キリスト教と日本人 (ちくま新書)

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宗教について見つめ直す

「日本人はなぜキリスト教を信じられないのか」「信仰とは、また宣教とはいったい何なのか」といった疑問に対し、日本へのキリスト教伝来から始めて、近現代に至るまでの宣教の歴史を辿り、正面から見つめ直そうとした非常に良い本です。一読の価値ありでおすすめです。

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP

目次

はじめに
キリスト教の矛盾を見つめる/そもそもキリスト教の歴史は「長い」のか/キリスト教は「新しい」?/世界に最も大きな影響を与えた人物は誰か/信仰があるのかないのか、という問い

第一章 キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はない?
1 ザビエルが期待した日本人
ザビエルとその時代/四隻のうち二隻がたどり着ければ大成功/
アンジローの不思議な運命/「なぜ日本語は縦書きなのだ?」/ザビエル、四六歳で死去/ザビエルが宣教で重視したもの/宣教と商売/現実主義的なザビエル/日本人からザビエルへの質問/キリスト教を知らずに死んだ日本人に「救い」はないのか?/十戒を実質的に守っていたら大丈夫?/現在の主流派の見解
2 宣教師たちの挑戦と葛藤
仏教が低迷していたからキリシタンが増えたのか/戦乱のなかでの宣教/慈善は宣教にプラスにならなかった?/仏教とキリスト教は似たようなもの?/既存の思想との類似/キリシタンはキリスト教を正しく理解していたのか/誤解が解けて、対立へ/トーレスによって軌道にのった日本宣教/差別的な宣教師らいた/日本人は「白人」?/ヴァリニャーノが与えた教育

第二章 戦争協力、人身売買、そしてキリシタン迫害
1 激変するキリスト教事情の背景/四人の日本人少年、ローマに向かう/四人のその後/信長、秀吉とキリスト教/宣教師たちの武力行使のすすめ/宣教と戦争は矛盾しない?/宣教師と軍事に対する感覚/キリシタン大名の戦いを支えた宣教師/日本が侵略される可能性はあったのか/戦争は「文化の発露」である
2 キリシタンと「人界の地獄」
伴天連を追放せよ/宣教にはお金が必要/迫害の始まり/神社仏閣を破壊したキリシタンと宣 教師たち/日本人奴隷が売買されていた/「奴隷」という言葉は少し曖昧/人身売買を禁じた 秀吉/人身売買に関与していたイエズス会宣教師/宣教師による「進物」の強制/刀狩りと大仏造り/日本をキリスト教化させる狙い/本格的にキリスト教が禁じられる/不干斎ハビアン によるキリスト教批判/「踏み絵」の時代へ/「強かったから鎖国」/「崩れ」と「転び」/さまざまに考案された拷問/「人界の地獄」

第三章 禁教高札を撤去した日本
1 復活したキリスト教
来航/宣教師に「発見」されたキリシタン/プティジャンの報告 クレキリシタン」について/キリシタンは「変容」などしていない?/「キリスト教とは何か」という根本的な問題へ/ようやく禁教高札が撤去される/宣教師フルベッキと岩倉使節団/軍隊建設のすすめ/拳銃を携帯していた宣教師/さまざまな社会の変化/宣教師のもとへ送り込まれたスパイ
2 日本人の信仰と宣教師たち
入信の際に求められた覚悟/「理解」してから信仰するのか?いかがわしい改宗者も多かった?/「宗教的熱狂」のない日本人/仏教からの攻撃とキリスト教の対応/人々に認められる ための手段としての「禁酒/禁酒運動のその後/「ド・口さま」と呼ばれた神父/パリ外国宣 教会/ド・口の医療活動/多芸多才だったド・ロ/ド・口の建築/枢機卿を輩出したド・口の宣教地/私利私欲ではなく、宗教の勢力拡大のためでもなく

