アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

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目次 – アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

はじめに

第1章 アマゾン
ルーマニア人労働者
懲罰ポイント
人間の否定
炭鉱とともに繁栄を失った町
ワンクリックの向こう側

第2章 訪問介護
介護業界の群を抜く離職率
観光客とホームレスの町
介護は金のなる木
ディスカウント・ストアの急伸
貧困層を狙うゲストハウス

第3章 コールセンター
ウェールズ
「楽しさ」というスローガン
古き良き時代を生きた炭坑夫たち
生産性至上主義
世界を均質化する資本

第4章 ウーバー
ギグ・エコノミーという搾取
単純な採用試験
「自由」の欺瞞
価格競争で失われる尊厳
労働者の権利と自主性

エピローグ
原注

人生は最高
イングランドの大地と空のあいだで
歓喜が湧き上がる
ウィリアム・アーネスト・ヘンリー「イングランド、マイ・イングランド」より

ジェームズ・ブラッドワース (著), 濱野大道 (翻訳)
出版社: 光文社 (2019/3/13)、出典:出版社HP

はじめに

2016年はじめ、雲のうしろから太陽がそろそろと昇り、厳しい冬の寒さが和らぎ出したころ、私はおんぼろの車に乗ってロンドンを離れ、普段は見えないところに隠された世界の生活を体験するための旅に出た。
現在、イギリスでは約20人に1人が最低賃金で生活している。そのような人々の多くは、かつて産業と製造業の中心地として栄えた町や大都市に暮らす。国内で生まれたイギリス人も多いものの、最近では海外からの移民も増えつづけている。
今日のイギリスの低賃金労働の実態について探るためにはどうすればいいか? 私が出した答えは、自分がその一部になるというものだった。つまり底辺まで沈み込み、イギリスの豊かさの大半を作り出す巨大で、形のない、無個性な機械の歯車になるということだ。その旅のなかで私は、生活賃金[訳注、人が最低限の生活を維持することに必要な生計費]さえ支払おうとしない会社に潜入する。長々と続いた不況の末に、再び正常に動き出したと称される豊かな社会の隅で、どうにか生き永らえている男女とともに私は生活した。ますます多くの人にとって、やりがいのある安定した仕事を得るということが、アカデミー賞やバロンドールを獲得することほどむずかしくなっている。私は、そんな人々が生きる世界へと足を踏み入れた。

2008年の世界金融危機のあと、「緊縮財政」がイギリス政府の”存在理由”になった。「もうお金は残っていない」と声高らかに宣した政府は、公共サービスのための予算を大幅に削る必要があると訴えた。あるいは、政府よりも効率的な運営方法を知っているとされる民間企業に業務の一部を委託しなければいけないと主張した。
それ以降、社会にはより楽観的なBGMが流れるようになり、イギリスは記録的な高さの雇用水準を記録しつづけた。しかしながら、労働市場についての明るい楽天主義は、現代経済の変わりやすい性質を覆い隠してしまう。実際、より多くの人が仕事に就いてはいるものの、勤務時間が一定ではない低賃金かつ不安定な仕事の割合がみるみる増した。物価が上がっても、それにともなって賃金が上がったわけではない。世界金融危機のあと、自営業者が100万人以上も増えた。その多くが、インターネットなどを通じて単発の仕事を請け負う”ギグ・エコノミー”という働き方を選んだが、彼らに労働者の基本的な権利はほとんど与えられていない。週5時間働けば、政府が定義する「失業者」には含まれなくなる。しかし、そのような仕事で家賃を払うのは至難の業だ。たとえフルタイムの仕事に就いていたとしても、バラ色の未来が保証されているわけではない。近年のイギリスで続く所得の減少は、ここ150年でもっとも長期にわたるものだ。

