論理学

【最新 論理学について学ぶためのおすすめ本 – 思考の基本と本質を知る】も確認する

現代論理学の初めの一歩

本書は現代論理学を初めて学ぶ人におすすめの本です。説き明かすことよりも、問いかけることに重点を置き書かれており、問題と議題の数は合わせて100以上になっています。難しい内容ですが、対話形式で話が進んでいく理解しやすい形式で書かれています。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

Logic : AnIntroduction
Shigeki NOYA
University of Tokyo Press, 1994
ISBN 978-4-13-012053-1

はじめに

本書は、文字通り、ずぶの素人のための現代論理学への初めの一歩である。そして、おそらくはこれが終わりの一歩となるだろう読者を想定している。それゆえこれは千里の道への一歩ではない。ただ、この一歩のための一歩である。寝ころがって読めるかどうかは保証のかぎりではないが、歯をくいしばって読むようなものでもない。いわば、現代論理学という不思議の国への、ちょっとハードな観光旅行みたいなものと思っていただいてよい。ただし、自負をこめて言っておきたいのだが、観光のためのガイドブックではない。実地の観光旅行である。

私がガイド役ということになるが、このさいだから白状しておこう、論理学というこの土地に赴いてきたのは、私にとってもそう昔の話ではない。そして私はこの土地の住人でもない。どちらかといえば私は哲学という畑で芋を掘っている人間である。最初むりやりこの土地に来させられたとき、正直言って私には、この寒風吹きすさぶのっぺりとした土地柄がなんとも面白くなかった。だが、知の風景というものはとくにそうだが、こちらの態度ひとつで、眺めが変わっていくものである。私にとっては、さらに奥深く先鋭的な議論へと踏み込むことによってではなく、最初に立ちっくしたその辺りをかき分けてみたりほじくり返してみたりすることによって、なんだかおもちゃ箱の中に入りこんだような興趣が湧いてきた。だから、もう一度言っておきたい、この本は先を急ぐための本ではない、積極的に論理学の素人であろうとする人のための、いわば、ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための、本である。

一ページ目を開く前に、読み進むための注意を少ししておいた方がよいかもしれない。いま述べたように、この本には論理学の技術を学ぶための訓練という意図はほとんどない。それゆえ、随所におり込まれた問題は、それ自身この論理学観光の一部である。ここは「手で読む」と心得て、なるべく解いてから進んでいただきたい。ただし、問題で問いかけておいて、解答でその説明をするという場合もあるので、解答できなかったからといって、気にやんでそこで本を閉じてしまうには及ばない、気楽に巻末の解答を見ていただきたい。また、技術的な問題に関しても、もしかしたらこの手の問題を解くのが好きになった人もいるかもしれないと思い(実際、パズル解き的な楽しさがある)、少し問題を多めにしておいた、関心に応じて取捨選択していただきたい。

さらに、「論題」と称する問題たちがあるこれは来し方をふり返り、行く末を見上げるための、少し漠然とした問いかけである。すべてではないが、若干の問題については、巻末でコメントを付しておいた(コメント付きの論題には“印をつけてある)本来論題にしようと思っていたもので、論題からはずして本文で議論してしまったものもずいぶんある。残されたものは、過重負担にはなるまいと判断したものと、実のところ私にもうまく答えられないものである。後者のタイプの論題については、読者諸氏それぞれの妄想をふくらませていただきたい、ここの妄想によって、あてがいぶちの風景が、各自の風景へとその眺めを変えていくだろう。
私は本書を、明晰で簡潔な説明を積み重ねていく練達の講義のようにではなく、初心者の素朴な疑問と驚きに満ちたものにしたかった。説き明かすことよりも、問いかけること、ここに基本方針を定めたのである、おかげで、問題と論題の数は合わせて100を越えた。だが、問いっぱなしで叙述が進められるものではない。問うたならば、責任をもって答えておかねばならない。読者に問いかけ、読者に答える、それを一冊の本の中でやるのだから、まるでマッチポンプである。そこで、問答形式で一芝居うつことにした、ちょっと気恥かしかったが、対話を導入してみたのである。かくして、二人の禅僧が登場することになる。紹介しておこう。一人は中国、南宋時代の禅僧、無門慧開であり、もう一人はわが国の禅僧、道元である。道元は無門より17歳年下で、対話でも年下の物怖じしない感じで発言している。しかし、借りたのは名前だけで、対話にうかがわれてくる二人の人柄は、実在の彼らとは何の関係もない。この二人の禅僧は、(例文で出てくるのは愛敬として)議論のふんばりどころで登場し、素朴にして過激な質問を発し、ときにとんちんかんなことを言う彼らももちろん、論理学はずぶの素人であり、何を考えたか、私に教えを乞いにきたというわけである。そこで、これはもっと恥ずかしかったが、私の名前を出して、教師づらして彼らに教えを垂れることにした。しかし、ここでも、借りたのは名前だけで、実在の人物とはあまり関係がないことを断わっておく。

