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キリスト教の理解を深める

キリスト教についてもっと知りたい、知識を増やしたといった場合にまずは読みたい書籍を紹介します。日本人との関わり、また信仰するためでなくキリスト教自体への興味など人向け様々な視点での入門書があり、ぜひキリスト教について学んでいきましょう。

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出典:出版社HP

キリスト教と日本人 (ちくま新書)

宗教について見つめ直す

「日本人はなぜキリスト教を信じられないのか」「信仰とは、また宣教とはいったい何なのか」といった疑問に対し、日本へのキリスト教伝来から始めて、近現代に至るまでの宣教の歴史を辿り、正面から見つめ直そうとした非常に良い本です。一読の価値ありでおすすめです。

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP

目次

はじめに
キリスト教の矛盾を見つめる/そもそもキリスト教の歴史は「長い」のか/キリスト教は「新しい」?/世界に最も大きな影響を与えた人物は誰か/信仰があるのかないのか、という問い

第一章 キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はない?
1 ザビエルが期待した日本人
ザビエルとその時代/四隻のうち二隻がたどり着ければ大成功/
アンジローの不思議な運命/「なぜ日本語は縦書きなのだ?」/ザビエル、四六歳で死去/ザビエルが宣教で重視したもの/宣教と商売/現実主義的なザビエル/日本人からザビエルへの質問/キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はないのか?/十戒を実質的に守っていたら大丈夫?/現在の主流派の見解
2 宣教師たちの挑戦と葛藤
仏教が低迷していたからキリシタンが増えたのか/戦乱のなかでの宣教/慈善は宣教にプラスにならなかった?/仏教とキリスト教は似たようなもの?/既存の思想との類似/キリシタンはキリスト教を正しく理解していたのか/誤解が解けて、対立へ/トーレスによって軌道にのった日本宣教/差別的な宣教師らいた/日本人は「白人」?/ヴァリニャーノが与えた教育

第二章 戦争協力、人身売買、そしてキリシタン迫害
1 激変するキリスト教事情の背景/四人の日本人少年、ローマに向かう/四人のその後/信長、秀吉とキリスト教/宣教師たちの武力行使のすすめ/宣教と戦争は矛盾しない?/宣教師と軍事に対する感覚/キリシタン大名の戦いを支えた宣教師/日本が侵略される可能性はあったのか/戦争は「文化の発露」である
2 キリシタンと「人界の地獄」
伴天連を追放せよ/宣教にはお金が必要/迫害の始まり/神社仏閣を破壊したキリシタンと宣 教師たち/日本人奴隷が売買されていた/「奴隷」という言葉は少し曖昧/人身売買を禁じた 秀吉/人身売買に関与していたイエズス会宣教師/宣教師による「進物」の強制/刀狩りと大仏造り/日本をキリスト教化させる狙い/本格的にキリスト教が禁じられる/不干斎ハビアン によるキリスト教批判/「踏み絵」の時代へ/「強かったから鎖国」/「崩れ」と「転び」/さまざまに考案された拷問/「人界の地獄」

第三章 禁教高札を撤去した日本
1 復活したキリスト教
来航/宣教師に「発見」されたキリシタン/プティジャンの報告 クレキリシタン」について/キリシタンは「変容」などしていない?/「キリスト教とは何か」という根本的な問題へ/ようやく禁教高札が撤去される/宣教師フルベッキと岩倉使節団/軍隊建設のすすめ/拳銃を携帯していた宣教師/さまざまな社会の変化/宣教師のもとへ送り込まれたスパイ
2 日本人の信仰と宣教師たち
入信の際に求められた覚悟/「理解」してから信仰するのか?いかがわしい改宗者も多かった?/「宗教的熱狂」のない日本人/仏教からの攻撃とキリスト教の対応/人々に認められる ための手段としての「禁酒/禁酒運動のその後/「ド・口さま」と呼ばれた神父/パリ外国宣 教会/ド・口の医療活動/多芸多才だったド・ロ/ド・口の建築/枢機卿を輩出したド・口の宣教地/私利私欲ではなく、宗教の勢力拡大のためでもなく

第四章 「本当のキリスト教」は日本に根付かないのか
1 それでも嫌われたキリスト教
英語を学びたい日本人/英語と聖書に通じていた軍人/英語教育に熱心だった宣教師たち/教育現場で攻撃されたキリスト教徒の教師/井上哲次郎のキリスト教批判/高札撤去後も続いたキリスト教への拒絶反応/キリスト教の側も不寛容だった/村八分と葬儀の妨害
2 宣教師 ニコライと日本人
宣教師ニコライ/日露戦争と日本の正教会/戦争と宗教と愛国心/プロテスタントの宣教師は「ろくでなし」/同じ「キリスト教徒」でも……/ニコライの日本人理解と期待/日本人のキリ スト教迫害に理解を示したニコライ/日本人には「宗教的な渇き」がないのか/日本の庶民の宗教的感情/ニコライの失望と成果/時代の流れに恵まれなかった正教会/ニコライという男

第五章 「キリスト教」ではなく「キリスト道」?
1 その宗教の日本語名は「キリスト教」
「キリスト教」という呼称を疑う/「クリスチャニティ」をどう訳すか/「宣教」新しい日本 語/やっぱり「キリスト道」/求道、入道、邪道など/結局「キリスト教」になった/「宗教」 る非常に新しい/しばらくは不安定だった「宗教」概念/宗教と教育の近接性/「先生」が教 えてくれたキリスト教
2 日本でキリスト教徒が増えない理由
か増えないキリスト教徒/日本はキリスト教の根を腐らせる「沼地」なのか/キリスト教は「お騒がせ宗教」/日本人がキリスト教を敬遠した理由/宣教師たちの傲慢と自文化中心主義/二一世紀現在も、日本でキリスト教徒は増えない/キリスト教嫌いのパターン/「ぼくは 宗教嫌いなんですよ」だいたいこのような理由でキリスト教を信じない/宗教は「教え」を 「信じる」ことなのか

第六章 疑う者も、救われる。
1 信徒たちの「信仰」とはいったい何か。
信徒たちは本当に「信仰」をもっていたのか/信徒ならばキリスト教を「理解」しているとは限らない/「理解」していない信徒も、その宗教を支えてきた/「濃い宗教」と「薄い宗教」/キリスト教は本当に一神教?/「神の使者」と「キリストの代理者」/聖書の教えに従わなくてもる「キリスト教徒」である/キリスト教国にもスリがいる/背教者と信仰/キリスト教の「受容」とは何か/「信じる」のは宗教に限った話ではない/宗教とは思考の停止なのか
2 信じなくてもいい
どんな芸術が「宗教的」なのか/信仰は「究極的な関心」である/疑う者も救われる/マザー・テレサは誰よりも強く「信じて」いたのか/「神の不在」をつぶやいたマザー・テレサ/「わたくしの信仰は無くなりました」/「信じる」ことにこだわらない/意外と現実的な「肝っ玉おっ母ぁ」/キリスト教を信じなくてもいい

あとがき
参考図書案内

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP

はじめに

キリスト教の矛盾を見つめる

日本人の九九%は、キリスト教を信じていない。
本書では、その九九%の「信じない日本人」の方々に、今までどおり信じないままで構わないので、日本人とキリスト教との関わりについて考えていただきたいと思う。
ただし、それは決してキリスト教の素晴らしさをわかってほしいとか、逆にキリスト教のダークサイドを知ってほしいとか、そういう狙いからではない。
本書の目的は、これまでの日本人のキリスト教に対する眼差しや、来日した宣教師たちの言動を糸口にして、そもそも宗教とは何か、いったい人間とは何か、という大きな問いに向かうきっかけを提供することである。
キリスト教は、単なる良い宗教でもなければ、単なる悪い宗教でもない。私たち人間は誰しも多面的であり、優れた面もあれば愚かな面もある。キリスト教も、そんな矛盾した人間によって営まれる以上、ポジティブな面とネガティブな面の両方があり、全体としては矛盾したものでしかありえない。
かつて、信徒が「バテレン門徒」とか「キリシタン」と呼ばれていた頃の日本では、彼らは 迫害され、火炙り、水責め、穴吊りなど、おぞましい拷問もおこなわれた。映画にもなった遠藤周作の小説『沈黙』で描かれたとおりである。しかし、キリスト教徒は被害者である一方で、加害者でもあった。彼らは世界各地で、信仰の名において残虐な行為もおこなった。キリスト教徒同士で殺し合い、異教徒を攻撃し、侵略や虐殺を繰り返したことも事実である。
ならば、神の「沈黙」はこれまで少なくとも二種類あったと言わざるをえない。すなわち、 迫害に苦しめられたキリスト教徒に対する「沈黙」と、残忍なキリスト教徒に苦しめられた人々に対する「沈黙」である。
だが、実際のキリスト教徒のほとんどは、完全な善人にも完全な悪人にもなりきれず、迷ったり悩んだりしながら、誰かを愛し、同時に誰かを傷つけ、それぞれの人生を中途半端にもがいて生きてきたのである。
キリスト教は、全体として見るならば、人間というもののいかんともしがたい現実を示す壮大な実例だとも言える。
キリスト教の信仰を持たない九九%の日本人にとっては、複雑でわかりにくいその教義や思想よりも、むしろキリスト教のなまなましい矛盾と限界それ自体の方が真の意味での宗教的思索のきっかけになるのではないだろうか。

そもそもキリスト教の歴史は「長い」のか

さて、キリスト教には二○○○年の歴史があるとされている。
二○○○年の歴史というと、何だかとても長いと思われるかもしれないが、本当にその歴史は「長い」のだろうか。いったい何と比べて「長い」と言えるのか。
ギリシャでは、イエスの誕生より七○○年も前に『イリアス』『オデュッセイア』『神統記』などが書かれているし、『論語』の孔子が生きたのるイエスより約五○○年も前である。
キリスト教は、ユダヤ教から派生した宗教なので、当然ながらユダヤ教の方が歴史は長い。仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教なども、キリスト教が誕生するはるか以前から存在している。
釈迦はイエスより四○○年前もしくは五○○年前の人物であり、ジャイナ教の開祖ヴァルダーマーナもだいたい同時期である。ゾロアスターの生存年代には諸説あり、イエスより六○○年前とする説が有力だが、一二〇〇年前とする説もある。
文字で書かれたものとしては、インドの『リグ・ヴェーダ』がイエスの約一二〇〇年前、『ハムラビ法典』はイエスより一七〇○年以上前、『ギルガメシュ叙事詩』の古バビロニア版は イエスより約一八○○年も前のものである。
古代エジプトや古代メソポタミアでは、イエスが生まれる三〇〇〇年以上前から都市国家や統一国家が生まれており、そこにはさまざまな「神」があって、儀礼が営まれていた。
私たちの祖先が、舟、弓矢、縫針、装飾品などを作り出したのは、七万年前から三万年前にかけてであるが、当時の小像や洞窟壁画などからも、その頃にはもう確かに「宗教」や「芸 術」と言えるものがあったと考えられている。
何を「宗教」と定義するかにもよるが、すでに一○万年以上前の遺跡から死者を丁重に葬った明らかな痕跡が見つかっているので、世界の宗教史を概説する際には、しばしばそのあたり までさかのぼるのが一般的である。

「キリスト教は「新しい」?

要するに、イエスが生まれるはるか以前から、人々は、何かを崇拝し、何かを祈り、何かを信じ、世界の始まりやこの世の善悪について考え、生と死の意味について問うてきたのである。こうした単純な事実を踏まえると、「キリスト教」は、この世の普遍的真理を述べているとするわりには、意外と最近生まれたさまざまな文化のうちの一つに過ぎないことを認めざるをえないだろう。やや大袈裟な表現になるかもしれないが、ホモ・サピエンスがアフリカ の約七万年間を七メートルの長さだとすると、キリスト教の歴史は、その七メートルのうち、 最後のわずか二○センチでしかない。もちろん、歴史が長ければその宗教の価値や真理性が高まるというわけではないし、逆に、新しい宗教ならばそれだけ洗練され優れているというわけでもない。ただ、この宗教をいったん徹底的に相対化して眺めておくことは大切だと言いたいのである。「キリスト教が日本に伝わったのは、一六世紀半ばのことである。「日本でキリスト教は、一時期は信徒を増やしたが、わずか六○年ほどでそれを信仰することが禁止されるようになり、その状態が約二六〇年も続いた。「日本人の多くが落ち着いてキリスト教について検討・考察できるようになったのは、実質的には一九世紀末になってからだと言ってもいい。キリスト教史を二〇センチの長さだとすると、日本人はまだそのうちの一センチ、あるいはそれにプラス五ミリくらいの付き合いしかないということである。

