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聖書について知識を深めよう

実際に聖書を読んでも中身が分からない、聖書をこれから読む前に知っておきたいことをまとめてある書籍を紹介します。キリスト教を知るおすすめと合わせてぜひ参考にしてください。

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出典:出版社HP

面白いほどよくわかる聖書のすべて―天地創造からイエスの教え・復活の謎まで (学校で教えない教科書)

120分で聖書についてよくわかる

本書では、比喩表現が多く理解が難しい旧約聖書および新約聖書が、わかりやすい表現で解説されています。また、イラストや写真も用いられているのでより一層理解しやすくなっています。聖書に関する初学書としておすすめの一冊です。

中見 利男 (著), ひろ さちや (監修)
出版社 : 日本文芸社 (2000/12/1)、出典:出版社HP

はじめに

皆さんは「聖書」という本にどのような印象をお持ちでしょうか。難しいと思われる方も多いと思います。しかし、決して難しい本ではありません。
聖書は古い本であり、その内容が私たちの日常からかけ離れているところに、そのような印象があるのではないでしょうか。もっとも新しい時期に書かれた部分でも、1900年ほども前のものです。それだけの年月を経ているわけですから、ユダヤ教やキリスト教以外の多くの人々にも読まれています。聖書が世界のベストセラーである、といわれている理由はここにあるのです。
本書は、聖書の世界を名場面形式でやさしく解説しました。とくに後世の文学や絵画に影響を与えた感動的なシーンはすべて網羅しています。そして、「世界の常識」である聖書のダイジェスト・ストーリーが120分で読める本です。
聖書には、ご存じのように「旧約聖書」と「新約聖書」があります。
簡単に説明すると、旧約聖書は、人間と、この地上のすべてのものの誕生から、イエスの誕生を預言する物語であり、新約聖書はイエスの生涯と、彼のメッセージやキリスト教が世界に伝播していく物語です。ただ一貫して変わらないのは、神と人間の数千年にも及ぶ、交わり(契約)の話であることです。
彼らが記した、長い広大な道のりをこれから紹介していきます。

目次

はじめに
旧約聖書と新約聖書の違いは何か

旧約聖書
旧約聖書の成立
旧約聖書の舞台
旧約聖書の歴史一覧

第1章 天地創造からヨセフの死まで―旧約聖書
創世記について
天地創造
万物ができるまで
アダムとエバ
知識の木の実と失楽園
カインとアベルの悲劇
最初に記録された殺人
大洪水とノアの箱船
悔い改めない人々への神罰
バベルの塔
言葉はどうして世界共通ではないのか?
アブラハムの物語
民族の父、アブラハム
神の永遠の約束
「義の人」に子孫の繁栄を告げた
退廃の町、ソドムとゴモラ
神の破壊に没した町
近親相姦と近親憎悪
苦難のロトと、その娘たち
神の授けた試練
愛するわが子を捧げものに
奪い取った祝福
双子の兄弟が演じる葛藤劇
ヤコブの格闘
ひと晩中、神と闘って勝つ
ヨセフの夢占い
兄たちの怒りを買った夢
ヨセフの夢解き
エジプトを襲う不気味な夢
司政者、ヨセフ
夢のとおりに始まった飢饉
ヨセフの遺言
出エジプトを預言した

第2章 モーセの出エジプトと十戒―旧約聖書
出エジプト記
申命記について
苦難の日々
イスラエルはなぜ虐げられたのか?
モーセ誕生秘話
エジプトで過ごした若き日々
燃える柴の出来事
モーセと神との出会い
モーセが下した10の災い
強情なファラオへの天誅
葦の海の奇跡
そして海は真っ二つに割れた!
荒れ野の旅
飢餓の民に授けられた奇跡
神からの十戒
契約はいかにして結ばれたのか?
神との契約 人々は律法から逸脱し始める
モーセの死
モーセはカナンに入れなかった

第3章 聖戦を指揮したヒーロー、ヒロインたち―旧約聖書
ヨシュア記 士師記 ルツ記について
ヨルダン川渡河作戦
契約の箱が起こした奇跡
エリコ攻略
奇想天外!7日間の聖戦とは?
アイの陥落
ヨシュアは敗者復活戦をいかに戦ったか?
デボラの歌
女士師、デボラと青年バラク
ギデオンの少数精鋭の戦い
神は数ではなく質を重視する
エフタの悲劇
出迎えた娘を捧げものに
怪力サムソン
豪快で物悲しい士師
サムソンとデリラ
領主に雇われた悪女デリラ
ナオミとルツ
神を信仰した嫁姑の美談とは?

第4章 ダビデの威光、ソロモンの栄華―旧約聖書
サムエル記 列王記 他について
神に選ばれたサムエル
士師時代の最後の預言者
奪われた契約の箱
箱が起こした怪奇現象
初代王、サウル
同体から王制へ
油を注がれた少年ダビデ
新たな王を求めたサムエル
ゴリアトとの一騎打ち
勇猛にも志願したダビデ
逃亡者ダビデ
サウル王のもとから然と姿を消す
イスラエルの王、ダビデ
エルサレムを創建
バト・シェバとの不倫
大王の犯した罪とは?
アブサロムの復讐
解体した王室と預言の的中
神はこの国を見捨てたのか?
北のイスラエル王国
王国の分裂
「3代目の悲劇」が王国を襲う
ソロモンに突きつけた難問
シェバの女王の訪問
世界が聞き入るソロモンの知恵
知恵の王、ソロモン
純金の神殿を建設
ソロモンの栄華
南のユダ王国
バビロン捕囚という末路
王を批判した預言者たち
民族を存続させようとした人々
エルサレム再建
4万人の捕囚民が帰国
ユダヤのヒロイン、エステル
即止したイスラエル人根絶計画
ヨブの試練
真の信仰とは何か?

第5章 預言者たちの不思議な話―旧約聖書
預言書について
預言の巨人、イザヤ
イエスの出現を預言する
涙の預言者、エレミヤ
激しい感情を甘露
幻想預言者、エゼキエル
不思議な神の幻
ダニエルの預言
夢で解いたバビロニアの運命
回心したヨナ
神の愛は異邦人にも注がれている
箴言
人生の目的と生きる知恵
コヘレトの言葉
生きるという意味
雅歌
2000年前のラブレター
詩編
心をいやす言葉の宝石

新約聖書
新約聖書の成立
新約聖書の舞台
新約聖書の歴史一覧

第6章 イエスの生涯と奇跡―新約聖書
イエスの生涯について
4つの福音書
イエスの言葉を継ぐもの
受胎告知
大天使ガブリエルの出現
イエスの誕生
実現したイザヤの預言
羊飼いと学者の訪問
救世主への祝福と殺害指令
イエスの幼年時代と家族
ナザレでの生活
ヨルダン川での洗礼
洗礼者ヨハネとは?
荒れ野での誘惑
メシアとしての試練を受ける
弟子の召命
人間をとる漁師とは?
山上の説教
イエスに耳を傾ける群衆
カナの婚礼
水をぶどう酒に変えた奇跡
病人をいやす
奇跡はイエスの名を高めていった
ヤイロの娘
死者をも生き返らせる
食べ物の施し
5000人にパンと魚を与える
ガリラヤ湖の奇跡
自然をも支配するイエス
イエスの宣教
求めた悔い改めること
ヨハネの死
サロメの踊りとヨハネの首
イエスの戦い
「旧約」の巨人たちとイエス
エルサレム入城
イエスの戦いとその幕開け
ユダの裏切り
心の革命への不信感
最後の晩餐
パンとぶどう酒の意味は?
ゲッセマネの園
悲痛なイエスの祈り
イエスの救出を試みたローマ総督
ピラトの裁き
イエスの受難の始まり
最高法院での裁判
イエスの死
イエスの最後の言葉とは?
イエスの復活
始まった神と人の愛の契約

第7章 たとえ話とイエスの教え—新約聖書
イエスのたとえ話について
善きサマリア人
イエスの考える隣人とは?
ラザロと金持ち
貧しき者の死後の行き先
種をまく人
豊かな収穫をもたらす人は?
タラントンの教え
財産を預かった3人の僕
放蕩息子
帰ってきた息子と父の愛
1匹の羊となくした銀貨
見つけた喜び
10人のおとめ
物事に備える心の日
愚かな金持ち
神が授けたもの

第8章 使徒の戦いとヨハネの黙示録―新約聖書
諸手紙と黙示録について
炎の舌とペトロの演説
キリスト教会の誕生
ステファノの殉死
ユダヤ教徒からの弾圧
サウロの回心
迫害者から信者へ
パウロの布教
海を渡るキリスト教
パウロの手紙
各地へ届いたパウロの声
ペトロの手紙
迫害のなかでの信仰とは?
ヨハネの手紙
福音書の正しい理解を!
ヨハネの黙示録
世の終りと神の国の降下

ひろさちやの視点
神は唯一絶対のもの
契約と自覚と所属と
日本人と信仰心
自由に生きる
宗教と風土
神の御心のままに
人間の物差しと神の物差し

コラム
ミレニアム―千年王国とは何か?
パピルスとバイブル
魅惑の死海
謎に包まれていたシェバ王国と女王
死海文書とは?
割礼の民、ユダヤ人

あとがき
さくいん

中見 利男 (著), ひろ さちや (監修)
出版社 : 日本文芸社 (2000/12/1)、出典:出版社HP

●旧約聖書と新約聖書の違いは何か?

「わたしは熱情の神である。わたしを拒む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」
これが聖書の伝える神の本質である。日本人にはわかりにくいとされる聖書だが、冒頭に 述べた神の本質さえ理解していれば聖書には強くなれるのである。
わたしを拒むのか? それとも愛するのか? じつは聖書全編を通じて流れているのは神の この問いかけなのだ。だからこそ、二者択一を迫る神とそれに答える人間との間に契約が必 要とされるわけだ。拒むのか? 愛するのか? という契約である。その中間などありえない。 そして愛すると契約したその時点から、熱情の神は文字どおり情熱的にその人を愛しはじめるのだ。まずここを押えてから聖書の扉を開いてみよう。

聖書には旧約と新約があることはすでに皆さんご存知だろう。では旧約と新約はどう違う のか。一言でいえば旧約とは「旧い契約」であり、新約とは「新しい契約」のことである。
さて、旧い契約とは紀元前1250年頃、それまでエジプトで奴隷として虐げられてきたイスラエル民族がエジプト脱出後、シナイ山の山麓で大預言者モーセを介して唯一神ヤハウ ェとの間に結んだ契約のことを指す。つまりイスラエル民族が神の与えた律法を守るのなら、彼らは神ヤハウェの民となり、同時に神もイスラエル民族を守ろうというのだ。したがって、他の神々を信じるようなことがあれば、この契約は破棄されることになる。しかもその時、神はイスラエル民族の前から消え去るだけではなく、冒頭述べたように「わたしを拒む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問う」というぐあいだから恐ろしい。
では「新しい契約」とは何だろうか。その意味をイエスの使徒パウロは「人間が救済を得るためには『律法』を守る必要はない、信仰だけで十分である」と解説している。もう少し詳しく説明しよう。

1世紀初頭にパレスチナのガリラヤ地方で宣教活動を行なったイエスは「神の国」に入るためにはユダヤ教の頑迷で煩雑な律法を守る必要はない。「神の愛」を信じればそれで足りるのであると語り、さらに貧しい人々を救うためにユダヤ教の生命線ともいうべき安息日や食事などに関する儀礼的な律法を大胆不敵に破ってみせたのだ。
つまり旧い契約を「神の罰」を恐れ「神の律法」という行動規範を守っていさえすれば救済が来ると位置づけるならば、新しい契約つまり新約とは神の愛、ひいては神そのものを心の内で信じるようにしようではないか、という新たなる約束事を呼びかけたものと考えられるのである。

旧約聖書

旧約聖書の成立


聖書を、ヘブライ語で書かれた「旧約聖書」とギリシア語で書かれた「新約聖書」とに分けて呼ぶことは広く知られている。
「旧約聖書」は、イスラエル人(ユダヤ人)の公の聖典として、世界中に知られてきた。「旧約聖書」 こそがイスラエル人の唯一の教典であり、イエスが用いた聖書である。「旧約聖書」を構成する諸要素では、時代的背景とその舞台が重要になってくる。1000年以上にわたり書かれており、書かれた時期や作者をはっきりと特定できないが、もっとも古いものは紀元前1500年ごろに書かれたと推測され、大きく律法書、預言書、そして、詩編や歴代誌を含む諸書に分かれている。
その後、紀元30年ごろ、イスラエル人学者がパレスチナ地方のヤムニアの地に集まり、聖書正典決定の会議を開き、ヘブライ語3書を集めたものを旧約聖書と定めている。

旧約聖書の舞台

「旧約聖書」の舞台となっているのは、エジプトからシナイ半島をへて、チグリス川、ユーフラテス川へ至るメソポタミア地方である。
特に、カナンと呼ばれる地中海の東側、死海の近くの一画には、イスラエル人が神から与えられた「約束の地」がある。彼らはここを中心に栄え、王国をつくり、多くの民族と争いを続けるのである。
この一帯は周囲を砂漠に囲まれるが、大河や豊かな水に恵まれ、開墾し農作物を栽培して、家畜を放牧することもできた。
つまり、古代文明発祥の地であるエジプトと、メソポタミアを往来した砂漠の道や多くの富や民族が集約された土地が、「旧約聖書」の舞台だ。

中見 利男 (著), ひろ さちや (監修)
出版社 : 日本文芸社 (2000/12/1)、出典:出版社HP

1年で聖書を読破する。 永遠のベストセラー完読法 (Forest Books)

聖書の全体像がよくわかる

本書は、聖書を通読するための手引書です。週の始めに本書を4ページ読んでから1週間かけて指定の箇所を読むことで、事前に概要を知ってから聖書に取り組むことができ、より聖書の内容を理解することができます。また、本書は読み進める際のペースメーカーとして活用できるので、1人では通読するのが難しいと感じている方におすすめです。

鈴木 崇巨 (著)
出版社 : いのちのことば社 (2016/1/25)、出典:出版社HP

はじめに

『聖書』を読んでみたいと思っている人は多くいます。しかし、分厚い聖書をどこからどのように読めばよいのでしょうか。この本は聖書そのものを、あなたが読み通すお手伝いをする手引書です。
キリスト教を知るためには、多くのキリスト教書を読むよりも聖書そのものを完読することが近道です。しかし、読んでいる内容がわからずに、どうして読み通すことができるでしょうか。そこで少しでもわかりながら読む、というのが聖書を完読できるためのコツになります。読み終わったときに、あなたは「聖書って、こういうことだったのか」と言われるでしょう。
この手引書はキリスト教とはまったく関わりがなかった人を対象に書かれています。もちろんキリスト教徒になっている方で、聖書を完読したことのない方にも読んでいただきたいと思っています。

