日本建築入門 (ちくま新書)

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日本的なデザインがわかる

いろんな観点から10章立てで「日本的なるもの」を巡る建築史がまとめられていて、チョイスにも筆者の味が出ていて、味のある一冊となっています。充実した内容となっておりますので、興味のある方は手にとってみて間違いないと思います。

五十嵐 太郎 (著)
出版社: 筑摩書房 (2016/4/5)、出典:出版社HP

目次

序論―なぜ建築と日本が結びつくのか

第1章 オリンピック
1 世界に発信せよ!
「オリンピック大會」を東京へ/富士山麓のオリンピック村/外国人が泊まる宿―国策ホテル/紀元二六〇〇年の国家事業
2 戦時下日本の夢想
日本から世界へ―歴史の転換点/迷走する会場計画
3 悲願・国際社会への復帰
プロデューサーとしての岸田日出刃/師匠から丹下健三へのバトンタッチ
4 競技場の「伝統的」部分
屋根の建築が表現するもの/日本らしさと象徴性

第2章 万博
1 大阪万博・奇跡の風景
丹下健三の屋根/外部からの視線・内部からの批判/地域性と屋根/丹下のモダンな屋根/土着の反逆
2 エキゾチック・ジャパンの系譜
前川國男の日本館/内外の反響/戦前の日本館/提灯の起源―外国人にわかりやすいデザイン 3 モダニズムが模索したもう一つの日本
センセーショナルな世界デビュー―坂倉準三/日本の雑音から離れて―傑作誕生/ 「日本館設計者」の栄光と責務/日本館が世界を結びつける
4 ベタでない日本らしさ
環境性能の表現/デザインの重要度低下/ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館/帝冠様式とは異なる感性/ 建築展は何を展示してきたのか/プレスの期待と日本的現実

第3章 屋根
1 様式のキメラ「帝冠様式」 ハエと男の合体、あるいは融合/下田菊太郎の「帝冠併合式」/介入する異国のまなざし
2 ポストモダンによる再評価と批判 帝冠様式とは何か/ファシズムと連携した建築様式?/屋根と宗教建築/屋根の脱政治的再評価/石井和紘のポストモダン

第4章 メタボリズム
l 発見された日本的空間すき間・ひだ・奥・グレー
日本的な意匠をちりばめる/黒川紀章と共生の思想/仏教に影響された空間論/重層する境界と奥の思想

2 「出雲大社・伊勢神宮」論―日本が初めて世界と並んだ瞬間
二元論による日本回帰/出雲大社と出会う新しい形態/メタボリズムと日本型住宅/川添登という仕掛人/伝 統とアヴァンギャルドをつなぐ

第5章 民衆
1 伝統論争
新建築と古建築/海外におけるジャポニカ・ブーム/日本的なものへの疑義/地についた国民的デザイン
2 縄文的なるもの―「民衆」の発見
なぜ日本ブームなのか/戦後における「民衆」の登場/白井晟一と縄文的なるもの/兵の施主は民衆

第6章 岡本太郎
1 近代への一撃硬直した伝統論を解体する
縄文土器の発見/美術と建築のつながり/日本の地方と民衆
2 ベラボーな建築
マミフラワー会館という怪獣/建築を内側から食い破る/見てはならない土俗的な怪物/国民的な記憶に刻まれた塔

第7章 原爆
1 原爆モニュメントと「民衆の願い」
秋田の大きな屋根/民族の表象を超えた「伝統拡大」へ/二つの原爆モニュメント/原爆堂と民衆
2 「混在併存」の思想
丹下健三とは異なる道を歩んだ同級生/二つの海外旅行が変えた世界観/混在併存の建築/歴史意匠論の意義
第8章 戦争
1 「国民」の様式―建築におけるナショナリズム
国民から人民の建築へ/一九四七年のもうひとつの著作/戦時下の国家と建築について/前川國男の闘い
2 戦時下の建築論
新国立競技場問題と戦時下の日本/日本国民建築様式の問題/空間論の系譜に連なる問題提起/戦時下の日本
建築論の限界

第9章 皇居・宮殿
1 新しい宮殿
京都迎賓館のハイテク和風/昭和の宮殿再建計画/新宮殿の建築をどうするか/宮殿問題と建築家の職能
2 明治の国家事業―宮殿造営と赤坂離宮
明治のプロジェクトX/迷走した明治宮殿/外国人設計者と国家プロジェクト/洋風建築をめざした赤坂離宮

第10章 国会議事堂
1 国のかたちを表象する建築
世界の中の国会議事堂/日本の国会議事堂/どのような政治空間なのか/日本的なものをめぐる議論
2 国会議事堂はいかに語られたのか 建築界の今後を背負うプロジェクト/美術界から見た国会議事堂/不満に終わったコンペ結果

