【最新】沖縄の歴史について学ぶためのおすすめ本 – 歴史の全体像から文化まで

沖縄にはどんな歴史や文化があるの?

沖縄は古来、アジア各国との交易が盛んであったことから国際色豊かな文化が育まれており、独立した国家・琉球王国として栄えながらも、時代の潮流によって激動の歴史を歩んできました。そこで今回は、沖縄の歴史を知るためにぜひ読んでおきたい本をご紹介します。

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出典:出版社HP

沖縄の歴史と文化 (中公新書)

沖縄の歴史や文化を丁寧に解説

本書は、沖縄の歴史と言語・文化を解説している本です。沖縄の文化は独特ですが、その文化が形成された背景はあまり知られていません。この本では、沖縄が辿った歴史が学べると同時に、沖縄の言語と文化、宮古島と八重山の歴史までを、一通り知ることができます。

外間 守善 (著)
出版社 : 中央公論新社 (1986/4/25)、出典:出版社HP

目次

序章 太平洋文化圏の中の沖縄
太平洋をめぐる諸文化
沖縄文化への認識
沖縄文化の複合性

第一章 沖縄歴史のあゆみ
沖縄歴史の時代区分
先史時代の沖縄
歴史のあけぼの
オモロにみる英雄たち
王国の成立と運営
第二尚氏王朝の成立と運営
海外交易の発展
幕藩体制の浸透と沖縄
琉球処分と明治の県政
近代への目ざめ
国家主義の浸透と軍国主義への傾斜
戦争体験と平和思想

第二章 沖縄の言語と文化
日本語の中の沖縄語
沖縄文学の全体像
オモロとウタの世界
神観念と世界観
村の祭りと芸能
宮廷芸能の成立
沖縄の美とかたち

第三章 神歌にみる宮古・八重山の歴史
宮古島の歴史と英雄たち
八重山の歴史と英雄たち

あとがき
沖縄史略年表
参考文献

外間 守善 (著)
出版社 : 中央公論新社 (1986/4/25)、出典:出版社HP

序章 太平洋文化圏の中の沖縄

太平洋をめぐる諸文化

日本人のルーツと沖縄港川人

昭和四十五年頃、沖縄本島具志頭村港川で発見された五体の人骨が、約一万八千年前の洪積世人骨と発表されたことは、当時、学界の注目を浴びた。さらにその後、港川人は、中国広西省(華南)で出土した洪積世人骨・柳江人や縄文人と密接な血縁的関係があり、縄文人の遠い祖先と見なすことができそうである、という詳細な報告がなされ、沖縄を含めた日本人のルーツを探る研究の場に大きな光明を与えている。それだけの資料で日本人のルーツを華南に求めることは早計であろうが、華南→沖縄→日本本土というつながりが洪積世の時代にあったことは確かなようである。
さらにまた、従来、アイヌについて、白人説、オーストラリア原住民同系説などいろいろいわれてきたが、最近の研究でアイヌはモンゴロイド(黄色人種)に属し、縄文人と和人との間に位置づけられるもので、アイヌこそ日本人のルーツにもっとも近い人たちである、と注目すべき発言がなされている。その説が正しいとすれば、縄文人、和人、沖縄人、アイヌは血縁関係をもつことになって、日本人のルーツを考える輪は、南の沖縄だけでなく、北の方にも広がるわけである。
沖縄の内側からみると、港川人は、それ以前に発見されている那覇市の山下洞人(約三万二千年前)、伊江島のカダパル洞人、宜野湾市の大山洞人とつながり、さらに宮古島のピンザ・アブ洞穴で人骨が発見されたという報告もあり、沖縄における洪積世人類の遺跡を確かな姿でみせてくれたわけである。沖縄考古学の研究は、新石器時代の縄文・弥生土器についても九州、なかんずく北九州のものとのつながりが確認されるなど、最近とみに活潑である。

ヤポネシア構想

広く東アジア、東南アジアを視野におさめながらの沖縄研究は、考古学ばかりでなく、いろいろの分野でみることができる。
北は北海道から南は沖縄県の与那国島までを、太平洋の西北に浮かぶ細長い島々の連なりとして考え、南太平洋に広がる四つの島嶼群のインドネシア、メラネシア、ミクロネシアおよびポリネシアと対置させた、広い視野でとらえなおそうというヤポネシア構想は、はじめ、文化を考える思想的な側面から島尾敏雄によって提唱された。このヤポネシア文化論は、学問的にはいまのところ断片的で体系をなしていないうらみはあるものの、ひとたびこのような視点から日本文化の諸現象を見直してみると、新しい意味あいを発見できる可能性は大きいと思われる。
ヤポネシア文化構想の下敷きとなりそうなのは、四つの島嶼群文化の伝播についての研究である。その中の一つ、ポリネシア文化の研究では、民族学、言語学などの力をかりながら、その源流をインドネシア、さらには華南あたりに求めることができそうだという推察がなされている。そしてまた、インドネシアから南太平洋に散らばっているサモア諸島、タヒチ島、マルケサス諸島に伝わり、そこから北上してハワイ諸島、南下してニュージーランドなどへ伝わっていく民族移動、文化の伝播の道筋もわかりだしてきており、ネシアとよばれる島嶼群への民族移動、文化の伝播の道筋をさぐろうとするまなざしの似かよいを、そこにみつけることができるであろう。
さて、沖縄を中心に考察を進めるにあたって、周辺諸文化との関連で手がかりになりそうな二、三の問題を挙げておこう。その一つは神話学の問題である。
宇宙開關神話の一つで、東アジアや東南アジア、ポリネシアに広く分布している兄妹始祖型洪水神話については、神話学の分野ではやくから指摘されてきた。沖縄にも同型の神話がみられ、古宇利島、宮古島、石垣島その他に残っている。しかもそれは、日本神話のイザナギ・イザナミ神話とも通ずるものであるといわれている。
もう一つは民族音楽研究の分野である。沖縄の民族音階は律音階と琉球音階に二大別できるが、小島美子らによるこれまでの研究では、律音階とその変種をベースにして、その上に琉球音階が広がってきた、といわれている。沖縄の神歌や古謡ウムイ・クェーナが律音階であり、三線に合わせて謡われる抒情歌の琉歌が主として琉球音階であることを考えると、この論は文芸史的にもうなずけるものであった。
ところが近年になって、沖縄固有のものと思われてきた琉球音階について、よく似たものにインドネシアのペロッグ音階があり、ジャワ島、バリ島で行なわれているガムラン(音楽)がそれであるという。さらに同様のものはインド、スリランカ、ビルマ、ネパール、ブータン、ミクロネシア、ポリネシアにまで、奥地に孤立した形で広く分布しているという調査報告が小泉文夫によってなされた。そしてこのような分布の仕方は、琉球音階がさらに古い音階を示すものであり、沖縄でのありようは、それがリパイバルしたものであろうという、極めて大胆な見解が出された。
この見解についてもなお詳細な実証を要するであろうが、インドを含め、東南アジアから太平洋文化圏にわたる広い視野の中で、沖縄の音楽文化が照明を浴びようとしているところである。

うねり寄る文化の波動

このように東アジアから東南アジア、そしてさらにハワイを含む太平洋文化圏というように視野を広げてみると、四海の波動は、地理的にも歴史的にもさまざまな形で沖縄にうねり寄っていたであろうことが推測できる。
歴史時代にはいると、アヂ(按司)といわれる土豪が握頭し、はじめて沖縄の歴史が動きだした十三世紀から十五世紀にかけては、東アジア、東南アジアの歴史も激しく動いた動乱の時代であった。その意味では、沖縄史もアジア全域の歴史的動きの触発を受けながらの胎動であったとみなければならないであろう。
まず日本では、十二世紀末に確立された武家政治としての鎌倉幕府が一三三三年に滅亡し、足利尊氏による室町幕府が一三三六年に成立している。その頃中国では、一三六八年に近隣諸国に猛威をふるった元が滅亡して明国が興っている。朝鮮でもまた、一三九二年に四百年以上続いた高麗が滅んで李王朝が誕生している。中でも沖縄史にとって、また東南アジア史にとって、明国の成立は、その後の歴史に非常に大きな影響を与えることになる。
同じ頃、東南アジア各地では、元軍の侵略を受けて歴史が激しく動き、十三世紀は大きな歴史の転換期を迎えている。それらの中で、一二九三年、ジャワのマジャパイト王朝の成立、一三五〇年、シャム(タイ)のアユタヤ王朝の成立、一四〇二年頃のマラッカ王国の成立などは目立つ動きであり、沖縄史ともかかわりが深い。
マジャパイト朝は、十四世紀の中葉にその黄金時代を迎えているが、宮廷文化の中で花を開かせた文学、舞踊、音楽(ガムラン)、ジャワ更紗等々は、琉球王国が宮廷文化の花々を咲かせたそれと実によく似ている。タイ族最初の独立王国をつくったアュタヤ朝は、なんと四百年以上も王朝が続いて繁栄し、東南アジアの貿易国家としての歴史を生きぬいており、琉球王朝との交易、交流がもっとも長く続いた王朝である。
一方、インドのイスラム化の影響を受けて東南アジア各地、中でもマレー、スマトラ、ジャワなどの海港都市を中心にしたイスラム化が、十四世紀から十五世紀にかけて急速に進んでいくが、イスラム化と同時に交易も活後になって海港都市が活気をおびてくる。その中から十五世紀初めにマラッカ王国が誕生し、東南アジアにおける交易活動はめざましく盛んになっていく。
しかし、その頃の東アジアの交易ルートは、倭寇の出現と明国の海禁政策とによって、ようやく下火になっていた時期であるが、そこに登場したのが十四、五世紀の琉球三山の豪族たちであり、三山が統一されてできあがった琉球王朝である。衰退しかけていた東アジア交易と興隆しつつある東南アジアの交易ルートを結び、その中継ぎをするためにも、琉球王朝の出現は、地理的・歴史的必然性があったとみるべきであろう。そのようにみるとき、海禁政策をとって諸外国への介入に慎重であった明国が、琉球王国とマラッカ王国だけに対しては、特別に保護的な態度を持していたことが、歴史的に理解できてくる。
インドネシアから南太平洋に広がっていった人と文化は、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシアの島嶼群に根づいていくが、ポリネシア文化圏のハワイやトンガなどで王朝が築かれていった程度で、ジャワやタイ、ベトナムなどのような高文化を生みだしたとはいい難いようである。
このように、太平洋文化圏という広い視野で王朝の歴史と文化をみわたしてみるとき、ジャワやタイの王朝のように長い歴史を生きぬき、貿易経済や政治、外交をはじめ、独自な文化の花を咲かせた琉球王朝は、きわめてユニークな存在であるといえる。さらには、陶芸、染織、漆芸、芸能、音楽等々、東アジア・東南アジア、そしてポリネシア系諸文化とのつながりを、現代に確かに伝えている四百年の王朝文化を考えるためには、日本の一地方文化としてではなく、太平洋文化圏の中で広くとらえなおすという、新たな視点が必要であるように思われる。

沖縄文化への認識

稲作文化の北上説と南下説

沖縄の文化を考えるうえで、このようなマクロの視野がいわれるようになったのは、つい最近のことであり、諸科学の成果が期せずしてその必要を痛感させている。それだけに今後の研究がどのような関連や発展をみせてくれるかは未知数である。さてここで、従来の沖縄文化系統論を整理してみたい。

日本文化の源流と沖縄のかかわりについてもっとも著名なのは、『海上の道』(昭和三十六年)に記された柳田国男の説であり、構想である。柳田は、黒潮に乗って日本の浦々に漂着した南国の椰子の実の夢にことよせて、日本文化の源流と考えられる弥生の稲作文化は中国華南地方から沖縄の島々を海上の道として、島伝いに北上してきたものであると考えた。柳田は大正十年にはじめて沖縄を訪れて、『海南小記』(大正十四年)を著したが、それは、日本文化の基層にある何げない民俗の数々が、南方起源であることを指摘した、日本文化北上説の先駆的著作であった。
柳田の沖縄研究は戦後になって本格化し、「宝貝のこと」(昭和二十五年)をはじめとする諸論文で日本人渡来の「海上の道」はやしを提唱した。「宝貝のこと」では、宮古島のさらに離島である池間島の八重干瀬に着目し、そこで多くとれる宝貝と稲作とを結びつけている。
中国では、秦の始皇帝(前三世紀頃)が全土を統一するまでの戦国時代、南海の特産である宝貝(小安貝、方言ではスビ)が通貨として珍重された。十七世紀になっても、沖縄とアジア各地の交易の記録である『歴代宝案』には、宝貝のことである「海巴」の文字がさかんに登場し、需要が大きかったことがわかる。明から清の初め頃には、沖縄から宝貝を買い、奥地に持っていって交易に使った。華南や東南アジア各地の高地民族は、今でもこの宝貝を装飾具として珍重しているようである。
柳田はこの宝貝に着目して、宝貝を求めて華南から沖縄の島々に渡ってきた人々が長期の逗留に備えて稲を帯同したのだと考えたのである。
これに対して、「沖縄学の父」といわれる伊波普猷は、逆に、沖縄の言語や民俗は九州から時をへだてて南漸したもので、日本文化に起源をもつものであるとし、これを整理することで沖縄学を体系化しようと試みた。つまり、紀元三世紀頃、九州の東南部沿岸にいた海人部が、奄美大島を経て南下していったのが、沖縄の開關神話に登場するアマミキョ、すなわち沖縄人の祖先である、と考えた。その後院政期をはじめ幾度となく日本からの文化の南下が行なわれ、それは言語や民俗に痕跡をとどめているとするのである。ついでに言及すれば、日本文化の南下説は、羽地朝秀をはじめとして、近世王朝以来の沖縄における歴史観の主流を占めてきた。これは島津の琉球入りによるジレンマから沖縄を解放しようとした政治的努力に動機をもつものとされているが、明治以後の伊波の研究もその延長線上でとらえられがちである。しかし伊波の研究は、近代科学の理論や方法論にのっとった実証的なものである点に留意したい。

また、このほかに、民俗学者比嘉春潮は、沖縄文化が西方にあたる中国、特にその華南の影響を強く受けていることと、南方的民俗要素の看過できないことを指摘している。もっとも三者は、それぞれの方位を一方的に主張しているわけではなく、文化的諸要素の広範な目配りをもしながら、特に留意しなければならない文化伝播の方向を示唆しているのであることを注意しておきたい。
柳田国男による稲作文化北上説は、多くの人々の注目を浴びた。その後、北九州一帯で発掘される先史時代の貝輪は、ゴホーラ貝という琉球列島や南海でとれる貝で作られたものであるという永井昌文の綿密な考証も発表された。また、村山七郎による南方系言語と琉球方言を含む日本語とのつながりに関する言語学的発言、その他民俗学、民族学、比較神話学、考古学等々の研究で、南方系文化と沖縄文化とのつながりを布石にして日本文化の南からの伝わりを示唆するような発言が出てきたのは、沖縄文化に関する一九七〇年代の学問的傾向であった。少なくとも、日本から入ってきた大陸系文化が沖縄文化の基本的性格を形成している、というように発言されてきたそれまでの研究からするならば、新しい側面が開かれてきたものとして注目された。
ただ、新しく開かれつつある南方系文化とのつながりが、沖縄文化の基層にあるものなのか、ある時点で表層にかぶさったものなのかについては、資料も研究もまだ不充分であり、全体をおおうことのできる文化史的な考え方として論がつくされているわけではない。

沖縄文化の複合性

近年になって、旧石器時代はともかく、弥生文化の時代から歴史時代に入ってのちの、沖縄文化の中に占める大陸系文化と南方系文化の比重は、前者のそれがより密度の濃いものであることが、言語学をはじめ、考古学、歴史学、民俗学等々の立場からいくっとなく発言されるようになってきた。しかもそれは、日本の九州を経由して入ってきた大陸系文化であり、それを主流にして、その後の日本本土から入ってきたもの、直接中国から入ってきたもの、南方諸地域から入ってきたもの等々が、さまざまな重なりをみせる複合文化であると考えるのが妥当であろう。
地理的、歴史的に、さまざまな文化の交錯する必然のある沖縄で、その文化の特性をとりあげようとするとき、「文化複合」という視点は重要である。文化現象の実態を比較的見やすい「物の文化」について、その系譜を明らかにしながら、この「文化複合」の問題を考えてみたい。

酒の歴史

沖縄の酒の歴史は、『おもろさうし』にみられる「神酒」や、『混効験集』にみられる「醴」に始まるらしい。「神酒」というのは、口でかみ、唾液で発酵させるもので、もっとも古い酒である。東南アジア諸地域の高地民族などいまだにかみ酒を作って神を斎き、人も飲むという風習をもっており、沖縄古代におけるそれと通ずるようである。
ここで注目したいのは、かみ酒のあと、中国やシャム(タイ)から蒸留酒が入ってきて、酒の作り方が一新していることと、米・あわ・きび・麦を原料にした「泡盛」が作られていることである。のちになって泡盛の主原料は米にかわることになる。
東恩納寛惇は、泡盛の源流はタイの酒「ラオ・ロン」であると説き、多くの支持を得たのであるが、最近、泡盛とラオ・ロンの製法や麹菌の違いなどがとりあげられるようになってきている。中でも麹菌のことは、中国・タイで使われるモチコウジ、日本で使われるバラコウジが沖縄に入ってきているのにもかかわらず、そのいずれでもない黒コウジが泡盛に使われているということが問題になっている。泡盛に黒コウジを使うようになった年代は不明であるが、日本から入ってきたバラコウジを作る技法の中から黒コウジが生まれたということであり、黒コウジによる泡盛醸造法は、沖縄独自に生まれ、亜熱帯という沖縄の風土にみあうような風味に洗練されていったものであると思われる。しかも、この黒コウジを使う酒は、沖縄の泡盛だけにみられるものであるという。
ここに、南から西から北から入ってきた酒の醸造法が、沖縄的な文化として育てあげられていった過程がみえてくるわけである。

染織の歴史

沖縄のことについて記したらしい『隋書』の「流求国伝」(六四三年頃)によると、粉を織って衣をつくり、粉を編んで鎧甲となし、白粉の縄を使っていた、とある。十五世紀に記された朝鮮漂流民の記録(『李朝実録』)にも紆衣のことがみえ、明国や薩摩への主な貢布も紆であった。現在でも宮古上布、八重山上布と呼ばれる麻の織物があり、沖縄ではかなり古い時代から今日まで粉で衣を織っているわけである。苧麻は沖縄、宮古、八重山を通じて自生している繊維性の植物で、衣をつくるのに適していたのであろう。
琉球王国による海外貿易が盛んになった結果、南方から芭蕉が入ってきて、十六世紀以降、いわゆる芭蕉布が織られるようになる。夏の暑い沖縄では、薄物で涼しげな芭蕉布は格好の衣であり、特に薩摩入り(一六〇九年)後は盛んに織られている。
芭蕉の次に中国から絹が、日本から木綿が入ってくるが、朝は王や貴族が着る高級な織物で、一般の人は木綿に親しんだようである。久米島で織られた絹織りの細は貴重なもので、久米島紬として知られている。以後、沖縄における一般庶民の衣生活は、夏は芭蕉、冬は木綿を好んで着るという傾向になっていく。
沖縄の織物として著名な群や紅型染は、いずれも慶長以前に南方から伝来したものであるらしいが、伝来当初の原型に沖縄的な創意が加えられ、風土にふさわしい織物として洗練され雅趣を深めている。緋は沖縄から日本本土へ渡り、江戸中期以後普及するようになり、紅型は日本の友禅と影響しあっているといわれている。

陶芸の歴史

陶芸も、外来の文化や貿易経済にかかわりながら育っていったようである。十五世紀頃南方から、酒の容器が渡来し、その影響を受けつつ、荒焼、南蛮焼などが作られるようになっていったのが、陶芸の創始であるといわれている。次に朝鮮から陶工張献功ら三人が渡来し、尚豊王時代(一六二二~四〇年)になって美的な陶器が作られるようになる。その後、中国系の絵付け陶器の手法がもたらされ、平田典通らによって中国系赤絵の影響を受けた沖縄の赤絵も作られるようになる。さらに遅れて日本から薩摩系の陶器が仲村渠致元らによってもたらされ、ここで、南方、朝鮮、中国、日本という文化先進国の水準の高い陶芸が沖縄で融合し、沖縄的個性に富む陶芸が生み出されていった。
融合といったが、ここでたいせつなことは、沖縄における陶芸が、外来の文化的特性を受けとめながら、風土の個性である明るさ、おおらかさ、やさしさなどを、創意として陶芸の美質に加えていったということである。つまり、沖縄的な美意識で包みこんだ風土特有の造形がなされるようになっていったのである。

文化認識における問題点

以上、酒、染織、陶芸を例にとりだしてみたのであるが、そのいずれにも共通してみられることは、決して単純には色わけできない文化の重なり、複合性である。形あるものの重層的な積み重なりに、北、南、西からの文化の伝播を鮮やかにとらえることができ、海を門戸にして息づいている為に、多様な複合文化がつくりあげられていく姿がかいまみられるのである。沖縄の地理的位置を画的すれば、文化が単に一方から一方へのみ伝わるということはあり得ない。また、伝わってきたままの単純な姿であり続けるというものでもあり得ない。実態として、北から南から西からの伝播を示すさまざまの文化要素を含みこんだ「複合文化」であるということである。
沖縄文化のもつ多様な特性は、そのような複合文化としてとらえるとき、一見矛盾のようにみえる個別的変差も無理なく生きてくるし、全体の見わたしが楽になってくるようである。
文化のとらえ方として、スモール・トラディション(村落レベル)とグレート・トラディション(国家レベル)という、レベルをつくってとらえようとする考え方がある。言語・民族・国家が多様に入り組んでいるヨーロッパ社会の文化現象をとらえるために、民族学や文化人類学の研究者らによって提唱されたが、国家や民族という枠組みを越えて多様に重なりあっている沖縄文化のとらえ方として、スモール・トラディションの視点は適切であり、有効な方法論が生み出される可能性と期待がもたれる。もう一点は、今までややもすれば沖縄文化を日本文化と相対化させることで、その同質や異質を見きわめようとする視点が注がれがちであったが、東アジア、東南アジア、さらには太平洋文化圏という大きな広がりの中に沖縄を開放してみる比較文化的なみかたも必要ではないだろうか。そのようなみかたをするとき、長い歴史を生きぬいてきた沖縄が、特に王朝文化を四百年も持続させた沖縄文化史が、決して孤島苦のみをかこったものではなかったのだということがうなずかれるはずである。

外間 守善 (著)
出版社 : 中央公論新社 (1986/4/25)、出典:出版社HP

沖縄現代史 (岩波新書)

第二次世界大戦後の沖縄の歴史を辿る

本書は、第二次世界大戦後の沖縄の現代史をまとめている本です。米軍の占領下にあった沖縄の状況から返還された後の葛藤や様々な政治運動に加えて、沖縄を巡る政治問題が紹介されています。日米間の思惑や利害調整も相まって、沖縄をめぐる政治問題の複雑さが際立っていることがわかります。

新崎 盛暉 (著)
出版社 : 岩波書店; 新版 (2005/12/20)、出典:出版社HP

はじめに

戦後日本の政治は、アメリカの世界戦略に従属するかたちで、後には、それを積極的に補完するかたちで展開してきた。その世界戦略への従属あるいは積極的補完のかたちが、日米安保体制(日米同盟)として表現されている。いいかえれば、戦後日本は、アメリカの世界戦略に固く結びつけられることを通して世界につながってきた。沖縄は、その日米同盟の軍事的根幹部分として位置づけられてきている。したがって、沖縄現代史は、日米同盟の変質過程に即して、六つの時期区分に分けて考察することができる。
第一期は、対日平和条約とセットになった旧安保条約の成立(一九五二年四月)以前の時期、いわば前史の段階である。
第二期は、五二年四月の二条約成立から、一九六〇年の安保改定までの時期である。
第三期は、六〇年安保改定から、一九七二年の沖縄返還までの時期である。
第四期は、沖縄返還から、一九七八年の「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)策定や「思いやり予算」のはじまりのころまでである。
第五期は、七〇年代末から一九九五年夏までの時期である。
第六期は、日米安保再定義という上からの安保見直しと、沖縄が提起した下からの安保見直し要求が激突する一九九五年秋以降である。そして二〇〇五年のいわゆる米軍再編協議によって、日米安保体制はまた新しい時期を画そうとしている。日米同盟の完成期とでもいえるかもしれない。
ここにおける時期区分の第一期から第三期にかけての時期は、沖縄が米軍支配の下に置かれていた時期であり、第四期以降の時期は、沖縄が日本に復帰し、四七都道府県の一つとなった時代である。
沖縄戦後史(現代史)は、米軍支配下の時期と、日本になって以降の二つの時期に大きく分けられる。この二つの時期を通して、沖縄は、日米同盟の軍事的根幹部分をなしており、その意味では連続性をもち、また、日本戦後史(現代史)と一体不可分の関係にあるが、この二つの時期は、たとえば「戦後六〇年」という言葉で一括りにすることのできない時代的特徴をもっている。
沖縄戦から一九七二年の沖縄返還にいたる米軍支配時代の沖縄の歴史的歩み、とりわけ軍政と対峙した民衆の闘いの歴史については、同じ岩波新書の前著『沖縄戦後史』(一九七六年、中野好夫と共著)で具体的に明らかにしているので、本書では、まず第一章で、米軍支配時代の沖縄戦後史を要約的にまとめ、第二章以下で、日本になって以降、すなわち沖縄返還以後の沖縄の歴史的歩みを具体的に整理しておきたい。

