【最新】倫理学を学ぶおすすめ本 (入門からランキング)

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倫理学をいちから学べる!

倫理学の知識は、日常的な生活の中で生きていくことで磨かれていきます。倫理学の根本的な考えは何かを理解するのにはまずは入門としての倫理学書をあたっていきましょう。今回は倫理学を知識なしから学べる入門書を紹介します。

 

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出典:出版社HP

 

入門・倫理学

倫理学における基礎知識が身につく

本書は、日本の哲学、倫理学研究の第一人者が九人集まって書かれました。タイトルに「入門」とあるように、倫理学を本気で勉強しようとする人だけでなく、高校倫理から知識を深めてみようかなと考える大学1,2年生にもおすすめとなっています。

赤林 朗 (編集), 児玉 聡 (編集)
出版社: 勁草書房 (2018/1/30)、出典:出版社HP

はじめに

赤林朗
倫理学って,何となくおもしろそう、でもどうやって勉強をはじめていいのかわからない。何かいい本はないだろうか、今,本書を手に取られている方は、きっとそのように思っておられるのではないでしょうか.

私は、医師であり,医療倫理学を医学部やその上の大学院で教えています.高校の授業で教わった倫理しか知らない学生さんを、何となく難しく聞こえる倫理学の次のステップにどういざなうかは、私にとって深刻な問題でした。これまで、「入門・医療倫理」シリーズを勁草書房から出版させていただきましたが、このシリーズを着想したのは,2000年,京都大学に日本で初の,大学院レベルの医療倫理学分野が設立され,そこに私が着任した頃でした。
当時、日本には,体系だった生命・医療倫理学の教科書は無かったにも関わらず,とにかく授業をはじめなくてはならなかったのです。多くの英語圏の教科書や、欧米の大学のシラバスをとりよせ必死に読み込みました。しかし,日本と欧米との文化の違いや法・社会制度の違いから、そのまま翻訳すれば使えるような教科書・シラバスは見出すことができませんでした。

それでは、もう自分で作るしかないと決心し、日本の文脈に即した生命・医療倫理学の教科書作りに着手したのです。本音を言えば、哲学・倫理学を専門とし、大学での職を得ている先生方にこうした入門書を書いていただきたかったところです。しかし、当時の哲学・倫理学界では文献学が主流で,医療等の応用領域に手を出すことは、むしろ道を外すことになると考えておられる方が 多かったのではないかと思います。

2003年に私が東京大学に異動してから,多くの哲学・倫理学を若いスタッフに恵まれ,「入門・医療倫理」シリーズ出版の企画は本格的に動き始めました。その際に、私が哲学・倫理学を専門とするスタッフにお願いしたことは、「私が読んでもわかるように書いてください」ということに尽きます。
わかりづらい表現が含まれる原稿に対して私が延々と「ダメ出し」をし、私が読んでもすっきりと頭にはいるように、何とかついていけるように改訂することを何度もお願いしました。この作業は、私にとっても執筆者にとっても、本当に大変なことでした。

このような時,当時,東京大学医療倫理学教室及び Center for Biomedical Ethics (CBEL:www.cbel.jp)のスタッフで,現在,京都大学文学部の児玉聡先生の、極めて柔軟なご理解とご協力に、大変助けられました。改めてここに感謝をいたします。そして、ようやく出来上がったのが、「入門・医療倫理」シリーズの理論篇です。
本書の読者層として,これから哲学・倫理学を本気で勉強することを考えている方はもちろんですが、高校の倫理の授業から一歩進んで,さらに少し深めてみようと考える、大学1,2年生の皆さんにもぜひ読んでいただきたいと考えています。私が読んで、なんとかわかったのだから、関心のある方ならば必ず読みきれると思うし、十分な基礎知識がつくと思います。また,本書はその来歴から、本文で取り上げられている具体例はそのほとんどが医療に関わる話題となっていますが、医療以外の応用倫理学分野に関心がある方にも有用な入門書になるでしょう。本書は,20年前に私が一番欲しかった本です。このような本を、当初想定しなかった形で、私が編者になって世に出すことができるとは、望外の喜びと驚きの感で一杯です。

執筆者の皆さんの経歴をみてください。全て、哲学・倫理学の各領域での一流の研究者です。そのような方たちによる教科書ですので,内容はわかりやすく見えても、かなり高度な専門的領域にまで踏み込んでいます。読者の皆さんは、本書を読み切ったときに、倫理学はやっぱりおもしろい,基本的なことはこの本でとてもよくわかったので、その先を深めていきたい、ときっと思われるだろうと信じています。
本書をきっかけに、倫理学にさらに関心をもち、それぞれの領域で、深めていただくことを期待しています。

赤林 朗 (編集), 児玉 聡 (編集)
出版社: 勁草書房 (2018/1/30)、出典:出版社HP

目次

はじめに(赤林 朗)

I 倫理学基礎(総論 赤林 朗,児玉 聡)
第1章 倫理学の基礎
児玉 聡
第2章 倫理理論
奈良 雅俊
第3章 權利論
藏田 伸雄
第4章 法と道徳
山崎 康仕
Ⅱ 規範倫理学(総論 児玉 聡)
第5章 功利主義
水野 俊誠
第6章 義務論
堂国 俊彦
第7章,德倫理学
奈良 雅俊

Ⅲ メタ倫理学(総論 児玉聡)
第8章 実在論・認知主義
奈良 雅俊
第9章 反実在論・非認知主義
児玉 聡
第10章 メタ倫理学の現在
林 芳紀

IV 政治哲学(総論 児玉 聡)
第11章 現代リベラリズムの諸理論
島内 明文
第12章 現代リベラリズムの対抗理論
島内 明文

おわりに(児玉 聡)

BOX一覧
外国人名索引/事項索引
執筆者紹介

赤林 朗 (編集), 児玉 聡 (編集)
出版社: 勁草書房 (2018/1/30)、出典:出版社HP

I 倫理学の基礎

赤林 朗,児玉 聡
本書の第Ⅰ部では,倫理学の基本的な考え方や発想、いわば「基礎の基礎」とでも言うべき事柄について説明がなされている。読者の中には,「倫理学は幸福になる方法について論じる学問である」とか、「法は守るべきだが,道徳は守っても守らなくてもよい」,あるいは「倫理は必ずしも重要ではなく,人権が侵害されていないかどうかのみが重要だ」といった理解をしている人もいるかもしれない。だが,こうした考えは,現代の倫理学の少なくとも主流の立場からすれば、すべて誤解に基づいている。そこで,第Ⅰ部では、倫理学に関する基本的な考え方を身に付けることで,第II部以降のより理論的な考察に進む準備を行う.
いかなる議論においても、最初に用語をどのような意味で用いるのかを明らかにしておくこと(つまり,定義をすること)が重要である。そこで、ここでは、倫理と倫理学の意味に加え,道徳と倫理,法と倫理,哲学と倫理学などの関係について簡単な説明を行う。

日本語の「倫」とは、もともと仲間・人間・世間という意味であり,「理」とは、もとは玉の筋目・模様のことで,転じてものごとの筋道・道理を指すにいたったという。⑴
したがって,日本語の「倫理」は、人間模様とか世間風景という弾力的な意味を持つ「倫理」とは、狭義には「人と人がかかわりあう場でのふさわしいふるまい方」、「仲間の間で守るべき秩序」という意味合いである。一方、「倫理学」の語の由来は、英語の ethics の訳語であり、倫理について理論的・体系的な考察を行う研究分野である.

倫理学は狭義には個人道徳――個人がどう生きるべきかという問い――を扱うが,広義には社会道徳――法律や政策を含む社会制度がどうあるべきかという問い――もその考察の対象となる。本書では、個人道徳と社会道徳の両方を倫理学の考察の対象として考える。
倫理学が学問として成立するための要件としては,論理の一貫性があること、体系性があること(まとまりをもって提示されること)が必要とされる。この点において、聖書や論語は倫理思想であっても,倫理学そのものではない。倫理の一貫性や我々のもつ道徳的直観の役割など、現代の倫理学の基本的な考え方は、第Ⅰ章で説明される。また,体系性を持った倫理理論の代表的なものは、第2章,および第Ⅱ部で詳述される..
「道徳」と「倫理」は,本書では原則として言い換え可能なものとして用いられる。ただし、論者によっては、道徳は特定の個人がもつ心のあり方や社会に共有される一般的な態度を指し,倫理は特定の個人や社会を越えたより普遍性を持った規範を指すといった区別をする場合もある。また,倫理を法と道徳を含む社会規範一般として捉える考え方もある

BOX1:「倫理的」の二つの意味

倫理学は「倫理的なもの」に関する研究であるが,この「倫理的」ethical という言葉には二つの意味があるため、注意を要する。一つは、「あの人は倫理的だ」と言うときの意味で、「倫理に反する」unethicalの対義語としての「倫理的」ある。
これは「倫理にかなっているということである。もう一つは、「倫理と無関係な(道徳外の)non-ethicalの対義語としての「倫理的」である、これは「(倫理に反するものも倫理にかなっているものも含めて)倫理に関わる」という意味である。
倫理学が「倫理的なもの」に関する研究であると言われるときには、後者の意味に用いられている。⑵
同じ区別が,moral.immoral, non-moral(amoral)についても成り立つ。

「法」と「道徳」の区別は、⑴法は社会の秩序を維持することを主目的とするのに対し,道徳は個人に属する事柄に重きがおかれる。⑵法は外に現れた行為を,道徳は人間の内面的な意志を取り上げ規制する。⑶法は社会(あるいは国家)による強制力を伴う規範であるのに対し,道徳は行為者の自発性が重視される、などの違いがある。
また,「法は倫理の最小限」という言い方もある。法と道徳の区別については第4章で,また法的権利と道徳的権利の関係については第3章で詳しく論じられる。
「哲学」と「倫理学」との関係については、「哲学」という語の意味に応じてさまざまな関係が規定される。その一つに、哲学を広義に捉え倫理学をその中に位置づけるというものがある。たとえば,哲学は,認識論,存在論,価値論から構成され,倫理学は哲学の価値論の一部門と考える立場がある。その場合,「道徳哲学」という名称で呼ばれることもある。倫理学の下位分野,および政治哲学の概説については,第II部から第IV部の総論を参照されたい.