あとがき

五十嵐 太郎 (著)
出版社: 筑摩書房 (2016/4/5)、出典:出版社HP

序論―なぜ建築と日本が結びつくのか

近代と伝統

伝統的なもの、あるいは日本らしさが語られるとき、しばしば近代以前の状況が参照されるのはなぜか。それは現代とは違い、昔は地域や国境を超えて、文化や技術が簡単に、そして自由に行き交うことができなかったからだ。
したがって、それぞれの場所では必然的に、気候や環境に対応しながら、木や石など、どのような自然素材を入手できるかという条件に従い、人々の慣習も踏まえて、固有の建築がつくられていた。それが近代以降に伝統と呼ばれるようになったものである。

おそらく、外部を知らない、すなわち異国との比較がなければ、当事者は自らの建築を伝統的なものだと強く思わなかったはずだ。国家という意識も希薄だったに違いない。つまり、国際的に同じ建築をつくろうというモダニズムの運動が起きたことで、逆説的に場所性が発見される。

近代建築は、アメリカにおいて「インターナショナル・スタイル」という風にも命名されたように、鉄とガラスとコンクリートという同じ素材と構造に基づく、共通のデザインによって世界を覆うことを志向していた。
しかし、そう簡単に世界は同じにならなかった。言うまでもなく、各地域には、暑い寒い、雨がよく降る、降らない、湿度がある、乾燥しているといった様々な気象の条件が異なり、生活慣習も違うから、同じデザインを導入しても組齬が生じる。近代においてはまだ十分な空調設備も整っていなかったし、省エネが求められる時代に、エアコンをつければすべて解決というわけにもいかないだろう。また日本では、どれだけ近代化しても、室内において靴をぬぐ習慣は根強く、住居のみならず、小学校のような公共施設や一部の飲食店でも同様である。ここまで残れば、将来変わることはないだろう。

世界を均質化しようとするモダニズムを批判的に乗り越えようとする試みは、一九六〇年代から目立つようになった。建築の世界では、こうした運動を総称してポストモダンと呼ぶ。その手がかりのひとつとなったのが、地域性や歴史性、すなわち伝統である。日本の建築界でも、近代に議論された最も重要なテーマだった。

もっとも、一九六〇年代を待たずとも、日本は近代を受容した早い時期から、この問題に直面していた。ヨーロッパでは、長い期間にわたって、古典主義やゴシックなど、石や煉瓦による組積造の様式建築を発達させていたが、この伝統と対決し、否定することによってモダニズムが勃興した。

一方、日本では江戸時代の鎖国を解いた後、明治時代の文明開化を迎えると、まず西洋の様式建築を導入する。大学ではアカデミックな教育を行う一方、大工は見よう見まねで新しい意匠を模倣し、後者は擬洋風と呼ばれた。そしてある程度、吸収したところで、海の向こうで近代建築が登場し、今度はモダニズムを輸入することになった。すなわち、日本にとって様式建築とモダニズムは対立するものではない。いずれも舶来のデザインだった。伝統との断絶のポイントが違う。
様式建築もモダニズムも、日本における木造の伝統建築とは異なる材料から生まれたものである。だが、西洋の列強と対等の姿を顕示しようとした日本は、積極的にこれらを模倣することに努めた。その過程において、日本とは何かというアイデンティティの問題にぶちあたる。一生懸命に西洋をモデルに追いつこうとして、ふと立ち止まったときに疑問が生じる。お雇い外国人の雇用や海外留学によって、工学的な技術は吸収することはできたが、建築は純粋なテクノロジーの産物ではない。誰もが即物的なただの箱で満足するなら簡単だが、デザインはときとして文化を表現し、象徴的な意味を担う。そのとき西洋の技術体系を移植しながら、デザインも同じで良いのかが問われる。われわれの生活は、ギリシアの一地方やパリの周辺で誕生した建築の様式と関係ないからだ。

そもそも明治時代に建築学科を創設したとき、西洋建築史は教育のプログラムに入っていたが、日本建築史はまだ学問として確立していなかった。ルネサンスやゴシックなどの様式は、過去のものではなく、そのまま設計に活用できるデザインのネタだった。当時、イギリスを訪れた辰野金吾が、日本建築の歴史を質問され、返答に困ったという有名なエピソードがある。その後、伊東忠太らの研究が嚆矢となって、日本建築史の体系的な調査に着手するようになった。

技術の面においても一筋縄ではいかない。日本が地震国であるからだ。一八九一年に濃尾地震が発生し、煉瓦造の建築が壊滅的な被害を受けた。つまり、西洋の構造形式は、地震がまったく起きないような場所には向いているかもしれないが、日本ではうまくいかない。そこから必要に迫られて、日本では耐震の研究が飛躍的に進化していく。

