聖書の読み方 (岩波新書)

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広く人々に開かれた案内書

本書は、聖書が読みづらい理由と、どう読めば読みにくさが解消されるのかにスポットを当てています。読みづらいと感じる理由については、著者の生徒100名に対して行ったアンケート結果をもとにしているので、初心者が感じるわかりづらいポイントが的確に取り上げられています。聖書を読む前のガイドとしておすすめです。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP

目次

凡例
はじめに――聖書への招待
I聖書の読みづらさ――青年たちの声と私の経験
1 「正典」と「古典」であるがゆえの宿命
§1 聖書はただ「信じるべきもの」なのか
§2 聖書は「神さまが書かれたもの」なのか
§3 どうして部分しか読まないのか
§4 聖書は難しくて、堅苦しい
§5 間接的にしか読まない「古典」

2 聖書そのものの文書配列の不自然
§6 全体のつながりがわからず、どこから読んでも迷路に迷い込む
§7 隙間だらけの旧約聖書
§8 読むに読めないモーセ律法
§9 詩文と預言書はバラバラの断章の集合体
§10 本筋が見にくい新約聖書
§11 難渋なパウロの手紙

3 異質な古代的世界像
§12 「天地創造」は進化論と矛盾する
§13 神が創造した世界になぜ悪があるのか
§14 イエスの奇跡物語=「なぜそうなるの?」

4 神の行動の不可解
§15 暴力的で独善的な神の押しつけではないか
§16 「神の国」の譬えがわかりにくい
§17 イエスの「復活」がわからない
§18 どうして語り手の経験が見えにくいのか

5 まとめ――読みあぐねる聖書

Ⅱ 聖書をどう読むか私の提案
提案1 キリスト教という名の電車――降りる勇気と乗る勇気
§19 伝統的・規範的な読み方を相対化する
§20 「不信心」「不信仰」のレッテルを恐れない

提案2 目次を無視して、文書ごとに読む
§21 旧約も新約も個々の文書が編集されたもの
§22 物語の全体を部分から、部分から全体を読
§23 ごく普通の常識的判断を大切にする
§24 文書ごとの個性の違いを尊重する。初めから調停的に読まない

提案3 異質なものを尊重し、その「心」を読む
§25 聖書の中心=被造物としての人間
§26 サタンと「神の国」
§27 「神の国」の譬え

提案4 当事者の労苦と経験に肉薄する:
§28 原始キリスト教の「基本文法」の成立
§29 自分の生活だけでなく、書き手の生活の中でも読む

提案5 即答を求めない。真の経験は遅れてやってくる

Ⅲ 聖書の読書案内
1 旧約聖書
§30 「モーセ五書」と歴史書
§31 預言書
§32 諸書
(1)詩歌/(2)知恵文学/(3)歴史書/(4)思想書/(5)黙示文学
§33 旧約外典・偽典
(1)歴史書/(2)黙示文学/(3)知恵文学・遺調文学/(4)詩歌/(5)手紙/(6)伝記物語/(7)歴史物語/(8)殉教物語/(9)小説/(10)死海文書(クムラン文書)

2 新約聖書
§34 福音書・使徒言行録
§35 手紙・その他・使徒教父文書
(1)パウロの真筆の手紙/(2)パウロの名による手紙と公同書簡/(3)ヘブライ人への手紙とヨハネの黙示録/(4)使徒教父文書
§36 新約外典
(1)黙示文学/(2)天空の旅と幻視/(3)使徒言行録/(4)福音書/(5)手紙・講話/(6)詩歌

3 グノーシス主義文書
あとがき

凡例
聖書の文書名と略号表
◆旧約聖書
創「創世記」
王上「列王記上」
コヘ「コヘレトの言葉」
出「出エジプト記」
王下「列王記下」
雅「雅歌」
レビ「レビ記」
代上「歴代誌上」
イザ「イザヤ書」
ミカ「ミカ書」
民「民数記」
代下「歴代誌下」
エレ「エレミヤ書」
ナホ「ナホム所」
申「申命記」
エズ「エズラ記」
哀「哀歌」
ハバ「ハバクク書」
ヨシ「ヨシュア記」
ネへ「ネヘミヤ記」
エゼ「エゼキエル書」
ゼファ「ゼファニヤ書」
士「士師記」
エス「エステル記」
ダニ「ダニエル書」
ハガ「ハガイ書」
ルツ「ルツ記」
ヨブ「ヨブ記」
ホセ「ホセア書」
ゼカ「ゼカリヤ書」
サム上「サムエル記上」
詩「詩編」
ヨエ「ヨエル書」
マラ「マラキ書」
サム下「サムエル記下」
箴「箴言」
アモ「アモス書」