論理学の本というのは、わが国にかぎってみても、かなり数多く出版されている。そうした中で、本書がもっている「素人臭さ」はあるいは意義をもちうるかもしれないと私は考えている、もしかしたら、他の論理学の著者たちが、専門家となることによって忘れてしまったかもしれない無邪気で野蛮な問いかけを、無門や道元が臆面もなく発してくれるなら、この本も類書の中に埋没しないですむかもしれない。
野矢:さて、そういうわけです。
道元:私はけっこう理屈っぽいからいいが、無門さんはどうかな。
無門:……いま、本をパラパラと見たのじゃが、ずいぶんと数学のような記号
が出ておるな、わしはどうもこういうのは苦手なんじゃ、
野矢:え?何を見たですって?無門いや、だから、この本をな、野矢この本を見たんですか?
無門:うん、パラパラと……道元おいおい、わしらは他ならぬその本の登場人物だぞ。
野矢:ええすると、無門老師は「いま、本をパラパラと見たのじゃが……」というご自分の発言もそのとき読まれたんですか?
無門:いや、その……
道元:やれやれ、

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

目次

はじめに
序論 論理と言語
第1章 命題論理
第1節 命題論理の意味論
1-1-1真理関数
1-1-2基本的な真理関数
1-1-3日常言語と真理関数
1-1-4論理式
1-1-5トートロジー
1-1-6真理値分析と推論
付論1 命題論理は棒一本だけで表わせること
付論2 命題論理がすべての真理関数を扱えること
付論3 命題論理とコンピュータ
第2節 命題論理の構文論
1-2-1公理的方法
1-2-2命題論理の公理系LP
1-2-3命題論理の完全な公理系の例
第1章の復習問題

第2章 述語論理
第1節 述語論理前史―アリストテレスからフレーザへー
2-1-1伝統的論理学
2-1-2伝統的論理学の限界
第2節 述語論理の基本概念
2-2-1命題関数
2-2-2量化
第3節 述語論理の意味論
第4節 述語論理の構文論
2-4-1述語論理の導出規則
2-4-2述語論理の公理系L
第2章の復習問題

第3章 パラドクス形式主義・メタ論理
第1節 パラドクス前史
3-1-1命題関数と集合の同等性
3-1-2集合の集合という考え方
第2節 ラッセルのパラドクス
第3節 形式主義
3-3-1直観主義
3-3-2形式主義とメタ数学
第4節 メタ論理―述語論理の公理系Lの無矛盾性
3-4-1命題論理の公理系LPの無矛盾性
3-4-2述語論理の公理系Lの無矛盾性
3-4-3メタ論理について
付論 論理主義
第3章の復習問題

第4章 直観主義論理
第1節 排中律の拒否
4-1-1古典論理における排中律と真理概念
4-1-2直観主義論理と証明概念
4-1-3二重否定除去則の拒否
第2節 直観主義命題論理の公理系LIP
第3節 直観主義命題論理の意味論
第4節 直観主義命題論理の妥当式
4-4-1認識史モデル
4-4-2妥当式
4-4-3認識史分析
第4章の復習問題

第5章 不完全性定理
第1節 不完全性定理とその証明の輪郭
第2節 『プリンキピア・マテマティカ』やその関連体系での形式的に決定不可能な命題について
第3節不完全性定理の証明
5-3-1自然数論の公理系N
5-3-2ゲーデル数化
5-3-3「私は証明できない」を意味する式の構成
5-3-4第一不完全性定理
5-3-5第二不完全性定理
第4節 公理系の内と外—再び論理について
付論1 補助定理1に対する漠然とした説明
付論2 補助定理2(対角化定理)の証明
第5章の復習問題
終わりに
付録 命題論理の公理系LPの定理の証明215
問題解答
論題コメント
参考文献
主な記号
後記
索引
付録―命題論理と述語論理の公理系と派生規則―

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP

序論 論理と言語

「論理的に正しい」とはどういうことなのだろうか、そしてそれは何と対比された概念なのだろうか、論理学の扉を開ける前に、われわれの目の前に開かれている「論理」について考えてみよう。

ある小学生との対話――論理とは何か

論題1 家庭教師で小学生を教えているとしよう。あるとき、あなたが子供に「三角形の内角の和は何度だっけ」と質問すると、その子はさっそくノートに一つの三角形を描き、分度器で測り始めた(ほうっておけば、まじめな子だから手当たり次第に三角形を10個ばかり描いて、いちいち分度器で測定してみるかもしれない。)そしてその子は答える、「この三角形は179度だね」。
―さて、あなたはその子に何と言うか。

「いや、そうじゃなくて、三角形の内角の和は180度でしょう」とあなたが言うと、「ふつうはそうなの?」とその子が無邪気に問い返す「ふつうって…」あなたが口ごもっていると、その子はさらにこう言うのだ、「じゃあ、この三角形は珍しい三角形だね」どこかおかしい。だが、どこがおかしいのだろうか。
ふつうクローバの葉は三枚だが、中には四つ葉のクローバがある。同様に、ふつう三角形の内角の和は180度だが、中にはそうならない珍しい三角形もあるその子はそう考えているようだ。内角の和が179度になっている珍品の三角形、そんなのあるものか、とあなたは思う。

証明
そんな珍品の三角形がありえないこと、それを証明することができる、と考えるかもしれない。よろしい、一

論題2 先の小学生に対して、あなたは三角形の内角の和が180度であることの証明を与えたとする。するとその子供はこう言うのである。「ふうん、その三角形は180度なんだじゃあ、この三角形はどうなんだろう」でしょうがない、その三角形でも証明してやる。するとその子は「じゃあ、これは?」と別の三角形を描く。以下同様、その子はその証明があくまでもそこで証明されたその三角形だけについての証明だと考え、三角形一般についての証明だとは考えていない。―あなたはその子に何と言えばよいだろう。

単に証明してみせるだけではだめかもしれないのだここには大きな問題がある。証明とは何をしてみせることなのだろう。

輪題3 実験・観察と証明の違いについて考察せよ、

クローバの葉の枚数について観察する。その結果「クローバの葉は三枚だ」と結論する。しかし、四つ葉のクローズのような、さらには五つ葉のクローバのような珍品のクローバがあるかもしれない、あるいはまた水の沸点について実験する。その結果「水は一気圧で100度で沸騰する」と結論する。だが、重水のような、沸点が100度でないような水が発見されるかもしれない。他方、証明された結果はそうではない。たとえ、この三角形でしか証明されていなくとも、証明されたのならば、それは実験や観察と違って、もはや反例を許さないように思われる。だが、なぜだろう、証明と実験や観察とはどこが違うのだろうか。

思考可能性

そこであなたは、「思考可能性」に訴えようと考えるかもしれない、つまり、こうだ。もしかしたら、沸点が100度ではない水があるかもしれない、少なくとも、そういう新種の水を考えることはできる、あるいはまた、やたら葉っぱのたくさんあるクローバを想像してみることもできる。だが、内角の和が185度であるような新種の三角形を考えることはできるだろうか。
いま、ユークリッド幾何の話をしているのであるから、あくまでもユークリッド幾何の中で話を進めよう、いったい、ユークリッド幾何学を研究していると、いつか内角の和が185度である三角形が発見されうるだろうか、言うまでもなく、そんな三角形の新発見などありえない。そんな三角形は「丸い四角」が考えられないように、端的に考えられないのではあるまいか。
だが、「思考不可能性」ということもまた、説明されねばならない概念でしかない、というのも、―