新建築圏を創造せんがために

ここで日本において、自覚的な意識をもった最初の近代建築の運動をみてみたい。一九二〇年、東京大学を卒業した堀口捨己、山田守らが、分離派建築会を結成した。彼らの以下の宣言文が有名である。「我々は起つ。過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために」

後に、このメンバーが中心になって一九三二年に刊行された分厚いアンソロジー本が「建築様式論叢』(六文館)だった。日本的なものをめぐって熱い議論がなされている。巻頭と巻末を飾るのは、いずれも編者をつとめた堀口の論文であり、「茶室の思想的背景と其構成」と「現代建築に表れたる日本趣味について」だった。彼は一九二〇年代に遊学の途中でギリシアに赴き、パルテノン神殿と対峙したとき、学校で習ったものとは根本的に異なる実在感に打ちのめされ、アジアに生まれた自分が簡単に模倣できるようなものではないと後に告白している。

堀口は、こうした強烈な古典主義の体験を経て、日本的なものに回帰し、建築家として活動するかたわら、桂離宮など、日本の数寄屋や茶室の研究に向かう。明治の初頭には忘れかけられていた法隆寺は、日本最初の建築史家である伊東忠太が論じたことによって、当時、すでに重要な古建築だと認識されていた。伊東はシルクロードでつながるギリシアの柱の膨らみとの類似を指摘したように、建築のチャンピオンであるパルテノン神殿と法隆寺をアクロバティックに接続させた。かくして仏教建築の系譜は、モニュメンタルなデザインとみなされ、日本的なものを表現する公共や国立の施設において、しばしば参照されるようになった。

しかし、堀口は違う回路を探求している。今でこそ、数寄屋や茶室は、当たり前のように日本の重要な伝統建築だと認識されているが、彼は早い段階から建築家の眼を通して、その価値に気づいていた。彼によれば、茶室は単純な工作物だが、「これを造形的な美の方向から見るとき極めて高い程度に発達した美しさの完成を見る事が出来る」。また非対称な茶室はパルテノンとは異なる特性をもち、その影響によって「我国の一般住宅が徒な記念性と無意味な装飾から免れている」という。堀口は巻頭の論文を、機能と美を同時に考慮している茶室は、「今後の住宅建築にも大きい示唆を與へる」と結ぶ。また吉田五十八も、一九二五年のヨーロッパ旅行を契機に日本に目を向け、近代における新興数寄屋の確立にとりくんだ。

何を日本建築のモデルにするのか

伝統論が語られるとき、何を日本建築のモデルにするのかは大きな軸となる。法隆寺=パルテノンなのか、茶室なのか。あるいは、伊勢神宮を代表とする日本固有の神社建築なのか、大陸から輸入され装飾的な要素が多い寺院建築なのか。
ブルーノ・タウトが論じたように、桂離宮=天皇の系譜なのか、日光東照宮=将軍の系譜なのか。

これらはしばしば二項対立の構図によって議論される。しかも、ときとして政治的なイデオロギーがつきまとう。神仏分離令や天皇制といった社会背景は、デザインの価値判断にも影響を与えるだろう。実際、建築の専門家から靖国神社の神門のすっきりしたデザインをモダニズムと結びつけながら、日本建築の真髄を表現していると、熱狂的に賞賛する言説が登場した。むろん、これが本当に秀逸な建築なら良いのだが、戦後はまったく評価されず、ほとんど無視されている。筆者も特筆すべき作品だとは思えない。ゆえに、同じ建築に対して、これほど評価が変わるのかと驚かされる。

なるほど、現在のわれわれの見方にも、バイアスがかかっているという批判が想定される。当然、それも疑うべきだ。もう一度、靖国の神門が高く評価される時代を迎えるかもしれない。したがって、伝統論については自明のこととせず、少なくとも絶えず自己批判しながら建築の思考を継続すべきだろう。

近年、「江戸しぐさ」のように、歴史学的に実証できない、ありもしない伝統が話題になり、現場の教育にまで影響を及ぼそうとしている。ここでも現代から投射されたイデオロギーが、理想的な過去が存在していたかのように錯覚させる。歴史の改竄だ。

いずれにしろ、時代や状況によって、モノの評価は変わることが起こりうる。井上章一はその著作において、桂離宮や法隆寺をめぐる言説の変遷を通じて、いかに専門家であろうとも、時代の枠組から影響を受けていることを示していた。逆に言えば、評価の言説を検証していくことによって、時代の精神史も浮かびあがる。

五十嵐 太郎 (著)
出版社: 筑摩書房 (2016/4/5)、出典:出版社HP