参考文献

• Darwall, S, 1998, Philosophical Ethics, Boulder: Westview Press.
• Frankena, WK, 1973, Ethics, 2nd ed., New Jersey: Prentice-Hall. (フランケナ,
WK, 1975,杖下隆英訳『倫理学』培風館)

赤林 朗 (編集), 児玉 聡 (編集)
出版社: 勁草書房 (2018/1/30)、出典:出版社HP

倫理学入門 (ちくま学芸文庫)

道徳は人間が生きていくための原理

倫理学は時代が過ぎるに伴い変遷を遂げていったが、著者によるとその変遷そのものが「道徳」であるという。本書では、かつて様々な学者が提言してきた倫理理論について解説をし、それを踏まえて「道徳」をどのように考えたらよいかという問題に対する手引きが示されている。

宇都宮 芳明 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/2/8)、出典:出版社HP

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目次

まえがき
第1章 倫理学がたずねるもの
1 「人間とはなにか」という問い
2 人間としての本性
3 人間らしさ

第2章 人間性について
1 自然主義の見方
2 歴史主義の見方
3 実存主義の見方

第3章 自然主義(1)――アリストテレスの倫理
1 アリストテレスの人間観
2 人間の徳
3 問題点の検討

第4章 自然主義(2)ーーエビクロスとストア派の倫理
1 ヘレニズム時代の理
2 エビクロス
3 ストア派

第5章主我主義と主他主義
1 主我主義
2 主他主義
3 主我と主他

第6章 自然主義(3)――功利主義の倫理
l 功利性の原理
2 最大多数の最大幸福
3 ミルによる修正

第7章 功利主義批判と義務論
l 幸福と快
2 行為と理性
3 義務論の考え

第8輩カントの倫理学
1 義務と普い意志
2 定言命法とその定式
3 自律と理性信仰

第9章 歴史主義と倫理
1 歴史的相対主義
2 唯物論的歴史主義
3 歴史主義に対する批判

第10章 実存主義と倫理
1 実存の本来性――ハイデッガーの場合
2 実存の自由――サルトルの場合
3 実存主義の批判――他者の問題

第11章 人「間」と倫理
1 回顧と展望
2 人「間」としての人間
3 フォイエルバッハの考え

第12章 「私と汝」のその後の展開
l ブーバーの『私と汝』
2 実存主義と「汝」
3 残された問題

第13章 役割関係と役割倫理
1 役割関係とペルソナ
2 役割行動と役割期待
3 残された問題

第14章 和辻倫理学
1 人間存在の根本構造
2 人的組織
3 和辻倫理学における「人格」

第15章 社会倫理と人類倫理
1 ベルクソンの「社会道徳」と「人類道徳」
2 役割倫理としての社会倫理
3 人類倫理への道

参考文献
解説 人「間」の倫理学へむけて(三重野清頭)
索引

宇都宮 芳明 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/2/8)、出典:出版社HP

まえがき

今日われわれは、さまざまな場面において、「倫理」ということを問題にする。マスコミの世界においても、「倫理」という言葉は、たびたび登場する。しかしそこで問題にされ、話題とされる倫理は、必ずと言ってよいほど、なんらかの冠を頭にかぶせた理である。「政治」倫理、「企業」倫理、「報道」倫理、「医療」倫理、「生命」倫理、「環境」倫理、などなどがそれである。ここではこれらを一括して、冠理とよぶことにしよう。それぞれの冠理において話題となるのは、政治とか企業とか医療といった、きわめて限定された局面における倫理である。そこでたとえば、企業倫理と医療倫理とは、お互いにまったく無関係なものとして扱われることになる。だが双方ともに「倫理」とよばれるからには、そこにはなにか共通したものがあるのではなかろうか。しかしそれを探るには、まず冠の付いていない、「倫理」そのものとはなにかが問われなければならない。冠倫理は、「応用倫理」と言ってもよいが、しかし各場面に倫理を応用するためには、それに先立って、応用されることになる「倫理」そのものとはなにかを知る必要があろう。この『倫理学入門」で取り上げるのは、冠倫理もしくは応用倫理ではなく、その基になる倫理それ自体である。これまでの倫理学の歴史に注目しながら、倫理というものをどのように考えたらよいか、その手引きを提供したいというのが、本書の狙いである。

「倫理学」という学問について言えば、日本では幕末から明治のはじめにかけて、西洋からさまざまな学問が移入したが、倫理学もその一つである。倫理学は、英語のethicsに当たる学問で、ethicsはラテン語のethicaに由来し、それはさらにギリシア語のithikiに由来する。つまり倫理学は、西洋ではギリシアの昔からあった学問で、すでに二千年以上の歴史をもつが、それが日本に移入されたのは、確か百数十年ほど前のことである。明治一四年(一八八一)に刊行された「哲学字彙」は、日本ではじめての哲学辞典とされているが、その内容は、哲学に関係のある英語の学術用語の一つ一つに日本語訳を当てたもので、ethicsには「理学」という訳語が当てられている。ethicsには「名教学」とか「倫学」という訳語が当てられたこともあるが、「倫理学」という訳語が定着したのは、ほぼこれ以降と見てよいであろう。
ところで西洋では、倫理学は誕生の当初から「哲学」の一部であった。「ニコマコス倫理学」とよばれるアリストテレスの書物で扱われている事柄は、アリストテレスの哲学の一部である。またヘレニズムの時代のストア派は、哲学の全体を、「論理学」と「自然学」と「倫理学」とに三区分した。自然学は、人間によって左右されない自然の事柄を対象とするが、倫理学は、人間が創りだした法や制度や、さらにはそれらによって生きる人間そのものを対象とする。つまり倫理学は、その当初においては、きわめて広範囲にわたる人間的事象を扱う「人間学」であった、と言えるであろう。しかしこの包括的な学問は、時代が下るにつれて、さまざまな学問へと分化する。今日、人文科学や社会科学に属する学問の多くは、この包括的な倫理学から分化発展した学問である。その結果、取り残された「倫理学」の対象は狭い範囲に限定され、それはもっぱら人間の「倫理」すなわち「道徳」や、それにかかわる人間の「実践」を主題とする学問となった。倫理学が、現在、「道徳哲学」とか「実践哲学」とかよばれることがあるのも、そうした理由からである。

だが倫理学のテーマのこのような変遷は、実は道徳というものが、人間にとってもっとも基本的で重要な事柄であることを、物語っているのではなかろうか。ギリシア語でphysikeとよばれる「自然学」も、その後さまざまな学問に分化し、それらはいま自然科学と総称されているが、ギリシア語のrhysikeの原型をとどめている英語のphysicsは、現在では「物理学」のことである。つまり自然のあらゆる領域を貫通するもっとも基本的な自然法則を扱う自然学が、「物理学」として残ったのである。それと同じように、倫理学の主題として最後まで残された「道徳」もまた、人間のあらゆる活動の基本をなす事柄であると考えられる。ギリシア語のithikaは、人間の「性格」を示すthosから創られたが、人間のあらゆる活動はその人の「性格」によって定まり、その「性格」はまた、その人が身につけた「道徳」によって規定されると見れば、「道徳」は人間のあらゆる活動の基本である。人間のさまざまな活動領域に応じてさまざまな意倫理が話題とされるのも、こうした事情によるのである。

倫理学は、さらに、哲学の一部分であるだけではなく、実は哲学の中枢に位置する学問である、と言うこともできる。なぜなら、ソクラテス以来、哲学の中心課題は、人間はいかに生きるべきかという問いに答えることにあったと見ることができるからである。われわれはこの問いに、倫理すなわち道徳を抜きにして答えることは できない。道徳は、人間の行動を支配し、行動全体からなる人間の生き方をも支配しているからである。冠倫理に先立って、そもそも倫理とか道徳とよばれているもの がなんであるかを問うことが必要なのは、このことからも言えるであろう。繰り返すと、この「倫理学入門」が試みたのは、人間が生きていくための原理となる道徳について、それをどのように考えたらよいか、その手引きを提供することである。それが手引きであると言うのは、道徳とは元来、人間の一人一人が自分で考え、自分で 身につけるものだからである。「まえがき」は以上にとどめて、本論に入ることにしよう。

* 本論で原典から引用した際に、訳書でその箇所を指示したが、筆者が原典から直接に訳したり、あるいは他の訳者の訳語を使用したりした個所があって、引用が指示された訳書の訳文と厳密に一致していないことがあるのをお断りしておきたい。

なお、用語の原語表記については、出典が多岐にわたるため、原線の前にギリシア語=ギ、ラテン語=ラ、英語英、フランス語=仏、ドイツ語=独のように表記し、その言葉が 何語であるかを明示した。

一九九六年四月 宇都宮芳明

宇都宮 芳明 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/2/8)、出典:出版社HP

第1章 倫理学がたずねるもの

1 「人間とはなにか」という問い

人間を定義する試み

「まえがき」でものべたように、倫理学は、その成立の由来からして、「人間」についての学である。倫理学がたずねるもっとも基本的な問いは、「人間とはなにか」という問いである。では、倫理学はこのようにたずねることによって、人間についていったいなにを問い求めているのであろうか。一般に「Xとはなにか」という問いは、Xという概念について、それを明確に規定することを目指している。その場合、通常なされる手続きは、Xという概念を定義するという手続きであろう。そこでたとえば、「三角形とはなにか」と問い、「三角形とは三つの直線によって囲まれた平面図形である」と答えるなら、これは三角形という概念についてその定義を与えたことになる。われわれはこの定義によって、「三つの直線で囲まれた平面図形」を見るときは、それがいつも「三角形」とよばれるものであることを理解する。では、「人間とはなにか」と問う場合も、人間についてこうした形での定義を求めているのであろうか。

外形による人間の定義

「ギリシア古典時代の哲学者プラトン(前四二七一三四七)の著作として伝えられているもののうちに、「定義集」という書物があるが、そのなかに人間について一つの定義が示されている。それによると、人間とは、「羽のない、二本足の、平たい爪をもつ動物」である《1》。人間は動物ではあるが、空を飛ぶ馬とは違って羽がなく、また陸上を這う四本足の動物とは違って、二本足で歩く。平たい爪をもつという奇妙な規定が加えられているのは、プラトンが教室で「人間とは羽のない二本足の動物である」と語っているところに、シンペのディオゲネス(前四〇〇頃――三二三)という人物が羽をむしりとった夢を持ち込み、その定義によるとこれも人間だとからかったことによるという逸話がある(2)。つまり人間は尖った爪ではなくて平たい爪をもつことで、羽をむしられた鶏とは区別されるわけである。ともあれ、「定義集」では、人間についてこのような定義が与えられているのである。
ところでこの定義は、人間の外形に注目した定義であり、したがって人間をほかの動物から眼で見て区別する、つまり識別するのに役立つ面をそなえている(先の三角形の定義も、三角形という図形をほかの四角形や五角形から識別する役割を果たしている)。人間は羽をもたず、二本足で歩くという外形的特徴をそなえていることで、ほかのすべての動物から識別される。外部から見て人間を識別することが問題ならば、人間とはこれこれの頭部をもち、これこれの手足や胴体をもつといった具合に、人間の体形をもっと正確に示す定義を与えることもできるであろう。だが「人間とはなにか」という問いで問い求められているのは、人間とよばれるものがどのような外形をもつかということにすぎないのであろうか。

