ストーリーで学ぶ開発経済学 — 途上国の暮らしを考える (有斐閣ストゥディア) 

ストーリー仕立ての開発経済学

タイトル通り、物語ベースでの開発経済学テキストとなります。有斐閣ストゥディアは、一歩目のテキストに定評があり、まず開発経済学の先端を平易な言葉で学びたい時、手に取りたい一冊になります。

 

はしがき

本書の企画内容をいただいたときのことです。「ミクロ・マクロ両方に目配りし、最新の研究を取り入れながら、同時に途上国の生活がイメージできるような仕掛けを随所に盛り込み、途上国に対する学生の関心に応えつつ、考える力を引き出す初学者向けの開発経済学のテキストにする」との少々よくばりな 企画内容に拍手を送りつつも、かなり厄介な依頼だな、と一方で頭を抱えました。

いろいろと悩んだ結果、筆者が出した答えは、アスー国という架空の途上国の物語に読者のみなさんを招待するというものでした。ただし、そこで語られる物語は、幸せなものとは言いがたく、貧しさゆえの問題が山積する途上国の現状を反映したものになっています。

途上国の開発を考える際に重要なことは,客観性や論理性を重視した分析的 な日を持つことと,それと同時にわれわれとは異なる環境で生活している他者への敬意を払うことです。どちらか一方だけではダメで、両方が必要です。本 書を手に取ったみなさんは、アスー国の問題に心を痛めつつ、経済学の分析的 な日によって問題の構造を捉え、その解決策を自らの頭で考えてください。その作業は、みなさんが本当の途上国に出合うとき、役に立つはずです。

本書のストーリーや登場人物の設定には,筆者がこれまで見聞きした途上国での経験が活かされています。むろん、途上国で出会った人々だけではなく、 筆者の研究を支えてくれた共同研究者,大学,日本の開発援助機関の方々の支えなくしては、本書を上梓することはかないませんでした。また、本書の完成 には、有斐閣の担当編集者、長谷川絵里さんのサポートが欠かせませんでした。途上国のリアルな現状が伝われば学生が自ら考えながら学ぶことができるはず。という彼女の強い意志が、この一風変わったテキストを生み出す原動力になりました。長谷川さん、素敵なイラストを描いてくれたオカダケイコさん、そして筆者の研究を支えてくれたすべての方々に感謝を申し上げます。

2016年2月
黒崎卓・栗田国相

著者紹介

黒崎卓(くろさきたかし)
1995年,スタンフォード大学食程研究所博士課程修了
アジア経済研究所研究員等を経て、現在一橋大学経済研究所教授、Ph.D.
主な著作: Takashi Kurosaki (1998) Risk and Household Behavior in Pakistan’s Agriculture Institute of Developing Economies, 崎卓(2001) 「開発のミクロ経済学理 論と応 用」岩波書店, Takashi Kurosaki and Marcel Fatchamps (2002) *Insurance Market Efficiency and Crop Choices in Pakistan.” Journal of Development Economics, Vol. 67, No. 2, pp.419-453, Takashi Kurosaki (2003) “Specialization and Diversification in Agricultural Transformation: The Case of West Punjab, 1903-1992,” American Journal of Agricultural Economics, Vol. 85, No. 2. pp.372-386,黒崎卓(2009)「貧困と脆弱性の経済分析」動車

読者へのメッセージ
最初にインドに出かけてからちょうど30年経った2016年初頭,旧友の息子からバックパッカーでインド旅行中だとの連絡が写真付きメールで届きました。日本の若者がバックパッカーとしてインドのような滝上国に出かけ、日本に手紙を出すのは変わりませんが、その手紙がスマホの写真付きメールで瞬時に着くのは大きな変化。こんな風に変わったこと、変わらないことが同居しつつ、急速な変貌を遂げつつあるのが多くの途上国だと思います。次世代の日本人がそんな途上国を理解するために、本書 が1つの視角を提供できれば幸いです。