私がテーマとして取り上げるのは労働環境の性質の変化についてだが、同時にこれはイギリス社会の性質の変化についての本でもある。半世紀前に作家アラン・シリトーが発表したカルト的人気小説『土曜の夜と日曜の朝』の自由奔放な主人公アーサー・シートンは、ノッティンガムの工場で旋盤工として働いていた。彼は退屈な仕事を忌み嫌っていたが、少なくとも具合が悪いときに休みを取ることができた。上司に小言を言われたときには、愚痴を聞いてくれる労働組合の代表者がそばにいた。たとえクビになっても、たいして苦労することなく次の仕事が見つかった。仕事が終われば、地元のパブやクラブで酒を飲み、仲間たちと親交を深めることができた。雇用者と労働者のあいだの諍いは絶えなかったものの、社会が根本的に変化しているという確かな感覚がそこにはあった。
イギリスの社会民主主義的な時代は、各地で起きた炭鉱ストライキの敗北が決まった1984年に終わったといっていい。その年、保守党のハロルド・マクミラン元首相がかつて「カイザーやヒトラーの軍を倒し、決してあきらめなかった世界一の人々」と褒め称えたイギリス人労働者たちの頭に、警棒が振り下ろされた。警官隊に打ちのめされ、茫然自失の表情を浮かべる炭鉱労働者たちの写真は、全国のタブロイド紙の一面を飾った。その写真の表情は、支配からの一時的な解放が終わったという気づきをとらえたもののように見えた。労働者になるということは、軽蔑されるか、あるいは生きることがぎりぎり許されるレベルの人間になるということ――そんな時代が再び来る前兆のようだった。
それから40年あまりのあいだに、イギリスの生活水準はずいぶんと向上した。盲目的な懐古主義にもはや意味などなく、そんなのはクモの巣だらけの倒壊寸前の廃屋に住もうとするようなものでしかない。多くの人にとって、20世紀なかばの“庶民の時代”は、いわば白人の異性愛者の男性のための時代でしかなかった。そのような時代にセピア色の憧れを抱くのは、侮辱的なことでしかなかった。絞首刑が存在していた時代や、1958年のノッティング・ヒルの人種暴動が起きたころとはちがい、現在の私たちはより豊かで、より自由な時代に暮らしている。
ところが、自由な発展にもとづいた世界が造られていくと、もうひとつの世界は崩壊していった。鉱山が閉鎖されると同時に労働組合の力も一気に弱まり、いまではおもに公共部門にわずかに残るだけの存在になった。もしアーサー・シートンがいま生きていたら、ゼロ時間契約[訳注、zero-hours contract、週当たりの労働時間が決まっていない雇用契約のことで、とくに近年のイギリスで大きな社会問題になっている」の罠にはまり、薄汚い倉庫で働き、つねに何かを恐れながら、横柄なマネージャーに見つからないように2分のトイレ休憩をこっそり取ろうとしているにちがいない。でなければ、大学に進学していたはずだ(彼が主人公の小説が出版された1958年当時、労働者階級の若い男女にとって大学進学という選択肢はほぼないも同然だった)。

ジェームズ・ブラッドワース (著), 濱野大道 (翻訳)
出版社: 光文社 (2019/3/13)、出典:出版社HP

仕事について書かれた本は、必然的に階級についての本になる。いつの時代も私たちは、階級などもうなくなったと言い聞かせてきた。しかしいつの時代も、私たちは階級の死骸を処理できずにいる。社会の階段で足を踏み外して滑り落ちた者たちは、往々にして貧困に陥ることになる。そして今日でさえ、社会的階級のどん底へと追放された人々は、経済格差と同じくらい残酷な階級的憎悪が存在することに気づかされるのだ。
私としては、この本の中身が、労働者階級の生活についての独創的かつ画期的な報告であると訴えたいわけではない。また、私のなかにもともとあった偏見を再確認するためにこの本を書こうとしたわけでもない。私は、何が起きるのかまったくわからないままこの旅を始めた。なんの先入観もなしにこのプロジェクトを進め、その過程でいくらか急進的な考えをもつようになった。私が発見したことの多くは、世界でもっとも裕福な国のひとつであるイギリスで起きているとは思えないほどひどいものだった。
しかしながら、イギリスの新聞を手に取ると、そのほとんどから同じようなメッセージが眼に飛び込んでくる――貧しい人々がそのような状態に陥ったのは、彼ら自身の低いモラルや人生における無責任な選択のせいだ。そこには、ビクトリア女王時代から続く古い考え方が残っていた。著述家のヘンリー・メイヒューは、19世紀のロンドンの労働者階級の実態を綴ったルポルタージュの4巻目に「働く者、働けない者、働こうとしない者」という副題をつけたが、まさにそんな考え方が依然として深く根づいているのだ。
じつのところ、この種の区分けは幻想でしかない。それは、ビクトリア女王が王位に就いていたころ――階級についての疑似科学的な理論によって、国内の貧乏人が救貧院に収容され、海外では貧乏人が銃剣で脅されていた時代――も同じだった。豊かな繁栄と惨めな生活のあいだの差は、多くの人が考えるほど大きなものではない。現代のイギリスで貧困に陥るのはいとも簡単であり、どんな選択をしたとしても誰にでも起こりえることだ。
私の潜伏取材における経験は、必要に迫られてそのような仕事をする人々の経験とは異なる。結局のところ、私は観光客でしかなかった。大きな問題が起きれば、私はいつでも銀行でお金を下ろすことができたし、より快適な生活にそそくさと戻ることもできた。しかし私としては、この取材方法の正しさについて自意識過剰にあれこれ議論するのは避けたかった。私はただ、潜伏取材をすることが、低賃金労働について学ぶためのもっとも効果的な方法だと考えただけだ。いまでも、その考えは変わっていない。
言うまでもなく、この本を書くという行為そのものについて批判的な人もいるだろう。上から目線の態度に対して嫌悪を抱くのは健全なことであり、それは正しさを絶対視する善意の人々の意識の表われでもある。きっと多くの人は、私が書いた本を読むのではなく、”本物の労働者階級の声”を聞きたいと考えているはずだ。労働者にペンやマイクを渡したいと望むのは、とても立派な考えであることは言うに及ばない。しかし、それが絶対的に正しい方法であるかのように扱われると、静寂主義へと陥ってしまうことがある。私が取材中に出会った人の大多数は、自らの生き方について『ガーディアン』紙に滔々と話をする時間の余裕などない人々だった。事実として、労働者階級の著述家はほとんど存在しない。なぜか? 労働者階級の仕事が、本や記事を書き上げるために必要とされる種類の生活とは相容れないものだからだ。根本的なレベルにおいて、椅子に座って黙々と8万の単語を紡ぎ出すためには、電気が止められたり、空腹に喘いだりする心配をしなくていいという前提条件が必要になる。このように労働者階級の著者の道を阻む要素はたくさんあるとしても、本書の存在はそのひとつではないはずだ。また、この状況を変えようとする運動を成功へと導くためには、中流階級の人々を大きく巻き込まなければいけない。そのためにも、細かいことをだらだらと伝える無意味なパンフレットよりも、この種の本を書くほうがより効果的だと私は思う。

