暗号 情報セキュリティの技術と歴史 (講談社学術文庫)

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暗号の歴史と役割

本書は、暗号の歴史と情報セキュリティにおける暗号について解説している本です。古代ギリシアやローマにまで遡る暗号の歴史は、現代になり、より幅広い分野で利用されるようになりました。本書では、その過程と暗号の発展状況、現代の暗号技術の技術的な解説がまとめられています。

辻井 重男 (著)
出版社 : 講談社 (2012/6/12) 、出典:出版社HP

学術文庫版まえがき

現在、暗号にふたたび光があたっている。その暗号復活の絶好のタイミングで、講談社選書メチエ『暗号——ポストモダンの情報セキュリティ』が、『暗号——情報セキュリティの技術と歴史』と副題を変えて、文庫化されることになったのは、著者として望外の喜びである。
暗号復活と申し上げた意味について少し説明しておきたい。本書にも書いたように、暗号の歴史は古く、ギリシア・ローマ時代あるいはそれ以前に遡るが、その後数千年間、二〇世紀前半の第二次世界大戦まで、暗号が活躍する舞台は主に軍事・外交であった。第一次・第二次世界大戦におけるドイツの敗戦に暗号が深く影を落としているし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェイ海戦における帝国海軍の敗北も、日本軍の驕慢に加えて、暗号が解読されたことも大きな要因であった。

二〇世紀後半、コンピュータと通信の発展による情報化の進展に伴って、本人確認や文書の真正性をディジタルな手段で証明することの必要性が認識されるようになった。一九八〇年代に入ると、科学技術史上、火薬の発明にも匹敵すると言われる公開鍵暗号が利用され始め、「軍事・外交以外の分野でも暗号が役に立つらしい」ということが話題に上るようになった。それと同時に、情報セキュリティの重要性も叫ばれるようになり、その基盤技術としての暗号に対する関心が高まってきた。原本(講談社選書メチエ版)が出版された一九九六年はそのような時期であり、政治家や文系の官僚も含め、広い層の方々に読んで頂いた。

さて暗号に限らず、一般に科学技術の発明と普及のプロセス全般に言えることだが、発明当初は話題になっても、普及し始める頃には珍しくもなくなり人々の関心も薄れてくる。暗号にとっても、この一〇年余りは残念ながらそのような時期であった。
しかし、二〇一〇年前後から、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やスマートフォンが日常生活に溶けこみ、情報環境は大きな変革期に入った。その変革を四つのキーワードで表せば、ソーシャル、モバイル、クラウド、スマートということになるだろう。
なかでも、情報を自ら所有せず、データセンターなどに預けて必要時に利用するクラウド環境の普及によって、暗号の役割が再認識されるようになった。他人に情報を預ける以上、暗号化しておくのが安全であるというわけである。また、暗号研究の分野でも、暗号化したまま、平文に戻さずに加算・乗算や統計処理などを自由に行う方法の研究が活発に行われている。

ところで、ソーシャル、モバイル、クラウド、スマートというキーワードを「皆で仲良く動こう、雲の彼方へスマートに」と意訳すれば、自由で楽しげな感じがするかもしれないが、その裏側では個人情報や企業の機密情報の流出が深刻な社会的懸案となっている。情報漏洩を防ぐ有効な手段は、公開鍵暗号による本人確認と共通鍵暗号による秘匿である。こうした背景の中で、暗号の重要性が再認識されている。
これらが、冒頭に述べた暗号復活ということの意味である。
それにしても、暗号ほど理解され難い技術はない。高度な技術が非専門家に理解されないのはやむを得ないが、暗号理論は理系の人々にも敬遠されがちである。しかし、近代以降の科学技術が、物理学や化学などの高度で複雑な自然科学を基盤にしているのに対して、古くからある暗号は人間が考え出したいわば人工的な技術であり、数学的知識が少々あれば、その理解は可能である。したがって、文系の人々にとっても、興味や必要性があれば、あるレベルまで理解することは難しいことではない。先に述べたように、一九九〇年代には、暗号理解の必要性を感じた政治家や官僚の方々にも本書を読んで頂き、なかには「素数って、不思議ですね」という的を射た感想を頂いたりしたものである。

最近のディジタル技術の急速な普及は、情報の流通と共有を促進し、社会の構造や機能を連続的に繋いでいく。言い換えれば、逆説的な表現になるが、ディジタル技術は社会システムをアナログ(連続)化する。そうしたなかで、個人情報や機密情報の保護と活用の矛盾相克の鋭く際どい対立が至る所に現れる。この矛盾が暗号技術によって解決されるという認識の広まりが、最近、暗号への関心を再び高めている。また昨今、国家間のサイバー戦争が話題に上るが、暗号による情報の秘匿だけでなく、送信者確認がそのセキュリティの基盤となることも広く認識して欲しいものである。

さて今回の文庫化に際して、数値的に古くなった点などを改訂した。例えば、RSA暗号の鍵の長さを512ビットから1024ビット、あるいは2048ビットに改めた。これは、暗号の安全性に関係するので、簡単に説明しておきたい。暗号の安全性は次のような階層に分けて考えると分かり易い。
1. 方式的・理論的安全性
2. コンピュータの進歩による安全性の低下
3. 電磁波漏洩など物理的性質に着目した解読法に対する安全性
4. 鍵の管理などの運用面の不備をついた解読に対する安全性
RSA暗号について言えば、鍵の長さを増大させたのは、理論的な安全性が低下したからではなく、コンピュータの計算速度の急速な向上に対抗するためである。コンピュータの進歩は、鍵長を512ビットに定めた時から当然予想されたことではあるが、当時の半導体技術の状況・コストなどから、1000ビット以上にすることは得策ではなかったのである。二〇一二年現在、RSA暗号の鍵長は通常1024ビットであるが、二〇一五年には、世界最高速のスーパーコンピュータを利用すれば、一年で解読されると予想されるので、それ以降は2048ビットに鍵長を長くすることが推奨されている。

東日本大震災以降、想定外という言葉が流行語になっているが、暗号研究者は、方式的・理論的安全性とコンピュータの進歩による安全性の低下については、極めて厳しい評価を行っている。喩え話になるが、大坂城の落城と言えば、燃え盛る炎の中で、天守閣が崩れ、秀頼と淀君が自害する状況を思い浮かべるが、暗号の専門家は、天守閣の屋根瓦がたった一枚でも破損すれば、それを落城と考えて、安全性対策を練るのである。極度に安全よりに立っているわけだ。したがって、暗号の学会などで、ある暗号が解読されたという報告があった場合、それがそのままメディアに流れたりすると、社会に思わぬ誤解を与えたりすることになりかねない。事実、海外のある裁判で、学会である暗号が解読されたという発表があったということが証拠として認められた事例がある。ここでいう「解読」とは、現実に当時のコンピュータで解読されたわけではなく、将来、解読される可能性が理論的に示されたに過ぎなかったのである。

また、よく世間を騒がす暗号が破られたという事件は、方式的・理論的安全性やコンピュータの進歩による安全性の低下よりも、鍵の管理などの運用面に問題があったという場合が多いのである。
共通鍵暗号DESについては方式的に古くなり、現在はAES(Advanced Encryption Standard)と呼ばれる方式などが広く利用されている。しかし、本書は暗号の専門家向けではないので、共通鍵暗号の仕組みが理解し易いDESの記述はそのままにしておいた。
以上、説明が少し堅くなってしまったが、暗号の歴史も含めて、本書を楽しんで頂ければ幸いである。

二〇一二年三月四日

辻井重男

辻井 重男 (著)
出版社 : 講談社 (2012/6/12) 、出典:出版社HP

目次

学術文庫版まえがき

プロローグ 近代からポストモダンへ:

第一章 文明の誕生 暗号の誕生
1 ギリシア・ローマ時代の暗号
2 孫子の兵法と字変四十八の法
第二章 日米暗号文化の比較
1 第二次世界大戦と暗号技術
2 明るい「暗号」の登場
第三章 情報化と文明構造の変革
1 ディジタル技術とマルチメディア
2 文明構造の変容と情報セキュリティ
第四章 暗号革命と現代社会
1 社会基盤としてのポストモダン暗号
2 現代社会と暗号利用
3 インターネット・電子投票・電子キャッシュ
第五章 ポストモダン暗号と数理の魔術
1 共通鍵暗号
2 整数の世界
3 公開鍵暗号
4 零知識対話証明

エピローグ フェルマーの定理と暗号の未来
ブックガイド

辻井 重男 (著)
出版社 : 講談社 (2012/6/12) 、出典:出版社HP