栗田国相(くりたきょうすけ)
2006年、一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程修了
国連大学世界開発経済研究所(UNU WIDER)客員研究員,早稲田大学大学院アジア太平洋研究科助教を経て、 現在、関西学院大学経済学部准教授、博士(経済学)
主な著作 : Kyosuke Kurita and Takashi Kurosaki (2011) “Dynamics of Growth, Poverty and
Inequality: A Panel Analysis of Regional Data from Thailand and the Philippines, Asian Economic Journal, Vol.25, No.1,pp.333、 田秀次郎・田 編 (2012) アジア地域 経済統合」動車用,栗田区相・野村宗・第尾友春編(2014)「日本の国際開発援助事」日本評論社
読者へのメッセージ
未来のことは誰にもわからないということを不安と笑えるか、ワク ワクする光や冒険が待っていると捉えるかで、みなさんの人生の進路は大きく変わると思います。いまだ見ぬ可能性の世界を、途上国の人々と一緒に笑顔で切り拓いていってくれる人に本書が届くことを願っています。

黒崎 卓 (著), 栗田 匡相 (著)
出版社、有斐閣 (2016/3/31):出版社HP

目次

プロローグ ある途上国のお話
本書の目的 (2) 本書の特色 (3) Storyの全体の流れ (4) Storyの舞台 (5) Storyの登場人物(6) 途上国の現状(9)

CHRPTER1 農業
伝統的制度に秘められた知恵
1 Story
ムギさん一家の農業(14) 不作の年には……(15) 村の農業の変化(16)
2 何が問題なのか 課題の抽出と分析フレーム
途上国農業の低生産性 (17) 小作制度(22) リスクへの対応(23) 農業における新技術の採択(25)
3問題の解決に向けて

CHRPTER2 農村信用市場
多様化する農村経済とマイクロファイナンス
1 Story
ムギさん一家のお金のやりくり(32) キビさんのビジネスには秘密が……..(34)
2何が問題なのか課題の抽出と分析フレーム
途上国農村金融の低発達(37) 信用制約(39) 将来へのコミットメント(42) 家族内での交渉(43) マイク ロクレジットが機能した理由とその限界 (45)
3 問題の解決に向けて

CHRPTER3 教育と健康
人づくりは国づくり
1 Story
オニオンちゃんの留年(52) 村の子どもの健康(53)
2 何が問題なのか 課題の抽出と分析フレーム
留年・退学・教育未普及の問題(55) 教育面での男女間 格差の問題(56) 貧困層にとっての金銭的負担:信用制 約(58) 公立と私立の学校の違いと教員のインセンティ ブ(60) 栄養失調や伝染病などの蔓延と診療所の不備(61)
3 問題の解決に向けて¥

CHRPTER4 労働移動
バラ色の新天地?
1 Story
実家を出た後のライチさんとボメロさん(70) 駆け出し 官僚の間(71)
2 何が問題なのか 課題の抽出と分析フレーム
移動理論の古典1:ルイスモデルの考え方 (73) 移動 の古典2:ハリス=トダロモデルの考え方 (76) スラムや インフォーマル部門の現状(78) 新しい移動の経済学: ハリス=トダロモデルを超えて(80) 国境を越える人たち:グローバル化した移動研究(81)
3問題の解決に向けて

CHRPTER5 経済成長と工業化
グローバル化した世界
1 Story
ボスのレクチャーととんでもない宿題(90)
2何が問題なのかD題の抽出と分析フレーム
成長とは何か?:生産要素投入量の増加と生産性の改善 (93) 経済成長のメカニズム (94) 東アジア発展の歴 史:辺境の地から奇跡の地へ (98) 東アジアの奇跡と危 機(101)
3問題の解決に向けて

CHRPTER6 技術移転
学びの道も一歩から
1 Story
アスー国とナカッ国の違い (108)
2 何が問題なのか ID課題の抽出と分析フレーム
技術の種類と習得時間(111) 技術伝播とその学習 (114) 直接投資と技術の伝播(115) 競争や刺激による技術向上(118) 途上国企業のR&D投資 (119)
3問題の解決に向けて