第四章 「本当のキリスト教」は日本に根付かないのか
1 それでも嫌われたキリスト教
英語を学びたい日本人/英語と聖書に通じていた軍人/英語教育に熱心だった宣教師たち/教育現場で攻撃されたキリスト教徒の教師/井上哲次郎のキリスト教批判/高札撤去後も続いたキリスト教への拒絶反応/キリスト教の側も不寛容だった/村八分と葬儀の妨害
2 宣教師 ニコライと日本人
宣教師ニコライ/日露戦争と日本の正教会/戦争と宗教と愛国心/プロテスタントの宣教師は「ろくでなし」/同じ「キリスト教徒」でも……/ニコライの日本人理解と期待/日本人のキリ スト教迫害に理解を示したニコライ/日本人には「宗教的な渇き」がないのか/日本の庶民の宗教的感情/ニコライの失望と成果/時代の流れに恵まれなかった正教会/ニコライという男

第五章 「キリスト教」ではなく「キリスト道」?
1 その宗教の日本語名は「キリスト教」
「キリスト教」という呼称を疑う/「クリスチャニティ」をどう訳すか/「宣教」新しい日本 語/やっぱり「キリスト道」/求道、入道、邪道など/結局「キリスト教」になった/「宗教」 る非常に新しい/しばらくは不安定だった「宗教」概念/宗教と教育の近接性/「先生」が教 えてくれたキリスト教
2 日本でキリスト教徒が増えない理由
か増えないキリスト教徒/日本はキリスト教の根を腐らせる「沼地」なのか/キリスト教は「お騒がせ宗教」/日本人がキリスト教を敬遠した理由/宣教師たちの傲慢と自文化中心主義/二一世紀現在も、日本でキリスト教徒は増えない/キリスト教嫌いのパターン/「ぼくは 宗教嫌いなんですよ」だいたいこのような理由でキリスト教を信じない/宗教は「教え」を 「信じる」ことなのか

第六章 疑う者も、救われる。
1 信徒たちの「信仰」とはいったい何か。
信徒たちは本当に「信仰」をもっていたのか/信徒ならばキリスト教を「理解」しているとは限らない/「理解」していない信徒も、その宗教を支えてきた/「濃い宗教」と「薄い宗教」/キリスト教は本当に一神教?/「神の使者」と「キリストの代理者」/聖書の教えに従わなくてもる「キリスト教徒」である/キリスト教国にもスリがいる/背教者と信仰/キリスト教の「受容」とは何か/「信じる」のは宗教に限った話ではない/宗教とは思考の停止なのか
2 信じなくてもいい
どんな芸術が「宗教的」なのか/信仰は「究極的な関心」である/疑う者も救われる/マザー・テレサは誰よりも強く「信じて」いたのか/「神の不在」をつぶやいたマザー・テレサ/「わたくしの信仰は無くなりました」/「信じる」ことにこだわらない/意外と現実的な「肝っ玉おっ母ぁ」/キリスト教を信じなくてもいい

あとがき
参考図書案内

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP

はじめに

キリスト教の矛盾を見つめる

日本人の九九%は、キリスト教を信じていない。
本書では、その九九%の「信じない日本人」の方々に、今までどおり信じないままで構わないので、日本人とキリスト教との関わりについて考えていただきたいと思う。
ただし、それは決してキリスト教の素晴らしさをわかってほしいとか、逆にキリスト教のダークサイドを知ってほしいとか、そういう狙いからではない。
本書の目的は、これまでの日本人のキリスト教に対する眼差しや、来日した宣教師たちの言動を糸口にして、そもそも宗教とは何か、いったい人間とは何か、という大きな問いに向かうきっかけを提供することである。
キリスト教は、単なる良い宗教でもなければ、単なる悪い宗教でもない。私たち人間は誰しも多面的であり、優れた面もあれば愚かな面もある。キリスト教も、そんな矛盾した人間によって営まれる以上、ポジティブな面とネガティブな面の両方があり、全体としては矛盾したものでしかありえない。
かつて、信徒が「バテレン門徒」とか「キリシタン」と呼ばれていた頃の日本では、彼らは 迫害され、火炙り、水責め、穴吊りなど、おぞましい拷問もおこなわれた。映画にもなった遠藤周作の小説『沈黙』で描かれたとおりである。しかし、キリスト教徒は被害者である一方で、加害者でもあった。彼らは世界各地で、信仰の名において残虐な行為もおこなった。キリスト教徒同士で殺し合い、異教徒を攻撃し、侵略や虐殺を繰り返したことも事実である。
ならば、神の「沈黙」はこれまで少なくとも二種類あったと言わざるをえない。すなわち、 迫害に苦しめられたキリスト教徒に対する「沈黙」と、残忍なキリスト教徒に苦しめられた人々に対する「沈黙」である。
だが、実際のキリスト教徒のほとんどは、完全な善人にも完全な悪人にもなりきれず、迷ったり悩んだりしながら、誰かを愛し、同時に誰かを傷つけ、それぞれの人生を中途半端にもがいて生きてきたのである。
キリスト教は、全体として見るならば、人間というもののいかんともしがたい現実を示す壮大な実例だとも言える。
キリスト教の信仰を持たない九九%の日本人にとっては、複雑でわかりにくいその教義や思想よりも、むしろキリスト教のなまなましい矛盾と限界それ自体の方が真の意味での宗教的思索のきっかけになるのではないだろうか。

