ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

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【まとめ – タレブ書籍おすすめ本 – まぐれ、ブラックスワン、半脆弱、身銭を切れ 】も確認する

目次

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2009/6/19)、出典:出版社HP


プロローグ

鳥の羽根の色
わからないこと
専門家と「空っぽのスーツ」
学ぶことを学ぶ
新手の報われない人たち
日常はまったく日常的でない
プラトンとオタクたち
くだらなすぎて書けない
肝心なところ
章立ての見取り図

第1部
ウンベルト・エーコの反蔵書、あるいは認められたい私たちのやり口
第1章 実証的懐疑主義者への道
黒い白鳥の解剖学
やることをやることについて
「天国」が煙と消える
星の降る夜
歴史と不透明の三つ子
どうなってるのか誰にもなんにもわからない
歴史は流れない、歴史は移る
いとしい日記―歴史を後ろにたどる
タクシーでの教育

祭はどこだ?
八・七五ポンドの後に
勝手御免の四文字言葉
リムジン哲学者

第2章
イェフゲニアの黒い白鳥

第3章
投機家と売春婦
最高の(最悪の)アドバイス

広げられるものにはご用心
拡張可能性の誕生
拡張可能性とグローバリゼーション
月並みの国の旅
おかしなところ、果ての国
果ての国と知識
強い・弱い
まぐれのなすがまま

第4章
千と一日、あるいはだまされないために
七面鳥に学ぶには
バカになる訓練
白鳥の色は知識で違う
黒い白鳥問題の大まかな歴史
(ああ)経験主義者、セクストス
アルガゼル
懐疑主義者は宗教の友だち
七面鳥にはなりたくない
月並みの国で暮らしたい連中

第5章
追認、ああ追認
ズーグルばかりがブーグルではない
証拠
否定の実証主義
三つ数えろ
また赤いミニだ!
全部ってわけじゃない
再び月並みの国へ

第6章
講釈の誤り
私が原因を否定するにいたった原因
脳の区分け
ドーパミンをもう少し
アンドレイ・ニコライェヴィチの法則
いい死に方
過去でもないのに記憶とは
狂える人の講釈

講釈と治療
間違ったことを限りなく几帳面にやる
非情の科学的
扇情と黒い白鳥
黒い白鳥を見るのに不自由
大騒ぎの引力
手っ取り早いやり方
脳みそに気をつけろ
講釈の誤りを避けるには

第7章
希望の控えの間で暮らす
まわりの冷たい目
大事なことが衝撃的でもあるところ
非線形
結果より過程
人間の本性、幸せ、そしていちどきに報われる
希望の控えの間
希望に酔う
予感の甘い罠

バスティアーニ砦が必要なとき
エル・デシエルト・デ・ロス・タルタロス
だらだら死ぬか、突然死ぬか

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2009/6/19)、出典:出版社HP

第8章
ジャコモ・カサノヴァの尽きない運
物言わぬ証拠の問題溺れる信者の話
文字の墓場
億万長者になれる一○のステップ
ネズミのスポーツジム
意地の悪いバイアス
もっと見えにくい応用
水泳選手の肉体の進化
見えるものと見えないもの
医者たち
ジャコモ・カサノヴァ、テフロン加工風の転ばぬ先の杖
「オレはリスク・テイカーだ」
私は黒い白鳥――人間バイアス
かりそめのなぜなら

第9章
お遊びの誤り、またの名をオタクの不確実性
デブのトニー
ブルックリンじゃないジョン
コモ湖のほとりで昼ごはん
オタクの不確実性
間違ったサイコロでギャンブル
第1部のまとめ
浅はかなものほど表に出る
霊長類からの隔たり

第2部
私たちには先が見えない
ヨギ・ベラからアンリ・ポワンカレへ

第10章
予測のスキャンダル
エカチェリーナの男の数の曖昧さについて
黒い白鳥を見るのに不自由、再び
推測と予測|情報は知識に悪い
専門家の問題、あるいは空っぽのスーツの悲劇
動くものと動かないもの
最後に笑うには
事件とは突拍子もないもの
牛みたいに群れる
オレは「ほとんど」正しかった
現実性?なんで?
「それ以外は」うまくいった
テクノロジーの美しさ――エクセルのスプレッドシート
予測誤差の性質
川の深さが(平均で)四フィートなら渡ってはいけない
ほかの仕事を見つけろよ
JFKにて

索引

[下巻]・目次
第11章 鳥のフンを探して
第12章 夢の認識主義社会
第13章 画家のアペレス、あるいは予測が無理ならどうする?