パスカルの批判

パスカル(一六二三―一六六二)は、「幾何学的精神について」という未完の遺作のなかで、「人間」という言葉がなにを指し示しているかは誰にとっても自明の事柄であり、ことさらに定義などする必要はないとした上で、プラトンの「定義集」で示されている人間の定義を嘲笑している。パスカルに言わせると、人間は二本足を失うことで人間性を失いはしないし、効は羽を失うことで人間性を獲得するわけでもないのである《3)。
だがここで、パスカルが、「人間は二本足を失うことで人間性を失いはしない」と語っていることに注目しよう。不幸にして足を失ったひとでも、それによって「人間性」を笑いはしない。とすれば、この場合の「人間性」とはなにかということが、改めて問われなければならないであろう。それは眼に見える人間の外形ではない。しかしまた定義というものも、つねに外形的特徴に頼らなければならないというわけでもない。たとえば「水とはなにか」という問いに、「水とは水素原子二個と酸素原子一個とが結合したものである」と答えれば、これは水についての一つの定義であろう。この場合の定義は、外形的特徴による定義ではなくて、眼には見えないがそのものを構成している内的要素による定義である。では、人間もまた、それを構成している内的要素とも言える内的特性によって、定義できるのではなかろうか。そしてそれが、人間が足を失っても依然として所有するとされる「人間性」ではなかろうか。

宇都宮 芳明 (著)
出版社: 筑摩書房 (2019/2/8)、出典:出版社HP

入門講義 倫理学の視座 (SEKAISHISO SEMINAR)

日常生活での問いを解決するための「視座」を与えてくれる

「なぜ他人を殺してはいけないのか」、逆に「なぜ他人を殺しても良いのか」のような日常生活で提起される問題を、倫理学の視点から解決するための視座を与えてくれる。全体で30の問題を扱い、それぞれの疑問点を整理し、解決への道を示している。

新田 孝彦 (著)
出版社: 世界思想社 (2000/09)、出典:出版社HP

まえがき

「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいんだ」とうそぶく若者たちに、「自分の人生なんだから大事にしなければ」と口ごもるだけの大人たち。その大人たちにしても、会社のために、あるいは家族の生活を守るためにと言いわけをしながら、だまし合ったり裏切り合ったりしているのであれば、「他人に迷惑をかけなければ」と限定する若者たちのほうがまだましなのかもしれない。それでも、「自分の人生なんだから」とつぶやく大人たちは、他人に迷惑をかけないこと以外にも大事なことがあるはずだと感じているのだろうし、若者たちの言いぐさもまた、その大事なことが見いだせず、大人たちが手本を示してくれないことへのいらだちの表現なのかもしれない。
このようなありふれた風景の中に潜んでいる問い、すなわちその大事なこととは、いったい何であり、またそれはどのようにすれば見つかるのだろうかという問い、これが本書の出発点であり、また終着点でもある。

われわれは日常生活のさまざまな場面で、「いかに行為すべきか」という問いに直面する。だが多くの場合、われわれは、それについてどのように考えればよいのかわからず、つい手近なところに答えを求めてしまいがちになる。子供のときは両親や学校の先生が答えを与えてくれたかもしれない。少し大きくなって自立への求が高まると、自分の良心を頼りにすることもあろう。あるいは、宗教書や人生について述べた書物に指針を見いだす人もいるだろう。だが、はたして良心は誤ることのない神の声なのだろうか。また、いかに行為すべきか、すなわちいかに生きるべきかについて、いささかの疑念の余地もなくすべてを解決してくれる書物などあるのだろうか。この二千数百年の間、東西にわたって万巻の書物が著わされてきたというのに、われわれは依然としてこの問いに悩まされているのではある。しかし、だからといって、「本当の答えはない、だから人は自分の好きなように生きればよい」ということになるのだろうか。「本当の答えはない、だから世間の言うとおりに生きればよい」と考える人も少なくはないだろう。つまり、たとえ「本当の答えはない」としても、そこから「どうすべきか」を導きだすためには、実はかなり大きな距離を飛び越えなければならないのに、われわれはあたかも自明のことであるかのようになんらかの答えを出して怪しまない。そうだとすれば、「本当の答えはない」というのもまた「本当の答え」であるのかどうか、疑わしくなるのではないだろうか。だからこそわれわれは、ときに「本当にそれでよいのだろうか」とつぶやいたりもするのである。

本書は、「いかに行為すべきか」について考えはじめた人に、倫理学的な反省のための一つの材料を提供しようとするものであり、日常生活の中で浮かび上がってくる問いを倫理学的な考察と結びつけ、倫理学的な考察へとその方向を導くこと、すなわち問いの「視座」を定めることを目指している。もちろん、倫理学の視座とは、そこにおいてすべての倫理的な問題が解決されうるような場を意味しているのではない。それは問題を考えるための端緒にすぎない。だが、方向を正しく定めなければ、いかに勢いよく矢を放っても的を射ることはできないであろう。

こうした意図のもとに、本書では、倫理学の諸理論を網羅的に紹介することや倫理学史を概説することを避け(これらについては、すでに多くのすぐれた書物が存在する)、もっぱら私自身の関心に従って倫理学的な問題を一つずつ問い直すことにした。もちろん、その際に過去の哲学者たちの思索を参照したことは言うまでもないが、しかしそれはあくまでも、われわれの日常的な言説の中に潜んでいる倫理的な思考方法を反省し、その特質や問題点を自覚するための手掛かりとしてであって、理論研究それ自体を目的としたものではない。また本書には、それぞれの講義において取り上げられた問題と関連するいくつかの「例題」が付されているが、これもまた、われわれの日常生活と倫理学的反省とを結びつけるための工夫にほかならない。これらの「例題」を考えることによって、逆に倫理的問題の所在に気づいていただければ幸いである。

「いかに行為すべきか」という問いが本書の出発点であり、終着点でもあると述べた。つまり、本書の中にその答えはない。私がここで試みたのは、近代ドイツの哲学者カントが示した次のような思考の原則、すなわち、「自分で考えること(偏見にとらわれないこと)」、「自分を他人の立場に置いて考えること(視野を広くもつこと)」、「つねに自分自身と一致して考えること(首尾一貫して考えること)」という三つの原則を使用する訓練である。例えば、「なぜ他人を殺してはいけないのか」と問われることがある。これを、できるかぎり思い込みを排除し、広い視野のもとで、しかも首尾一貫して考えると、どうなるであろうか。この問いを発するとき、われわれにはすでに、禁止の根拠がはっきりしないということは 許されていることを意味する、という一つの思い込みはないのだろうか。あるいは逆に、「なぜ他人を殺してもよいのか」と問うてみたらどうか。そこに見いだされる答えを首尾一貫して維持することはできるだろうか。こうした思考の訓練が私自身としてどれだけ実現できたかは、読者の判断を待つしかない。ただ私としては、「他人に迷惑をかけなければ」と居直るのではなく、また「そんな生き方は認めない」と居丈高に叫ぶのでもなく、もちろんたんなる「わがまま」を「個性の重視」といった甘言で糊塗するのでもなしに、「なぜそうしてもよいのか」、「なぜそうしてはいけないのか」をできるだけ冷静に、自分の思考を他人に預けるのではなく、独善的にもならず、なおかつ他人を思いやりつつ考えつづけることができればと願っている(なお本書では、入門書という性格から、引用や注で使用する文献はほとんど日本語で読めるものにかぎり、また参照の便を考えて、引用もほとんど邦訳を利用させていただいた。著者や翻訳者の方々にはこの場を借りて厚くお礼を申し上げる)。

新田 孝彦 (著)
出版社: 世界思想社 (2000/09)、出典:出版社HP

目次

まえがき

第1講 倫理学の問い
第1節 問いの始まり
(「どうしたらよいだろうか」という問い/問いの意味の区分)
第2節 ソクラテスの死
(ソクラテス裁判/ソクラテスとクリトンとの対話/よく生きること)

第2講 絶対的価値は存在するか
第1節 課題に伴う困難
(善悪の相対性/倫理学の語源/規範の多様性)
第2節 人為(ノモス)と自然(ピュシス)
(アンティゴネーの問い/プロタゴラス/自然という概念の人為性)

第3講 絶対的価値は存在しないか
第1節 相対主義の諸問題
(相対主義の時代/道徳的相対主義の基本テーゼ/文化的相対 主義/自然主義/自己例外の誤謬)
第2節 神々の争い
(ハーマンの道徳的相対主義/問いの必然性)

第4講 功利主義の基礎
第1節 快楽主義の論理
(エウドクソスの快楽主義/ベンサムの快楽主義)
第2節 功利性の原理
(最大幸福原理/快楽原理・効用原理/社会原理・結果原理/自然主義的誤謬と合成の虚偽)

第5講 功利主義の諸問題
第1節 行為功利主義と規則功利主義
(行為功利主義/規則功利主義)
第2節全体の幸福と正義
(手段と目的/「全体の幸福」という概念/正義の問題)

第6講 功利性と道徳性
第1節 快楽主義再考
(アリストテレスの快楽論/エウドクソスの議論の再吟味)
第2節 行為の構造
(基礎行為と行為/行為連関の図式/功利性と道徳性)

第7講 カント倫理学の課題
第1節 絶対的価値の探究
(黄金律/善意志/理性の体系としての道徳)
第2節 定言命法の導出
(義務にかなった行為と義務に基づく行為/仮言命法と定言命 法/格率と法則)

第8講 普遍化可能性の原理
第1節 定言命法の論理
(定言命法の基本方式/定言命法の解釈 1−意図と結果の矛盾の禁止/定言命法の解釈 2−行為に内在する矛盾の禁止/定言命法の解釈 3−意志の自己矛盾の禁止)
第2節 普遍化可能性の原理の限界
(形式的原理/マッキーの定式化)

第9講 人格性の原理
第1節 人格概念の由来
(人格―絶対的価値の担い手/役割および役割の担い手としての人格/ロックの人格概念) 第2節 相互主体性の論理
(定言命法の「目的それ自体の方式」/人格と物件/相互主体性 の拘束力/道徳的常識における人格性の原理)

第10講 道徳性の本質と限界……
第1節自律と他律
的人格論
(人格の尊厳の根拠としての自律/ホッブズの他価格と尊厳)
第2節 人格性の原理の限界。
(道徳的判断の構造/人格の定義に先行する価値判断)

第11講 道徳という制度
第1節 マッキーの道徳理論
(客観的価値は存在するか/価値の主観性と客観性の信念の成 立/偽装された仮言命法としての定言命法)
第2節 制度と道徳
(プロメテウス神話/ポパーの批判的二元論/ウィンチのポパー批判)

第12講 自由と道徳
第1節 自由意志問題
(自由意志問題の発生/ヒュームの自由意志否定論)
第2節 カントの自由論
(認識の基本構図/純粋理性のアンティノミー/カントの意志 概念/自律と他律/経験論批判/道徳法則による自由の正当化)

第13講 幸福と道徳
第1節 カントの幸福論
(同時に義務でもある目的としての他人の幸福/二次的義務としての自己幸福)
第2節 現代パーソン論
(問題の背景/生命の尊厳と生命の質/パーソン論の展開/パーソン論の問題点)

第14講 愛と道徳
第1節 責任倫理と心情倫理
(ヴェーバーの二つの倫理/結果に対する責任/救命ボート倫理)
第2節 閉じた道徳と開いた道徳
(実践的愛と感性的愛/自己言及的利他主義/閉じた道徳と開 いた道徳/道徳の逆説)

引用文献一覧
あとがき

●人名索引/事項索引

新田 孝彦 (著)
出版社: 世界思想社 (2000/09)、出典:出版社HP

倫理学入門-アリストテレスから生殖技術、AIまで (中公新書 2598)