◆新約聖書
マタイ福音書 マタ「マタイによる福音書」
マルコ福音書 マコ「マルコによる福音書」
ルカ福音書 ルカ「ルカによる福音書」
ヨハネ福音書 ヨハ「ヨハネによる福音書」
使「使徒言行録」
ロマ「ローマの信徒への手紙」
一コリ「コリントの信徒への手紙一」
ニコリ「コリントの信徒への手紙二」
ガラ「ガラテヤの信徒への手紙」
エフェ「エフェソの信徒への手紙」
フィリ「フィリピの信徒への手紙」
コロ「コロサイの信徒への手紙」
一テサ「テサロニケの信徒への手紙一」
ニテサ「テサロニケの信徒への手紙二」
テモ「テモテへの手紙」
ニテモ「テモテへの手紙二」
テト「テトスへの手紙」
フィレ「フィレモンへの手紙」
ヘブ「ヘブライ人への手紙」
ヤコ「ヤコブの手紙」
一ペト「ペトロの手紙一」
二ペト「ペトロの手紙二」
一ヨハ「ヨハネの手紙一」
二ヨハ「ヨハネの手紙二」
三ヨハ「ヨハネの手紙三」
ユダ「ユダの手紙」
黙「ヨハネの黙示録」

章節区分について

個々の聖書箇所は、たとえば「創世記一章1節」という具合に、章と節で表記することが慣例になっている。これを略記する場合、本書では章に漢数字、節にアラビア数字を当てて、「創一1」のように表記する。
また、ある章から比較的まとまった分量を引用する場合には、節番号を上付きのアラビア数字で表記する。たとえば「また、あなたがたも聞いている通り」とあれば、3節がそこから始まることを意味している。
福音書の箇所表記で、たとえば「ルカ一二22-28/マタイ六25-30」とあれば、二つの箇所が同じ内容で並行していることを表す(並行記事)。

引用文の翻訳について

本書が旧約および新約聖書から行う翻訳は、おもに日本聖書協会から刊行されている『新共同訳 聖書』(一九八七年)と、岩波書店から刊行されている『旧約聖書』(二〇〇四/五年)および『新約聖書』(二○○四年)を参照しながら、そのつどの判断で必要に応じて著者自身による変更を加えたものである。したがって、私訳と考えていただいて結構である。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP

はじめに

聖書への招待

よく「聖書は世界最大のベストセラー」と呼ばれる。おそらく統計上もそのとおりであろう。初めから私事にわたって恐縮だが、私がその聖書を初めて紐解いたのはいまから四五年前、大学生になって新たな知識欲に燃えていた時だった。前もってどこかで聞きかじっていた個々のエピソードや記事に出会うと、たしかにほっとして、その面白さを再発見したことも少なくなかった。
しかし、聖書全体となると、そのおそろしいまでの読みづらさに正直仰天した。大学在学中の夏休みを一回か二回費やして、全体を通読することに挑んでもみたが、読後感はまるでちんぷんかんぷん、まとまったイメージはまったく結べなかった。道筋がまったく見えない混沌の只中に置き去りにされて、ほとんど茫然自失であった。その後現在まで、当然ながら聖書以外にも大小の書物の読書体験はいろいろある。しかし、読後にあの時以上の方向喪失を覚えたことはない。

その体験が一つのきっかけになって、その後私は聖書を専門的に研究する道に進んだ。主たる研究対象は新約聖書とその周辺の文書で、歴史的に言えば、原始キリスト教史および紀元後四世紀までの初期キリスト教史である。しかし、その原始キリスト教は突如として虚空から出現したわけではない。その背後には、気が遠くなるようなユダヤ教の長い歴史がある。そのため、そのユダヤ教が「聖書」と呼ぶもの――つまり、やがてキリスト教がもらい受けてそう呼ぶことになった「旧約聖書」(以下、本書では便宜上の理由から、終始この呼び方で統一させていただく)――に対しても、必要な範囲で目配りをしてきたつもりである。やがて専門的な研究と並行して、キリスト教主義の大学はもちろん、それ以外のいろいろな教育機関でも教壇に立って、「聖書入門」あるいは「キリスト教概論」などの授業を行うようになり、通算三〇年になる。

聖書を専門的な研究の対象にまでしたということは、あれほど読みづらかった聖書に私はいつの間にか、それだけの面白さを感じるようになっていたということである。そうでなければ、大の大人が一回限りの生涯の大半をそれに費やすはずがない。しかし、ようやく最近になって、一つの反省がくりかえし私の胸を過るようになった。ひょっとして教室での私は、いま生まれて初めて聖書を読もうとしている者も少なくない学生たちに向かって、あまりにも性急に、あまりにも多く、専門的研究から見えてくる聖書の面白さばかりを語ってきたのではなかろうか。少なくとも、自分自身が同じ年頃で初めて聖書を通読した時の、あの茫然自失と方向喪失を忘れていたのではないか。教室の学生たちに限らず、いま初めて聖書を自分の手に取って読もうとしている人々が感じるに違いない聖書の「読みづらさ」を、もっと丁寧に解きほぐす努力が必要なのではないか。
では、なぜ聖書はそこまで読みづらいのか。いまの私に思い当たる理由は、大きく三つある。

聖書の読みづらさ 1

第一の理由は、聖書全体が単独でそれを通読して読解しようとする読者にはきわめて不親切な書物だということである。
旧約聖書は創世記から始まって列王記まで、ユダヤ教の祖先である古代イスラエル民族がたどった歴史をまず物語る。その後は詩編とヨブ記などを経て、大小さまざまな預言者の個人名がついた文書(預言書)が続き、全体で合計三九の文書から成っている。ユダヤ教が最終的にその三九文書に限定して自分たちの規準的な聖文書、すなわち「正典」としたのは、ようやく紀元後一世紀末のことであった。キリスト教はその後の紀元四世紀の半ばまでに、ほぼ同じ範囲の文書を「旧約聖書」として受け入れた。しかし、その配列順はユダヤ教の正典とは大きく異なったまま現在に至っている。ユダヤ教もキリスト教も正典の三九文書をそれぞれの考える配列順で公の礼拝の場で用いてきたのである。

新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書から始まって、使徒言行録を経て「~の手紙」と呼ばれる二一の文書を経て、最後はヨハネの黙示録で終わる。その文書数は合計二七である。この文書数をもって正典「新約聖書」とすることが最終的に確定されたのは、「旧約聖書」の受け入れと同じ時代であった。ただし、正典文書の配列順については、その時にも確定には至らなかった。ここでも文書の配列順はキリスト教会の礼拝の場での朗読と密接に関係していたのである。
そういうわけで、旧約聖書も新約聖書も、読者が書斎でただ一人、初めから終りまでを通読するとは、予想も期待もしていないのである。ところが、聖書は世界最大のベストセラー。わが国でも全国津々浦々、ある程度の規模の書店ならばどこでも手に入る。以上のような事情を知らない善意の読者は、当然ながら、印刷された目次に沿って読むべきものと信じて疑わない。労苦を惜しまず通読したとしても、その結果は目に見えている。かつての私自身のように、茫然自失と方向喪失である。

聖書の読みづらさ 2

読みづらさの第二の理由は、聖書では原則としていつも、神を主語として話が進むことである。
話には必ず語り手がいるはずである。その語り手は人間である。ところが、聖書の語り手は多くの場合、話の背後に隠れていて、表面には姿を現さない。その結果、読者はいつ、どこで、誰が、何のために語った(あるいは、書いた)のかがわからないまま、話の表面だけをたどっていく。神の行動に筋が通っている間はそれでも問題はない。しかし、それも長くは続かない。遅かれ早かれ、神の言動も自己矛盾を起こすことになって、善意の読者には「神は勝手だ」と感じられ、こんな神とは付き合っていられないということになりかねない。

この印象はとくに、旧約聖書を通読する時に強いはずである。それも無理はない。旧約聖書の三九文書は、たしかに正典として確定されたのは、前述のように紀元後一世紀のことであるが、それぞれの文書は紀元前の数百年にわたるイスラエル民族とユダヤ教の変転きわまりない歴史のさまざまな局面で書き下ろされたのである。もっと言えば、そこにはイスラエル民族がやっと先史時代の暗黒から脱出して歴史時代の光の下に現れ始めたころからの太古の伝説(アブラハム、イサク、ヤコブ伝說他)も書きとめられているのである。そのような悠久の歴史の中で、人間と神の間の関係、あるいは人間が神を経験する仕方が変化しないということはありえない。この変化を考慮せずには、旧約聖書は通読も読解もできない。

