発酵学の革命: マイヤーホッフと酒の旅 (学術選書)

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アルコール発酵の歴史を学ぶ

マイヤーホッフは、酵母菌がアルコールを生み出す過程を解明し、謎だった微生物の働きを明かして発酵学に革命をもたらしたことから「アルコール発酵の父」と呼ばれています。本書は、マイヤーホッフのアルコール発酵研究史を振り返りながら最新の研究動向を紹介していきます。

木村 光 (著)
出版社 : 京都大学学術出版会 (2020/7/1)、出典:出版社HP

目次

口絵
はじめに マイヤーホッフをご存知ですか?

第Ⅰ部 マイヤーホッフをめぐる旅

第Ⅰ章 アルコール発酵解明の歴史
「酵母」を生物体とみなす新しい立場
パスツールの登場
パスツールの偉大さ(身体的ハンディキャップと有益性)
無細胞抽出液によるアルコール発酵の発見

第Ⅱ章 オットー・マイヤーホッフの時代
マイヤーホッフの生涯
デンマークからの手紙
ヒトラーによるユダヤ人の弾圧
ドイツからフランスへパリからマルセイユへ
ジャン・ロッシュの支援で出国ビザを獲得
マイヤーホッフの晩年(心臓発作)

第Ⅲ章 発酵研究史とマイヤーホッフ
発酵と解糖(グリコリシス)
乳酸学説(その始まりとマイヤーホッフの解糖系の研究)
エムデンーマイヤーホッフ経路
エムデンーマイヤーホッフ経路における糖のリン酸化
経路における三炭糖リン酸の生成
経路における三炭糖リン酸の酸化
マイヤーホッフの「乳酸学説」の進化
マイヤーホッフ研究室の空気

第Ⅳ章 マイヤーホッフをめぐる旅
マイヤーホッフの長女エマーソン夫人に会う
マイヤーホッフの高弟,ナハマンゾーン教授
リップマン教授を訪問
マイヤーホッフが心臓発作で倒れた状況をグレヴィッチ夫人から聞く
カナダのハリファックスに住むマイヤーホッフの長男を訪問
マイヤーホッフの次男ウォーター・マイヤーホッフ教授に会う
ドイツのハイデルベルグに作られた“マイヤーホッフ通”と“哲学の道”
マイヤーホッフが滞在したバニュルスの海洋研究所を訪問
ルヴォフの存在が明らかになりマイヤーホッフの滞在につながる可能性が出て来た
ドイツのダーレムでマイヤーホッフの記録を永久保存する事が決定
マルセイユでホテル・スプランディッドを探す
マイヤーホッフが一時拘束されていたミルズ強制収容所を訪問
ホテル・スプランディッドを確かめに行く
ヴァリアン・M・フライとは何者か
当時の社会情勢について
マイヤーホッフのピレネー越えに関する問題点の発見

第Ⅴ章 マイヤーホッフの同時代人
ジャン・ロッシュ(Jean Roche, 1901-1992) とは何者か
ロッシュの業績
ロッシュの手紙
ピレネー山超えで無国籍者の表明を拒んでパスポートが期限切れ
脱出後にロッシュへ打った電報がフランス警察の手に
ロッシュの手紙を見た息子のウォーターの納得(国境越えの真相)
ワールブルグとその研究室
エムデンとマイヤーホッフの関係
マイヤーホッフ研究室のカール・ローマン
マイヤーホッフの批判者カール・マイヤー教授に会えず
マイヤーからの手紙(1977,11,4)
ブラシュコからの手紙(1977,12,9)
マイヤーとマイヤーホッフの関係に関する筆者の見解
クーンはナチスへの協力者か

第Ⅵ章 筆者らの微生物研究
概觀
核酸関連物質から有用物質の生産
酵母による発酵から“遺伝子”の研究へ大きく舵を切った
解糖系メチルグリオキサール経路の研究

第Ⅱ部 旅の記憶――世界の酒・食・文化に触れる
ワインと料理をめぐるバイオの世界旅
カナダのバイオ会議後, アメリカ・ナパバレーへ(1980,07,18-08,15)
ドイツの町々(1984,09,08-25)
ヨーロッパのクリスマス (1989,12,10-27)
パスツールの故郷, ドールとアルボア(1990,08, 18-)
年末のロンドンで国際シンポジウム (1992,12,12-26)
スペインのヘレスとカディス(1993,06,20-)

あとがき

オットー・マイヤーホッフの年譜
索引

コラム
天才化学者ラボアジェとギロチン
物質の光学活性(キラリティ)
ノーベル賞は仮説に対して与えられるか
歴史的ホテル・スプランディッド
ウズホールの海洋生物研究所
ノイベルグの娘イレーヌ・フォレスト博士に会う
アメリカのベンチャー企業と日本の企業

木村 光 (著)
出版社 : 京都大学学術出版会 (2020/7/1)、出典:出版社HP

はじめに
マイヤーホッフをご存知ですか?