第3部 果ての国に棲む灰色の白鳥
第14章 月並みの国から果ての国、また月並みの国へ
第15章 ベル・カーブ、この壮大な知的サギ
第16章 まぐれの美学
第17章 ロックの狂える人、あるいはいけない所にベル型カーブ
第18章 まめかしの不確実性
第4部 おしまい
第9章 半分ずつ、あるいは黒い白鳥に立ち向かうには
エピローグイェフゲニアの白い白鳥

謝辞
訳者あとがき
参考文献
注解
用語集
索引

ナシーム・ニコラス・タレブ (著)
ダイヤモンド社 (2009/6/19)、出典:出版社HP

プロローグ

鳥の羽根の色

オーストラリアが発見されるまで、旧世界の人たちは白鳥と言えばすべて白いものだと信じて疑わなかった。経験的にも証拠は完璧にそろっているように思えたから、みんな覆しようのないぐらい確信していた。はじめて黒い白鳥が発見されたとき、一部の鳥類学者(それに鳥の色がものすごく気になる人たち)は驚き、とても興味を持ったことだろう。

でも、この話で大事なのはそういうところではない。この話は、人間が経験や観察から学べることはとても限られていること、それに、人間の知識はとてももろいことを描き出している。何千年 にもわたって何百万羽も白い白鳥を観察して確認してきた当たり前の話が、たった一つの観察結果 で完全に覆されてしまった。そんなことを起こすのに必要なのは、黒い(それに、聞いたところだ とかなり醜い)鳥がたった一羽、それだけだ。

この哲学的・論理学的な問題をもう一歩進めて、私たちが経験する現実に当てはめよう。私が子 どものころから取り憑かれてきた問題だ。この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。
次の三つの特徴を備えた事象を指す。
第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それ が起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

ちょっと立ち止まって、この三つ子の特徴をまとめてみよう。普通は起こらないこと、とても大きな衝撃があること、そして(事前ではなく)事後には予測が可能であることだ。一握りの黒い白 鳥で、人間の世界がほとんど説明できてしまう。アイディアや宗教の成功から歴史的な事件の経緯、 私たちの私生活のいろいろな要素まで、なんでも説明できる。一万年ほど前に更新世が終わって以 来、こうした黒い白鳥の影響はどんどん大きくなっている。産業革命の間に加速が始まり、世界が より複雑になる一方、私たちが新聞を読んで調べたり、論じたり、予測したりする普通の出来事は、 ますますどうでもよくなってきている。

一九一四年に事件が起こる直前、私たちがどれだけ世界のことを知らなかったか考えてみればいい。それで、その次に何が起こるか、どれだけ予測できたか想像してみるのだ。(高校のくだらない先生が、あなたの頭蓋骨の内側にねじ込んだ說明を使うなんてズルをしてはいけない。)ヒトラ ーの台頭、それに続く戦争なんて予測できただろうか? ソヴィエト圏の急激な崩壊はどうだろ う? イスラム原理主義の台頭はどうなんだ? インターネットの浸透は予想できただろうか?

一九八七年の市場の暴落(と、それよりもさらに予想外だった回復)はどうだ? 一発屋、流行、 ファッション、アイディア、芸術分野や流派の勃興、そうしたものが全部、黒い白鳥の挙動に従う。 私たちのまわりにあるものごとなら、文字どおりほとんどなんにでも黒い白鳥が当てはまる。

予測が難しく、大きな衝撃を与えるというだけでも黒い白鳥は十分に不思議な生き物だが、この 本が主に扱うのはそういう点ではない。そういう現象に加えて、私たちは黒い白鳥なんていないフ リまでする!あなたやあなたの従兄弟のジョーイやわたしだけがそうなのではなくて、「社会科 学者」はほとんどそうだ。彼らは一世紀以上もの間、自分たちのやり方で不確実性がちゃんと測れるなんて思い込んで仕事をしている。でも、その手の不確実性の科学を現実の世界に応用しようと すると、とんでもないことになる。

運よく、私は金融や経済の分野でそういう例を目の当たりにしてきた。自分のポートフォリオ・ マネジャーに、あなたにとって「リスク」とはどんなものですかと聞いてみればいい。たぶん、黒い白鳥がやってくる可能性を取り除いた測り方について、とうとうと語ってくれるだろう。そういうやり方でリスクを測っても、予測能力は星占いと変わらない(この手の人たちが知的サギを数学 で飾りつける様子は、この本にたびたび登場する)。社会を扱う分野では、この問題は風土病みたいに根づいている。

この本が主として扱うのは、人間にはランダム性、とくに大きな変動が見えないという問題であ る。科学者の連中もそうでない人たちも、やり手の人も凡人のジョーも、どうして木を見て森を見 ないのだろう?どうして人間はどうでもいい細かいことばかり気にして、重要で大きな事件が起こる可能性は気にならないのだろう? どう見ても、大きな事件のほうがとても深刻な影響を及ぼすのに? それから、私の言うことがわかるなら、新聞を読むと世の中のことがかえってわからなくなるのはどうしてだろう?