私たちと社会と倫理学の関わり

本書では、前半に倫理学や代表的な倫理理論について詳細に解説し、後半に人と人、人と人の体、人と人でないものという3つの観点で現代における様々な問題について考えていく。国家や市場と私たちの関係から、クローン技術やAI、遺伝子についての最先端な問題まで、多様な視点から現代社会における問題を考察している。

品川 哲彦 (著)
出版社: 中央公論新社 (2020/7/20)、出典:出版社HP

まえがき

倫理と聞けば、「それは大切なことです」と応じるひとは多い。たとえば、遺伝工学の新たな技術の利用の是非が問われるとき、しばしばテレビのニュース解説や新聞の論説では倫理的指針の必要が説かれる。倫理とは、社会生活のなかでなすべき行為、してもよい行為、してはならない行為を示すルールのことだと一般には理解されているようだ。だがそれなら、倫理は法とどう違うのだろう。同じではなくても、無関係でもなさそうだ。
その一方で、「倫理ってほんとはよくわからない」というひともいるかもしれない。これもまた率直な感想だと思う。学校で教わったことを手がかりにしても、「倫理と道徳ってどう違うの。中学校までは道徳を習うけど、高校で習うのは倫理だよね」と別の疑問が生まれてしまう。その違いはおそらく倫理学と無関係に、文部科学省が立てた区別である。
この本では、初歩の問い――といっても、そのいくつかは相当に倫理学に親しんでからようやく答える手がかりが見出されるような問いだけれども――から出発して、倫理学という学問からみたときに目の前に広がる領野をめぐり歩くことにしたい。

第1章では、まず「倫理とは何か、倫理学とはどういう学問か」を説明する。
それは、この領野の旅行案内書であり、この領野に立ち入るためのパスポートである。
通常の旅行案内書でも、「こんにちは」「ありがとう」程度のその国のことばやその国では気をつけねばならない作法を教えている。ここで訪ねる先は学問だから、そこで使うことばや考え方を知ることは通常の旅行以上に重要である。その知識なしには、この領野に聳え立ついくつかの城―――倫理理論――を見物することすらままならない。
他方、城のなかで仕事をする者たちも空中楼閣に住んでいるわけではなくて、飲み水は井戸から汲む地下水に頼り、食糧は城の足元から城外に続いて広がる大地からまかなっている。学問の城にとって、飲み水や食糧を供給するその大地とは、ひとの暮らしである。
しかも、一般の人びとがそこに住まうこの領野は倫理だけが影響力をもっているわけではない。他の諸力も人びとの行動を導いて、ある場合には人びとを保護し、ある場合には規制している。そうした諸力の例には、法、政治、経済、宗教が挙げられる。種々の法理論が築いている城の一群、政治理論の城の一群、経済理論の城の一群、諸宗教の城の一群をこの本のなかで案内することはもとよりできないが、少なくともそれらの力と倫理の力とが、どこでつながり、どこで切れているのかといった大まかな素描をすることはできるだろう。いわば、倫理学の城の一群が占めている一帯から法、政治、経済、宗教の城が立っているそれぞれの一帯の山容を遠望するようなものである。

第2章では、理論によって構築された倫理的立場の、目立って屹立している五つの城をめぐり歩く。その五つの城とは、建造時期の早い順でいえば、徳倫理学、社会契約論(リベラ リズムに通じる)、共感理論、義務倫理学、功利主義である。
ただし、案内人の判断で建造順にとらわれずに、相対的にみてやや手近な位置にある城を順に訪れ、そのあとにかなり離れた別の城に向かうこととする。その順は、社会契約論、義務倫理学、功利主義、共感理論、徳倫理学となる。最後に、一国の王城となるのか、それとも特異なたたずまいの城砦程度のものにとどまるのかがまだ不明の、責任とケアを基礎とする倫理理論を訪れる。城と城とのあいだの位置関係を把握する地図は、第1章で行なう倫理規範のグルーピングに用意してある。
第3章以下では、人びとがその暮らしを営んでいる領野のなかに、倫理学の望楼からみるとどのような問題が発見されるのか、どのような立場や考えのひとをどの城(倫理理論)が加勢し、あるいはまた、抑止しようとするのかをみていこう。

第3章では、ひととひととの関わりから生じる問題領域として、市場、国家、戦争をとりあげる。これらの話題は倫理学というよりも政治哲学に属すると思われるかもしれない。しかし、第1章で、倫理・法・政治・経済がひとの暮らしという共通の領野に別々のしかたで、しかも相交錯しながら関わっていることを説明したその連関から、右の三つのテーマに(倫理学がその一分野である)哲学の、基礎から考えるアプローチによってとりくむこととする。

第4章では、ひととその体というテーマを扱う。近代以降の科学とそれにもとづく技術は、人間の外に広がる自然を操作するのに飛躍的な進歩を遂げたが、その操作は人間のなかの自然、すなわち体にも適用される。こういうと体は対象化され、「私は私の体をもつ」といいたくなるが、他方で「私の体は私そのものだ」ということも実感される。本章では、インフォームド・コンセント、安楽死、生殖技術の問題にふれるが、生殖技術の問題から派生して最後に、今生きている現在世代はこれから生まれてくる未来世代にどのように対しあうべきかという未来倫理学をとりあげる。

第5章では、ひととひとではないものとの関係を問う。最初に人間以外の自然との関係を扱う。次に、(とりわけ人工知能搭載の)ロボットをとりあげる。これまで人工物は倫理的考察の対象にはならなかったが、人工知能を搭載すると何か変わるのだろうか。最後に、人間よりも知的にも道徳的にもはるかに高い存在者を想定してみたい。SFじみた話題で、面食らう方もおられるかもしれない。
第6章では、この想定の意図を説明し、本書全体の話の流れを顧みることにしよう。
本書が倫理学の旅行案内書として読者のなにがしかの参考となることを著者として望んで いる。

品川 哲彦 (著)
出版社: 中央公論新社 (2020/7/20)、出典:出版社HP

目次

まえがき

第1章 倫理とは何か。倫理学とはどういう学問か。

1 倫理と倫理学
倫理と道徳とを区別する
ひとと「一緒」の二つの意味――共同体と社会
倫理と道徳は重なり合う
倫理的判断の普遍妥当性要求
倫理について考える学問、倫理学が、なぜ必要か
倫理学の三つの部門――規範倫理学、記述倫理学、メタ倫理学
善と正との違い、権利と義務の対応・非対応
倫理規範をグルーピングする

2 法・政治・経済・宗教と倫理
law of nature――どう訳すか
法は必ずしも倫理と一致するとはかぎらない――法実証主義
法と倫理についてのまとめ
政治は力だ――パワー・ポリティクス
政治は力か――言説空間としての政治
政治と倫理についてのまとめ
商品、財、経済的人間
市場での取引の背景には人びとの暮らしがある
経済と倫理についてのまとめ
神が命じるから正しいのか、正しいから神が命じるのか――プラトン
宗教と倫理についてのまとめ

第2章 代表的な倫理理論

1 倫理を作る――社会契約論
万人の万人にたいする戦い――ホッブズ
労働から所有が発生する――ロック
不平等の起源と一般意志――ルソー
不平等は最も恵まれないひとの状況の改善に役立てられねばならない――ロールズ
市場での契約こそが自由を実現する――リバタリアニズム
倫理理論としての社会契約論

2 人間の尊厳――義務倫理学的
自由は、理論理性では、したがって科学では証明できない
傾向性の支配からの意志の自由すなわち自律――カント
人間の尊厳と理性の事実
道徳はコミュニケーションによって基礎づけられる――討議倫理学
倫理理論としての義務倫理学

3 社会全体の幸福の増大――功利主義
最大多数の最大幸福――ベンタム
他者危害原則――J・S・ミル
行為功利主義と規則功利主義
倫理理論としての功利主義

4 他者への共感――共感理論
倫理の基礎は感情にある――ヒューム
誰もが共感能力をもっている
倫理は自然のなかに根ざしている――ヒトとチンパンジーの違い
倫理理論としての共感理論

5 善きひとになるための修養――徳倫理学
普遍的な原理と徳との違い
徳の修得は技術の体得に似る――アリストテレス
共同体主義と徳倫理学
近代の倫理理論と徳倫理学との反転関係
倫理理論としての徳倫理学

6 付論。責任やケアにもとづく倫理理論
今生きている者は未来世代にたいする責任を負っている――責任という原理
人間の傷つきやすさ――ケアの倫理
倫理理論としてのケアの倫理

第3章 ひととひと
1 市場
一人前の職業人となる物語とその崩壊
グローバリゼーションと倫理――自由と自己責任
しかし、グローバリゼーションに合った別の倫理的な変化がありうるかもしれない
市場だけで社会が成り立つわけではない

2 国家
再分配システムとしての国家
運平等主義とベーシック・インカム
助けを必要とするひとを助けるひとも助けを必要としている――ヌスバウムとキティ
国家の構成員は、なぜ、どこまで、たがいに助け合うべきか
移民――どう対応すべきか

3 戦争
戦争にも倫理規範がある――開戦条件規制と戦時中規制
自国を維持するとはどういうことか――ルクセンブルクの例
自国民の戦災被害にたいする国家の責任
未済の過去は反復する
他国民や戦争捕虜にたいする強制労働――ドイツの例
他国の民間人を強制労働させた責任
自国の過去を引き継ぐ責任

第4章 ひととその体
1 私の体は私である
ヒポクラテスの誓い――西洋の医の倫理のはじまり
実験医学の誕生――人体実験は許されるか
ナチスによる強制的な人体実験とニュルンベルク綱領
インフォームド・コンセントの成立
世界医師会のヘルシンキ宣言
インフォームド・コンセントの倫理的根拠

2 私の体は私のものか
安楽死度念の多義性
死ぬ権利という横念は成立するか
私の体は私のものか
人格は体にスーパーヴィーンする

3 科学技術による子への操作
技術の制御しがたさ――生殖技術の展開
遺伝的条件による子どもの選別
クローニング技術でひとりの人間を造ってよいか――功利主義と討議倫理学による反論
いったいなぜ、私は他者を必要とするのだろう――デカルトとフッサール
他者としての子ども――レヴィナスとアーレント

4 これから生まれてくるひとのために
なぜ、未来倫理学が必要なのか
正義と権利を基礎とする未来倫理学――アーペルとロールズ
責任を基礎とする未来倫理学――ヨナス

第5章 ひととひとではないもの

1 人間の外なる自然的
環境と自然の区別
苦を感じるものを苦しめてはならない――功利主義の動物倫理学
生態系はまるごと維持されねばならない――レオポルドの土地倫理
自然物は原告になりうるか――ストーンの問題提起
自然における人間の位置――神学・形而上学を背景にした環境倫理理論
徳倫理学による環境倫理理論

2 ひとが造ったもの
機械化と失業――人間のために市場があるのか、市場のために人間がいるのか
AI搭載ロボットを兵士として用いてよいか、よくないならなぜか
製造物にたいする製造者の責任
AI搭載ロボットに子育てや介護を任せてよいか、よくないならなぜか
人工知能の発達と再分配システムとしての国家