「アルコール発酵の研究は生命科学研究の始まり」―と私たち研究者の間では考えられている.

アルコール発酵は先史時代から人類が利用してきた自然現象である.エジプトの壁画を見ても人々が,酒やパンを作る状況が描かれている.

人々はブドウの搾り汁を放置しておくと泡が盛んに放出され,液は沸騰した様になり葡萄酒(ワイン)が仕上がってくる事を知っていたところがその原因は不明なまま,本体は沸騰(沸き立つもの)を意味するFerment(発酵するものの意)と呼ばれていた.

ワインやビール,そして日本酒などのアルコール飲料は,それぞれの民族の文化の一つとして古代から事ある毎に飲まれてきたが,これらのアルコール飲料がどうして造られるかという事は19世紀の半ばまで全く分かっていなかった,ワインがブドウから作られ,ビールは大麦から,日本酒(清酒)がコメから作られる事は分かっていたが,それらの原料がどの様な経過を経て,貴重なワインやビール,そして日本酒(清酒)になるのかという過程が分からなかったのである.

そのため1800年にフランス学士院は,重量1kgある金のメダルを賞として懸賞課題「動植物性諸性質の中で酵母として作用する物質と,それによって発酵を受ける物質とが区別される特徴は何か(ブドウの搾り汁がどうして,アルコールと炭酸ガスになるか)」を公募した,この懸賞に刺激されて,発酵に関する研究が行なり,科学者による発酵の原因に関する論文が相次いで発表されるようになった.

19世紀の半ばになって,三人の生物学の巨人が現れたパスツール(1822-95),メンデル(1822-84),それにダーウィーン(1809-82)である.

パスツールは言った.「発酵は生命と相関する現象」である.これに対してリービッヒ(1803-73)らは,それは単なる触媒作用による化学反応であるとした.

パスツールが亡くなって2年後,1897年にブフナー(1860-1917)によって,酵母菌の細胞を磨り潰して抽出した無細胞抽出液によってもアルコール発酵が起こる事が判明し,彼はそれを「チマーゼ」と命名した.しかし,それは単一の酵素ではなく,20種類もの酵素を含む酵素群である事が,ポーランドのA.ウロブルウスキーによって証明された(1901).

20世紀に入って,それらの酵素群の解析研究が行われ,基質のブドウ糖(=グルコース)がリン酸化されて代謝されていくことが明らかになった.1930年代になって,エムデンとマイヤーホッフらがその全体像を解明し,これが我々人間(ヒト)をはじめとする高等動物の筋肉細胞がやっているエネルギー獲得手段と同じである事が明らかになった.この二人の功績によって,その過程は「エムデンーマイヤーホッフ経路」と呼ばれる様になった.

特にマイヤーホッフはカント派の哲学者としての視点から,酵母菌がアルコールを造るのは,我々動物の筋肉がグリコーゲンからエネルギーを得るのと同様の生物的な意義を持つ事を明らかにした.換言すれば酵母菌は我々人間にアルコールを提供するために活動しているのではなく,彼ら自身が生きていくためにアルコールを造っているのであって,我々はそれを有難く横取りしている事を明らかにした.こうして,それまで知られていなかった微生物の働きが注目されるようになってきたのである.

一般に我々が知っている微生物としては酵母菌と大腸菌があるが,前者は我々人間と同様な高等細胞(真核細胞)であり,後者は下等な原核細胞あるいは前核細胞と呼ばれるものである.両者の違いは大切な遺伝物質(核酸DNA)が細胞内で核膜に覆われて保護されているかそのまま細胞内に広がっているかの差である.その他,前者はミトコンドリアという呼吸器官がよく発達しているとか,更にそれが酸素ガスの有無(呼吸)で,エネルギー獲得の効率化が図られているなどの進化の効率化が伴っている.

その後,大腸菌や酵母を中心とする微生物の研究によって,遺伝子の構造が決定され,遺伝子情報が解読され,細胞の持つあらゆる調節機能が解明されてきた.今も分子レベルにおける細胞の制御機構の解明研究が行われている.それと関連して,植物細胞,動物細胞の遺伝子解析も進められ,我々ヒトを含む地球上のあらゆる生物が共通の遺伝子暗号を使って親の遺伝子情報を子孫に伝えて生存している事も明らかになった.すなわち,生物の遺伝や進化の研究までが全て微生物研究に基づいて行われて来たということになる.最近の事例では,新人類のネアンデルタール人が私たち人類に非常に近いことが遺伝子の研究から分かってきた,

これが,筆者が冒頭に掲げた「アルコール発酵の研究は生命科学研究の始まり」になった,という意味である.

