開発経済学 貧困削減へのアプローチ 増補改訂版

開発経済学スタンダード!

開発経済学の歴史、マクロ、ミクロ、最新の行動経済、実験経済(RCTs)などがバランスよく書かれており、開発経済学の全体像をつかめるでしょう。

黒崎 卓 (著), 山形 辰史 (著)
出版社、日本評論社; 増補改訂版 (2017/3/21):出版社HP

序章

人間は生活水準向上のために不断の努力を重ねてきた。しか しその努力は実るときと実らないときがある。産業革命以前の 世界の所得の伸びは1000年以上にわたり非常に緩やかだったことが知られている(Economist 1999)。そして産業革命以降の 世界経済の拡大は、現在われわれが目の当たりにしているもの である。産業革命以前も生活水準改善のための努力はなされて いたのであるが、それが常に報いられたわけではなかった。経 済的進歩を促す制度があって初めて進歩が実現したのである
(Mokyr 1990)。

同様に、生活水準向上への努力は報われた場所と報われていない場所がある。現在の開発途上国でも、生活水準向上のため に人々の不断の努力が重ねられてきたにもかかわらず、先進国 で起こったほどの生活水準の改善を見ていない。世界銀行による貧困者数推計(2016年)によれば、2010年時点でなお、世 界全体で9億人もの人々の生活水準が貧困ライン以下であるとされており、その大多数が途上国で生活している。途上国の人々の多くは、飲むのに適した水、基礎的栄養、安価で有効な薬の 摂取がままならないうえ、いったん傷病や天災、紛争等が身に 降りかかったら、その悪影響を緩和する術を多くもたない。

このように、貧困者の生活水準を上げるための開発ニーズ は、開発途上国のいろいろな側面に存在している。雇用、教 育、環境、食糧、等々、多種多様な領域において、人々の生活 水準向上のための改善が必要とされている。本書でいう「開発」とは、これらさまざまな側面での改善の試みであり、開発 経済学とは、この試みを経済理論に基づいて分析するための学 問である。

本書のねらい

開発経済学の教科書としての本書の特色は、第1に、生産者で あれ消費者であれ、どんな人々がどんな能力をもち、どんなこ とを考えて行動しているか、というようなミクロ的イメージを 明示し、それをモデル化して示すことに最大限の努力を払っていることである1)。なぜある人がある選択をし、なぜ他の人 が同じ選択をしないのか、というような経済学の根本的な問題は、開発経済学においても基本となる。 ミクロ経済学的基礎とは、数学的表現もさることながら、制約、インセンティブといった、人々の選択にかかわる条件を直 観的に指し示すということでもある。仕事が得られないかもしれないとわかっているのになぜ都市に出るのか、利潤の上がる生産機会があるのになぜ一部の小生産者はそれに手を出さない のか、安い賃金でも働くという労働者がなぜ雇用されないの か、マイクロクレジットにおける連帯責任によって資産をまったくもたない貧困層への融資がどうして可能になるのか、途上 国の賃金が安いのになぜ資本移動が増えないのか、知的所有権 を認めると技術移転が進むのか停滞するのか、といったような 問題に対するミクロ経済学的解答を本書で与える。

本書の第2の特徴は、現在、国際開発の分野で注目されている トピックや論点を紹介するとともに、その経済学的背景を説明しようと試みた点である。冒頭に述べたように、開発はある時点のある地域では功を奏し、別の時点の別の地域では大きな成 果をあげていない。前者ではなぜうまくいき、後者ではなぜうまくいかなかったのか、という課題が提示され、より効果的に 国際開発を推し進めていくための新しい手法や概念が日々編み 出されている。それら新しい手法や概念の例として、人間開発 指標、貧困指標、プログラム評価、ランダム化比較実験 (randomized controlled trials:RCT)、行動経済学的実験、 マイクロクレジット、貧困層のターゲティング、ガバナンス、 債務削減、ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)などがある。本書は、これら新 しい国際開発の潮流について説明するとともに、それらが考案された背景について、経済学的解釈を与える。援助機関やNGOなど開発の現場で働く人々にとっても、本書が有用であってほしいとの願いを込めたものである。

