倫理学を学ぶ人のために

【最新 – 倫理学を学ぶおすすめ本 (入門からランキング)】も確認する

様々な視点からの倫理学

本書では、倫理学の目的、倫理学が形成された過程、倫理学における問題、現代と倫理学との関わりなど、様々な視点から倫理学について解説されています。特に現代と倫理学の関わりの項においては、たびたび問題になる安楽死の問題を扱った生命倫理について興味深い内容が述べられています。

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP

目次

I/倫理学の課題―倫理学は何を求めるのか―宇都宮芳明
1 慣習倫理
2 反省倫理
3 倫理の基本領域
4 愛と尊敬

Ⅱ/倫理学の原型―倫理学の形成過程―田中伸司
1 われわれが生きているとはどういうことか―エートスの意味
2 われわれにとって「よく生きる」とはいかなることか―エートスが問われる地平
3 われわれはどうすれば「よく生きる」ことができるのか―エートス論としての倫理学

Ⅲ/倫理学の展開―倫理学の基本問題―
1 行為と規範―水谷雅彦
1 行為の概念
2 行為・能力・責任
3 行為と規範
2 人格と自由―新田孝彦
はじめに
1 役割としての人格
2 人格性の原理
3 道徳的行為の主体としての人格
おわりに
3 自己と他者―熊野純彦
はじめに
1 〈他者〉という問題
2 他者との〈関係〉の成り立ち
3 他者への呼応と〈倫理〉
4 理性と物神―高橋秀知
はじめに
1 ファシズムの社会心理学―フロム
2 自然支配と社会的支配―ホルクハイマー、アドルノ
3 文化的近代の潜勢力―ハパーマス
4 実践的相互性の行程
結びにかえて

Ⅳ/倫理学の現在―倫理学と現代世界―川本隆史
1 正義と平等―川本隆史
はじめに―《ただしさ》と《ひとしさ》
1 「公正としての正義」―ロールズの登場
2 資源の平等と複合的平等―ドゥウォーキンとウォルツァー
3 基本的潜在能力の平等―センの新機軸
おわりに
2 生命と倫理―品川哲彦
1 望ましい生と単なる生存
2 生命倫理問題の整理と概観
3 選択と決断の背景
4 私たちは中心にいるか
3 環境と人間―杉田聡。
1 牧歌的自然と人間の倫理
2 荒々しい自然と人間の倫理
4 伝統と変革―天艸一典
1 近代と伝統一
2 市民社会と生活共同体
3 「西洋」と「日本」

◆文献案内
●あとがき
●人名・著作名索引/事項索引

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP

I/倫理学の課題―倫理学は何を求めるのか―宇都宮芳明

1 慣習倫理

無関心と誤解

世間では倫理学どころか、倫理学が対象とする倫理そのものに関しても無関心な人が多いし、それどころか倫理とか道徳という言葉を聞いただけでも拒否反応を示す人が少なくないと思われる。これはなぜであろうか。

倫理という言葉は、決して珍しい言葉ではなく、世間で広く用いられている。マスコミの世界では、毎日と言ってよいほど、政治倫理、生命倫理、企業倫理、環境倫理といった言葉が登場する。しかしそれにもかかわらず、「政治」とか「生命」といった冠のついていない「倫理」そのものについては、まったくと言ってよいほど語られていない。つまりマスコミも、政治倫理や企業倫理といった冠倫理は問題にするが、そもそも倫理とは何かということについては無関心なのである。

ところで、マスコミが政治倫理や企業倫理を話題にしても、世間の多くの人びとは、自分は政治家ではないから政治倫理には無関係であり、また企業家でもないから企業倫理にも無関係である、と考えるであろう。政治家や企業家ですら、自分たちに問われている倫理とは何かということを本当に考えている人はごく少数と思われる。政治倫理や企業倫理を犯したとされる人びとの謝罪の言葉は、判で押したように、「世間を騒がせたから申しわけない」というものである。では、世間を騒がさなければ倫理的な生活を送っていると言えるのであろうか。倫理とは単に、マスコミなどの世間を騒がせないことであろうか。もし政治家や企業家が本気でそう考えているとすれば、こうした人びとは実は、倫理というものについて何も考えていないのである。

また、いわゆる生命倫理についても、さしあたって自分や身内の人びとが臓器移植を必要としているわけではないし、また脳死の状態にもないから、多くの人は実は無関心である。環境保全のための環境倫理と言っても、目下のところ、自分や家族の生存が環境汚染によって極度に脅かされているわけではないから、これについても大方の人は無関心である。都市では大量の車の排気ガスが大気を汚染しているにもかかわらず、マイカーの所有者は増えつづけている。

では、倫理や道徳に反発する人、これは特に若い人に多いが、そうした人たちはどうであろうか。その人たちの考えでは、人間は誰でも自由である(あるいは自由であるべきである)のに、倫理とはそうした自由な個人に対して外部から加えられる不当な干渉であり、強制である。たとえば服装は各人自由であってよいのに、学校の校則は、生徒は生徒らしくあるべきだという倫理の名のもとに、服装をこと細かに規定する。これと同じように、世間で「倫理」と呼ばれているものは、多くは個人に加えられる不当な抑圧である。これが、倫理に反発を感じる人びとの大多数の考えであろう。あるいは政治家のなかにも、マスコミが「騒ぐ」政治倫理なるものは、政治活動に対する不当な干渉であると考えている人がいるかもしれない。だがしかし、倫理とは、単に個人の外部から加えられる自由の抑圧なのであろうか。倫理学とは、そうした抑圧を正当化するための理論にすぎないのであろうか。そのように考えている人は、実は、倫理や倫理学というものを誤解しているのである。

生活に密着した倫理

ところで、以上の人びとはいずれも、倫理を、自分にとって直接には関係のない事柄であり、場合によっては自分の生き方を歪めるものとして考えている。倫理は自己にとっていわば外的な事柄である。倫理に無関心であったり、それに反発したりするのは、そのためである。しかし、はたしてそうであろうか。むしろ倫理は、誰であれ、一人ひとりの生活に密着した事柄であり、その意味で自己にとって外的ではなく、自己の生き方を内から規定している事柄ではなかろうか。

たとえば、ある人が友人とどこかで午後五時に会う約束をしたとしよう。その人は約束した時間に間に合うように出かけるが、それは、約束を守るべきである、つまり約束を守ることは倫理的によいことだと考えているからである。彼は、たとえ友人との話が不愉快な事柄に関する話であることがわかっていても、いま熱中しているテレビゲームを中断して出かけるであろう。また、もし約束した時間に遅刻したとすると、彼は倫理的に悪いことをしたと思い、友人に謝るであろう。逆に、友人が約束した時間に大幅に遅れて現われ、しかもその言いわけが取るに足りないものである(たとえば、テレビゲームに熱中していたとか)場合は、たとえ面と向かって友人を非難しないにしても、その友人は約束を破るという、倫理的に悪いことをしたと思うであろう。

これはほんの一例にすぎないが、このようにわれわれは、日常生活のさまざまな場面で倫理的によいとか悪いとかいった倫理的判断を下し、それに従って行動している。われわれは誰でも、つまり倫理や理学に無関心な人でも、自分が下す倫理的判断に従って、進んであることをしたり、あることを控えたり、他人を称賛したり、非難したりしながら生きている。たとえ倫理とか道徳という言葉に嫌悪感をもつ人でも、その人が自分の生活のなかで自分なりになんらかの倫理的判断を下しつつそれに従って生きている以上、否応なく倫理や道徳に関わり合っている。つまり倫理は、誰にとっても無関係なことではなく、実はその人の生活に密着した事柄であり、その人の生き方を、たとえすべてではないにしても、多くの部分で規定している事柄なのである。

倫理はこのように生活に密着した事柄である。もう少し広げて言うと、われわれの生活は、さまざまな「よさ」についての判断、つまり価値判断によって規定されている。健康を維持するにはどのような方法がよいか、車を買うときにはどのような車がよいか、休日をどのように過ごせばよいか、こうしたことを思いめぐらすときにも、さまざまな価値判断が働いている。人間は、価値を抜きにした、さまざまな事実についての知識だけでは生きていくことができない。倫理的なよさについての倫理的判断も、そうした価値判断の一つである。われわれが倫理を問題にするときにまず注目しなければならないのは、政治倫理や企業倫理といった特定の冠倫理ではなくて、このように一人ひとりの生活に密着した倫理である。この基本的な倫理そのものがいったい何であるのか、またそれが何に基づいているのかが問われなければ、政治倫理や企業倫理や生命倫理や環境倫理について語っても、そこで語られていることは空疎な内容にとどまるであろう。