CHRPTER7 開発金融
おらが村とグローバル金融システムのつながり
1 Story
マメさんとお父さんの昔の口論 (126) ナカッ国からの経 済ニュース(127)
2 何が問題なのか課題の抽出と分析フレーム
産業発展のための長期資金をどう調達するか (129) 途上国における人為的低金利政策の失敗(132) 金融自由化からアジア通貨危機へ(134) 地域協力の推進と外国銀行の進出(136)
3 問題の解決に向けて

CHRPTER8 開発援助
がんばれニッポン
1 Story
文書庫でのマメさん(144) ボスの開発援助懐疑論(145) マメさんの開発援助現場訪問 (146)
2何が問題なのか 課題の抽出と分析フレーム
マクロの資金不足(150) 援助の氾濫やファンジビリティの問題(153) マクロの援助効果の測定(153) ミクロの援助プロジェクト効果の測定(155)
3 問題の解決に向けて

CHRPTER9 持続可能な開発
環境と開発の対立を超えて
1 Story
肌で感じる首都の大気汚染(164) 持続可能な開発に向けたアスー国の取り組み(165)
2 何が問題なのか 課題の抽出と分析フレーム
途上国における持続可能な発展(167) 環境クズネッツ曲 線(168) 直接規制は有効か?(170) 経済的手法による対策(172) エネルギー問題の深刻さ(175) 地球温暖化問題と途上国(176) 地球の未来を守るために:コモンズの悲劇を超えて(179)
3 問題の解決に向けて

CHRPTERエピローグ 途上国の希望

CHRPTER補論1 書を捨てよ、現場へ行こう!
フィールド調査の実際
1 なぜ現場へ行くの?
2調査の準備
3 調査実施
4貴重なオリジナルデータの分析

CHRPTER補論2 書を捨てよ、現場へ行こう!
介入の効果を測る
1 なぜ、介入の効果を測るの?
2印象論やナイーブな比較が持つ問題
3 効果測定の手法
4 RCT をやってみよう

さらなる学びのためのリーディング・ガイド
参考文献
索引

Column 一覧
①マダガスカルの希望
②バングラデシュ再訪
③インドでインフルエンザ
④人が移動をする理由
⑤スポーツ・ナショナリズムと経済発展
⑥海外での飲みニケーションから伝わること
⑦インド亜大陸の切手と郵便
⑧カンボジアの持続的発展のために
⑨多様性の先にある困難
⑩パキスタン辺境の村

本書のコピー、スキャン、デジタル化等の無断複製は著作権法上での例外を除き禁じられています。本書を代行業者等の第三者に依頼してスキャンや デジタル化することは、たとえ個人や家庭内での利用でも著作権法違反です

CHAPTERプロローグ

ある途上国のお話
「あなた,ごはんができたわよ。ドリアンも呼んでちょうだい」
「ああ、わかった……」
ここはアスー国の農村。青々とした稲穂に朝露が光り、遠くの方でニワトリの鳴き声がこだまする午前6時半頃,ムギさん一家の朝食がいつものように始 まります。定番メニューは、米粉を発酵させて薄くのばした生地を焼いたク レープのような食べ物(南インドでドーサと呼ばれる食べ物に近いでしょうか)に、 小エビや小魚を発酵させて作った塩辛いカビという味噌と、野菜の漬け物を併せていただきます。飲み物は、ほのかな酸味と渋みがきいた野草茶です。ご主 人のムギさんは、もう50年以上も,この変わらない朝食を食べ続けています。
てきぱきと食事の準備をするキビさんは、毎朝5時に起きて朝食の準備をし ています。煮炊きに使うのは,村近くの林で集めてきた薪や小枝です。家の裏 には,自家消費用の野菜が所狭しと植えられています。スースーと呼ばれる空 心菜に似た葉物で作る炒め物と,自家製の根菜で作った漬け物が得意料理で, 夫のムギさんの好物でもあります。
「今日も午後には一雨来そうだな……」とつぶやくムギさんの表情は心なしか曇りがちに見えますが、一体どうしたのでしょうか?

本書の目的

この教科書は、開発途上国の問題に関心を持ってもらい、その関心が学問としての開発経済学 (development economics)への興味につながって欲しいという思いを込めて作りました。

テレビでアフリカの子どもがお腹を空かしている映像を見た,あるいはフィ リピンに旅行に行ってスラムで働く子どもの汚れた姿にショックを受けたなど, 日本人が途上国の貧困や開発の問題に関心を持つきっかけはいろいろあると思 います。なぜそのような問題が途上国に存在するのでしょう?それをどうすれば克服できるのでしょうか?
これらの問いについて考える学問の1つに,開発経済学があります(ほかに も開発社会学,開発人類学などの学問があり、総称して開発学(development studies) と呼ぶこともあります)。開発経済学というのは,経済学のツールを、途上国の貧困や開発の問題に適用した応用経済学の一分野です。

経済学はおもしろく、役に立つ学問ですが,その役に立つ経路が特にはっきりしているのが開発経済学だと思います。目の前にお腹を空かしている人がいるとき,あるいは日本ならば問題とならない病気で簡単に命を落とそうとして いる人がいるときに,私たちは何ができるでしょうか? その場で食べ物を渡 す,あるいは治療を施すという緊急,あるいは直接的な行為だけでなく、なぜそのような人が多数生じるのかを,論理立てて構造的に理解し,そのような人 の数を減らすような政策を起案・実施するための基礎や処方箋を提供するのが, 開発経済学の役割です。

こうした途上国が抱えるさまざまな問題に取り組む上で,最近の開発経済学では、行動経済学,空間経済学などの新たな経済理論や革新的な実証分析ツールを活発に取り入れて急速に発達しており,本書では,こういった最先端の議 論をたくさん紹介しています。その意味で本書は、単なる入門編の教科書では なく,開発問題への先端的ガイドブックをめざしています。ただし、限られた 字数で開発問題すべてを扱うことはできません。本書では特に、低所得国や下 位中所得国がいかに絶対的貧困から脱出できるかに焦点を置きます。

この本を手にとってくれた方が,開発援助の実務者あるいは研究者として, 実際の途上国の発展に直接的に関わることにつながれば筆者としてはこれ以上ない幸せです。でもそのような直接的な関わりのある職業に就かなくても,グ ローバル化が進んでいる今の世の中では、実はいろいろな形で途上国の人々の 生活に関わることが少なからずあります。その際に知っておいてほしいことや途上国の経済を眺める視点のようなものを伝えたいというのも,本書を企画した理由の1つです。

本書の特色

本書の最大の特色は,日頭に登場した,アスー国で暮らす人々が織りなす日々の物語を通じて開発経済学を学ぶというスタイルです。本書は9章構成となっていて、各章の冒頭では、アスー国で暮らす人々が抱える課題が、日々の 生活を叙述する Story の中で明らかにされます。その後に、Story で明らかにされた課題に対して開発経済学がどのようにアプローチし、また政策提言や処 方を導き出していくのかを解説するという流れで各章が構成されています。各章は独立した読み物としても読めるようになっていますが,各章の織りなす Story には連続性があるので,時間がある読者はぜひとも目頭から読み進めていただけるとうれしいです。大学の講義で使うならば、やや中身の多い第1, 2章と第9章を2回に分けるなどすると, 12~14 回程度の1学期週1コマの講 義に対応するでしょう。

また, Story を補うものとして,われわれ筆者がこれまで研究対象としてきた国々での経験を基にした Column も作成しました(Column の写真はすべて 筆者撮影)。Story とColumn を通じて,具体的な途上国のイメージが読者に 伝わることを祈っています。

