【エスター・デュフロおすすめ本 – 貧困、開発経済学専門のノーベル賞受賞者(アビジット・V・バナジーとの共著も)】も確認する
現在のグローバル問題をどう解決すべきか?
エステル・デュフロが夫アビジット・V・バナジーと共著で書いた2冊目の書籍となり、ノーベル経済学賞受賞後のものとなります。
本書は前著「Poor Economics (貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える」とは、大幅に書いてある内容は違います。前著では主に彼らの専門となる開発経済学の知見について書かれていますが、本書では途上国だけでなく先進国も絡むグローバルな問題について(移民、環境問題、貿易、不平等など)について書かれています。これらの問題はミクロ経済学的なアプローチをする筆者の二人の専門ではないのですが、これらのマクロ的な問題でも仮設から始まり、どのような論争があるのか、どのように変えていくべきなのかと書かれています。今一度地球規模での問題が何になるのか確認できます。

目次
子供たち、ノエミとミランへ、 もっと公正で人間らしく生きられる世界で育つことを願って そしてサーシャ、チャンスをもらえなかった君に
Contents
Preface 序文
Chapter1 経済学が信頼を取り戻すために
Chapter2 鮫の口から逃げて
Chapter3自由貿易はいいことか?
Chapter4 好きなもの・欲しいもの・必要なもの
Chapter5 成長の終焉?
Chapter6 気温が二度上がったら
Chapter7 不平等はなぜ拡大したか
Chapter8 政府には何ができるか
Chapter9 救済と尊厳のはざまで
Conclusion 結論よい経済学と悪い経済学
謝辞
原曲
Preface
序文
二年前に自分たちの研究についての本を書いたところ、読んでくれる人がいるといううれしい驚きに恵まれた。なんと褒めてくれる人もいたが、それはもちろんお世辞である。経済学者は本を書くことが本業ではないし、人間がまともに読めるような本を書けるはずもない。それなのに私たちは無謀に挑戦し、さしたる天罰も受けずに済んだ。いつもの仕事に戻る時が来た。つまり論文を書いて発表することである。
オバマ政権初期の希望の光が、ブレグジットや黄色いベスト運動や「ウォール街を占拠せよ」の混乱に取って代わられる中、そして専横な独裁者(選挙で選ばれたにしても同じことだが)がアラブの春の楽観主義を一掃する中、私たちはそんな仕事をしていた。不平等が蔓延し、環境破壊と政策の失敗が世界に暗い影を落としているというのに、それに立ち向かうために私たちが使えるのは陳腐な言葉しかない。
そこで私たちはまた本を書くことにした。本書を書いたのは、希望を持ち続けるためである。どこで道を誤ったのか、それはなぜかを自戒するだけでなく、うまくいったこともこんなにあると確認するために。本書では問題を提起するとともに、分析結果に誠実に向き合い、よりよい世界にするための方法も提案する。 経済政策はどこでまちがったのか、イデオロギーはどこで私たちに良識を失わせたのか、私たちはどこで自明のことを見失ったのか。そして、よい経済学は、とりわけ今日の世界のどこでどのように役に立つのか。
もっとも、そのような本が書かれるべきだとしても、私たちが適任だということにはならない。いま世界が抱える問題の多くが富裕な北半球で頭在化しているが、私たちの専門は貧しい国に住む貧しい人々についての研究である。北半球の現在の問題について書くなら、多くの新しい文献と格闘しなければならず、大事なことを見落としてしまう可能性が大いにある。それでも書くべきだと確信するまでにはずいぶん時間がかかった。
そしてとうとう私たちは、思い切ってやってみることにした。重要な経済問題、たとえば移民、貿易、成長、不平等、環境に関する議論がどんどんおかしな方向に進むのを外野で見ているのがいやになった、というのも理由の一つだ。だがもう一つ大きな理由は、富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究してきた問題と気味が悪いほどよく似ていることに気づいたことである。発展途上国にも経済成長から取り残された人々がいたし、拡大する不平等、政府に対する不信、分裂する社会と政治といった問題があっ た。そうした問題を研究する過程で私たちは多くを学んだ。とくに、経済学者としてどうあるべきかを学んだと自負している。事実から目をそらさず、見てくれのいい対策や特効薬的な解決を疑ってかかり、自分の 知識や理解につねに謙虚で誠実であること。そしておそらくいちばん重要なのは、アイデアを試し、まちが う勇気を持つことだ。より人間らしく生きられる世界をつくるという目標に近づくために。
Chapter1 経済学が信頼を取り戻すために
あるご婦人がかかりつけの医者から、余命はあと半年と告げられた。医者はご婦人に、経済学者と結婚し てサウスダコタの田舎に住むことを勧める。 「それで私の病気が治りますの?」 「いや。しかし半年をとても長く感じることができるでしょう」
世界では二極化が進んでいる。ヨーロッパからアメリカ、アジア、ラテンアメリカにいたるまで、公の場 での右派と左派の議論は大声で怒鳴り合うようなありさまだ。刺々しい言葉が何の慎みもなく投げつけら れ、歩み寄る余地はほとんどない。私たちが住んでいるアメリカでは、支持政党以外の候補者も認めようと いう人はごく少なく、過去最低の水準まで落ち込んだ。支持政党が決まっている人の八一%が、他の政党に対して否定的な先入観を抱いている。具体的には、民主党支持者の六一%は、共和党を人種差別主義者で男 女差別主義者で偏屈者だとみなす。共和党支持者の五四%は、民主党をずる賢い悪人とみている。さらにアメリカ人の三分の一は、家族や近しい親戚が敵対政党の支持者と結婚したらがっかりするという。
私たちがそれぞれ生まれ育ったフランスとインドでも、賢明であるべきリベラルなエリート層が、政治的 右派の台頭をこの世の終わりだと決めつけている。民主主義と話し合いに基づいていた文明がいまや風前の 灯だと、誰もがひしひしと感じるようになった。
私たちは社会科学者の端くれとして、事実を示し、事実の解釈を世に問う。それが分裂した世界の橋渡し をし、互いに相手の言い分を理解し、たとえ意見の一致にはいたらなくとも、すくなくとも理性に基づく不 一致に到達する助けになると期待するからだ。双方が互いの意見を尊重する限り、民主主義は意見対立と共 存することができる。だが相手を尊重するためには一定の理解が必要だ。
現在の状況でとりわけ心配なのは、互いが意見を交わす場がどんどん狭まっているように見えることであ る。言うなれば意見の「部族対決」が起きている。政治だけではない。