そもそもキリスト教の歴史は「長い」のか

さて、キリスト教には二○○○年の歴史があるとされている。
二○○○年の歴史というと、何だかとても長いと思われるかもしれないが、本当にその歴史は「長い」のだろうか。いったい何と比べて「長い」と言えるのか。
ギリシャでは、イエスの誕生より七○○年も前に『イリアス』『オデュッセイア』『神統記』などが書かれているし、『論語』の孔子が生きたのるイエスより約五○○年も前である。
キリスト教は、ユダヤ教から派生した宗教なので、当然ながらユダヤ教の方が歴史は長い。仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教なども、キリスト教が誕生するはるか以前から存在している。
釈迦はイエスより四○○年前もしくは五○○年前の人物であり、ジャイナ教の開祖ヴァルダーマーナもだいたい同時期である。ゾロアスターの生存年代には諸説あり、イエスより六○○年前とする説が有力だが、一二〇〇年前とする説もある。
文字で書かれたものとしては、インドの『リグ・ヴェーダ』がイエスの約一二〇〇年前、『ハムラビ法典』はイエスより一七〇○年以上前、『ギルガメシュ叙事詩』の古バビロニア版は イエスより約一八○○年も前のものである。
古代エジプトや古代メソポタミアでは、イエスが生まれる三〇〇〇年以上前から都市国家や統一国家が生まれており、そこにはさまざまな「神」があって、儀礼が営まれていた。
私たちの祖先が、舟、弓矢、縫針、装飾品などを作り出したのは、七万年前から三万年前にかけてであるが、当時の小像や洞窟壁画などからも、その頃にはもう確かに「宗教」や「芸 術」と言えるものがあったと考えられている。
何を「宗教」と定義するかにもよるが、すでに一○万年以上前の遺跡から死者を丁重に葬った明らかな痕跡が見つかっているので、世界の宗教史を概説する際には、しばしばそのあたり までさかのぼるのが一般的である。

「キリスト教は「新しい」?

要するに、イエスが生まれるはるか以前から、人々は、何かを崇拝し、何かを祈り、何かを信じ、世界の始まりやこの世の善悪について考え、生と死の意味について問うてきたのである。こうした単純な事実を踏まえると、「キリスト教」は、この世の普遍的真理を述べているとするわりには、意外と最近生まれたさまざまな文化のうちの一つに過ぎないことを認めざるをえないだろう。やや大袈裟な表現になるかもしれないが、ホモ・サピエンスがアフリカ の約七万年間を七メートルの長さだとすると、キリスト教の歴史は、その七メートルのうち、 最後のわずか二○センチでしかない。もちろん、歴史が長ければその宗教の価値や真理性が高まるというわけではないし、逆に、新しい宗教ならばそれだけ洗練され優れているというわけでもない。ただ、この宗教をいったん徹底的に相対化して眺めておくことは大切だと言いたいのである。「キリスト教が日本に伝わったのは、一六世紀半ばのことである。「日本でキリスト教は、一時期は信徒を増やしたが、わずか六○年ほどでそれを信仰することが禁止されるようになり、その状態が約二六〇年も続いた。「日本人の多くが落ち着いてキリスト教について検討・考察できるようになったのは、実質的には一九世紀末になってからだと言ってもいい。キリスト教史を二〇センチの長さだとすると、日本人はまだそのうちの一センチ、あるいはそれにプラス五ミリくらいの付き合いしかないということである。