3 星界からの客人との対話
「宇宙人」を想定する哲学的意味
星界からの客人との対話

第6章 倫理的な観点はどこからくるのか
審級――倫理的な是非を判定する場
倫理的配慮の拡大と新たな審級の設定
AI搭載ロボットや宇宙人は新しい審級を形づくるか
倫理的な観点はどこからくるのか

あとがき
参考文献

図表作成/ヤマダデザイン室

品川 哲彦 (著)
出版社: 中央公論新社 (2020/7/20)、出典:出版社HP

倫理学を学ぶ人のために

様々な視点からの倫理学

本書では、倫理学の目的、倫理学が形成された過程、倫理学における問題、現代と倫理学との関わりなど、様々な視点から倫理学について解説されています。特に現代と倫理学の関わりの項においては、たびたび問題になる安楽死の問題を扱った生命倫理について興味深い内容が述べられています。

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP

目次

I/倫理学の課題―倫理学は何を求めるのか―宇都宮芳明
1 慣習倫理
2 反省倫理
3 倫理の基本領域
4 愛と尊敬

Ⅱ/倫理学の原型―倫理学の形成過程―田中伸司
1 われわれが生きているとはどういうことか―エートスの意味
2 われわれにとって「よく生きる」とはいかなることか―エートスが問われる地平
3 われわれはどうすれば「よく生きる」ことができるのか―エートス論としての倫理学

Ⅲ/倫理学の展開―倫理学の基本問題―
1 行為と規範―水谷雅彦
1 行為の概念
2 行為・能力・責任
3 行為と規範
2 人格と自由―新田孝彦
はじめに
1 役割としての人格
2 人格性の原理
3 道徳的行為の主体としての人格
おわりに
3 自己と他者―熊野純彦
はじめに
1 〈他者〉という問題
2 他者との〈関係〉の成り立ち
3 他者への呼応と〈倫理〉
4 理性と物神―高橋秀知
はじめに
1 ファシズムの社会心理学―フロム
2 自然支配と社会的支配―ホルクハイマー、アドルノ
3 文化的近代の潜勢力―ハパーマス
4 実践的相互性の行程
結びにかえて

Ⅳ/倫理学の現在―倫理学と現代世界―川本隆史
1 正義と平等―川本隆史
はじめに―《ただしさ》と《ひとしさ》
1 「公正としての正義」―ロールズの登場
2 資源の平等と複合的平等―ドゥウォーキンとウォルツァー
3 基本的潜在能力の平等―センの新機軸
おわりに
2 生命と倫理―品川哲彦
1 望ましい生と単なる生存
2 生命倫理問題の整理と概観
3 選択と決断の背景
4 私たちは中心にいるか
3 環境と人間―杉田聡。
1 牧歌的自然と人間の倫理
2 荒々しい自然と人間の倫理
4 伝統と変革―天艸一典
1 近代と伝統一
2 市民社会と生活共同体
3 「西洋」と「日本」

◆文献案内
●あとがき
●人名・著作名索引/事項索引

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP

I/倫理学の課題―倫理学は何を求めるのか―宇都宮芳明

1 慣習倫理

無関心と誤解

世間では倫理学どころか、倫理学が対象とする倫理そのものに関しても無関心な人が多いし、それどころか倫理とか道徳という言葉を聞いただけでも拒否反応を示す人が少なくないと思われる。これはなぜであろうか。

倫理という言葉は、決して珍しい言葉ではなく、世間で広く用いられている。マスコミの世界では、毎日と言ってよいほど、政治倫理、生命倫理、企業倫理、環境倫理といった言葉が登場する。しかしそれにもかかわらず、「政治」とか「生命」といった冠のついていない「倫理」そのものについては、まったくと言ってよいほど語られていない。つまりマスコミも、政治倫理や企業倫理といった冠倫理は問題にするが、そもそも倫理とは何かということについては無関心なのである。

ところで、マスコミが政治倫理や企業倫理を話題にしても、世間の多くの人びとは、自分は政治家ではないから政治倫理には無関係であり、また企業家でもないから企業倫理にも無関係である、と考えるであろう。政治家や企業家ですら、自分たちに問われている倫理とは何かということを本当に考えている人はごく少数と思われる。政治倫理や企業倫理を犯したとされる人びとの謝罪の言葉は、判で押したように、「世間を騒がせたから申しわけない」というものである。では、世間を騒がさなければ倫理的な生活を送っていると言えるのであろうか。倫理とは単に、マスコミなどの世間を騒がせないことであろうか。もし政治家や企業家が本気でそう考えているとすれば、こうした人びとは実は、倫理というものについて何も考えていないのである。

また、いわゆる生命倫理についても、さしあたって自分や身内の人びとが臓器移植を必要としているわけではないし、また脳死の状態にもないから、多くの人は実は無関心である。環境保全のための環境倫理と言っても、目下のところ、自分や家族の生存が環境汚染によって極度に脅かされているわけではないから、これについても大方の人は無関心である。都市では大量の車の排気ガスが大気を汚染しているにもかかわらず、マイカーの所有者は増えつづけている。

では、倫理や道徳に反発する人、これは特に若い人に多いが、そうした人たちはどうであろうか。その人たちの考えでは、人間は誰でも自由である(あるいは自由であるべきである)のに、倫理とはそうした自由な個人に対して外部から加えられる不当な干渉であり、強制である。たとえば服装は各人自由であってよいのに、学校の校則は、生徒は生徒らしくあるべきだという倫理の名のもとに、服装をこと細かに規定する。これと同じように、世間で「倫理」と呼ばれているものは、多くは個人に加えられる不当な抑圧である。これが、倫理に反発を感じる人びとの大多数の考えであろう。あるいは政治家のなかにも、マスコミが「騒ぐ」政治倫理なるものは、政治活動に対する不当な干渉であると考えている人がいるかもしれない。だがしかし、倫理とは、単に個人の外部から加えられる自由の抑圧なのであろうか。倫理学とは、そうした抑圧を正当化するための理論にすぎないのであろうか。そのように考えている人は、実は、倫理や倫理学というものを誤解しているのである。

生活に密着した倫理

ところで、以上の人びとはいずれも、倫理を、自分にとって直接には関係のない事柄であり、場合によっては自分の生き方を歪めるものとして考えている。倫理は自己にとっていわば外的な事柄である。倫理に無関心であったり、それに反発したりするのは、そのためである。しかし、はたしてそうであろうか。むしろ倫理は、誰であれ、一人ひとりの生活に密着した事柄であり、その意味で自己にとって外的ではなく、自己の生き方を内から規定している事柄ではなかろうか。

たとえば、ある人が友人とどこかで午後五時に会う約束をしたとしよう。その人は約束した時間に間に合うように出かけるが、それは、約束を守るべきである、つまり約束を守ることは倫理的によいことだと考えているからである。彼は、たとえ友人との話が不愉快な事柄に関する話であることがわかっていても、いま熱中しているテレビゲームを中断して出かけるであろう。また、もし約束した時間に遅刻したとすると、彼は倫理的に悪いことをしたと思い、友人に謝るであろう。逆に、友人が約束した時間に大幅に遅れて現われ、しかもその言いわけが取るに足りないものである(たとえば、テレビゲームに熱中していたとか)場合は、たとえ面と向かって友人を非難しないにしても、その友人は約束を破るという、倫理的に悪いことをしたと思うであろう。

これはほんの一例にすぎないが、このようにわれわれは、日常生活のさまざまな場面で倫理的によいとか悪いとかいった倫理的判断を下し、それに従って行動している。われわれは誰でも、つまり倫理や理学に無関心な人でも、自分が下す倫理的判断に従って、進んであることをしたり、あることを控えたり、他人を称賛したり、非難したりしながら生きている。たとえ倫理とか道徳という言葉に嫌悪感をもつ人でも、その人が自分の生活のなかで自分なりになんらかの倫理的判断を下しつつそれに従って生きている以上、否応なく倫理や道徳に関わり合っている。つまり倫理は、誰にとっても無関係なことではなく、実はその人の生活に密着した事柄であり、その人の生き方を、たとえすべてではないにしても、多くの部分で規定している事柄なのである。

倫理はこのように生活に密着した事柄である。もう少し広げて言うと、われわれの生活は、さまざまな「よさ」についての判断、つまり価値判断によって規定されている。健康を維持するにはどのような方法がよいか、車を買うときにはどのような車がよいか、休日をどのように過ごせばよいか、こうしたことを思いめぐらすときにも、さまざまな価値判断が働いている。人間は、価値を抜きにした、さまざまな事実についての知識だけでは生きていくことができない。倫理的なよさについての倫理的判断も、そうした価値判断の一つである。われわれが倫理を問題にするときにまず注目しなければならないのは、政治倫理や企業倫理といった特定の冠倫理ではなくて、このように一人ひとりの生活に密着した倫理である。この基本的な倫理そのものがいったい何であるのか、またそれが何に基づいているのかが問われなければ、政治倫理や企業倫理や生命倫理や環境倫理について語っても、そこで語られていることは空疎な内容にとどまるであろう。

慣習倫理

このように、われわれは誰でも倫理的善悪についての判断を下し、それに従って生き ているが、それでは、われわれはこうした倫理的善悪の知識をどのようにして獲得し,
たのであろうか。
知識を何ももたないで生まれてきた子供の場合を考えると、子供は両親やまわりの人びとからさまざまな知識を学び、自分がどのようにふるまっていけばよいかを知るが、そのなかには、何が倫理的によく、何が倫理的に悪いかの知識も含まれている。ほかの子供たちが乗りたがっているのに、一人の子供がブランコを独占すれば、その子供は倫理的に悪いことをしているとして叱られるであろうし、ほかの子供がブランコに乗っているのを押してやれば、その子供は倫理的によいことをしているとしてほめられるであろう。また、子供が嘘をつけば倫理的に悪いとして叱られるであろうし、自分の過失を正直に謝れば倫理的によいとしてほめられるであろう。あるいは、むしろ逆に言って、子供は自分の行為がほめられることによってそれが倫理的によく、叱られることによってそれが倫理的に悪いということを知るのである。
ところで大人の場合は、子供の場合に両親やまわりの人が演じた役割を、世間の人びとが演じることになる。人びとは、世間の人びとが一般に倫理的によいと認めて称賛する事柄を学んで自分もそれに従おうとし、世間の人びとが倫理的に悪いとして非難する事柄を知って自分もそれを避けようとする。この場合、「学ぶ」とは「まねぶ」ことであり、「まねる」ことであって、「教えられる通りまねて、習得する」(『岩波 古語辞典』)ことである。人びとは世間の人びとが倫理的判断を下しつつふるまうそのふるまい方を「まねぶ」ことによって、倫理的善悪の知識を「学ぶ」のである(大人が子供に教える倫理的善悪の知識も、多くはその大人が世間の人びとからまねびとった知識である)。