新崎 盛暉 (著)
出版社 : 岩波書店; 新版 (2005/12/20)、出典:出版社HP

目次

はじめに

第一章 米軍支配下の沖縄
住民を巻き込んだ沖縄戦/平和憲法と米軍の沖縄支配/対日平和条約と日本復帰運動/米軍政下の沖縄/暴力的な土地接収/島ぐるみ闘争の爆発/砂川と沖縄の違い/安保改定と沖縄へのしわ寄せ/ベトナム戦争と沖縄/「反戦復帰」への転換/クローズアップされる沖縄返還/B52 撤去闘争/沖縄返還とは何であったか

第二章 日本になった沖縄
苦渋に満ちた復帰/返還で沖縄に集中した米軍基地/米軍優先を認める「五・一五合意メモ」/混乱招いた日本政府の軍用地政策/反戦地主と公用地法/自衛隊配備への抵抗/うつろう「日の丸」/「革新王国」/一次振計と沖縄海洋博/新たな価値観を提起した「金武湾を守る会」/復帰に失望した民衆/地籍明確化をめぐる攻防/安保に風穴を開けた四日間/「安保タナ上げ論」/屋良県政から平良県政へ/「ガイドライン」と「思いやり予算」/「人は右、車は左」/政党、労組、運動の「一体化」/「全軍労」の名が消えた

第三章 焼き捨てられた「日の丸」
演習激化と嘉手納爆音訴訟/復活した米軍用地特措法/強制使用手続きの五段階/「五年間の強制使用」という裁決/一坪反戦地主運動の発足/変わる自衛隊観/六歳未満の「戦闘協力者」とは/「復帰してよかった」か/反復帰・反ヤマト/国際的軍事化の潮流のなかで/天皇訪沖と海邦国体/沖縄民衆の天皇観/強化された管理体制/沖縄をめぐる天皇の戦争責任/「日の丸」「君が代」と学校/紛糾した八六年の卒業式・入学式/二年足らずで全国並みに/読谷村で焼かれた「日の丸」/「強制使用二〇年」申請という暴挙/警察も介入した公開審理/嘉手納基地「人間の鎖」へ

第四章 湾岸戦争から安保再定義へ
「慰霊の日」休日廃止反対運動/条例案廃案後、海部発言で決着/「再契約拒否地主」対象に着手された強制使用手続き/湾岸戦争で問われた沖縄戦の体験/公告・縦覧代行と軍転法/公開審理で明かされた日米安保の変質/首里城の復元/「PKO訓練施設を沖縄に」の衝撃/非自民連立政権と沖縄/嘉手納基地爆音訴訟判決/相次ぐ米軍事故、そして核密約疑惑/宝珠山発言とP3C基地/宝珠山発言をめぐる攻防/軍転法と基地三事案/代理署名で対応が割れた革新市町村長/「平和の礎」への疑問

第五章 政治を民衆の手に
少女暴行事件の衝撃/知事、代理署名を拒否/運動の高まり/クリントン大統領の訪日中止/基地返還アクションプログラムと国際都市形成構想/県民投票条例制定へ/激しい駆け引き/ほとんどの市町村長が公告・縦覧を拒否/成立した県民投票条例/有権者の過半数が賛成した基地縮小/知事の公告・縦覧代行応諾/米軍用地特措法改定/名護市民投票の勝利/名護市長選挙から県知事選挙へ

第六章 民衆運動の停滞と再生
県政交代と新基地問題/「戦争をしない国家」から「戦争ができる国家」へ/沖縄サミットと民衆の動き/新基地建設へのプロセス/ブッシュ、小泉政権の登場/時代状況と民衆世論/辺野古の闘いと米軍再編協議/都市型戦闘訓練施設の建設/民衆無視の日米合意

あとがき
付表
略年表

新崎 盛暉 (著)
出版社 : 岩波書店; 新版 (2005/12/20)、出典:出版社HP

島人もびっくりオモシロ琉球・沖縄史 (角川ソフィア文庫)

沖縄の魅力がよくわかる

本書は、沖縄の歴史をわかりやすく面白く伝えてくれる本だと思います。世間一般には知られていないお話も含めて、それぞれ短編で書かれており、読みやすいです。歴史を理解してビジネスに入ると、より信頼関係が早く構築できるのではないかと思えた1冊です。

上里 隆史 (著)
出版社 : KADOKAWA (2011/6/23)、出典:出版社HP

はじめに

昨今、巷では「沖縄ブーム」「沖縄移住ブーム」が叫ばれ、沖縄への関心が高まっています。「癒しの島」だとか、本土とは異なった文化を持った島、また「基地の島」とか、いろいろなイメージでとらえられる沖縄ですが、沖縄の文化や歴史って、実は、あまりちゃんと知られていないのではないでしょうか。
この本は、琉球・沖縄の歴史、とくに琉球王国時代を中心に、今まで知られていなかった話やおもしろい話、歴史の専門家が分析した最新の研究成果を、歴史学を少々かじっている者として、僕なりに解釈してコラム形式でわかりやすく紹介したものです。「沖縄の歴史は知りたいけど、むずかしい論文は読みたくない」「研究者が議論している最先端の歴史像はどのようになっているのかカンタンに知りたい」という方にはオススメです。

例えば…
琉球の人はむかしターバンを巻いていた!
琉球の貿易船は中古の軍艦だった!
沖縄移住ブームは五百年前からあった!
働かないニート君は島流しにされた!
チンギス・カーンの子孫が沖縄にいた!

ページをめくっていくと、ひと味ちがう「琉球・沖縄史」に関するコラムがいっぱいで、教科書や観光ガイドブック、概説書ではわからない琉球・沖縄の歴史を知ることができます。読みきりのコラムですから、興味のありそうなところなら、どこから読み始めてもかまいません。
また「沖縄の歴史ってそもそもよく知らない」という方や、「コラムだけではもの足りない、もっとくわしく沖縄の歴史の全体像を知りたい」という方は、「最新版すぐわかる琉球の歴史」を先に読んでみてください。それぞれの歴史コラムの背景がわかって、よりおもしろさが増すはずです。
沖縄の歴史はこんなにも豊かで深いものだったのか。本書を読み終えた読者のみなさんはきっとそう思うはずです。目からウロコが落ちる琉球・沖縄の歴史、どうぞご堪能ください。

上里 隆史 (著)
出版社 : KADOKAWA (2011/6/23)、出典:出版社HP

目次

はじめに
最新版すぐわかる琉球の歴史

琉球の知られざる肖像
古琉球の名もなき人々
琉球人の名前のつけ方
琉球人のマゲとターバンの話
雪舟が出会った古琉球人
フォーマルウェアはチャイナ服
中国皇帝を超えた琉球王
軍艦だった琉球船
球人に網巾をきせる
タバコ大好き琉球人
500年前の”沖縄移住ブーム”―那覇にあった「日本人町」
がんばれ移住者山崎さん
武器のない国琉球?(1)
武器のない国琉球?(2)
オランダの旗を掲げていた琉球船
琉球の農民は働かない?
ニート君は島流し
石垣島の朝鮮語通訳
燃えよ大綱挽
船旅ナイトフィーバー
それでも嵐にあった時
中国化する琉球

首里城の時代
なんでも3つ
地上に浮かぶ海の船
ヤマト坊主は外交官
琉球はどんな文字を使ってた?
「万国津梁の鐘」の真実
首里城のモデルはお寺?
首里城正殿前の道はなぜ曲がってる?
死者の王宮—玉陵に秘められた謎
続・死者の王宮
琉球の構造改革—羽地朝秀の闘い(1)
琉球の構造改革—羽地朝秀の闘い(2)
琉球の構造改革—羽地朝秀の闘い(3)
落ちこぼれの大政治家
儀間真常の尻ぬぐいを蔡温が
琉球は薩摩の「奴隷」だったのか?
琉球使節は「異国風」を強制された?

琉球・沖縄史トリビアの瑞泉
お姫さまの選び方
卵で洗髪!王様シャンプー
拝見!王様の朝ごはん
沖縄に追放されたモンゴル皇帝の末裔
日本より100年早く伝わった鉄砲
秀吉もびっくり、ウフチブル我那覇
豊臣秀頼、琉球潜伏説
ジュゴンの肉を食べ、くじらのフンを嗅ぐ
沖縄にいた?トラとサル
昆布と富山のクスリ売り
泡盛だけじゃない!沖縄の酒
グスクに眠る怪死者
グスクの奇妙な穴
沖縄県消滅?幻の「南洋道」
UFO、那覇に現る!
東郷平八郎と為朝伝説(1)
東郷平八郎と為朝伝説(2)
東郷平八郎と為朝伝説(3)
もうひとつの沖縄戦
消えた王家の財宝
尚家国宝の裏話
奄美に古代日本の拠点発見?(1)
奄美に古代日本の拠点発見?(2)
奄美に古代日本の拠点発見?(3)

すぐわかる沖縄の歴史
あとがき
参考文献

上里 隆史 (著)
出版社 : KADOKAWA (2011/6/23)、出典:出版社HP

本音で語る沖縄史 (新潮文庫)

内部の問題も映し出した沖縄の歴史

本書は、沖縄の歴史を類書と異なる立場で描いた本です。沖縄の歴史といえば、外部からの侵略や攻撃を受けた被害者的な側面や琉球王国のロマンをクローズアップされがちです。しかし、それだけでなく、王国の権力争いや外圧への適応力の低さなどにも焦点を当て、沖縄の歴史をよりそのままに伝えようとしています。

仲村 清司 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/28)、出典:出版社HP

まえがき

沖縄の不思議さはいまなお沖縄が沖縄であり続けていることである。妙な表現をすると思われるかもしれないが、独自性あるいは個性という意味では、この島は他府県とは比較にならないほど異彩を放っている。
そうなるに至ったのは、むろん、明治期に入るまで沖縄が日本と異なった歴史を歩んだことが最大の理由である。つまり、日本にとっては異国であった。その島嶼群に時代を通じて君臨し続けた国家は「琉球王国」である。
その南海の王国は当初、明国(中国)を宗主国として仰いだ。その後、一六〇九年になって薩摩落に侵略され、それ以降は長きにわたって日中両属という特殊な歴史を刻み続けた。
歴史に「if」は禁句ながら、もしこの小国が戦乱のあいついだヨーロッパに存在していれば、とうにつぶされていただろうし、「民族」そのものも絶滅していたかもしれない。
地理的にみても琉球王国が存続したのは奇跡というほかない。東アジアの地図を日本からアジアよりに少し視点をずらして眺めればその意味はたやすく理解できるはずである。
琉球諸島は西方は中国・福州の近くに位置し、南方はフィリピン、インドネシアの島々に連なるように浮かんでいる。北方はいうまでもなく日本である。
その日本を中心にした地図では、沖縄は絶海の海に浮かぶ僻地のように見えてしまうだろうが、東アジアを中心にした地図から俯瞰すれば、琉球諸島は日本と中国という超大国の中間にあり、同時に東南アジア諸国とつながる始発点のような場所に位置している。
琉球王国はまさにアジアの交差点というべき場所に存在していたことになる。事実、欧米諸国が競うようにアジアに進出していた時代にあっては、この島々はその通り道になった。要するに琉球王国は地理的環境からいっても、いつ攻め込まれてもおかしくない場所に位置していたのである。
もっとも、歴史を巨細に眺めると、この王国は日中両国に支配されながら生きながらえてきたのであるが、それでもつい百五十年前までは歴とした国家として東アジアにその名をとどめていたのである。

本書はこの小さな島嶼群が独立国家として存在し、明治の琉球処分によって国が解体されてもなお、アイデンティティを喪失せずに沖縄であり続けている理由を探りたくて書いた。
ただし、歴史を視る立ち位置は類書と大きく異なっている。琉球・沖縄というと、とかく過酷な歴史がクローズアップされ、「悲劇の島」として描かれるケースが多い。また、その裏を返すように王朝の華やかなロマンティシズムが強調されることも少なくない。が、そのような被害者の視点や耳触りのいい浪漫主義だけでこの島の生い立ちを語ることは意識して避けた。
確かに、王朝時代は華やいだ時代もあった。あるいは、薩摩の侵略、琉球処分、沖縄戦といった出来事を見れば、甚大な被害を被った島でもあった。本書はその点をけっして否定するものではない。
しかし、沖縄の歴史の実相はそのようなものだけで語れるものではない。王府や支配層は激しい権力闘争や内戦、権謀術数に明け暮れ、さまざまな王統が登場しては滅亡を繰り返してきた。その意味で琉球王国は巷間語られるような平和な島ではなかった。そして、外圧が高まれば高まるほど権力者は保身を優先させ、国家存亡にかかわる国難に対しても、ついにひとつにまとまろうとしなかった。結果、王国は砂上の楼閣のように滅んだ。
日本に併呑された明治期以降も、その傾向は変わることがなかった。差別政策を課した日本帝国主義に対して自らすすんで同化する道を選択し、あろうことか、自分たちの民族文化を否定するような動きすらみせたこともあった。そうして、あの破滅的な地上戦に突入していったのである。
沖縄は自滅していく要因を内部に抱え込みながら、その歴史を歩み続けたともいえる。悲劇をいうなら、真の悲劇性はまさにその点にあったのではあるまいか。
要するに、ともすれば自分自身にも立ち現れるある種の幻想や被害者意識に左右されたり、惑わされたりすることなく、あくまでこの島が残した足跡をありのまま直視してみたかったのである。

沖縄史は教育の現場でも学ぶ機会が少ないため、沖縄の人たちにとってもなじみが薄くなってしまっている。このことが他国の歴史のようにこの島の歴史をわかりにくくしている。その点を克服するため、同時代の日本史でどのような出来事が発生していたかについてもできるだけふれながら、まとめたつもりである。
読んでもらえれば、沖縄は痛快なまでに世界史に参加していることがわかるはずである。これも、隔ての海を結びの海にしていったこの島の人たちの功績のおかげというべきか。
ともかくも、時空を超えた旅人のごとく、先人とふれあう気分でページをめくっていただければ幸いである。

著者

仲村 清司 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/28)、出典:出版社HP

目次

まえがき
序章 先史時代と神話
第一章 三山の対立と明への朝貢
第二章 尚巴志と倭寇
第三章 第一尚氏の三山統一
第四章 第一尚氏の栄光と落日
第五章 農民出身の金丸
第六章 最強の尚真王と後宮の陰謀
第七章 被征服前夜の八重山
第八章 アカハチの反乱
第九章 サンアイ・イソパの島
第十章 戦国武将に狙われる琉球
第十一章 侵略を招いた王府内の暗闘
第十二章 島津の琉球入り
第十三章 悲劇の国王・尚寧王
第十四章 『中山世鑑』を記した宰相
第十五章 蔡温の過酷な改革
第十六章 人頭税下の先島諸島
第十七章 ペリー来琉
第十八章 王朝末期の疑獄事件
第十九章 牧志朝忠の死
第二十章 琉球処分
第二十一章 琉球処分後の沖縄
第二十二章 人頭税廃止運動を進めたヤマト人
第二十三章 「同化思想」と沖縄戦
終章 沖縄の戦後史
あとがき
沖縄史・年表
参考文献

序章 先史時代と神話

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る冊子の實一つ

故郷の岸を離れて
汝はそも波に幾月

舊の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる

われもまた潜を枕
孤身の浮般の旅ぞ

實をとりて胸にあつれば
新なり流離の愛

海の日の沈むを見れば
激り落つ異郷の涙

思ひやる八重の沙々
いづれの日にか國に歸らむ

仲村 清司 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/28)、出典:出版社HP

島崎藤村の『落梅集』のなかに収められた「椰子の實」である。のちに、唱歌として歌われるほど有名になった詩であるが、漂泊とロマンの思いが込められたこの詩が誕生した契機もよく知られている。
明治三十一年、当時、東京帝国大学の学生だった柳田國男は、知人の紹介で、愛知県渥美半島の伊良湖岬にひと夏迎留することになった。岬からほど近いところに恋路ヶ浜と呼ばれる美しい海岸がある。ある日、太平洋の波が洗うその恋路ヶ浜を散策した柳田國男はどこから流されてきたのか、浜辺に漂着した椰子の実を見つける。
このときの体験をみやげ話として語った相手が親友の島崎藤村であった。藤村はこれに着想を得て、一篇の叙情詩をつくりあげした。それが冒頭の「椰子の實」である。
昭和十一年、この詩に曲をつけて全国に放送されると、たちまち国民的な愛唱歌として歌い継がれるようになるのだが、このときの伊良湖岬における体験は柳田國男自身が生涯をかけて没頭した民俗学の研究分野にも強く反映されることになる。彼もまた偶然見つけたひとつの椰子の実から大胆な思いを馳せていたのであった。
――はるか昔、日本民族の祖先たちは稲作技術を携えて遠い南方から黒潮に乗って北上し、沖縄の島々を伝って本土に渡来したのではないか――。
日本人の起源論というべきこの雄大な考察は名著、『海上の道」として結実する。伊良湖岬の体験からすでに六十数年が経過している。文字通り、人生の最晩年に誕生した渾身の一冊であった。
日本の文化が沖縄の島々から伝わったという柳田の構想を裏付ける証拠はいまのところない。後述しているように、沖縄諸島には稲作文化の遺跡が見つかっていないからである。ただし、文化の伝播や往来はなにも稲に限ったものだけではない。
ごく常識的に考えれば、日本文化の諸要素は北方からも南方からも波状的に、かつ繰り返し押し寄せ、やがて融合されて定着していったと考えるほうが妥当だし、歴史はおそらくそのように展開していったに違いない。
沖縄の先史文化にも「南進説」や「北進説」がある。これも同様にどちらがどうというより、九州から南進してきた文化と、華南や南洋から北進してきた文化が長い年月をかけてねんごろに混じり合って変遷を繰り返してきたとみるべきであろう。
沖縄は言語や信仰をはじめ、日本と共通する文化が根付いている。その一方で、沖縄諸島には南方由来の習俗や食文化を発端とする文化も色濃く残されている。要するに、このことは一見、独立文化圏にみえるこの島々も、巨視的にみれば、東アジアのさまざまな地域と接触しながらその独自の文化を築きあげていったことを雄弁に物語っている。

沖縄は絶海の孤島ではない。まずは冒頭に掲載されている地図をみてほしい。九州の南の種子島、屋久島から台湾を結ぶ広大な海域に小さな島々が飛び石状に連なっているのがわかるはずだ。地理学上で、南西諸島と呼称されるこの島々は大隅諸島、トカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古列島、八重山諸島の百九十九の島で構成され、その距離は約千三百キロにも及んでいる。
弓状に連なっていることから、俗に琉球弧とも呼ばれているが、島々は孤立しているのではなく、あたかも橋梁のように連なっている。それぞれの島影を指呼の間に臨み、その島々を洗うように「黒瀬川」と呼ばれる黒潮が脈々と流れている。
流れに沿って北進した文化もあれば、流れに逆らって南進した文化もあったことは容易に想像できる。あるいは集団としてのヒトの移動もそうであったろう。この地理的環境を理解すれば、琉球弧の島々がそれぞれ密接に関係しあっていたことは、くどくど説明する必要などなさそうである。

さて、その琉球弧の発祥である。はるか大昔、この島々は大陸と地続きで、その後、大規模な地殻変動によって、一部が海底に沈んだり隆起したりを繰り返していた。現在のような地形になったのは地質学でいう氷河期の末期、およそ一万年前とされている。
琉球弧には大陸からわたってきたことを裏付ける動物の化石が多数発見されており、沖縄本島南部では約五百万~二百万年前の象の化石が、また宮古島では洪積世末期(約三万年前)の別種の象の化石が発掘されている。
こうした先史時代を本土では縄文時代と弥生時代に分けているが、琉球史はそれとは異なり、土器出現以前を後期旧石器時代、土器出現後を貝塚時代と呼んで区分している。
琉球弧にいつ頃から人類が現れたのかは不明だが、大陸と地続きであった氷河期の末期時代に、化石で見つかっている動物とともに渡来してきたとする説が有力である。
考古学上では、この三万~二万年前の時代を旧石器時代と呼んでいる。この時代のものと考えられる最古の人骨が那覇市で見つかった山下洞人で、およそ三万二千年前のものだと推定されている。また、一九六七年頃から具志頭村(現在の八重瀬町)で出土した四~七体の港川人骨はおよそ一万八千年前のものとされ、日本で発見された更新世人骨の中で、もっとも完全な形に近いホモ・サピエンスの人骨として知られている。
身長は男性が約一五四センチ、女性が一四四センチほどで、小柄でありながら手は大きく、頭骨はやや大きめで、頬骨が張った彫りの深い顔つきを持っている。
現時点では日本人の祖先として位置づけられているが、身体的特徴が中国大陸南部地域の「柳江人」に近いという報告から、大陸と関係の深い「人類」としてとらえるほうが妥当だろう。
沖縄県内ではそのほかにも、米原人(石垣市)、伊江ゴヘズ洞人(伊江島)、下地原洞人(久米島)、ピンザアブ洞人(宮古島)などの旧石器時代の人骨が他府県以上に数多く出土している。
これは沖縄の琉球石灰岩洞穴の地下水が、人骨を化石化する炭酸石灰分を多くふくんでいるためである。しかしながら、その後のおよそ一万年余の間の遺跡は発見されておらず、先史期におけるこの時代から貝塚時代までは空白の時間になっている。

貝塚時代は、紀元前三世紀を境目として、貝塚時代前期と貝塚時代後期に大きく分けられ、おおむね前期が本土の縄文時代、後期が弥生時代に相当する。日本史と決定的に異なる特徴は、本土が弥生時代以降、古墳時代、奈良時代を経て平安時代へと変遷するのに対し、沖縄諸島(宮古諸島や八重山諸島をのぞく)では貝塚時代後期が十世紀前後、すなわち本土の平安時代の時期まで続いている点である。
沖縄諸島で発見されている遺跡数はおよそ六千余。それらを分析した結果、貝塚時代の早期は海岸の砂丘低地に、前期が標高およそ八十メートルまでの琉球石灰岩丘の崖下に、中期が台地に、後期になると海岸の砂丘に降り、湧き水のでる場所近くで生活していたことがほぼ定説になっている。
いずれにしてもそれらの遺跡はサンゴ礁に囲まれた内海に面していることから、当時の人々は貝や魚などの漁労を主とした採取生活をしていたと考えられている。貝塚中期になると畑作との複合生活を実証する遺跡が発見されているが、本土の弥生人との接触がみられる後期にいたっても水稲農耕の跡はついに発見されていない。
つまるところ、当時の人々は農耕を主流にしなかったわけだが、その理由についてははっきりしていない。ただ、大量の水と人手を必要とし、その上、自然環境に左右されやすく、一年を通して土地を綿密に管理していかなければならない農耕は、ただでさえ手のかかる生産方法であったはずだ。その点、この島々は内海という豊かな漁場が目の前にあった。その海からの幸はおそらく当時の人口を十分に養えるほど豊かなものであったのだろう。であるなら、過酷な労働や自然条件を前提とする農耕生活はこの土地では必要とされなかったのかもしれない。
もう一つの特徴は沖縄が「具の文化」の源流を成していたという点である。サンゴの海が取り巻く沖縄はむろんのこと貝に恵まれ、生活用具や装飾具に多くの貝殻が利用されていた。日本本土でもその沖縄産のゴホウラガイやイモガイを用いた腕輪や首飾りなどの貝製品が多数発見されており、古くは二千年前にもたらされた貝も出土している。
いうまでもなく、黒潮がその「貝の道」を成立させた原動力である。ルートは琉球弧から北九州を経て日本海地方にいたる道と、北九州から瀬戸内を経由して畿内にいたる道があったとされている。このことから、先史時代は琉球弧と九州・本土の間に活発な交易があったと考えられている。
なにやら、われわれの想像をはるかに超えるダイナミックな人間交流があったことが窺いしれるエピソードであるが、同じ琉球弧であっても、宮古諸島や八重山諸島の先島においてはまったく異なる歴史の営みがあった。
日本史と比較すると驚くほかないのだが、沖縄諸島からさらに南に位置する先島では実に十二世紀頃まで原始さながらの石器時代が続いていた。十二世紀といえば源平の争乱が続き、源頼朝が鎌倉幕府を成立させようとしている時期である。沖縄諸島は本土の縄文文化に影響を受けたのに対し、先島には本土文化は及ばず、台湾、フィリピン、インドネシアなどの南方文化の強い影響を受けた文化が構築されていた。
石器時代の前期は堅穴住居を住処とした狩猟や漁労を主とした生活が営まれ、遺跡からは台湾先史時代の土器との共通点が指摘されている厚手平底の牛角状突起がある下田原式土器が発見され、貝塚からは魚貝類、イノシシの骨などが見つかっている。
時代が下って後期になると、土器や石器の他にシャコ貝など大型の貝が煮炊き用の調理器具として用いられ、東南アジアとの関連性を示唆する貝製の斧なども発見されている。沖縄諸島の土器と類似性が見られるようになるのはようやく八〇〇年頃である。要するに、琉球弧を俯瞰すると、沖縄諸島が縄文から弥生文化を経て独自の文化圏を築き上げたのに対し、先島諸島は南方文化を基層にした文化を紡いでいたことになる。
日本本土との関係をみると、『続日本紀』に七一四年に「信覚」(石垣島)、「球美」(久米島)などの人々が来朝したと記され、また七五三年には鑑真が「阿児奈波島」(「うちなわ」と呼ぶ説もある)に漂着し、これを沖縄本島とする研究者もいる。ただし、いずれも確証はなく、時代背景を考えると、むしろ疑わしい解釈といわざるを得ない。
戦前の教科書には、「元明天皇の御代には、さらに信覚(石垣)・球美(久米)等の人も来朝したり、ここに南西諸島は、殆ど皆我に服属することになれり」(女子用日本史教科書巻上大正八年文部省検定「高等学校琉球・沖縄史」より)とあり、これは皇国史観をもとに書かれた妥当性のない記述というほかない。沖縄諸島にしても先島諸島にしても、本土文化の影響はともかく、七世紀後半の飛鳥時代から八世紀初頭にかけて成立をみる律令制度の政治的な影響は受けておらず、当時の大和政権(=日本国家)と服属関係はなかったことは確かである。
常識的に考えれば、日本の古代政権の視野には南西諸島が入っておらず、逆もそうであったというべきで、少なくともこの時代において両者が共有するものはまだなかった。

そんな琉球史に農耕文化を基盤とした時代が現れるのは、「グスク時代」とよばれる十二世紀になってからである。集落は海岸から稲作や畑作などの農耕に適した台地に移り、人々は神(祖先神)の依り代となる御嶽(聖地)を村落のなかに構え、ノロと呼ばれる女性の宗教的支配者が登場するようになる。
卑弥呼を連想させるシャーマニズム的色彩の濃い社会といっていいが、こうした村落が成立する過程は本土とほぼ同じといっていい。
やがて、村落の有力者に成長したものは按司(豪族)と呼ばれるようになり、これら按司は武力を背景にした防御の砦としてグスク(城)を築き、周辺の農民や集落を束ねながら、それぞれの支配地域を広げていく。いわゆる小国家の成立である。一五00年代初頭には、奄美も含めた琉球弧にこれら小国家のグスクが五百余も築かれている。
琉球史では、このグスク時代(十二~十五世紀)から有力按司が割拠する三山時代、さらには琉球王国の成立(一四二九年)を経て、薩摩の侵入(一六〇九年)までのおよそ五百年間を「古琉球」とよんでいる。
古琉球時代の特徴は日本や中国大陸との交易が盛んになったことである。とりわけ中国との関係は密接で、明国が東アジア圏内の新秩序体制というべき進貢貿易を確立させると、琉球もこれにいち早く参加し、アジア社会の有力な一員に成長していくのだが、これについては別章で追々ふれていくことになる。

仲村 清司 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/28)、出典:出版社HP

さて、国家にはその治世者によってまとめられた歴史書があり、これを正史という。中国では司馬遷が著した『史記』や『漢書』、日本では『日本書紀』、『続日本紀』などがその代表といえるが、琉球にも王朝が編纂したいくつかの正史がある。『中山世鑑』、『中山世譜』、『球陽』、『琉球国由来記』などがそれである。
とはいっても、時の為政者の施策、政権、王位継承などを至当とするための意図をもって書かれた王宮中心の歴史書であるから、史実とはいいがたい記述も多々ある。しかも、いずれの正史も薩摩の侵略以降に編纂されているため、薩摩による琉球支配を正当化したり、日本と琉球が民族的に同根であることを極端に強調したりしているので、こうした関係も考慮して読み解く必要がある。
正史による琉球の開關時代も史書とはかけ離れた粉飾が施されているが、あくまで「物語」であることを前提として琉球の島づくりをみていくと次のようになる。
天の神はアマミク(阿摩美久、またはアマミキヨ)という女神を下界に遣わし、琉球の島々をつくり、ひと組の男女神を島に住まわせた。男女は夫婦となり、三男二女をもうけた。長男は国王の祖先となって天孫と名乗った。次男は諸侯の按司の始祖、三男は農民の始祖となり、長女は最高位の神女である大君の始祖、次女はノ口(巫女)の始祖となった。天孫氏は二十五代、一万七千八百二年間にわたって琉球を支配したという。
単純計算で歴代天孫氏は一代で七百年以上生きていることになるから、むろん、実在した王朝ではない。物語の流れは天孫降臨を記した日本の開闢神話に酷似しており、これも神話の域を出ない王統といっていい。
史実としての王統は天孫王統を継いだ舞天王統であるが、これもまた伝説が幾重にも交錯している。正史では天孫氏二十五代目の十二世紀末頃に、地方の按司が各地で反乱を起こすようになる。天孫氏も執権役の利勇によって殺され、その利勇が王位に就いたが、按司たちは従おうとしなかった。
そこで浦添按司である尊敦が義兵を起こして利勇を討ち取り、民衆に推戴されて琉球王となったというものである。尊敦は実在の人物であるとされ、のちに舜天(在位一一八七~一二三七)と称した。
この舜天という名前は、古代中国において「堯舜の治」として語り継がれ、理想の天子とされた「舞」にちなんだものであることはいうまでもない。
興味深いのは『中山世鑑』では舞天の父が源氏の御曹司、源為朝とされている点である。それによると、保元の乱で敗れた源為朝は伊豆大島に流されたが、その後脱島し、「運を天にまかせて」漂流したのちに琉球の今帰仁にたどり着いた。そこでその港を運天港と名付けた。琉球の名も流れを求めてやってきた場所だから、のちに「流求」となり、琉球に転じたのだという。
為朝はそこから沖縄本島の南部に移り、大里按司の妹と結ばれて男の子を授かった。が、望郷の念絶ちがたく、為朝は涙ながらに妻子を残して琉球を旅立つ。妻は北風が吹く日には乳飲み子を抱いて浦添の港に出向き、再び為朝が来琉する日を待ちわびた。その乳飲み子が尊敦、のちの舞天となり、妻子が待ち焦がれた港だから「牧港」になったという。

もとより、『保元物語』の「為朝の鬼が島渡り説話」を引き写したもので、できすぎた話である。運天の古名は「くもけな(雲慶那)」で、のちの世になって「雲見」と当てられ、これが「運天」に転じたとされる。また、牧港も元々は「まひみなと」で、「牧那渡」、あるいは「真比湊」に転じたといわれる。結局のところ、地名そのものもこじつけたもので、研究者の間でも為朝来琉はほぼ否定されている。
後述しているが、『中山世鑑』は一六五〇年に王府の高官、羽地朝秀が記したもので、薩摩の支配下に入ってから四十年後のことである。当時は薩摩の圧迫によって退廃的な気分が王府に蔓延し、羽地としては彼らの意識改革に取り組まねばならなかった。
琉球を支配した島津家は清和源氏の流れをくむ家柄である。一説には「日琉同祖論」者の羽地はこの「血流」を利用して、薩摩は忌むべき相手ではないとしたとされている。要するに、『保元物語」をそのまま採用することによって(薩摩侵略前はヤマト僧の袋中上人や月舟寿桂などが為朝伝説を紹介、侵略後は新井白石が『南島志」で、滝沢馬琴が『椿説弓張月」で取り上げて、伝説は全国化していった)、琉球を支配した島津と琉球王統の先祖は日本の清和源氏であり、同根であることを示したというわけである。
最近の研究では、羽地に薩摩支配を肯定する意思まではなかったという説も有力になりつつあるが、舞天の名が中国由来で、出自が日本をルーツにしているという伝説は、後世、日中両属となる琉球王国の将来の定めを暗示しているようでもある。
ともかくも、為朝来琉が俗説にすぎないことから、舜天王統の成立話もすべて真に受けることはできないのだが、正史では舞天王統は三代目の義本(在位一二四九~一二五九)の代に飢饉や疫病が流行して国内が荒れたため、義本は自分に徳がないことを党り、みずから英祖(在位一二六〇~一二九九)に王位を禅譲したとしている。
英祖は天孫氏の末裔で、母が太陽の夢を見て懐妊したことから、太陽子と称されたという。これもまた貴種伝説の流れをくむ説話であろうが、浦添市にある「浦添ようどれ」と呼ばれる墓陵は彼が紛れもなく実在したことを示す貴重な遺跡といっていい。
英祖は農業政策を重点的に推し進め、年貢の公平化をはかり、領民を豊かにしたことで知られる。おそらくは農機具を改良したり、鉄器を導入したりするなどして、穀物の生産力を一気に高めたかと思える。ついでながら、禅鑑という来琉した僧に寺を与え、琉球にはじめて仏教を流布させたのも英祖の治世のときである。
その充実した国力のせいか、並々ならぬ軍事力を備えていたことを物語る事紙が残されている。文永・弘安の役と称されるいわゆる元寇は日本を恐怖に陥れたが、琉球もその侵略から逃れることはできず、一二九二年と一二九七年、二度にわたって来寇されている。
しかし、『球陽」には、英祖軍は当時の世界帝国を敵に回してよく抗戦し、
「元兵の来役を見て、国人力を合わせ、拒ぎ戦って降らず」とし、元軍を見事に退けたことが記され、英祖の奮闘ぶりが讃えられている。
英祖は在位四十年で世を去り、王統は五代にわたって続いている。が、王統末期の四代目の玉城王(在位一三二四~一三三六)が酒色におぼれて治世を怠ったために、琉球は三つに分裂したとされる。ただし、沖縄研究の代表的存在である伊波普猷は、「これらの三地方が各自に発達して、この時代にそれぞれの国家の形態を取るに至ったと見るのが穏当であると思う」(『阿麻和利考』)
としており、真偽のほどは定かではない。
いずれにせよ、これがいわゆる中山・北山・南山の三勢力の成立起源であることは間違いなく、英祖王統は五代目の西威(在位一三三七~一三四九)の死後、大いに乱れたという。
そこに現れたのが察度(在位一三五〇~一三九五)である。のちに王統を開くことになる察度の出生にも英雄伝説がある。それによると、察度は浦添の貧農・奥間大親を父に持つ人物として登場している。
父の奥間大親はある日宜野湾の森ヌ川で水浴びしている天女を見つける。あまりの美しさに見ほれた奥間大親はこっそりとその天女に近づき、木の枝につろした衣を隠してしまった。そして、言葉巧みに天女をだまし、自分のあばら家に連れて帰った。やがて二人は夫婦になり、一男一女を授かる。
それから、数年後のこと。娘は弟のめんどうをみながら、「母の飛び衣は六足蔵の上、母の飛び衣は八足蔵の上」と子守唄をうたった。それを聞きつけた母親は不審に思い、その穀物蔵を調べてみると、稲の下に無くした衣が隠してあった。
天女はそれを着ると空に舞い上がり、天上に帰って行った。そのとき、母親を慕って泣き叫んだ男の子がのちの察度王であるという話である。いわゆる羽衣伝説である。貧農の身分ながら生まれは高貴であると説いた一種の貴種神話といっていい。
察度王には青年期にもうひとつ、伝説がある。時の勝連按司は海外貿易で築いた財力をもつ人物で、按司には才色兼備の娘がいた。娘には多くの求婚者がいたが、謝名むい(のちの察度)は貧農出身ながらいっさい物怖じせず、「娘をもらいたい」と申し出た。案の定、勝連按司や家臣から失笑を買ったが、その様子を見ていた娘は、この人物こそ傑物であると直感し、周囲の反対を押し切って二人は結婚する。
はたして、謝名の家は貧しかったが、家の周りの田には金塊が転がっていた。妻は仰天し、その価値を謝名に教えた。謝名は金塊を拾い集めて蔵に貯め、のちにそこに黄金宮と名付けた楼閣を建てた。そして、この財を元手にして、港に日本の商船が着くたびに鉄をことごとく買い集め、農民に農具をつくらせた。そのおかげで村は潤い、国じゅうに謝名の名声が知られるようになり、ついには、民衆の推挙で国王の座に就き、察度と名乗ったという。
黄金の価値もさることながら、正史はそれ以上に鉄製の農具の価値を知り抜いていた農夫出身の察度を慈父のように褒め称えている。察度は妻にとっても民衆にとっても、まさに「奇貨」であったというわけである。
察度の功績も英祖と同じく、農産物の生産力を飛躍的に高めたことにある。大地をたやすく開墾できる鉄は生産性の効率を増大させ、ひいては民の暮らしを豊かにする。そのことを熟知し、いち早く鉄を仕入れた察度王にまつわるこの伝説は、その土地の発達史を俯瞰する上でまことに興味深い。

察度王の黄金宮は、いまも宜野湾市大謝名の住宅地の中にある。社というより、ひっそりとした拝所のような空間になっているが、場所はきわめて特徴的である。歴史家の新里金福はその著書『琉球王朝史」(朝文社刊)のなかで次のように述べている。「伝説の場所は、ちょうど牧港を眼下にみおろす丘陵の中腹で、かつては入江だったといわれる谷間には田圃がひらけて、夏は風に青田がそよいでいる。つまり、察度が楼閣をたてて住んだという土地は、眼下に港を見おろす丘の中腹だったわけである」『球陽』は察度が農事より漁労を好んだとしている。おそらく、彼は海を単に漁場とみたのではなかったろう。出船入り船が行き交う港はまさに情報源であった。察度は海を眺めながら、いち早く情報を得ようとしていたに違いない。
港が一望できる丘の中腹に家を構えたのも、貿易によって巨利を得た勝連按司の娘に求婚したのも、偶然ではなかったように思える。正史は虚実を織り交ぜながらも、そのことを暗に伝えようとしたのかどうか。
事実、察度王は中国に初めて朝貢し、対明貿易の先陣を切った国王であった。その意味で、彼こそ海外交易で繁栄の基礎を築く古琉球の歴史的性格を決定づけた人物といっていいかもしれない。ともかくも、この時代において琉球はようやく「神話」の世界から名実ともに脱することになる。

仲村 清司 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/28)、出典:出版社HP

新訂ジュニア版琉球・沖縄史 (沖縄をよく知るための歴史教科書)

図や写真を使って沖縄の歴史を解説

本書は、中学生以上の若い世代を対象にした沖縄の歴史の教科書です。琉球・沖縄の歴史をかみ砕いて記述し、図や写真を多く使うほか、クイズも付いているため、とてもわかりやすい一冊となっています。

新城 俊昭 (著), 東洋企画印刷 (編集)
出版社 : 編集工房東洋企画; 新訂ジュニア版 (2018/3/28) 、出典:出版社HP

目次

琉球・沖縄史を学ぶにあたって
琉球・沖縄史の時代区分

第1部 先史時代
第1章 琉球・沖縄文化のあけぼの
1 沖縄人はどこから来たのか
2 貝塚から何がわかるのか

第2部 古琉球の時代
第2章 琉球王国の誕生
1 グスクが築かれた時代
2 神話の王から実在の王へ
3 第一尚氏による琉球の統一
第3章 琉球王国の繁栄
1 第二尚氏王統時代の幕開け
2 琉球の大交易時代
3 宮古・八重山の群雄割拠時代

第3部 近世琉球の時代
第4章 薩摩の侵略
1 薩摩はなぜ琉球を侵略したのか
2 古琉球から近世琉球への転換
3 農村社会のしくみ
4 薩摩侵略後の宮古・八重山と久米島の統治
5 近世琉球の産業と交通
6 近世琉球の文化−正史の編さんと法制の整備
7 近世琉球の文化−芸能・工芸
8 琉球・沖縄の伝統行事(旧暦)
第5章 「琉球併合(琉球処分)」
1 欧米船は何のために琉球にやって来たのか
2 新しい時代の足音
3 琉球併合はどのようにおこなわれたのか

第4部 近代の沖縄
第6章 沖縄県政のはじめ
1 明治政府はなぜ古い制度を残したのか
2 立ち上がる農民と民権運動
3 古い制度の改革と本土への同化
4 ソテツ地獄の沖縄
5 近代沖縄の文化から見えるもの
第7章 十五年戦争と沖縄
1 十五年戦争への道
2 日中戦争と第二次世界大戦
3 沖縄戦への道−アジア太平洋戦争のはじまり
4 鉄の暴風が吹き荒れた沖縄

第5部 戦後の沖縄
第8章 米軍支配と「祖国復帰」運動
1 米軍基地と沖縄
2 琉球政府の設立
3 土地の強制接収と“島ぐるみ闘争”
4 「祖国復帰」運動と沖縄返還
第9章 復帰後の沖縄
1 日本復帰は何をもたらしたのか
2 復帰後の沖縄はどのように変化したのか
3 復帰で基地問題はどのような変化を見せたのか
4 21世紀の沖縄はどこへむかおうとしているのか
5 軍事基地(米軍・自衛隊)と沖縄
6 復帰後の沖縄文化はどのように発展したのか

資料編
琉球・沖縄史年表
索引

新城 俊昭 (著), 東洋企画印刷 (編集)
出版社 : 編集工房東洋企画; 新訂ジュニア版 (2018/3/28) 、出典:出版社HP

教養講座 琉球沖縄史

沖縄の歴史を学ぶ「教科書」

本書は、琉球・沖縄の歴史を教科書のようにまとめたものです。教科書の体裁でまとめられているだけでなく、内容も注釈、参考意見、図解などが豊富に掲載されているため、沖縄の歴史を学ぶ際、まさに「教科書」として読みたい一冊です。

新城 俊昭 (著), 編集工房 東洋企画 (編集)
出版社 : 編集工房 東洋企画; B5版 (2014/6/23) 、出典:出版社HP