【最新】論理学について学ぶためのおすすめ本 – 思考の基本と本質を知る

そもそも論理学とは何か?どういう場面で役に立つのか?

論理学とは、正しい判断や認識をするための思考のプロセスを明確にする学問です。人は1日に6万回ほど思考を繰り返します。人生の基盤ともいえる思考を整えることで、日々の生活における判断力や物事の本質を捉えるスキルを向上させることができます。ここでは、勉強にも仕事にも活かせる論理学を学ぶことのできる本をご紹介します。

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出典:出版社HP

論理学

現代論理学の初めの一歩

本書は現代論理学を初めて学ぶ人におすすめの本です。説き明かすことよりも、問いかけることに重点を置き書かれており、問題と議題の数は合わせて100以上になっています。難しい内容ですが、対話形式で話が進んでいく理解しやすい形式で書かれています。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

はじめに

本書は、文字通り、ずぶの素人のための現代論理学への初めの一歩である。そして、おそらくはこれが終わりの一歩となるだろう読者を想定している。それゆえこれは千里の道への一歩ではない。ただ、この一歩のための一歩である。寝ころがって読めるかどうかは保証のかぎりではないが、歯をくいしばって読むようなものでもない。いわば、現代論理学という不思議の国への、ちょっとハードな観光旅行みたいなものと思っていただいてよい。ただし、自負をこめて言っておきたいのだが、観光のためのガイドブックではない。実地の観光旅行である。

私がガイド役ということになるが、このさいだから白状しておこう、論理学というこの土地に赴いてきたのは、私にとってもそう昔の話ではない。そして私はこの土地の住人でもない。どちらかといえば私は哲学という畑で芋を掘っている人間である。最初むりやりこの土地に来させられたとき、正直言って私には、この寒風吹きすさぶのっぺりとした土地柄がなんとも面白くなかった。だが、知の風景というものはとくにそうだが、こちらの態度ひとつで、眺めが変わっていくものである。私にとっては、さらに奥深く先鋭的な議論へと踏み込むことによってではなく、最初に立ちっくしたその辺りをかき分けてみたりほじくり返してみたりすることによって、なんだかおもちゃ箱の中に入りこんだような興趣が湧いてきた。だから、もう一度言っておきたい、この本は先を急ぐための本ではない、積極的に論理学の素人であろうとする人のための、いわば、ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための、本である。

一ページ目を開く前に、読み進むための注意を少ししておいた方がよいかもしれない。いま述べたように、この本には論理学の技術を学ぶための訓練という意図はほとんどない。それゆえ、随所におり込まれた問題は、それ自身この論理学観光の一部である。ここは「手で読む」と心得て、なるべく解いてから進んでいただきたい。ただし、問題で問いかけておいて、解答でその説明をするという場合もあるので、解答できなかったからといって、気にやんでそこで本を閉じてしまうには及ばない、気楽に巻末の解答を見ていただきたい。また、技術的な問題に関しても、もしかしたらこの手の問題を解くのが好きになった人もいるかもしれないと思い(実際、パズル解き的な楽しさがある)、少し問題を多めにしておいた、関心に応じて取捨選択していただきたい。

さらに、「論題」と称する問題たちがあるこれは来し方をふり返り、行く末を見上げるための、少し漠然とした問いかけである。すべてではないが、若干の問題については、巻末でコメントを付しておいた(コメント付きの論題には“印をつけてある)本来論題にしようと思っていたもので、論題からはずして本文で議論してしまったものもずいぶんある。残されたものは、過重負担にはなるまいと判断したものと、実のところ私にもうまく答えられないものである。後者のタイプの論題については、読者諸氏それぞれの妄想をふくらませていただきたい、ここの妄想によって、あてがいぶちの風景が、各自の風景へとその眺めを変えていくだろう。
私は本書を、明晰で簡潔な説明を積み重ねていく練達の講義のようにではなく、初心者の素朴な疑問と驚きに満ちたものにしたかった。説き明かすことよりも、問いかけること、ここに基本方針を定めたのである、おかげで、問題と論題の数は合わせて100を越えた。だが、問いっぱなしで叙述が進められるものではない。問うたならば、責任をもって答えておかねばならない。読者に問いかけ、読者に答える、それを一冊の本の中でやるのだから、まるでマッチポンプである。そこで、問答形式で一芝居うつことにした、ちょっと気恥かしかったが、対話を導入してみたのである。かくして、二人の禅僧が登場することになる。紹介しておこう。一人は中国、南宋時代の禅僧、無門慧開であり、もう一人はわが国の禅僧、道元である。道元は無門より17歳年下で、対話でも年下の物怖じしない感じで発言している。しかし、借りたのは名前だけで、対話にうかがわれてくる二人の人柄は、実在の彼らとは何の関係もない。この二人の禅僧は、(例文で出てくるのは愛敬として)議論のふんばりどころで登場し、素朴にして過激な質問を発し、ときにとんちんかんなことを言う彼らももちろん、論理学はずぶの素人であり、何を考えたか、私に教えを乞いにきたというわけである。そこで、これはもっと恥ずかしかったが、私の名前を出して、教師づらして彼らに教えを垂れることにした。しかし、ここでも、借りたのは名前だけで、実在の人物とはあまり関係がないことを断わっておく。

論理学の本というのは、わが国にかぎってみても、かなり数多く出版されている。そうした中で、本書がもっている「素人臭さ」はあるいは意義をもちうるかもしれないと私は考えている、もしかしたら、他の論理学の著者たちが、専門家となることによって忘れてしまったかもしれない無邪気で野蛮な問いかけを、無門や道元が臆面もなく発してくれるなら、この本も類書の中に埋没しないですむかもしれない。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

目次

はじめに
序論 論理と言語

第1章 命題論理
第1節 命題論理の意味論
1-1-1真理関数
1-1-2基本的な真理関数
1-1-3日常言語と真理関数
1-1-4論理式
1-1-5トートロジー
1-1-6真理値分析と推論
付論1 命題論理は棒一本だけで表わせること
付論2 命題論理がすべての真理関数を扱えること
付論3 命題論理とコンピュータ