論題4 上のように思考不可能性を主張したら、さっきの小学生がまたもやこう尋ねてきた、「内角の和が185度の三角形を考えることは、どうしてできないの?ぼくが馬鹿だから?」―何と答えよう。

内角の和が185度の三角形など、どんなに頭がいい人だって考えられはしない。でも、どうして?この思考不可能性は明らかに思考能力の問題ではない。それは、心理学的観点から言われる思考不可能性ではなく、言ってみれば「論理的」観点から言われる思考不可能性なのである。だが、この「論理的」観点が何であるかこそが、いま問題になっていることにほかならない。

必然性

なんだかだんだん投げやりな気分になってきて、そうだ、最初からこう言えばよかったんだと思い、こう答えるかもしれない。「水が100度で沸騰するのは偶然的だが、三角形の内角の和が180度なのは必然的なのだ」。これはほとんど、難しい言葉を使って子供を黙らせようとしたとしか思えない、子供は当然、もっとやさしく説明してよ、と言ってくるだろう。
では、こんな例はどうだろう、太陽系の惑星の数は9だが、これはたまたま9個なのであって、もしかしたら10個だったかもしれない。だが、18と45の最大公約数が9であるのは、たまたまではない。それは必ず、9であって9でなければならないのだ。
しかし、その子供はまったくひるまない。
「じゃあ、どんな三角形を描いてもその内角の和は必ず180度になっているってわけ?」
「そうだよ」
「三角形って全部でいくつあるの?」
「限りなく、無限にあるよ」
「それ全部描いてみたの?」
「そんなことできっこないよ」
「じゃあ、どうしてぜんぶ必ずそうだって分かるのさ」
「だから証明してみせたじゃないか」
「でもこの三角形でしか証明してくれてないよ」
一張り倒したくなる。そしておそらくは張り倒すしかもう手は残されていないような気もしてくる。

理性?

最悪の答はこうだ、水が100度で沸騰することは経験が教えるが、三角形の内角の和が180度であることは理性が教える。これに対しては、小学生とともに、「理性?そりゃ何のことだ」と問い返すしかない。私はこの答を無視したいと思う。

論理という領域

問題になるのは数学だけではない。例えば、さっきの子供と次のような雑談が交わされたとしよう、あなたが、「田中さんは独身なんだって」と言うと、子供が「じゃあ、奥さんはどこに住んでるの?」と尋ねるのである。張り倒したくなる気持ちを抑えて、あなたはこう答える、「いや、独身だからね、奥さんはいないんだよ」すると子供はこう尋ねる「どうして独身だと奥さんがいないの?みんなそうなの?」

いったい、「すべての独身男には妻はいない」という文を検証するような実験ないし観察など、ありうるだろうか、街に出て行き、通りすがりの人に尋ねてみよう、「あなたは独身男ですか、それであなたには妻はいますか?」そして結論する、「ふつう独身男には妻はいない」だが、なかには妻のいる変な独身男もいるかもしれない、もう少し調べてみよう、やっぱり、おかしい。すごく、変だ。
では、「すべての独身男には妻はいない」という文が正しいものであることを確かめるにはどうすればよいのか、理性の祠祭?いや、そうではない。冷静に考えよう。実際われわれはどうするだろうか。そう、辞書を引くのである。ためしに、手元にある『岩波国語辞典』を引いてみよう。「独身」は「配偶者がないこと」と書いてある。そして、「妻」とは「配偶者である女」という意味だと書いてある。すると、ことさらに書き出すならば、こうなる。
すべての独身男には配偶者がいない……①
すべての男に対して、その男の妻はその配偶者である……②
それゆえ、すべての独身男には妻はいない……③
大仰な言い方をすれば、これは「証明」ではないだろうか。
(横道にそれるコメントだが、例の小学生が「配偶者」の意味が分からないと文句を言っても、それはこの「証明」には関係ないと突っぱることができる。たとえ、「配偶者」の意味を「子供」だと誤解していたとしても、証明は成り立っている。これはちょっと面白い。)
さて、「三角形の内角の和は180度である」に関しても同様に考えられないだろうか。残念ながら手元に辞書はない。しかし、国語辞典と同じように「ユークリッド幾何学辞典』を考えてみよう。そこには「三角形」という言葉の意味や「内角」という言葉の意味、あるいは「和」や「180度」の意味が書かれてある。直接書かれていなくとも、書かれてあることから推論できる。そうしてそれをもとに「証明」するのである。ここに、「証明」とはそうした言葉の意味の含みをさらに引き出していくことにほかならない。
他方、「クローバの葉は三枚である」というのは「クローバ」という語の意味の説明ではない。もしこれが「クローバ」の意味であるとしたら、「四つ葉のクローバ」というのは矛盾になってしまうだろう。(またまた横道にそれるが、『岩波国語辞典』で「クローバ」を引いてみたら、「まめ科の多年生植物、三枚の小葉が一つの柄につき、夏、白い花が球状に集まり咲く」と出ていた。ということは、「四つ葉のクローバ」はクローバではないと言いたいのか。困ったことだ。)
ともあれ、かたや言葉の意味を述べた辞書のみに基づいて正誤を判断できるものと、かたや観察や実験による事実調査によって真偽を判断するものがありそうである。そして、この違いが、いまわれわれの求めていた違いを明らかにしてくれるのではないだろうか。

論理と言語

もちろん、他の考え方の可能性がないというわけではない。しかし、ここではいま示唆された方向を追ってみることにしたい。次は、その方向をめざした一つの立場表明である。

論題5 次のような見解について、先の子供であればどのように応じるだろうか、さまざまな角度から検討してみよ。
例えば、「彼は独身だが結婚している」と言う人は、「独身」ないし「結婚している」という言葉をまちがって使っている。そして言葉遣いがまちがっているという理由で、この主張は偽であるとされる。逆に、「三角形の内角の和は180度である」という文では、「三角形」「内角」「和」「180度」といった言葉が正しく使われており、しかもその理由のみから、真であるとされる。
このように、論理的な命題とは、言葉遣いの正誤というチェックだけから、その主張の真偽が決定しうるようなものにほかならない。

道元:すると、日本語は正しく使っているのに話す内容がてんで非論理的な坊主などはいない、というわけか。
無門:なんでわしの方を見るんじゃ。
野矢:いないということになりますね。
道元:しかし、それは少しおかしいな、一つ一つの発言はまったくまともで意味もよく分かるのに、全体として辻褄が合わなくなるようなことは珍しいことでもないように思うんだが。
野矢:ええ、だけどそういう場合でも、まず第一に、発言の全体を考えたときには全体として意味不明になりますよね。そして、それはつまりどこかに言葉の使用法を逸脱したところがあった、ということではないですか、そして、めだたない誤りを無自覚の内に犯すということであれば、確かに珍しいことではありません。
道元:じゃあ、比喩とか、詩の言葉なんかはどうなんだ、なかには、正しいが非論理的な日本語というのもあるんじゃないか。
野矢:積極的に逸脱した表現を用いることはあります。それによって言語表現そのものの力を増そうというわけです。でも、それが現在の基準では正しくない言語表現であることは動かないんじゃないですか、詩的表現などは、逸脱した使用法が公認される場面なのだと思いますけど。
道元:ああ言えばこう言うだな、しかし、どうも変だ……
無門:あのな、よく分からなくなったんじゃが、どういう言葉遣いが正しくて、どういうのが誤りなんじゃ。
野矢:それは、…
道元:うん?それはいいポイントかもしれんぞ。
野矢:なるほど、そうか…
道元:いいから答えてごらん、どういう言葉遣いがまちがいなんだって?
野矢:しょうがないな、なによりもまず、論理に違反した発言ですよ。
道元:うん。で?どういう発言が論理に違反しているんだって?
野矢:嬉しそうに、言葉遣いが誤っている発言ですよ。
無門:どうも堂々巡りするようじゃなあ。
道元:やっぱり、論理はたんなる言葉遣いの問題じゃあないのさ。
無門:そうもならんじゃろう。
野矢:ええ、一挙にそうなるわけでもないですね冷静に考えましょう。「論理的」ということを「言葉遣いの正しさ」ということで説明しようとした。ところが、「言葉遣いの正しさ」は再び「論理的」ということで、少なくとも部分的に、説明される。ここには明らかに循環がある。このことはつまり、「論理的」ということと「言葉遣いの正しさ」とが不可分のものだということを示しています。
道元:言葉遣いの正しさは「論理的」という以外に、もっと多面的に評価されるんじゃないかね。
野矢:そうでしょうねだから、「論理的に正しい」ということは言葉遣いの「正しさの一つの側面だということになるでしょう。
道元:一つの側面って、どういう側面なんだ?野矢だから、つまり、論理的な側面ですよ。無門:実に堂に入った堂々巡りじゃなあ。
道元:つまり、言葉遣いの正しさということを持ち出してきても、論理を説明したことにはならんわけだな。
無門:まあ、「論理」を別の言葉で説明しようったって、無理じゃろう。「論理」は「論理」。何で説明してもおそらくは堂々巡りさ。
野矢:そうなんでしょうね、でも、いまの話で、論理と言語の結びつきだけは確認できたのではないでしょうか。論理的な正しさを確かめるには、経験に訴えるのでも理性に訴えるのでもなく、むしろ辞書に訴えるべきだ、ということです。
道元:辞書ねえ……何か論理が矮小化されたようで。
無門:そうでもないさわしはいままで、論理いうたら頭のいいやつのもんだと思っておった。しかし、いまの話で、論理はいやしくも言葉を使うすべての者のものだ、ということが分かった気がするな。
道元:なるほど、頭を使うときに論理があるというよりも、言葉を使うときに論理がある、というわけか、そして、言葉は目覚めてから眠るまで使っているからな。
無門:夢の中でもおんなじじゃよ。野矢それ、問題にしましょうか。