世界に最も大きな影響を与えた人物は誰か

だが、それにもかかわらず、私たちはキリスト教という宗教を軽視することはできない。その理由は、やはりその宗教文化が、今私たちが生きているこの社会の形成に大きな影響を与えているからである。
これまでの人類史において、後の世界に最も大きな影響を与えた人物を一人挙げるとしたら誰であるかを考えてみよう。科学者、発明家、政治家、軍人など、いろいろな人が挙げられるだろうが、宗教家もかなり有力な候補になるだろう。
今現在の世界で最も信徒数の多い宗教はキリスト教である。世界の総人口約七〇億人のうち、キリスト教徒は約二三億人、イスラム教徒は約一七億人だ。キリスト教信仰の有無や好き嫌いは別にして、イエスこそ良くも悪くも後の世界に最も大きな影響を与えた人物だ、という意見があってもおかしくはない。
日本の歴史も、キリスト教を抜きにしては語れない。戦国時代や明治時代に日本にやって来た宣教師たちのインパクトはやはり強烈で、彼らの宗教はわが国の政治や文化に極めて大きな影響を与えたのである。
キリスト教や宣教師に対するこれまでの日本人の接し方を振り返ることは、今の私たちがあらためて「日本人」について再考するうえでも、重要な鍵の一つになるかもしれない。 「宗教」という言葉は、一九世紀の後半にreligionの翻訳語として定着した、極めて新しい日本語である。Christianityが「キリスト教」と訳されて、その訳語が定着したのも、実はほぼ同時期である。「神道」があるなら「キリスト道」でもよかったと思われるが、なぜ「キリスト教」になったのだろうか。そこには、すでに当時の日本人なりの「宗教」観があったからである。日本人とキリスト教、というテーマは、単なる特定宗教の話にとどまらず、「宗教」や「信仰」そのものについて、今る多くの日本人が当然だと思い込んでいることを疑ってみるための、ちょうどよい糸口になるであろう。

信仰があるのかないのか、という問い

ところで、キリスト教に関する本を書くと、多くの読者は、著者自身はキリスト教徒なのか、そうでないのか、という点に関心を持たれるようである。あらかじめ先入観を持った方が読みやすいのか、あるいはその本の中立性を気にされているのかわからないが、とにかく知っておくと安心できるようである。それにお答えすると、私自身は、自分をキリスト教徒であると認識している。某教派で洗礼を受けているので、キリスト教徒ですかと問われれば「はい」と答えている。非キリスト教徒の方々は、私のそうした返答を実に素直に受け入れて下さる。
ところが、逆にキリスト教徒の中には、その宗教に対して懐疑的なこと言う私のような者はキリスト教徒ではないと考える方いらっしゃるようで、かつて、ある年上の信徒の方から、あなたには信仰がない、と言われたこともある。
しばしば、キリスト教徒たちは、自分の信仰についてだけでなく、この人はどうか、あの人はどうか、と他人の信仰の有無やその姿勢についてまで気にする。キリスト教史はそういう話の積み重ねだと言ってもいいからしれない。
だが、素直に考えると、確かにふだん私たちは本当の自分とは何なのかあまりよくわかっていないままなんとなく生きているものなので、自分には信仰があると思っていても本当は無いということも、可能性としては否定できない。
では、いったい「宗教を信じる」とはどういうことなのだろうか。自分や他人の信仰の有無を問題にすることにはどんな意味があるのだろうか。そもそも、宗教は「信じる」ものなのだろうか。
実は、こういった問いそれ自体が、本書の究極的なテーマでもある。明確な答えは出せないかもしれないが、本書がそうした問いの立て方について再考するきっかけくらいになれたらいいと思っている。
以下で扱う事柄は時間的にも空間的にも限られた範囲内のものではあるが、それでも関連する先行研究の量は膨大で、とてもその全てに目を通すことはできなかった。せめて事実認識には誤りがないよう注意したつもりだが、もし何かお気付きになられたら、何卒ご教示いただければ幸いである。

石川 明人 (著)
出版社 : 筑摩書房 (2019/7/5)、出典:出版社HP