人生は大きな出来事がいくつか積み重なってできている。これは簡単にわかるだろう。安楽椅子 に座ったままで(なんならバーの椅子でもいい)、黒い白鳥の果たす役割に思いをはせるのは、それほど難しくない。こんなことをやってみればいい。自分の存在を見直すのだ。自分が生まれてから身のまわりに起こった大きな事件や技術革新や発明を並べてみて、それが発明される前に予想されていたことと比べるのだ。

スケジュールどおりに起こったことがいくつある? 自分の生活を考 えてみよう。たとえば、仕事選びでも、つれあいとの出会いでも、生まれ故郷からの亡命でも、誰 かの裏切りでも、急にお金持ちになったことでも、急に貧乏になったことでもいい。その中で、あらかじめ立てた計画どおりに起こったことがいくつある?

わからないこと
黒い白鳥の論理では、わかっていることよりかからないことのほうがずっと大事だ。黒い白鳥は、 予期されていないからこそ起こるし、だからこそ大変なのだ。
二〇〇一年九月一一日のテロ攻撃を考えてみればいい。九月一〇日の段階で、ああいうことが起 こる可能性がそれなりに想定できていたなら、そもそもああいう事件は起こらなかった。そういう 可能性にも気をつけたほうがいいということになれば、戦闘機が世界貿易センターの上をぐるぐる回っていただろうし、旅客機のほうも防弾ドアをつけて鍵をかけていただろう。テロ攻撃は起こら なかった、マル。何かほかのことが起こっていたはずだ。何が起こっていたか? それはわからない。

事件が起こるのは、まさしく起こるはずもなかったからだなんて、おかしなことだと思いません か? そういうことから、どうやって身を守ったらいいんだろう? 何か(たとえばニューヨーク はテロの標的になりやすいことが)わかっても、こちらが知っていると敵が知ってしまえば、それ がなんであれ、もうとるに足らないことになってしまう。こういう戦略的ゲームでは、わかっていることはもう本当に関係なくなってしまう。ヘンな話だ。
同じことが仕事全般に当てはまる。レストラン業界で大ヒットを生み出す「秘密のレシピ」を考 えてみよう。そんなものがわかっていて簡単だったら、誰かそこら辺の人がもう思いついているだろうから、ありふれたレシピになってしまう。レストラン業界の次の大ヒットは、レストラン経営 者の今の母集団がそう簡単には思いつかないアイディアでないといけない。予想と違っていないと いけない。

そういう試みの成功が予想外であればあるほど、競争相手は少なくなるし、そんなアイ ディアを実行した起業家の成功は大きくなる。同じことが靴のメーカーにも、本の業界にも、それこそどんな仕事にだって当てはまる。科学的な仮説もそうだ。些細なことなんか誰も興味を持たな い。一般的に、人が思い切ったことをして得るものの大きさは、予想されていたものと逆相関する。

二〇〇四年に太平洋で起こった津波を考えてみよう。あれがあらかじめ予想されていたことだったら、あれほどの被害にはならなかっただろう。被害を受けた地域にはあまり人もいなかっただろうし、早めに警戒体制が敷かれていただろう。最初からわかっていることなら、あんまりひどいことにはならない。

専門家と「空っぽのスーツ」
外れ値を予測できないということは、歴史のための道か予測できないということだ。外れ値がさまざまな事件に占める割合を考えると、そういうことになる。
それなのに、私たちは歴史的な事件を予測できるかのように振る舞っている。もっと悪くすると、 歴史の行く末を左右できるかのように振る舞っている。社会保障制度の赤字だの石油価格だのを三 ○年先まで予測するとき、来年の夏にそういった数字がどうなっているかさえ、自分たちがろくに 予測できないのを忘れている。政治や経済に起こることを読み誤り、そうした予測の誤りが山のように積み重なっている。実績を調べるたびに、悪い夢でも見てるんじゃないかと頬をつねらないと いけないほどだ。

そして驚きなのは、予測の間違いの大きさではなくて、私たちがそれに気づいていないことのほうだ。こういうのは、命をかけて戦うようなときだといっそうやっかいだ。戦争の行方は本質的に 予測できない(そして私たちにはそれがわからない)。私たちは方針と行動を結ぶ因果の鎖をわかっていないから、無知を積極的に振り回して簡単に黒い白鳥を起こしてしまう。化学実験セットを もらった子どもみたいなものだ。

黒い白鳥に支配される環境では予測がきかない。それが私たちにはわからない。この二つが合わさって、人はある種の仕事に就くと、自分はもののわかった専門家だなんて思い込むことになる。 でも、実際にはまったくわかっていない。彼らの専門分野での実績を見ると、普通の人たちからなる母集団とまったく変わらない。彼らはただ、講釈をたれるのがうまいだけだし、もっと悪くする と、こんがらがった数学モデルで人を煙に巻くのがうまいだけだったりする。ついでに、そういう 連中はネクタイを締めている可能性が高い。