いま、このようにして形成された倫理を慣習倫理と呼ぶならば(実際にも、日本語の「倫理」または「倫理学」は英語では ethics であるが、この語は「慣習」を意味するギリシア語の ethos に由来し、また「道徳」に当たる英語のmoral は、同じく「慣習」を意味するラテン語 mos の複数形 mores に由来する)、世間の多くの人びとはこのような慣習倫理に従って生きている。十七世紀後半に活躍したイギリスの哲学者ロック(John Locke, 1632-1704)は、人間が従うべき法(ロックはこれを広義での「道徳規則」と呼ぶ)には三種類あって、一つは神が定めた「神法」であり、一つは国家が定めた「市民法」であり、いま一つは世間の人びとが定めた「世論の法」(law of opinion)である、と考えた。この「世論の法」が狭い意味での(つまり、いまわれわれが問題にしている)倫理もしくは道徳であって、人がそれに従わない場合は、「市民法」に従わない場合のように法的に処罰されることはないが、しかし、世間の人びとから非難され、つまはじきにされるという制裁を受ける。人はこうした制裁を受けることから生じる苦痛を味わいたくないために、「世論の法」に従うのである(「人間知性論』第二巻第二八章)。つまり、ここでの叙述に従うかぎり、ロックは倫理を慣習倫理という形で捉えていたと言えるであろう。

倫理が社会の慣習に基づくとすると、それは社会の変化につれて変化することになろう。言いかえれば、何が倫理的によいとされるかは、時代と場所が異なるにつれて異なることになろう。したがって、いつの時代にも通用すべき絶対的な倫理というものはなく、倫理は歴史的に相対的である、ということになろう(ロックもそのように考えていた)。そしてこのような観点から、倫理を一種の社会形成物として考察しようとする学問が成立する。この学問は、それぞれの時代に何が倫理的によいとされているかを調査し、それを記述することを主眼としているから、仮にそれを「記述倫理学」と呼ぶことにしよう。
記述倫理学はさらに、社会学や文化人類学や民俗学などの助けを借りて、なぜそのような倫理がある特定の時代・場所に成立したかを説明しようとするであろう。倫理はここでは、さまざまな社会制度や文化所産と同じように、一つの社会産物として考察の対象とされる。しかし、このことによって倫理はふたたび自分の生活から切り離され、眼前に見いだされる一つの事象として扱われるようになるのである。

宇都宮 芳明 (編集), 熊野 純彦 (編集)
出版社: 世界思想社 (1994/09)、出典:出版社HP

現代倫理学入門 (講談社学術文庫)

現代の諸問題に焦点を当てている

現代では、人工妊娠中絶や安楽死などの問題が生じる。大っぴらに問題にされなくても、正直にものをいう人が損をするなど、理不尽なことも多々起こる。本書では、そんな現代社会を教科書に載るような有名な倫理学者の理論や、著者自身の倫理学と絡めて問題解決のための道を提言している。

加藤 尚武 (著)
出版社: 講談社 (1997/2/7)、出典:出版社HP

まえがき

この本は、臓器移植や環境問題、ナチスとアンネ・フランクというような現代の道徳的なジレンマ・難問を中心にして組み立てられている。われわれの生活文化の中に、同じようなジレンマ・難問が発生する可能性がいつもある。倫理学は、問題が発生した時の用心に解決の型を用意しておかなくてはならない。このような用意のことを決疑論(casuistry)と言う。倫理学は、社会的決疑論である。

第1章「人を助けるために嘘をつくことは許されるか」
第2章「一○人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか」
第3章「一〇人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」

「人命と嘘」というようなまったく比較できない内容について、「AよりBの方がよい」という形の決断・判断を下すことが、倫理的決定の原型である。「一人の命と一○人の命」のように一見すると比較できるものについても、どちらがよいかは自明ではない。
このような日常生活につながりをもつ問いからはじめて、もっと広い適用範囲をもつ、もっと深い原理の考察へと読者を誘導することが、この本の一つの狙いである。たとえば「なぜ随意的な行動に責任が帰せられて、強制された行動に責任は免除されるのか」とか、「なぜ過去の私の行動に現在の私が償いをしなければならないのか」とかいう倫理学の本来の主題の手前で、本書は終わることにしてある。現代の日常生活の中で起こる問題から、人間の倫理性一般の構造への橋渡しを試みる。その橋渡しの試みが、同時に、現代という時代の倫理的システムの構造と課題の概略を明らかにすることになると思う。
現代の社会倫理の特徴は、第一に脱宗教的な世俗性、第二に市場経済が背景にあること、第三に多数決原理が認められていることである。功利主義的、自由主義的、民主主義的性格と言ってよい。

第4章「エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか」
第5章「どうすれば幸福の計算ができるか」
第6章「判断能力の判断は誰がするか」

現代の社会倫理は、エゴイズムの否定を目指しているのではなくて、最大の幸福が達成されるようにエゴイズムを制限しようとする。その制限もなるべく少ないようにしようとする。このような現代の倫理にぴったり重なり合う古典的な著作が存在するならば、それを中心に倫理学の基礎となる話を展開することは、たいへんよいことである。不幸なことに、現代という時代は自分を表現する古典をもっていない。私が判断して、現代の倫理にもっとも近い古典は、J・S・ミルの『自由論』(一八五九年)である。その内容は、要約すると、①判断能力のある大人なら、②自分の生命、身体、財産などあらゆる〈自分のもの〉にかんして、③他人に危害を及ぼさない限り、④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、⑤自己決定の権限をもつと要約できる。「他者危害の原理」がその中心となる考えである。これを自由主義の五つの条件と呼んでおこう。ミルの「豚とソクラテス」の議論で有名な『功利主義』も、多くの論点で重なり合う相補的な著作だが、不必要な逸脱があり、私はことさらに『自由論』こそ、現代の基軸的な著作であると主張したい。

ミルの功利主義的自由主義の限界を明らかにすることが、二十世紀の英米の倫理学が行なってきた主要な仕事であり、ドイツ、フランスの倫理学は、英米の倫理学に後れを見せないように体裁を取り繕っているという状況である。カントがヒュームを乗り越えているという伝説を信じる人はドイツにも少なくなったが、日本にはまだたくさんいる。だから功利主義的自由主義が現代倫理学の基軸だと言うと、カント神話の信奉者がロールズを担ぎ出してきて、英米でも功利主義は批判されていると、ぐずぐず文句を言い続ける。ロールズの倫理学は、しばしば現代版のカント主義だと言われるが、価値を世俗的なものに限定している点では、功利主義と同じ体質を持っている。「ロールズは修正功利主義者にすぎません」と私が言うと、カント主義者が「こういう非常識を語る奴は信じなくてよい」という顔をする。ロールズはミルの功利主義に配分原理が抜け落ちているという批判をした多数の思想家の一人であって、権利を含めて価値一般の世俗性を否定したわけではない。

現代で特に功利主義批判が重大な課題になってきているのは、実はベンサムやミルの時代にはまだ発生していなかった功利主義と自由経済と民主主義の組み合わせシステムができあがってしまったからである。このシステムの構造的欠点を指摘するという課題が発生している。功利主義と民主主義と自由主義を組み合わせると、自由主義の五つの条件のすべてに難問がからんでくる。

歴史的に言えば、世俗化、市場化、民主化はばらばらに起こった出来事で、ベンサムが功利主義の原理を書いた時、彼は民主主義者ではなかったし、ミルが『自由論』を書いた時、議会主義も未成熟で大衆社会はまだ成立していなかった。功利主義の語る幸福の量、市場経済の示す効用の量、民主主義の示す支持者の量、この三つの量が巴を描いて、現代の社会的システムを形づくっているのだが、ベンサムやミルの時代には、この三つの要素は出そろっていなかった。「そのために功利主義批判にも筋違いのものがある。たとえば「幸福の計算はできない」(幸福は加算可能な量ではない)という批判がある。だから功利主義がダメなのではなくて、すべてをお金に換算する社会が成立すれば、たとえ「幸福の計算」はできなくても、お金の配分に置き換えれば、功利主義の考え方が、ベンサムやミルの時代以上に役に立つ。それほどまでにお金を中心に組み立てられる社会システムがよいか悪いかは別問題である。
欠点だらけの功利主義的自由主義にしか倫理学に未来がないという危機を、マルクス主義はすっかりダメだと捨てた上で受け止めなくてはならない。
ミルの『自由論』と『功利主義』に先立つ、倫理学の古典と言えば、カントの『実践理性批判』と『道徳形而上学の基礎づけ』だろう。これは近代の夜明け前の思想である。功利性を抑えて、純粋な市民的内面性で倫理が組み立てられている。カントの雰囲気は、ひたむき正直派のムードである。ミルと比較することで、それぞれの特徴が分かってくる。ここから現代倫理学の基本的な原理が、明らかになる。

第7章「〈……である〉から〈……べきである〉を導き出すことはできないか」
第8章「正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか」
第9章「思いやりだけで道徳の原則ができるか」

ミルの自由主義の倫理学は、社会生活をする以上は最低限として「他者危害の原則」を守る必要があることを説く、最低限度の倫理学である。これに対してカントの倫理学は、市民としての純粋な倫理性とは何かを語ったものである。しかし、道徳的な熱狂はカントがとても嫌った精神体質で、市民としてのつつましやかな行ないの世界がカントの本領である。市民倫理の中心的な問題は、次のような問いで示される。

第10章「正直者が損をすることはどうしたら防げるか」
第11章「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」
第12章「貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか」

本書の中心になっているのは、第1章であり、最初にこの章を読んで、後から他の部分を読んでもよい。自由主義の五つの条件とその問題点が要約されている。しかし、この本の狙いは、昔の話をすることではない。現代世界の倫理構造を明らかにして、二十一世紀の文化の骨格を示すこと、二十一世紀で有効となるような倫理学の輪郭を描き出すことである。この本は、そのための土台づくりである。環境倫理学、歴史哲学、科学倫理学が、どうしても必要になる。

第13章「現在の人間には未来の人間に対する義務があるか」
第14章「正義は時代によって変わるか」
第15章「科学の発達に限界を定めることができるか」

これらの問題は、従来の倫理学では扱われなかったが、体系というピラミッドの土台を広げる役割を果たす。土台の石を幅広く積めば積むほど、ピラミッドは高くなる。生命倫理学と環境倫理学は、将来の倫理学の頂点を高くするために、従来の倫理学に私が横に広く積み足した部分であるが、それはまた同時にもっとも現代的な問題を扱う領域でもある。

一九九二年九月
加藤尚武

追記

本書は放送大学教材『倫理学の基礎』(一九九三年三月、放送大学教育振興会)の改訂版である。一九九七年四月以降、放送大学での私の授業はなくなるので、放送大学教材としての紙幅上、内容上の制約をはなれて、また旧版の中の不注意による誤りを直すためにも、大幅に加筆、削除し、改題して講談社学術文庫として出版することにした(あとがきを参照されたい)。

加藤 尚武 (著)
出版社: 講談社 (1997/2/7)、出典:出版社HP

目次

まえがき

1 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
「嘘も方便」の正しい適用
カントは「嘘も方便」に反対する
カントの倫理主義
われわれは「よりよいもの」を選ばなくてはならない