第2節 命題論理の構文論
1-2-1公理的方法
1-2-2命題論理の公理系LP
1-2-3命題論理の完全な公理系の例
第1章の復習問題

第2章 述語論理
第1節 述語論理前史―アリストテレスからフレーザへー
2-1-1伝統的論理学
2-1-2伝統的論理学の限界

第2節 述語論理の基本概念
2-2-1命題関数
2-2-2量化

第3節 述語論理の意味論

第4節 述語論理の構文論
2-4-1述語論理の導出規則
2-4-2述語論理の公理系L
第2章の復習問題

第3章 パラドクス形式主義・メタ論理
第1節 パラドクス前史
3-1-1命題関数と集合の同等性
3-1-2集合の集合という考え方

第2節 ラッセルのパラドクス

第3節 形式主義
3-3-1直観主義
3-3-2形式主義とメタ数学

第4節 メタ論理―述語論理の公理系Lの無矛盾性
3-4-1命題論理の公理系LPの無矛盾性
3-4-2述語論理の公理系Lの無矛盾性
3-4-3メタ論理について

付論 論理主義
第3章の復習問題

第4章 直観主義論理
第1節 排中律の拒否
4-1-1古典論理における排中律と真理概念
4-1-2直観主義論理と証明概念
4-1-3二重否定除去則の拒否

第2節 直観主義命題論理の公理系LIP

第3節 直観主義命題論理の意味論

第4節 直観主義命題論理の妥当式
4-4-1認識史モデル
4-4-2妥当式
4-4-3認識史分析
第4章の復習問題

第5章 不完全性定理
第1節 不完全性定理とその証明の輪郭

第2節 『プリンキピア・マテマティカ』やその関連体系での形式的に決定不可能な命題について

第3節不完全性定理の証明
5-3-1自然数論の公理系N
5-3-2ゲーデル数化
5-3-3「私は証明できない」を意味する式の構成
5-3-4第一不完全性定理
5-3-5第二不完全性定理

第4節 公理系の内と外—再び論理について

付論1 補助定理1に対する漠然とした説明
付論2 補助定理2(対角化定理)の証明
第5章の復習問題

終わりに
付録 命題論理の公理系LPの定理の証明215
問題解答
論題コメント
参考文献
主な記号
後記
索引
付録 命題論理と述語論理の公理系と派生規則

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

入門!論理学 (中公新書)

目からウロコの入門書

現代の論理学は、「記号論理学」とも言われ、記号や式がたくさん使われています。しかし、本書は記号論理学の入門本ですが記号をほとんど使っていません。記号を使わずに記号論理学を紹介することで、論理学の根本的なところの本質をつかみとり、提示するように書かれた、今までにはなかった論理学の本です。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2006/9/1)、出典:出版社HP

はじめに

論理学の本を手にしたのはいまがはじめて、というひともいるのではないでしょうか。もちろんそういう読者を念頭において、私はこの本を書きました。だけど、同時に、「いままでになかった論理学の本を」という気持ちももっています。なので、いまちょっと悩んでいます。だって、論理学の本はこれがはじめてというひとは、この本がいままでにないタイプのものだということなんか、分からないでしょうから。そうですね、私としては危険な賭けかもしれませんが、ちょっと他の論理学の本をパラパラとめくってみてくれませんか。それからこの本もパラパラめくって、見比べてみる。比較対象は、『論理トレーニング』(拙著)とかいう本ではなくて、現代論理学の教科書とかです。ほら、まず見た目がだいぶ違うでしょう?
現代の論理学は、「記号論理学」とも言われて、堅い本だと記号や式のオン・パレードです。「記号」論理学なので当然なのですが、この本は記号論理学の入門のくせに記号をほとんど使っていません。しかもタテ書き。

最初は私も論理学の本としてはごくふつうにヨコ書きを考えていましたし、記号も使うつもりでいました。だけど、出版社の担当の人に「タテ書きでやりたい」と言われて、「それはムリです」とか答えたのですが、「でもタテ書きでやりたい」とさらに言われて、「そうかい、やってやろうじゃないか」と、いささかムキになったのでした。たかだかヨコかタテかの違いなのですが、こういう小さいことが、この本の性格を劇的に変えるということに気がついたのは、しばらく執筆を進めてからのことです。タテ書きにするからには、式の部分だけヨコに寝かせるみたいなこともしたくない。そうして、記号なんか使わないのだけれど、論理学の入門として、ふつうなら記号を使って書かれるようなこともきちんと伝えたい。そう思ったのです。他の本にあるような、「公理系」というのも出てきますし、証明もやってみたりします。

感覚的な言い方で申し訳ないのですが、記号を使わずに記号論理学を紹介することで、論理学を「裸に」することができたような気がします。他の本を見てみれば感じていただけると思うのですが、各ページを埋める記号の放列はあたかも論理学が鎧をまとって私たちの前に現れたかのようです。その鎧をはぎとり、さらに着ていたものを脱がせ、意外と柔らかいその論理学の素肌に触れることができたのではないか、そんなふうに思うのです。タテ書きにしたことで、そして記号を使うことを禁じたことで、私たちがふだん使っていることばと論理学との関係にいっそう敏感になることができました。論理というのは、私たちがふだんことばを使うときの重要な技術のひとつです。そして私たちはとても豊かで多様な論理を用いています。その論理の仕組みを解明したい、それが論理学にほかなりません。私は、この本で、私たちのふだんづかいのことばから、その論理を取り出し、理論化し、体系化する、その最初の産声を取り上げようと思いました。ここには、まだプニプニしていて、ホカホカしている、そんな産まれたばかりの論理学の姿があります。

私は、「入門書」というものには少なくとも二種類あると思っています。ひとつは、これからもっと進んで勉強していくひとのために、その第一段階の基礎を教える入門書。積み上げ型の学問の場合に多いタイプです。たとえつまらなくても、たとえいまは意味がよく分からなくても、ともあれまずはこれだけのことはマスターしといてくれないと、先に進めないからね、というわけです。この本はこういうタイプの入門書ではありません。
私が考えるもうひとつのタイプは、少し唐突な言い方ですが、「哲学」です。つまり、その学問の根本的なところ、その本質を、つかみとり、提示する。論理学ってけっきょく何なんだ。何をやっているんだ。禅坊主の言い方を借りれば、襟首つかんで「いかなるかこれ論理学」とか「作麼生!」とか迫るところです。入門だからこそ、その根っこをつかまなければいけない。表面的なあれこれを拭い去って、根本を取り出そうとするその態度は、まさしく哲学です。

そして、タテ書きにして、記号を使わないと決めたときから、このような、論理学の根本に向かおうとする姿勢が色濃くなっていきました。入門の第一歩ではあるけれども、同時に、ここは何度でも立ち戻ってこなければならない論理学の核心部分なのです。ですから、正直に言って、執筆していてなによりもまず私自身に新たに学ぶところがありましたし、この本の執筆はとても楽しい作業でした。その楽しさが、どうか読者のみなさんのもとにも届きますように。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2006/9/1)、出典:出版社HP

目次

はじめに
第1章 あなたは「論理的」ですか?
「論理的」って、どういう意味だろう?
論理は非常識か?
論理学が扱う推論とはどういうものか
論証と導出を区別しよう
ちょっと論理力をテストしてみましょう
論理学って何のためにあるのだろう
論理のことばたち

第2章 「否定」というのは、実はとてもむずかしい
ひとはどういうときに否定するのだろう
私はあなたのことが好きではない
肯定するか、否定するか、どっちかしかない?
勇気と盲腸の違い
二回否定すると肯定になるのか?
矛盾の形
背理は否定される
否定の論理

第3章 「かつ」と「または」
論理と接続詞
「かつ」の入れ方・はずし方
「かつ」の仲間たち
ひとが「または」と言うとき
こうすれば「または」は取れる
「かつ」と「または」を否定すれば
ド・モルガンの法則を導いてみる

第4章 「ならば」の構造
「ならば」で困った
「ならば」のはずし方
導入則をどうしよう
「ならば」の否定対偶をとる
「ならば」の連鎖

第5章 命題論理のやり方
私たちはいまどのあたりにいるのか
証明するとはどういうことか
論理命題と推論規則
証明も、けっこう楽しい
ほしい論理法則・ほしくない論理法則
二つのアプローチ
「健全」で「完全」な公理系
いろいろな公理系が作れる
遠くにゲーデルの不完全性定理が見える

第6章 「すべて」と「存在する」の推論
この推論はどう扱おう
全称と存在
全称と存在のド・モルガンの法則
世界に三匹のブタしかいなかったら
「すべての男はバカである」の論理構造
「バカな男がいる」の論理構造
「すべて」と「存在する」を組み合わせる
述語論理の公理系
論理学のやり方
おわりに

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2006/9/1)、出典:出版社HP

総合的研究 論理学で学ぶ数学――思考ツールとしてのロジック

長年の疑問が氷解する

数学的な主張は、数学的記号とそれをつなぐ論理で述べられますが、論理もまた、数学的記号を用いて数学的に語ることができることが明らかになりました。それが記号論理学や数理論理学と呼ばれる学問領域です。本書では、数理論理学の記号と方法を、数学自身の理解の深化を目指して実践的に講じています。

長岡 亮介 (著)
出版社 : 旺文社 (2017/5/30)、出典:出版社HP

序文

数学的な主張は、数学的記号とそれをつなぐ論理で述べられる。「論理的に正しい」ことは、数学の最も重要な徳性と見なされてきた。ところが19世紀に入ると、論理それ自身もまた、数学的記号を用いて数学的に語ることができることが明らかになってきた。それが記号論理学、あるいは、より現代的には数理論理学と呼ばれる学問領域であり、数学基礎論という数学分野とも密接に結びついて現代思想の重要な話題の一つともなっている。

だからといって、本書は、数理論理学それ自身の紹介を目指すものではない。本書の目的は、数理論理学の記号と方法を、数学自身の理解の深化を目指して実践的に講ずることである。扱う素材は、主として、多くの読者に親しみのある高校数学、あるいは大学入試の問題であり、これらを数理論理学の道具を使って理解しなおすことにより、すでに知っていると思っていた世界が違って見えてくる、という経験の一―望むらくは驚愕と感動に満ちた――場を提供しようとするものである。最初は見なれぬ記号や従来からの知識と異なる発想にとまどいを感じるかもしれないが、その困難を克服して本書に述べられる方法と概念を自分のものにしたとき、新しい認識を獲得することの誇らしさと喜びを感じてもらえると思う。

本書は、筆者が若い頃、難関大学を志望する若者(受験生、高校生)を相手に夏季の集中的な講習のために用意した教材とその講習に参加した講習生のノートに由来している。およそ、素人目には入試に直結しそうにない主題のために、貴重な「受験の夏」を競って捧げてくれた往時の若者の目の輝きの記録を通じて、現代の若者が、ご両親の世代の輝きを感じてくだされば、望外の幸せである。もちろんいまはすっかり壮年になった昔の青年が、知らない人からは「灰色の青春」と一括りにされる受験生時代の輝きを思い起こしてくれたなら、それもまた嬉しい。

本書の少し奇異な構成は、この気持から、当時のものを踏襲している。ただし、当時の講習では「主題」の、いわば通奏低音ともいうべき論理そのものについての記述は、本書のそれよりずっと軽量でその後に続く具体的問題の中で適宜参照する、という形で講義された、初読の際は、この点を考慮して「主題」の提示部で聞くことのないように注意して欲しい。

最後に、論理学の記号と用語は、数学を理解するために便利で強力な道具であるが、また道具に過ぎないことも忘れないで欲しい。本書で、しばしば「日常語による解答」を対照的に解説しているのは、道具は使いこなすことこそ大切で、道具に振り回されてはならない、鋭利な刃ものは、正しく使わないと危険極まりない、という教訓のためである。

長岡 亮介 (著)
出版社 : 旺文社 (2017/5/30)、出典:出版社HP

目次

記号論理の主題による数学的変奏曲
第1章 前奏曲(Prélude)
1.1兄と弟の対話
1.2弟とその女友達との対話

第2章 主題(Thème)
■理論編
2.1数学と論理
2.2命題と条件
2.3論理演算子(logical operator)
2.4組み合わされた論理演算子
2.5条件と論理演算子
2.6条件の真理集合
2.7論理演算子と真理集合
2.8最化記号(∀と∃)
2.9量化文の成立条件
2.10量化文の内部構造
2.11量化文の否定
2.12量化文の成立と条件の真理集合
2.13量化記号の分配則
2.14量化文の中に残っている自由変項
2.15量化記号の順序
2.16数学と論理学
2.17集合を介した数学と論理の関係
■演習編

第3章 変奏(Variations)
■理論編
3.1写像の値域
3.2関数の値域
3.3点の軌跡
3.4変換の像
3.5対応の値域、曲線の通過する範囲
■演習編

第4章 練習(Etudes)
あとがき
さくいん
編集協力:会田英一崎山理史、高橋康夫、小林健二

記号一覧
本書で用いられる集合の記号
検定教科書には現れないが、以下は万国共通の記号(いわば固有名詞のようなもの)である。

Rの部分集合で区間(interval)と呼ばれるものの記号がある。以下a、bはa<bの実数とする。

 

長岡 亮介 (著)
出版社 : 旺文社 (2017/5/30)、出典:出版社HP

論理学 考える技術の初歩 (講談社学術文庫)

西洋が生んだ知の技法

本書では、分析こそが私たちが生まれついての本性から学んだ方法であることを見ていき、この方法を用いることで、観念と心の諸機能についてそれらの起源と発生を説明します。また、分析の手段と効果について考察し、推論の技術はどのようなものに還元されるかを示していきます。

エティエンヌ.ボノ.ド・コンディヤック (著), 山口 裕之 (翻訳)
出版社 : 講談社 (2016/7/12)、出典:出版社HP

目次

この本の目的
第一部 自然はいかにして我々に分析を教えるか。また、この分析という方法に即して観念と心の諸機能の起源と発生を説明すると、どのようになるか

第一章 自然はいかにして考える技術の最初のレッスンを我々に与えるか
感覚する機能が心の諸機能の中の最初のものである/我々は感官を制御するすべを知るとき、感覚する機能を制御するすべを知る/我々が身体器官を制御できるのは、それを何度かうまく使ったあとで、どうやったらうまく使えたのかに気づくときである/我々を最初に教えるのは自然、すなわち欲求によって規定された諸機能である/幼児はいかにしてさまざまな知識を獲得するか/自然はいかにして幼児に判断の誤りを警告するか/なぜ自然は警告するのをやめるのか/知識を獲得するための唯一の手段

第二章 知識を獲得する唯一の方法は分析である。いかにして我々は分析という方法を自然そのものから学ぶか
一目見ただけでは、我々は自分が見ているものの観念を得られない/観念を形成するためには、一つ一つ順番に観察しなくてはならない/対象をあるがままに理解するには、対象を順番に観察する継時的な秩序によって、対象間に同時的に存在している秩序を再構成しなくてはならない/こうした手段によって精神はおびただしい数の観念を全体的に把握できる/このようにして観察することで、人はものごとを分解して再構成するのだから、人は厳密で判明な観念を形成することになる/こうした分解と再構成こそ、人が「分析」と名づけるものである/思考の分析は感覚的な対象の分析と同じやり方でなされる

第三章 分析は精神を正確なものにする
感覚的な対象を表象するものと考えられた感覚印象こそ、人が本来の意味で「観念」と呼ぶものである/厳密な観念、つまり正しい知識を与えてくれるのは分析だけである/この方法は誰もが知っている/正確な精神は分析によって作られた/悪い方法は精神を誤らせる

第四章 いかにして自然は我々に感覚的対象を観察させ、さまざまな種類の観念を獲得させるか
人は、知っていることから知らないことへ進むことによってのみ学ぶことができる/誰であれ、知識を獲得したことのある人は、さらなる知識を獲得できる/観念は次から次へ連続的に生まれていく/我々が最初に獲得する観念は、個別的観念である/人は観念を分類することで類や種を形成する/個別的観念はいきなり一般観念になる/一般観念はさまざまな種に下位区分される/我々の観念は、我々の欲求の体系と一致した体系を形作る/体系はいかなる技巧によって形作られるか/体系はものごとの本性に即して作られるのではない/観念はどこまで区分し、下位区分すべきか/なぜ種は必ず混乱に陥るのか/種が混乱してもとくに不便がない理由/我々は物体の本質を知らない/我々は、観察して確信したことについてのみ、厳密な観念を持つ/観念は厳密であっても、完全なものにはならない/我々が行うすべての研究は同じ方法でなされる。その方法とは分析である

第五章 感官で捉えられないものごとについての観念
結果は原因の観念を与えないにもかかわらず、どうして我々は原因の実在を判断するのか/現代の哲学者たちは、感官で捉えられない原因が実在することをいかにして我々に判断させるか。また、それについての観念をいかにして我々に与えるか

第六章 同じ主題のつづき
行動と習慣/人は、身体の行動をもとに心の作用を判断する/徳と悪徳の観念/行動の道徳性の観念

第七章 心の諸機能の分析
我々に自分の精神について教えてくれるのは分析である/感覚する機能の中に、心の機能がすべて見出される/注意/比較/判断/反省/想像力/推論/知性

第八章 同じ主題のつづき
欲求/不満/不安/欲望/情念/期待/意志/意志という言葉の別の意味/思考第九章感覚能力と記憶力の原因について誤った仮説/動物の内部には、植物的生命の原理としての運動がある/この運動が取りうる規定が感覚能力の原因である/これらの規定は感覚器官から脳へ伝わっていく、我々が感覚するのは、感覚器官がものに触れるか、ものによって触れられたときだけである/我々は、いかにして物体の接触が感覚印象を生じさせるのかを知らない/我々に新たな感覚器官が与えられていたなら、新たな感覚印象が生じていただろう、我々が現に持っている感官は我々にとって十分なものである/動物はいかにして意志に従って動くことを学ぶか/動物の身体はいかにしてある運動の習慣を獲得するか/脳も同様の習慣を身につける。そうした習慣が、記憶力の物理的ないし機会的原因であろ/我々がある観念について考えていないときには、その観念はどこにも存在しない/観念はいかにして再生されるか/記憶力に関わるすべての現象は脳の習慣によって説明される/記憶力の座は脳だけでなく、観念を伝達するすべての器官にある/夢についての説明/記憶力が失われるのは、脳が習慣
を失うからである/結論

第二部 分析の手段と効果についての考察、すなわち、よくできた言語に還元された推論の技術

第一章 我々が自然から学んだ知識はいかにしてすべてが完全に結びついた体系をなすか。自然の教えを忘れたとき、我々はいかにして道に迷うか
自然は、我々の心身の諸機能の使い方を制御することで、いかにして我々に推論することを学ばせるか、我々はいかにして自然の教えを忘れ、悪しき習慣に従って推論するようになるか/悪しき習慣のせいで我々が犯す過ち/考える機能に秩序をもたらす唯一の手段

第二章 いかにして行動の言語が思考を分析するか
我々は言語という手段によってのみ分析することができる/行動の言語の諸要素は生得的である/なぜ行動の言語において当初はすべてが混乱しているのか/それから行動の言語はいかにして分析的方法になるか

第三章 いかにして言語は分析的方法になるか。この方法の不完全性
諸言語はいずれも分析的方法である/言語は、他の人間の発明品と同様に、人がそれをなそうという意図を持つ前に始められた/言語はいかにして厳密な方法になったか/言語はいかにして欠陥のある方法になったか/人々が、諸言語はいずれも分析的方法であることに気づいてさえいたら、推論の技術の諸規則を見出すのは困難でなかったはずである

第四章 言語の影響について
言語が我々の知識や主義主張、先入観を作る/学問上の言語が、もっともよくできた言語というわけではない/最初の通俗言語が最も推論に適した言語であった/言語に無秩序を持ち込んだ張本人は、哲学者である

第五章 抽象的で一般的な観念についての考察。推論の技術はいかにしてよくできた言語に還元されるか
抽象的で一般的な観念とは名称にすぎない/結果として、推論の技術はよくできた言語に還元される/この真理をよく知っておけば、多くの誤りを犯さずにすむ/言語を作り、技術と学問を創造するのは分析である/分析に従って真理を探求すべきであって、想像力に従ってはならない

第六章 言語の乱用を改善する唯一の手段は定義だと考える人がどれほど間違っているか
定義にできるのは、ものごとを提示することだけである。それゆえ、定義を原理として与えられたときには、その意味を知ることができない/定義できるのは稀な場合である/すべてを定義しようとする偏執狂の無駄な努力/観念を規定するのは分析だから、定義は無用である/総合という蒙昧な方法

第七章 言語が単純であれば、推論はどれほど単純になるか分析より総合を好む人の誤り/諸学問は、極めて単純な言語を話すなら、厳密なものになる/そのことを証明する問題/代数学の記号を用いたこの問題の解法/推論の明証性は、ある判断から他の判断へ移行するときに示される同一性にのみ存する/あまり厳密でない学問とは、それを語る言語のできが悪い学問である/代数学
は、本来の意味での言語である

第八章 推論の技巧は何に存するか
問題を解くときにやるべきことは二つある。一つは前提を明示すること、つまり問題の状態の提示であり、もう一つは知らないこと[未知数」を取り出すこと、つまり推論である/問題の状態の提示という言葉によって理解すべきこと/推論の技巧はすべての学問分野において同じである。そのことを証明する例

第九章 確かさのさまざまな段階。明証性、推測、類推について
論理的明証性が欠ける場合、我々は事実の明証性と感覚意識の明証性を持つ/論理的明証性によって物体の実在が証明される/現象・観察・実験という言葉の意味/推測の用法/類推の確かさには、さまざまな段階がある/この『論理学」を学ぼうとする若者への助言

付論 ペリグーの教授ポテ氏から説明を求められた学説について
解説

エティエンヌ.ボノ.ド・コンディヤック (著), 山口 裕之 (翻訳)
出版社 : 講談社 (2016/7/12)、出典:出版社HP

この本の目的

人間にとって、自分の腕の弱さを補うために、自然が与えてくれた手段を使うのは自然なことであった。人間は、あえて技術者になろうとする前にすでに技術者だったのである。同様に、人間は論理学者になろうとする前にすでに論理学者であった。つまり人間は、いかにして考えるかを探求する前にきちんと考えていたのである。人々が「思考はいくつかの法則に従っているのではないか」と思い至るまで、何世紀もの時間が流れる必要があった。今日でも大多数の人が、そんなことにはまったく思い至らないまま、それでもきちんと考えている。

他方、最上の精神を持つ人たちは、知らず知らずのうちに、いわゆる「才能」という恵まれた素質によって、つまり、正確なものの見方や鋭敏な感じ方によって導かれてきた。そうした人たちの著作が他の人々の手本となった。彼ら自身は自分が楽しいものや光るものを生み出したときにどのような技巧を用いたのかを自覚していなかったが、人々は彼らの著作の中にそうした技巧を探したのである。彼らの著作が驚くべきものであればあるほど、人々は、彼らが尋常ならざる手段を持っているのだと考えた。そして、実は単純な手段を探すべきだったのに、尋常ならざる手段を探してしまったのである。そうして人々は早計にも、天才の謎を解いたと信じてしまった。しかし、天才の謎は容易には解けない。天才自身でさえ自分の秘密を明らかにする能力を持っているとは限らないのだから、その秘密はいっそう厳重に守られているのだ。

つまり人々は、考える技術の法則を、それが存在しない場所で探してしまったのである。そして、もし我々が一からこの研究を始めなければならなかったとしたら、おそらく我々自身も同じく間違った場所を探してしまっていたことだろう。しかし、これまでに人々が、それが存在しない場所を探しておいてくれたおかげで、我々にはそれが存在する場所が示されたのだ。もし我々がこれまでの人々よりもきちんとその場所を観察することができさえすれば、我々は考える技術の法則を発見したと誇ることができるだろう。

さて、大きな物体を動かす技術に関する法則は、身体の諸機能と梃子のうちにあり、我々は自分の腕で梃子を利用することを学んできた。それと同様に、考える技術に関する法則は、心の諸機能と梃子のうちにあり、我々の精神は梃子の使い方を学んできた。
それゆえ、心の諸機能と精神の梃子を観察しなくてはならない。自分の身体の諸機能を初めて使おうとするときに、まず定義や公理や原理を立てようなどと思う人はいないだろう。実際、そんなことはできない。人は、とりあえず自分の腕を使ってみることから始めざるをえない。腕を使うことは人間にとって自然なことである。同様に、役に立ちそうなものは何でも利用することも人間にとって自然であり、人はすぐに棒を梃子として使うようになる。ものを利用する経験が積み重なると、大きな力になる。経験の中で人は、自分がなぜ失敗したのか、どうすればもっとうまくできるのかに気づき、身体の諸機能は徐々に改善されていく。こうして人は自分で学ぶのである。

我々が最初に精神の諸機能を使用するとき、自然はこのようにして我々に始めさせるのである。最初に身体の諸機能を制御していたのは自然だけであった。同様に、最初は自然だけが精神の諸機能を制御する。そのあとで我々は自分で自分を導けるようになるが、それは自然が始めさせてくれたことを継続する場合だけである。我々が進歩できるのは、自然が与えてくれた最初のレッスンのおかげである。そこで我々は、この『論理学』を定義や公理や原理から始めることはしない。自然が我々に与えてくれたレッスンを観察することから始めよう。

第一部では、分析こそが我々が自然から学んだ方法であることを見ていく。それから、この方法を用いることで、観念と心の諸機能について、それらの起源と発生を説明する。第二部では、分析の手段と効果について考察し、推論の技術は「よくできた言語」に還元されることを示す。

この『論理学』は、これまで書かれた「論理学」と称する書物とはまったく似ていない。しかし、単に論理学を新奇なやり方で扱っていることだけが本書の特長だ、などということがあってはならない。特長と言うからには、この本で論理学を扱うやり方が、単に新しいだけでなく、もっとも単純で簡単で光に満ちたものであることが必要である。

エティエンヌ.ボノ.ド・コンディヤック (著), 山口 裕之 (翻訳)
出版社 : 講談社 (2016/7/12)、出典:出版社HP

現代論理学入門 (岩波新書 青版 C-14)

論理学の入門書

論理学の本と聞くと、「難しいことが書いてある本だ」「理解できないだろう」と感じる人も多いのではないでしょうか。本書は、そんな論理学について、論理的な思考や考え方がどのようなものか説明することから始め、現代論理学と思想の問題までわかりやすく解説しています。論理学の専門書を読む前に読んでおきたい一冊です。

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP

目次

はじめに
I論理的な思考とは何か
1論理のする仕事は何か
情報の処理―推理の働き

2日常言語の意味するもの
心と肉体と論理―前論理的思惟は存在するか

3記号の働きとはどのようなものか
論理という語の意味―記号と人生記号と知識―言語記号の特性記号とそれを使うもの―記号とそれが指すもの

4記号活動の中に働いている形式
記号と記号との結びつきー語と文のちがいー形式化とは何か

Ⅱ現代論理学の考え方
1論理学は進化する
論理学の前近代的形態―論理学における近代的反動の諸形態―何故に数学と論理学とは結びついたのか―数学的論理学にたいする現代の反動

2文の論理とその構造
論理語の働き―文の計算真理関数、トートロジーー文計算の基本的な諸法則

3述語の論理とその構造
主語と述語―「すべて」と「存在する」―矛盾と反対存在と述語―述語計算の諸法則―関係の論理―拡張された述語論理とパラドックス

4論理学はいかにして公理化されるか
知識と公理化―論理学の公理化―公理体系の諸性質

Ⅲ現代論理学と思想の問題
1世界をどのように見るか
2論理は変化を捕えうるか
3存在と無の問題
4人間、機械、論理
あとがき

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP

はじめに

「論理」という言葉にたいして一般にひとびとはあい反した、極端な反応をもつものである。一方においては、論理にたいする感情的な敵意が知識人とよばれるひとびとのなかにもみられる。「ひからびた論理」、「灰色の論理」、「現実を遊離した単なる論理」などという形容詞的な修飾をはじめとして、「現実は論理によって動いているのではない」とか「この豊かな人生を論理によって把握しようとする馬鹿げた努力」などという主張は、詩的な、あるいは文学的なムードで世界や人生を解釈しようとするひとびとの常套句であり、またある種のひとびとにとっては、論理とか理論とか、または学問一般にたいするサディスティックな快感をくすぐるに十分な警句でもある。彼らにとっては、論理とは単に現実の表面だけを、しかも形式的にとり上げようとするときだけに必要であるかもしれないが、現実の深みをその具体的な内容とともに受け取ろうとするにはまったく無力な形骸にしかすぎない。そして彼らは世界や人生の真理を、論理を越えた或るもののなかに求めようとする。

しかし、他方において論理にたいする、十分な理論的根拠のない、感情的な信頼も存在している。このようなひとびとにとっては、論理的に考え、論理的に行動することは人生の最大の目標の一つであるばかりでなく、このようにすることによって人間の知性はより完全となり、したがってまた現実を支配しているあらゆる誤解や対立や、またこれらから生ずるあらゆる悩みや不幸は解消されていくのだと信じている。彼にとっては、現実のすべての事象は論理的に生起しており、論理の法則によって支配されていると考えられ、したがって、われわれが慎重に、かつ感情を抜きにして論理的にものごとを考察し、行動するならば、人間はいつかはより賢明となり、より幸福になれるのだという一種の理性信仰がこれらのひとびとを支配している。

論理にたいするこのようなあい反した二つの意見は、それぞれ完全に誤りだということはできない。なぜならば、それはともに論理というもののある側面をいい表わしているからである。しかしながら、それはともに完全に真理だということもできない。なぜならば、それらは論理というものの他の側面を無視しているからである。両者に共通な欠陥は、このような極端な対立した意見を主張するひとびとが、いずれも「論理」というものについて的確な意見をもつにたるほど「論理」というものを十分には理解していない、ということである。多くのひとびとは「論理」ということばに伴うところの漠然とした感情的反応を表明しているにすぎないのであって、「論理」ということばが具体的にはどのような知識の在り方を指しているのか、またそのような知識が人間の全体の行動のなかで具体的にどのような働きをしているのか、ということを深く追求しようとしない。

これはちょうど、ひとりの人間をはさんで、ある人は彼を前方から、また他のひとびとは彼を後方だけからちらと見ただけで、その人の印象批評をしているようなものである。一人の人間をほんとうに理解しようとするならば、まず彼の周囲をまわって前後側面のあらゆる方向から観察することが必要であるだけでなく、さらにその人にいろいろな仕事をやらせてみて、その行動の中で評価すべきであろう。不幸にして現在まで論理とか論理学というものは多くのひとびとの環視のなかに立たされる機会をもたなかった。それは「論理学」としては哲学者たちの蔵品の一部として戸棚の片隅に置きざりになって人目にさらされなかったし、また「論理」としては、ある種の社会形態のなかでは一般民衆がもつには「好ましからぬ武器」として意識的に敬遠されてきた。

前者に関しては、論理学というものを多くのひとびとの使用に役立つように発展させることを怠っていた哲学者に責任の大半が帰せられるかもしれない。この点についてはいずれ本文のなかで明らかにされるであろう。後者に関しては社会が責任をおうべきであろうが、しかしこれにはいろいろな社会的な原因が考えられねばならない。論理というものがその価値をみとめられるのは、人間のひとりひとりが「言論の自由」の原則のもとに、対等に自己の意見を発表し、暴力や権力によってではなくて「論理」の規準によって言明の真偽を決定しうるような社会においてであろう。ゴーゴリの「検察官」の中で、主人公が政府の有力な官吏と間違えられて田舎の役人にむかって意見をのべる場面がある。彼の話をきいたあと、ひとりの役人は感心してつぶやく。「あいつは何という大物だろう。一時間もしゃべったのに何をいったのかさっぱりわからない」と。官吏が論理的に問答することを拒否し、人民に語るときには(おそらく意識的に)混乱した論理で相手にたいして煙幕をはり、他の権力の手段によってものごとを運ぼうとするような社会では論理は支配階級だけの有力な武器でしかありえない。論理の価値はむしろ、庶民の雑踏する市場の中で相手かまわず話しかけ、衆人環視のなかで議論をたたかわしたソクラテスの、あの古代ギリシヤの都市国家アテナイのなかで、始めて真の哲学的精神、すなわち愛知のための具体的な手段として生き生きと感じられたのであった。

現在のわが国はかつての一時代前の「こと挙げせぬ」ことを美徳とする社会から脱皮して、まがりなりにも近代民主主義国家の線に沿って歩んでいる。そこでは政治も日常の人間関係も、すべて言論の自由の原則にしたがっておこなわれねばならない。「論理」のための社会的苗床は用意されているのである。また実際に、論理の価値とその重要性も次第にみとめられてきている。しかし、人間が現在もっている論理的な思考の実際のあり方を正しく評価し、有効に使用するためには、論理という語にたいする漠然とした価値感情の表明だけでは不十分である。実際にわれわれが所有しているところの論理的な働きは、現在われわれがもっている「論理学」のなかで具体的に示されているのである。抽象的に論理を語るのではなくて、具体的な論理学の知識にもとづいて論理を語るべきであろう。

この点についてはさいわいにも現代における論理学の発展は、過去において哲学者たちが戸棚のすみに閉じ込めていた論理学を、より多くの他のひとびとの共通財産として提出するにたえるものにしつつある。ある意味で、古典物理学が量子物理学に発展拡大したのにも似た発展と拡大とが、論理学の世界においても今世紀の初頭以来おこっている。しかし物理学の場合とちがって、論理学の領域でのこのような画期的な発展は、ごく一部の哲学者の注目するところにとどまり、一般のひとびとの関心外におかれてきた。物理学上のあらたな発展ははっきりと眼にみえる実用的な結果をひきおこす。しかし論理学上の発展がわれわれの考え方のうえに及ぼす影響は、より緩慢であり、急激な変化などというものは生じない。しかし、ゆるやかではあるが一世代と次の世代との物の考え方が異なっているように、われわれのすべてのものに対する物の見方を変えてゆくものである。

私がこの書のなかで書こうとしていることは、冒頭にのべたような「論理」にたいする極端な評価を、より的確な正しい評価にまで高めていくために、論理学者とよばれているひとびと、あるいは現代の論理学を学んだひとびとが一体、どのようなことをしており、またどのようなことに問題をみいだしているかを多くのひとびとに理解してもらうことである。しかし、そのためには幾多の論理学の教科書に書かれてあるような技術的な操作にかんする知識を解説するだけでは十分でない。むしろ、このような考え方、このような操作がわれわれのもつ知識一般のあり方にどのような影響や効果をあたえているのか、という、いわばより広い人間活動のなかでの論理の位置づけと、それにたいする反省とがより重要だとおもわれる。

もし私のこの意図が幸にして読者に理解されたとすれば、最初にのべた「論理」にたいする対立した二つの評価のなかで提出されている問題は、論理学の具体的な諸問題のなかで(論理学を一括して拒否したり、単に感情的に信頼したりすることによってではなくて)解決されるような問題として改めて見なおされるであろう。単なる感情的評価でなくて実質的な問題解決への努力としてあらわれるであろう。そしてこのような知的努力こそ「論理」の働きがわれわれに与えうる唯一の価値ではないだろうか。「基礎科学教育」ということが近来しばしば問題とされている。しかし、いかに科学研究のための技術的な知識を与えてみても、もしわれわれが論理にたいする正しい評価と、そこから生ずる問題の解決にたいする正しい知的努力とを身につけないならば、いわば根のない樹を植えるようなことに終ってしまいはしないだろうか。そのような樹はみずから成長し発展することができないので、われわれはいつもよそででき上ったものを借りてきて飾りつけなければならなくなる。さらにまた、そのような樹は、それを生みだしていく生命力から切りはなされているが故に、ともすれば人間社会の有機的な均衡をしばしば破壊し、人間を不幸にするような破壊的な道具としてだけ使用されるというような結果を招かないとは限らない。このような意味においても、私は「論理」というものの能力とその限界とにたいする正しい理解は、将来の人間のすべての知識の道具として、「言語」や「数学」と並んで最も基礎的な学問の分科に属すると考える。

もちろん、一冊の数学の本を読んだからといって現実のすべての事象についての数量的把握が身につくとは限らないように、あるいは、一冊の文学書をよんだからといってそれだけで文学的なセンスが生れるとは限らないように、一冊の論理学の本をよんだからといって、それだけでわれわれのなかに論理的能力が生れる、などと考えることは大へんな誤解である。この本が、論理というものにたいする正しい評価をもつための一つの手引きとなり、論理的能力を身につけるための、いわば一つの刺激となって、他の多くのすぐれた論理学の書物への導きとなることができればと念じながら書きはじめていこう。

沢田 允茂 (著)
出版社 : 岩波書店 (1962/5/26)、出典:出版社HP

図解 論理学のことが面白いほどわかる本

実例の載った論理学入門書

論理学を知ることで、理路整然と考えて話すことができるようになります。会話だけでなくわかりやすい文章を書く技術も身に付きます。また仕事や恋愛などの日常生活においての悩みを解決するヒントも得られます。初心者向けの入門書です。

平尾 始 (著)
出版社 : 中経出版 (2003/3/1)、出典:出版社HP

はじめに

みなさんは、この本をどういう目的で手に取られたのでしょうか?
私がこの本を書いた目的は2つあります。1つは「論理学という学問への入門のため」であり、もう1つは「論理的思考法を生活に役立ててほしい」ということです。

第1の目的は、大学で論理学の講義をするなかで生まれました。論理学の入門書はいろいろあるのですが、大学の授業用に書かれたものが大半です。そうした本は、名前こそ「入門」であっても、授業に出なければさっぱり理解できません(授業に出てもわからない!?)。
もちろん、なかには良い本もありますが、私が「これは入門書としていいな」と思う本は、なぜか次々に絶版になってしまい、入手しにくくなっているのです。そこで「こうなったら、自分でだれが読んでもわかりやすい入門書を書こう」と思ったわけです。

第2の目的は、私のもう1つの仕事、「小論文指導」から生まれました。私は予備校やインターネットを通じて小論文の指導をしてきました。そこでわかったのは、高校生から社会人まで、多くの人が「論理的に考えたいが、どうすればいいのかわからない」と悩んでいることです。
論文を書くときは「論理的」に構成しなければいけません。入学試験、公務員試験や就職試験では「論理的」に答えなければなりません。しかし、「論理って何?」と問われると、よくわからない人がほとんどではないでしょうか(学校の先生も含めて)。つまり、みんながよくわからないままに「論理が大切だ」と言い続けてきたのです。何でもそうですが、教わらないのにできるわけがありません。そこで、「論理を使う」という観点で実践的に書かれた本を作ろうと思ったのです。

「論理の実践」というと、難しく聞こえますが、実は、とても日常的なことです。
たとえば、会社の会議や営業の交渉で「いつも言い負かされてしまう」という人はいませんか?または「訪問販売を断れず、不要なものを買わされてしまう」という人はいませんか?要するに、相手の論理を見抜けないために有効な議論・反論ができず、そうなってしまうのです。「論理的な議論の仕方」さえ身につければ、だれでも強く自己を主張することができ、相手を説得することができます。試験では、出題者の要求に的確に答えて合格できます。

論理の役割はそれだけではありません。私たちは生きていくうえで、さまざまな悩みと直面します。それを解決するためには論理が必要です。出口の見えない悩みも「なんだ、こう考えればよかったのか!」と解決できることがよくあります。頭痛薬のように頭がスッキリするのも論理学の効用です。
さらに、脳の機能は使えば使うほど活性化します。脳にとって一番いけないのは「ラクをすること」です。「スナック菓子を食べながら、ボーッとしている」よりも、「パズルが解けなくて熱くなっている」ときのほうが、脳の健康にはいいのです。つまり、論理学こそ、これからの超高齢化社会にピッタリの分野なのです!

そのようなわけで、「勉強」ではなくて「頭の健康診断・頭のシェイプアップ」と考えて取り組んでいただくのが、この本の最善の利用法です。あれこれ考え、どんどん議論して、問題を解決してください。

2003年3月
平尾始

平尾 始 (著)
出版社 : 中経出版 (2003/3/1)、出典:出版社HP

もくじ

はじめに
第1章 論理学の世界にようこそ
1「日本人は論理的でない」はホント?
2そもそも「論理的」ってどういうこと?
3論理的思考力はどうやったら身につく?

第2章 「三段論法」の論理
1どうして「三段」なのか?
2三段論法は正しくないこともある?
3一目でわかるビジュアル三段論法
Exercisesやってみよう!練習問題

第3章 「もしも」の論理
1「条件」を使った三段論法
2間違った条件的三段論法
3「必要条件・十分条件・必要十分条件」はどうちがう?
4「色即是空空即是色」の意味は?
Exercisesやってみよう!練習問題

第4章 「癒し系」の論理
1「ジレンマ」と心理学
2両刀論法を活用しよう
両刀論法①1つの好ましくない結果に結びつく両刀論法
両刀論法②2つの好ましくない結果に結びつく両刀論法
両刀論法③1つの好ましくない原因に結びつく両刀論法
両刀論法④2つの好ましくない原因に結びつく両刀論法
3ジレンマに反論しよう
4「論理」によって明るく考え、明るく生きよう!
Exercisesやってみよう!練習問題

第5章 「コンピューター」の論理
1論理的な文は記号で書ける!
2ことばを記号化する論理記号
3真偽が一目瞭然の真理表
4どうして機械が計算できるのか?
5電子回路のしくみ
6性格テストは信用できるか?
7「AI」の作り方
Exercisesやってみよう!練習問題

第6章 「ミステリー」の論理
1推理小説のからくりを見破る
2記号化で殺人事件の犯人を探せるか?
3証言を記号化してみよう
4真理表を書こう
5コンピューターは名探偵?
Exercisesやってみよう!練習問題

第7章 パラドクスの論理
1「暗号」の論理
2公務員試験問題の解き方
3暗号化から生まれるパラドクス
4すべての数は「文」を表す?
5ゲーデルの「不完全性定理」
Exercisesやってみよう!練習問題
●column◆論理学
名探偵になりそこなった話

第8章 おかしなおかしな論理学
1「いいかげんさ」の論理
2「可能性」の論理
Exercisesやってみよう!練習問題

平尾 始 (著)
出版社 : 中経出版 (2003/3/1)、出典:出版社HP