慣習倫理

このように、われわれは誰でも倫理的善悪についての判断を下し、それに従って生き ているが、それでは、われわれはこうした倫理的善悪の知識をどのようにして獲得し,
たのであろうか。
知識を何ももたないで生まれてきた子供の場合を考えると、子供は両親やまわりの人びとからさまざまな知識を学び、自分がどのようにふるまっていけばよいかを知るが、そのなかには、何が倫理的によく、何が倫理的に悪いかの知識も含まれている。ほかの子供たちが乗りたがっているのに、一人の子供がブランコを独占すれば、その子供は倫理的に悪いことをしているとして叱られるであろうし、ほかの子供がブランコに乗っているのを押してやれば、その子供は倫理的によいことをしているとしてほめられるであろう。また、子供が嘘をつけば倫理的に悪いとして叱られるであろうし、自分の過失を正直に謝れば倫理的によいとしてほめられるであろう。あるいは、むしろ逆に言って、子供は自分の行為がほめられることによってそれが倫理的によく、叱られることによってそれが倫理的に悪いということを知るのである。
ところで大人の場合は、子供の場合に両親やまわりの人が演じた役割を、世間の人びとが演じることになる。人びとは、世間の人びとが一般に倫理的によいと認めて称賛する事柄を学んで自分もそれに従おうとし、世間の人びとが倫理的に悪いとして非難する事柄を知って自分もそれを避けようとする。この場合、「学ぶ」とは「まねぶ」ことであり、「まねる」ことであって、「教えられる通りまねて、習得する」(『岩波 古語辞典』)ことである。人びとは世間の人びとが倫理的判断を下しつつふるまうそのふるまい方を「まねぶ」ことによって、倫理的善悪の知識を「学ぶ」のである(大人が子供に教える倫理的善悪の知識も、多くはその大人が世間の人びとからまねびとった知識である)。

いま、このようにして形成された倫理を慣習倫理と呼ぶならば(実際にも、日本語の「倫理」または「倫理学」は英語では ethics であるが、この語は「慣習」を意味するギリシア語の ethos に由来し、また「道徳」に当たる英語のmoral は、同じく「慣習」を意味するラテン語 mos の複数形 mores に由来する)、世間の多くの人びとはこのような慣習倫理に従って生きている。十七世紀後半に活躍したイギリスの哲学者ロック(John Locke, 1632-1704)は、人間が従うべき法(ロックはこれを広義での「道徳規則」と呼ぶ)には三種類あって、一つは神が定めた「神法」であり、一つは国家が定めた「市民法」であり、いま一つは世間の人びとが定めた「世論の法」(law of opinion)である、と考えた。この「世論の法」が狭い意味での(つまり、いまわれわれが問題にしている)倫理もしくは道徳であって、人がそれに従わない場合は、「市民法」に従わない場合のように法的に処罰されることはないが、しかし、世間の人びとから非難され、つまはじきにされるという制裁を受ける。人はこうした制裁を受けることから生じる苦痛を味わいたくないために、「世論の法」に従うのである(「人間知性論』第二巻第二八章)。つまり、ここでの叙述に従うかぎり、ロックは倫理を慣習倫理という形で捉えていたと言えるであろう。

倫理が社会の慣習に基づくとすると、それは社会の変化につれて変化することになろう。言いかえれば、何が倫理的によいとされるかは、時代と場所が異なるにつれて異なることになろう。したがって、いつの時代にも通用すべき絶対的な倫理というものはなく、倫理は歴史的に相対的である、ということになろう(ロックもそのように考えていた)。そしてこのような観点から、倫理を一種の社会形成物として考察しようとする学問が成立する。この学問は、それぞれの時代に何が倫理的によいとされているかを調査し、それを記述することを主眼としているから、仮にそれを「記述倫理学」と呼ぶことにしよう。
記述倫理学はさらに、社会学や文化人類学や民俗学などの助けを借りて、なぜそのような倫理がある特定の時代・場所に成立したかを説明しようとするであろう。倫理はここでは、さまざまな社会制度や文化所産と同じように、一つの社会産物として考察の対象とされる。しかし、このことによって倫理はふたたび自分の生活から切り離され、眼前に見いだされる一つの事象として扱われるようになるのである。

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP