セイラー教授の行動経済学入門

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ノーベル賞経済学受賞者の行動経済学

2017年のノーベル経済学賞の受賞者となるシカゴ大学のリチャード・セイラー教授筆者となり、1987年から1990年にかけて行動経済学のさきがけとなる作品になります。

リチャード・セイラー (著)
ダイヤモンド社 (2007/10/26)、出典:出版社HP

刊行に寄せて―すぐれた意思決定のトレーニングに

楽天証券経済研究所 客員研究員 山崎元

本書は一九八八年から、ジャーナル・オブ・エコノミック・パースペクティブという経済学会の専門誌に連載された論文を一冊にまとめたものです。著者のリチャード・セイラー教授は、投資業界では「長期のリターン・リバーサル」に注目した研究者としてよく知られていました。「長期のリターン・リバーサル」とは簡単に言えば、「過去五年ぐらい相対的なパフォーマンスが悪かった株を買うと、その後の相対的パフォーマンスはよくなる」という現象を指しています。

このような現象は、既存のファイナンス(投資)理論では説明できないアノマリー(例外事象)と呼ばれ、たとえば「時価総額の小さい小型株のリターンが継続的に高い」とか、「PBR(株価純資産倍率)が低い株式のリターンは高い」など、さまざまな事象が研究されてきました。こうした研究は現実の投資に応用されることも多く、実務家の関心を集めていましたが、セイラー教授もパイオニアの一人です。

そのセイラー教授が、それぞれのテーマの第一線の研究者と一緒に連載を始めたということで、当時、投資を研究する部署にいた私は、職業上の興味もありましたが、新しい野心的な議論に興奮しつつ、毎回楽しみに読んでいました。

その後、一九九二年に一冊の本にまとまってからも、改めて読み直し、取り上げているテーマの幅広さ、興味深さに関心したものです。「同じ仕事でも産業によって賃金格差があるのはなぜか」「オークションで高値づかみしない戦略はあるか」といったところから、「競馬」「宝クジ」「株式市場」といった身近な機会についての分析から、「公共財ゲーム」「最終提案ゲーム」といった行動経済学的なアプローチによる、人間の現実の行動の分析といったことまで、切れ味鋭く解説しています。

本書の最初の論文が書かれてからかれこれ二〇年近く経とうとしていますが、その着眼やテーマ設定、思考の方向性などきわめて先見性があります。いま読み返してみても一章、一章のテーマが議論として実に刺激的で、わかりやすい記述ですが内容的に高度です。今回の新版でもう一度読めるのは非常にうれしいことです。

伝統ファイナンスに対する批判

既存のファイナンス理論は、一九六〇年代、七〇年代を通じて、高度に数理的に発展してきました。金融工学と呼ばれる分野にその掉尾があります。しかし、それはどちらかといえば、かならず解けるようにつくった詰め将棋のようなもので、現実の資本市場や投資家行動の説明力には、疑問があるところです。そこへ、八〇年代に行動経済学の研究が勃興してきたことによって、伝統ファイナンスの「例外事象」に系統的な説明が試みられるようになり、「行動ファイナンス」という分野が確立しました。行動ファイナンスにより、伝統ファイナンスが前提とするものの非現実性を示す証拠が次々に明らかにされており、もはやファイナンスの基礎はすっかり書き換えられた、と私は見ています。

行動経済学におけるキーワードの一つに「バイアス」という言葉があります。いわゆる合理的な判断の意思決定から系統的に起こる判断の「偏り」を指します。そのバイアスを一貫して説明できる理論として組み立てられた代表的なものが、二〇〇二年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンとその共同研究者であるエイモス・トバスキー(残念ながら故人です)によってまとめられた「プロスペクト理論」です。この理論は、不確実な将来の意思決定において人間はかならずしも合理的に行動しないこと、特に「参照点」と言われる自分が意識している点(たとえば株式の取得価格がしばしばこれに当たります)からの上下で行動が変わることなどを説明しています。本書には、カーネマンもトバスキーも共同執筆者として参加しています。本書第6章では、まさにこの理論に収斂していく議論が展開されています。