世界に最も大きな影響を与えた人物は誰か

だが、それにもかかわらず、私たちはキリスト教という宗教を軽視することはできない。その理由は、やはりその宗教文化が、今私たちが生きているこの社会の形成に大きな影響を与えているからである。
これまでの人類史において、後の世界に最も大きな影響を与えた人物を一人挙げるとしたら誰であるかを考えてみよう。科学者、発明家、政治家、軍人など、いろいろな人が挙げられるだろうが、宗教家もかなり有力な候補になるだろう。
今現在の世界で最も信徒数の多い宗教はキリスト教である。世界の総人口約七〇億人のうち、キリスト教徒は約二三億人、イスラム教徒は約一七億人だ。キリスト教信仰の有無や好き嫌いは別にして、イエスこそ良くも悪くも後の世界に最も大きな影響を与えた人物だ、という意見があってもおかしくはない。
日本の歴史も、キリスト教を抜きにしては語れない。戦国時代や明治時代に日本にやって来た宣教師たちのインパクトはやはり強烈で、彼らの宗教はわが国の政治や文化に極めて大きな影響を与えたのである。
キリスト教や宣教師に対するこれまでの日本人の接し方を振り返ることは、今の私たちがあらためて「日本人」について再考するうえでも、重要な鍵の一つになるかもしれない。 「宗教」という言葉は、一九世紀の後半にreligionの翻訳語として定着した、極めて新しい日本語である。Christianityが「キリスト教」と訳されて、その訳語が定着したのも、実はほぼ同時期である。「神道」があるなら「キリスト道」でもよかったと思われるが、なぜ「キリスト教」になったのだろうか。そこには、すでに当時の日本人なりの「宗教」観があったからである。日本人とキリスト教、というテーマは、単なる特定宗教の話にとどまらず、「宗教」や「信仰」そのものについて、今る多くの日本人が当然だと思い込んでいることを疑ってみるための、ちょうどよい糸口になるであろう。

信仰があるのかないのか、という問い

ところで、キリスト教に関する本を書くと、多くの読者は、著者自身はキリスト教徒なのか、そうでないのか、という点に関心を持たれるようである。あらかじめ先入観を持った方が読みやすいのか、あるいはその本の中立性を気にされているのかわからないが、とにかく知っておくと安心できるようである。それにお答えすると、私自身は、自分をキリスト教徒であると認識している。某教派で洗礼を受けているので、キリスト教徒ですかと問われれば「はい」と答えている。非キリスト教徒の方々は、私のそうした返答を実に素直に受け入れて下さる。
ところが、逆にキリスト教徒の中には、その宗教に対して懐疑的なこと言う私のような者はキリスト教徒ではないと考える方いらっしゃるようで、かつて、ある年上の信徒の方から、あなたには信仰がない、と言われたこともある。
しばしば、キリスト教徒たちは、自分の信仰についてだけでなく、この人はどうか、あの人はどうか、と他人の信仰の有無やその姿勢についてまで気にする。キリスト教史はそういう話の積み重ねだと言ってもいいからしれない。
だが、素直に考えると、確かにふだん私たちは本当の自分とは何なのかあまりよくわかっていないままなんとなく生きているものなので、自分には信仰があると思っていても本当は無いということも、可能性としては否定できない。
では、いったい「宗教を信じる」とはどういうことなのだろうか。自分や他人の信仰の有無を問題にすることにはどんな意味があるのだろうか。そもそも、宗教は「信じる」ものなのだろうか。
実は、こういった問いそれ自体が、本書の究極的なテーマでもある。明確な答えは出せないかもしれないが、本書がそうした問いの立て方について再考するきっかけくらいになれたらいいと思っている。
以下で扱う事柄は時間的にも空間的にも限られた範囲内のものではあるが、それでも関連する先行研究の量は膨大で、とてもその全てに目を通すことはできなかった。せめて事実認識には誤りがないよう注意したつもりだが、もし何かお気付きになられたら、何卒ご教示いただければ幸いである。

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP

キリスト教は役に立つか (新潮選書)

キリスト教について理解を深める

日本人著者でよくありがちな知識偏重型のキリスト教論とは異なり、信仰体験やキリスト教の真髄本質を理解されている方の書物です。わかりやすくてとても楽しく読めるので多くの日本人におすすめです。

来住 英俊 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/27)、出典:出版社HP

はじめに

キリスト教の風光 私は一九五一年生まれですが、たぶん典型的な戦後日本の宗教風土の中で育ちました。兵庫県の地方都市にあった父の実家はいちおう臨済宗のお寺の檀家でしたが、法事をするくらいで、祖父も祖母もそれほど仏教というものがわかっていたとは思いません。子供のころ、夏休みに祖父の家を訪れての思い出は、蝉がミンミンと鳴く寺の木立の中のお墓、そして家屋の暗い一室に並べてあった位牌です。暗がりの中に揺れるローソクの灯りと、位牌の金文字が目に残っています。 父は神戸に出て来ていたので、普段はお寺とは没交渉でした。父が子供を連れて行ったのは、むしろ神社です。正月にはよく京都の北野天満宮に家族で行きました。教育熱心だったので、勉強がよく出来るようになって、(漠然としたイメージではあるけれど)ひとかどの人物になってほしいと思ったのでしょう。私が小学生中学生だったのは六〇年代です。「立身出世」という言葉がまだまったくの空語ではなかった時代です。 その私が三十歳になって、カトリック信者になりました。大学の法学部を卒業したあと、典型的な日本の大企業(電機系)に就職したのですが、いろいろ考えるところがあって、入社六年目、一九八一年に洗礼を受けました。そして、さらに一年在社したのち退職して、カトリックの神父への道を歩み始めました。六年間そのための勉強をしてから神父になって、もうすぐ三十年です。 今の私はカトリック信者になって良かったと思っています。大胆に言うと、より幸福になりました。その「幸福」を、できるだけ宗教的な語彙を使わずに、世俗に近い言葉で話してみる。それがこの本の執筆趣旨です。皆がキリスト者(キリスト教の信者のこと)になるべきだとは思っていませんが、私にとって良かったことを「それは自分にも良いことかもしれない」「人生の役に立つかもしれない」と感じてくれる読者がいれば嬉しいと思っています。 キリスト教を唯我独尊、押し付けがましい宗教だと思っている人は多いようです。たしかにそのように振舞った時期があるので、まったくの誤解だとは言えない。しかし、現在のキリスト教の主潮はそうではありません。長い伝統を持つ他の宗教にも敬意を持っており、その宗教の道を歩いても良い人生を送ることができるだろうと考えています。とは言っても、良い人生というその「良さ」は宗教によってやはり違うはずです。「わけのぼる麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」という歌があって、どの宗教も到達する場所は同じようなものだという考え方をする人もあります。しかし、どの宗教の道でも頂上にまで達したと言える人はそういないはずだし、まして複数の道を登り切った人がいるとは思えません。同じ高嶺の月を見たとどうして言えるのか、ちょっと不思議です。それに、宗教は現実に地上を生きている人たちの営みですから、その実体は到達点よりも、実際に歩く道の風光の中にあります。歩く道の風光の中に、いつか到達するはずの頂上の美しさを予感するとも言えるでしょう。キリスト者の歩く道の風光を、本書で紹介したいと思います。 キリスト教信仰の要約 哲学者のフィヒテが言ったことだそうですが、「定式化するということは、人間が人間に対してする最大の親切の一つである」。思想とか宗教とか文学について言われた格言でしょう。ジャン・ギットンがさらにそれに注釈して、こう書いています。 それは知恵のしみとおった定式でなくてはならず、知恵のはたらきを少しもやめないでいて固定する定式でなくてはならない。 (J・ギットン『新しい思考術」中央出版社) 世の中には価値のあるもの(そう主張されているもの)がたくさんありますが、それを全部片っ端から自分で品定めしていくことなんかできません。しかし、誰かに「ポイントはこういうことなんだ」と定式的に要約してもらえると、それじゃ門を入ってみようかという気になることがあります。そしてその要約は、さらに深く入って行くための導きの糸にもなります。つまり、要約の中のあるフレーズをさらに展開するという形で理解を深めていくと、迷子にならずにすみそうです。それをキリスト教信仰についてやってみました。私はこう要約します。 キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない。キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むことである。その旅路の終着点は、「神の国」と呼ばれる。 キリスト教は長い歴史を持ち、広大な地域に広がる思想的社会的運動ですから、一つの要約でその全体を網羅することはとてもできません。たとえば、キリスト教とは、「神の子が十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖った」と信じる宗教だと聞いている人もあるでしょう。それはそれで間違いではないのですが、日本人にとってのキリスト教信仰への入り口としては適切でないと思うので、私の要約の中ではクローズアップされていません。「神と人がともに旅路を歩む」の中に含ませているつもりです。 私は現代の日本人がキリスト教についていくらか知ろうとするなら、この要約を入り口にするのが最もよいと考えています。人間がこの地上を生きることの最も深い充実は、「一対一」の関係性を深めることの中に見出せると思うからです。本書では、この要約を、手を変え、品を変えして展開していきます。もちろん、別の要約の仕方のほうが適している人もあることは承知です。 映画やドラマのパターンの一つであるロードムービー(Road Movie)を考えてもらうと、「語り合いながら、ともに旅路を歩む」ということのある程度のイメージがつかめると思います。ある事情があって、二人が旅をはじめます。一人で出発して、途中で相棒に出会うこともあるし、最初から二人のこともあります。ロードムービーはアメリカ映画に多いですが、西海岸から東海岸までとか、長い旅をします。だいたい自動車に乗って旅をしています。その途中でいろんなことが起こる。旅に出るということは、人生について何か割り切れないものを抱えているということなんですが、一緒に旅をしながら、事件が起こって考えさせられたり、あるいは人と出会って話をしたりする。その中で、どうしても割り切れなかったものが少しずつ解きほぐされていって、出口が見え始める。同時に旅路もどこかに到着します。これがロードムービーです。 日本で最も有名なロードムービーは、高倉健が主演した「幸福の黄色いハンカチ』です。殺人罪を犯して刑務所に入っていた中年男が、妻の住む家に向かって旅をします。受け入れてもらえるかどうか、不安です。途中で若いカップルと出会って、一緒に旅をすることになります。未熟な二人ですが、彼らと交流することで、中年男も少しずつ心が変わってくる。若い二人も人生の辛苦を額に刻んだ中年男と交流するうちに少し成長していく。そしていつしか、目的地、つまり妻の住む家に到着する。エンディングはもちろん幸福な再会です。「ロードムービーに外れなし」と言いたいくらい、どの作品をとってもそれなりに良いという気がします。人生の根源的なパターンを踏まえているからでしょうね。普通に会社や家でずっと暮らしていても、人生は旅路であると考えることができます。そこには旅路の友というものがある。そして旅路には目的地があるということです。ロードムービーは、もともと日本にはない発想です。弥次喜多道中で人生は変わらない。キリスト教信仰と結びついた人生の見方だと思います。キリスト者にとって、旅の道連れはイエス・キリスト自身です。 神と人間を類比的に考える本書では、「人と人が一緒に旅路を歩む」ということについて、いくらかの自己啓発的な知恵も提供したいと思っています。ノン・クリスチャンの方々の参考にもなることを期待しているので、その根拠を述べておきます。 カトリック・キリスト教は、神について語ろうとするとき、人間との類比(アナロジー)を用います。人間の事情から推し量って、神の事情を理解して、それを語ろうとします。類比的思考の一つは属性に関わる類比です。「神は自由である」と言うなら、それは「人間は自由である」こととの類比で言っているのです。もちろん、神について言われる自由と、人間について言われる自由がまったく同じであるはずはありません。しかし、重なり合う部分が相当あるはずだと考えるのが、属性の類比的思考です。聖書によれば、人間は「神の似姿」として創造されたからです(創世記1章8節)。 そこから出発して、どこが重なり合い、どこが違うのかを考察するという仕方で理解を深めていきます。考察といっても、安楽椅子に座って哲学的な思考をめぐらすだけではありません。人間社会の中で実際に自由を生きようとするのです。また、神との関係を生きようとします。本論で詳しく述べることですが、キリスト者にとって神との関係は、単なる理念ではなく、現実の関係です。そうする中で、「神の自由」と「人間の自由」を体得していきます。神の自由について理解が深まるだけでなく、そこからの照り返しで、人間が自由であるとはどういう意味かについての見方も深まります。 もう一つの類比的思考は、関係性に関するものです。神と人間のあいだの関係は、人間Aと人間Bのあいだの関係になぞらえて理解することができます。比例式にすると、こうなります。 神:人間=人間A:人間B 人間と人間が一緒に歩む経験から、神と人間が一緒に歩むことについて理解を深めていきます。また一方で、キリスト者が神と共に歩んだ経験に支えられて、人間と人間が一緒に歩むことについての洞察を深めていきます。この循環の中で、キリスト者の生き方はスパイラル的に少しずつ深まっていくものです。そして、後者、つまりキリスト者が体得した「人と人が一緒に歩む」ことについての実践的な知恵は、キリスト教信仰を共有しない方にも何らかの参考になるのではないかと期待しています。

来住 英俊 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/27)、出典:出版社HP

目次

はじめに 第1章 キリスト教は役に立つか 1 キリスト教も現世利益を祈る 2 「祈り」とは「対話」である 3 神と人間はどのように語るのか 4 「神との対話」は自問自答ではない 5 神は、いつもそこにいる 6 神と交渉できるのか 7 神にはユーモアも通じる 8 神には文句も言える 9 神が人間に質問する 10 神は全能者・全権者である 11 神とは誰のことか――三位一体を考える 12 願い事は叶うのか 13 願い事の叶い方にはいろいろある 14 祈りの時間感覚 15 祈りを向上させるのは、祈ることそのもの 16 奇跡がなければキリスト教じゃない 17 キリスト教は肯定する 18 なぜ世界には悪や不幸が溢れているのか 19 神と折り合いがつかない 20 神との対話が始まらない場合 21 なぜ願いが叶わなくても信じる人がいるのか 22 キリスト教信仰のパラドックス 23 神と和解するということ 第2章 キリスト者はイエスの存在をどのように感じるのか 24 イエスが部外者であったとき 25 イエスが自分の世界に入ってきたとき 26 イエスが旅の伴侶になるとき 27 イエスが「自分の世界」の中心になるとき 28 遠藤周作「侍」を読む① イエスが部外者であったとき 29 遠藤周作「侍」を読む② イエスが視界に入ってくるとき 30 遠藤周作「侍」を読む③ イエスが旅の伴侶になるとき 31 遠藤周作「侍」を読む④ イエスが世界の中心になるとき 32 強烈な回心体験はなくてもいい 33 イエスと話をすると自分が変貌する 34 イエスと「まれびと」 35 定期的な祈り 36 経験と言葉 第3章 「共に生きる」とはどういうことか――キリスト教の幸福論 37 他人への怖れ 38 世界への怖れ 39 自分への怖れ 40 「不安に満ちた世界観」にどう対抗するか 41 なぜ「独りでいるのは良くない」のか――「自己幻想」と「共同幻想」 42 なぜ「共に生きる」のか――「対幻想」を重視する 43 「共に生きる」とは「助け合う」ことではない 44 キリスト教はなぜ結婚を重視するのか 45 知る喜び、知られる喜び 46 技芸職能と「共に生きる」 47 「人を動かす」のはやめる 48 「受ける」ことの意義 49 死との向き合い方 50 旅の到着地 おわりに

来住 英俊 (著)
出版社 : 新潮社 (2017/4/27)、出典:出版社HP

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

キリスト教の考え方を学ぶ

三大宗教について広く浅く神観念等について説明されていて、宗教を学ぶ上で1番理解しずらかった信仰する人の気持ちや各宗教の神に対する考え方が分かります。興味がある方にも、知見を広げたいという方にも、初心者向け面白く読めるのでおすすめです。

橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
出版社 : 講談社 (2011/5/18)、出典:出版社HP

まえがき

「われわれの社会」を、大きく、最も基本的な部分でとらえれば、それは、「近代社会」ということになる。それならば、近代あるいは近代社会とは何か。近代というのは、ざっくり言ってしまえば西洋的な社会というものがグローバル・スタンダードになっている状況である。したがって、その西洋とは何かということを考えなければ、現在のわれわれの社会がどういうものかということもわからないし、また現在ぶつかっている基本的な困難が何であるかもわからない。 それならば、近代の根拠になっている西洋とは何か。もちろん、西洋の文明的なアイデンティティを基礎づけるような特徴や歴史的条件はいろいろある。だが、その中核にあるのがキリスト教であることは、誰も否定できまい。一口に「キリスト教」と言ってもいろいろあり、対談でも話題にしているように、大きく分けただけでも、ローマ中心の西側のキリスト教(カトリック)と正教会(オーソドクシー)とも言われる東側のキリスト教がある。西洋の文明的なアイデンティティの直接の根拠になっているのは、西側のキリスト教であり、とりあえずは、これを「キリスト教」と呼んでおこう。西洋とは、結局、キリスト教型の文明である。つまり、西洋は、世俗化してもなおかつどこかキリスト教に根を持っていることが大きく効いているような社会である。 近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった。大局的に事態をとらえると、このように言うことができるだろう。 ところで、この事実が、日本人にとっては大きなつまずきの石になっている。以前、橋爪大三郎さんが私との私的な会話で使われていた表現をお借りすると、いまある程度近代化した社会の中で、近代の根っこにあるキリスト教を「わかっていない度合い」というのをもしIQのような指数で調べることができたとしたら、おそらく日本がトップになるだろう。それは日本人が特に頭が悪いということを意味しているわけではない。そうではなくて、日本があまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあったことがその原因である。 たとえば、比較の対象としてイスラム教を考えてみる。「文明の衝突」などと言うときに、西洋と衝突する文明として主として念頭におかれているのは、イスラム教圏である。つまり、今日しばしば、イスラム教の伝統の下にある文明圏は、西洋と非常に違うものの典型のように言われている。確かに、イスラム教とキリスト教は別の宗教である。しかし、そのイスラム教でさえも、キリスト教と同じ一神教であり、キリスト教と類似の着想の上に成り立っている。イスラム教とキリスト教の距離は、日本の文化的伝統とキリスト教の距離よりは、はるかに小さい。あるいは、東アジアに目を転じて、中国というものを考えてみる。儒教のような中華帝国を成り立たせている観念は、一神教ではなく、キリスト教とは全然別のものではある。しかし中華帝国の中心部にあるその観念は、その秩序の辺境にいた日本の伝統的な生活態度や常識と比べれば、どこか着想の基本部分で、キリスト教と似たものをもっている。 これらと比べたとき、日本は、キリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。つまり、日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。それでも、近代社会というものが順調に展開していれば、実践的な問題は小さい。しかし、現代、われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。 こういう状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティヴに対応するためには、どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない。そういう趣旨で、橋爪大三郎さんと私大澤真幸が、キリスト教を主題とする、対談をすることになった。 その際、私たちは、この対談に二つの背反する条件を課した。一方では、基礎を何も知らない人にもわかってもらえるものにした。かつ、他方で、キリスト教や近代社会についてすでに多くの知識をもち、いろんなことを考えてきた人にとっても「それは本質的な問題だ」と思ってもらえるものにした。一見背反しているように見える、こうした両面が欲しい。その両面を一挙に獲得するにはポイントがある。キリスト教に限らず、どんな知的主題に関しても言えることだが、ある意味で最も素朴で基本的な質問が一番重要である。そういう質問は、初学者にとっての最初の疑問であると同時に最後まで残る一番しぶとい重要な謎である。 そこで私(大澤)が挑発的な質問者となって、ときに冒濱ともとられかねない問いをあえて発し、橋爪大三郎さんに、それに答えながら、キリスト教というものが何であるか、キリスト教が社会の総体とどのようにかかわってきたかを説明していただいた。このような役割分担にしたのはまず何より、現代の日本で、橋爪大三郎さんが最も信頼できる比較宗教社会学者であり、その立場からの本を著されてきたからである。特定の宗教についての優れた研究者はたくさんいる。しかし、すべての世界宗教・普遍宗教を横断的にとらえながら、その根本的な性格をきちんと理解し、かつ社会学者としても優れた洞察をもっている人としては、橋爪さんの右に出る者はいない。と、同時に、私が質問者になったのは、私がこれまで、宗教、とりわけキリスト教の存在を前提にした論文や著書をたくさん書いてきたからである。 対談は、全部で三回である。まずキリスト教のベーシックな考え方になる、あるいはその背景にあるユダヤ教との関係で、啓示宗教としての一神教の基本的な考え方をはっきりさせて(第1部)、その次にキリスト教のきわめて独創的な側面である「イエス・キリスト」とは何であるかを考え(第2部)、最後にキリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたかということについて考えていく(第3部)。 自画自賛は、ほんとうは慎むべきかもしれないが、この対談については言わせてもらいたい。この対談は絶対におもしろい。私は、もともと、自分の対談の記録を読み返したり、手直ししたりするのが苦手である。自分の発言を文字として読むのが気恥ずかしいのである。しかし、この対談に関しては、自分で読んでいても楽しくて仕方がなかった。自分で読みながら、何度も笑ってしまった。読者にも、必ずや、楽しみながら知的な興奮を味わってもらえるだろう。 大澤真幸

橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
出版社 : 講談社 (2011/5/18)、出典:出版社HP

目次

まえがき 第1部 一神教を理解する――起源としてのユダヤ教 1 ユダヤ教とキリスト教はどこが違うか 2 一神教のGodと多神教の神様 3 ユダヤ教はいかにして成立したか 4 ユダヤ民族の受難 5 なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか 6 律法の果たす役割 7 原罪とは何か 8 神に選ばれるということ 9 全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか 10 ヨブの運命――信仰とは何か 11 なぜ偶像を崇拝してはいけないのか 12 神の姿かたちは人間に似ているか 13 権力との独特の距離感 14 預言者とは何者か 15 奇蹟と科学は矛盾しない 16 意識レベルの信仰と態度レベルの信仰 第2部 イエス・キリストとは何か 1 「ふしぎ」の核心 2 なぜ福音書が複数あるのか 3 奇蹟の真相 4 イエスは神なのか、人なのか 5 「人の子」の意味 6 イエスは何の罪で処刑されたか 7 「神の子」というアイデアはどこから来たか 8 イエスの活動はユダヤ教の革新だった 9 キリスト教の終末論 10 歴史に介入する神 11 愛と律法の関係 12 贖罪の論理 13 イエスは自分が復活することを知っていたか 14 ユダの裏切り 15 不可解なたとえ話① 不正な管理人 16 不可解なたとえ話② ブドウ園の労働者・放蕩息子・九十九匹と一匹 17 不可解なたとえ話③ マリアとマルタ・カインとアベル 18 キリスト教をつくった男・パウロ 19 初期の教会 第3部 いかに「西洋」をつくったか 1 聖霊とは何か 2 教義は公会議で決まる 3 ローマ・カトリックと東方正教 4 世俗の権力と宗教的権威の二元化 5 聖なる言語と布教の関係 6 イスラム教のほうがリードしていた 7 ギリシア哲学とキリスト教神学の融合 8 なぜ神の存在を証明しようとしたか 9 宗教改革――プロテスタントの登場 10 予定説と資本主義の奇妙なつながり 11 利子の解禁 12 自然科学の誕生 13 世俗的な価値の起源 14 芸術への影響 15 近代哲学者カントに漂うキリスト教の匂い 16 無神論者は本当に無神論者か? 17 キリスト教文明のゆくえ あとがき 文献案内

橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
出版社 : 講談社 (2011/5/18)、出典:出版社HP

超図解 一番わかりやすいキリスト教入門

キリスト教や聖書を図解で理解する

「超図解」とタイトルに入っている通り、イラストや地図がふんだんに使われていて、ページの半分をイラストが占めているページも少なくありません。そのため、聖書やキリスト教の勉強を始める際の、最初の一冊としておすすめの本です。

インフォビジュアル研究所 (著), 月本 昭男 (監修)
出版社 : 東洋経済新報社 (2016/10/28)、出典:出版社HP

はじめに

わたしたち日本人は世界の人々の中で、こと宗教に関してはマイノリティです。世界最大の宗教はキリスト教。世界の人口の約33%がキリスト教徒で、その数は約24億人。仏教徒は約5億人で、世界の総人口の7%程度にすぎません。しかもその中の日本仏教徒となると、極めつきのマイノリティであるわけです。 この人口は『ブリタニカ国際年鑑』によるものですが、宗教別人口というのはかなり曖昧なものです。たとえば日本人は一口に仏教徒だといわれますが、自分は仏を信じていないという人が多いのではないでしょうか。しかし、葬儀はたいてい仏式で行われています。伝統的に仏教の風習を受け継いでいる人を仏教徒だとすれば、日本人の多くは仏教徒であり、さらにいえば、お宮参りや神前結婚式など神道の要素も加えた「日本仏教徒」だということになります。 キリスト教も同じで、日曜日にはミサに行くなど比較的明確なキリスト教徒のほかに「無宗教」だけれどもキリスト教の世界観や倫理観をもつ人々がいます。その意味でアメリカ、イギリス、ドイツなどの欧米諸国は、移民による多宗教化が進んでいるとはいえ、歴史的に「キリスト教国」だといえます。そのことの理解は日本のビジネスマンにとってもたいへん重要です。というのは、現代の世界経済システムはキリスト教の世界観や倫理観を持つ欧米諸国よって形成されたからです。近年のグローバリゼーションの延長線上に起こってきたことですから、ビジネスをスムーズに進めるためには、キリスト教国の人々がどのような精神文化の中で育ち、日常的にどのような発想をするのかを知っておくことが不可欠だといえるでしょう。 キリスト教をはじめ宗教的な要因が国際情勢を左右する場面も多くなっています。2016年6月にはイギリスが国民投票で、歴史的にキリスト教国を主体とする共同体であるEU(欧州連合)からの離脱を決めましたが、その背景に独自の国教会があることは見逃せません。 本書は、キリスト教の歴史や聖書の内容を豊富な図解でやさしく解説しました。それを通じて、キリスト教文化圏で育った人々の考え方――世界観、発想パターンや物事の捉え方等々を理解していただけるように工夫しています 本書は、キリスト教を中心として幅広い視点から異文化を理解するための本です。読者の皆様が異なる文化を持つ人々との交流を深め、グローバル社会を理解する一助となることを願っています。 インフォビジュアル研究所

インフォビジュアル研究所 (著), 月本 昭男 (監修)
出版社 : 東洋経済新報社 (2016/10/28)、出典:出版社HP

目次

はじめに 第1章 キリスト教がわかると世界が見える ①世界最大の宗教はキリスト教 ②世界の要人がひざまずく神の代理人=ローマ教皇 ③巨大な宗教国家アメリカのキリスト教徒たち ④モザイクのように全米に住み分けるキリスト教徒 ⑤キリスト教から資本主義が誕生した仕組み ⑥キリスト教の布教と企業のグローバル戦略は同じもの ⑦中東に世界の火薬庫ができたわけ ⑧世界の火薬庫バルカンでのキリスト教とイスラム教の歴史 ⑨EUでキリスト教が衰退しているわけは ⑩地下に広まる中国のキリスト教 ⑪韓国がキリスト教大国になったわけ ⑫ロシア正教会の復活はロシア帝国の復活? 第2章 キリスト教徒は世界をこう考える キリスト教徒の考え方 ①この世界は誰かが造ったもの ②どの民族も創世の神話をもっている ③三位一体とはなんのことか ④神との旧い契約と新しい契約とは ⑤キリスト教徒の「天国」と「地獄」 ⑥キリスト教徒の「善」と「悪」とは ⑦キリスト教徒の信ずる「愛」とは ⑧戦うことの正義について ⑨キリスト教徒の労働は苦役? ⑩家族は神の国の基礎 ⑪キリスト教の2つの復活の構造 キリスト教徒のイメージの原型 ①尖塔 人間が自然を超克する証として ②水 最も聖なるもの・天国の水 ③森 悪霊と妖精・恐れと魅惑の異界 ④ドラゴン 神に敵対するものの象徴 ⑤パン キリストの身体・命のみなもと ⑥動物 支配しつつ畏怖するもの ⑦天使と悪魔 天国と地獄からの使者 ⑧黄金 神の権威の象徴として ⑨宇宙 神の摂理そのものとして ⑩一神教と多神教 どちらにも共通の性格 第3章 キリスト教の常識を知る[旧約聖書の世界] キリスト教の聖典 旧約聖書と新約聖書 旧約聖書の概要 神の民の歴史を綴る旧約聖書 旧約聖書が語る歴史の舞台① 創世記の地 旧約聖書が語る歴史の舞台② ユダ・イスラエル王国の繁栄 旧約聖書の世界① 天地創造の物語 旧約聖書の世界② エデンの園からの追放 旧約聖書の世界③ カインとアベルの物語 日約聖書の世界④ ノアの箱舟の物語 旧約聖書の世界⑤ バベルの塔の物語 旧約聖書の世界⑥ アブラハム一族の物語 旧約聖書の世界⑦A モーセの登場 旧約聖書の世界⑦B 出エジプトの物語 旧約聖書の世界⑦C モーセの十戒の物語 旧約聖書の世界⑧A ユダヤの民の栄華と王国の崩壊 旧約聖書の世界⑧B ダビデ王の物語: 旧約聖書の世界⑧C ソロモン王の物語 旧約聖書の世界⑨ 王国の分裂から消滅までの物語 旧約聖書の世界⑩ エルサレムの復興 旧約聖書の言葉 第4章 キリスト教の常識を知る[新約聖書の世界] 新約聖書の概要 新約聖書とは 新約聖書のエピソード イエスの生きた時代と、その舞台 新約聖書の世界① 聖母マリヤの物語 新約聖書の世界② イエスの誕生の物語 新約聖書の世界③ 洗礼者ヨハネの物語 新約聖書の世界④ イエスの新たな弟子たちの物語 新約聖書の世界⑤A イエスの宣教 奇蹟の物語 新約聖書の世界⑤B イエスの宣教 山上の説教 新約聖書の世界⑤C イエスの宣教 数々のたとえ話 新約聖書の世界⑥ イエスの受難 エルサレム入城 新約聖書の世界⑦ イエスの受難 最後の晩餐 新約聖書の世界⑧A イエスの受難 死刑判決 新約聖書の世界⑧B イエスの受難 十字架上の死: 新約聖書の世界⑨ イエスの復活 新約聖書の世界⑩A 使徒たちの伝道の物語 新約聖書の世界⑩B パウロの手紙 新約聖書の言葉 第5章 キリスト教の常識を知る[キリスト教の歴史] キリスト教の広まり① キリスト教がローマ帝国の国教になる キリスト教の広まり② 帝国の分裂とともに東西キリスト教会に分かれる キリスト教の広まり③ 教皇と王=教会と国家が中世ヨーロッパをつくる キリスト教の広まり④ 東欧に広がるキリスト教(東方教会) キリスト教の広まり⑤ 異端派はイスラム社会に根づき、東への布教の旅に キリスト教の広まり⑥ 十字軍、キリスト教対イスラム教、積年の戦いの始まり キリスト教の広まり⑦ ルネサンス イタリアで華開いたキリスト教芸術 キリスト教の広まり⑧ 魔女狩り キリスト教史の拭えぬ禍根 キリスト教の広まり⑨ 宗教改革プロテスタントの誕生 キリスト教の広まり⑩ 北アメリカへ海を渡るピューリタンたち キリスト教の広まり⑪ アジアへの布教大航海時代と植民地化 キリスト教の広まり⑫ 帝国主義 植民地とキリスト教の拡大 キリスト教の広まり⑬ 明治からの日本 キリスト教の激動の歴史 企画・図解構成・編集執筆…大嶋賢洋(インフォビジュアル研究所) 図版デザイン・制作…高田寛務(インフォビジュアル研究所) 編集・執筆(1.2.5章)…大角修(地人館) 編集・執筆(3.4章)…豊田菜穂子(インフォビジュアル研究所) 目次・扉デザイン…河野謙(インフォビジュアル研究所) DTP制作…佐藤修久(地人館)

インフォビジュアル研究所 (著), 月本 昭男 (監修)
出版社 : 東洋経済新報社 (2016/10/28)、出典:出版社HP

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

キリスト教の辞書的一冊

初心者向けのキリスト教に関する基本的な事項から、宗派による細かい違いまでQ&A形式で掲載されています。また、祭服や作法などはイラストを用いて解説されているので、視覚的にもわかりやすくなっています。索引も完備されているので、辞書的一冊としてどなたにもおすすめの本です。

八木谷 涼子 (著)
出版社 : 朝日新聞出版 (2012/4/6)、出典:出版社HP

西方教会の期節と祭色(典礼色)

朝日新聞出版
なんでもわかるキリスト教大事典
八木谷涼子

本書は二〇〇一年十二月、新潮OH!文庫より刊行された「知って役立つキリスト教大研究」を改題し、加筆・修正したものです。

前奏(まえがきのまえがき)

著者は学問を究めた学者ではないし、名の知られた作家でもない。それでも二〇〇一年に刊行され、十刷まで版を重ねた「知って役立つキリスト教大研究」(新潮OH!文庫)は多くの方の支持を得た。その理由としては、一冊の文庫に意外なほどの情報が詰まっていたこと、図版が多くてわかりやすかった(ように見えた)こと、そして、それまでになかった切り口で情報を整理していたことがあげられるだろう。記述が客観的だという感想は、キリスト教会内部の方々からもいただいた。「洗礼を受けた人には、この本をプレゼントしているんですよ」と教えてくれた牧師もいる。
本書はその増強改訂版である。今回新たに朝日文庫に加えてもらうにあたっては、前作のミスを修正して最新情報を加え、記述事項を増やし、イラストや図表類はすべて制作し直した。五十頁近く増強しているので、前作をおもちの方にも入手価値のある一冊になっていることと思う。それでは、後奏までごゆっくりとお過ごしください。

招きのことば(まえがきに代えて)

この本を手に取ってくれたあなたは、多かれ少なかれ、キリスト教に関心をおもちのことと思う。ことに、西欧を舞台にした小説や映画、報道番組などに親しむ機会が多いのではないかと想像する。聖書もすでに開いたことがあるかもしれない。また、欧米の文化を真に理解するためには、聖書とキリスト教の知識が不可欠、という指摘を耳にしたことがあるかもしれない。あるいは、実際にクリスチャンとの交流をおもちの方もいるかもしれない。もしそうだとしたら、あなたはこれまでにこんな疑問を抱いたことはないだろうか?

「カトリックとプロテスタント以外にどんな教会があるのだろう」
「プロテスタントも内部はいろいろ複雑らしいけれど、具体的にはどんなふうに分かれているの?」
「同じキリスト教とはいっても、A派ではなくB派に属するということは、この時代、この地域において、なにを意味したのかな」
「服装によって聖職者を見分けるには?」
「《神父》と《牧師》は、どういうふうに使い分けたらいいんだろう」
「《ビショップ》は、どう日本語にしたら適切なのか」……

キリスト教は、もちろん聖書(旧約と新約)を土台にした宗教である。信者たちは、同じ唯一の神を礼拝するという意味で、同一の信仰をもち、時間と空間を超えて、ひとつの聖なる普遍的な教会に属している。それは、神の目だけにしか見えない教会だ。いっぽう、人の目に見える教会、すなわち現実に地上に組織された教会を見ていくと、個々の人びとの信仰のあり方は、ひとつの枠組みだけで単純に整理しきれない事例があまりに多い。そもそも、なにを聖書の「正典」とするかは、そのグループによって違う。教義の強調点、聖職者についての考え方、信者のライフスタイルも一様ではない。ようするに、信じ方がそれぞれ異なるのである。
また、日本におけるキリスト教は、異文化圏からもたらされたという意味で、「翻訳の世界」だといえる。教会で使われている多くの用語は翻訳されたもの、あるいは、ある言語での音を日本語で表記したものだ。その訳語は群れごとにまちまちだったり、同じ日本語でも意味する範囲が異なっていたりすることもある。
本書は、そんな教えや特徴、独特の用語を、キリスト教の内部にある複数の流れ、すなわち「教派」ごとにとらえようとした試みである。もちろん、その目的は、それぞれの間に優劣をつけたり、どこが「正統」でどこが「異端」かといったジャッジを下すことではない。また、どこかの教派への入信をすすめたり、逆に、阻もうという意図もない。学問的な研究を意図したわけでもない。あくまで平易な「ガイド本」として、冒頭にあげたような素朴な疑問を解きほぐし、キリスト教圏の文化の理解に役に立つ基礎情報を提供すること、それが本書の目標だ。本文には、あえて表現や表記を統一しなかった部分がたくさんあろが、これは、既存の辞書に収録されることの少ない、その教派特有の用語を可能な限り紹介しようとした結果である。索引や用語の英和対照表も用意したので、とくに、翻訳関係者の方々には便利に使っていただけるのではないかと思う。
それでは、まずはキリスト教の基礎知識から入ってみよう。

八木谷 涼子 (著)
出版社 : 朝日新聞出版 (2012/4/6)、出典:出版社HP

〈目次〉

前奏(まえがきのまえがき)
招きのことば(まえがきに代えて)
本書で用いた表現について

第1章
初めての人のためのキリスト教Q&A
・キリスト教徒=クリスチャンということでしょうか?
・では、クリスチャンって具体的にどういう人たちのこと?
・どうすればクリスチャンになれるんでしょうか?
・「洗礼」するってどういうこと?
・よく「救い」と聞きますが、具体的にはどういうことですか?
・「聖書」ってなんでしょうか?
・クリスチャンは、みんな同じ聖書を読んでいるの?
・イエス・キリストって神さまのことですか?
・マリアさまって女神さまのようなもの?
・ローマ法王っていったい何をする人のこと?
・宗教改革ってなんですか?
・牧師などの聖職者って結婚できないんでしょうか?
・神父や修道士・修道女がいるのがカトリックで、牧師がいるのがプロテスタントですか?
・懺悔とか告白って聞きますが、いったい何をするの?
・サクラメントってなんでしょう?
・虫餐式ってどういうもの?
・キリスト教のイベントというと、クリスマスと結婚式くらいしか思い浮かびませんが、ほかにはどんなものがあるの?
・さっきから出てくる「教派」ってなんのことですか?

第2章 比べてみよう教派いろいろ
・教会の分け方いろいろ
正統教会と異端教会(四世紀以降)
東方教会と西方教会(十一世紀以降)
カトリックとプロテスタント(十六世紀以降)
法定教会と、それ以外の自由教会(十六世紀以降)
プロテスタント内部の区分け(リベラル派と福音派)
・教会政治
監督制
長老制
会衆制/組合制
教会政治の図式
教派の系譜 全国版
・東方正教会
・ローマ・カトリック教会
ローマ・カトリック いまむかし
・ルター派(ルーテル教会)
・聖公会(アングリカン教会)
・改革派/長老派
・会衆派/組合派
・バプテスト
・メソジスト
・ペンテコステ派
・メノナイト系
・クエーカー (フレンズ)
・ユニテリアン・ユニヴァーサリスト
・救世軍
・福音派&原理主義者
・十九世紀のアメリカで生まれたグループ
セブンスデー・アドベンチスト
エホバの証人
末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)
キリスト教科学(クリスチャン・サイエンス)
・日本で生まれたグループ
無教会主義

八木谷 涼子 (著)
出版社 : 朝日新聞出版 (2012/4/6)、出典:出版社HP

第3章 少し違いが見えてきた人のための調べてみようキリスト教
・赤ちゃんのときに洗礼を受けると誰でもクリスチャンになるの?
また、洗礼って誰でも受けられるもの?
洗礼いろいろ
・クリスチャンって何をするの? 夜寝るときと食事のときに必ずお祈りをするっていうイメージしかないのですが
・クリスチャンは禁酒禁煙で、離婚も禁止?
・「神を礼拝する」ことのほかにも、人びとが教会のメンバーになる理由はあるのでしょうか?
・お祈りの言葉はみんな同じなの?それとも仏教のように連っているの?
主の祈りいろいろ/祈り・礼拝・儀式時のポーズいろいろ
・礼拝で歌う賛美歌(里歌)も教派ごとに特色があるのですか?
・自分とは違う教派の教会の礼拝に参加したり、教会を移ることは可能なのですか?
ローマ・カトリック、ルター派、聖公会の用いる祭貝/プロテスタントの用いる聖餐用と陪餐/献金の時間に用いられるグッズ/ローマ・カトリック教会 ミサでの聖体拝領/十字架いろいろ/東方正教会の祭具と領聖/一般的なプロテスタント教会の聖壇/東面式の聖公会の祭壇/西方教会 教会堂 内部のグッズいろいろ
・同じクリスチャンでも、教派が違う人同士で結婚はできるの?
・一番結婚式が派手/地味な教派はどこ?
・西洋史をひもとくと、キリスト教徒が起こした戦争の話ばかりが目につきます。絶対に暴力を否定し、文字通りに「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」クリスチャンというのは存在するのですか?
・教会はどんな人でも受け入れると聞いています。でも、実際問題として、人種や出身地、財産の有無などと、教派はどのように関わっているのですか?
・教会内部でそういうことを理由にした差別や区別はあるのでしょうか
・子ども向けの物語などにも、そういう教派がはっきりわかるお話はありますか?
・神父や牧師、修道士や修道女になるには何年くらいかかるのですか?
ローマ・カトリック教会 修道会 修道者コースの一例
・教会の神父や牧師はどうやって生計を立てているの?
・聖職者は階級によって服装が違うのですか? また、一般の信徒でも、どこの教派に属しているのか、服装によって見分けることができますか?
東方正教会の祭服いろいろ/西方三教派の祭服いろいろ/プロテスタント牧師服いろいろ/聖職者のシャツのカラーはこうなっている!/侍者・聖歌隊員の服いろいろ
・聖職者は結婚できるのでしょうか。また、世襲もあるのですか?
・女性を聖職者として認める教派はどこですか?
・同性愛者の聖職者がいる教派、同性同士の結婚を祝福してくれる教派はありますか?
・キリスト教圏の国に長期滞在します。気をつけたほうがいいことってありますか?
・実際にキリスト教の教会に行ってみたくなりました。どうすれば探すことができますか?
・教会というのは、いつ行ってもいいのですか?
・ちょっとひと休み あなたに向いているのはどの教派?

第4章 クリスチャンライフあれこれ
イングランドの田舎に住む上層中流階級の子どもの日曜日(1920年代)/北米プロテスタント家庭のある日曜日 (19世紀後半~23世紀前半) /ある日本の正教徒の一日(現代)/正教徒の動作いろいろ/クリスチャンの1年(ヨーロッパのローマ・カトリックを中心に)
・七つの秘跡でたどる ローマ・カトリック教徒の一生
・牧師インタビュー 牧会者の生活
・シスターインタビュー 修道者の生活

第5章 日本のクリスチャンの言い回しがわかるキリスト教会用語表現集
・感謝(あとがき)
・後奏(増強改訂版のあとがき)

コラム|
《異端》について
もっとも愛唱されている定番賛美歌とは?
一夫多妻のクリスチャンはいる?
アメリカの教派ジョーク
アーメン・コーナー
「合同教会」あれこれ
受動態
神父と牧師
キリスト者の死にまつわる表現
死と死者の表現、儀式・行事の種類、追悼の言い回しなど
キリスト者の挨拶・結びの言葉
ありがちなワープロ誤変換
教会の教籍にまつわる用語
「にっき」はどっち?
聖書の書名と略語

附録
英和対照表/教派の系譜/4教派固定祝日対照表/4教派移動祝日対照表2012年版/9教派対照表/東方正教会&ローマ・カトリック聖職者対照表/参考文献リスト

カバー装戦
小林祐司(TYPEFACE)
カバー装画・本文イラスト
八木谷涼子

本書で用いた表現について

■枠組みをさす言葉
キリスト教 ひとつの宗教に対する総括的な名称
宗派 宗教全体のなかの大きな流れ(キリスト教、仏教、イスラームなど)
教派 キリスト教内部の大きな流れ(聖公会、メソジストなど)
教団 教派を構成するいろいろな社会的組織(ルター派のなかの、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団など)。
キリスト教界では「日本基督教団」を示す略称としても使われるが、本書では普通名詞としてだけ用いた
群れ 教派や教団のなかでさまざまに分化した小さな流れ。必ずしも組織化されていない。なお、日本のプロテスタント教会では「群れ」という表現に軽践的なニュアンスはまったくなく、書き言葉でよく使われる
教会 最小単位としての個々の教会(各個教会)をさす場合もあるし、教派や教団全体をさして使う場合もある。ただ し本書では「教会堂」(建物)の意味では使っていない。なお、現実には、名称として「教会」の語を用いず、 「集会」とか「フェローシップ」などと名乗る教会もある

■教会の奉仕者と信者をさす言葉
教役者 教派を問わず、キリスト教界全体で、教会や信徒のために働く人びと全体をさす。教派によっては、教職(職)候補者や信徒奉仕者までを含む
教職/教職者 プロテスタント教会一般で牧会にあたる者。とくに、教職資格が必要な教団における牧師
聖職/聖職者 狭義には、正教会やローマ・カトリック教会、聖公会で按手を受け、専務にあたる者。キリスト教の教役者一般をさして使う場合もある
牧会者 聖公会を含むプロテスタント教会一般、および正教会において、ひとつの教会を率いる指導者
牧者 羊の群を率いる者、転じて教会(会家)の指導者
信者 キリスト教の信仰をもつ者。いわゆる、クリスチャン。必ずしもどこかの組織(教会)に属しているとは限らない
信徒 一般に、上記の教職および理職以外の教会員をさす。ただし厳密には、プロテスタント教会の教職者も、イエ ス・キリストの体である教会を形づくる者という意味で、「信徒」の一員である。ローマ・カトリック教会においては、叙階の秘跡を受けず修道会にも属していない者だけを「信徒」と呼ぶ
教会員 登録された、その教会のメンバー
(以上の区分けは、必ずしも全教派に共通する、普通的なものではない)
※本文中の横文字のうち、とくに断りのないものは英語表記である

八木谷 涼子 (著)
出版社 : 朝日新聞出版 (2012/4/6)、出典:出版社HP

図解 世界一わかりやすい キリスト教 (中経出版)

世界標準の知識が身に付く

写真やイラストを使ってわかりやすくキリスト教について解説されています。宗教画も多く掲載されているので、見たことのある絵と聖書の箇所を結びつけて知識にすることができます。また、専門用語については解説文のすぐ下に語注があるので、初心者でも読み進めやすく、入門書としておすすめです。

富増 章成 (著)
出版社 : 中経出版 (2012/5/18)
、出典:出版社HP

目次

なぜキリスト教を 知るべきか
第1章
キリスト教とは何か
キリスト教の始まり ユダヤ教から生まれたキリスト教
イエスの律法批判とキリスト教の成立
何を信じている宗教なのか イエスはキリストである
キリスト教は一神教
聖書の抵抗のない読み方 苦しいときの『旧約聖書』
気分が明るくなる『新約聖書』
旧約聖書の世界
旧約聖書の構成
旧約聖書の系図
旧約聖書の流れ
天地創造と楽園追放 人間は罪人である
人類最初の殺人事件
ノアの箱舟とバベルの塔
大洪水と神との契約
バベルの塔と人間の傲慢
アブラハムの旅 ソドムとゴモラ
アブラハムとサラ、奇跡の出産
欲望の町に神の怒りが下る
神の鍛え ヨセフの成功物語 アブラハムが受けた激しい試練
出世するヨセフ
神が与えたルール~十戒 出エジプト
十戒 士師の時代
カリスマ的指導者の登場
ダビデ王とソロモン王 ダビデの栄光と没落
ソロモンの栄華: 王国の分裂とバビロン捕囚
イスラエル王国の分裂と預言者イザヤ
バビロン捕囚
ユダヤ教の教義とメシア待望 ユダヤ教義の確立
クライマックスは救世主への希望
キリスト教とイスラーム
カトリック・東方正教会・プロテスタント ローマ・カトリック教会と東方正教会の特徴: プロテスタントの特徴: サクラメントの理解:9
第3章 新約聖書の世界
THE WORLD OF THE NEW TESTAMENT
新約聖書の構成… 新約聖書の系図 新約聖書の流れ
BATISET BIDATIS
イエスの誕生
マリアの受胎告知
ヨハネの洗礼とイエスの宣教開始
悪魔の誘惑 十二使徒
2人の弟子を選ぶ 山上の説教
イエス、人々に語る
「神の国」はどこに?
イエスの奇跡 突風を静める
パンと魚の奇跡 エルサレム入城
最後の晩餐とゲンセマネの祈り
イエスの十字架 死刑の判決を受ける
十字架につけられる
イエスの復活と昇天
パウロとキリスト教の成立 使徒言行録
パウロの回心… ヨハネの黙示録
三位一体とは何か
マリア信仰
聖人信仰
キリスト教の教会建築
第4章 キリスト教の発展
キリスト教の国教化
ローマ帝国の国教になる
東西教会の分裂
教皇による支配
フランク王国の発展
十字軍キリスト教VSイスラーム
宗教改革 ルターの宗教改革
イギリス国教会とアメリカのプロテスタント
キリスト教年表

富増 章成 (著)
出版社 : 中経出版 (2012/5/18)
、出典:出版社HP

上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ?

「キリスト教」の世界一わかりやすい入門書

本書は、「キリスト教に対するハードルを下げること」を一つの目標として書かれています。実際、たとえを多く使ったり、くだけた表現が使われていたりするので、とっつきやすくスラスラと読み進められます。キリスト教に対して難しそうという印象を抱いている方にこそ読んでいただきたい一冊です。

はじめに

皆様こんにちは。もしかしたら「こんばんは」かも「おはようございます」かもしれませんが、いずれにせよごあいさつを申し上げます。この本を手に取っていただいて、とても嬉しく思います。
さていきなりですがこの本は、キリスト教がどんなものかを知るための入門書……ではありません。世の中にはキリスト教の「入門書」がすでにたくさんありますけれど、その多くが「いやいや、これでもまだまだ難しいよ」とか「退屈で途中で挫折してしまう……」とか読む人に感じさせてしまうものです。
もちろんそれらの本はとても素晴らしい本です。挫折せずに読めれば非常に楽しくもあります。が、その楽しさや素晴らしさに到達するためのハードルはなんやかんや言ってまだまだ高め……。

と、いうわけで、皆様が手に取ってくださっているこの本は、そんな「入門書」を読む前に、キリスト教の基本的なところをざっくり知っておくための本、「入門書のための入門書」、言わば「超入門書」です。本書ではなるべくざっくりと、なるべく楽しく、キリスト教の基本を説明していこうと思います。気軽に読んでいただければ幸いでございます。

申し遅れましたが、私は東京都世田谷区にある上馬キリスト教会の一信徒、MAROと申します。牧師でも神父でもありません。ただのしがないキリスト教徒(クリスチャン)です。……と、これだけでは何者か分からないのでもう少し言いますと、「上馬キリスト教会 (@kamiumach)」というツイッターアカウントを運営する「まじめ担当」と「ふざけ担当」のまじめの方です。「笑いながら聖書に親しんでもらう」をコンセプトにツイッターを始めたのは、2015年の2月のこと。そこから聖書や神様のことを140字で親しみやすく面白く紹介していましたら、なんとありがたいことに今では10万人を超えるフォロワーさんにご覧いただくようになり、縁あって本まで書かせていただくようになりました。

私たちのツイッターのフォロワーさんは、クリスチャンの方だけではありません。むしろ、ノンクリスチャン(キリスト教徒ではない人)の方の方が多いくらいです。そしてときには「聖書って意外と面白い!」「聖書のこと、もっと知りたい」といった嬉しい感想をいただくこともあります。

どうやら世間では「キリスト教」=「まじめ」とか「神聖なもの」というイメージを持つ方も多く、ちょっと近寄りがたく思われているようです。それなのに私たちのツイッターは
「アーメン」を現代語訳すると「それな」、関西弁訳なら「せやな」ではなく「ほんまそれ」

#いいにくいことを言う日たまには日曜日に遊びたい。
なんてとびきりゆる~くふざけたことばかりつぶやいていたものですから、新鮮で面白がっていただけたのかもしれません。
実は意外と面白いんです、キリスト教って。キリスト教ってすぐに「信じなさい」とか言われるイメージがあるかもしれませんが、この本ではそんなことは言いません。まずは少しでも興味を持ってくださった皆様にキリスト教のことを知って欲しい。そんな気持ちでこの本を書いています。
そもそもですが、皆様、キリスト教って知っていますか?キリスト教は、知名度 でいえば宗教の中でもダントツでしょう。しかも皆様はこの本を手に取ってくださっているわけですから、恐らくはほとんどの方が「知ってるよ」と答えるのではないかと思います。
いくら「世界一キリスト教が普及していない国」と言われる日本でも、キリスト教の存在を知らないと言う方はほとんどいません。クリスマスやバレンタインといった祝日、西洋絵画やクラシック音楽といった文化など、日本でも「キリスト教的なもの」に触れる機会は多いですからね。
しかし少しだけ質問を変えて「キリスト教ってどんな宗教ですか?」と聞かれたら、どうでしょう? 「イエス・キリストの教えを守ってる宗教?」「クリスマスをお祝いする宗教?」と、一気にずいぶん曖昧な答えになってしまう方が少なくないのではないでしょうか。

存在と名前は知っていても、「中身」となると実は案外知らない、というのが多くの日本人のキリスト教観のような気がします。
この本のタイトルの『キリスト教って、何なんだ?』の「何」の部分は、この「中身」のことを意味しています。つまり本書は、キリスト教がどんな宗教なのかを皆様に説明するための本でもあるんです。
書店に行けば、そういう目的で書かれた本もすでにたくさん出ています。このことはクリスチャンとしても嬉しいことです。私たちのアイデンティティについて知りたいと思ってくださる方が増えているということですから。
けれども、それらの多くはクリスチャンでない方が「教養として」書いた本であり、いわば、「外側からのキリスト教」を記した本です。

そういった「外側からのキリスト教」と、実際にそれをアイデンティティとしているクリスチャンの「クリスチャンとして生きている感覚」は、実はずいぶん違うものなんです。そして「内側」の人たちは「外側」からの視点に、違和感を覚えていたりし
ます。
では、もしも「内側」にいる私が見ているキリスト教の中身を、楽しく分かりやすくお伝えできたら、それは皆様にとって新しい視点になるのではないか。そう思ってスタートしたのが、この企画です。

しかしながらごめんなさい。この本はあくまで私MARO個人の視点で書くものですから、所属している上馬キリスト教会の公式見解ではありませんし、ましてすべてのクリスチャンの統一した解釈でもありません。「このように信じている信徒が一人いる」と、最終的にはそれだけの意味しかありません。その点はご了承ください。ク リスチャンにもいろいろな教派や考えがありますから、実は「これが正しい公式見解!」という「完全な正解」はないんです。でもむしろだからこそ「公式でない、牧師でもない一信徒だからこそ書けるリアルなクリスチャン像」を書ければ嬉しいなと思っていますし、それこそが皆様の「ハードルを下げる」一助になるのではないかと思っています。

たとえば「街のバーで一人で飲んでいるクリスチャンがいたから話しかけてみたらこんな話をされた」くらいのイメージで読んでいただけるとちょうどいいかもしれません。(え?クリスチャンってバーでお酒飲んだりするの?教派によりますが少なくとも僕の教会ではOKですし、実際僕はこの本でこれから書くようなことをときどきバーで飲みながらお話ししたりしています。)
さらに身も蓋もないことを言いますが、聖書を学ぶ、キリスト教を知るためにいちばん有効な方法はどんな良い本を読むことよりもまず「教会に行ってみる」ことです。どんなことでも、現場で感じてみなきゃ分からない!ってことはありますよね。
残念ながら、書物や言葉だけでキリスト教のすべてを説明することは不可能なんです。聖書を一人でどれだけ熟読したとしても、そのすべてを理解することは不可能ですし、どれだけ参考文献を調べても、やはりすべてを理解することはできません。ですけれど、知識のとっかかりがなければキリスト教のことは永遠に分からずじまい。教会に行こうなんて気にもなろうはずがありません。だからこの本では、とことんとっつきやすく、ハードルを下げた文章を心がけています。

それでもし、皆様の中のどなたかが、この本を読んで「一度教会に行ってみようかな」とか「聖書を読んでみようかな」とか思ってくださったならば、それだけで望外の幸せでございます。
さて、この本は3部構成で書こうと思います。第1章は「ざっくり知るキリスト教」として、キリスト教を知る上で基礎的かつ不可欠な概念を大雑把ながらまとめていきます。「クリスチャンって何を信じているの?どんな生活をしているの?」という疑問にお答えする内容です。
第2章は「クリスチャンから見た世界」として、私たち現代のクリスチャンがどんな風に聖書の教えを日常に生かしているのか、また、生かせる可能性があるのか、そんなことを語ろうと思います。実際にクリスチャンに「どうして信じているの?」なんて尋ねにくいですもんね。

キリスト教圏から来る外国人と接するのにも重要なヒントが隠れているかもしれませんし、クリスチャンとして生きる気のない方でも「お、この考え方は良いな」なんて思えるところがあるかもしれません。
第3章は「ゆるーくたどる聖書ストーリー」として、普通に読んでもなかなかとっつきにくい聖書のストーリーを読みやすく親しみやすくダイジェストいたします。これで聖書の大まかな流れと大雑把な内容は把握していただけるかと思います。
牧師さんや神父さんのメッセージは原則として聖書を土台になされていますから、これを読んでいただくと、実際に教会に来て礼拝に参加してみたときに、お話を聴いて「あ、このシーン知ってる!」ってなる可能性はかなり上がるかと思います。
そんな感じに進めて参りますので、お付き合いいただけましたら幸いです。

あの、かしこまって正しい姿勢で読まなくて大丈夫です。ソファでくつろぎながらとか、ベッドで横になりながらとか読んでいただいて大丈夫です。コタツで読んでいたらいつの間にか寝てしまったなんてことがあっても誰も気にしません。分からないところだとか、なんとなく腑に落ちないところがあったりしたら、そこは飛ばしてしまったって構いません。
ほんの少しでもこの本で、皆様のキリスト教やクリスチャン、聖書に対する「ハードル」を下げることができたら、目標達成です。

目次

はじめに
この本のルール説明
1 ざっくり知るキリスト教
キリスト教って、何なんだ?
「キリスト教」を成立させる3項目
何に対して祈るのか?
「三位一体」を理解するためのキーワード
「教派」が分かれていったわけ
「カトリック」と「プロテスタント」はどう違う?
イエス・キリスト
クリスチャンって、何なんだ?…
「信じている人」と「信じていない人」の境界線
洗礼を受ける基準
洗礼は、ゴールではなく「入学式」
キリスト教に「ご利益」はない
教会って、何をする場所?
教会は「神をたたえる人の集まり」のこと
「礼拝」がメインの活動
教会にいるのは、どんな人なのか
みんなが気になる「お金」と「勧誘」
聖書ってどんな本?
神様と人間との「契約書」
聖書「以上」も「以外」もキリスト教にはない
聖書の著者は、神様
1600年かけて伏線回収する壮大なストーリー
聖書を全部読むのにかかる時間
聖書を読むには「助け」が必要
クリスチャンのリアル
キリスト教の「やってはいけない」
「祈り」は自由なもの
調子が悪いときは祈らなくても大丈夫
聖書をどこまで信じているのか
「敬虔なクリスチャン」という幻想
ちょっと難しい、だけど大切ないくつかのこと。
「難しいことがある」ということを説明します
「聖霊」を理解するのは難しい
「イエス」という存在は難しい
「罪」の問題は難しい
「救い」を知るのは難しい
2 クリスチャンから見た世界
キリスト教を「信じる」と人は変わる?
誤解されがちなクリスチャン
クリスチャンは「清く正しく美しく」ない!
「いい人」なんてこの世にいない
「いい人幻想」は人を不幸にする
ストップ! 「PDCAサイクル」
PDCAサイクルは大事だけど、しんどい
聖書の偉人は勇気をくれる
全部の仕事を背負いこまなくてい
神様は越えられない試練だって与えます
聖書は無茶なことは言わない?
「乗り越えられない試練」はある
越えられない困難は神様に頼る
怒ったっていいんです
イエス様だって怒った
怒りは「問い」
大切なのは「問い続けること」
答えてくれる人がいない「問い」はどうすればいい?
神様は、いつでも問いをぶつけられる相手
信じる者しか救わない神様は、せこい?
宝くじの当せんをどぶに捨てる人たち
「救われている」のに「救われに行かない」からもったいない
教会は「受け取り窓口」

幸せはいつもそこらにあるんです
幸せに向かって歩く必要はない
明日の苦労は考えない「最初の小さな幸せ」を探してみる
神様に任せた方が、うまくいく
「夢至上主義」はちょっと疲れる
人は自分の使命を知ることができない
だからクリスチャンは神に委ねる
「キリスト教」と「科学」は犬猿の仲?
博士と助手の「地球儀の話」
「科学はあくまで「考えるためのツール」
聖書は「脱・コスパ」の書
キリスト教は「重く」ない
聖書の世界はコスパが崩壊して 神様は「対価」を求めない
ゆるーくたどる聖書ストーリー
聖書を読んだつもりになるために
まずは全体をつかもう
聖書の構造
天地創造 この世界の何もかもは、神がつくった
アダムとイブ 人間の「罪」はここから始まった
カインとアベル、そしてセツ 神様は厳しいけど愛がある
ノアの方舟 ろくでもない人間をリセットして、世界をやり直す
バベルの塔 人間は、神になろうとする
信仰の祖、アブラハム 自分の子どもを生贄にできますか?
井戸掘りイサク 「最上の捧げもの」ってどんなもの?
エサウとヤコブ 聖書は「因果応報」とは限らない
ヤコブからイスラエルへ「イスラエル」はこうして生まれた
ヨセフの立身出世 裏切られ、陥れられても、人は逆転できる
モーセの出エジプト 神様が「本気」を出すとすごい
モーセの海割り 人間が守るべき10のルール「十戒」
豪傑サムソン いろいろあっても、最後に悔い改める人が救われる
落ち穂拾いのルツ 神様は、あらゆる民族の神である
ダビデの下克上 聖書に出てくる人に、完璧な人などいない(ただしイエス様を除く)
知恵者ソロモン 「知恵」はあっても使いよう
バビロン捕囚 囚われの8年間が、信仰の礎を作った
ヨブ記 正しい人が、とことんひどい目にあうこともある
預言者たち「救世主」の誕生は預言されていた
マリアの受胎告知 マリアの「素直さ」はみんなのお手本
イエスの誕生 波乱万丈の「救世主」誕生
バプテスマのヨハネ 洗礼を受ける意味
イエスの奇蹟 悪魔は「常識」をささやき、神様は「とんでもないこと」を命じる
最後の晩餐 みんながイエスを裏切った
十字架 聖書の最重要クライマックス その 復活 聖書の最重要クライマックス その2
使徒たちの話と手紙と黙示録 ストーリー以外の部分に書いてあること
おわりに…… キリスト教をもっと深く知るためのオススメ本

この本のルール説明

「はじめに」にも書きましたけれど大事なことなので重ねて書きますが、「キリスト教について知りたい。ざっくり説明してくれ」と言われても、これは実はなかなか難しいことなんです。
と、いうのもキリスト教には様々な教派があります。「カトリック」と「プロテスタント」があるというのは多くの方がご存知だと思いますが、この二つのほかにも正教会をはじめ、様々な教派がありますし、プロテスタントの中でも様々な分派があります。もちろんカトリックとプロテスタントの間でも解釈の相違があります。それどころか同じ教派内でも牧師さんや神父さんによって解釈が違ったりさえします。

ですから「これが正しいキリスト教!」とは、なかなか言えないわけであります。どう説明しても、「いや、それは違うと思う」と別の意見が必ず生じます。でも、それは当たり前のことと言えばそうなんです。なぜなら神様のつくり賜うたこの世界の真理は、人間にすべて知ることはできないからです。それは聖書にもそうる人というのは、この世界には存在しないんです。
…と、いうわけで、無理です。はい、この本終了: 残りのページはぬり絵コーナーでお楽しみください
……ウソです! ウソですよ: 怒らないで! ページを破らないで
そういった前提はありますが、それでも何とか少しでも皆様に分かりやすく親しみやすく、これからキリスト教を説明してみようと思います。そのために、この本の「ルール」をいくつかお伝えしたく思います。

とてもざっくりです
キリスト教や聖書のすべてをこの本一冊で説明しきることは不可能です。ですからこれから書くことは「ハイライトを要約して、さらにそれをかいつまんだやつのサワリ」くらいです。
聖書のあらすじくらいはなんとなく分かるくらいには書きますが「これ一冊で聖書マスター!」「今日からあなたもキリスト教博士!」というわけには参りません。
また、すでに聖書に詳しい方にとっては「ここの説明がなきゃ困る!」とか「ここんとこの記述が薄い!」とか多々あると思いますが、はい、大人の事情です。ページ数の都合があるんです。と、いうことでご容赦くださいませ。
「これが正しい」という。わけではありません
先ほども書きましたように、人間には「完璧にキリスト教を知ること」は不可能ですし、当然「完璧に正しく記すこと」も不可能です。まして僕は牧師でも神父でもない一介の信徒です。
ですから「この本が正しい!」とは決して言えません。皆様もこの点はご了承の上「ある一人のクリスチャンの捉え方」としてお読みいただければ幸いです。

……と、いうわけで賛否両論、きっとたくさんのお叱りやご指導をいただくであろうことは覚悟の上で、誠に僭越至極ながら、筆を執らせていただいている次第です。
ときどきふざけたり、 突然ゆるくなったりします
今まで聖書やキリスト教に触れたことがない方にも、できるだけ親しみやすく伝えるために、できるだけ砕けた文体で書きますし、ときどきふざけたり、急にゆるい発言を入れこんだりもします。
決してキリスト教や聖書を笑いものにしているわけではありません。それは酸っぱいヨーグルトに砂糖を入れるようなものです。

疑問を持ってもらえたら嬉しいです
この本は多少は難しいことも書くかもしれませんが、基本的に「キリスト教初心者」
の方向けの本ですから、難しいことにそれほど深く踏み込みはしません。
ですからもしこの本で「難しいこと」に出会ったら、それは「難しい本」で調べてください。あるいは聖書そのものに答えが記されているかもしれません。
いずれにせよ、この本で聖書やキリスト教について疑問を持ってくださる方がいるなら、それは嬉しいことです。興味って、疑問なしには深まらないものですから。
聖書って「疑問を持ってはいけない」本ではありません。疑問や、ときにはツッコミを入れながら読んだって良いんです。

キリスト教と死-最後の審判から無名戦士の墓まで

「死の文化」の豊かな世界をめぐる

本書は、キリスト教と死の関係についてクローズアップされています。前半は死後の世界について、後半は葬儀や墓について述べられています。「死をもたらすもの」として疫病や災害、処刑について歴史的に解説された章もあります。キリスト教の死生観について詳しく知りたいという方におすすめの一冊です。

指 昭博 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/9/14)、出典:出版社HP

中公新書2561

指昭博 著
キリスト教と死
最後の審判から無名戦士の墓まで

この電子書籍は、同名タイトルの中公新書を底本(縦組み)に作成しましたが、一部について底本と異なる場合があります。またご覧になる機種や設定などにより、表示などが異なる場合もあります。

プロローグ

ヨーロッパ、キリスト教世界での死のイメージといえば、アニメ『フランダースの犬」の最後、息を引き取ったネロとパトラッシュの魂が天使に導かれて天へと昇ってゆくさまを、(人によっては涙とともに)思い浮かべる人も多いかもしれない。
しかし、その感動に水を差すようで申し訳ないのだが、この死の様子にはいろいろと疑問が浮かんでくる。まず、素朴な理解で考えると、キリスト教では、この世界の終末にある「最後の審判」の裁きによって死者の魂の天国行きが決まるはずである。ネロは空高く上がっていったが、はたして、まだ「最後の審判」を経ていないネロの現の行き先は天国なのだろうか。
そもそも天国とはどこにあるのだろう。天空といっても、どれほど地球から離れているのだろう。太陽系のなかなのか、外なのか。それとも、まったくの異次元に存在するのだろうか。

また、天に昇る魂とはどのような形をしているのだろう。人の姿をしているのか、それとも人魂のような形なのか。魂が天へと向かうとき、天使が迎えに来てくれなければ、魂は自力では昇天できないのだろうか。また、キリスト教では、人間以外は霊魂を持たないとされるので、犬であるパトラッシュは一緒に天国へ入ることはできないはずだ。
多くの宗教にとって死は重要な問題である。いやむしろ、死をどうとらえるか、死後の世界をどう考えるか、が主要宗教の核心であるといっていいだろう。ところが、あらためて考えてみると、この肝心な部分について、意外なほどわれわれの理解が曖昧なことに驚かされる。

われわれにはキリスト教よりも身近なはずの仏数にしても、事情は同じである。宗派によって葬儀の次第や考え方に違いがあること自体、あまり意識されることはないかもしれないが、その違いの幅は想像以上に大きい。
たとえば、葬儀を終えたあと、「清めの塩」を配ることもあれば、死は「穢れ」ではないとして配らないこともある。死を極楽への旅立ちとして「めでたい」と位置づけ、個侶が派手な衣装を着用する宗派もある。いわば晴れ着の発想だろうか。
近世の日本人は、信じる宗派によって異なった「あの世」に行くと考えていたようである。一七世紀イギリスで著された日本の宗教を紹介した書物にもそういった記述がある。浄土宗なら浄土宗の極楽に、一向宗なら一向宗の極楽に、というわけである。宗旨が違えば、今生の別れは永の別れでもあるわけだが、宗教的多様性容認の容の表れともいえるかもしれない。

お盆にはご先祖族の霊魂が戻ってくるという仏教以前の祖霊信仰にもとづいて、迎え火を焚き、僧侶が読経するという習慣も根強い。しかし、極楽往生を遂げた死者のは、けっしてこの世には戻ってこないという浄土思想の立場から、お盆の習慣を仏教とは無縁のものとして否定する宗派もある。たしかに、この理屈でいえば、お盆に死者の魂が戻ってくると考えるのは、死者が成仏していないということになる。そもそも、お盆に死者はどこから戻ってくるとわれわれは意識しているのだろう。もともとの祖霊信仰では、死者の魂は近隣の山などにいると考えられていたので、魂の帰還という考え方は自然であったが、西方十万億の仏土の彼方にあるという極楽浄土からどのように戻ってくるのだろう。また、地獄に堕ちた死者の魂も、お盆には、責め苦も一休みして、戻ってくることができるのだろうか。そもそも、われわれは、死者の魂はどこにいると理解しているのだろう。天国や極楽(もしくは地獄)、それとも、お路、仏壇、いろいろと候補は挙げられるが、この問いには多くの人が答えに窮するはずである。

茶毘に付した遺体から遺骨を拾う習慣にしても、関東では骨全部を集めるのに対して、関西では一部の骨しか拾わない。拾い残した骨が処分されることに対して、東の人は違和感を感じるようであり、西の人はそんなにたくさん集めてどうするの、ということになる。そもそも、この遺骨の意味は何なのだろうか。そこに何らかの霊的な存在が留まっているのだろうか。大阪には、納められた多くの遺骨を砕き固めて仏様の姿にして供養する寺があるが、骨の色そのものの白い仏様の姿をありがたいと思うか、グロテスクと見るかは、かなり意見が分かれるだろう。他人の遺骨と一体化することへの違和感もあるかもしれない。日本人の遺骨(遺体)への執着は、たとえばキリスト教徒からすれば、いささか特異なものと映るようである。それは、二〇〇一年にハワイ沖で起きた「えひめ丸事件」にも端的に表れていた。日本の水産高校の演習船がアメリカ海軍の潜水艦に衝突され沈没、九名が命を落とした事件である。このとき、深い海に沈んだえひめ丸の引き上げをめぐり、引き上げは困難なのでこのままにしておこうというアメリカ側と、あくまでも引き上げ(遺体の収容)を求める遺族の間でトラブルとなった。なにしろ、真珠湾攻撃の際に沈没した戦艦アリゾナの乗組員の遺体九00体ほどがいまだに船内に残され、その上に、記念館が設けられているのだから、彼我の遺体・遺骨への思いの違いはかなり大きい。つまり、多くの日本人には「当たり前」のように見える戦没者の遺骨収集も、世界的にはかならずしも常識ではなく、むしろ奇異に映る可能性があることはよく指摘されるとおりである。また、歴史をさかのぼれば、日本人も昔から遺骨を大事にしていたわけではない。平安時代の京都などでは、遺体は、化野や鳥辺山といった市街を外れた場所に捨て置かれ、朽ちて動物の食べるままにされた様子が絵巻物や六道絵などに描かれている。一方で、西洋絵画などには、静物画に頭蓋骨を描いた例がたくさんある。とくに近世に作例が多いように思うが、これは「死を想え」という中世末以来の思想にもとづく。頭蓋骨によって、人間の生のはかなさを知らしめ、信仰や道徳的な戒めとするものである。シェイクスピアの「ハムレット」でも、道化師ヨリックの頭蓋骨を手に、ハムレットが甘学的な感慨にふける場面が描かれる。しかし、日本では、頭蓋骨が登場するといえば怪談であるし、展覧会で頭蓋骨を描いた静物画を見た場合、気味悪いと感じる人のほうが多いようである。

魂の重さは何グラムという人が死ぬと、必ずその分だけ体重が減るという―いささか旧庫な数値も世のなかに流布している。そうなると、これまでの死者の魂の重量の総計はたいへんなものになるはずだが、天空にそれだけの重量を支える場所があるのだろうか。少し前に流行った「千の風になって」という歌で描かれた死後のイメージも、昔ふうにいえば「成仏せずに迷っている」ということになるのかもしれない。死者に見守られたいと願うのも、「成仏しないでください」と祈っていることになる。そもそも死者の魂がみんな風になって飛び回っているなら、もう台風並みの暴風だろう。

このように、宗教者ではないわれわれがぼんやりと思い浮かべる死のイメージは、きわめて曖昧で、さまざまな宗教の要素が混在し、統一のとれた世界観をなしていない。漫才ふうにつっこみを入れるととたんに答えに窮することになる。
もちろん、唯物論的に、完全に死後の存在を否定する考えもある。死んだらそれまで、であり、霊魂というものを認めない。この立場からは、たとえば、死後の世界をあれこれ考えたり心配したりすることは無意味で、死者を祀ったり死者へ祈りを捧げることは迷信でしかない。

では、これらの出発点にある「死の定義」はどうだろう。これも単純明快な話ではない。脳死と心療死をめぐる議論に見られるように、科学的に一元的な定義とはいかないようである。そうなると、たとえば、死後何年も経つ遺体を前に「まだ死んでいない」と主張する新興宗教の信者がニュースになったことがあるが、われわれはどういう根拠でその死の定義を否定することができるのだろう。
死をめぐる議論では、死生観を含め、死の定義の文化的な背景ということが強調されることが多いが、一方で死は社会的・法的な問題であり、経済的な問題でもある。たとえば、二国間で死の定義が異なった場合の問題はどのように解決されるのだろう。A国では「死亡」となるがB国ではならないといった場合、A国で「死んだ」人をB国へ移送すれば「生き返る」ことになるのだろうか。戸籍の記載はもちろん、相続はどのようになり、保険金はどのように支払われるのだろうか。死という。厳粛な事柄が、見方によっては、きわめてグロテスクな、ときには滑稽な事態を引き起こすことになるだろう。死という実に重大な事柄でありながら、そこに整合的な共通認識が欠けている事実にあらためて驚かされる。

当然のことながら、死後の霊魂の問題を扱う宗教にとっては、死はその中心的な課題といえる。とりわけ、キリスト教は、イエスの十字架処刑に始まり、初期教会の殉教者たちに見るように、迫害による死の上に築かれたといってもよく、死はキリスト教の本質に深く根ざしている。宗教改革による教義の変化や宗派対立の根底にあったのも、「死」にまつわる問題であったということができる。宗教改革者による煉獄の否定と、それにともなう死者への祈りの否定や聖人のとりなしの否定は、中世のカトリック教会が築き上げた死と死後の世界観への挑戦であった。こうした教義・神学に関わる問題は、同時代から宗教改革をめぐる論議の中核にあった。

ところが、こうしたキリスト教の世界でも、死と死者の魂をめぐる問題が整然と説明されているかといえば、かならずしもそうではない。われわれ同様にかなり混沌としている。死後の魂の行方、天国の存在そのものについても、さまざまな考えがあるのだ。
このように、人の死と死後のあり方、人の死と社会の関わりなどは、きわめて身近であり、多くの検討すべき問題をはらんでいるのだが、宗教の本質に関わる問題であるためか、「死の文化」を正面から取り上げた本格的な歴史研究が始まるのは、二〇世紀後半のいわゆる社会史の興隆に刺激されてからである。本書は、そうした先行研究を踏まえながら、死とその周辺の事柄をめぐる歴史的な問題を、イギリスを中心にしたヨーロッパ・キリスト教世界にたどり、われわれ自身の死に対する意識を考えてみる試みである。

指 昭博 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/9/14)、出典:出版社HP

目次

プロローグ

第一章 キリスト教の来世観
1 天国と地獄
最後の審判/天国/天国はエデンの園?/天国の暮らし/地獄/最後の審判はいつ/アウグスティヌスの六時代区分
2 煉獄
煉獄の誕生/煉獄の様子/死者のための祈り/免罪符の功罪
3 往生術
臨終マニュアル
4 プロテスタントの来世観
宗教改革による教義の変化/練獄の否定と天国
5 救済観の激変
施しの否定/遺言書にみる宗教意識

第二章 幽霊の居場所
1 幽霊と「あの世の地図」
幽霊とは/幽霊と練獄/メランコリーと幽霊/ハムレットと幽霊/イギリス文学の幽霊/幽霊と魔女/売げ山の一夜
2 心霊主義と甘美な死
「霊魂の不滅」/心霊主義/甘美な死後の世界/「楽園への道」

第三章 死をもたらすもの
1 疫病・災害・住環境
ベスト−見えない恐怖/いかに対処するか/映画にみる現代の恐怖/ロンドン大火/地震/非衛生な環境/子どもの死/間引き/家族の情愛/親の死
2 処刑
人の目に晒される処刑/絞首・斬首・車裂/「絞首・引き回し・四つ裂き」の刑/火刑
3 アイデンティティとしての殉教
イエスの十字架刑/殉教と聖人崇敬/殉教史研究/自殺と殉教

第四章 死と葬儀
1 葬儀と埋葬
死の準備/葬儀/埋葬/遺体泥棒/錦の音
2 国王の葬儀
エリザベスの葬列/葬儀像/テューダー朝の葬儀像/埋葬場所が不明の王/国王の二つの身体

第五章 墓と社会
「基」とは何か/遺体の処置/キリスト教の墓所/墓の掘り起こし/宗教改革による混乱/教会と分離した「基地」の登場

第六章 モニュメント
1 モニュメントとは
基とモニュメント/モニュメント見物/モニュメントの流行とその形態/大きさ/素材と価格/モニュメントと社会秩序/分不相応のモニュメント
2 戦争の英雄を記念する
ネルソンとウェリントン/無名兵士の頭彰/その後

エピローグーメメント・モリ

あとがき
文献案内

章とびら図版一覧
第一章 「死者の復活』ソルズベリトマス教会壁画
第二章 「ハムレット」第1幕の亡霊(ヨハン・ハインリヒ・フュースリ作ポイデル版「シェイクスピア・ギャラリー」1796年より)
第三章 死への勝利を謳う聖句(「コリントの信徒への手紙1」15章54節)を掲げる天使(19世紀イギリスのステンドグラス、掛川市ステンドグラス美術館蔵)
第四章 葬儀の招待状(1702年)
第五章 コッツウォルドにある教区教会墓地
第六章 聖堂を埋め尽くすモニュメント(エクセター大聖堂)

指 昭博 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2019/9/14)、出典:出版社HP

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)

一大歴史エンターテインメント

本書では、「信仰」を「任侠道」、「教会」を「組」と置き換えるなど、キリスト教の歴史をヤクザの抗争に見立てて、ストーリー仕立てに書かれています。物語形式なのでスラスラと読み進められ、キリスト教の歴史の流れについても学ことができます。キリスト教に興味がなくても、読書用の本としてもおすすめの一冊です。

架神 恭介 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2016/12/7)、出典:出版社HP

目次

第1章 やくざイエス
第2章 やくざイエスの死
第3章 初期やくざ教会
第4章 パウロ――極道の伝道師たち
第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影
第6章 実録・叙任権やくざ闘争
第7章 第四回十字軍
第8章 極道ルターの宗教改革
終章 インタビュー・ウィズ・やくざ
文庫版おまけ 出エジプト――若頭モーセの苦闘郷
あとがき
主要参考文献一覧
解説 キリスト教の戦慄すべき現実 石川明人

架神 恭介 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2016/12/7)、出典:出版社HP

キリスト教講義 (日本語)

6つの切り口からキリスト教を理解できる

キリスト教は、多数の書物が存在することでたくさんの解釈が生まれている宗教です。そこで、本書では、聖書や神学・哲学から文学に及ぶ様々なジャンルの書物を引用し、その解釈について著者2人が討論するという形式になっています。キリスト教についてより理解を深めたいという方におすすめの一冊です。

若松 英輔 (著), 山本 芳久 (著)
出版社 : 文藝春秋 (2018/12/15)、出典:出版社HP

目次

まえがき 山本芳久

序章 キリスト教とは何か
キリスト教の奇妙さ、難解さ
カトリックであるということ
近代日本の神学者・哲学者
日本におけるトマス・アクィナス

第1章 愛
自己愛が隣人愛の基盤である
愛はどこから生まれるのか
無名のキリスト者
緊密で調和的な個のあり方
「与える愛」と「求める愛」
エロースとアガベー
愛は概念化を拒むものである
恋愛はキリスト教的な愛なのか
家族愛と友愛の概念の広がり
家族愛をめぐって
トマスの中庸な愛の理解
友愛をめぐる二つのテクスト
修道会の中から生まれた友愛の概念

第2章 神秘
キリスト教における神秘とは何か
「受肉の神秘」とは何か
イエスとキリストの関係
信仰はどこから来るのか
「恩寵」はすべての人に及ぶのか
聖書の中における「神秘」
神の名前こそが神秘である
失われた死者と天使
天使的経験とは
天使のいる世界、天使を取り戻すために
祈りを取り戻す

第3章 言葉
初めに言葉があった
「肉」とは何か
ギリシア語において「言葉」を理解する
神の口から出るすべての言葉
大文字の言葉と小文字の言葉
聖書は未完の書物である
聖書とコーランは異なるもの

第4章 歴史
旧約聖書をどう読むか
新約聖書に旧約聖書を読む鍵がある
新約聖書優位の理由は何か
祈りという問題
自己の探求が神の探求につながる
アウグスティヌス『神の国』に書かれる歴史の秩序
日本人とキリスト教
キリストの復活とは何か

第5章 悪
「悪は善の欠如である」
悪とは聖なるものの破壊である
個であること、人間の主体が何かを見つめる
異質なものを認める原理
悪はどのように生まれるのか
悪なるものと聖なるものとの関係
悪は聖なるものを恐れている
日本におけるキリスト教的な言葉の貧しさ
悪を見抜くことができるか

第6章 聖性
聖なるものを考える
再び「理性」と「神秘」を考える
悪とどうやって闘うか――貧しさを取り戻す
聖なる探求とは古典を読むことである
聖なるものとは美である

あとがき 若松英輔
ブックリスト

キリスト教講義

若松 英輔 (著), 山本 芳久 (著)
出版社 : 文藝春秋 (2018/12/15)、出典:出版社HP

まえがき――「言葉」と出会う、「神」と出会う

山本芳久
ィエス・キリストは、一冊の書物も書き残すことなく、十字架上で短い生涯を終えました。新約聖書は、「イエスが書いた書物」ではなく、「イエスについて書かれた書物」です。イエスについて書かれた書物は、新約聖書のみではありません。神学・哲学から文学や史学に及ぶまで、実に様々なことがらが、イエスとキリスト教について語られてきました。日本語で読めるものだけに限定しても、一人の人が一生をかけても読みきれないほどのキリスト教に関する書物が既に刊行されています。このように多数の書物が存在していることによって、わたしたちは実に多くのことがらを、イエスについて、そしてキリスト教について知ることができます。
ですが、実はそこには落とし穴もあります。あまりにも多くの書物が存在することによって、どの書物から手をつけたらよいのか、どの本に書かれていることを信頼すればよいのか、特別な知識を持たない読者にとっては、判断することがとても困難になっているからです。

キリスト教の教えは、それを必要とする人に充分に届けられていないのではないか。信仰の有無にかかわらず、日本人のキリスト教理解は、あまりにも一面的なものに留まり続けているのではないか。これまでの紹介のされ方とは角度を変えてキリスト教について語りなおしてみれば、キリスト教の存在意義が、より多くの人に伝わりやすくなるのではないか。若松英輔さんと私は、長らくそのような思いを共にしてきました。いっそのこと、わたしたち自身が、キリスト教について語りなおす書籍を公刊するのが最善の道なのではないか。そのような思いが形をとったのが『キリスト教講義』です。
私が若松さんと出会ったのは、キリスト教の日本における「文化内開花」を目指して活動を行っていた井上洋治神父が主宰していた「風の家」というカトリック教会内の一運動においてでした。今からおよそ四半世紀前のことです。今回、対談のために費やした時間は、さほど長いものではありません。ですが、この本のなかには、四半世紀にわたって積み重ねてきた二人の持続的な対話のエッセンスが、凝縮して表現されています。

本書は、『キリスト教入門』でもなければ、『キリスト教概論』でもありません。キリスト教についての入門書や概説書であれば、キリスト教の教義や、二千年に及ぶキリスト教の歴史など、多くの基本的なことがらを、順序立てて体系的に説明するという作業が必要になるはずですが、本書はそのようなことを目的とした書籍ではありません。
今回の対談の大きな特徴の一つは、聖書や神学・哲学から文学に及ぶ様々なジャンルの書物からの引用が数多く含まれていることです。わたしたち二人の声のみではなく、キリスト教について語る多様な著者の声が共鳴することによって、より豊かな言語宇宙の広がりが生まれてくればと思い、対談に際して、毎回、キリスト教について語るための糸口になりそうなテクストをお互いに準備し、対談の場に持参しました。キリスト教に関するかなりの数の書物を読み続けてきた若松さんと私の、数十年間にわたる読書経験のエッセンスが、『キリスト教講義』には含まれています。アウグスティヌスやトマス・アクィナスから須賀敦子にまで及ぶこれらの多彩なテクストによって我々の対話に力が与えられたとも言えますし、我々の対話を通じて、これらのテクストに新たな生命が吹き込まれたとも言えると思います。

キリストは、人々の心を強く動かす言葉を語る力を有する人物でした。キリストの語った言葉という種は、二千年の歴史のなかで数え切れないほど多くの巨木へと育ち、今も人々を神との出会いへと導き続けています。キリストの語った言葉が種となり、アウグスティヌスの『告白』やトマス・アクィナスの『神学大全』といった巨木へと育っていったのです。
数々の巨木を生んだキリスト教の歴史は、引用すべき多様なテクストに充ち満ちています。そのなかには、未だ日本語訳されていないものも多数含まれています。ですが、今回の対談では、邦訳が刊行されている書籍を厳選して、対話の糸口にすることにしました。また、既存の訳をそのまま用いずに訳しなおした部分もありますが、基本的には、既存の訳を使用し、その書誌情報も本文のなかに入れました。引用文を読んで興味を抱いた読者が、引用元の書籍に直接手を伸ばすのが容易になるようにとの配慮からです。

本書におけるキリスト教の取り上げ方のなかには、従来のものとは異なる数々の斬新で挑発的な観点が含まれているかもしれません。ですが、わたしたちは、殊更に新奇なことを述べようとしたわけではありません。むしろ、聖書をはじめとしたキリスト教の古典の伝統へと深く沈潜し、丁寧に読み解くことを試みました。そのことによってこそ、手垢のついた通俗的なキリスト教理解を相対化する観点を提示することができると考えたからです。
キリスト教は意外と面白いのではないか。キリスト教は単なる過去の遺物ではなく現代においても知的刺激をもたらしてくれるものなのではないか。自分が漠然と求めていたものは実はキリスト教のうちに見出すことができるのではないか。そのように感じ取っていただける読者が一人でも多く出てきてくだされば、それ以上に嬉しいことはありません。

凡例

(1)本書における様々な書物からの引用に関しては、各引用文の最後にその出典と頁数を明記した。
(2)引用に際して、既存の翻訳を使用せずに訳しなおした場合には、「若松英輔訳」「山本芳久訳」と明記した。
(3)聖書からの引用に関しては、若松は「フランシスコ会聖書研究所訳」を、山本は「新共同訳」を使用した。あえて統一することはせず、対談の場にそれぞれが持参し読み上げたままの臨場感を生かすことを優先させた。
(4)引用にさいしては、表記などに関して部分的に変更した箇所がある。
(5)引用者による省略は「[中略]」で記した。
(6)〔 〕内は、引用者による補いである。

若松 英輔 (著), 山本 芳久 (著)
出版社 : 文藝春秋 (2018/12/15)、出典:出版社HP

キリスト教入門 (岩波ジュニア新書)

教養としてのキリスト教の入門書

本書は、「非キリスト教徒のための、教養としてのキリスト教入門」とはじめにの項で書かれているように、キリスト教の歴史をノン・クリスチャン向けに学問的に記した一冊です。キリスト教について学び始める方の入門書としておすすめです。

山我 哲雄 (著)
出版社 : 岩波書店 (2014/12/20)、出典:出版社HP

はじめに

現在、世界のキリスト教徒の数は約二二億人と言われています。世界の総人口は七二億人ぐらいとされていますから、三・五人に一人以上がクリスチャンということになります。グローバリゼーションの急速に進む現代世界ですから、若い皆さんにとって、これから内外のキリスト教徒と出会い、友人になったり、一緒に仕事をしたり、あるいはキリスト教文化圏に住んだりする機会もますます増えていくことでしょう。そうした場合、キリスト教特有の文化や習慣、価値観や思考様式を適切に理解しておくことは有益でしょう。
キリスト教は西アジア起源の宗教ですが、その二千年に及ぶ歴史を通じて、主として欧米の文化の精神的支柱としての役割を果たしてきました。欧米の思想、歴史、文化、道徳や社会制度、文学や芸術等を理解するうえで、キリスト教についての基礎知識が不可欠であることは言うまでもありません。
他方で、わが国は非キリスト教国で、キリスト教伝来以来四五〇年以上が経過しましたが、クリスチャンの数は人口の一パーセントを超えたことがないと言われます。多くの日本の人々がミッションスクールで学び、(ホテルのチャペルを含む)教会でキリスト教式の結婚式を挙げ、クリスマスやバレンタインデーを祝いますが、キリスト教についての知識や理解は決して十分とは言えず、根本的な誤解や曲解も少なくないように思われます。

本書は、キリスト教の布教伝道のためのものでも、キリスト教の信仰を深めるためのものでもなく、むしろノン・クリスチャン(非キリスト教徒)を読者に想定し、世界の思想や歴史や社会に大きな影響を与えてきた――そして今でも与えつづけている――キリスト教という宗教について、正しく適切な知識と理解を養っていただくために書かれたものです。いわば、非キリスト教徒のための、「教養としてのキリスト教入門」といった性格のものです。ここでは、キリスト教がある種の異文化として扱われます。一部で「文明の衝突」が云々される現代世界において、最も重要なことの一つは、自分たちのものとは異なる文化や文明を適切に理解し合い、異なる文明や宗教に属する人々が平和的に共存し協力し合うために、相互に対話し、お互いに尊重し合うということでしょう。本書が、異文化としてのキリスト教の信仰と文化についての適切な知識と理解を養ううえで、よい助けになることを願って止みません。

キリスト教は、約二千年前にユダヤ教を母体として生まれました。本書の前半では、キリスト教がユダヤ教の分派として出発しながら、独立した世界宗教へと発展していく次第を歴史的に明らかにしようと試みました。その後、キリスト教は大きく見てローマ・カトリック教会、(ギリシア正教などの)東方正教会、プロテスタント教会の三つに分かれて展開してきました。このうちプロテスタント教会は、ルター派や長老派や聖公会、メソジスト、バプテストなど、さらにたくさんの教派に分かれています。本書の後半では、それらの諸教派がなぜ分かれたのかや、諸教派の何が共通で、何が違うのかをできるだけ明確にしようと努めています。

筆者はこれまで、本や雑誌を通じて、聖書やキリスト教についての入門的な文章を何度か発表してきましたが、本書をまとめるに当たり、以前書いたものの一部を修正しながら本書にも取り入れたことをお断りしておきます。
なお、キリスト教は聖書に基づく宗教で、それを正しく理解するためには聖書を参照することが不可欠です。本書では、新書版という小さい本であるため、必要最小限しか聖書からの引用ができませんでした。特に最初の三つの章では聖書との関係が重要で、関連する代表的な聖書の箇所を括弧内に指示しましたので、できればご自分で聖書に当たって確認してください。聖書引用は原則として『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)によりました。聖書文書の略号も『新共同訳』の方式に従いました(別表参照)。聖書の章節については、筆者も所属する日本聖書学研究所の方式に従い、章を漢数字で、節を算用数字で表しました。例えば、「ロマー17」とあれば、『ローマの信徒への手紙』一章17節のことです。
本書を、キリスト教についての基礎的で適切な情報を得るための教養書として、また世界史や倫理などを学ぶうえでの副読本として、広く用いていただければ幸いです。

二○一四年一〇月
山我哲雄

山我 哲雄 (著)
出版社 : 岩波書店 (2014/12/20)、出典:出版社HP

本書は、二〇一四年の刊行以来、幸いにもご高評をいただき、版を重ねることができましたが、二〇一九年の第八刷刊行に際して誤植や不正確な表現の訂正、最近の出来事に基づく記述の改変を一部で行ないました。
山 我記

目次

はじめに
別表 聖書に収録された諸文書と、その略号の一覧
第1章 ユダヤ教とキリスト教
第2章 ナザレのイエス
第3章 キリスト教の成立
第4章 キリスト教の発展―キリスト教の西と東―
第5章 ローマ・カトリック教会
第6章 東方正教会
第7章 宗教改革とプロテスタント教会
おわりに キリスト教と現代
キリスト教 略年表
索引

山我 哲雄 (著)
出版社 : 岩波書店 (2014/12/20)、出典:出版社HP