日本語の『聖書』は二千ページほどですが、仮に一日百ページを読むことのできる人がいたとしても二十日間かかります。聖書は宗教書ですから、内容が深く、二十日間で読むことはほとんど不可能です。それはちょうど牛肉や豚肉だけを毎日四キロも五キロも二十日間食べ続けるようなものです。この手引書は一年かけて読むスピードを基準にしています。もっと早く読了したい人は、自分なりにスピードを上げてください。半年でも三か月でも読めます。

一週間の初日に本書を四ページ(一部は五ページ)だけ読んでください。そこには、その週に読む聖書の箇所が説明されています。それから一週間、毎日、指定された聖書箇所を読み始めてください。読むべき聖書の箇所は、一日二章から四章ほどです。聖書の「章」というのは、聖書本文の中に太字で区分してある数字です。だいたい一章は二ページ相当です。これで一年後には、あなたは聖書を完読できます。大まかに言って、旧約聖書を読むときには一日四十五章、新約聖書を読むときには一日二章の割になります。もっと早く読みたい人は、これを目安に適当に自分で読む分量を上げてください。
聖書はどの出版社が発行している『聖書』(旧約聖書と新約聖書)でもかまいません。
本書で引用される聖句は、日本で発行されている、次の三つの『聖書』のいずれかです。

・『聖書 新改訳』、新日本聖書刊行会、第三版、二〇〇三年(本書では主にこの訳を引用します)
・『聖書 新共同訳』(続編を含まないもの)、日本聖書協会、一九八七年(本書では「共」と略記します)
・『聖書』(一九五五年改訳のいわゆる「口語訳」)日本聖書協会、一九五五年(本書では「口」と略記します)

鈴木 崇巨 (著)
出版社 : いのちのことば社 (2016/1/25)、出典:出版社HP

目次

はじめに
第1週 マタイの福音書(マタイによる福音書)
第2週 マタイの福音書(マタイによる福音書)
第3週 ヨハネの福音書(ヨハネによる福音書)
第4週 ヨハネの福音書(ヨハネによる福音書)
第5週 使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)
第6週 使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)
第7週 モーセ五書〈創世記〉
第8週 モーセ五書〈創世記〉
第9週 モーセ五書〈出エジプト記〉
第10週 モーセ五書〈出エジプト記、レビ記〉
第11週 モーセ五書〈レビ記、民数記〉
第12週 モーセ五書〈民数記、申命記〉
第13週 モーセ五書〈申命記〉
第14週 ヨシュア記
第15週 士師記、ルッ記
第16週 サムエル記第一(サムエル記上)
第17週 サムエル記第二(サムエル記下)
第18週 列王記第一(列王記上、列王紀上)
第19週 列王記第二(列王記下、列王紀下)
第20週 歷代誌第一(歷代誌上、歷代志上)
第21週 歷代誌第二(歷代誌下、歷代志下)
第22週 エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記
第23週 ヨブ記
第24週 ヨブ記、詩篇(詩編)併読開始
第25週 箴言
第26週 伝道者の書 (コヘレトの言葉、伝道の書)、雅歌
第27週 イザヤ書
第28週 イザヤ書
第29週 エレミヤ書,
第30週 エレミヤ書、哀歌
第31週 エゼキエル書
第32週 エゼキエル書
第33週 ダニエル書、ホセア書
第34週 ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書
第35週 ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書(ゼファニヤ書)、ハガイ書
第36週 ゼカリヤ書、マラキ書
第37週 マルコの福音書(マルコによる福音書)
第38週 ルカの福音書(ルカによる福音書)
第39週 ルカの福音書(ルカによる福音書)
第40週 ローマ人への手紙(ローマの信徒への手紙)
第41週 コリント人への手紙第一
(コリントの信徒への手紙一、コリント人への第一の手紙)
第42週 コリント人への手紙第二
(コリントの信徒への手紙二、コリント人への第二の手紙)
第43週 ガラテヤ人への手紙 (ガラテヤの信徒への手紙)
エペソ人への手紙(エフェソの信徒への手紙)
第44週 ピリピ人への手紙 (フィリピの信徒への手紙)
コロサイ人への手紙(コロサイの信徒への手紙)
テサロニケ人への手紙第一、第二(テサロニケの信徒への手紙一、二)
第45週 テモテへの手紙第一、第二(テモテへの手紙 一、二)
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙(フィレモンへの手紙)
第46週 ヘブル人への手紙(ヘブライ人への手紙)
第47週 ヤコブの手紙、ペテロの手紙第一、第二(ペトロの手紙一、二)
第48週 ヨハネの手紙第一、第二、第三(ヨハネの手紙一、二、三)
ユダの手紙
第49週 ヨハネの黙示録
第50週 ヨハネの黙示録
あとがき

鈴木 崇巨 (著)
出版社 : いのちのことば社 (2016/1/25)、出典:出版社HP

こども聖書

子供にもわかりやすい、大人の心にも響く1冊

聖書のポイントとなる箇所を取り上げ、内容を子どもにもわかりやすい言葉で言い換えられています。キリスト教を信仰する上で大切になることというだけでなく、道徳的に大切なことが多く書かれています。読み聞かせにも最適な一冊です。

鈴木 秀子 (著)
出版社 : すばる舎 (2019/12/18)、出典:出版社HP

はじめに――ようこそ、聖書の世界へ

はじめまして。こんにちは。
鈴木秀子ともうします。私はキリスト教の教えを守って生活しているシスターです。大学で教えたり、本を書いたりしています。

「キリスト教」って聞いたことがありますか?
キリスト教は、世界中のたくさんの人が信じている「宗教」です。宗教というのは、人に生きていく力を与えてくれる「みなもと」です。その「教え」によって、人びとは心を落ち着かせることができます。みんなが迷ったとき、なやんだときに「こっちに進むといいよ」と教えてくれる案内人のようなものです。そのキリスト教の「教科書」が「聖書」と呼ばれるものなのです。

「聖書」はお父さんからのラブレター

「聖書」とはどういう内容なのでしょうか?
詳しくお話しすると長くなってしまうので、こんな「たとえ」で説明してみます。
お父さんがお仕事で遠くへ行っちゃったとき、あなたはどう思いますか? 「お父さんがいなくて、大丈夫かな?」と不安になるかもしれません。「私のことをちゃんと思ってくれているかな?」と心配になるかもしれません。でも、遠くにいたとしても「家族のこと、子どものことをいつも思っているよ」というお手紙が届けば、お父さんの気持ちがわかりますね。おうちに残っているお母さんもあなたも安心できます。
聖書というのも、それに似ているんですね。聖書というのは、見えない神さまが人間にわかるように、いろんなできごとを通しながら、「神さまのこころ」を伝えてくれている本なのです。生きていると、いろいろなつらいことや、悲しいことがあります。人をうらやましく思ったり、にくいと思ったりしてしまうこともあります。「それでも人間は、あきらめることなく、争うことなく、みんなで手を取り合って、この世界をよくしていかなけ ればいけません。そのためには、どんなことをしたらいいのか? どのように考えるといいのか?そんなお父さんの知恵を教えてくれるのが聖書です。
言ってみれば、聖書というのは「お父さんから子どもたちへのラブレター」みたいなものなのですね。

いつだって、生きる力が湧いてくる

「あなたがもしも、たった一人で島で暮らさなければいけないとして、たったひとつだけ何かを持っていけるとしたら、何を持っていきますか?」そう聞くと、世界の多くの人が「聖書」と答えるそうです。たった一人、孤独な世界で生きるとしても、ページをめくれば、生きる力が湧いてくる。それが「聖書」という本なのです。
ただし、聖書はぜんぶ読もうとすると、とても長いですし、難しくて大人でもなかなか理解できません。そこで、この本『こども聖書』では、そんな聖書の大切な部分を「こども訳」に「超訳」して、ぎゅぎゅっと3日分にわかりやすくまとめました。もちろん、聖書の教えをすべてお伝えすることはかないませんが、聖書が人びとに伝えようとしていることの「エッセンス」は十分にお届けできるはずです。
聖書には、生きていくうえで大切なことが書かれています。ちょうど1日分なので、毎日1項目ずつ読んでみてもいいでしょう。読み終わったら、毎月おさらいをしてもらってもいいでしょう。そして、なやんだとき、迷ったときは、この本に戻ってきてもらえると、うれしく思います。

2019年2月 鈴木秀子

鈴木 秀子 (著)
出版社 : すばる舎 (2019/12/18)、出典:出版社HP

もくじ

はじめに―ようこそ、聖書の世界へ

1日目 美しいものを見る
2日目 生きているだけでOK
3日目 モノにしがみつかない
4日目 人は平等である
5日目 助け合う
6日目 いい仕事をする
7日目 こころの世界
8日目 他人と比べない
9日目 悲しみを味わう
10日目 嫌いな人を大切に思う
11日目 いつも機嫌よく
12日目 「ありがとう」と言う
13日目 あいさつをする
14日目 名前を呼ぶ
15日目 共感のこころ
16日目 いいことを続ける
17日目 人を許す
18日目 勉強をする
19日目 未来のために苦しい日がある
20日目 ひとりじめしない
21日目 自分がしてほしいことをする
22日目 夢を持つ
23日目 お願いをする
24日目 こころを満たす
25日目 よろこびを見つける
26日目 思いは大きくなる
27日目 言葉で伝える
28日目 まわりの人を支える
29日目 隣にいる人を大切にする
30日目 合わない人とも付き合う
31日目 あきらめない

お父さん、お母さんへ
おわりに
あなたにいちばん伝えたいこと

聖書の言葉は、 『聖書 新共同訳』 (日本聖書協会)より引用。

鈴木 秀子 (著)
出版社 : すばる舎 (2019/12/18)、出典:出版社HP

図解とあらすじでよくわかる 「聖書」入門 (知恵の森文庫 t ほ 3-1)

図解とあらすじが豊富でわかりやすい

本書は、タイトルの通り、「図解とあらすじ」で聖書について解説しているのが特徴です。聖書におけるキーワードを取り上げ、その内容をあらすじで記してあるので、スラスラと読み進めることができます。また、地図や人物相関図が挿入されているのでわかりやすく、入門書としておすすめです。

保坂俊司 (監修)
出版社 : 光文社 (2011/9/13)、出典:出版社HP

まえがき

『聖書』の教え、とりわけキリスト教の教えは、現代に生きる私たちの倫理道徳、あるいは文化に至るまで、深い関わりを持っています。たとえば、現在では当然視されている一夫一婦制の婚姻制度や、夫婦を単位とする家族制度も、聖書が提示する価値観に起因しています。
また、現代では常識となっている商習慣や法体系にも、聖書の「契約」の精神が生かされています。さらに、新聞やテレビで目にする地域紛争や国際政治に関する報道の内容も、聖書の価値観や論理を知らずに理解することは難しいでしょう。
世界の人口は現在、六十数億ですが、その約三分の一の人々が、キリスト教信者と言われています。この事実を考えただけで、聖書の教えが世界を支える、あるいは動かしていると言っても過言ではないことが、理解できるのではないでしょうか。
さらに、近代文明そのものが、聖書を中心とするキリスト教文化の中から生み出されたものであり、キリスト教文化の精華であることを考えると、我々平均的な日本人も、キリスト教の教えや、聖書に関しての基本的な知識を、ある程度持っておく必要があると言えます。

ところが、一般的な日本人は、そもそも宗教と日常社会を関連づけて考えるという発想が弱いようです。たしかに最近では、たとえばユダヤ教やイスラーム教などの信者たちが、厳しい宗教的なルールに則って生活していることは、理解されるようになってきました。ただし困ったことですが、日本人はこのような宗教規範に支配された生活を、「遅れた社会」というふうに考えているふしがあります。このような見方が、宗教と社会の関係をますます分かりにくくさせているのです。そして、日本人の世界理解を一層困難な、あるいは危うい方向に導きつつあります。

こうした日本的な宗教観の特殊性を前提に、世界を見ることは大きな誤りです。日本的な宗教観は、いわば日本にのみ通じる常識であり、世界の常識ではないのです。このことを、聖書の知識を分かりやすく解説した本書を通して理解していただくことが、私の狙いです。
本書は、聖書の内容があらすじで簡潔にまとめられ、また多くの図版が多用されているのが特徴で、初めて聖書の世界に触れる方々にも理解しやすい構成となっています。なお、本文中の人名・地名などの固有名詞は「新共同訳」を基準にしましたが、すでに人口に膾炙して幅広く使われているものについては、必ずしも新共同訳にとらわれない表記としました。
グローバル化が日々加速度的に進展している今日、聖書を知らずして国際社会を生き抜くことはできません。本書が、聖書をよりよく理解するための手助けになれば幸いです。

保坂俊司

目次

まえがき

― 序章 ― 聖書とは何か?
聖書とは?
世界を席巻したキリスト教、ユダヤ教の聖典
天使と悪魔
天使は神の言葉を伝え、悪魔は神に抗し人間を誘惑する
契約とは?
聖書を読み解く上で重要な「旧約」「新約」の意味

第1部 『旧約聖書』
第1章 神と人類の交渉の始まり
天地創造
絶大なる神の力によって世界が生まれた七日間
エデンの園
神によってつくられた最初の人間アダムとエバ
楽園追放
アダムとエバが禁断の実を食べ、人類は原罪を背負う
カインとアベル
敬虔なる弟に対する兄の嫉妬が招いた人類最初の殺人
ノアの箱舟
堕落した人類を洗い流した大洪水と、神に唯一赦されたノア
ノアの息子たち
酔いつぶれたノアに対する態度が決した民族の関係
バベルの塔
神の怒りに触れた、人間の傲慢さの象徴

第2章 族長たちの伝説
アブラムの旅立ち
約束の地カナンを与えられた古の族長
イサクとイシュマエル
母親同士の争いに巻き込まれた息子たち
ソドムとゴモラ
神に滅ぼされた悪徳の町とカナン周辺異民族の誕生
イサクの犠牲
究極の選択によって証明されたアブラハムの信仰心
ヤコブの策略
老いたイサクを騙し長子権を奪い取った次男 ヤ
コブの帰還
天使と互角に闘ったヤコブは新たな名を与えられる
エジプトに売られたヨセフ
兄たちから嫌われたヤコブの秘蔵っ子の悲劇
ヨセフの出世
王の夢解きにより奴隷の身からエジプトの宰相へ
ヨセフと兄弟の和解
飢饉によって解決した兄弟のわだかまり

第3章 約束の地を目指して
モーセの出生
イスラエル民族を解放した導き手の誕生
モーセの逃亡と十の禍
殺人者としての逃亡から神の啓示を受けるまで
十戒
イスラエルの民、モーセを介して神との契約を交わす
カナンの偵察
神を信じなかった十人と神を信じたふたりの偵察者
モーセの死
神とイスラエル民族に生涯を捧げた預言者の終焉
エリコの攻略
強固な城壁が崩れる奇跡によって得た勝利
ヨシュアのカナン征服
ついに約束の地へ足を踏み入れたイスラエルの民
土地分配
約束の地「カナン」を切り分けたイスラエル十二部族
士師時代
悔い改めた民を救うべく遣わされたカリスマたちの時代
士師オトニエルとエフド
最初の危機を救ったふたりの士師
士師デボラ
カナン王ヤビンを破り、「イスラエルの母」と謳われた女士師
士師ギデオンツ
ミディアン人に少数で挑んで勝利をおさめた英雄
士師エフタ
大切なひとり娘を犠牲にして神との約束を守った士師
士師サムソン
ライオンを引き裂き、ペリシテ人と戦い続けた怪力のナジル人
サムソンとデリラ
愛する女性に裏切られた末に迎えた壮絶な最期

第4章 イスラエル王国の誕生
ルツとナオミ
救い主の先祖となった献身的な異邦人女性の物語
ダン族とべニヤミン族
土地を巡る争いとレビ人に対する蛮行
サムエルの登場
ペリシテ人の圧迫に苦しむイスラエルに現われた最後の士師
サウルの即位
民の求めに応えて登場したイスラエル最初の王
ダビデとゴリアト
竪琴を持った勇気ある少年、ペリシテ人の猛将を討つ
サウルの死
嫉妬から生まれたイスラエル最初の王の悲劇
ダビデの王国
エルサレムを制する偉大な王の誕生
バト・シェバ事件
英雄王ダビデによる人妻との恋が招いた神の怒り
ソロモンの知恵
ダビデの後継者として即位し、大いなる知恵を授かった賢王
ソロモンの外交と背信
最盛期を迎える一方で、国家分裂の予兆が忍び寄る

第5章 バビロン捕囚への道
イスラエル王国の分裂
繁栄を極めたダビデ・ソロモンの王国の崩壊
エリヤとアハブ王
ヤハウェ信仰を守るべく、異教徒との戦いに臨んだ預言者
アハブ王の回心
神への不信仰が招いたイスラエル王の悲劇
エリシャ
奇跡物語に彩られる一方、冷酷な一面を見せる預言者
サマリアの陥落
神に見捨てられたイスラエル王国の最後
ユダ王国の興亡とイザヤ・ミカ
アッシリアの圧迫に耐え抜くエルサレムの諸王たち
ヨナの冒険
神の意志を疑い、逃げ出した人間味あふれる預言者
エレミヤ
民に届くことのなかった預言者の悲痛な訴え
バビロン捕囚
エルサレム陥落の悲劇が生んだ、ユダ国民の大量連行
捕囚下の人々
存亡の危機から生まれた民族意識
ダニエル書
ふたつの世界帝国で重用されたユダヤ人宰相の物語
エステル記
ユダヤ民族を大虐殺から救ったヒロインの物語
エルサレムの再建
半世紀以上にわたる捕囚からの解放と聖都の復興
諸書・文学
古代イスラエルの知恵が詰め込まれた書物群
ヨブ記
なぜ神は苦しみと試練を与えるのか?
詩編
古代イスラエル王国で歌われた宗教詩の集大成
雅歌
ソロモンの作とされる、男女の間に交わされる恋の歌
箴言
生きるための知恵が詰まった金言集
コヘレトの言葉
知恵の王ソロモンによる人生論

― 断章 ― 『旧約聖書続編』
トビト書
敬虔なトビトの苦難とそれに対する神からの祝福
ユディト書
知恵と美貌を兼ね備えた女性の勇気ある物語
スザンナ
ダニエル書補遺
神を信じる美女を救ったダニエルの知恵
ベルと竜
ダニエル書補遺
正しい信仰を守るために用いられたダニエルの機転
マカバイ記
ヘレニズム文明への抵抗から登場したユダヤ人最後の王朝

第2部 『新約聖書』
第6章メシアの誕生
ヘロデ大王の治世
異民族による支配とユダヤ教の分裂
洗礼者ヨハネの誕生
エルサレムの祭司に下されたもうひとつの受胎告知
受胎告知
天使によって告げられた救世主の誕生
イエスの誕生
先祖の地ベツレヘムに降誕した運命の赤子
エジプト逃避
天使の勧めによりヘロデ大王の虐殺を免れたヨセフ一家
十二歳のイエス
神の子であることを大人たちの前に示した少年時代のイエス
洗礼者ヨハネ
荒野において教えを述べ、人々に洗礼を施したイエスの先導役

第7章 イエスの教えと足跡
イエスの洗礼
ヨハネのもとに現われたイエスが、聖霊をその身に宿らせる
荒野の誘惑
三度にわたるサタンの誘惑を聖書の言葉で退けたイエス
ペトロの召命
ガリラヤ湖の畔で始められたイエスの伝道活動
十二弟子
漁師、徴税人、過激派……様々な人々を取り込んだイエス
カナの婚礼
婚礼の宴会においてイエスが起こした最初の奇跡
洗礼者ヨハネの最期
ヘロディアの策略の前に命を落とした洗礼者
山上の説教
ガリラヤ湖畔の丘の上から信者に示された教えの骨子
サマリアの女と百人隊長
メシアの来訪を望む異邦人に差別なく広められたイエスの福音
癒しの奇跡
罪人とみなされた病人たちを救ったイエスの癒し
ガリラヤ湖を歩く
自然の摂理を覆すことで示された神の力とメシアとしての証
ナザレの人々
奇跡のみを期待し、イエスの教えを聞き入れなかった故郷の人々
善きサマリア人
隣人愛の本質を説いた最も有名なたとえ
放蕩息子のたとえ
罪人の悔い改めを受け入れる神の無限の愛
十人の乙女のたとえ
信仰を見失わないよう、日頃の心構えが大事だと説くたとえ
マグダラのマリアと女性信者たち
イエスの処刑と復活に立ち会い、聖人に列せられた女性信者
ラザロの蘇生
ベタニアの姉妹の信仰が実現させた死者蘇生の奇跡

第8章 イエスの受難物語
信仰告白とイエスの変容
ペトロの信仰を確認したイエスが予告した死と復活
エルサレムへの旅
教えを理解しない弟子たちを諭し続けたイエスの最後の旅
エルサレム入城
聖書の預言を現実のものとした救世主イエスの入城
宮清め
イエス、神殿を穢す商人たちに激怒する
論争物語
イエスに対し幾重にも張り巡らされたユダヤ教指導者層の罠
ナルドの香油
イエスに注がれた香油の香りとともに漂い始めた裏切りの予感
最後の晚餐
過越の夜に示された新しい契約の証明と、弟子たちの裏切り
ゲッセマネの祈り
神に対する祈りのなかで露にされたイエスの苦悩
イエスの裁判
救世主の死を決定したのは、彼を歓迎した民衆だった
イエスの処刑
群衆の嘲りと罵倒のなか、ゴルゴタの丘で最後を迎える
イエスの復活
埋葬されたはずのイエスがマグダラのマリアの前に現われる

第9章 使徒とパウロが広めたイエスの福音
聖霊降臨
不肖の弟子たちを伝道活動に目覚めさせた五旬節の奇跡
ペトロの布教と原始宗教
共有財産制を敷く原始キリスト教会が誕生する
ステファノの殉教
ユダヤ教の指導者を論破したため最初の殉教者となる
サウロの回心
迫害者から一転して伝道者へと変貌したユダヤ教徒
伝道旅行
パウロの熱意によってヨーロッパへ渡ったキリストの福音
エルサレム使徒会議
ユダヤ教から独立させたペトロの決断
パウロの書簡と教え
イエスの教えを世界宗教へと発展させた伝道の思想
第三回伝道旅行
ローマの地に消えたキリスト教最大の伝道者
使徒たちの伝道と殉教
世界へ福音を伝えるなかで、異郷に倒れたイエスの弟子たち
ヨハネ黙示録
生々しく語られるパトモス島のヨハネが見た終末の幻影

聖書関連年表
参考文献

コラム
グローバル化は「聖書的な価値観」の広がりである
聖典と契約にはどんな意味がある?
ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教は三兄弟
日本人には理解しづらい「戒律」の位置づけ
「聖戦」は選民思想から生まれた
「ユダヤ三兄弟」はなぜ仲が悪い?
ユダヤ教徒はなぜ弾圧されてきたのか?
なぜアメリカ大統領は聖書に手を置いて宣誓するのか?
世界でも稀なアメリカ人の宗教意識
終末思想の意味とは

構成/インフォペディア 図版作成/イクサデザイン

保坂俊司 (監修)
出版社 : 光文社 (2011/9/13)、出典:出版社HP

序章 聖書とは何か?

聖書とは?

世界を席巻したキリスト教、ユダヤ教の聖典

◆世界の始まりから終末までを記す壮大な物語
ひと口に聖書といっても、大きくふたつにわかれる。ひとつが「旧約聖書』、もうひとつが『新約聖書』だ。
まず『旧約聖書』は、「創世記」や「出エジプト記」、数々の預言書など、三十九の書から成る。神の手による世界および人類の誕生に始まり、神に選ばれたイスラエル民族の興亡の歴史が、物語を貫く神と人との交流のなかで語られる。そして、イスラエル人の王国の滅亡ののち、彼らを救う救世主の到来を預言して終わっている。
それに対し『新約聖書』は、『旧約聖書』で約束された救世主イエスの生涯を、それぞれの視点から描いた四つの「福音書」と、イエス昇天後の使徒たちの布教活動を記した「使徒言行録」および手紙、そして世界の終わりと最後の審判について記す「ヨハネの黙示録」など、二十七の書から成り立っている。

いわば聖書は、数多くの書物の複合体であり、世界の始まりから終わりまでを記す壮大な物語なのである。
では、これらの書は、いつ誰によって著されたのであろうか。
『旧約聖書』における最も古い書は紀元前一一○○年頃の執筆で、新しいものは紀元前一五〇年頃の執筆といわれている。一○○○年近い歴史のなかで、作者不明のものも含め、モーセ、ダビデ、ソロモンといった人々によって書き継がれてきた。
これに比べると『新約聖書』の執筆期間は短い。
四つの福音書のうち最も古いものが「マルコによる福音書」で、紀元六八年頃に書かれたといわれている。
その後、八○年代後半に「マタイによる福音書」と、「ルカによる福音書」が書かれ、九○年代に「ヨハネによる福音書」が書かれたと伝えられる。
聖書を聖典としているのは、キリスト教、ユダヤ教である。だが厳密にはユダヤ教は、あくまでキリスト教徒の『旧約聖書』にあたる聖書を聖典として、救世主としてのイエスも『新約聖書』も認めない。しかし、本書では両者の宗教的な対立には大きく立ち入らず、一般的な理解のレベルとして「旧約」「新約」を取り扱う。

天使と悪魔

天使は神の言葉を伝え、悪魔は神に抗し人間を誘惑する
聖書に欠かせない存在が多くの天使たちである。
天使は神の使者として人間の前に現われ、神の言葉を伝えたり、時には行動を共にしたりする。つまり、天使は天上と地上の世界をつなぐ媒介者であり、神に奉仕する存在なのだ。聖書において具体的な名前が出るのは、ミカエル、ガブリエル、ラファエルだけであるが、中世、存在するすべての天使の数は「三億百六十五万五千七百二十二」とされた。そして、九つの階級を形成し、天使長ミカエルに率いられているとされる。

一方、神に敵対する存在として描かれているのが悪魔である。じつは悪魔もまた、元は天使だったとされ、高慢な心を持ち、神の座を脅かそうとしたために天から追放された。その堕天使が悪魔だというわけである。
たとえば有名な悪魔サタンは、元は天使長ルシフェルであったが、神に抵抗を試み、ミカエルと闘って敗れ、天から追放されたとされている。

契約とは?

聖書を読み解く上で重要な「旧約」「新約」の意味

◆現代と異なる契約の概念
聖書は『旧約聖書』と『新約聖書」から成る。では、この「旧約」「新約」とは何なのか。じつはこの「約」は「契約」を意味する。神と人との「契約」、さらに言えば「契約証」という意味だ。この契約の概念が、聖書を読み解くにあたって重要なポイントとなる。
ただし聖書における契約は、現代使われているような意味での相互的な関係ではない。
この契約は、民が神に従い、律法に忠実であれば幸福が約束されるが、忠実でなければ禍が降りかかる、という一方的な内容だ。契約は神によって一方的に示され、人間はそれにひたすら従うのみなのである。
『旧約聖書』では、神がシナイ山においてモーセを通じてイスラエルの民とこうした契約を結んだものの(第3章参照)、やがて民は契約を破って神を裏切り続け、国家滅亡という禍を受ける。そして、神が新しい契約を結び、罪の赦しと救いがもたらされるだろうと預言して終わっている。
キリスト教に限れば、これを受けて登場したのがイエスである。イエスは十字架にかけられることで自身を契約の犠牲(証) とした。
これにより、『旧約聖書』のなかで示さた新しい契約の預言を、神と全人類との
契約という形で成就させたと解釈されている。
一方、イスラームでは、最新にして最後の契約が天使ジブリールから預言者ムハンマドに下された『コーラン(クルアーン)』であると考えられている。

Column コラム

グローバル化は「聖書的な価値観」の広がりである

近・現代ヨーロッパ文明とキリスト教との関連性については、あまり関心のない方が多い のではないでしょうか。というのも、とくに日本では、「ヨーロッパの近代は、脱キリスト教化、即ち世俗化された社会であり、先進的かつ世俗的文明である」と、学校教育などで教え込まれてきたからです。

しかし現実は大きく異なっています。ヨーロッパの近代が目指したものは脱教会支配であって、脱キリスト教ではなかったのです。それよりも、ヨーロッパ近代が目指したものは、 教会支配の頃のキリスト教以上に、神と、ひとりひとりの人間が強く結びつくという、個々 人の神への信仰を重視する社会だったのです。

その象徴的な存在が、清教徒(ピューリタン=信仰に純粋な人々)の存在です。彼らはキリスト教信仰に純粋であることを目指して、カトリック教会など他の宗派と対立し、その多くが信仰の自由を求めて新大陸、特にアメリカに旅立ったのです。
アメリカのピューリタンたちは、この新大陸への旅立ちを、モーセがユダヤ人同胞を引き連れてエジプトを脱出した「出エジプト」になぞらえて、第二の「出エジプト」と表現しています。こうしたことからも、聖書の記述にある出来事を通じて、自分たちの歴史を理解しようとするキリスト教徒の考え方が理解できるでしょう。

さて、現代は、近代資本主義という欧米型の経済体制が世界の隅々にまで行き渡り、グローバル化の名のもとに、経済のみならず文化的な価値観まで均一化しつつあります。このグロー バル化の基準、たとえば商習慣や高度な法体系にも、聖書の「契約」の精神が生かされています。また、国際語の象徴とも言える英語の多くの語彙や表現にも、聖書からの借用が非常に多いのです。このように、否応なしに進むグローバル化とは、実は聖書を共通項とする「近代西洋文明化」であると言えるのです。
もちろんそれは、単なる通商や言葉のレヴェルに止まらず、聖書が提示する価値観においても同様です。つまり、私たちの日常生活における倫理道徳、あるいは文化に至るまで、様々な基本的価値観に、キリスト教の教えは深く関わっています。
グローバル化が日々加速度的に進展している今日、「宗教音痴の日本人」などと暢気なことを言っていては、ますます国際的なスタンダードから取り残されていきます。キリスト教、とりわけ聖書を知らずして二十一世紀の国際社会を生き抜くことはできないと言えるほど、世界は、「聖書的な価値観」に満たされつつあるのです。

保坂俊司 (監修)
出版社 : 光文社 (2011/9/13)、出典:出版社HP

はじめて読む聖書 (新潮新書)

苦手意識のある人にこそおすすめの聖書入門

本書は、「聖書を、誰が、どのように、読んできたのか」をテーマに、9人の専門家にインタビューし、まとめたものです。このインタビューが示すのは、聖書にはたくさんの入り口が用意されているということです。聖書はとっつきにくいと感じている方や、聖書に対する専門家の解釈を知りたいと思われている方にもおすすめです。

田川建三ほか (著)
出版社 : 新潮社 (2014/8/11)、出典:出版社HP

誰がどのように読んできたのか――松家仁之

本書は、季刊誌「考える人」の特集「はじめて読む聖書」(二〇一〇年春号)をもとに、新潮新書編集部が再編集し、一冊にまとめたものだ。当時、「考える人」編集長として、聖書の特集を組んでみたいと考えたのは、聖書が自分にとって長いあいだ、近づきたいのに近づきがたい、特別な「本」だったからだ。
一度はじっくり読んでみたい――そう思っていても、この二千ページにおよぶ長大な書物は、構成も複雑なら、書かれた年代もさまざま、バックグラウンドを知らずに独力で読み進むのはいかにもこころもとない。史上最大の「ベストセラー」とはいうものの、クリスチャンではない自分が手にとってみても、見知らぬ土地に迷いこんだも同然、めざす入口さえ見いだせないままに撤退、とあいなってしまいそうだ。

わたしと同様、そのように感じている読者が多いのではないか。特集タイトルを「はじめて読む聖書」としたのは、そのような理由によるものだった。
とはいえ、「聖書とは何か」という問いでは、設定のかまえがおおきすぎる。そうではなく、「聖書を、誰が、どのように、読んできたのか」を問うのはどうだろう。答えはそれぞれの経験に即すことになるから、そこに正解はない。同時に、これほど多くの入口が聖書には用意されている、と示すことにもなるだろう。
さまざまな読み手を通して聖書に近づく。これを特集のゆるやかな枠組とし、何人かの方には直接お目にかかって、お話をうかがうことにした。

これを機にぜひ、とまっさきに思ったのは、かねてから畏怖の念を抱いていた新約聖書学者の田川建三氏である。
田川建三氏の著作は、キリスト教の出発点と真正面から向きあう直球勝負のものばかりだ。新約聖書学の研究成果を踏まえつつ、書物としての聖書の成り立ちをつぶさに明らかにし、二千年前の古文書である新約聖書を分析しながら「時代の反逆者」としてのイエス・キリスト像を生々しく描きだす。副読本の域をはるかに超える詳細をきわめた註釈つきの新約聖書の個人全訳全八冊が、二〇一六年夏の完結に向けて進行中である。

田川氏はときおりべらんめえ調までとびだす歯に衣着せぬ文章で、脇の甘い研究や聖書翻訳の不適切な部分を遠慮なく批判する、厳しい人である。しかも、神の存在は信じない(正確にいえば、不可知論者)とおっしゃる。そして同時に、まどうかたなきクリスチャンなのだ。孤軍奮闘、という言葉ほど、田川氏の仕事および仕事の姿勢を評するのにふさわしい言葉はないように思われる。
湯川豊氏によるインタビューは五時間におよんだ。おさないころどのようにしてキリスト教と出会い、やがて新約聖書の奥深くにはいりこむことになったのか、学問としての新約聖書学を選んだ先で出会ったさまざまな困難、あるいは大学教員として赴任したザイールでの希有な体験など、時間が経つのを忘れる話がつづいた。田川氏のもつ厳しさの根源に触れた気のするいっぽうで、節目ごとにあらわれる人びとに導かれるようにしかるべき道へと進んでいくことになったのは、厳しさというよりは素直さ、寛容さのなすところだったのではと感じた。運命を受けいれたうえで、ひとはどのように行動すべきか。田川氏の経験とその言葉はおおくの示唆に富んだものだった。

田川氏がインタビューのなかで触れている,恩師、大畠清氏のお名前を、もうひとりの語り手から耳にしたのも驚きだった。「大畠先生はなぜ人間に宗教があるのかということを歴史的に問うていた」――カトリックとプロテスタントの新共同訳聖書の翻訳・編集委員を務めた秋吉輝雄氏はそう振りかえりながら、「大畠先生に会わなければ、聖書学をやることもなかったでしょう」と断言する。ひとりの人間をその行く先へと導いたものが、「神」でも「神の言葉」でもなく「ひと」であったということにところを動かされる。

秋吉氏は旧約聖書の魅力を語るなかで、「人間にとって最も良いのは、飲み食い、自分の労苦によって魂を満足させること」という「コレヘトの言葉」のくだりをあげてくださった。インタビューのあいだ、ワインを口にし、葉巻をくゆらせ、対話を楽しまれる秋吉氏は、魂のつややかさを感じさせる、まさしくダンディーなかただった。
文学と聖書の深い結びつきも、興味のつきないテーマである。

欧米の文学を読んでいると、しばしば聖書の世界が見え隠れする。秋吉輝雄氏との共著『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』で、信仰の外にある作家としてさまざまな疑問をぶつけている池澤夏樹氏は、文学のフィールドから聖書を眺めている。
欧米のさまざまな作家にくわえ、父・福永武彦、そして『バビロンに行きて歌え』など自らの小説のタイトルの由来もふくめて具体的にひもときながら、文学を涵養してきた聖書を「すべてのオリジンである広大な倉庫のようなもの」に喩える。クリスチャンでなくても、文学の隣に聖書を置きながら参照し読むことのよろこび。「イエス・キリストというのはたいへん優れたスピーチライターであり、コピーライターですから、名言がたくさんある」――信仰のない者にとっては、どこからでも「つまみ読み」が許される一冊の書物である、という池澤氏の言葉を聞けば、そびえ立つ高山のように見あげ、登攀をためらっていた気持ちがゆるやかにほどけてゆくではないか。

第二次世界大戦下のホロコーストによって六百万人の同胞を殺されたユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスの著作を、内田樹氏は二十代の終わりから読みはじめ、旧約聖書を聖典解釈学のなかに置き、聖典を読むことは師弟関係を結んだ師との一対一の対話によってのみ可能になる、とレヴィナスから学んだ。ユダヤ教ではなぜ儀礼が重んじられるのか、ユダヤ教はじつは無神論に近い、といった核心にも触れながら、いわば身体的に聖典を読むこと、解釈することの本質、について語ってくださっている。
吉本隆明氏の「マチウ書試論」は、思想家としての初期の重要な著作である。吉本氏がマタイ伝を読んだのは、日本が戦争に負け、それまで信じていたものが無効になったときだった。「ペシャンコになった自分に音を立ててぶつかってくるような言葉が、つぎつぎに現れる」ものとして「自分がなぎ倒されるように読んだ」。レヴィナスにせよ、吉本隆明氏にせよ、戦争をくぐりぬけ、生き残った者として、いわば耐え難い現実と向きあうための言葉を探り、思想の足場として踏みだしてゆく拠点となったのが聖書であったことは、聖書が二千年になんなんとする時を生きのびてきた理由の一端を見せてくれている、と言えないだろうか。
しかし、もしマルクスのいうように宗教が民衆の阿片であるならば、橋本治氏へのインタビューで語られるこの言葉は、つよい解毒作用をもつだろう。「聖書はちゃんと読んだことがないんです。読もうとしていつも挫折する(笑)。その理由は、命令されることに疲れるからだと思う。聖書って基本的に命令の言葉で綴られているじゃないですか」。

マルクス、フロイト、アインシュタインという三人のユダヤ人のあり方と聖書の関係、すなわちヨーロッパの物の考え方と聖書の関係を解きながら、日本のやおよろずの神について考える。「ユダヤ教のタルムードもそうだけれど、宗教というのは心だけに対応するものじゃなくて、人の暮らしのあり方全体に対応するものだ」という橋本氏の指摘は、内田氏へのインタビューとも響きあう宗教論として、読むものを立ち止まらせる力を持つ。
たったいまのわたしたちの日常的実感は、宗教的なものからはるかに遠ざかって生きている、というものではないか。しかし、ほんとうにそうだろうか。
近年、つぎつぎと出版され、読者の数を増やしているのは、「このようにすれば、こうできます」という自己啓発本である。八〇年代前半のアメリカで「セルフヘルプ」本、すなわち自己啓発本が大流行となっていることを知った当時、どこまで本気なのかと奇異な印象を持った。しかし気がつけば九〇年代後半あたりから、日本の書店にも自己啓発本の波が押し寄せ、それは増えてゆくばかりに見える。

非宗教的に生きていると思いながら、「基本的に命令の言葉で綴られている」自己啓発本をいわば宗教の代用品として無意識に求めている、ということはないだろうか。だとすれば、宗教に似て非なる、お手軽な「命令」を読み、やがてあとかたもなく忘れてしまうよりは、二千年ものあいだ生きながらえ、くりかえし読まれてきた言葉がならぶ聖書を、時間をかけじっくり読んでみたい。あらためてそう思う。

山形孝夫氏による聖書の概説、山我哲雄氏による聖書学案内、山本貴光氏によるブックガイドは、聖書のなりたちにさかのぼり、長年にわたる人々のとりくみをたどったうえで、そこからはじまるあらたな本の旅への信頼に足る手がかり、羅針盤になってくれることだろう。

秋吉輝雄氏、吉本隆明氏は、本書のインタビューから時をおかずして逝去された。このようなお話をうかがうことができたことに深く感謝する。

松家仁之(まついえ・まさし)
一九五八年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、新潮社入社。二〇〇二年、季刊誌「考える人」創刊。二〇一〇年まで編集長を務める。退職後、二〇一二年、長篇小説『火山のふもとで』を発表。同作により読売文学賞受賞。著書に『沈むフランシス』、編著に『美しい子ども』ほか。最新作は小説『優雅なのかどうか、わからない』。

田川建三ほか (著)
出版社 : 新潮社 (2014/8/11)、出典:出版社HP

目次

誰がどのように読んできたのか――松家仁之
Ⅰ 聖書ってどんな本?――山形孝夫
①書には何が書かれているのか
旧約聖書のなりたち/新約聖書のなりたち
②日本語訳聖書のはじまり
日本最古の聖書訳/標準語訳によって失ったもの

Ⅱ 読み終えることのない本――池澤夏樹
聖書とは?/参照する、引用する/文学のなかの聖書/僕の好きな聖書

Ⅲ 旧約聖書は意外に新しかった――秋吉輝雄
耳から知った聖書/天文学から聖書学へ/聖書のテクスト・クリティーク/旧約聖書に流れる時間/旧約聖書の読みどころ

Ⅳ レヴィナスを通して読む「旧約聖書」――内田樹
ホロコーストと哲学/解釈の縛りと自由/ユダヤ教は無神論に近い/旅に出よ

Ⅴ 神を信じないクリスチャンーー田川建三(聞き手・湯川豊)
姉に引かれて/大畠清先生のこと/ストラスブール大学へ/マルコ福音書から始まった/存在しない神に祈る/無神論というより不可知論/ゲッティンゲン大学へ/ザイールでの暮らし/貧しい者は幸いなのか/新約聖書のギリシャ語/世界の「新訳」事情/二千年前の古文書/イエスという男/必死にではなく、のんびりと

Ⅵ 聖書学という科学――山我哲雄
聖書学とは何か/それは「誰の」思想なのか

Ⅶ 旧約的なものと新約的なもの――橋本治
古典現代語訳の悩ましさ/なぜ聖書が読めないか/新約的、旧約的/懺悔の効用と日本人/江戸時代のモラル/神様による構造分析

Ⅷ マタイ伝を読んだ頃―吉本隆明
終戦の日、沖へ泳ぐ/自己嫌悪から、聖書を読む/地獄の子/あなたには関係ない/「マチウ書試論」を書く

Ⅸ 聖書を読むための本――山本貴光源

山形孝夫
やまがた・たかお
宗教人類学者、宮城学院女子大学名誉教授。一九三二年、宮城県仙台生まれ。東北大学文学部卒業。同大学院博士課程満期退学。宮城学院女子大学教授、同大学キリスト教文化研究所所長、同大学学長をつとめた。著書に『聖書物語』『聖書小事典』『聖書の起源』『砂漠の修道院』『死者と生者のラスト・サパー』、近刊に『黒い海の記憶』、訳書に『マグダラのマリアによる福音書』『『ユダ福音書』の謎を解く』など。

田川建三ほか (著)
出版社 : 新潮社 (2014/8/11)、出典:出版社HP

聖書の読み方 (岩波新書)

広く人々に開かれた案内書

本書は、聖書が読みづらい理由と、どう読めば読みにくさが解消されるのかにスポットを当てています。読みづらいと感じる理由については、著者の生徒100名に対して行ったアンケート結果をもとにしているので、初心者が感じるわかりづらいポイントが的確に取り上げられています。聖書を読む前のガイドとしておすすめです。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP

目次

凡例
はじめに――聖書への招待
I聖書の読みづらさ――青年たちの声と私の経験
1 「正典」と「古典」であるがゆえの宿命
§1 聖書はただ「信じるべきもの」なのか
§2 聖書は「神さまが書かれたもの」なのか
§3 どうして部分しか読まないのか
§4 聖書は難しくて、堅苦しい
§5 間接的にしか読まない「古典」

2 聖書そのものの文書配列の不自然
§6 全体のつながりがわからず、どこから読んでも迷路に迷い込む
§7 隙間だらけの旧約聖書
§8 読むに読めないモーセ律法
§9 詩文と預言書はバラバラの断章の集合体
§10 本筋が見にくい新約聖書
§11 難渋なパウロの手紙

3 異質な古代的世界像
§12 「天地創造」は進化論と矛盾する
§13 神が創造した世界になぜ悪があるのか
§14 イエスの奇跡物語=「なぜそうなるの?」

4 神の行動の不可解
§15 暴力的で独善的な神の押しつけではないか
§16 「神の国」の譬えがわかりにくい
§17 イエスの「復活」がわからない
§18 どうして語り手の経験が見えにくいのか

5 まとめ――読みあぐねる聖書

Ⅱ 聖書をどう読むか私の提案
提案1 キリスト教という名の電車――降りる勇気と乗る勇気
§19 伝統的・規範的な読み方を相対化する
§20 「不信心」「不信仰」のレッテルを恐れない

提案2 目次を無視して、文書ごとに読む
§21 旧約も新約も個々の文書が編集されたもの
§22 物語の全体を部分から、部分から全体を読
§23 ごく普通の常識的判断を大切にする
§24 文書ごとの個性の違いを尊重する。初めから調停的に読まない

提案3 異質なものを尊重し、その「心」を読む
§25 聖書の中心=被造物としての人間
§26 サタンと「神の国」
§27 「神の国」の譬え

提案4 当事者の労苦と経験に肉薄する:
§28 原始キリスト教の「基本文法」の成立
§29 自分の生活だけでなく、書き手の生活の中でも読む

提案5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる

Ⅲ 聖書の読書案内
1 旧約聖書
§30 「モーセ五書」と歴史書
§31 預言書
§32 諸書
(1)詩歌/(2)知恵文学/(3)歴史書/(4)思想書/(5)黙示文学
§33 旧約外典・偽典
(1)歴史書/(2)黙示文学/(3)知恵文学・遺調文学/(4)詩歌/(5)手紙/(6)伝記物語/(7)歴史物語/(8)殉教物語/(9)小説/(10)死海文書(クムラン文書)

2 新約聖書
§34 福音書・使徒言行録
§35 手紙・その他・使徒教父文書
(1)パウロの真筆の手紙/(2)パウロの名による手紙と公同書簡/(3)ヘブライ人への手紙とヨハネの黙示録/(4)使徒教父文書
§36 新約外典
(1)黙示文学/(2)天空の旅と幻視/(3)使徒言行録/(4)福音書/(5)手紙・講話/(6)詩歌

3 グノーシス主義文書
あとがき

凡例
聖書の文書名と略号表
◆旧約聖書
創「創世記」
王上「列王記上」
コヘ「コヘレトの言葉」
出「出エジプト記」
王下「列王記下」
雅「雅歌」
レビ「レビ記」
代上「歴代誌上」
イザ「イザヤ書」
ミカ「ミカ書」
民「民数記」
代下「歴代誌下」
エレ「エレミヤ書」
ナホ「ナホム所」
申「申命記」
エズ「エズラ記」
哀「哀歌」
ハバ「ハバクク書」
ヨシ「ヨシュア記」
ネへ「ネヘミヤ記」
エゼ「エゼキエル書」
ゼファ「ゼファニヤ書」
士「士師記」
エス「エステル記」
ダニ「ダニエル書」
ハガ「ハガイ書」
ルツ「ルツ記」
ヨブ「ヨブ記」
ホセ「ホセア書」
ゼカ「ゼカリヤ書」
サム上「サムエル記上」
詩「詩編」
ヨエ「ヨエル書」
マラ「マラキ書」
サム下「サムエル記下」
箴「箴言」
アモ「アモス書」

◆新約聖書
マタイ福音書 マタ「マタイによる福音書」
マルコ福音書 マコ「マルコによる福音書」
ルカ福音書 ルカ「ルカによる福音書」
ヨハネ福音書 ヨハ「ヨハネによる福音書」
使「使徒言行録」
ロマ「ローマの信徒への手紙」
一コリ「コリントの信徒への手紙一」
ニコリ「コリントの信徒への手紙二」
ガラ「ガラテヤの信徒への手紙」
エフェ「エフェソの信徒への手紙」
フィリ「フィリピの信徒への手紙」
コロ「コロサイの信徒への手紙」
一テサ「テサロニケの信徒への手紙一」
ニテサ「テサロニケの信徒への手紙二」
テモ「テモテへの手紙」
ニテモ「テモテへの手紙二」
テト「テトスへの手紙」
フィレ「フィレモンへの手紙」
ヘブ「ヘブライ人への手紙」
ヤコ「ヤコブの手紙」
一ペト「ペトロの手紙一」
二ペト「ペトロの手紙二」
一ヨハ「ヨハネの手紙一」
二ヨハ「ヨハネの手紙二」
三ヨハ「ヨハネの手紙三」
ユダ「ユダの手紙」
黙「ヨハネの黙示録」

章節区分について

個々の聖書箇所は、たとえば「創世記一章1節」という具合に、章と節で表記することが慣例になっている。これを略記する場合、本書では章に漢数字、節にアラビア数字を当てて、「創一1」のように表記する。
また、ある章から比較的まとまった分量を引用する場合には、節番号を上付きのアラビア数字で表記する。たとえば「また、あなたがたも聞いている通り」とあれば、3節がそこから始まることを意味している。
福音書の箇所表記で、たとえば「ルカ一二22-28/マタイ六25-30」とあれば、二つの箇所が同じ内容で並行していることを表す(並行記事)。

引用文の翻訳について

本書が旧約および新約聖書から行う翻訳は、おもに日本聖書協会から刊行されている『新共同訳 聖書』(一九八七年)と、岩波書店から刊行されている『旧約聖書』(二〇〇四/五年)および『新約聖書』(二○○四年)を参照しながら、そのつどの判断で必要に応じて著者自身による変更を加えたものである。したがって、私訳と考えていただいて結構である。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP

はじめに

聖書への招待

よく「聖書は世界最大のベストセラー」と呼ばれる。おそらく統計上もそのとおりであろう。初めから私事にわたって恐縮だが、私がその聖書を初めて紐解いたのはいまから四五年前、大学生になって新たな知識欲に燃えていた時だった。前もってどこかで聞きかじっていた個々のエピソードや記事に出会うと、たしかにほっとして、その面白さを再発見したことも少なくなかった。
しかし、聖書全体となると、そのおそろしいまでの読みづらさに正直仰天した。大学在学中の夏休みを一回か二回費やして、全体を通読することに挑んでもみたが、読後感はまるでちんぷんかんぷん、まとまったイメージはまったく結べなかった。道筋がまったく見えない混沌の只中に置き去りにされて、ほとんど茫然自失であった。その後現在まで、当然ながら聖書以外にも大小の書物の読書体験はいろいろある。しかし、読後にあの時以上の方向喪失を覚えたことはない。

その体験が一つのきっかけになって、その後私は聖書を専門的に研究する道に進んだ。主たる研究対象は新約聖書とその周辺の文書で、歴史的に言えば、原始キリスト教史および紀元後四世紀までの初期キリスト教史である。しかし、その原始キリスト教は突如として虚空から出現したわけではない。その背後には、気が遠くなるようなユダヤ教の長い歴史がある。そのため、そのユダヤ教が「聖書」と呼ぶもの――つまり、やがてキリスト教がもらい受けてそう呼ぶことになった「旧約聖書」(以下、本書では便宜上の理由から、終始この呼び方で統一させていただく)――に対しても、必要な範囲で目配りをしてきたつもりである。やがて専門的な研究と並行して、キリスト教主義の大学はもちろん、それ以外のいろいろな教育機関でも教壇に立って、「聖書入門」あるいは「キリスト教概論」などの授業を行うようになり、通算三〇年になる。

聖書を専門的な研究の対象にまでしたということは、あれほど読みづらかった聖書に私はいつの間にか、それだけの面白さを感じるようになっていたということである。そうでなければ、大の大人が一回限りの生涯の大半をそれに費やすはずがない。しかし、ようやく最近になって、一つの反省がくりかえし私の胸を過るようになった。ひょっとして教室での私は、いま生まれて初めて聖書を読もうとしている者も少なくない学生たちに向かって、あまりにも性急に、あまりにも多く、専門的研究から見えてくる聖書の面白さばかりを語ってきたのではなかろうか。少なくとも、自分自身が同じ年頃で初めて聖書を通読した時の、あの茫然自失と方向喪失を忘れていたのではないか。教室の学生たちに限らず、いま初めて聖書を自分の手に取って読もうとしている人々が感じるに違いない聖書の「読みづらさ」を、もっと丁寧に解きほぐす努力が必要なのではないか。
では、なぜ聖書はそこまで読みづらいのか。いまの私に思い当たる理由は、大きく三つある。

聖書の読みづらさ 1

第一の理由は、聖書全体が単独でそれを通読して読解しようとする読者にはきわめて不親切な書物だということである。
旧約聖書は創世記から始まって列王記まで、ユダヤ教の祖先である古代イスラエル民族がたどった歴史をまず物語る。その後は詩編とヨブ記などを経て、大小さまざまな預言者の個人名がついた文書(預言書)が続き、全体で合計三九の文書から成っている。ユダヤ教が最終的にその三九文書に限定して自分たちの規準的な聖文書、すなわち「正典」としたのは、ようやく紀元後一世紀末のことであった。キリスト教はその後の紀元四世紀の半ばまでに、ほぼ同じ範囲の文書を「旧約聖書」として受け入れた。しかし、その配列順はユダヤ教の正典とは大きく異なったまま現在に至っている。ユダヤ教もキリスト教も正典の三九文書をそれぞれの考える配列順で公の礼拝の場で用いてきたのである。

新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書から始まって、使徒言行録を経て「~の手紙」と呼ばれる二一の文書を経て、最後はヨハネの黙示録で終わる。その文書数は合計二七である。この文書数をもって正典「新約聖書」とすることが最終的に確定されたのは、「旧約聖書」の受け入れと同じ時代であった。ただし、正典文書の配列順については、その時にも確定には至らなかった。ここでも文書の配列順はキリスト教会の礼拝の場での朗読と密接に関係していたのである。
そういうわけで、旧約聖書も新約聖書も、読者が書斎でただ一人、初めから終りまでを通読するとは、予想も期待もしていないのである。ところが、聖書は世界最大のベストセラー。わが国でも全国津々浦々、ある程度の規模の書店ならばどこでも手に入る。以上のような事情を知らない善意の読者は、当然ながら、印刷された目次に沿って読むべきものと信じて疑わない。労苦を惜しまず通読したとしても、その結果は目に見えている。かつての私自身のように、茫然自失と方向喪失である。

聖書の読みづらさ 2

読みづらさの第二の理由は、聖書では原則としていつも、神を主語として話が進むことである。
話には必ず語り手がいるはずである。その語り手は人間である。ところが、聖書の語り手は多くの場合、話の背後に隠れていて、表面には姿を現さない。その結果、読者はいつ、どこで、誰が、何のために語った(あるいは、書いた)のかがわからないまま、話の表面だけをたどっていく。神の行動に筋が通っている間はそれでも問題はない。しかし、それも長くは続かない。遅かれ早かれ、神の言動も自己矛盾を起こすことになって、善意の読者には「神は勝手だ」と感じられ、こんな神とは付き合っていられないということになりかねない。

この印象はとくに、旧約聖書を通読する時に強いはずである。それも無理はない。旧約聖書の三九文書は、たしかに正典として確定されたのは、前述のように紀元後一世紀のことであるが、それぞれの文書は紀元前の数百年にわたるイスラエル民族とユダヤ教の変転きわまりない歴史のさまざまな局面で書き下ろされたのである。もっと言えば、そこにはイスラエル民族がやっと先史時代の暗黒から脱出して歴史時代の光の下に現れ始めたころからの太古の伝説(アブラハム、イサク、ヤコブ伝說他)も書きとめられているのである。そのような悠久の歴史の中で、人間と神の間の関係、あるいは人間が神を経験する仕方が変化しないということはありえない。この変化を考慮せずには、旧約聖書は通読も読解もできない。

この事情は新約聖書についても、原則として違いはない。どの文書の語り手も自分を主語にして自分の経験について語ろうとはしない。あくまでも神、あるいは神の子イエス・キリストを主語として、両者の行動について語りたいのである。マルコ福音書八章には、ペトロが「神のことを思わず、人間のことを思っている」として、イエスに叱責される場面がある(3-8節)。イエスは自分たち一行がいよいよエルサレムに上っていくに当たり、ペトロがそこで善からぬことが起きるのでないかと怖がっているのを見抜いて、そう叱責している。「人間のことを思っている」とは、そういう意味である。
しかし、われわれが聖書を読むに当たって大事なのは、そのように怖がったペトロという「人間のことを思う」視点なのである。そんな読み方をしたら、イエスに叱られるのではないかなどと幼稚な心配をしてはならない。旧約聖書でも新約聖書でも、表面の話だけに引きずられることをやめて、話の背後に隠れている語り手が人間として経てきたさまざまな経験に肉薄すること、文字どおり「人間のことを思う」ことがぜひとも必要である。しかし、初読者にとって、この肉薄は専門的な研究の助けなしにはほとんど不可能に近い。

聖書の読みづらさ 3

読みづらさの第三の理由は、キリスト教会の伝統的で規範的な読み方が一般の読者にまで意識的あるいは無意識的に及ぼす拘束である。
すでに新約聖書が書き下ろされた時点から、旧約聖書をイエス・キリストの生涯とその出来事に対する「予言」として読む解釈が始まっている。それによれば、神はイエス・キリストの誕生、一つ一つの言動、そして最期の運命まで、すでに旧約聖書のさまざまな箇所で予告していた。そして、それらをすべてそのとおり実現させたのである。あるいは、旧約聖書の中で語られる出来事は「予型」であって、やがてイエス・キリストの生涯の出来事として到来する「本体」を先取りするものだったとする解釈もすでに行われている。

旧約聖書に対するこの読み方は新約聖書の中に無数に現れる。キリスト教会の伝統的で規範的な読み方も当然それに準じている。そのために、旧約聖書をそれ自体として読もうという意識が容易に後退してしまう。すでに述べたように、旧約聖書はもともとユダヤ教の正典であった。ユダヤ教から見ればキリスト教会のそのような読み方はあまりに身勝手な読み方である、ということが読者に意識されることは稀である。

キリスト教会の伝統的で規範的な読み方では、旧約聖書と新約聖書は一体のものとして読まれる。それどころか、一字一句が霊感によって書かれたと考える立場(逐語霊感說)では聖書全体が無謬の書とされる。すでにふれたような神の言動の自己矛盾(「神は勝手だ」)もさまざまな論理を駆使して、破れなく首尾一貫した神の行動計画の中に回収されてしまう。そこまでは行かない伝統的・規範的な読み方の場合にも、詳しくは該当する箇所で述べるように、一定の思考の枠組みが、言わば「基本文法」として存在していて、聖書全体が終始その「基本文法」から解釈される。そこでは旧約聖書と新約聖書のそれぞれの文書は、多かれ少なかれ相互に調和的に読まれる。