開発への遠い道程を手を携えて

すでに開発経済学は、限られた一部分の経済学者だけが取り組む分野ではなくなっている。世界銀行の副総裁のうち1名は、 開発だけでなくあらゆる分野において世界的に有名な経済学者が任命されることが通例となり、世界銀行や国際通貨基金 (IMF)の研究者は、有名な経済学のジャーナルに次々と論文 を載せている。アジアの急速な経済発展は一般の経済学者の注目を集めたし、1997年からのアジア通貨危機も世界経済全体に大きな影響を与えるものとして重要視された。つまり途上国の 開発は、いまや経済学者一般の興味を惹くテーマとなっているのである。

そもそも一国の開発は多くの人々が協力して当たらなければ ならない大事業である。経済学を含む社会科学だけでなく、自然科学の協力も必須である。実際の開発の現場には、援助機関の職員や医療・保健、人口、教育、災害対策、住環境、建設、交通、エネルギー、農林水産業、金融、環境、法律等々の専門家が全世界から途上国に派遣されする)、日夜開発に取り組んで いる。彼ら専門家や援助機関の職員たちがプロとしての知恵と 能力を振り絞り、受益者であるはずの途上国の人々やそれらの国の専門家と協力して取り組んで、それでもなおほんの少しずつしか進展しないのが開発というものなのである。

したがって経済学においても、さまざまな分野の経済学者が 協力して開発を分析して当然である。開発経済学者の1つの役割 は、それら異なった分野の経済学の研究をコーディネートすることにあるといえるかもしれない。そのためには、開発経済学者は、開発における経済学の専門家として、途上国の開発に資する経済学の諸分野を広く知っている必要がある。伝統的な開発経済学に留まることなく、新しい分野に足を踏み入れ、その分野の成果を開発に活かすべく立ち働くことが要請される。本 書ではその試みの1つとして、開発および経済発展に関する重要 な問題について、従来の開発経済学の枠にとらわれず、広くミ クロ経済学的背景を与えることを試みた。

黒崎 卓 (著), 山形 辰史 (著)
出版社、日本評論社; 増補改訂版 (2017/3/21):出版社HP

本書の構成

本書は3部によって構成される。第1章から第3章は開発経済 学および開発についての諸概念と、それに基づく実証分析の手 法やデータについて整理している。第4章から第7章は途上国が 直面している問題とその問題が発生したメカニズムについて論 じ、第8章から第13章はその問題を解決するための開発戦略や 開発政策について分析している。ただしこの分類は大まかなものであって、各章それぞれに両方の要素が、濃淡の差はあれ含 まれる。また各章は基本的に読みきりの形をとっている。関心 のあるテーマからまず読み、必要に応じて他の章にも目を通す という読み方も可能である。

まず第1章では開発経済学の歴史を簡単に展望し、その扱う範囲が時代を追って「膨張」しつづけていることを論じる。本書 が強調する開発経済学のミクロ的アプローチは、このような流れの中に位置づけられる。第2章は、1人当たり所得や貧困、不 平等指標といったある国の開発の成果を測るマクロの指標を紹 介する。近年の政策論議では実証的証左(エヴィデンス)がしばしば問題になるが、企業・家計などのミクロデータを用いて これを計測する手法と、そこで用いられるデータに関し概観するのが第3章である。第2章と第3章では、さまざまな指標の背 後にあるミクロ経済学的考え方を中心に説明することにより、第4章より始まる本論への導入となっている。

第4章は、零細自営業者や小農の経済学を取り上げる。これ は、このような生産者が低所得国において重要であるという理 由に加えて、用いられる分析ツールに開発経済学のミクロ的基 礎のエッセンスが詰まっていると考えるためである。続く第5章 は、途上国の信用市場を取り上げる。金融市場が未発展のため、余剰資金が開発のための原資として動員されない問題を途上国の多くは抱えている。この問題を情報の非対称性を鍵にして説明するのがこの章の課題である。情報の問題が重要になる のは労働市場も同様である。そこで第6章では、賃金と人的資本 という労働経済学で重視される変数が、途上国の貧困のメカニ ズムを説明するうえではどのように分析できるかを検討する。 前半を締めくくる第7章は、「貧困の罠」が実現するメカニズムと、そこからの脱却がいかにして可能であるかを理論的に展望 する。したがってこの章のテーマは、貧困から脱却するために 必要な開発戦略を考察する材料を示しているという意味で、後 半への橋渡しの役を果たしている。