この事情は新約聖書についても、原則として違いはない。どの文書の語り手も自分を主語にして自分の経験について語ろうとはしない。あくまでも神、あるいは神の子イエス・キリストを主語として、両者の行動について語りたいのである。マルコ福音書八章には、ペトロが「神のことを思わず、人間のことを思っている」として、イエスに叱責される場面がある(3-8節)。イエスは自分たち一行がいよいよエルサレムに上っていくに当たり、ペトロがそこで善からぬことが起きるのでないかと怖がっているのを見抜いて、そう叱責している。「人間のことを思っている」とは、そういう意味である。
しかし、われわれが聖書を読むに当たって大事なのは、そのように怖がったペトロという「人間のことを思う」視点なのである。そんな読み方をしたら、イエスに叱られるのではないかなどと幼稚な心配をしてはならない。旧約聖書でも新約聖書でも、表面の話だけに引きずられることをやめて、話の背後に隠れている語り手が人間として経てきたさまざまな経験に肉薄すること、文字どおり「人間のことを思う」ことがぜひとも必要である。しかし、初読者にとって、この肉薄は専門的な研究の助けなしにはほとんど不可能に近い。

聖書の読みづらさ 3

読みづらさの第三の理由は、キリスト教会の伝統的で規範的な読み方が一般の読者にまで意識的あるいは無意識的に及ぼす拘束である。
すでに新約聖書が書き下ろされた時点から、旧約聖書をイエス・キリストの生涯とその出来事に対する「予言」として読む解釈が始まっている。それによれば、神はイエス・キリストの誕生、一つ一つの言動、そして最期の運命まで、すでに旧約聖書のさまざまな箇所で予告していた。そして、それらをすべてそのとおり実現させたのである。あるいは、旧約聖書の中で語られる出来事は「予型」であって、やがてイエス・キリストの生涯の出来事として到来する「本体」を先取りするものだったとする解釈もすでに行われている。

旧約聖書に対するこの読み方は新約聖書の中に無数に現れる。キリスト教会の伝統的で規範的な読み方も当然それに準じている。そのために、旧約聖書をそれ自体として読もうという意識が容易に後退してしまう。すでに述べたように、旧約聖書はもともとユダヤ教の正典であった。ユダヤ教から見ればキリスト教会のそのような読み方はあまりに身勝手な読み方である、ということが読者に意識されることは稀である。

キリスト教会の伝統的で規範的な読み方では、旧約聖書と新約聖書は一体のものとして読まれる。それどころか、一字一句が霊感によって書かれたと考える立場(逐語霊感說)では聖書全体が無謬の書とされる。すでにふれたような神の言動の自己矛盾(「神は勝手だ」)もさまざまな論理を駆使して、破れなく首尾一貫した神の行動計画の中に回収されてしまう。そこまでは行かない伝統的・規範的な読み方の場合にも、詳しくは該当する箇所で述べるように、一定の思考の枠組みが、言わば「基本文法」として存在していて、聖書全体が終始その「基本文法」から解釈される。そこでは旧約聖書と新約聖書のそれぞれの文書は、多かれ少なかれ相互に調和的に読まれる。

わが国において、このような伝統的・規範的な読み方がキリスト教徒はもちろんのこと、そうではない読者の上にも及ぼしている影響には、想像以上に大きなものがある。聖書を自分の責任で自主的に読むことに対して、ほとんど無意識のうちに、聖書は教会のもの、勝手な読み方はできない、まずは教会での読み方を知らねばならないのではないか、という自己規制が働いてしまうのである。
そのうえ、ひと口にキリスト教会と言っても実に多種多様な教派があって、部外者にはわけがわからない。なかには見るからに怪しげで、一度足を踏み入れたら、出てこられなくなりそうなものもある。さて、どうしてよいのかわからない、というのが大方の実情ではないか。そこからは密かな反撥が生じてきても不思議ではない。

自主独立で読む

本書は読者をあらためて伝統的・規範的な読み方へ導こうとするものでは決してない。むしろ、いま述べたような自己規制から解き放って、それぞれ自主的に聖書を読むように招待するものである。自主的な読み方が最初に目指すべき目標は、旧約聖書と新約聖書の書き手たちがそれぞれの経験から、神、人間、世界、歴史について語っていることをまず「理解」することである。
旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれている。私たちはどちらも複数ある日本語訳でたやすく読むことができる。しかし、すでに述べたような三つの読みづらさにまとわれているかぎり、日本語訳の聖書も依然として言わば「未知の外国語」で書かれているようなものである。

英語のことわざで「これはギリシア語だ。とても読めない。」(It is Greek. It can not be read.)と言えば、「まったく意味のわからない言葉で、ちんぷんかんぷんだ」という意味である。聖書でどれほどよいことが言われていても、それが意味のわからない「未知の外国語」で言われていたのでは、読者はちんぷんかんぷん、理解することができない。理解していないことに対しては、賛成も反対も、同意も拒絶もありえない。
私は本書を読んで下さる方々が、聖書の言わんとすることをまず理解した上で、一つでも多くの点でそれに共感されるようになることを願っている。しかし、その共感とは、聖書の一つ一つの文章や記事をそのまま真理として受け取ることではない。まして、特定の教派的な読み方に賛成することでもない。そうではなくて、読者が聖書を読んで自分自身と世界を新しく発見し直す出来事(P・リクール)のことである。

私自身の経験

私自身には、くりかえし思い出されるそのような出来事が二つある。そのどちらも、それまで何度読んでもさっぱり意味のわからなかった聖書の箇所が、日常生活のふとした瞬間に、予期せぬ仕方で、「わかった」と思えた出来事である。
一つはマタイ福音書五章33-37節である。マタイ福音書の言う「山上の垂訓」(五十七章)の一部である。そこでイエスは、次のように語っている。

また、あなたがたも聞いている通り、昔の人は「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と言われている。しかし、この私はあなたがたに言う。一切誓うな。天にかけても誓うな。そこは神の玉座だからである。地にかけても誓うな。そこは神の足台であるから。エルサレムにかけても誓うな。そこは大いなる王(神)の都だからである。また、あなたの頭にかけても誓うな。あなたは一本の髪の毛すら白くも黒くもできないからである。あなたがたは「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。これ以上のことは悪しき者(サタン)からくるのである。
その時の私は下宿の小さな部屋に閉じこもって、大学の卒業論文にかかりきりだった。当時(一九六七年)は昨今とは対照的に、右肩上がりの経済の高度成長が始まった頃で、大学生の就職も売り手市場だった。しかし、卒業後は企業に就職しようと考えていた私は不安だった。就職活動ほど、学生が他者による自己評価と自分による自己評価の一致と不一致に敏感になる時期はないであろう。目の前には未知の実社会が扉を開けて待ち構えている。いままで毎日が自分の自由になる時間だと信じて疑わずに生活してきた学生にとって、突如、明日からの未来がもはや自分の手の内にはなく、何かつかみどころがないほど巨大な他者の意志によって左右されることが感じ取られる。そう感じれば感じるほど、少しでも自分の未来を確保して、それを設計したくなる。それは自分が自分に立てる「誓い」である。

ところが、イエスは「一切誓うな」と言う。なぜイエスはそう断言できたのか。その根拠はその時の私にはわからなかった。しかし、イエスが未来を自分とはまったく違う仕方で見ていることは鮮明に了解された。そう了解された時に私が覚えた深い安堵感は、うまく言葉に直せないまま、いまなお忘れられない経験として私の中に生きている。

もう一つは創世記三章1-9節である。世界中の人々が、読んだことはなくても知っているほど有名な場面である。
神ヤハウェが造った野のあらゆる獣のなかで、蛇が最も賢かった。蛇は女に言った、「園のどの木からも取って食べてはならない、などと神がおっしゃったとは」。女は蛇に言った、「私たちは園のどの木の実でも食べてよいのです。ただ、園の中央にある木の実からは食べてはならない。これに触れてもならない、死ぬといけないから、と神は言われました」。蛇は女に言った、「けっして死ぬことはない。実は神はあなたがたがそれを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなたがたが神のように善悪を知るようになることをご存知なのだ」。

女が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目の欲を誘っていた。その木はまた人を聡明にしてくれそうであった。そこで、彼女はその実を取って食べ、彼女と共にいた男にも与えた。彼も食べた。「すると二人の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつなぎ合わせて腰を覆った。
彼らはその日、風の吹くころ、園を往き来する神ヤハウェの足音を聞いた。アダムとその妻は神ヤハウェの顔を避けて園の木々の間に身を隠した。神ヤハウェは、アダムに呼びかけて言った、「おまえはどこにいるのか」。
その時の私は、あるキリスト教主義の女子大学で聖書入門の講義中だった。「みなさん、キリスト教では、アダムとエバが最初に犯した罪が先祖代々すべての人間に受け継がれてきていると言われるのを、一度は聞いたことがあるでしょう。それはこの場面のことですよ」。そんな紋切り型のことを言いながら、私の目は突然、最後の「おまえはどこにいるのか」という神の言葉に釘付けになった。そして記憶ははるか昔、小学校の低学年の頃の自分にフラッシュバックした。

その頃はそもそもテレビ放送というものがまだ存在しなかった。少年たちの楽しみは手塚治虫の「少年アトム」や横山光輝の「鉄人28号」などのマンガを別とすれば、毎日夕方、ラジオで流される空想時代劇番組だった。「笛吹き童子」や「紅孔雀」などが記憶に残っている。免許皆伝の少年剣士が次々と現れる悪役や怪物をなぎ倒して、見事与えられた使命を達成するのである。
時代は、テレビがまだない代わりに劇場映画の全盛期だった。ラジオ放送が完結すると、ただちに映画化されて、全国津々浦々の映画館で封切りとなった。そのたびに私は親に小遣いをせびって、夢中になって友達とそれを見に通った。
映画館から家に戻ると、さっそく野原で仲間といっしょに映画を真似たチャンバラごっことなる。そのためにはどうしても木か竹の刀が要る。私もある日、炊事用の薪のなかから適当な木材を見つけてきて、切れないナイフで苦労しながら一本の刀を削り出した。

そのときふと見ると、隣りの家の小さな庭先にダリヤの花が咲き誇っていた。その長くて細い茎はいかにも試し切りにはもってこいで、「目の欲を誘っていた」。次の瞬間、私は駆け寄るが早いか、出来たばかりの刀でその茎を横に払った。咲き誇っていた花はものの見事に切断されて宙を飛び、数メートル先に着地した。着地するのを見た瞬間、私はワナワナと震え始めた。気づいてみればそのダリヤは、平素私を可愛がってくれていた隣りのおじさんが大事に育てていたものだった。私は刀を放り出すと、一目散で走って家に帰り、布団の詰まった押し入れに身を隠した。布団の手前では、襖を開ければすぐに見つかってしまう。布団の向こう側、押し入れの一番奥の板壁との間の暗がりが唯一の安全地帯と思われた。

その暗がりの中で、当時聖書とは無縁の私が「神さま」に願ったのはただ一つ、時間をたった五分でいいから逆戻りさせてください、ということだった。そうすれば、すべてが元通りになる! もちろん、それはかなわなかった。どれほど私は自分を嫌悪したことか。所詮、すべては仲間も見ていたことである。やがて夕方の買い物で留守だった母親が戻ってきた。ただちに事情を聞かされたのであろう、「タカシ、タカシ、おまえはどこにいるの」と、私を探しまわる声が押し入れの奥にまで聞こえてきた。女子大の講義中に私が突然フラッシュバックしたのは、母親のこの声だった。それは創世記三章9節で「おまえはどこにいるのか」とアダムを探す神の声そのものだった。「園の木々の間に身を隠した」アダムとは、あの時押し入れの奥の暗がりに隠れていた自分のことではないのか。

その時、はじめて創世記三章が私にとって単なる神話ではなくなった。逆に、何十年も前のダリヤ事件とその時の自分の行動の意味が新たに了解された。本当のゆるしはいくら自分で自分を嫌悪しても得られるものではない。それは隣りのおじさんのゆるしとして、自分の外側から与えられるしかないものである。そのことも、その時初めて了解した。よく知られたポップソングの一節に、「青春時代の真ん中は、胸に棘さすことばかり」とある。もちろん、「胸に棘さす」体験は青春時代だけに限られるものではない。貴重なのは、それがやがて得がたい経験として還ってくることである。
ここに紹介したのはあくまで私の個人的な経験である。しかし、聖書の前で自己と世界を新しく了解することは、誰にでも、どこでも起きうるし、起きて然るべきことである。それなしでは、伝統的・規範的な聖書の読み方と特定の信仰箇条(教義)への同意という意味での「信仰」も、無意味な「力わざ」にとどまり、決して長続きしないだろう。
真の経験は遅れてやってくる。それを慌てず静かに待つことが重要である。本書がそのために、聖書の読みづらさを超える手引きとなるならば幸いである。

大貫 隆 (著)
出版社 : 岩波書店 (2010/2/20)、出典:出版社HP