日本近代文学入門 12人の文豪と名作の真実 

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近代文学の文豪の知られざる一面

二葉亭四迷、森鴎外、芥川龍之介など日本近代の文豪12人の人生を辿り、近代文学史についての理解を深めることができます。それぞれの作家の文学史に対する思想が浮かび上がってくるため、非常に興味深いです。

堀 啓子 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/8/20) 、出典:出版社HP

はじめに

こんなにさらさらと書けるのに。
しかも上手いのに。
なぜ休んでばかりいるのだ!

そう怒ったのは、ときの『読売新聞』の社長である。専属作家であった尾崎紅葉が、人気連載『金色夜叉』の執筆を休んでばかりいる。そのことに業を煮やしたのである。
あいだに入ったのは高田半峰こと高田早苗である。政治家であり、早稲田大学の初代学長も務めたが、若いころは『読売新聞』の主筆であった。紅葉を『読売新聞』に招いたのも彼である。田舎の友人宅に招待されると自前の味噌と醤油を持ち込むほどのグルメであった紅葉とは、珍味の贈り比べをするほど親しかった。
そのため休載が続き、社長がやきもきしはじめると、高田が紅葉の家に馳せ参じる。だが朝の遅い紅葉を起こし、前夜遅くまで奮闘していたらしい草稿を見ると、催促する勇気もなくなったという。
同じジレンマを、この草稿を使って回避したのが高田の後継者・市島春城(謙吉)である。社長からのプレッシャーに耐えかねた市島は、あるとき、この草稿を社長に見せた。それは一枚の原稿であったが、あちこちに幾重もの重ね貼りがしてあり、全体に分厚くなったものだった。現代のように修正液もない時代である。いったん書き終えた原稿を読み返し、読み返しして、紅葉は気になる箇所を墨で消し、余白に書き直した。だがそれも気に入らないと、小さく切った白い紙を上に貼りつけて、さらにその上に書き直す。切り貼りのために傷だらけになった机の上で紅葉はこの作業をくりかえすため、原稿にはあちこちに小さな紙の層ができていた。「七たび生れ変わって文章を大成せむ」という彼の気骨の表れである。市島は、社長にこの小さな紙を一枚一枚剥がして見せながら、一言隻句おろそかにしなかった紅葉のこだわりを説いた。舞台裏にどれほどの苦労があるのか、そこではじめて知った社長は、怒りの鉾をおさめたという。

尾崎紅葉は、誰もが認める美しく洗練された文章を書く作家だった。それは彼が、完璧主義の職人気質だったからかもしれない。あるいは、「ありあり」を「歴々」、「すたすた」を「速歩」、「むしゃむしゃ」を「咀嚼」などの当て字で表現する、ユニークな発想の持ち主だったゆえかも知れない。ただ紅葉は、彼の目指した文章の高みへ少しでも近づけるように、心にきざみ骨にちりばめるという彫心硬骨を重ねつづけた。いかにも軽やかで、自然で涼しげな文章は、その証である。
しかし紅葉と同じ時代を生き、近い立場で接していた『読売新聞』の社長でさえ、その苦悩の舞台裏までは知らなかった。まして現代のわれわれが、優美な水鳥の、水面下の足掻きを知ることはない。だが、それは紅葉に限った話でもなければ、創作上の苦労のことだけでもない。

現代でも書店の在庫確認者がどんな時期でも必ず発注をかけるという夏目漱石。
間を置かず舞台上演され、客席を埋めさせる泉鏡花や樋口一葉。

高校の教科書で一度はふれる森鷗外に芥川龍之介。
ミステリー愛好家にとっての探偵小説の父・黒岩涙香と、落語好きにとっての落語中興の祖・三遊亭円朝は、決して「遠くなりにけり」の明治の追憶ではない。
ほかにもロシア文学を日本に広めた二葉亭四迷、自然主義を率いた田山花袋、女流作家の道を一葉に先んじて切り開いた田辺花圃も、それぞれの分野で忘れがたいパイオニアである。
そして芥川賞や直木賞をもうけ、みずからも含む作家の地位向上に尽力した菊池寛の想いは、今日にみごと花開いている。