わが国において、このような伝統的・規範的な読み方がキリスト教徒はもちろんのこと、そうではない読者の上にも及ぼしている影響には、想像以上に大きなものがある。聖書を自分の責任で自主的に読むことに対して、ほとんど無意識のうちに、聖書は教会のもの、勝手な読み方はできない、まずは教会での読み方を知らねばならないのではないか、という自己規制が働いてしまうのである。
そのうえ、ひと口にキリスト教会と言っても実に多種多様な教派があって、部外者にはわけがわからない。なかには見るからに怪しげで、一度足を踏み入れたら、出てこられなくなりそうなものもある。さて、どうしてよいのかわからない、というのが大方の実情ではないか。そこからは密かな反撥が生じてきても不思議ではない。

自主独立で読む

本書は読者をあらためて伝統的・規範的な読み方へ導こうとするものでは決してない。むしろ、いま述べたような自己規制から解き放って、それぞれ自主的に聖書を読むように招待するものである。自主的な読み方が最初に目指すべき目標は、旧約聖書と新約聖書の書き手たちがそれぞれの経験から、神、人間、世界、歴史について語っていることをまず「理解」することである。
旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれている。私たちはどちらも複数ある日本語訳でたやすく読むことができる。しかし、すでに述べたような三つの読みづらさにまとわれているかぎり、日本語訳の聖書も依然として言わば「未知の外国語」で書かれているようなものである。

英語のことわざで「これはギリシア語だ。とても読めない。」(It is Greek. It can not be read.)と言えば、「まったく意味のわからない言葉で、ちんぷんかんぷんだ」という意味である。聖書でどれほどよいことが言われていても、それが意味のわからない「未知の外国語」で言われていたのでは、読者はちんぷんかんぷん、理解することができない。理解していないことに対しては、賛成も反対も、同意も拒絶もありえない。
私は本書を読んで下さる方々が、聖書の言わんとすることをまず理解した上で、一つでも多くの点でそれに共感されるようになることを願っている。しかし、その共感とは、聖書の一つ一つの文章や記事をそのまま真理として受け取ることではない。まして、特定の教派的な読み方に賛成することでもない。そうではなくて、読者が聖書を読んで自分自身と世界を新しく発見し直す出来事(P・リクール)のことである。

私自身の経験

私自身には、くりかえし思い出されるそのような出来事が二つある。そのどちらも、それまで何度読んでもさっぱり意味のわからなかった聖書の箇所が、日常生活のふとした瞬間に、予期せぬ仕方で、「わかった」と思えた出来事である。
一つはマタイ福音書五章33-37節である。マタイ福音書の言う「山上の垂訓」(五十七章)の一部である。そこでイエスは、次のように語っている。

また、あなたがたも聞いている通り、昔の人は「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と言われている。しかし、この私はあなたがたに言う。一切誓うな。天にかけても誓うな。そこは神の玉座だからである。地にかけても誓うな。そこは神の足台であるから。エルサレムにかけても誓うな。そこは大いなる王(神)の都だからである。また、あなたの頭にかけても誓うな。あなたは一本の髪の毛すら白くも黒くもできないからである。あなたがたは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。これ以上のことは悪しき者(サタン)からくるのである。
その時の私は下宿の小さな部屋に閉じこもって、大学の卒業論文にかかりきりだった。当時(一九六七年)は昨今とは対照的に、右肩上がりの経済の高度成長が始まった頃で、大学生の就職も売り手市場だった。しかし、卒業後は企業に就職しようと考えていた私は不安だった。就職活動ほど、学生が他者による自己評価と自分による自己評価の一致と不一致に敏感になる時期はないであろう。目の前には未知の実社会が扉を開けて待ち構えている。いままで毎日が自分の自由になる時間だと信じて疑わずに生活してきた学生にとって、突如、明日からの未来がもはや自分の手の内にはなく、何かつかみどころがないほど巨大な他者の意志によって左右されることが感じ取られる。そう感じれば感じるほど、少しでも自分の未来を確保して、それを設計したくなる。それは自分が自分に立てる「誓い」である。

ところが、イエスは「一切誓うな」と言う。なぜイエスはそう断言できたのか。その根拠はその時の私にはわからなかった。しかし、イエスが未来を自分とはまったく違う仕方で見ていることは鮮明に了解された。そう了解された時に私が覚えた深い安堵感は、うまく言葉に直せないまま、いまなお忘れられない経験として私の中に生きている。

もう一つは創世記三章1-9節である。世界中の人々が、読んだことはなくても知っているほど有名な場面である。
神ヤハウェが造った野のあらゆる獣のなかで、蛇が最も賢かった。蛇は女に言った、「園のどの木からも取って食べてはならない、などと神がおっしゃったとは」。女は蛇に言った、「私たちは園のどの木の実でも食べてよいのです。ただ、園の中央にある木の実からは食べてはならない。これに触れてもならない、死ぬといけないから、と神は言われました」。蛇は女に言った、「けっして死ぬことはない。実は神はあなたがたがそれを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなたがたが神のように善悪を知るようになることをご存知なのだ」。

女が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目の欲を誘っていた。その木はまた人を聡明にしてくれそうであった。そこで、彼女はその実を取って食べ、彼女と共にいた男にも与えた。彼も食べた。「すると二人の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつなぎ合わせて腰を覆った。
彼らはその日、風の吹くころ、園を往き来する神ヤハウェの足音を聞いた。アダムとその妻は神ヤハウェの顔を避けて園の木々の間に身を隠した。神ヤハウェは、アダムに呼びかけて言った、「おまえはどこにいるのか」。
その時の私は、あるキリスト教主義の女子大学で聖書入門の講義中だった。「みなさん、キリスト教では、アダムとエバが最初に犯した罪が先祖代々すべての人間に受け継がれてきていると言われるのを、一度は聞いたことがあるでしょう。それはこの場面のことですよ」。そんな紋切り型のことを言いながら、私の目は突然、最後の「おまえはどこにいるのか」という神の言葉に釘付けになった。そして記憶ははるか昔、小学校の低学年の頃の自分にフラッシュバックした。

その頃はそもそもテレビ放送というものがまだ存在しなかった。少年たちの楽しみは手塚治虫の「少年アトム」や横山光輝の「鉄人28号」などのマンガを別とすれば、毎日夕方、ラジオで流される空想時代劇番組だった。「笛吹き童子」や「紅孔雀」などが記憶に残っている。免許皆伝の少年剣士が次々と現れる悪役や怪物をなぎ倒して、見事与えられた使命を達成するのである。
時代は、テレビがまだない代わりに劇場映画の全盛期だった。ラジオ放送が完結すると、ただちに映画化されて、全国津々浦々の映画館で封切りとなった。そのたびに私は親に小遣いをせびって、夢中になって友達とそれを見に通った。
映画館から家に戻ると、さっそく野原で仲間といっしょに映画を真似たチャンバラごっことなる。そのためにはどうしても木か竹の刀が要る。私もある日、炊事用の薪のなかから適当な木材を見つけてきて、切れないナイフで苦労しながら一本の刀を削り出した。

そのときふと見ると、隣りの家の小さな庭先にダリヤの花が咲き誇っていた。その長くて細い茎はいかにも試し切りにはもってこいで、「目の欲を誘っていた」。次の瞬間、私は駆け寄るが早いか、出来たばかりの刀でその茎を横に払った。咲き誇っていた花はものの見事に切断されて宙を飛び、数メートル先に着地した。着地するのを見た瞬間、私はワナワナと震え始めた。気づいてみればそのダリヤは、平素私を可愛がってくれていた隣りのおじさんが大事に育てていたものだった。私は刀を放り出すと、一目散で走って家に帰り、布団の詰まった押し入れに身を隠した。布団の手前では、襖を開ければすぐに見つかってしまう。布団の向こう側、押し入れの一番奥の板壁との間の暗がりが唯一の安全地帯と思われた。

その暗がりの中で、当時聖書とは無縁の私が「神さま」に願ったのはただ一つ、時間をたった五分でいいから逆戻りさせてください、ということだった。そうすれば、すべてが元通りになる! もちろん、それはかなわなかった。どれほど私は自分を嫌悪したことか。所詮、すべては仲間も見ていたことである。やがて夕方の買い物で留守だった母親が戻ってきた。ただちに事情を聞かされたのであろう、「タカシ、タカシ、おまえはどこにいるの」と、私を探しまわる声が押し入れの奥にまで聞こえてきた。女子大の講義中に私が突然フラッシュバックしたのは、母親のこの声だった。それは創世記三章9節で「おまえはどこにいるのか」とアダムを探す神の声そのものだった。「園の木々の間に身を隠した」アダムとは、あの時押し入れの奥の暗がりに隠れていた自分のことではないのか。

その時、はじめて創世記三章が私にとって単なる神話ではなくなった。逆に、何十年も前のダリヤ事件とその時の自分の行動の意味が新たに了解された。本当のゆるしはいくら自分で自分を嫌悪しても得られるものではない。それは隣りのおじさんのゆるしとして、自分の外側から与えられるしかないものである。そのことも、その時初めて了解した。よく知られたポップソングの一節に、「青春時代の真ん中は、胸に棘さすことばかり」とある。もちろん、「胸に棘さす」体験は青春時代だけに限られるものではない。貴重なのは、それがやがて得がたい経験として還ってくることである。
ここに紹介したのはあくまで私の個人的な経験である。しかし、聖書の前で自己と世界を新しく了解することは、誰にでも、どこでも起きうるし、起きて然るべきことである。それなしでは、伝統的・規範的な聖書の読み方と特定の信仰箇条(教義)への同意という意味での「信仰」も、無意味な「力わざ」にとどまり、決して長続きしないだろう。
真の経験は遅れてやってくる。それを慌てず静かに待つことが重要である。本書がそのために、聖書の読みづらさを超える手引きとなるならば幸いである。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP

聖書入門 (岩波新書)

現代においての聖書の意義がわかる

本書は、旧約・新約聖書の成立事情とその背景を、歴史的観点から記された一冊です。また、本書独自の項目として、西洋文化と聖書、東洋の精神的風土と聖書の関係などにも触れています。聖書に関する独自の意見を知りたいという方にもおすすめです。

小塩 力 (著)
出版社 : 岩波書店 (1955/12/16)、出典:出版社HP

はじめに

――「セイショ」って、いったい、どういう本なのですか。

こういう質問にあって、とうわくしない人があろうか。なぜなら、質問者の気持やねらいが、十人十色だからである。「これが聖書です。お読みになってごらんなさい」。こういって、聖書を差し出してみても、それだけでははじまらない。新しい口語訳聖書で、総計一七〇〇頁以上もあり、そのなかに六六の独立文書が並んでいて、さて一言の説明語るないからである。もし、何を聞こうとするのか、どういう態度でたずねるのかが、すこしでも分れば、いくらか方途も立つであろうが。

――聖書は、どうしてできたのですか。

質問の範囲が、この程度にでも縮められると、歴史的知識をあつめととのえて提示すれば、いちおうは責任をはたしやすい。それにしても、まとまった一つの書物としての成立事情を明らかにするのと、そのなかの諸資料が形づくられた過程を確かめるのとでは、方向にずれがある。また、このような文書をうみだした母胎である、民族や社会集団の、歴史的実体をとらえるにしても、その社会学的現実と宗教的現実とが、必ずしもかさなるとはいいかねる。かような困難にもかかわらず、本書の内容の半ばは、こういう質問への答のつもりである。

――聖書は、西欧文化の真髄に触れるためには、どうしても知っていなければならないので、 しょうね。

そうですね、と肯定するのは、あたりまえのようである。たしかに、西欧の歴史と文化を理解しようとするかぎり、キリスト教を除外したら、まったく見当ちがいになるおそれがある。キリスト教の経典たる聖書の、ことばや考えかたが、欧米の思想や文学のなかに滲みとおり、社会習慣などを規定していることも、あきらかであろう。キリスト教信仰が、教会という特別な社会集団のかたちに結集し、二千年の西欧の歴史と倫理とを特色づけたことは、じじつである。
しかし、反面において、聖書は、ここでほんとうに残りなく解明されたのだろうか、と質問しかえされるかもしれない。いままでに、聖書の真理は、その全貌をあらわにしているのだろうか。わたくしどもは、聖書のなかに湛えられている深い真理のある部分には、東洋をはじめ異教諸民族の深刻な疑いや新鮮な問題提起と接渉して、はじめて明かになるものがあると思う。そういう点に、本書は、若干の示唆を提供しようとした。

――聖書は、それではいったい、どんな本なのですか。

最初の問が、内容と目標と特色とについて、ひとまわり進展したとする。こうくりかえすにつれて、われわれは、聖書に関して、「宗教的」な文書を予想し期待していることに気づく。よし、賛否の別はあろうとも。科学や芸術の教科書でないことは確かなのだし、宗教経典といって間違いではない。しかし、ここに問題もひそむであろう。
バイブルといういいかたが、今日でも、いっぱんに流通している。これによって、聖書は、 もと、ただ「書物」にほかならぬこと、に注意すべきである。ただ、われわれの敬虔の情を投射して、形容語「聖」を附加せずにおられなかった。それが一般化して、聖書といえば、キリスト教の経典である新旧両約の書を意味するようになっている。けれども、この書は、一つの宗教書であることに満足しないであろう。聖という語のもつ超越的な意味内容が、あらためて、考えられねばならぬ。人間の、きわめて人間的な書であることによって、そのままで、神の「啓示」という特別な、超越的ともいうべき事実と真理とを含んでいることを、主張せずにはおられない。人生の根棋には、一般原理のかたちではなしに、人格的事実として人格的に出会うほか、その秘奥に触れるすべのないもののあることを、聖書は示す。知識からはいって、ついに全人格的に触れてくるものが、ここにある。こういう方向を、本書は、ほのかにでも指し示したいと、念じている。

一九五五年一一月三日
小塩カ

なるべく、はじめてのかたに、聖書にたいする興味をもっていただきたいと念願して、筆をとったつもりである。しかし、志していたほど平易には、書けなかったかとおそれる。とくに、頁の分配をたくみにできなかったために、ひじょうに重要な文書、パウロの手紙については軽くふれるだけになってしまった。またの機会を期待していただきたい。
なお、附録として、本文と正典について略述した。これは、I旧約聖書、正新約聖書のまえに、通読してくださることを希望する。

凡例

一、聖書の引用は、原則として、日本聖書協会発行の「口語聖書」によった。
一、しかし、必要の場合まれに、元訳その他のいいまわしによったこともある。たとえば、旧約聖書で、もとならばエホバとあったところ、口語訳では「主」と統一している語を、
厳密を要するときには、しばしば「ヤハウェ」と書いた。
一、固有名詞は、聖書に出てくるものは、原則として口語訳の読みかたにしたがった。他の
ものは、それぞれの国の発音からあまり遠くないようにと心がけた。
一、聖書の書名や章節において、省略の要をみとめたときには、略符号を用いた。たとえば、
「テサロニケ人への第一の手紙二章一三節」は、テサロニケー二・一三、「列王紀下一○
章五節」は、列王下一〇・五、というふうに。
一、巻末に、簡略な年表、地図、索引を附した。

小塩 力 (著)
出版社 : 岩波書店 (1955/12/16)、出典:出版社HP

目次

I 聖書と世界
一 欧米文化と聖書
二 東洋精神と聖書

Ⅱ 旧約聖書
一 その成立の背景
二 旧約諸文書
イ 六書
口 預言者
ハ 諸書

Ⅲ 新約聖書
一 その成立の背景
二 新約諸文書
イ 福音と福音書
口 使徒行伝
ハ バウロの手紙
ニ 公同書簡、その他
ホ ヨハネの黙示録

Ⅳ 聖書の特色
一 唯一神
二 仲保者
三 罪と死とからの救い
四 虚無からの脱出
五 新しいヒューマニズム

附録 本文および正典について
年表
索引

小塩 力 (著)
出版社 : 岩波書店 (1955/12/16)、出典:出版社HP

この一冊で「聖書」がわかる!: 旧約、新約のあらすじから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教まで (知的生きかた文庫)

すべての疑問に答える最強の入門書

本書の「序章」の項で、いかにキリスト教が世界に浸透しているかが記されています。それは日本も例外ではなく、西暦も婚姻制度もキリスト教由来のものです。本書は、聖書に精通していない方向けに書かれていて読みやすいので、入門書としておすすめです。

もくじ

序章 一番わかりやすい「聖書の世界」
世界は『聖書』を中心に動いている?
フランス国旗・アメリカ大統領の就任式……なぜここに『聖書』が?
「世の中の善悪の基準」もここから生まれた!
イェルサレムはなぜ三つの宗教の聖地になった?

第1章 『旧約聖書』『新約聖書』とは何か?
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の根は同じ!?
キリスト教とユダヤ教――『聖書』のとらえ方はどう違う?
【コラム】聖書から出たことわざ

第2章 『旧約聖書』に書かれたユダヤの歴史
紀元前二十世紀、イスラエルの地で何が起こっていたか?
ユダヤとは「神を讃美する」という意味である
あらゆる民族の宗教は”アニミズム信仰”から始まった

「多神教」の世界に生まれた”唯一神”
「創世記」のアブラハムは、なぜカナンへ旅立ったのか?
パピルスに書かれた元祖『聖書』
苦難はヤコブ一族のエジプト移住から始まった(「出エジプト記」)
神がモーゼに与えた「十戒」とは?

「出エジプト」後の苦難の道――ユダヤ人はなぜ故国を失った?
紀元前十二世紀、遊牧民族から統一王国へ
ダビデ王――イスラエル人にとって理想の救世主
なぜイェルサレムが聖地となったのか?
「ソロモンの栄華」から「バビロニア捕囚」へ―――唯一神への背信
ユダヤ人の選民思想・救世主願望はここから生まれた
【コラム】ユダヤ人はなぜ優秀か

第3章 イエズス・キリスト――ユダヤ教とキリスト教の分岐点
ユダヤ教とはどんな宗教なのか?
「実在の人」イエズスは、救世主かそれとも預言者か
世間の度肝を抜いた、イエズスのこんな行為
ユダヤ教の戒律は、なぜこれほど厳しいのか?

イエズスの教えとユダヤ教の決定的な違い
病人・貧しい人はそれだけで「罪人」!?
だから、イエズスの行ないや言葉は「神への冒濱」ととらえられた
「貧しき者は幸いである」が意味すること
イエズスの起こした奇跡を解明すると……

なぜイエズスは十字架にかけられたのか? :
イエズスはなぜパリサイ派を批判したか
宗教裁判で有罪、そして死刑に――その政治的理由

キリスト教のもっとも重要な教えとは?
十字架での「最期の言葉」の真相
人間の「愛」とは何か
「天国」はいったい、どこにある?
どんな神を信じていても救われる
「憎むべき人をも、愛せよ」―イエズスの教えの核心とは?
【コラム】聖書が禁じている食物

第4章 『新約聖書』の世界―キリスト教はなぜ迫害され、なぜ発展したのか?
十二使徒とはどんな人々だったのか?
小心で卑怯者だった十二人の男たち
「イエズスの復活」は本当にあったか?
「聖霊」とは?――イエズスの死後、十二使徒に起こったこと

『聖書』に描かれた”神と人間”
『聖書』の存在理由がここにあった!
アダムとエバの「失楽園」物語が示す”罪”とは?

「使徒行伝」――どうすれば「愛の力」をもてるのか
最初の殉教者ステファノ――キリスト教の迫害と発展の始まり
「パウロの改宗」―迫害の急先鋒パウロはなぜ劇的な回心をしたか?
使徒ペトロの心をくつがえした「幻」
「クリスチャン」の誕生とパウロの伝道旅行
【コラム】ステファノによる旧約聖書のダイジェスト(「使徒行伝」よりの抜粋)

なぜキリスト教は迫害を乗り越え拡大したか?
増え続けるキリスト者たちが抱えた”大きなジレンマ”とは?
暴君ネロ、キリスト教徒迫害のため、ローマに放火!
奇妙な書物「ヨハネの黙示録」が書かれた理由
「黙示録」に記された数字の謎
【コラム】パンにこめられた意味

第5章 『聖書』から生まれたユダヤ教・キリスト教・イスラム教
ローマ帝国への反乱―ユダヤ教とキリスト教の決定的分裂
迫害されたキリスト教が、なぜローマ帝国国教に?
差別・追放されるユダヤ教

イスラム教はどのようにして生まれたか?
【コラム】聖書に使われている言語

第6章 『旧約聖書』のダイジェスト―何が書かれているのか?
モーゼ五書
[創世記]――天地創造・ノアの方舟・バベルの塔
[出エジプト記~民数記]――ユダヤ人が頑なに守り通す律法
【コラム】聖書に見る男女観

歴史
[ヨシュア記・士師記]――ヘブライ人のカナン征服の物語
[ルト記(ルツ記)]――ダビデ王の出自が示唆するもの
[サムエル記II]――イスラエル王国はいかにして建設されたか
[列王紀I・]――ダビデ王の死から王国の崩壊まで
[歴代志II]――アダムから始まる系図と歴史の書
[エズラ記・ネヘミヤ記]――イェルサレムへの帰還と再建外
[エステル記]――ペルシア王と結婚したユダヤの美女エステル

詩歌
[ヨブ記]――信仰心篤いヨブが語る”不条理な不幸”
[詩篇]――十字架でイエズスが口ずさんでいた言葉
[箴言(格言の書)]―――信仰心篤い生活を送るための格言集
[伝道の書]――この世のむなしさを語る
[雅歌]――神と人間を象徴した”男女の愛の歌集”

預言書
預言者とはどんな人間か
[イザヤ書]――イエズスの誕生から死までを預言
[エレミヤ書]――紀元前六世紀、ユダ王国の堕落を警告
[哀歌]――ユダ王国の滅亡とイェルサレムの破壊を悲しむ
[エゼキエル書]――バビロニア捕囚後、新しい神の国を預言
[ダニエル書]――迫害されたユダヤ人を励まし奮起させる
[ヨナ書]――『ピノキオ』のヒントになった物語
【コラム】「律法学者」や「ラビ(Rabbi)」という表現について

第7章 『新約聖書』のダイジェストーー何が書かれているのか?
福音書
「福音書」とはどういうものか?
[マタイによる福音書]――『新約聖書』はなぜ”系図”から始まっている?
[マルコによる福音書]――もっとも簡単で読みやすい福音書
[ルカによる福音書]――”順序よく確実に”書かれたイエズスの行ない
[ヨハネによる福音書]――イエズスの神性を強調
中立的立場でいるための『聖書』の読み方

手紙
[ローマ人への手紙]――個人、人類の救いから隣人愛まで
[コリント人への手紙Ⅰ・Ⅱ]――不品行なコリントの信者に説く
[ガラテヤ人への手紙]―――律法の奴隷にならないこと
[エペソ人への手紙]――教会の正統性を述べる努
[ピリピ人への手紙]――獄中から書かれた「喜びの手紙」
[コロサイ人への手紙]――キリスト教の三要点を説く
[テサロニケ人への手紙I・Ⅱ]――キリストの再臨を強調
[テモテへの手紙I・Ⅱ]――愛弟子に送った指導者の心構え
[テトスへの手紙]――パウロの手紙の断片を編集
[フィレモンへの手紙]――奴隷オネシモを帰すときの私信
[ヘブライ人への手紙]――高度なキリスト論を記述
[その他の手紙]――全教会と信者に宛てられた教義の書
【コラム】聖書に見る金銭感覚対

『聖書』全巻目次
本文デザイン・DTP 玉造能之(デジカル)

上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門

楽しく読める聖書入門

本書は、「ゆるくざっくりとキリスト教に親しんでもらう」ことをコンセプトに書かれています。実際、たくさん比喩を用いたゆるい口語体で書かれていて、クスッと笑える箇所もあります。スラスラと読めるので、読み物としてもおすすめの一冊です。

上馬キリスト教会 (著)
出版社 : 講談社 (2018/11/29)、出典:出版社HP

はじめに

この本のコンセプト ~ ゆるくざっくりとまいります ~

この本は「ゆるく、ざっくりと」キリスト教に「親しんでもらう」ことをコンセプトにした本です。キリスト教を「理解する」ためには他のもっとまじめな本を読んでいただく必要がございます。あらかじめご了承ください。今もしあなたが本屋さんでこの本を立ち読みしつつ、買おうかどうか迷っていらっしゃるなら、その点はくれぐれもご理解いただいたうえでレジに向かっていただければ幸いです。また、この本はキリスト教を「伝える」こともコンセプトにはしておりません。ですからもし今あなたが「この本を読んだら『勧誘』とか『伝道』とかされちゃうんじゃないか、いやもはや『洗脳』されちゃうんじゃないか」と危惧しておられるなら、その心配は一切ご無用です。むしろこの本を読んで「キリスト教って素晴らしいな!信じよう!」とか思う方がいらっしゃったら、私たち、全力で止めます。「早まるな! もう少し他の本を読んだり、ちゃんとした神父さんや牧師さんの話を聴いてからでも遅くないから!」と言います。

この本はノンクリスチャン(キリスト教徒ではない人たち)に向けて書いた本ですが、クリスチャンの方が読んでもそれなりには楽しめると思います。ただしこの本を書いている私たちは神父でも牧師でもない、ただの一信徒です。ですから「ここのところが神学的に……」とか「教義的にこの書き方はどーかと思う!」とか言われても知りません(断言)。「そんなんで信徒が増えると思うのか!」とか「それじゃ正しくキリスト教が伝わらない!」とか言われても知りません(さらに断言)。そういう方はもっとちゃんとした偉い先生方の書いた「神学書」とか「信仰書」とかを読んでください。「それは違うなー」と思う箇所があっても、「そういう説もあるのか」とか「そういう考え方の奴もいるのか」くらいに読み流していただければ幸いと思います。
この本では神様や信仰について、いくらか「ふざけて」書いている箇所が多々ありますが、それは決して神様や聖書をバカにしているわけではありません。それは苦い薬にシロップを入れて飲みやすくするようなことです。聖書や信仰についての話は、まじめにやってしまうと、非常にとっつきにくくなります。
ですから私たちはまず「とっつきやすい」を優先事項に掲げて、この本を書いています。故に「ふざけた描写」も多いですが、そのあたりはクリスチャンの方々も、諸先生方もどうか怒らずに受け流してくだされば幸いと思います。

お前ら誰だよ? ~上馬キリスト教会です~

どうして神父でも牧師でもない奴が、キリスト教についての本を書いてるんだよ? お前ら何者だ?
……という質問があるかもしれません。私たちは東京都世田谷区にある上馬キリスト教会という教会の信徒です。ただの信徒です。平信徒です。
2015年2月からTwitterというSNSで、キリスト教や聖書について140字で楽しく伝える、という活動を行い続けてきた結果、神様の恵みをいただいて、ありがたいことに現在では9万人を超えるフォロワーさんを得るに至りました。それをきっかけに「そのコンセプトで本を出してみませんか?」というお話をいただき、せっかく本にするのであれば、140字という制限を外して、もう少し自由に書かせていただければ、ということで書くことになったのがこの本です。
もともとの私たちの活動コンセプトが「笑いながら聖書に親しんでもらう」ですから、この本も当然、そのようなコンセプトになります。私たちがやりたいことは「宣教」でも「伝道」でもありません。強いて言うならば「そこのあなた、ちょっと一緒に聖書を楽しんでみない?」です。そのうえで、「上馬教会に行ってみたい」という方がいらっしゃれば、それは望外の喜びでありますし、もちろん心から歓迎致しますが、決して「うちの教会に人を呼ぶため」に書いているわけではないということはご理解くださいませ。

キリスト教ってなに? ~長くなるのでざっくり書きます~

キリスト教ってなに?聖書ってなに? と、まじめに問うて、まじめに答えようとすると、恐らくうんとまじめな本を何百冊と読んでも最終的な答えは出ないでしょう。ですからここではざっくりと答えることにしますが、キリスト教とは「父なる神と、イエス様と、聖霊とを、自分たちの神として生きる教え」です。「父なる神ってなに? イエス様って誰?聖霊ってなに?」となると、もう非常に話がややこしくなるので、それを知りたい方はもっと難しい本を読んでください。そのあたりは上馬教会の牧師である渡辺俊彦先生の『神学生活入門』という本を読むと分かりやすく……といってもかなり難しくて分かりにくいですが……書いてあります。
聖書ってなに? と問われたら、この本での答えは「クリスチャンが人生の指針とすべき歴史書」です。「聖書って物語じゃないの? 歴史書なの?」とか問われると、これまたこの本のコンセプトから外れた、ひどく難しい話になりますから、ここでは割愛します。これまた、知りたい方はもっと難しい本を読んでください。そのあたりは上馬教会の牧師である渡辺俊彦先生の『神学生活入門』という本を……(あんまり他の出版社さんの本を宣伝すると怒られるのでこのへんでやめておきます)。

クリスチャンってどんな奴らだ? ~普通の一般市民です~

2000年前に生きたイエス=キリストという人物を神として崇め、日々祈り、聖書を読んで生きている「クリスチャン」という人種は、この日本にも1.1%(『宗教年鑑』平成四年度版)います。そしてそのクリスチャンたちは、仏教徒さんたちや、神道の八百万の神を信じている皆さん、無宗教の皆さん、その他の宗教を信じている皆さんと同じように、学校に行ったり会社に行ったり、ご飯を食べたりお風呂に入ったり、電車に乗ったり買い物をしたり、と、ごく普通に一般市民として日々の生活を送っています。違うところといえば、せいぜい「日曜日に教会に通う」ことくらいのものです。

クリスチャンは決して他の皆さんにとって「遠い存在」ではないんです。私たちの言いたいことは、「信じなさい」でも「聖書に従いなさい」でもありません。「教会に遊びに来てみて!」です。日本ではお寺や神社に行く機会はたくさんあって、お坊さんや神主さんはそれだけ親しみのある方々なんでしょうけれど、日本人の多くの方は滅多に教会は訪れませんし、神父や牧師とふれあうこともありません。結婚式で教会を訪れても、多くの場合、残念ながらそこにいる牧師さんや神父さんは「偽物」です。ちょっとそのへん、クリスチャンは「寂しいなー」と思っているんです。「もっと気軽に遊びに来てくれたらいいのに」と思っているんです。お寺や神社に行っても「君もうちの檀家(氏子)になりませんか!」なんて勧誘されることはありませんよね。教会だって同じことですから、もっと気軽に遊びに来てもらっていいんです。

と、いうわけで ~はじめにのおわりに~

……と、少々「はじめに」が長くなってしまいましたが、そろそろ「はじめに」をおわりにしたいと思います。この本で一番長い文章は恐らくこの「はじめに」だと思います。あとはだいたい500~800字を一記事として電車の中やトイレの中といった「スキマ時間」に気軽に読めるくらいの長さになっています。ほんと、気軽に楽しく読んでいただければ嬉しく思います。読む順番は、一応なんとなくは、最初から最後に向けて順番に読んでもらうと分かりやすく項目を配置しているつもりですが、それほど一生懸命に並べたわけでもありませんから、適当に「お! おもしろそうだな!」と思ったところから順不同に読んでいただいても大丈夫かと思います。
そんなわけで以後、しばらくの時間、よろしくお願い致します。

上馬キリスト教会 (著)
出版社 : 講談社 (2018/11/29)、出典:出版社HP

目次

はじめに

「聖書」をほんとうにざっくり紹介します
旧約聖書をざっくり概観
新約聖書をざっくり概観

PART1 キリスト教Q&A
そもそも教会ってなに?
クリスチャンじゃなくても礼拝に行っていいの?
天動説を信じているんでしょ?
教会ってどんなご利益があるの?
聖書って「神話」とか「物語」の類いでしょ?
進化論を否定しているんでしょ?
イースターってどんな日?
よくある質問に大ざっぱに答えます。

PART2 聖書名シーン
ダビデとゴリアテ ~ Giant Killing ~
ライオンの穴の中のダニエル ~本当は怖い聖書~
大魚に飲まれるヨナ ~ヨナさんは反抗期~
東方三博士の礼拝 ~カメラ目線のボッティチェリ~
カナの婚礼
サロメ ~The King of 不気味~
キリストの変容
最後の晩餐
ゲツセマネの夜
磔刑図 ~聖書のクライマックス~

PART3 教会用語辞典
アーメン ~教会用語のエースで4番!~
兄弟・姉妹 ~ Hey, Brother! ~
砕かれる~なかなか素直になれないの~
サタンの妨害だ! ~嫌なことはみんな悪魔のせい~
シャローム ~教会用語四天王~
聖餐式~血と肉を喰らう儀式?~
洗礼(バプテスマ) ~「○○の洗礼」はちょっと……~
つまずく~誰だって「嫌になる」ことはあります~
ハレルヤ〜大きな声で元気よく!~
奉仕 ~ボランティアとは違います~
ホサナ ~「ハレルヤ!」との熾烈なポジション争い~
導き ~みちびきぃ〜〜!!~
恵み~苦しくったって、恵みだから平気なの~

PART4 使徒列伝
ペテロ ~ドジでおっちょこちょいな使徒のリーダー~
大ヤコブ ~大声大会なら任せとけ イエス様の側近~
ヨハネ ~使徒一番のナルシスト。弟キャラのビジュアル系~
アンデレ ~ザ・優等生。イエス一行の受付係~
イスカリオテのユダ ~裏切り者の代名詞は、意外と常識人?~
ピリポ ~癒やし系使徒は「ドラゴンクエスト」の初代勇者?~
バルトロマイ(ナタナエル) ~グロテスク使徒大会優勝候補筆頭~
マタイ ~元悪徳税務官の嫌われ者~
トマス ~疑いのトマス、イエス様の傷口に指を突っ込む?~
小ヤコブ ~地味だけど実はイエス様のそっくりさん~
タダイ ~風評被害の典型例。「忘れられた聖人」~
熱心党員シモン ~現代で言えば過激派活動家~
マッテヤ ~追加加入の新メンバー~
パウロ ~有史以来最強の手紙魔~

PART5 聖書のよくある誤解、カン違い
「3」が不吉なのは聖書由来?
「キリスト」は名字ではない。
「禁断の実」はリンゴじゃなかった?
クリスマスはイエス様の誕生日ではない?
神様は越えられない試練も与えます。
偶像礼拝は「像」を拝むことではない。
星座はギリシア神話由来だから聖書には出てこない?
右頬を叩かれたら左頬も……の本当の意味は?
マリアはダビデの子孫ではない?

PART6 聖人たちの意外な一面
イエス様はイケメンではなかったし、痩せてもいなかった?
実は酒乱だったノア
それなりに平和な余生を過ごしたカイン~世界初の殺人事件のその後~
意外と荒くれ者だったモーセ
ハゲをからかわれてブチ切れたエリシャ
偏食家だったバプテスマのヨハネ
マザコンだったヤコブ
卵の白身が嫌いなヨブ
お腹の空いたイエス様は怖い

PART7 日本の日常に潜む聖書
豚に真珠
聖書にもある「三本の矢の教え」
地鎮祭
目からウロコ
福神漬けは偶像礼拝?
大岡裁きの元祖はソロモン

おわりに

上馬キリスト教会 (著)
出版社 : 講談社 (2018/11/29)、出典:出版社HP

「聖書」をほんとうにざっくり紹介します

旧約聖書をざっくり概観

ここでは、まず聖書をざっくりと概観しておこうと思います。そのほうがこの先を楽しみやすくなりますから。ただし、ほんとにざっくりですから、これを読んだからといって合コンで「俺、聖書に詳しいんだぜ」とか言ってはいけません。ではまず、旧約聖書から始めましょう。

旧約聖書はその名の通り「旧い契約の書」です。聖書とはざっくり言えば「神様と人間との契約の書」なんです。つまり契約書です。旧約聖書はイエス様がこの世に現れる以前の、人間と神様との契約について記されています。と言っても決して「第1条 この契約は甲と乙の…」といわゆる契約書のように書かれているのではなく、歴史物語や詩、ことわざなど様々な形式で書かれています。旧約聖書は「創世記」から「マラキ書」まで。39巻の書で構成されています。
はじめの「創世記」では神様が天と地を創造し、最初の人間であるアダムとイブが創られ、アダムとイブが禁断の実を食べて神様から怒られ……というところから始まって、有名なノアの方舟の大洪水の話や、「信仰の祖」と呼ばれるアブラハム、その息子イサク、さらにその息子ヤコブ、さらにさらにその息子ヨセフの生涯が記されています。アブラハムは「100歳で子どもが生まれた人」、イサクは「井戸を掘った人」、ヤコブは「神様と相撲をとった人」、ヨセフは「エジプトの総理大臣みたいな偉い人になった人」と、ええまぁこんな感じに覚えておけば大丈夫です。

「創世記」が終わって、「出エジプト記」に入ると、かの有名なモーセさんが登場します。映画『十戒』で有名な、海をパッカーンと割ったおじさんです。なんのために海を割ったかというと、追ってくるエジプト兵からイスラエル人たちを逃がすためです。海水浴ではしゃいだ勢いで割ったわけではありません。出エジプト記というのはその名の通り、イスラエル人がエジプトを脱出する話で、主人公のモーセさんはその指導者だったということです。出エジプト記が終わっても「レビ記」「民数記」「申命記」と、この出エジプトの旅についての書が続きますが、退屈なので飛ばしていいです。
その後はしばらく歴史書が続きます。怪力サムソンや、落ち穂拾いのルツ、ダビデ王、ソロモン王などが出てきます。このへんの名前だけ覚えておけばとりあえずOKです。
これらの歴史書の後で、注目すべき書は「ヨブ記」です。このヨブさんほど神様に痛めつけられた人はいません。神様から一見「理不尽」に思えるほど酷い目に遭わされて、そこからどうやってヨブさんが立ち直ったかが書いてある書で、非常に解釈が難しく、クリスチャンの間でもよく争になる書ですから、初めて聖書を読む場合は後回しにしてもよいと思います。この書にあんまりハマると人生について悩んでしまったりしますから注意が必要です。

神を讃える詩集である「詩篇」、ことわざ集の「箴言」、ラブソングを集めた「雅歌」を経て、最後は預言者たちについて書かれた書が続きます。「予言者」ではありません。「預言者」です。先のことを予知する人たちではなく、神様の言葉を「預」かって人々に話す人たちのことです。神様はこの預言者たちを通して人々に語りかけたので、彼らの言葉それ自体が「神様との契約」ということになります。預言者もたくさんいますが、ここではイザヤ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、ダニエル、ヨナくらいの名前をなんとなく覚えてくださればそれでいいです。中でもイザヤはイエス=キリストの降臨を告げる人ですから最も重要な預言者だと言えます。イザヤーイエス、このラインが旧約聖書と新約聖書をつなぐ一番太いパイプだと言えます。もちろん他の箇所でもパイプはたくさんあるのですけれど。
以上! ものすごくざっくりした旧約聖書の概観でした!
「いくらなんでもざっくりしすぎだろ!」いいんです。だってあんまり長いと僕が書くのも大変ですし、皆さんだって読むの大変でしょ? ね、だから最初に言ったじゃないですか。これを読んだからって合コンで「俺、聖書詳しいんだぜ」なんて言えませんよって。

新約聖書をざっくり概観

さぁ引き続いて、今度は新約聖書をざっくりと概観しましょう。旧約と同じくらい、ものすごくざっくりいきますからそのつもりで。これを読んだからといって就職の面接で「聖書を学びました」なんて言ったらダメですからね!
新約聖書はその名の通り「新しい契約書」です。旧約聖書の契約はかなり厳しいもので、人間には守りきれませんでした。契約を守れない人間は神様に裁かれなくてはいけません。しかしそれは可哀想だっていうことで、神の子であるイエス=キリストがこの世に降りてきて、新しい契約を私たちと締結してくださいました。その契約が記してあるのがこの新約聖書です。新約聖書は「マタイの福音書」から「ヨハネの黙示録」までク巻で構成されています。
新約聖書のはじめは、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ……と、恐ろしく退屈な系図が語られます。これ、旧約聖書に精通した人が読むと「前回までのあらすじ」の役割を果たすらしいですが、精通していない人にとってはただの退屈な系図ですから飛ばしてしまってOKです。とにかく、アブラハムやダビデの子孫としてイエス様が生まれたのだ、ということだけ押さえておけば大丈夫です。
新約聖書の最初の書は「福音書」と呼ばれ「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」と4つありますが、どれもイエス様の生涯を記したものです。4人の記者が四者四様の視点でイエス様の言動を書き記すことで、立体的なイエス様が「見えてくる構造になっています。

そこに描かれているイエス様の生涯をざっくり書きます。まず生まれます。皆さんクリスマスでおなじみの、馬小屋で生まれて三人の博士がやってきて……のあれです。大エヨセフの子として育ち、8歳の時に旅立ち、水をワインに変えるところから始まって、パンと魚を増やしたり、病人を治したり、死人をよみがえらせたり…とたくさんの奇跡を起こし、「山上の説教(垂訓)」をはじめとするたくさんの教えを残し、そしたら当時の偉い人たちに「あいつ生意気!」と目をつけられて、逮捕されて、テキトーな裁判にかけられて「死刑!」ということになって、十字架につけられて死んでしまいました。
と、普通の人だとここまでで「イエスの生涯完」となるのですが、クリスチャンにとってはこの後のことが最も大切なことです。十字架で死んでしまったイエス様が、3日目によみがえった「復活」のできごとです。一般の人だと「死人が生き返るわけねーベ」と信じないのですが、クリスチャンは基本的にこの「復活」を歴史的事実として信じています。そしてこの「復活」がキリスト教の根幹をなしています。旧約・新約を通して聖書で一番大切なところはどこ? と聞かれたら「復活!」と答えるのが一番正しい答えだと思います。そのくらい大切なところです。でもいきなり信じろと言っても無理ですから、ノンクリスチャンの皆さんは「クリスチャンはイエスの復活を信じている」ということだけ覚えておいてくださればそれでいいと思います。

福音書が終わると、主人公はイエス様からペテロやパウロなどの使徒たちにうつります。使徒というのは簡単に言えばイエス様の直弟子で、イエス様の命をうけて教会の成立に実際に奔走した人たちのことです。「使徒の働き」には使徒たちの活躍が描かれていますし、そのあとに続く「○○への手紙」シリーズは、彼らが各地の信徒に向けて書いた手紙が記録されています。説教臭い面もありますが、クリスチャンが実際の生活で気をつけるべきことの多くはこのシリーズの中に書いてあります。
最後は「ヨハネの黙示録」という書で終わります。聖書って旧約も新約も、過去の出来事を記してあるのですが、黙示録だけは例外で、未来のことが記してあります。世界の終わりのことが書いてあるんです。「ハルマゲドン」とかそういった、ちょっと怖い未来のことです。この書は、暗示的な記述が多くて非常に解釈が難しいんです。神父さんや牧師さんたちだって「これは難しい……」と頭を抱えてしまうような書ですから、私たちのような一信徒ではとても解説できません。ですからこの本ではあまり触れないことにします。「聖書の最後には、世界の終わりについて記した書がある」と、これだけ覚えておいていただければよいかと思います。

以上! ものすごくざっくりした新約聖書の概観でした!
「○○のエピソードが抜けてるじゃないか!」「○○について、もっと詳しく書かなきゃ概観とは言えない!」「こんなんじゃ、就職の面接で『聖書を学びました』って言えないよ!」 などなど、いろんな苦情はあるでしょうが……
うるさーい!
「はじめに」にも書いたじゃないですか、この本はそういう本だって。
この本、買って読み始めて、そろそろがっかりし始めている人がいるんじゃないかと、ちょっと心配ですが、全部はとても無理としても、いくつかのエピソードはちゃんとそれなりにこれから先のコーナーで扱いますからもう少し辛抱してくださいね。

上馬キリスト教会 (著)
出版社 : 講談社 (2018/11/29)、出典:出版社HP