論題6 次のような意見に対するあなた自身の考えを述べよ。
夢は非論理的だと言う人がいるが、それはまちがっている。われわれは結婚している独身者や、丸い四角の夢を見ることはできない。夢もまた、徹頭徹尾、論理的であるしかない。

道元:しかし、「論理」といったら、やはり、たんに言葉を使っているとき一般の問題であるよりも、頭を使っているときの問題だという感じが抜けないのだがね。
野矢:ええ、広い意味では言語使用一般の問題だと思うんですが、狭い意味では、とくに推論に関わる言語使用について「論理」という言葉を使うんじゃないでしょうか。実際、これから見ていくことになる「論理学」というジャンルがまさにそうなんです。それは広い意味ではわれわれの言語使用一般を相手にするとも言えますが、狭い意味ではわれわれの推論実践を問題にする学問領域だと言えます。
無門:推論か、やっぱり苦手そうじゃな。
野矢:でも、例えば「外を女優が歩いてる」と言ったとしますね。
無門:うん。
野矢:そうすると、歩いていくのは女の人だと思うでしょう。無門もちろんじゃ。
野矢:それこそ、推論ですよ、「女優が歩いている」という前提から「女の人が歩いている」を導いた、「演繹的推論」というやつです。
道元:「黒犬」と言えば「動物」と思い、また「白くない」と思う、これも演繹的推論だな。無門:なるほど、言葉が意味の含みを伴って使われる以上、推論もまた、目覚めてから眠るまで、いや夢の中であっても、四六時中そこにある、というわけじゃ。
野矢:そういうことです。

推論の正しさ

序論を終える前に、推論の正誤ということについて一つ注意しておきたい。推論は、前提と結論の関係だけに注目して正しいとか誤っていると言われる。そこでは、前提や結論が誤っているからといってただちにその推論が誤りとされてしまうわけではない。次の問題で具体的に考えてみていただきたい。

問題1次の推論の正誤を言え。
(1)女性には出産能力がない
道元は女性である
それゆえ、道元には出産能力がない

(2)魚は水中を泳ぐ
イワシは水中を泳ぐ
それゆえ、イワシは魚である

無門:誤った前提から正しく推論して、正しい結論に到達してしまうこともあるんじゃなあ。野矢:ええ、「もしこれらの前提を認めるならば、この結論も認めねばならない」というのが、推論の強制力ですから、実際に前提が正しいかどうかは、差し当り関心がないんですね。道元:まあ、前提の誤りを示すために推論を使う場合もあるからな。
野矢:そうですね。

野矢 茂樹 (著)
出版社 : 東京大学出版会 (1994/2/18)、出典:出版社HP