彼らをここでとりあげたのは、彼らが単に日本近代文学史で有名だったからではない。偉大な文人芸術家というビッグネームと、教科書でもおなじみの美しく澄ました表情の陰で、彼らがどれほど人間的であったか、どれほど日常生活に右往左往していたかを表したかったからである。
そのため、まんべんなく多くの作家をとりあげ、それぞれの人生のすべてに触れていくというふつうの文学史とは異なり、本稿では特に作家に絞らず、近代の日本文壇にゆかりの深い十二人だけをとりあげた。そして、各章ごとにテーマを定め、二人ずつに焦点を当てた。そのテーマに即して選んだため、互いの関係はさまざまである。師弟、ライバル、親友もいれば、一見それほど深いつながりがないようなペアもいる。だが二人を比較し対照させることで、本当に人間的な側面が、いっそう明確に浮き彫りになる。
さらにそれぞれの人生の転機となる局面には多めの稿を割き、代表作を手がけた時期のできごとに比重を傾けた。そして裏話のような小さなエピソードも、あちこちに押し込んでいる。

それぞれの名作を発表する舞台裏で、彼らがどんな苦労をしていたか。
現代のわれわれと同じような葛藤、焦燥、嫉妬、ときには迷い、卑屈になり、逆に得意にもなり……。執筆のプレッシャーに耐え、人間関係に気を遣い、はては物質上、経済的にもそうとうの辛酸をなめていたことには驚きを感じる。

近代日本の文学を代表する彼らが、あえて苦労や苦悩を隠していたというわけではない。ただそこには、ごくふつうの生活を営んでいた、あたりまえの人間がいただけであり、現代のわれわれと何ら変わらない。そんな彼らがそれぞれの生活の中で、どのようにして、かの名作をうみだしていったのか。その姿を知ることは、忙しくストレスの多い現代生活をおくるわれわれ自身への、エールにも活力にもなりえると思える。
漱石は弟子に、「他人は決して己以上はるかに卓絶したものではない。また決して己以下にはるかに劣ったものではない」と説いた。その言葉は、文豪・漱石ではなく、頭を掻いてはその指を嗅ぎ、猛烈に臭いものを嗅いだときの犬のような表情を浮かべ、「いやでたまらない」とぼやきながら机でペンを走らせていた中年おじさんの言葉とみれば、ぐっと身近なものに感じられる。そんな彼らが生んだ名作も彼らの背景を知れば、何だか今までと違って見えてくる。
そして今までとは違った角度へと作品を傾け、個々の人間ドラマとしても作家への興味を惹きよせてくれる。本稿がそんな好奇心を充たす一助になれば、幸せである。

堀 啓子 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/8/20) 、出典:出版社HP

目次

はじめに

第一章 異端の文体が生まれたとき——耳から目へのバトン
①三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』——耳が捉える落語の魅力
名人噺家が生んだ名作
『怪談牡丹燈籠』タイトルの由来
妖気を帯びた高座
大成功の秘訣
七歳で初高座
雪の日も雨の日も裸足で
転機となった大地震
災いを転じて福となす
怪談噺とリアリティーの追求
円朝の交遊
耳から目へ
話し言葉から読み言葉へ
②二葉亭四迷『浮雲』——最初の近代小説が生んだ新文体
落語から生まれた近代小説
新しい文体の誕生
言文一致体小説の先駆
「人真似」の文章
絶賛された内容
タイムリーなリストラ小説
非職免職は流行語
「くたばってしまえ」のペンネーム
詐欺師を自認した二葉亭

第二章 「女が書くこと」の換金性——痩せ世帯の大黒柱とセレブお嬢さま
①樋口一葉『十三夜』——才か色か、女性に換金しえたもの
書くことの換金性
一家の大黒柱になるまで
教員月給の半年分の稿料
桃水に弟子入り
デビューとスキャンダル
師との別れ
靄のなかの一葉
貧窮生活の苦労
ダルマからきたペンネーム
「まことの詩人」と絶賛
玉の輿の”功罪”
作家・一葉の個性
②田辺花圃『藪の鶯』——セレブお嬢さまの自画像
セレブ一家の裏事情
当代の清少納言
「戯れ」の収入で一周忌法要
お嬢さまの等身大小説
同時代の評価
「小説家」として〈十六名媛〉に

第三章 洋の東西から得た種本——模倣からオリジナルへ
①尾崎紅葉『金色夜叉』——換骨奪胎を超えた創意
親分肌の江戸っ子
原敬をしのぐ政治的手腕
西洋文学という源流
墓に手向けてという遺言
ヒントとなった原典
傷だらけの机
文と想の融合
天秤にかけられた愛情と財産
女より弱い者
ヒントから羽ばたくもの
オリジナルの発意
名作は時空を超えて
②泉鏡花『高野聖』——染め出されていく源流
〈本歌取〉の技巧
受け継いだ職人気質と潔癖症
代表作への毀誉褒貶
『高野聖』に見る善知識
迷走する『高野聖』の原点
原作を求める作品
織り混ぜられたルーツ

第四章 ジャーナリズムにおけるスタンス——小説のための新聞か、新聞のための小説か
①夏目漱石『虞美人草』——新聞小説としての成功と文学としての“不成功”
迷いと苦悩の前半生
“都落ち”からスタートした『坊つちやん』人生
望郷の念、ロンドンから東京へ
「ワカラナイ」講義をする教師
教え子の自殺
白湯的小説『吾輩は猫である』
“先輩”の存在
弱い男も弱いなりに
死ぬよりいやな講義の準備
「変人」としての選択
博覧会という時事ネタ
「だらだら小説」の「殺したい」ヒロイン
小説のための新聞
②黒岩涙香『巌窟王』——新聞売り上げのための成功手段
新聞界のマルチタレント
土佐の〈いごっそう〉
英語小説三千冊で培った英語力
〈探偵小説の父〉へのきっかけ
ぞくぞくと涙香訳に夜がふける
新聞は社会の木鐸である
優れたタイトルセンス 絶賛された『巌窟王』
発信されるメッセージ

第五章 実体験の大胆な暴露と繊細な追懐——自然主義と反自然主義
①田山花袋『蒲団』——スキャンダラスな実体験
ペンネームは匂い袋
大柄な「泣き虫小説」作家
日本流自然主義の先駆け
『蒲団』のために検事局で取り調べ
スキャンダルの影響
書くことのジレンマ
モデルへの謝罪
豪快な外見と乙女な内面
文壇を生き抜く
②森鴎外『雁』——やさしい追憶
自然主義作家の敬慕する〈反〉自然主義作家
「閣下」に出会えた一作家
医学士としてのキャリア
厭世観を埋めるために
浪漫詩の紹介者
攻撃的な文芸評論家
蛙を呑む心持——エリートの挫折
実話のちりばめられた佳作
反自然主義の作風

第六章 妖婦と悪魔をイメージした正反対の親友——芸術か生活か
①菊池寛『真珠夫人』 ——新時代の妖婦型ヒロイン
生活第一、芸術第二
教科書も写本した少年時代
マント事件
京都の学府へ
二十五歳未満の者、小説を書くべからず
『真珠夫人』の成功
『文藝春秋』創刊と芥川賞・直木賞の創設
文士の地位向上への熱意
通俗小説人気の確立
②芥川龍之介『鉄儒の言葉』——警句の普遍性
鬼才の鮮烈なデビュー
正反対の親友
辰年生まれで龍之介
“染物屋・芥川”のバリエーション
あざ笑う悪魔 (laughing devil)に私淑
『悪魔の辞典』の影響
休儒の言葉
芥川と田端文士村の終焉

終章 文学のその後、現代へ
文学の文明開化
大正デモクラシーと娯楽小説の多様化
モダニズムから戦後文学へ
双方向型の今日へ

【ちょっとブレイク】
美談のスパイス
裸のつきあい
泥棒と疑われた内弟子時代
虚像のルックス
ライバルへの相矛盾する感情
美男揃いの硯友社メンバー
ウサギへの愛
重宝な泥棒
明治の一大イベント東京勧業博覧会
ストーリーテリングのバトン
鉄道へのこだわり
ナポレオンより短い睡眠時間
天神さまはどちら向き?
愛弟子への助言

あとがき

主要参考文献
事項キーワード一覧
人名キーワード一覧

*本文中の引用文は、原則として新字新かなづかいにあらためた。読みやすさを優先して句読点を入れたり、漢字を改めたりしたものもある。ただし、作品名については旧かなづかいのままとした。[ ]内は引用者による注。

堀 啓子 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/8/20) 、出典:出版社HP