行動ファイナンスが現実的に有効と思われる身近な例を挙げましょう。毎月分配型の投資信託という投資商品が日本では人気です。伝統ファイナンス的な考え方からすると、そもそもキャピタル・ゲインとインカム・ゲインとは区別しないで、収益は総合的に損得を考えるとされています。この商品は、頻繁に分配金が得られるといっても、それは、元本を減らして支払われています。なので、分配自体がけっして得になっているわけではないのです。しかも、分配を早くたくさん出すということは、課税のタイミングが前倒しされ、それだけよけいに税金もかかるわけです。

そうしてみると、毎月分配型のファンドは、伝統ファイナンス的には得ではない商品、ダメな商品ということになります。しかし、現実には売れているわけです。つまり、経済学説的にはダメなのに、でもよく売れている。その秘密は行動ファイナンスで説明できるのです。

一つは金銭的な報酬が、毎月という短期のサイクルであるということ。人間は、非常に先にある報酬と、わりと目先にある報酬とを正確に比べることができないのです(くわしくは、本書第8章を参照してください)。これは、行動経済学では「双曲割引」と呼ばれる現象です。本来、現在価値に対する係数は時間に対して指数関数的になだらかに割り引かれなければいけないのですが、実際の人間の価値判断には、目先にある金銭報酬の価値がきわめて高く、将来に向かって急速に落ち込んでいくゆがみがあります。どうも目先の報酬を得た、ということに心地よさがあるようです。

また、インカム・ゲインとキャピタル・ゲインを分けて考えてしまいます。これは、いわゆる「メンタル・アカウンティング」と呼ばれる現象です。本来、価値に差がないはずのお金のありがた味が、収入の名目や使途などで別々に評価される傾向を指します(本書第9章を参照してください)。たとえば月給で高額なフランス料理を食べるのは贅沢だと判断しても、競馬で当てた払戻金で食べるのは「まあいいや」と思ってしまうようなことです。合理的には、稼いだ手段に関わりなく同額のお金の価値は同じはずなのですが、収入の名目などによって「心の中の勘定科目」が違うかのように処理されるのです。

加えて、プロスペクト理論によると、元本(参照点)を割れた状態にあっては、人は、むしろリスクのある状態を好みますが、毎月分配型のファンドは為替などのリスクを負っており、この点もちょうどよくできています。心のツボにはまった巧みな商品設計であり、行動経済学理論の応用例になっています。

自然的合理性とゲーム論的合理性のギャップ

「合理性」という言葉の意味を整理する必要がありそうです。おそらく、過去の経済学説が言っているものは、あえて名前をつけるなら「ゲーム論的合理性」とでも呼ぶべきもので、取引の上で損にならない合理性のことです。これに対し、人間の自然な感じ方に基づいて評価すると心地よいという意味での合理性があります。あえて名前をつけるなら「自然的合理性」でしょうか。これらの「二つの合理性」の間には大きなギャップがあり、先ほどの毎月分配型のファンドなどは結果的にこのギャップをうまく使っているのです。

いわゆるマーケティングというものを考えたとき、うまくいくマーケティング、儲かるマーケティングの背景には、「自然的合理性」と「ゲーム論的合理性」のギャップを巧みに利用する工夫が潜んでいます。一方、消費者や投資家としては、人間のバイアスを知り、それを克服することで、損を回避したり、マーケティングに対する免疫をつけたりすることができる。そのために利用できるのが行動経済学です。

行動経済学が次に取り組まなければいけないテーマは、各種のバイアスが生じる原因を明らかにすることでしょう。最近は「バイアス」を脳の働きと関連づけて研究するということが進んでいます。ファイナンスや経済学にとどまらず、倫理であったり法律であったり、かなり広い範囲で急速に脳の働きとの関連が研究されています。

