貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える

【エスター・デュフロおすすめ本 – 貧困、開発経済学専門のノーベル賞受賞者(アビジット・V・バナジーとの共著も)】も確認する

開発経済学者2人の途上国・貧困についての渾身の一冊

ジェフリーサックス(コロンビア大学)のベストセラーである貧困の終焉において、裕福な世界が2005年から2025年の間に年間1900億ドルの対外援助を約束したとすれば、この期間の終わりまでに貧困は完全に解消された可能性があると言います。対して、これは間違っていると信じている他の人々もいます。その急先鋒となるのがウィリアムイースターリー(ニューヨーク大学)やダンビーサモヨ(世界銀行)は、人々の自助努力こそ、市場機能に任せることが解決の優先すべき事と言います。さらに悪いことに、援助は人々が自分の解決策を模索することを妨げ、一方で地元の制度を腐敗させ、援助機関の自己永続的なロビーを作り出します。

筆者達はこの2つの極端な議論ではなく、しっかりと途上国の援助が役に立っているのかを評価した上で考えていく必要があるとときます。また 貧しい人々の意見に耳を傾け、彼らがどのように対処するかの論理を、個人として、また家族や村のコミュニティとして理解するという事も必要とあります。

内容としては、各章で途上国の抱える問題をターゲット別で記載されており、最終章でビッグピクチャーとしての援助のイデオロギーとしての意見を述べています。

アビジット・V・バナジー (著), エスター・デュフロ (著), 山形浩生 (翻訳)
出版社: みすず書房 (2012/4/2)、出典:出版社HP

 

 

目次

わたしたちの母二人、ニルマラ・バナジーとヴィオレーヌ・デュフロに

はじめに
第1章 もう一度考え直そう、もう一度
貧困にとらわれる?

第1部 個人の暮らし

第2章10億人が飢えている?
本当に1億人が飢えているのか?
貧乏な人々は本当にしっかり十分に食べているのか?
なぜ貧乏な人々は少ししか食べないのか?
だれも知らない?
食べ物より大事結局、栄養摂取による貧困の罠は実在するのか?

第3章 お手軽に(世界の)健康を増進?
健康の罠
なぜこれらの技術はもっと利用されないのか?
十分に活用されない奇跡
健康改善願望
お金をドブに捨てる
みんな政府が悪いのか?
健康追求行動を理解する無料は無価値のあかし?
信仰?
弱い信念と希望の必要性
新年の誓い
あと押しか説得か?
ソファからの眺

第4章 クラスで一番
需要供給戦争
需要ワラーの言い分
条件付き補助金の風変わりな歴史
トップダウン型の教育政策は機能するか?
私立学校
プラサム対私立学校
期待の呪い
幻のS字曲線
エリート主義的な学校制度
なぜ学校は失敗するのか
教育の再設計

第5章 スダルノさんの大家族
大家族の何が問題か?
貧乏人は子作りの意思決定をコントロールするのか?
セックス、制服、金持ちおじさん
だれの選択?
金融資産としての子供
家族

第2部 制度

第6章 はだしのファンドマネージャ
貧乏のもたらす危険
ヘッジをかける
助け合い
貧乏人向けの保険会社はないの?
なぜ貧乏人は保険を買いたがらないの?

第7章 カブールから来た男とインドの宦官たち
貧乏人に貸す
貧乏人融資のやさしい(わけではない)経済学
マクロ計画のためのマイクロ洞察
マイクロ融資はうまくいくのか?
マイクロ融資の限界
少し大きめの企業はどうやって資金調達を?

第8章 レンガひとつずつ貯蓄
なぜ貧乏な人はもっと貯蓄しないのか
貯蓄の心理
貯蓄と自制心
貧困と自制心の論理
罠から抜け出す

第9章 起業家たちは気乗り薄
資本なき資本家たち
貧乏な人のビジネス
とても小さく儲からないビジネス
限界と平均起業はむずかしすぎる
職を買う
よい仕事

第10章 政策と政治
政治経済
周縁部での変化
分権化と民主主義の実態
権力を人々に
民族分断をごまかす
政治経済に抗して

網羅的な結論にかえて
謝辞
訳者解説
原注

アビジット・V・バナジー (著), エスター・デュフロ (著), 山形浩生 (翻訳)
出版社: みすず書房 (2012/4/2)、出典:出版社HP

はじめに

エスターは6歳のとき、マザー・テレサのマンガを読みました。当時カルカッタと呼ばれていた都市はすごく混雑していて、人の暮らす場所が1人1平方メートルずつしかないのだと書かれていました。それを読んだエスターは、巨大な碁盤のような都市を思い浮かべました。それが縦横1メートルずつ区切られて、そのマス目に1人ずつ人間が、駒のようにしゃがみこんでいるのです。どうしましょう、と彼女は思いました。

やっと実際にカルカッタを訪れたのは4歳、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院生になったときでした。街へ向かうタクシーから外を見た彼女は、ちょっとがっかりしたのです。どこを見ても空き地だらけ。木や草むらや、無人の歩道。マンガで赤裸々に描かれていた悲惨はどこにあるの?人はみんなどこへいっちゃったの?

6歳のアビジットは貧乏な人がどこに住んでいるか知っていました。カルカッタの自宅の裏にある、小さな掘っ立て小屋に住んでいるのです。そこの子たちはいつも遊ぶ時間がいっぱいあって、どんなスポーツでもアビジットより上手でした。その子たちとビー玉遊びをしたら、ビー玉はぜったいにそのおんぼろショーツのポケットに収まることになります。ずるいや、とアビジットは思ったものです。

貧乏な人々を紋切り型の束に還元しようという衝動は、貧困が存在するのと同じくらい昔からあります。貧乏な人は、文学は言うにおよばず社会理論でも、ぐうたらだったり働き者だったり、高貴だったり泥棒だったり、怒っていたり無気力だったり、無力だったり自立していたりします。当然ながら、そうした貧乏人についての見方に対応した政策的な立場も、単純な図式におさまっています。「貧乏人に自由市場を」「人権を大幅に充実」「まずは紛争を解決すべき」「最貧者にもっとお金を」「外国援助が発展を潰す」等々。こうした発想はどれも、重要な真実を部分的に含んではいるのですが、希望と疑念、限界と野心、信念と混乱を抱いた実際の平均的な貧乏人にはほとんど出番がありません。貧乏人がたまに登場するのは、何やらいいお話や悲惨な話の盛り立て役としてであって、感心されたり哀れまれたりはしても、知識の源泉にはならず、何を考えたりほしがったり行なったりしているかについて、まともに話を聞いてはもらえません。貧乏な人の経済学は、貧困の経済学と混同されることがあまりに多いのです。貧乏な人はあまり物を持っていないから、その経済的な存在について興味深いことは何もないと思われがちです。残念ながら、この誤解は世界の貧困に対する戦いをひどくダメなものにしてしまいます。単純な問題には単純な答えしか出てきません。反貧困の分野は、モノにならなかった即席奇跡の死屍累々。先に進みたいなら、貧乏人をマンガの登場人物に還元する癖を捨てて、本当にその生活を、複雑さと豊かさのすべてにおいて理解するだけの手間暇をかけるところから始めなくては。過去2年にわたり、わたしたちはまさにそれをやろうとしてきました。

わたしたちは学者で、学者の多くと同様に、理論を構築してはデータとにらめっこをします。でもこの研究の性質のため、わたしたちはまた、何年にもわたりのべ何カ月も現場にでかけ、NGO(非政府組織)活動家や政府の官僚、ヘルスワーカーやマイクロ融資家たちといっしょに働いてきました。このために貧乏な人々が住む裏道や村に出かけ、質問をして、データを探します。本書は、そこで出会った人々の親切なくしては書けませんでした。ふらりと立ち寄っただけのことが多かったのに、しょっちゅうお客として歓待してもらえました。かなりピント外れな質問をしても、辛抱強くつきあってくれました。そして多くのお話を聞かせてもらえたのです(1)。

オフィスに戻ったわたしたちは、そうしたお話を思い出しつつデータを分析し、魅了されつつも困惑して、見聞きしたことを単純なモデルに当てはめようと苦闘しました。プロの開発経済学者や政策立案者たちは(特に西洋人や西洋で訓練を受けた人だと)貧乏人の生活を考えるのに、伝統的にそうした単純なモデルに頼ってきたのです。得られた証拠を根拠に手持ちの理論を見直したり、あるいは放棄したりする必要もしばしば生じます。でも放棄するのはさいごの最後で、なぜそのモデルがうまくいかないかをズバリ理解して、それを手直しして世界を記述できないか考えようとあれこれ努力もしました。本書はそのやりとりから生まれたものです。それは貧乏な人たちがどんな暮らしを送っているかについて、一貫性のあるお話をまとめようとする試みの成果なのです。
わたしたちが注目するのは世界の最貧者たちです。貧乏な人々がいちばん多い世界の3カ国で、平均の貧困線は1人1日インドルピーになります(2)。

それ以下で暮らす人々は、自国政府の基準で貧困と見なされているのです。いまの為替レートだと、6ルピーというのは0円くらい。でもほとんどの発展途上国では物価が安いから、貧乏な人たちが自国と同じものを日本で買ったとしたら、もう少しお金がかかります

―換算するとそれが120円(;セント)くらいになります。だから貧乏な人の暮らしを想像するには、日本で暮らして日々の生活に必要なものすべて(家賃以外)を1日120円で賄えるかどうか想像してみればいいでしょう。なかなかつらいでしょう――例えばインドでは、これに相当する金額で小さなバナナ5本くらいか、低質の米を1・5キロほどが買えます。それで暮らしていけますか?でも2005年の世界では、8.5億人(世界人口の3パーセント)がまさにそれをやっていました。

驚くのは、これほど貧乏な人たちでも、ほとんどあらゆる点でわたしたちみんなと何も変わらないということです。同じ欲望と弱みを持っているのです。貧乏人は、他のみんなと比べて合理性に劣るわけでもありません――その正反対。まさに持ち物があまりに少ないからこそ、彼らは選択をきわめて慎重に考えることが多いのです。生きるだけでも、高度なエコノミストにならなくてはやっていけないのです。それなのに、わたしたちと貧乏な人々の生活は酒と肴くらいかけ離れています。そしてこれは、わたしたちの生活のなかで、みんなが当然だとして考えもしない各種の側面のおかげが大きいのです。1日120円(セント)で暮らすということは、情報へのアクセスが限られるということです新聞、テレビ、本はどれもお金がかかりますーだから世界の他の人々が当然だと思っているいくつかの事実をまったく知らないことがあるのです。例えばワクチンで子供がはしかにかからずにすむ、といった事実がわからなかったりします。各種の制度が自分たちのような人々を念頭においていない世界に暮らすことにもなります。ほとんどの貧乏人には月給なんかないし、ましてそこから年金が自動天引きされることもありません。いろいろ細かい但し書きのついてくるものについて判断しなくてはならないのに、細かくない記述のほうすらあまりきちんと読めない、ということでもあります。字の読めない人は、発音もできない病気をあれこれカバーしてくれない健康保険商品について、どう考えればいいでしょう?政治体制についての唯一の体験は、いろいろ約束されても何一つ実現しないということなのに、それでも選挙に行くということにもなります。そしてお金を安全にしまっておくこともできません。銀行があなたのわずかな貯金から得られる儲けは、それを扱うためのコストに足りないから……。こんなことばかりなのです。

これが総じて何を意味するかといえば、自分の技能を最大限に活かし、家族の未来を確保するにあたり、貧乏な人はずっと多くの技能や意志力やがんばりが必要だ、ということです。そしてその裏面として、わたしたちがほとんど考えずにすむ、ちょっとした費用やつまらない障害、わずかなまちがいが、貧乏な人の人生では実に大きいのです。

貧困から抜け出すのは難しいけれど、可能性を感じさせて、ツボを押さえた手助け(ちょっとした情報やあと押し)をすると、時には驚くほどの成果が出ます。一方で、期待をはきちがえ、必要な信念が欠け、ごくわずかに見える障害があるだけで、ひどい結果になってしまいます。正しいレバーを押すだけで巨大なちがいが生じるけれど、そのレバーがどれかを見極めるのはむずかしい。何よりも、一本ですべての問題を解決するようなレバーがないのははっきりしています。

本書『貧乏人の経済学」は、貧乏な人の経済生活を理解することで生まれる、とても豊かな経済学についての本です。それは貧乏な人が何を実現できて、そのためにどこでなぜあと押しすべきかを理解するための理論についての本です。本書のそれぞれの章は、各種の障害がどこにあるかを見つける探求を描き、それを克服する方法を探しています。まずは人々の家族生活の重要側面から始めましょう。何を買うか、子供の学校をどうするか、自分や親子供の医療はどうするか?それから、市場や制度が貧乏な人々をどう支援できるか説明します。直面するリスクに備えて、借りたり貯金したり保険に入ったりできるでしょうか?

政府は彼らのために何をしてくれて、どんなときに失望させるでしょうか?本書を通じて、同じ基本的な問いが繰り返されます。貧乏な人は生活改善できるのか、そしていまそれを妨げているのは何?それは取りかかる費用が高いのか、それとも続けるのに苦労するのか?なぜそれが高くつくのか?人々は便益がどんなものかわかるか?わからないなら、何が学習の妨げになるのか?

『貧乏人の経済学」は結局のところ、貧乏な人の暮らしや選択が、世界の貧困と戦う方法について教えてくれることについての本です。例えばマイクロファイナンスは便利だけれど、なぜ一部の人が期待したような奇跡ではないか理解できるようにします。あるいはなぜ貧乏人が、便益より害のほうが大きいような健康保険にしか入れないのか。なぜ貧乏人の子供たちは、何年も学校に通うのに何一つ学べないのか。なぜ貧乏人が健康保険をほしがらないか。そして本書は、なぜかつて万能の解決策と言われた施策が、今日の失敗したアイデアの山に投げ捨てられるかを明らかにします。

本書はまた、希望がどこにあるかもいろいろ述べています。なぜ形ばかりの補助金が、形ばかりなどでない効果をもたらせるのか。保険をもっとうまく売る方法、なぜ教育では少ないほうが成果が高いこともあるのか。なぜ成長のためにはよい職が重要か。そして何よりも、なぜ希望が必須で知識が不可欠かも明らかにし、なぜ課題があまりに大きく見えても、努力を続ける必要があるのかも明らかにするのが本書です。成功は必ずしも、見た目ほど遠いわけではないのですから。

第1章 もう一度考え直そう、もう一度

毎年、5歳の誕生日を迎える前に900万人の子供が死にます(1)サブサハラアフリカの女性は、出産時に死亡する確率が30分の1です――先進国では5600分の1なのに。平均期待寿命が5年以下の国は
少なくとも9カ国、そのほとんどがサブサハラアフリカにあります。インドだけでも、学童5000万人が、ごく簡単な文ですら読めません(2)。
こんな段落を見たら、みなさんはすぐに本書を閉じて、世界貧困なんてものについて、できればきれいに忘れてしまいたいと思うかもしれません。問題が大きすぎて、手のつけようがないと思えるのです。本書でのわたしたちの狙いは、閉じずに読んでくれるよう納得してもらうことです。

ペンシルバニア大学で最近行なわれた実験は、人が問題の規模にすぐに圧倒されてしまうことを実証するものでした(3)研究者たちは、学生たちに5ドルあげて、簡単なアンケートに答えさせました。それからチラシを見せて、世界有数の慈善団体であるセーブ・ザ・チルドレンに寄付してくれないかと言いました。チラシは2種類ありました。一部の学生(選択はランダム)はこんなチラシを見ました。
マラウィでの食糧難で、300万人の子供に影響が出ています。ザンビアでは、極度の干ばつでトウモロコシ生産は2000年に比べてパーセント下がりました。結果としてザンビア人の推定300万人が飢餓に瀕しています。アンゴラ人400万人全国人口の3分の1は自分の家を追われました。エチオピアでは1100万人以上が、いますぐ食糧援助を必要としています。
ほかの学生が見たチラシには、女の子の写真と以下の文面がついていました。

ロキアはアフリカのマリにいる7歳の少女で、とても貧しく、極度の飢餓に直面し、ヘタをすると餓死しかねません。あなたがお金をあげれば、彼女の人生はよい方向に変わります。あなたや、他の親切なスポンサーの支援により、セーブ・ザ・チルドレンはロキアの家族や他のコミュニティの人々と力をあわせて彼女に食事をさせ、教育を与え、基本医療と衛生教育を行ないます。
最初のチラシは学生平均1・6ドルの寄付につながりました。2番目のチラシでは、何百万人もの危機がたった一人の悲惨に還元されましたが、平均2・3ドルの寄付を集めました。どうも学生たちは、ロキアを

アビジット・V・バナジー (著), エスター・デュフロ (著), 山形浩生 (翻訳)
出版社: みすず書房 (2012/4/2)、出典:出版社HP