1828年に発酵式として,

C6H12O6=2C2H6O+2CO2
(ブドウ糖)(アルコール)(炭酸ガス)

が提出されたが,発酵の真相の解明はなかなか進まなかった.その理由は,肉眼では見えない微生物(酵母菌)が関与していたからである.

地球上にはいろいろなアルコール飲料があるが,これらの酒類に共通するものは,それらの原料に含まれる糖類(ブドウ糖=グルコース)が微生物の作用によってアルコール飲料になるということである.ブドウはそのものずばりのブドウ糖を含んでいるが,大麦もコメもデンプン粒(澱粉粒)としてブドウ糖を含んでいるので,大麦澱粉は麦芽の酵素(アミラーゼ=澱粉分解酵素)によってブドウ糖になり,コメ澱粉は麹カビの酵素(アミラーゼ)によってブドウ糖になるのである.そうしてできたブドウ糖が酵母によってアルコール飲料に変換されるのである.アルコール発酵の歴史を学ぶ中で,筆者は,その中心機構が先述のとおり「エムデンーマイヤーホッフ経路」と呼ばれるもので,この経路によって糖類がアルコールと炭酸ガスに変換される事を知った.その生成機構を明らかにしたのがオットー・マイヤーホッフ(Otto Fritz Meyerhof, 1884-1951) (写真1)である.

筆者がマイヤーホッフに興味を持った理由はいくつかあるが,まず彼がカント派の哲学者だった事である.筆者は自然科学を学ぶものは,哲学的な思考を持つことが重要であると考えていた.欧米では学生にギリシャ哲学以来の思考の流れを必ず教育するといわれている.それに対して日本では,開国以来,欧米の技術を学ぶことに重点が置かれ,思想的な面はほとんど教育されてこなかった.それは諸先輩の論文の読み方にも表れていて,まず,“Method and Material”を読むことが最重要だと言われ,それに対して“Introduction”とか“Discussion”は二の次にされてきた.確かに実験を始めるにはまず技術的な事を知る必要があるが,その研究がどの様な背景で,どのような考えで行われているのかという理屈が大切なのである.それなくしては独創的な研究の発展は出来ないからである.

マイヤーホッフは酵母によるアルコール発酵のメカニズム(機構)が,哺乳動物の筋肉内でグリコーゲンから乳酸が作られるメカニズムと類似の代謝過程であることを見抜いた.これは「生物学の斉一性」といわれるもので,生物間に共通のメカニズムがあることを示したものである.彼は生物の代謝過程が熱力学を基礎とした,化学反応によって営まれる事を確信し,それまでの生気論(生命は特別な存在であるとする見解)を退けた.この発見には彼が影響を受けたカントの先験的観念論が根底にあると思われる.つまり,発酵のメカニズムと動物の筋肉の代謝過程の類似を見抜いたのは,そうした先験的な直観が働いたと思われる.さらに,彼は自然科学的な方法では解析できない意思,感情などの心理的な問題があることも知っていた.

次いで筆者がマイヤーホッフに興味を持った第二の理由が,ユダヤ人の独創性という観点である.かつて,「世界は三人のユダヤ人によって,支配されている」といわれた.アインシュタイン(1879-1955,物理学),フロイド(1856-1939,心理学),それにマルクス(1818-1883,哲学,経済学)である.特に,ワイマール共和国時代(1919-1933)のドイツでの人口比は,ユダヤ人は,1%であったが,ノーベル賞受賞率では25%を占めていた.当時,筆者は「何が独創性を育むか」という問題に興味を持っていたので,ユダヤ人の独創性教育に関心があった.長年,流浪の異教徒として不安定な生活を強いられてきたユダヤ人にとって経済的に独立すること即ち金を握ることと高い教養を身につけることがどこへ移住しても生活の安定を得る基本条件であった.従って,彼らは高等教育機関が集中する都市で子弟の教育に投資した子供達は小さい時からタルムード(ユダヤ教の解説書)を学習する習慣があった.一方,ユダヤ人は昔から小売の露天商などになることを余儀なくされていたので,じっと座って,物事を深く考え抜く習慣を身に着けてきたと思われている.