さらに言えば(たいして重要なことではないかもしれないけれど)、私は20代前半までまさにこの本に出てくるような仕事をずっとしていた。私はイングランド南西部のサマーセットにあるブリッジウォーターという町に生まれ、母子家庭で育った。ほとんど単位も取れないまま高校を卒業したものの、のちになんとか単位を取り直し、きょうだい4人のなかで唯一私だけが大学に進学することになった。私にとってこの本のための取材は、「質素な生活を送る実験」というよりも、やっとのことで逃げ出した世界に戻るという感覚のほうが強いものだった。
私としては、「緊縮財政」や「貧困者」についての血が通っていない大げさな学術書を書くようなことは避けたかった。そんな本はすでに世のなかにたくさんある。代わりに望んだのは、少なくとも自分でその苦労の一部を体験することだった。善悪がはっきりと分かれた人間像を風刺的に書くのではなく、本物の人間が描かれた本を書くことだった。現在のメディアは、会社の取締役、経営者、官僚の意見や、一定の政治的色彩が正しいという考えに染まってしまっている。だからこそ私は、自分で感じた疑問を労働者やホームレスの男女に直接投げかけたかった。彼らの上司や、彼らが路上生活に至る理由を説明する”理論”を語る研究者に話を聞きたかったのではない。つまり、ほんとうの状況を知らない人によって書かれた本や新聞記事の受け売りの情報を読むのではなく、自分の眼で真実を確かめてみたかったのだ。
実際に旅を始めたとき、私の手に握られていたのは、だいたいの計画が走り書きされた紙切れ1枚だった――これから半年、なんでもいいから与えられた最低賃金の仕事をしてみる。全国をまわることが目的ではなかったものの、1カ所にずっととどまるというのもいやだった。まずはロンドンを出て、選挙期間中以外は政府もマスコミもめったに注目しないような町で仕事を探すつもりだった。特定の場所に行く計画はなく、たんに仕事が見つかった町に行った。そこに住みはじめたあとは、できるかぎり給料だけで生活するようにした。私の計画について知っていたのは、取材中にインタビューした相手だけだった。そのときだけ私は偽の人格を装うことをやめ、再びライターに戻った。私の計画に気がついた雇用者は誰もが、広報の担当者に対応を押しつけた(このような企業に話を聞きたいと連絡すると、決まってこの”広報の担当者”が出てくる)。私は彼ら――会社からお金をもらっているからという理由だけで平気で嘘をつく人々――にうんざりしていた。
私がこの本を書きはじめてから、政治の世界では多くのことが起きた。ひとつの政権が倒れ、別の政権が発足した。現在の保守党による政権運営は順調とは言いがたい。一方の労働党は左に舵を切り、数十年ぶりに社会主義の気配が政治の世界にうっすらとただよいはじめた。このような出来事によって――気まぐれなアメリカ大統領の誕生もあわせて――いわゆる”取り残された層”やグローバリゼーションによって権利を奪われたと感じている人々の窮状に新たにスポットライトが当てられるようになった。この同情的なムードは、近いうちに消えてしまうかもしれない。しかし消えたとしても、人々の憤りや嫌悪感は残る。ある種のゆとりや豊かさを手にしなければ、その世界から完全に抜け出すことはできない。
結局のところ、これは21世紀の労働者階級の生活についての本だ。多くの人にとって、かつては誇りの源だった”仕事”は、尊厳と人間性を奪おうとする容赦ない攻撃に変わった。本書は、その変化を記録しようとする試みである。これは包括的な研究ではなく、むしろスナップ写真の連続といったほうがいい。私ひとりですべての場所に行ったわけでも、すべての人々のために働いたわけでもない。しかし、この本のページに書かれた内容は、どれもとりわけ珍しいことではないはずだ。読者のなかには、自分の仕事場も同じような状態だと感じる人もいるだろう。だとすれば、このあとの章に書かれたことの恐ろしさは、何倍にも増すにちがいない。

2017年11月ジェームズ・ブラッドワース

ジェームズ・ブラッドワース (著), 濱野大道 (翻訳)
出版社: 光文社 (2019/3/13)、出典:出版社HP