい。彼らはいつも、確率と不確実性ばかりがすべてじゃないと思い出させてくれる。

第二のわが家、クーラン数理科学研究所にも感謝すべきだろう。興味のある分野を追究し、学生に教えながら、知的には独立性を保っていられる、すばらしい環境を提供してくれた。とくに、ジム・ガスラルは一緒に授業をやっていると四六時中私の言うことに口を挟んでくれる。パロマのドナルド・サスマンとトム・ウィズは非凡な洞察を示してくれた。彼らが「黒い白鳥」をとてもよく理解しているので私は感銘を受けた。また、エンピリカのメンバー(社員という言葉は禁止している)には、職場に激しく非情な空気を育み、本当に情け容赦ない知的な討論を行ってくれた。感謝している。私が何かいうたびに、私の同僚たちは必ずなんらかの形で反論してくれる。

この版でももう一度、デイヴィッド・ウィルソンとマイルズ・トンプソンに感謝する。彼らがいなければ、そもそもこの本は世に出なかった。さらに、ウィル・マーフィ、ダニエル・メナカー、エド・クラグスバーンは、この本を復活させてくれた。彼らがいなければ、この本は死んだままだっただろう。ジャネット・ワイガルには完璧で我慢強い仕事に対し、フリートウッド・ロビンズには提供してくれた手助けに対し、感謝している。彼らの熱心さからいって、間違いはあんまり残っていないと思うけれど、もしもあったらそれは私のせいだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2008/2/1)、出典:出版社HP

まぐれ――投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか 目次

はじめに――知識を真に受けてはいけない
改訂第二版での謝辞
各章の要約
プロローグ――雲に浮かんだモスク

第I部 ソロンの戒め  歪み、非対称性、帰納法
第1章 そんなに金持ちなら頭が悪いのはどうしてだ?
ネロ・チューリップ
雷の一撃
一時的な正気
仕事の流儀
プロ意識なし
誰にだって秘密はある
ハイイールド債トレーダーのジョン
成金の田舎者
真っ赤に燃える夏
セロトニンとランダム性
あなたのかかりつけの歯医者はお金持ちだ、ものすごくお金持ちだ

第2章 奇妙な会計方法
違った歴史
ロシアン・ルーレット
あり得る世界
もっとたちの悪いルーレット
同僚とは仲良く
アエロフロートで拾い物
ソロンがリジンのナイトクラブにやってくる
ジョージ・ウィルはソロンじゃない――直観に反する真理について
討論で恥をかく
違った類の地震
ことわざを一つ
リスク・マネジャー
ついでに起きること

第3章 歴史を数学的に考える
ヨーロッパの遊び人の数学
道具について
モンテカルロの数学
屋根裏部屋での楽しみ
歴史をつくる
屋根裏部屋でゾルグルーブが増えていく
歴史を軽んじる
ストーブは熱い
過去の歴史を予測する能力
私にとってのソロン
パームパイロットで蒸留された考え
緊急ニュース
シラー再び
長老の支配
ピロストラトス、モンテカルロに現わる――ノイズと情報の違い

第4章 たまたま、ナンセンス、理系のインテリ
ランダム性と動詞
逆チューリング・テスト
エセ思想家の始祖
モンテカルロの詩

第5章 不適者生存の法則――進化は偶然にだまされるか?
新興市場の魔術師カルロス
いい時代
買い下がり
砂浜に描いた線
ハイイールド債トレーダーのジョン
コンピュータと方程式を操るクウォンツ
連中に共通する特徴
市場に巣食う、たまたまなのにその気になる連中の特徴を概観する
素朴な進化論
進化は偶然にだまされるか?

第6章 歪みと非対称性
中央値は語らない
牛熊動物学
傲慢な二九の若造
稀な事象
対称性と科学
ほとんどみんなが並以上
稀な事象に関する誤解
究極の引っ掛け
統計学者が稀な事象に気づかないのはなぜか?
いたずらっ子が球を入れ替える

第7章 帰納の問題
ベーコンからヒュームへ
シグナス・アトラトゥス
ニーダーホッファー
カール卿の広報担当
場所、場所
ポパーの答え
開かれた社会
誰にだって欠点はある
帰納と記憶
パスカルの賭け
ありがとうソロン

第Ⅱ部 タイプの前に座ったサル
生存バイアスとその他のバイアス

第8章 あるいはとなりの億万長者でいっぱいの世界
失敗して傷つくのをやめるには
ちょっと幸せ
仕事のしすぎ
お前は負け犬
二重の生存バイアス
また専門家
勝って表舞台へ
上昇相場のたまもの
カリスマのお言葉

第9章 卵を焼くより売り買いするほうが簡単
数字にだまされて
プラシーボ投資家
能力なんて誰もいらない
凡人へ逆戻り
エルゴード性
人生は偶然の出会いでいっぱい
不思議な怪文書
テニスの試合に邪魔が入る
生き残りの逆
誕生日のパラドックス
世間は狭いねぇ!
データ・マイニング、統計、いかさま
これまで読んだ中で最高の一冊!
バックテスト
もっと不穏な拡張
業績発表の季節――結果にだまされて
相対的な運
ガンの治療法
ピアソン教授、(文字どおり)モンテカルロへ行く――たまたまはたまたまに見えない!
吠えない犬――科学的知識のバイアス
結論はない

第10章 敗者総取りの法則――日常の非線形性
砂山のなだれ現象
ランダム性の導入
タイプを学ぶ
現実の世界の裏表と数学
ネットワークの科学
私たちの脳
ビュリダンのロバ――ランダム性のよい面
降れば土砂降り

第11章 偶然と脳――確率をわかるのに不自由
パリ?それともバハマ?
構造上の問題
哲学をやっている役人には気をつけろ
充足化
単なる不完全ではなく欠陥
カーネマンとトヴァスキー
ここぞというときにナポレオンはどこへ行った?
「どれだけ儲けるかが大事」、その他のヒューリスティック
フォーチュン・クッキー博士
二重思考
初めてのデートで結婚しないのはなぜか
私たちが本来生きていた場所
すばやく、つましく
神経生物学者も参戦
法廷のカフカ
不条理な世界
確率を見るときのバイアス、その例
ぼくらにオプションはわからない
確率とマスコミ(さらにジャーナリストについて)
お昼ごはんどきのCNBC
お前はすでに死んでいる
ブルンバーグの解説
ろ過のやり方
ぼくらに信頼水準はわからない
告白

第Ⅲ部 耳には蝋を
偶然という病とともに生きる

第12章 ギャンブラーのゲンかつぎと箱の中のハト
タクシー・ドライバーの英語と因果
スキナーのハトの実験
ピロストラトス再び

第13章 カルネアデス、ローマへきたる
確率論と懐疑主義カルネアデス、ローマへきたる
懐疑主義が生んだ確率論
ノルポワ侯爵の意見
信念の経路依存性
考える代わりに計算する
墓場から墓場へ

第14章 バッカスがアントニウスを見捨てる
ジャッキー・Oの葬式
偶然と人としての品格

エピローグ――ソロンの言うとおり器
ロンドンの渋滞には気をつけろ

あとがき――シャワーを浴びながら振り返る
振り返る、その一――能力は逆転する
振り返る、その二――偶然のメリットをもういくつか
不確実性と幸せ
メッセージにスクランブルをかける
振り返る、その三――一本足で立つ|
;
第一版での謝辞
訳者あとがき
図書館へ行く――参考文献
図書館へ行く――付注
索引

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2008/2/1)、出典:出版社HP

各章の要約

第1章 そんなに金持ちなら頭が悪いのはどうしてだ?
正反対の二人を通じて、偶然が社会の序列とねたみに及ぼす影響を描く。隠れた稀な事象について。現代の日常は急に変わる。例外は、たぶん、歯医者の業界ぐらいだ。

第2章 奇妙な会計方法
違った歴史、確率論的な世界観、知的欺瞞、そしてよく風呂に入るフランス人のランダム性に関する見識。どうしてマスコミはたまたまの物事がわからないのか。借り物の知恵にご用心。偶然の結果に関するすばらしい考えが、ほとんど全部、通念に反しているのはなぜか。正しいこととわかりやすいことの違いについて。

第3章 歴史を数学的に考える
時間とともに起きていく偶然の事象を理解するためのたとえとしてのモンテカルロ・シミュレーション。ランダム性とつくりものの歴史。古いものはほとんどいつも美しく、新しいものや若いものはだいたい毒だ。歴史の教授を標本抽出論入門の講座へ行かせろ。

第4章 たまたま、ナンセンス、理系のインテリ
モンテカルロ・ジェネレータで人工知能をつくり、ランダム性に頼らずに厳密につくられた知能と比べる。サイエンス・ウォーズは実業界へ。私の中の美を愛でる部分が好き好んでまぐれにその気になるのはなぜか。

第5章 不適者生存の法則――進化は偶然にだまされるか?
稀な事象を二つ。稀な事象と進化。生物学の外の世界で「ダーウィン主義」と進化がどれだけ誤解されているか。命は連続でない。進化がどう偶然にだまされるか。帰納の問題への序論。

第6章 歪みと非対称性
歪みという概念を持ち込む。「ブル」とか「ベア」とかいうのは動物学の外の世界ではあんまり意味がない件について。いたずらっ子がランダムな構造を台無しにする。認識の不透明さの問題とは。帰納の問題へあと二歩。

第7章 帰納の問題
白鳥の色素力学について。ソロンの戒めを哲学に持ち込む。ヴィクター・ニーダーホッファーが実証主義を教えてくれた。私はそれに演繹を加えた。科学を額面どおりに受け取るのがなぜ科学的でないか。ソロスがポパーを広める。フィフス・アヴェニューと一八番街の角の本屋。パスカルの賭け。

第8章 あるいはとなりの億万長者でいっぱいの世界
生存バイアスの例を三つ。どうしてパーク・アヴェニューに住んでいい人はとても少ないのか。となりの億万長者の衣はとても薄っぺら。また専門家。

第9章 卵を焼くより売り買いするほうが簡単
生存バイアスを専門的に拡張する。日常における「偶然」の分布。能力よりも運があったほうがいい(でもいつかはツケが回るかも)。誕生日のパラドックス。さらに詐欺の話(さらにマスコミの話)。プロ意識のある研究者ならデータから何でも見つけられる件について。吠えない犬。

第10章 敗者総取りの法則――日常の非線形性
日常における意地の悪い非線形。ベルエアへ行ってお金持ちの有名人の悪いところを身につける。マイクロソフトのビル・ゲイツが業界最高でないかもしれない(でも彼にそんなことを教えてはいけない)のはなぜか。ロバからエサを取り上げる。

第11章 偶然と脳――確率をわかるのに不自由
バケーションはパリとバハマを線で結んでも想像しにくい件について。たぶんネロ・チューリップは二度とアルプスでスキーはしない。役人に多くを望むのは間違い。ブルックリン製の脳みそ。ナポレオンが必要。スウェーデン国王にお辞儀する科学者たち。マスコミという公害についてもう少し。おまえはすでに死んでいる。

第12章 ギャンブラーのゲンかつぎと箱の中のハト
私の人生はギャンブラーのゲンかつぎでいっぱい。英語のわからないタクシー・ドライバーのおかげで儲かるのはなぜか。私がバカの中のバカなのはなぜか。でも、私は自分でそれを知っている。自分の遺伝子レベルの不適応と付き合う。トレーディング・デスクにはチョコレートの箱を置かない。

第13章 カルネアデス、ローマへきたる確率論と懐疑主義
監察官カトー、カルネアデスを追い返す。ノルポワ侯爵は前に自分が言ったことを覚えていない。科学者、注意せよ。アイディアと結婚。あのロバート・マートンが私を有名にした。科学は墓場から墓場へと進歩する。

第14章 バッカスがアントニウスを見捨てる
モンテルランの死。理性主義とは噛み締めた唇のことではなく、偶然に打ち克ったという幻想のこと。勇敢になるのはとても簡単。まぐれと人としての品格。

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2008/2/1)、出典:出版社HP