黒い白鳥は予測できない。私たちは(予測しようなんて無邪気にたくらむのではなく)、黒い白 鳥がいる世界に順応するほかない。反知識、つまりわからないことに焦点を絞るなら、できること はたくさんある。うまいやり方はいろいろあるけれど、要は思いがけない(いいことがある類の) 黒い白鳥を集め、それに対するエクスポージャー(受ける影響の大きさ)を最大限まで高めるのだ。 実際のところ、科学的発見とかベンチャー・キャピタル投資とかといった分野では、わからないことから得られるペイオフ(報い)は非常に大きい。失うものなんてほとんどなく、万が一のことが 起これば得られるものはとても大きいからだ。

今後見ていくように、社会科学で教えているのとは違って、設計図や計画にもとづいて実現した 大きな技術革新なんていうものはない。技術革新は黒い白鳥なのだ。発明家や起業家がとる作戦は、 全体を描く計画はあまりあてにせず、できるだけあれこれいじくりまわして、チャンスがやってき たときに、それを捕まえるというやり方だ。だからマルクスやアダム・スミスの徒には同意できな い。自由な市場がうまくいくのは、人が積極的に試行錯誤をして運のいい思いをするのを認めるか らだ。能力に対する報酬だの「インセンティブ」だのを与えるからではない。それならとるべき作戦は、ありとあらゆることをやってみて、黒い白鳥を捕まえるチャンスをできる限り集めるという やり方になる。

学ぶことを学ぶ
関連する人間の欠陥にはもう一つ、知っていることにばかり集中しすぎる点がある。細かいこと にばかり目が行って、全体像が見えない。
九・一一の出来事から人は何を学んだだろう? ものごとは予測ができる領域の外側で展開する ことがあるのを学んだだろうか? NOだ。通念には最初から欠陥が組み込まれているのを学んだ だろうか? NOだ。それじゃあ、何を学んだんだろう? 彼らが学んだことと言えば、イスラム 教のテロリスト予備軍と背の高いビルは避けて通ったほうがいい、そんなおうむ返しなルールぐらいだ。

知識を「理論化」するより、地面に足をつけて一歩一歩進むのが大事だ。そう思い起こさせてくれるものはいくらでもある。人間が具体的な細かいことにどれだけ捉われるようにできているか、 マジノ線を見ればよくわかる。大戦後、フランスはドイツが再び侵略してこないように、前回ドイ ツが進入してきたルートに壁をつくった。で、ヒトラーが(ほとんど)苦もなくそれを回り込んだ。 フランス人は歴史からよく学ぶ人たちだ。ただ、おうむ返しに学びすぎる。彼らは現実的すぎていて、同時に、自分たちの身の安全ばかり気にしているのである。

私たちは、私たちは学ばないということを私たちは学ばないということを自然とは学ばない。問題は私たちの頭の構造にある。私たちは法則を学ばない。事実ばかり学ぶ。事実しか学ばない。ど うやら、メタ法則(私たちは法則を学ばないといったような法則)がうまく理解できないようだ。 私たちは抽象的なことをバカにする。しかも、熱心にバカにするのだ。
どうしてだろう? ここで通念をひっくり返してみないといけない。複雑でどんどん再帰性が高 まる現代の環境では、通念はまったく通用しないのを理解する必要がある。これはこの本で論じる 重要な点でもある。

でも、問題はもっと根深い。そもそも私たちの頭はなんのためにあるんだろう? なんだか間違った取扱説明書がついてきたみたいだ。私たちの頭は、何かを考えたり自分を顧みたりするように はできていないようだ。そんなふうにできていたら、今ごろ私たちも楽ができたのだろうが、代わりに、今ごろこうやって生きてはいない。私もここにいてこんな話をしてはいないだろう。目の前 で起こっていることに注意せず、自分を振り返って考え込んでばかりいる私の先祖はライオンに食 われてしまい、一方、ろくに考えもせずに、とりあえず反応する彼の従兄弟はとっとと逃げおおせるだろう。考えるのには時間がかかるし、そもそも大変なエネルギーの無駄遣いだ。

私たちの祖先は一億年以上にわたって脳みそを使わない哺乳類の動物として過ごしてきた。やっ と脳みそを使い出したのは、歴史の中ではほんの一瞬にすぎない。ごく最近になっても、何に使っていたかと言えば枝葉末節のどうでもいいことばかりだ。証拠を見る限り、私たちは自分で思って いるほどものを考えてはいない。もちろん、そのこと自体を考えるときは別にして、ということだ けれども。