よく「投資家はリスクとリターンとを合わせて意思決定すべきだ」と言われますが、実は脳の中では、リスクに対して反応する場所とリターンに対して反応する場所は違うようなのです。したがって、両者をバランスよく考えろということは、口で言うほど簡単ではないのかもしれません。

筋肉にたとえるなら、別々の筋肉を一つの目的のためにバランスよく使わなければいけない、というようなことが、すぐれた意思決定の過程にもあるようです。そのためには、意図的な努力が必要です。たとえばテニスでいいプレーをしようと思えば、少なくとも本能のままに振り回せば強いボールが返せるわけではありません。ラケットの動かし方一つをとっても、テニスに最適化された体の使い方や動きというものがあります。ゴルフもそうです。人間の動きとしては不自然ですが、ゴルフというゲームに最適な動き方をしなければならない。同じように、経済にまつわる意思決定についても、頭の使い方にある意図的な努力が必要なのではないかと思えてきます。

そういう意味で本書の一章、一章は、すぐれた意思決定のために、投資に勝つために(負けないために)、新しい発想のトレーニングに最適な、きわめて中身の濃い良書です。

リチャード・セイラー (著)
ダイヤモンド社 (2007/10/26)、出典:出版社HP

目次

セイラー教授の行動経済学入門

刊行に寄せて―山崎元

目次

第1章 経済理論と「例外」
合理的行動モデルはどこまで正しいか INTRODUCTION

第2章 協調戦略
人はいつどんな理由から協力するようになるか COOPERATION
解説 協調の供給曲線は右肩上がりのカーブを示す

第3章 最終提案ゲーム
「不公平なら断ってしまえ」という意思 THE ULTIMATUM GAME
解説「公平な人間」と「かけひき屋」の間にあるもの

第4章 産業間賃金格差
同じ職種なのになぜ給料に差が出るのか INTERINDUSTRY WAGE DIFFERENTIALS
解説 市場の失敗としての賃金格差

第5章 オークション
勝者は「敗者」となる呪いをかけられている THE WINNER’S CURSE
解説 相手が間違いを犯していることに気付いたとき、どうすればいいか

第6章 損失回避
手放すものは得るものより価値がある THE ENDOWMENT EFFECT, LOSS AVERSION, AND STATUS QUO BIAS
解説 この考え方は私たちに託された「保有物」である

第7章 選好の逆転現象
選好の順位付けはプロセスのなかで構築される PREFERENCE REVERSALS
解説 価値の本質をめぐるそれぞれ異なる三つの意見

第8章 期間選択
金利と割引率についての損得勘定 INTERTEMPORAL CHOICE
解説 実証研究の成果を活用して効用理論を修正せよ

第9章 心理会計
貯蓄と消費は人間的に行われる SAVINGS, FUNGIBILITY, AND MENTAL ACCOUNTS
解説 誰の行動がモデルになるのか

第10章 ギャンブル市場
競馬と宝クジにみる「市場の効率性と合理性」 PARI-MUTUEL BETTING MARKETS
解説 合理的な市場リスクの追求は、理論的に可能か

第11章 株価予測(1)
CALENDAR EFFECTS IN THE STOCK MARKET
解説 謎を解く手がかりは、実証主義者の手に委ねられている

第12章 株価予測(2)
株価は平均値に回帰する A MEAN REVERTING WALK DOWN WALL STREET
解説 新しい資産価格決定理論をつくり出すという課題

第13章 投資家感情仮説
クローズド・エンド型ファンドの不思議 CLOSED-END MUTUAL FUNDS
解説 非合理な信念に基づいているにしても、需要は価格を動かしうる

第14章 外国為替市場
金利差と為替レートの謎 FOREIGN EXCHANGE
解説 外国為替市場の非効率性と政策介入の問題
エピローグ
行動経済学が描く新しいパラダイム EPILOGUE

本書が生まれた秘密と謝辞

訳者あとがき