開発経済学も経済学の一分野ですから、「開発経済学」と名前のついた本を 開くと、数式や入り組んだ図や統計数字のたくさん入った表が目について,難しいという印象を持ったことがある方も多いのではないでしょうか。そこで本 書では数式はできるだけ使わず,数理モデルが重要な場合にはその論理を言葉で紹介し,関心を持つ方が次のステップに進む際の橋渡しとして文献情報をつけることにしました。ややテクニカルな内容は補論にまとめました。なお,本 書を教科書として用いる場合は、章扉に挙げたKEY WORDS を説明することと,章末にまとめたQUESTIONS の答えを考えることで,各章の中身が 理解できたかどうか確認してください。

Story の全体の流れ

途上国の貧困者の大半は農村に住んでいます。そこで本書の Story は、アスー国という途上国の農村に住む農民のムギさん一家の生活というミクロの話 から始まります(第1章)。Story が進んでいく中で、ムギさんの村にもさまざまな変化が訪れ,農業生産性の改善や,農村経済の多様化を通じて,農村の 人々も徐々に貧困を脱却していきます(第2章)。

その過程では,教育環境の改善(第3章)や農村から都市部への人口移動, 農業から工業・サービス業への労働移動(第4章)が重要になります。人々が 農村から都市に出て、工場で働くようになるという変化は,多くの途上国が経験してきたことです。工業やサービス業においても、企業家は日々、生産性改 善の努力を進めています。それに成功した企業は成長し、そのような企業で働

く労働者の生活も向上していきます(第5章)。農業や工業やサービス業の生 産性が向上していくことを産業発展と呼んでもいいでしょう。生産性向上には、 技術移転や国際貿易が鍵になります(第6章)。

こうして Story は少しずつ,ミクロからマクロの話に変わっていきます。 マクロの話になると,政府の役割も忘れてはいけません。そこで, マクロ編で は,政府の駆け出し官僚であるマメさんを中心にストーリーが展開していきます。金融や開発援助,環境といった話もここで扱います(第7~9章)。
本書のエピローグでは、ミクロとマクロの登場人物が偶然出会い、アスー国 の成長と貧困削減に関して思いを伝え合います。これが本書の大きな流れです。

Story の舞台

それでは、次に Story の舞台となる国々や登場人物の紹介に移りたいと思います。Story の舞台は,先ほどから何度か出てきましたが、アスー(ASU) 国と呼ばれるこの世界のどこかにある架空の国です。人口は 4000万人, 1人当たりのGDP は 750 ドルと日本の 50 分の1程度。ただし,この10年間は景 気もよく、経済成長率は5~8%となり10年間でおおよそ1人当たり所得を2 倍程度にまで拡大しました。アスー国の国土の大部分は,熱帯モンスーン気候に属しています。年間降雨の大部分が雨期に降り、乾期にはほとんど降りません。乾期の気温は高く、とても乾燥します。

アスー国のGDPに占める農業の比率は25%,工業は25%, サービス業が 50%です。しかし国民の7割もが農業生産に従事しています。このため主要輸 出品目は,農産物(穀類とゴムと紅茶),繊維製品(軽工業品), となっています。 近年では、外国に出稼ぎに出る女性が増加し,現在の海外送金総額は GDPの 5%程度にまで上っています。為替はアメリカのドルに連動したドルペッグ制で,実質的に固定為替相場制度が採用されています。そこで本書のStory で は、アスー国の通貨をドルで表記します(ほぼ米ドルに近い単位と理解してください)。

そんなアスー国の北部地域に位置するのがムギさんたちの暮らす村です。首都から車やバスで9時間もかかる辺鄙な村で、近郊の都市(国内で4番目の都市で人口30万人程度)には、乗り合いバスで2時間ほどかかります。雨期に降る雨のみに頼った天水農業が伝統的な農業形態でしたが、数年前から海外の援助資金による灌漑施設建設が始まり、近隣の村では乾期の稲作,つまり米の二期 作を始めるところが出てきました。また、5年前からマイクロクレジットのブロジェクトが村に展開しはじめています。小学校は 1970年代後半に村にできましたが,現在50代後半のムギさんは小学校に通ったことがありません。そ の後2000年に中学校が建設されました。それまでは15 kmほど触れた村まで歩いて通う必要があったことを考えると大きな変化です。ただし最寄りの高校はバスで2時間かかる近郊都市にあります。

複数あるアスー国の隣国の中でも重要なのが、ナカッ国です。この国の1人 当たりGDPはアスー国のほぼ10倍で、世界銀行の分類では上位中所得国に 入ります。先進国の多国籍企業が多く集まる工業団地もいくつかあり,地域で は所得水準が相対的に高い国です。ナカッ国の工業団地は、首都近郊だけでな く, アスー国との国境近くの経済特区にも広がっています。この国にはアスー 国からも多くの労働者が働きに行きます。両国の言葉はよく似ているので,ア スー国からナカッ国に短期の観光ビザなどで入国し、そのまま居座る不法労働者も近年増え、両国間での外交課題として取り上げられることが多くなりました。

Story の登場人物

主にミクロ編に登場するムギさん一家は、もともとは6人家族です。現在は 3人世帯で、昨年1年間の世帯所得は、農業自営所得(米を作るなどをして得られる所得) 200ドル、非農業の自営業所得(食肉用の養鶏事業で得た所得など)が 200ドル、日雇い労働賃金所得が200ドル(他の人の田んぼで収穫作業を手伝って 支払われる所得や建設労働などで受け取る所得など),送金収入が国内 200ドル,国外400ドルで,合計 1200ドルです。国外からの送金がある分,世帯所得が村 の平均よりやや多くなっています。

●父親(ムギさん), 56歳
国が独立に沸いた頃の記憶がおぼろげながら残っている。ムギさんの父親も祖父も代々この村で農業を行ってきた。現在まで 伝統的な天水農業で一家を支えてきた。26歳の時に、9歳年下のキビさんと結婚する。学歴皆無で、読み書きもできない。
● 母親(キビさん), 47歳
30kmほど離れた村から嫁に来た。結婚してから10年の間に 6人の子どもを出産するが,2番目の出産は死産,5番目に生まれた次女は生後半年で栄養失調と下痢のために死去したため、生き残った子どもは4人。夫のムギさんと同じくフォーマルな学歴はないが、生まれ育った村にあった寺子屋に2年ほど通っていたため、若干の読み書きは可能。
●長女(マンゴーさん), 31 歳
同じ村のパクチーさんと 18歳の時に結婚し、2人の子供(結 婚1年後に生まれた娘のオニオンちゃん,その3年後に生まれ の息子ポテト君)をもうけている。嫁ぎ先は零細な小作農家で あり,十分な稼ぎとは言えず、11歳の長女オニオンちゃんが 時折,農作業にも従事する。それゆえにオニオンちゃんは小学 校を休みがちで,留年を経験している。マンゴーさん本人の学歴は小学校中退。
●長男(ドリアンさん). 28歳
農家の跡継ぎとして、父親と野良に出るが、近隣の村にある, 近代的な灌漑水路にも触発され,高収量品種の導入や化学肥料, 殺虫剤などの使用を巡って、父親との言い争いが絶えない。学歴は小学校卒。
●次男 (ライチさん). 26歳
現在は首都で運転手をしている。同じ村から出てきた女性と恋 仲であり、このまま結婚をして、都市に移り住むことを画策中。 稼ぎの2割程度(年間200 ドル)を実家に送金。学歴は中学校中退。
●三女(ポメロさん). 21歳
中学校を卒業した後,次男ライチさんと同様,首都に出稼ぎに出たが,その際にブローカーにスカウトされ,ナカッ国に住み込みのお手伝いさんとして働きに出た(現在渡航2年目)。送 金は年間で400ドル程度。学歴は中学校卒。
マクロ編に登場するのは開発援助に関連した仕事に従事する3名のプロフェッショナルです。
●経済開発省の駆け出し官僚(マメさん), 23歳
アスー国のトップの大学で経済学士号を優秀な成績で取得。この国を豊かに発展させるという熱い思いを胸に、アスー国の開 発計画を作成する経済開発省に入った青年。実は、ムギさん一家が住む村の隣町(バスで20分ほど離れている)の出身。マメさんのお父さんの名前はダイズ,お母さんの名前はアズキで,どちらも健在。ガールフレンドのコピさんとは,すでに婚約中。
●世界銀行での勤務経験もあるマメさんのボス(ティーさん), 43歳
現在次長クラス。30代の頃に海外の大学院で博士号(農業経 済学)を取得し、その後帰国。2年ほど前に政府の資金で1年 問,世界銀行に客員研究員として滞在。自国の現実と近代経済学の両方に精通した人物。
●国際協力機構(JICA)の担当者(ヨネさん). 28歳
日本の大学で開発学・国際協力論を学び、日本の援助機関である国際協力機構に就職。アスー国は初めての海外赴任地。大学 卒業時には英語力に自信があったが,現場での交渉という点で 国際的なコミュニケーションの難しさを実感中。
以上の登場人物が織りなすアスー国の経済発展は、さてどうなるか。すぐにでもムギさん一家のお話に移りたいところですが、その前に途上国の現状を 知るのに必要な最低限の知識を簡単に説明します。開発経済学は実践的な学問であり、また日本ではなく他国の状況を分析する学問ですので、現実の途上国 の状況を常に念頭に置いて本書を使うことが開発経済学の理解には重要です。 アスー国がどのような国なのかを考えるためにも役に立つ知識です。

黒崎 卓 (著), 栗田 匡相 (著)
出版社、有斐閣 (2016/3/31):出版社HP

途上国の現状

途上国の経済開発に永年関与してきた世界銀行(世銀)は、途上国を1人当たり国民所得が低い順に,低所得国,下位中所得国,上位中所得国に分け,先 進国を高所得国と呼んでいます。上位中所得国にほぼ対応した国々を指して, 中進国と呼ぶこともあります。2014 年度版の世銀「世界開発報告」では,低 所得国に、ミャンマー, カンボジア, バングラデシュ, ハイチ,ウガンダなど 32 カ国,下位中所得国に,ベトナム、インド, パキスタン, ボリビア, ガー ナ,コートジボワールなど33カ国、上位中所得国に,タイ,中国,ブラジル, 南アフリカなど33 カ国を挙げています。国際連合(国連)は、途上国の中で も特に貧しく脆弱な国を後発開発途上国(least developed countries: LDC)と定義 し,48カ国を指定しています。世銀の低所得国のすべてがLDCです。

表 0-1 を見てください。低所得国には約8億5000万人,下位中所得国には 約25億人の人口が含まれ、地球全体の人口の半分近くに達します。低所得国 の1人当たり年間平均所得は584ドル, 先進国3万7595ドルのわずか 1.55% です。それで食べていけるわけがありません。途上国では物価が安いので,それを調整するのが表の PPP換算です(PPP とは「購買力平価」の略。詳しくは巻 末リーディング・ガイドで紹介されている教科書を参照)。物価の調整をしても低所 得国の1人当たり国民所得は年間 1387 ドルで,先進国の3.67%にしかなりません。世界の所得格差はこれほどの大きさなのです。下位中所得国では少しましになりますが,それでも物価調整済みの1人当たり国民所得は,先進国の 10.4%にすぎません。中進国(上位中所得国)でなんとか所得水準が先進国の3 割弱に達します。

地域別には、低所得国32 カ国中 24 カ国,下位中所得国33 カ国中 11 カ国がアフリカの国です。アフリカの国の大多数が人口で見ると小国なのに対し、南アジアにはバングラデシュ, インドパキスタンという人口大国が3つもあり, それぞれ低所得国,下位中所得国,下位中所得国に属しています。国連の定義で見ると,IDC48 カ国中 34 カ国がアフリカ,4カ国が南アジアです。つまり 世界の貧困問題が特に集中しているのが、アフリカと南アジアです。アフリカ でも北部の地中海沿岸地域は生活水準が比較的高いので,貧困問題に着目する 場合は、サハラ以南のアフリカに絞って「サブサハラ・アフリカ」という地域 区分を採用します。

こうした定義に従ってアスー国の状況を見てみましょう。アスー国の1人当たりGDPは750 ドル程度ですから、低所得国と下位中所得国の間に位置して います。アフリカのケニア,ガーナ、東アジアではカンボジア、ベトナムといった,今後の発展が有望視されつつも、国内には絶対的な貧困が広範に存在している途上国の状況に近いようです。
なお先にも見たように、アスー国のGDPに占める農業の比率は25%,工業 は25%, サービス業が50%です。しかし国民の7割もが農業生産に従事しています。全労働者の7割が生み出す価値は全体で生み出される価値の25%し かないわけですから,言い換えると,農業従事者1人が生み出す価値の総量 (労働生産性)は平均で見て,工業・サービス業従事者よりも低いことになります。これらの特徴は、世銀の「世界開発報告」を見るとわかるように,低所得 途上国によく見られるものです。

以上は1人当たり国民所得の話でしたが、貧困やGDP の話をする際に,もう1つ忘れてはいけないポイントがあります。それが国内の所得や富の分配の状況がどのようになっているのか、という点です。わかりやすく言えば、不平等の状況がどうなっているのかということになります。国内の不平等が大きい国と,小さい国とでは、同じ1人当たり国民所得でも生活水準が違います。たとえば国民の何%が貧困線以下の生活を送っているかを示す貧困者比率という 指標を使うと、不平等の効果と平均の国の豊かさの両方が反映された姿がわかります。国際比較でよく使われる貧困線は,1日1人 1.25 ドルおよび 2.5 ドル (どちらも物価調整済み)です。1人当たり国民所得が年額 1000 ドルの国に、2.5 ドルの貧困線を当てはめてみましょう。所得分配が平等で,全員がほぼ1000 ドルの所得でしたら、その国の貧困者比率はゼロです。所得分配が不平等で、 国民の5%が1万ドル, 45%が1000 ドル, 50%が100ドルの所得だと,その 国の貧困者比率は50%です。表0-1 にあるように,世銀は 2010年の低所得途 上国の貧困者比率を83.2%と推計しています。

途上国は所得が低いだけでなく、教育や健康なども先進国の水準を大きく下 回っています。表0-2 には、国連開発計画(UNDP)が毎年作成する「人間開 発報告書」から数字を拾ってみました。人々の生活水準を所得だけで測るのは 不十分で、教育や健康なども取り入れた「人間開発」が重要だという見方に基づいて作られているのが、「人間開発報告書」です。

先進国(表では「人間開発上位国」)における平均寿命が 80.2 歳,成人平均就学年数が 11.7 年なのに対し、LDCではそれぞれ 61.5 歳,3.9年です。最も貧しい途上国に生まれたというだけで,人は平均で20年早死にし、学校に通う 年数も8年近く短いのです。所得面で絶望的な格差が先進国との間にあり、十分な教育を受けることが国民全員に保証されず,先進国では問題にならないような病気で簡単に命を落としてしまうがゆえに平均の寿命が短い、これが,途上国が抱える絶対的貧困の問題です。
なお,表 0-2で東アジアと呼ばれる地域には、日本や中国、韓国など極東アジアの国々と,タイ, インドネシアなど東南アジアの国々が含まれています。 極東アジアの国々のみを指して東アジアと呼ぶこともありますが,本書では,世銀や国連での近年の用法に倣い、東南アジアも含む地域として東アジアという用語を使います。

さて,アスー国の物語を始める準備が整いましたね。それでは、まずはムギさんの沈んだ表情の理由を探りながら、アスー国の農村が抱える課題について考えてみましょう!

黒崎 卓 (著), 栗田 匡相 (著)
出版社、有斐閣 (2016/3/31):出版社HP