2 一○人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか
選好の順位
奇妙なユートピア「サバイバル・ロッタリー」
生存の功利主義と人格の尊厳
単一の最高原理は存在するか

3 一○人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか
六つの配分方法
最大多数の最大幸福
平等原理とリューマチの王様
ミルの平等論
最大幸福原理と平等原理
最大幸福と多数決

4 エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか……
功利主義の原理は誰もが認めている
ベンサム対カント
倫理学は何を決めなければならないか
最小限の規制
豚とソクラテス

5 どうすれば幸福の計算ができるか
功利主義批判の要点
行為功利主義と規則功利主義
九〇パーセントの事実上の賛同
欲望量から選好の結果へ
推移律の成立条件

6 判断能力の判断は誰がするか
決定権の範囲の決定
人格の範囲
対応能力
人格概念の要約と問題点

7 〈……である〉から〈……べきである〉を導き出すことはできないか
価値判断と事実判断
自然主義的誤謬
主意主義と自然主義
論理とレトリック
サールの批判

8 正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか
精神世界のニュートン力学
カントの定言命法
定言命法の功利主義的な解釈
ヒュームの正義論
形式主義の可能性

9 思いやりだけで道徳の原則ができるか
黄金律と互酬性
黄金律への批判
マッキーによる普遍化の第一段階
普遍化の第二、三段階
ロールズの「無知のヴェール」
ヘアの二段階の普遍化理論
ヘアの思い違い

10 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
囚人のジレンマ
結果の予測
実験の結果
アローの定理
公平な第三者

11 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
判断力のある大人
自分のもの
他者への危害
愚行の権利
愚行権の根拠
狂信的干渉の害

12 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
施しは義務であるか
二重の結果
完全義務と不完全義務
カントによる四つの義務
人工妊娠中絶論

13 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか
現在の人の未来の人への犯罪
近代化の意味
世代間の関係
「恩」の再発見
ロールズの正義論
先人木を植えて、後人その下に憩う

14 正義は時代によって変わるか
ヘロドトスからマーク・トゥウェインまで
相対主義
ウィリアムズの批判
マルクス主義
変化は事実判断で起こる

15 科学の発達に限界を定めることができるか
沈黙の春
科学批判の思想
科学は中立的か
人間の同一性

あとがき
索引

加藤 尚武 (著)
出版社: 講談社 (1997/2/7)、出典:出版社HP

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

そもそも「善い」「悪い」とは?

「いじめは悪いこと」「友達に親切にすることは善いこと」など、私たちは日常生活において善悪についての判断をしなければならない場面が訪れる。しかし、そもそも「善い」「悪い」とは何なのか。何を判断基準にしているのか。このような観点から問題を見るメタ論理学を通して、日常生活の問題について考えている。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

目次

はじめに

I 道徳のそもそもをめぐって

第一章 メタ倫理学とは何か
1 倫理学とは何か
2 倫理学の分類
3 メタ倫理学は何の役に立つのか
4 メタ倫理学では何が問われるのか
5 本書の構成

第二章 メタ倫理学にはどんな立場があるか
1 客観主義と主観主義
2 道德的相対主義
3 客観主義と主観主義のまとめ

Ⅱ 道徳の存在をめぐって

第三章 「正しいこと」なんて存在しない――道徳の非実在論
1 道德の存在論
2 錯誤理論――道語の言説はすべて誤
3 道德の存在しない世界で
4 道德非実在論のまとめ

第四章 「正しいこと」は自然に客観的に存在する
1 実在論の考え方と二つの方向性
2 素朴な自然主義(意味論的自然主義) ――もっともシンプルな自然主義
3 還元主義的自然主義――道德を他の自然的なものに置き換える
4 非還元主義的自然主義道德は他と置き換えられない自然的なもの
5 自然主義全般の問題点
6 自然主義的実在論のまとめ

第五章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する
1 神命説
2 強固な実在論
3 理由の実在論
4 非自然主義的実在論のまとめ

第六章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか
1 準実在論――道德は実在しないが、実在とみなして構わない
2 感受性理論――道德の実在は私たちの感受性を必要とする
3 手続き的実在論――道德は適切な手続きを通して実在する
4 静寂主義――そもそも実在は問題じゃない
5 第三の立場および第Ⅱ部のまとめ

Ⅲ 道徳の力をめぐって

第七章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである――表出主義
1 道德的な問いに答えること
2 表出主義
3 表現型情緒主義道徳判断とは私たちの情緒の表現である
4 説得型情緒主義道徳判断とは説得の道具である
5 指令主義道徳判断とは勧めであり指令である
6 規範表出主義
7 表出主義のまとめ

第八章 道徳判断を下すとは事実を認知することである――認知主義
1 認知主義
2 内在主義と外在主義
3 ヒューム主義――信念と欲求は分離されねばならないか
4 認知は動機づけを与えうるか
5 道徳判断の説明のまとめ

第九章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
1 Why be Moral
2 道德的に書く振る舞うべき理由などない
3 道德的に書く振る舞うべき理由はある――プリチャードのジレンマ
4 道具的価値に基づく理由
5 最終的価値に基づく理由――理性主義
6 そもそも理由なんていらなかった?――直観主義、再び
7 Why be Moral問題および第皿部のまとめ

おわりに
あとがき

文献一覧

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

はじめに

本書はメタ倫理学の入門書である。とはいえ、「メタ倫理学」という言葉など初めて聞くという人も多いかもしれない。ここでのメタというのは「後ろ」くらいの意味だ。おおざっぱに言えば、倫理について後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる、というのがメタ倫理学である。たとえば、私たちは日常的にさまざまな場面で、倫理にかかわる判断を目にしたり、実際に自分でそうした判断を下したりしている。

「友達に親切にすることは善いことだ」
「約束を自分の都合でドタキャンするのは最低だ」
「たとえ怒られるとしても、正直に真実を言うことは正しいことだ」
「お年寄りからお金をだまし取るなんて、とんでもない悪人だ」
「金持ちばかりを優遇して、貧乏人を苦しめるような法律は不正だ」
「毛皮製品をつくるために動物を殺すことは非倫理的だ」
「恋人同士の間でもプライバシーは守られるべきだ」
「昼間から働きもせずビールを飲んでいるなんて不道徳だ」
「経済発展で大きな利益が得られるのだから、多少の環境破壊は悪いことではない」
「両親に介護が必要である以上、仕事を辞めて実家に帰るべきだ」
「いじめは悪いことだ」

などなど。
普通の倫理や道徳の議論はたいてい、こうした発言に対して「どうして?」と問いかけることからはじまる。「どうしていじめは悪いことなの?」「あなたがいじめられたらどう思う?いじめられると、とても辛くて悲しいんだよ」というように。
しかし、ここで、相手がこんな風に食い下がってきたらどうだろう。
「いじめは悪いことだと言うけれど、そこで言われている悪いってそもそもどういう意味?」とか「はいはい、いじめは悪いですよ。で、そもそも悪いから何なの?」というように。
そんな風に言われたら、私たちはどう答えられるだろうか。こうした問いは、「いじめは善いことか、悪いことか」という具体的な問いから一歩後ろに下がって、「そもそも善いとは、悪いとはどういう意味か。なぜ善いことをしなければならないのか、なぜ悪いことをしてはいけないのか」ということを考えるものだ。あるいはもっと遡って、「そもそも、何が善いことで何が悪いことなんて、本当に決められるの?」「善いこと悪いことなんて人それぞれじゃないの?」などという問いもありうる。
おそらく、人によっては、そんなこと考えたこともない、考える方がおかしいと思うかもしれない。悪いことをしてはいけないのは当たり前だし、詐欺犯が悪人なのも当たり前だ。しかし、現に世の中にはいじめも、詐欺も存在している。彼らはそれらが悪いことだとわかっていないのだろうか。それとも悪いとわかっていてやっているのだろうか。悪いとわかっているのなら、どうして彼らはそんなことをするのだろうか。こうしたことを考えるためには、悪いことをしてはいけないのはなぜ、どういう意味で当たり前なのか、ということを問う必要がある。そして、そうした問題を扱うのが、メタ倫理学だ。そのため、本書は倫理学を扱う著作ではあるが、「いじめは悪いことだからやめよう」などの直接的な主張を行うものではない。代わりに、本書で扱う問題は以下のようなものである。

「善・悪、正・不正、~すべき、などといった倫理にかかわる言葉は、本当はいったい何を意味しているのだろうか」
「「これは善いことなのだろうか」とか「これは間違ったことなのだろうか」「私はどうすべきなのだろうか」のような倫理や道徳の問いに正しい答えはあるのだろうか」
「正しい答えがあるとすれば、それはどうすればわかるのだろうか」
「正しい答えがあるとすれば、それはすべての人にあてはまる唯一絶対のものだろうか。それとも文化や社会ごとの ものだろうか。あるいは答えは人それぞれの心の中にあるようなものだろうか」
「正しい答えがないとすれば、それでも道徳や倫理は私たちにとって大事なものであり続けるだろうか」
「そもそも、道徳や倫理はそんなに大事だろうか」
「悪いことや、不正なことはなぜしてはいけないのだろうか」
「倫理的、道徳的な判断と他の判断の違いは何だろうか」
「倫理や道徳は科学によって説明ができるようなものだろうか」
「倫理や道徳について述べたり、書いたりすることにはどんな意味があるのだろうか」

本書ではこのような問いを考えていくことで、倫理や道徳の問題について悩み、葛藤し、答えを求めて議論し、選択し、決断する、私たちの道徳的な営みを、一歩下がったところから、検討していく。そして、単に「当たり前」で済ませられないような倫理的な問題に現実に直面したときに、少し立ち止まって考えるヒントを伝えようとするものである。
本書は三部構成となっている。第1部ではメタ倫理学とはどういうことを考えるものかとか、倫理や道徳は人それぞれのものかといった基礎的な事柄を確認する。第1部では具体的なメタ倫理学の議論として、道徳的な問いには答えがあるのだろうか、ということを検討していく。第Ⅲ部では、道徳的な判断を下すことや道徳について考えることがもつ意味の検討を手がかりに、最終的に、私たちは本当に道徳的に正しい仕方で振る舞わねばならないのか、どうして悪を避けて善いことをしなければならないのかを考える。
様々な議論を紹介していくにあたり、本書は入門書ということで、可能な限り、倫理学についての予備知識がなくとも理解できるような書き方を心がけた。特に哲学・倫理学における専門用語については、その都度の解説を行った。それでも、議論の運びなどに関して、ところどころやや難しく感じられる箇所もあるかもしれない。それについては、一度ではわからなくても諦めずに、二度、三度読んでもらえると、おそらくだいたいの意味はわかるものと思うので、粘り強くお付き合いいただけるとありがたい。
また、登場する様々な論点について、基本的に、肯定的な意見と否定的な意見の両方を取りあげた。その際、本文中では、必ずしも、この立場は正しい、この考え方は正しくないといった結論は下していない。そのため、読者によっては、結局、どっちなのだという不満を覚える人や、むしろ自分の今までの考え方が揺さぶられてもやもやするという人もいるかもしれない。しかし、(メタに限らず)倫理学を学ぶということは、そういうことである。倫理とは私たちの真剣な生 き方を問うものであり、そうである以上、その答えは簡単には手に入らない。誰の人生だってそんなに単純なものではないのだ。
とはいえ、悲嘆する必要はない。自分がこれまで当たり前だと思っていたことは本当は自明ではないのかもしれないと気づくこと、自分とは違う立場の人も様々な理由があってそう考えているんだと知ること、こうした営みは、私たちの中の凝り固まった偏見や先入観を打ち破ってくれる。そうやって考え方の幅を広げることは、生き方の幅を広げること、今の生き方だけに縛られない、別の生き方も可能なんだと気づくことにもつながりうるだろう。そして、そのようにして得た広い視野は、いろいろな「当たり前」に縛られた私たちの生を少しだけ楽にしてくれるかもしれない。本書を手掛かりにして読者のそれぞれが「そもそも……」と問いを発することで、自分の倫理についての考え方を問い直し、自分なりの倫理の捉え方を探究してもらえれば幸いである。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

I 道徳のそもそもをめぐって

第一章 メタ倫理学とは何か

1 倫理学とは何か

私たちは日々の暮らしの中で、倫理、道徳にかかわる様々な問題に出会う。それは嘘をついたり悪口を言ったりしてもいいか、友人の不正を見逃すべきかなどのやや個人的なものから、医療資源の配分や差別にかかわるものなどの公的なもの、そして戦争犯罪、宇宙開発の公正さなどのスケールが大きなものまで多岐にわたる。
そうした倫理や道徳にかかわる様々な事柄を、学問として考えていくのが倫理学だ。

学問というと大仰に聞こえるかもしれない。しかし、要するに、問題を整理して、なぜそうなっているのかを考え、必要な論拠を提示しながら、倫理とは何なのかを誰にでもわかるようにしていくことであり、それを通じて、倫理にかかわる問題を解きほぐしていく作業である。たとえば、次のような場面を考えてみよう。
ある小学生が交通事故に遭って頭部を強く打ち、意識不明となる。医師はいわゆる脳死状態という診断を下した。嘆き悲しむ家族に対し、医師は臓器提供についての説明を行う。臓器提供を行えば、心臓病などで苦しむ他の子どもたちを救うことができる。だが、家族の目の前でベッドに横たわる子どもの身体はまだ暖かく、今にも目を開けてくれそうだ。この子の身体にメスを入れるなんて耐えられない、でも、この気持ちを優先させることは自分のことしか考えていない、利己的だと批判されるかもしれない、いや、批判されることを恐れて提供を申し出るなんて、それこそ非倫理的じゃないか、と家族は煩悶する。

家族はいったいどうすべきだろうか。
現在の臓器の移植に関する法律では、本人が拒否していない場合、家族の同意によって臓器の提供が可能である。そのため、子どもの意思が不明であるなら、決定は遺された家族に委ねられることになる。
このような難しい状況について、倫理学は様々な角度から分析を加える。たとえば、このケースで考慮しなければいけない要素は何だろうか。他の子どもたちの幸福は言うまでもないだろう。だが、家族自身の気持ちはどうだろうか。医師や看護師などの医療関係者たちの気持ちはどうだろうか。

あるいは、父親はふと、以前、臓器移植について話した際に、子どもが臓器提供を拒否するようなことを言っていたことを思い出すかもしれない。しかし、そのことを知っているのは父親だけなので、黙って提供の承諾書にサインすることもできる。実際、子どもは臓器移植についてよくわからないままで、あるいは辛い境遇にある他の子どものことを十分に想像することなく、ただなんとなくのイメージで拒否の意志を示していたのかもしれない。そんな場合でも、真実を告げることは正しいことだろうか。
こうした問題に答えを出すためには、実際に家族がどう思っているかなどの事実だけでなく、そもそも死とは何か、幸福とは何かについても考えていかなければならない。あるいは、子どもには判断能力があるのか、そもそもどのようなことがわかっていれば、まっとうな判断と認められるのか、などのことも考える必要があるかもしれない。そして、もっと言えば、「正しい」とはどういうことなのだろうか、ということすら問題になるだろう。ここで求められているのは「正しい選択」なのだろうか。私たちはとかく「正論」を嫌いがちである。私たちは「正しいこと」と自分の気持ちがぶつかった場合に、「正しいこと」の方をしなければならないのだろうか。

いずれにしても現実では、限られた時間の中で家族が自ら、何らかの答えを出さなくてはならない。倫理学はそのときに彼らが少しでも後悔の少ない選択をできるように様々な考え方を提案したり、法制度の設計に関して助言を提供したりしている。
このような倫理をめぐる様々な問題に対して、哲学や数学、論理学を活用するのに加えて、心理学、社会学や生物学、果ては医学などあらゆる分野の知識を総動員して答えようとしているのが、倫理学という学問である。そして究極的には、倫理学は「人はいかに生きるべきか」という問いに答えを出そうとしている。

2 倫理学の分類

倫理学はおおよそ三つの分野から成り立つとされている。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学の三つだ。これらの区別や相互の関係は必ずしも明確なものではなく、重複している部分もあって、なかなか厄介なものではあるのだが、それがどんな問いに答えようとしているのかを見ることで、大まかな違いは理解することができる。まずは以下で、順に見てみよう。

規範倫理学と応用倫理学

まず、規範倫理学というのは、一般的には「私たちは何をすべきで、何をしてはいけないか」「私たちはどんな人になって、どんな風に生きたらいいか」などの問いに答えることを通じて、倫理的に目指すべき振る舞い、生き方を考える学問である。代表的な理論には、もっとも多くの人をもっとも幸福にすることが正しいことであると考える功利主義、私たちに課された様々な義務や責務をしっかりと果たしていくことが私たちのなすべきことであると考える義務論、親切・優しい・勇敢などの優れた性格を身につけて生きることが大切だと考える徳倫理学などがある。

次に、応用倫理学とは、規範倫理学の考え方を基礎として、「現実のこの場面で私たちは何をすればいいのか」「この実社会においてこのような職業にある私たちはどんな風に生きたらいいのか」など、現実に私たちが直面している問題を考える学問である。先述した臓器移植の問題などを含む私たちの誕生や死にかかわる問題を考える生命倫理学、環境問題を中心として人間と自然、動物との関係などを考える環境倫理学、プライバシーの問題や情報の共有、医療情報の扱いなどを考える情報倫理学、エンジニアや科学者、医師などの専門的技能をもった人たちがとるべき振る舞いを考える専門職倫理学などがある。たとえば、生命倫理学の研究者は、医師や看護師などの医療従事者らと協力しながら、実際の医療現場で、どうすれば患者や家族が幸福に過ごすことができるかを考えたり、あるいは法律家や政治家らと議論して、先に挙げた脳死臓器移植などにかかわる法制度の在り方などを探究したりしている。

規範倫理学と応用倫理学の関係は、たとえば物理学と工学の関係と似ている。物理学は様々な物体の性質や働きなどを解明し、工学は物理学の成果を利用して実際に工業製品を作り出す。同様に、規範倫理学は正しいこととは何かを探究し、応用倫理学は実際の現場で正しいことが行われるように助言や提言を試みる。この二つの営みは倫理学の両輪となっている。現場で応用できないような理論は机上の空論となって役に立たないし、基礎理論を欠いた応用は浅薄で場当たり的なものになってしまう。

メタ倫理学

では、最後に残った、メタ倫理学とは何だろうか。メタというのは、もともとギリシア語で「後ろ(deta)」という意味である。ここでは、まずは規範倫理学や応用倫理学を一歩後ろから眺める学問くらいのものだと思ってもらいたい。後ろから眺めて、それらが前提としていることを、本当にそうなのかな、そもそもそれってどういう意味なんだろう、と問うてみるのがメタ倫理学の役割である。

先ほどの物理学と工学のたとえを思い出してみよう。たとえば熱力学の研究をする物理学者は様々な実験をしたり、理論を組み立てたりして、物体の間で熱が伝わり運動を生み出す仕組みを解明する。そして、工学者はその成果を応用して冷蔵庫や車のエンジンを設計したりする。このとき、当たり前のことだが、彼らは基本的に物体が存在することを前提としている。

しかし、そもそも私たちの目の前にある物が本当に存在している、ということはどうして言えるのだろうか。確かに、私が今読んでいるこの本は目に見える。だが、目に見えることが存在の規準であれば、各種の気体は存在していないことになる。しかも、目に見えたとしても、それは幻覚かもしれないし、私は夢を見ているのかもしれない。古来、形而上学や存在論、認識論と言われる哲学の分野ではこうした物理学などの自然科学が当たり前のこととして前提にしていることを、一歩下がって、後ろから本当に正しいことだろうかと問うてきた。

倫理学についても同じようなことが当てはまる。規範倫理学や応用倫理学は基本的には、何らかの意味で、正しいことやなすべきことがある、という前提でその探究を行ってきた。さらに、なすべき正しいことがわかれば、それが推奨され、行われるはずであり、逆になされるべきではない不正なことがわかれば、それは避けられるはずであると考えてきた。研究者たちは、それらの前提に基づいて、主に「(この場面で)正しいこととは何か」という問いに答えようとして、規範倫理学においては「最大多数の最大幸福を実現することだ」「義務をしっかりと果たすことだ」などと論じ、応用倫理学においては「インフォームドコンセントをしっかりと得て、患者の希望を可能な限り叶えることだ」「動物が感 じる苦痛にも十分に配慮した畜産施設を作ることだ」などと論じてきた。そして、実際に様々な専門家が守らねばならない倫理綱領などの策定に従事してきた。

しかし、メタ倫理学においては、そもそも規範倫理学が前提としている様々なことが疑問に付される。たとえば「正しいこと」など本当に存在するのだろうか、そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか、私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのだろうか、などである。

もちろん、そんなことを考える必要はあるのか、と疑問に思う人もいるだろう。冷蔵庫が現実に存在しているかどうかを私たちが疑わねばならないような場面は想像しがたいように思える。同じように、正しいこと、やってはいけないことが世の中に存在することも明らかではないか、と。しかしながら、よくよく振り返ってみると、私たちは意外と日常的にメタ倫理学的な観点から物事を考えている。たとえば、最初に挙げた臓器移植の事例を思い返してみてほしい。当該箇所 を読んだとき、次のようなことを思った人はいないだろうか。

「そもそも倫理なんて人それぞれだから、臓器移植をすべきかどうかなんて問題に正解はないんじゃないの?」
「利己的に振る舞うことはよくないことだって言うけど、そもそも人間の行動なんて全部利己心に基づいていると思うな」
「そもそも非倫理的とか、そんなことはどうでもよくない?この場合に大事なのは、結局、自分がどうしたいかでしょう」
こうした問いかけは、何が正しいことか、どうすれば正しいことができるかを問う規範倫理学や応用倫理学の前提そのものに疑問を投げかけている。そしてこのような「そもそも」を冠する問いかけこそが、メタ倫理学の扱う問いである。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP