暗号解読(上)(新潮文庫)

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暗号の歴史を平易なストーリー展開で追いかける

本書は、カエサル暗号から未来の量子暗号に到る暗号の進化史をわかりやすいストーリー展開で解説しています。暗号技術について古代ローマから現代までを追いかけ、難解な数学の内容をわかり易くドラマチックに読むことができます。暗号についての知見がなくても難なく読むことができ、初心者におすすめの一冊です。

サイモン シン (著) , Simon Singh (原著), 青木 薫 (翻訳)
出版社 : 新潮社 (2007/6/28) 、出典:出版社HP

私の母と父
サワラン・カウアとメーンガ・シンに捧ぐ

秘密を暴きたいという強い衝動は人間の本性に深く根ざしたものであり、それほど詮索好きではない人でも、これはあなただけに教えてやろうなどと言われれば胸が高鳴ることだろう。とはいえ、謎解きにかかわる職業に就けるのは幸運な人なのであって、大多数の人々は、娯楽用に作られたパズルを解くことでこの衝動をまぎらわせるしかない。探偵小説やクロスワード・パズルはそんな大多数のためにある。秘密の暗号を解読しようというのは、ごく少数の人たちなのだ。

ジョン・チャドウィック
『線文字Bの解読』

目次

はじめに

第I章 スコットランド女王メアリーの暗号
“秘密の書記法”の進化/アラビアの暗号解読者たち/暗号文の頻度分析/西洋のルネサンス/バビントン陰謀事件

第Ⅱ章 解読不能の暗号
ルイ十四世の大暗号と鉄仮面/ブラック・チェンバー/バベッジ対ヴィジュネル暗号/私事通信欄から埋蔵金まで

第Ⅲ章 暗号機の誕生
暗号の聖杯/暗号機の発達——暗号円盤からエニグマまで

第Ⅳ章 エニグマの解読
鳴かないガチョウたち/コードブックの奪取/匿名の暗号解読者たち

〈下巻〉

第V章 言葉の壁
失われた言語と古代文字の解読/線文字Bの/”つなぎ”音節/馬鹿げた脱線

第Ⅵ章 アリスとボブは鍵を公開する
神は愚か者に報いたまう/公開鍵暗号の誕生/最有力候補——素数/公開鍵暗号——もう一つの歴史

第Ⅶ章 プリティー・グッド・プライバシー
大衆のための暗号——か?/ジマーマンの名誉回復

第Ⅷ章 未来への量子ジャンプ
暗号解読の未来/量子暗号

付録 暗号に挑戦——一万ポンドへの十段階
補遺
謝辞
訳者あとがき
文庫版のための訳者あとがき—「史上最強の暗号」解説

サイモン シン (著) , Simon Singh (原著), 青木 薫 (翻訳)
出版社 : 新潮社 (2007/6/28) 、出典:出版社HP

はじめに

何千年もの昔から、王や女王や将軍たちは、国を治め、軍を動かすためには効率的な通信手段が不可欠であることを知っていた。それと同時に支配者たちは、メッセージが正当な受信者以外の人物の手に渡ったり、貴重な秘密がライバル国家に奪われたり、重要な情報が敵の軍隊に漏れたりすればどうなるかもよく理解していたのである。メッセージが敵の手に渡ったらどうなるか——その脅威が、彼らを暗号開発に駆り立てた。暗号とは、メッセージの外見を変えることにより、正当な受信者にしか読めないようにする方法のことである。

秘密の情報を守りたいという願望から、国家は暗号作成のための部局を設けた。暗号作成者の任務は、実地の使用に耐える優れた暗号を開発し、それによって通信の安全性を保証することである。しかしその一方で、敵の暗号解読者はそれらの暗号を解読し、秘密を手に入れようとしてきた。意味のない記号の中から、意味のある言葉を魔法のように引き出してみせる暗号解読者は、いわば言葉の錬金術師である。暗号の歴史は、暗号作成者と暗号解読者との何世紀にもわたる戦いの歴史であり、その戦いは、ときに歴史の流れを劇的に変えることにもなった知の軍拡競争なのである。

本書を執筆するにあたり、私は主として二つの目標を掲げた。第一の目標は、暗号の発展史を概観することである。暗号の発展史には、”進化”という言葉がぴったりとあてはまる。それというのも暗号の発展過程は、一種の生存競争と見ることができるからだ。暗号はたえず暗号解読者の攻撃にさらされてきた。暗号解読者が新兵器を開発して暗号の弱点を暴けば、その暗号はもはや役に立たない。その暗号は絶滅するか、あるいはより強力な暗号へと進化するしかない。進化した暗号はしばらくのあいだ生き延びるが、それも暗号解読者がその弱点を突き止めるまでのことである。このプロセスが繰り返されるのだ。そのありさまは、伝染性の細菌株が直面する状況によく似ている。細菌が生き延びるのは、その細菌の弱点を暴き、殺してしまうような抗生物質が発見されるまでのことである。細菌が生き延びて増え栄えるためには、なんとか進化して抗生物質を出し抜くしかない。次々と繰り出される新しい抗生物質に打ち勝って生き延びるためには、細菌はたえず進化しなければならないのである。

暗号作成者と暗号解読者とのたえざる戦いは、科学上の大きな進展を引き起こすことにもなった。暗号作成者は、メッセージを保護してくれる強力な暗号を作ろうと奮闘し、暗号解読者は、その暗号を解読する強力な方法を開発しようとしてきた。そして秘密を暴こうとする側も、秘密を守ろうとする側も、数学、言語学、情報理論、量子論と、幅広い領域の学問やテクノロジーを利用してきたのである。ひるがえって、暗号作成者と暗号解読者はこれらの学問領域を豊かにし、テクノロジーの発展を加速させた。この点でとくに注目すべきは、現代のコンピューターだろう。

歴史の節目というべきところで、暗号は重要な役割を演じてきた。暗号は戦争の勝敗を決し、王や女王に死をもたらしもした。そのおかげで本書では、暗号の進化論的発展の転回点を示すエピソードとして、政治的陰謀や生と死の物語を用いることができた。しかし暗号の歴史はあまりにも豊かで、私は多くの魅力的なエピソードを取りこぼさざるをえなかった。それはとりもなおさず、本書に書かれていることがすべてではないということでもある。面白いと感じたエピソードや、好きになった暗号作成者のことをもっと知りたいと思った読者は、ぜひ関連書籍を手にとってほしい。そうすれば、興味をもったテーマについてより詳しく学ぶことができるだろう。

本書の前半ではこのように、暗号の進化と、それが歴史に及ぼした影響について論じた。続く後半では、現代において、暗号は過去のどの時代にもまして重要になっていることを示そうと思う——それが本書の第二の目標である。いまや必需品となった暗号はしだいにその価値を高め、通信革命はわれわれの社会を変えつつある。それにともない、暗号化のプロセスは日常生活のなかでますます大きな役割を果たすようになってきた。今日、われわれのかける電話は通信衛星によって反射され、電子メールはいくつものコンピューターを介して送信されている。そしてそのどちらの通信形態も容易に傍受されうるため、われわれのプライバシーは危険にさらされているのである。また、インターネット商取引が活発になるにつれ、企業やその顧客を守る方策が求められている。暗号はわれわれのプライバシーを保護し、デジタル市場の成功を保証するための唯一の道なのである。暗号という名で呼ばれる秘密通信の技法は、”情報の時代”の錠前と鍵になってくれるだろう。

しかしながら、一般大衆のあいだで暗号の需要が高まることは、法執行および国家安全保障の立場とは相容れない側面をもっている。過去数十年にわたり、警察と情報機関はテロリストや組織犯罪の尻尾をつかまえるために盗聴を行ってきたが、最近開発された強力な暗号によって、盗聴の有効性が根底から揺るがされているのだ。現在、市民的自由の活動家たちは、われわれ一人一人のプライバシーを守るため、暗号の使用が認められるべきだと強く主張している。インターネット商取引を保護する必要に迫られている実業界もまた、強力な暗号を求めている。問題は、われわれがどちらにより大きな価値を置くかということだ——プライバシーの保護か、治安の維持か。それとも、この二つに折り合いをつける道があるのだろうか?

このように民間の活動に多大な影響を及ぼしている暗号だが、軍事上の重要性もまたいささかも減じてはいない。よく言われることだが、第一次世界大戦は化学者の戦争であり、第二次世界大戦は物理学者の戦争だった。それというのも、第一次世界大戦ではマスタードガスがはじめて使用され、第二次世界大戦では原子爆弾が炸裂したからである。同様に、第三次世界大戦が起こるとすれば、それは数学者の戦争になるだろうと言われている。なぜなら、戦争の次期兵器となるであろう情報を支配するのは、数学者だからである。数学者たちは過去においても暗号開発を担い、現在それらの暗号は軍事情報を保護するために使用されている。驚くにはあたらないが、それらの暗号を解読するという戦線においても、数学者たちは最前線に立っているのである。

暗号の進化と、それが歴史に及ぼした影響について述べる一方で、私はもう少し細い脇道にも踏み込んでみることにした。第V章では古代文字の解読を扱い、エジプトのヒエログリフやクレタの線文字Bなどを取り上げた。専門的なことを言えば、暗号とはメッセージの意味を故意に敵から隠すためのものである。それに対して古代文明の文書は、判読されないことを目的として書かれたわけではない。ただ単に、われわれがそれらの文字を読めなくなってしまったというだけなのだ。とはいえ、古文書の意味を解き明かすのに必要な技術は、暗号解読の技術と密接に関係している。私は、ジョン・チャドウィックによる「線文字Bの解読」を読み、古代地中海の文字がいかにして解読されたかを知って以来、その文字の解読をやってのけた男女の知的偉業に強い感銘を受けてきた。彼らのおかげで、われわれは古代人の文明、宗教、そして日常の暮らしを知ることができるようになったのである。

さてここで、本書のタイトルについてひとこと釈明させていただこうと思う。本書『暗号解読(原題The Code Book)』は、”コード(code)”だけを扱った本ではない。コードというのは暗号のきわめて特殊な一手法にすぎず、そのタイプの暗号はここ数百年のあいだにしだいに使用されなくなってきた。コードは、ひとつの単語またはひとまとまりのフレーズを、単語や数や記号で置き換えたものである。たとえばスパイのコードネームは、その人物の素性を隠すために本名の代わりに使用される言葉である。また、Attack at dawn(夜明けに攻撃せよ)というフレーズを、Jupiter(ジュピター)というコードに置き換えて戦場の司令官に送るような場合、使用するコードについて軍の総司令部と戦場の司令官とがあらかじめ合意していれば、正当な受信者である司令官にとってJupiterの意味は明らかであるが、それを傍受した敵にとっては何の意味もないことになる。暗号にはコードの他にサイファー(cipher)と呼ばれるものがある。サイファーは、単語全体ではなく個々の文字を置き換えの対象とするため、コードよりも基本的なレベルの暗号といえる。いま仮に、フレーズに含まれる個々の文字を、アルファベットでその文字の次に来る文字で置き換えるとしよう。つまりAはBで、BはCで置き換えられるわけである。このときAttack at dawnは、Buubdl buebxoになる。サイファーは暗号のなかでも重要な手法なので、本来ならば本書のタイトルは、『ザ・コード・アンド・サイファー・ブック(The Code and Cipher Book)』とでもすべきだったろう。しかし私は、正確さを捨てて簡潔さを取ることにした。

暗号の専門用語は、必要に応じて本文中に定義しておいた。本書の言葉遣いはおおむねそれらの定義にしたがったが、専門的な見地からはいくらか不正確な言葉の使い方をしたところもある。一例として、サイファーの解読に取り組む人たちのことを、私はしばしば「コードブレーカー」と呼んだが、正確には「サイファーブレーカー」(訳注 訳文ではどちらも「暗号解読者」とした)と呼ぶべきだったろう。しかし文脈から判断すれば、誤解の余地はないはずである。そもそも暗号の専門用語には、一見して意味のわかるものが多い。たとえば”平文”は暗号化する前のテキスト、”暗号文”は暗号化された後のテキストのことである。

「はじめに」を締めくくるに先立ち、暗号というテーマに取り組んだ著者ならば誰もがぶつかる障害についてひとこと述べておくべきだろう。それは、暗号研究の少なからぬ部分は秘密のヴェールに覆われているということだ。本書に登場する英雄たちの多くは、存命中は世間の認知を受けることがなかった。なぜなら彼らの業績は、外交上、軍事上の価値ゆえに、機密扱いにされていたからである。本書執筆のために調査を進めていたとき、私は英国政府通信本部(GCHQ)の専門家に会う機会に恵まれた。その専門家が私に語ってくれたのは、一九七〇年代に行われ、ごく最近になってようやく機密解除されたばかりの驚くべき研究のことだった。その研究が機密扱いを解かれたことにより、世界でもトップクラスの三人の暗号作成者が、本来受けるべき認知を受けることになったのである。しかしその話を聞かされた私は、これは氷山の一角なのだと思わずにはいられなかった。私も、他のサイエンスライターも知らないことが、今現在もたくさん進行しているのだろう。イギリスのGCHQやアメリカの国家安全保障局(NSA)などの組織では、現在も暗号に関する秘密研究が続けられている。ということは、これらの組織で得られた成果は公開されておらず、その仕事をした人たちは匿名のままだということである。

政府の秘密主義や秘密研究という障害はあるものの、本書の最終章では暗号の未来について考えてみることにした。その第四章は、突き詰めて言うならば、暗号作成者と暗号解読者との進化論的戦いにおける勝者を予測しようという試みである。暗号作成者は絶対に解読できない暗号を作ることができるのだろうか?それとも暗号解読者がどんな暗号でも解読できる機械を作り上げるのだろうか?世界最高レベルの頭脳をもつ研究者たちが莫大な研究費をつぎ込んで秘密研究を行っていることから考えて、本書で述べたことのなかには不正確な点もあるだろう。たとえば私は、量子コンピューター(今日のあらゆる暗号を解読するであろう機械)は今のところきわめて初歩的な段階にとどまっていると述べた。しかしひょっとすると、すでに誰かが量子コンピューターを完成させているかもしれない。だが、私の間違いを指摘できる人物は、その事実を公表する自由をもたないのである。

サイモン シン (著) , Simon Singh (原著), 青木 薫 (翻訳)
出版社 : 新潮社 (2007/6/28) 、出典:出版社HP