第8章以降は、経済開発をスムーズに進めるために必要な開発 戦略・政策が基本テーマである。第8章は、緑の革命など途上国 の経済発展にも大きなインパクトを与えてきた技術革新と普及 およびそれを促進する制度について取り上げる。エイズなど、 開発途上国の国民の保健に大きくかかわる疾病の治療・予防の ための医薬品開発と特許制度の関係が、1つの大きな焦点とな る。第9章は、貧困削減戦略の一部として、援助の対象となる貧困者を特定する手法であるターゲティングについて、労働経済 学的に考察する。第10章では、貧困層にターゲットを定めた融 資であるマイクロクレジットのメカニズムと意義について検討 する。第5章で述べるように、貧困が再生産される背景には信用 市場への不平等なアクセスの問題が存在する。この問題を克服 するために、マイクロクレジットが一定の効果を発揮すること を明らかにする。
しかしそもそも、個別の貧困者を対象とした政策にはおのず と限界がある。そこで第11章では共同体をターゲットに定める ことの意義について考察する。そして第12章では、国家をター ゲットにした開発援助が効を奏するための枠組みについて分析 する。そのための重要な概念の1つがガバナンスである。最後に第13章では、対象となる空間をさらに広げて、地球規模の課題 すなわちグローバリゼーションの功罪を考察する。

各章の記述の技術的(数学的)説明は、初出の雑誌『経済セ ミナー』連載時には割愛した詳細も含めて補論にまとめた。ま た、われわれ2人のこれまでの途上国経験に基づくエッセーを章 の間に配した。これによって、開発途上国の実状が生き生きと 伝わるよう願ったものである。

1)この試みはすでに筆者のうちの1人によってなされているものである。簡単な紹介として黒崎(2000)、理論と実証の両 方を扱った詳しい研究書として黒崎(2001a)、この手法を貧 困と脆弱性に焦点を当てて応用した研究書として黒崎 (2009)を参照のこと。また、より網羅的な教科書として は、日本語の翻訳も出ているBardhan and Udry(1999)が挙げられる。
2) いまでは、途上国から別の途上国に専門家が派遣されること もある。このような途上国問の協力は南南協力と呼ばれている。

黒崎 卓 (著), 山形 辰史 (著)
出版社、日本評論社; 増補改訂版 (2017/3/21):出版社HP

目次

本書のねらい
開発への遠い道程を手を携えて
本書の構成

第1章 膨張する開発経済学
1.1. 開発経済学とは何か?
1.2. 開発経済学の定番:1940~60年代
1.3. 輸出指向工業化と国際経済学:1970年代
1.4. 構造調整の時代:1980年代
1.5.膨張する開発経済学

第2章1人当たり所得と貧困・不平等
2.1. なぜ1人当たり所得か?
2.2.1人当たり所得からこぼれ落ちるもの
2.3. 所得だけが生活水準を決めるわけではない
2.4. 平等な社会かどうか
2.5. 貧困指標
2.6. 国レベルの成果を測るためのマクロデータ
2.7. おわりに

第3章開発政策のインパクトを測る
3.1. 政策のインパクトを測るためのミクロデータ
3.2. 客観的な政策評価の基本的考え方
(1) 「ナイーブな比較」の問題
(2) 二重差分
3.3. 計量経済学的手法によるインパクト評価
3.4. ランダム化比較実験(RCT)
3.5.行動経済学的視点
3.6. おわりに

第4章零細自営業者や小農の経済学
4.1. リキシャ引きのミクロモデル
4.2. ハウスホールド・モデルによるアプローチ
4.3.市場需要変化の影響
4.4. 賃労働市場との関係と人的資本
4.5. 小農の賃労働市場へのかかわり
4.6. ハウスホールド・モデルの強み
付論自営業者の主体均衡
(1) 主体均衡の特徴
(2) 市場需要変化の影響

第5章 途上国の信用市場
5.1. 信用の経済的役割(1) : 生産資金の調達
5.2. 信用の経済的役(2) : 消費の平準化
5.3. 信用の経済的役割(3):消費平準化を通じた生産投資推進
5.4. ミクロの信用制約とマクロ経済
5.5.途上国の信用市場の特徴
5.6. 信用と債務不履行
5.7. 非対称情報下の逆選択とモラルハザード
5.8.信用市場、貧困、非対称情報
付論信用の経済効果のモデル分析
(1) 生産信用
(2) 消費平準化のための信用
(3) 消費平準化と生産投資

第6章貧困層の賃金はなぜ低いままか
6.1. 労働供給の基本モデル
6.2. 賃金の決定要因:労働生産性
6.3. 労働生産性の決定要因としての賃金
6.4. 人的投資と労働生産性・賃金
6.5.児童労働と人的投資
6.6.一国内の賃金格差
6.7.人的資本蓄積、経済成長と国際賃金格差

第7章 貧困の罠からの脱出
7.1. 何から何へジャンプするか
7.2. 規模の経済の具体例
7.3.規模の経済と市場均衡
7.4. 《むだ》と補完性
7.5. 貧困の罠からの脱出

第8章 技術革新・普及とその制度
8.1. エイズ等感染症と特許
8.2. 技術革新の理論
(1) 経済発展と技術革新
(2) 知識という資本としての技術
(3) 公共財としての知識
8.3. 特許制度の意義
8.4. エイズ治療薬・予防薬開発の課題:技術開発と普及のトレード・オフ
(1) エイズ治療薬価格と開発のインセンティブ
(2) 研究開発促進のためのプッシュ・プル政策
(3) エイズ、結核、マラリア治療薬・予防薬に対するプッシュ・プル型支援
8.5. 競争と技術革新のタイプ
8.6. 途上国への技術移転と経済成長
8.7. おわりに:技術革新・普及と制度

第9章 貧困層への援助
9.1.貧困削減政策の必要性
9.2. 開発目標としての貧困削減
(1) 開発援助の潮流変化
(2) 世界銀行報告書に見る貧困観と貧困削減政策
9.3. 貧困層への「ターゲティング」
9.4.貧困層への所得移転政策
9.5. ワークフェア・アプローチによる貧困削減政策
9.6. 貧困層への効果的な援助に向けて
第10章 マイクロクレジットの経済学
10.1. グラミン銀行が注目された理由
10.2. マイクロクレジットの実態:初期のグラミン方式
10.3. マイクロクレジットのメカニズム
(1) グループ融資:相互選抜
(2) グループ融資:相互監視
(3) グループ融資:履行強制
(4) 逐次的融資拡大
(5) 返済猶予期間なしで回数の多い分割払い
10.4. 初期のマイクロクレジットの課題
10.5. マイクロクレジット研究の新潮流
10.6. 課題を越えて
付論:相互監視によってモラルハザードが解消される数値例

第11章 共同体と開発
11.1. 共同体に着目する意義
11.2. 貧困と環境悪化の悪循環
11.3. 「コモンズの悲劇」の基本モデル
11.4. 共有資源維持・修繕の過少投資
11.5. 国家管理か私有化か
11.6. 共同体のもとでの協力
11.7. 経済開発における地域共同体
11.8. 環境問題と共同体の今後

第12章 開発援助とガバナンス
12.1. 汚職の本質とガバナンス
12.2. ガバナンスの程度を測る
指標1:実感汚職指数
指標2:世界銀行の国別政策・制度評価(CPIA) 指数
12.3. 賄賂と資源配分
12.4. ガバナンスを改善するために
12.5. 開発援助の潮流変化
(1) 目的の明確化:PRSP、ミレニアム開発目標と持続可能な開発目標
(2) 手続きの共通化:援助協調
(3) 債務救済
12.6. おわりに:開発援助とガバナンス

第13章 グローバリゼーションと途上国
13.1. グローバリゼーションのメリット
(1) 地球規模の効率化
(2) 国際的な所得の平等化
13.2.グローバリゼーションのデメリット
(1) 一部の国民の所得減少
(2) 外国政府・企業による支配
(3) その他の懸念
13.3. グローバリゼーションの利益を途上国へ
(1) グローバリゼーションと貧困削減
(2) 国際協力を伴うグローバリゼーション
(3) グローバリゼーションは自動的に進むか?
13.4. 援助疲れの時代に
参考文献
あとがき
増補改訂版あとがき
索引

COLUMN
1 N村の15年:タイ
2銃口とベールの向こう側:パキスタン
3地主の大うちわ:パキスタン
4農村でのお金の貸し借り:ミャンマー
5やればできるはず:ナイジェリア
6労働は資本を代替する!:バングラデシュ
7さらけ出す人々:バングラデシュ
8謎解き2題:パキスタン、ミャンマー
9田植えの風景:日本・ミャンマー・パキスタン
底本奥付
電子化クレジット

黒崎 卓 (著), 山形 辰史 (著)
出版社、日本評論社; 増補改訂版 (2017/3/21):出版社HP