ユダヤ人はフランス革命(1789年)によってはじめて民族として自由が与えられ,活躍の場を持てるようになった.彼らは都市の民で,商業,金融業,貿易業などに従事していたので,数学,法学,語学の知識が必要とされた.彼らは常に最新の情報を集め,政治経済の動きに敏感に反応した職業としては医者と弁護士が多く,1913年のフランクフルトの例では,医者の36%,弁護士の62.5%がユダヤ人だったといわれる.中にはロスチャイルドの様にフランクフルトのゲットーから身を起こし,銀行業で成功して,世界的な大富豪になった一族もいるが,多くは個人の学識や実力を基本として,大学教授や弁護士,それに研究者の職につく者がだんだん増えた.彼らは解放と共にドイツ社会に同化し,一人前のドイツ人として認められたいという願望のもとに物凄い努力をした.それは「欧米に追いつけ,追い越せ」と頑張った日本人の勤勉さにも通ずるものがあるユダヤ人が“We are both J” (Jewish and Japanese)というのも故無きにしも非ずである.

こうした長期間のユダヤ人の努力の結果,広範囲の分野でユダヤ人エリートが生み出された,ワイマール共和国時代はその爛熟期であった.それは先に示したノーベル賞の独占にも表れている.しかし,そのこと自体が,アーリア系ドイツ人の嫉妬と不安を醸し出し,それがナチスの台頭と反ユダヤ主義(アンチセミティズム=anti-Semitism)の拡大をもたらした.もちろん,政治的には第一次大戦後の膨大な賠償金とワイマール体制に対するドイツ国民の不満,経済的にはニューヨークに端を発する世界的な恐慌が根本にあったことはいうまでもないが,それらの社会不安をうまく利用したヒトラーが独裁制を確立していった.

マイヤーホッフがドイツ系ユダヤ人でヒトラー政権下のドイツで発酵の研究をつづけた事,1938年になって命からがらドイツを抜け出しパリ(フランス)に亡命した事,などを知る人は少ない.

アルコール発酵の過程の解明に偉大な業績を残したオットー・マイヤーホッフだが,世界中で酒を飲む人はごまんといるのに彼の名前を知らない人が多い.私自身,酒を愛する一人であることから,この状況を以前から残念に思っていた.日々口にする酒が微生物の生み出すものであり,なおかつそれが生命科学研究の始まりといえる.そしてその生成の秘密を明かした偉大なる人物が,マイヤーホッフである.酒と食を愛する同好の士にそのことを伝え,おおいに酒の肴にしてもらいたい……本書を著す動機の中心はここにある酒を愛する多くの人々には是非とも知ってもらいたいというのが筆者の思いで,ここにそれらの真相を明らかにする次第である.以下,本書の構成を紹介しよう.

まず第Ⅰ部の第Ⅰ章「アルコール発酵解明の歴史」では,古くからのアルコール発酵研究史を扱う,続く第Ⅱ章「オットー・マイヤーホッフの時代」においては,本書の主人公であるマイヤーホッフの人生を追い,第Ⅲ章「発酵研究史とマイヤーホッフ」で彼がいかに研究史にインパクトをもたらしたかを示そう.第Ⅳ章「マイヤーホッフをめぐる旅」は,筆者が大きな影響を受けたマイヤーホッフその人の事績を訪ねた旅の記録である.歴史の人となってしまったマイヤーホックを,その家族(彼には二男一女がいた)や弟子たちからの聞き取りによって立体的に蘇らせ,彼の発想の原点に迫ろうという試みだ.第Ⅴ章「マイヤーホッフの同時代人」では,彼と親交のあった(あるいはライバル関係にあった)人物群を紹介し,戦争で混乱する時代にも営々と培われた研究史を人物から照射したい.最後に第Ⅵ章「筆者らの微生物研究」において,最近の研究動向を紹介して,さらに深いアルコール発酵の世界に皆さんを導きたい.

第Ⅱ部は大きく趣向を変えて,酒と文化について筆者が経験してきた旅の記録をまとめた,国際学会などに出席の折は,筆者は極力街に出て,多くの文物を見,多くの食文化に触れてきた.酒を知ることは文化を知ることである.最近はどうにも研究室に閉じこもる傾向が強いようだが,一研究者がどのように世界を旅し世界を見たのか,個人の旅日記的記述ではあるが,それを残すことも後世の参考になるのではと思っている.

本書では以下,難解な化学理論や化学式も伴う箇所もあるが,できるだけ多くの読者に楽しんでいただけるよう平易な記述を心掛けた.マイヤーホッフをめぐる旅に,ぜひ多くの読者にご同行願いたい.

木村 光 (著)
出版社 : 京都大学学術出版会 (2020/7/1)、出典:出版社HP