医師の感情: 「平静の心」がゆれるとき

本書は米国の公立ベルビュー病院に勤務するダニエル・オーフリ氏による著作で、堀内志奈氏に訳されたものであり、また、医療における様々な感情に光をあて、それが医療行為のあらゆるレベルでどのような影響を及ぼすか考えてみることを目的としたものです。序章の最後には、医師-患者間における感情の持つポジティブな影響とネガティブな感情を理解することが、医療の質を最大限に高めるために不可欠なものであると語っているところから物語が始まります。

物語が始まると、筆者は自身が医学研修医時代のERでの苦い思い出について語り始めます。そこで医療における「共感」という概念の定義を明らかにするが、「患者の苦痛を認識し、理解することである」としています。この医師の共感は、患者の痛みがもっともである場合に発揮されやすいですが、反対に、患者の体裁が異質に感じられるなどの肉体的な理由や、性格的な特徴のためにできる医師との感情的な距離などの精神的な理由によって、共感が阻害されることは多々あるとのことです。

また、医師は長い間自身の楽しみを失い自己抑制することを強いる教育システムの産物であるがゆえに、依存や肥満などの患者に対して無意識に、あるいは意識的に怠惰や自堕落などによるものと考えてしまい、理解を示さないことが多い傾向にあります。しかし依存症患者はうつ病や虐待経験など、複雑な問題に悩まされている背景が存在することも多々あるのが現状です。これを理解することで医師と患者間の関係性が良いものになる可能性があることからも、その共感なしに患者の病を改善させることは難しいと述べられています。ある薬物依存症患者が「自身が依存に陥ったと実感したとき」について詳細に語る場面には、それを聞いた筆者と同じように、読者は心を強く打たれるはずです。

逆に、自分と患者を過剰に同一視してしまうという、過剰な共感も望ましくはないといいます。それによって患者に辛い診断を伝え損ねることがあれば、患者の診断を受け入れるための時間を奪うことに繋がってしまうためであります。筆者は本書の目的のひとつを、医師の行動が感情によって左右される状況が、結局どのような影響を患者に及ぼしてしまうのかを描くことであるとしました。本書は、医師の感情やその葛藤、問題について考えさせられる貴重な機会を与えてくれます。いずれにせよ医師の患者に対する共感というのは、必要不可欠でありながらも、同時に過剰であってはならないということが言えます。言葉では簡単であるが、実際彼らの葛藤は想像を超えて厳しいものであるということが、この問題の普遍性からも明らかです。

しかし、医学部教育のシステムが医学生の共感力を無くしてしまう事実もあるとのことです。ここで重要なのは、学生が目にする先輩医師の振る舞いであり、どういう態度を模範として示すかということであると述べられています。これは共感力というものがただ単に学ぶだけで得られるものより、同じ現場の先輩である人間から受けた影響によるものが価値として高いからではないかと考えられます。筆者は、自身が影響を受けた年かさの医師に共通して備わっていたのが、尊厳を重視しながら患者をよく知ろうと努める「臨床的好奇心」であったと言及しています。この純粋な好奇心が共感力の根底をなすという事実は、医療の現場に限らず言えることであります。

3〜5章では、医師が医療現場において自身の恐れを自覚し、丁度いい加減に調整する術は必要不可欠なスキルであるということや、悲しみの感情とどのように向き合うかによって患者が受ける治療の質は大きな影響を受けるということ、また、医師は医療ミスを開示する際の恥を乗り越える必要があるということが述べられています。医師が持つこれらの感情は、人間すべてに普遍的で、共感力という観点からも必要不可欠なものだが、医療現場においては、それらをいかに制御できるかが重要になってくるということがわかります。

筆者はあとがきで、患者にとって安心できる医療を提供するには、医師が自分の感情を常に意識すること、患者とのやりとりで自分の感情をどのように取り込めば一番良いかを知っておくことが重要であると述べます。最後にはフランシス・ピーボディー医師が医学生に向けて述べた「患者治療の秘訣は患者を大切に思う気持ちにある」という格言を引用し、これが治療を超えた癒しへの道に繋がると締めくくります。本書は医師が感情を持つこと、それをどのようにコントロールするかが大事であるということを筆者の経験を事細かに交えて伝えてくれる、非常に濃い内容となっており、文字通り読者の心を揺さぶります。

医師はその制御された感情によって、より良い治療や、肉体的だけでなく精神的な患者の健康も叶えることができるのです。常に患者の死やその責任が隣り合わせにあるゆえに、技術だけでなく感情面においても厳しい世界にある医療職であるが、だからこそ対人間の、最も心を動かされる職業であるとも言えるでしょう。

Danielle Ofri (著), 堀内 志奈 (翻訳)
出版社: 医学書院 (2016/5/30)、出典:amazon.co.jp