ゲノム編集食品が変える食の未来

【最新 食の未来について学ぶためのおすすめ本 – フードテックの現状と今後の展望】も確認する

難しい言葉や曖昧になりがちな知識を整理

ゲノム編集、遺伝子組み換え、自然変異など違いが曖昧で定義が難しい言葉が多く出てくる分野ですが、それらがわかりやすい言葉で丁寧に説明されています。また、日常生活でも使える知識も身に付けることできる一冊となっています。

松永和紀 (著)
出版社 : ウェッジ (2020/11/18)、出典:出版社HP

ゲノム編集食品が変える食の未来[目次]

序章 ポストコロナ時代のフードセキュリティ
パンデミックで揺らぐフードセキュリティ
品種改良は、フードセキュリティの礎になる
ゲノム編集へ高まる期待と暗い影
「遺伝子組換えでがんになる」の顛末
新型コロナで現実化したインフォデミック
原発事故後、情報災害が起きていた日本
パンデミックを超えレジリエンスを獲得する

第1章 誤解だらけのゲノム編集技術
生物はそれぞれ「ゲノム」を持っている
特定の遺伝子のみを変異させる技術
目的の遺伝子に結合しはさみで切る
[コラム]こぼれ落ちないイネは、たった一つの塩基置換から
外から追加する遺伝子組換えとは異なる
ゲノム編集は開発コストを減らせる
「オフターゲット変異」への大きな誤解
医療分野のオフターゲット変異とは異なる

第2章 ゲノム編集食品が食卓を変える
機能性成分を多く含むトマトが登場へ
研究開発を支える世界一のデータベース
収量の多いイネを目指す
魚の養殖が大きく変わる
肉厚マダイの誕生
期待高まる毒のないジャガイモ
[コラム]ジャガイモは、新規食品として認められない?
体によい油や茶色になりにくいレタス

第3章 ゲノム編集の安全を守る制度
「自然だからいい」は大間違い
普通の食品に、発がん物質が含まれている事実
[コラム]アクリルアミドの少ない調理法は?
研究が進んでいるがゆえに不安を招く
科学的には、従来食品と同等に安全
「食の安全」をめぐる日本の制度
届出制と言いながら事実上の審査がある
環境影響も農水省、環境省が検討
角のない牛が示した課題
表示を義務化できない本当の理由
届出第1号は高GABAトマトになる
EUは審査基準が決まらず膠着状態
[コラム]EUは遺伝子組換えを禁止しているわけではない
アメリカやEUに先んじた規制の枠組み

第4章 ポストコロナで進む食の技術革新
食料増産待ったなし
温暖化で求められる新品種の開発
新型コロナウイルスの影響は途上国で深刻
育種で高める農と食のレジリエンス
日持ちをよくして食品ロスを減らす
[コラム]賞味期限切れを捨ててはいけない
肉を減らし植物性食品を増やす
[コラム]新しい食は培養肉や昆虫へ
ゲノム編集の限界と可能性

第5章 ゲノム編集をめぐるメディア・バイアス
遺伝子組換えへの先入観が、理解を妨げる
遺伝子組換え技術の普及には、理由があった
過剰規制の教訓
[コラム]グリホサートのリスクは?
ゲノム編集でも繰り返される陰謀論
[コラム]ゴールデンライスはなぜ、普及しないのか?
モンサント法の誤解
種苗法の改正まで、ゲノム編集に結びつけられる
[コラム]種子の海外生産の意味
確証バイアスに陥る人々
[コラム]ゲノム編集技術はテロとしては“割に合わない”

第6章「置いてきぼりの日本」にならないために
「食料自給率38%」が本当に意味すること
[コラム]日本は食味優先。収量は上がっていない
国産は安全、高品質なのか?
有機農業は救世主ではない
新品種開発は日本の強みになる
国産技術がゲノム編集を進歩させる
消費者志向で迷走していないか
[コラム]遺伝子組換えカイコで検査薬を作る
フェイクニュースが生み出す危機
科学リテラシーを育てる

おわりに
参考文献

松永和紀 (著)
出版社 : ウェッジ (2020/11/18)、出典:出版社HP

序章 ポストコロナ時代のフードセキュリティ

パンデミックで揺らぐフードセキュリティ

2020年10月、スウェーデン王立科学アカデミーはゲノム編集の新技術を開発した2人の女性研究者にノーベル化学賞を授与する、と発表しました。
ゲノム編集は、生物のゲノムの特定の場所を人為的に切り遺伝子を変異させる技術です。ゲノム編集自体は従来、別の方法でも行われていたのですが、2人の科学者が開発したゲノムを切る“遺伝子のはさみ”の技術は、ゲノム編集をすばやく簡便、正確にできるようにした、という点で抜きんでていました。2人が2012年に発表すると、瞬く間に世界中でこの技術を用いた研究が広がり20年にはノーベル賞に。そのスピードを見れば、いかにすぐれた技術であるかがわかります。選考にあたったスウェーデン王立科学アカデミーの委員会は「革命的な基礎科学であるだけでなく、革新的な作物や医療につながるものだ」と称えています。
この本は、そんなゲノム編集技術を用いて品種改良された食品の安全性や意義についてわかりやすく解説するものです。報道を見ていると、品種改良と医療における応用を同一視し、期待の大きさと倫理面での懸念を語る評論家、科学者が目立ちます。しかし、品種改良と医療ではゲノム編集技術の用い方が大きく異なり、明確に区別しなければなりません。
ゲノム編集食品の重要性は今、著しく高まり期待も大きくなっています。なぜか?新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の地球規模の流行、すなわちパンデミックが、世界の人々の暮らしを大きく変えつつあるからです。フードセキュリティの危機が迫っています。ゲノム編集食品は、その解決に大きく貢献できる、とみられているのです。
「食の安全」とよく言いますが、3種類あるとされています。微生物や自然毒による食中毒を防いだり、農薬や食品添加物を適正使用したりするなどして守るフードセーフティ(Food Safety)、食品に毒性物質が仕込まれるなどの犯罪や破壊行為を防ぐフードディフェンス(Food Defense)、そして食料を安定的に生産し供給するという食料安全保障を意味するフードセキュリティ(Food Security)です。
豊かな日本ではフードセーフティばかりが話題となりますが、世界での深刻な課題はフードセキュリティです。国連食糧農業機関(FAO)は2020年7月、新型コロナに立ち向かうためのプログラムを公表しました。そこで強調されたのは新型コロナが世界的なフードセキュリティと人々の栄養に深刻な影響をもたらしており、各国が協調して闘わないと乗り越えられない、という見通しです。
国連が公表した「世界の食料安全保障と栄養の現状」というレポートによれば、新型コロナのパンデミックが起きる前の2019年の段階で、約6億9000万人が飢餓に陥っており、過去5年で約6000万人も増加しています。そして、何十億人もの人々が飢餓には至らずとも栄養のある食事をとれていません。
レポートは、新型コロナのパンデミックによりさらに、1億3000万人以上が慢性的な飢餓に陥る可能性がある、と予測しています。
パンデミックにより、生産や流通の場が感染を防ぐために操業を中止したり、働き手が減ったりするなどして、食品が滞るケースが出てきました。それに伴って食料価格の高騰が起きています。穀物は収穫時期の前には在庫を減らすために例年なら価格が下がるのですが、2020年は下げ幅が大きくありません。確保しておこうという思惑が強いようです。一方で、働けないために収入が得られなくなった人たちがおおぜい出てきており、食料を買えなかったり質を落としたりせざるを得ない状況にあります。
興味深いことに、中国では牛乳が含むたんぱく質「ラクトフェリン」が免疫を活性化する、という説が広まり、牛乳の消費量が急激に上がっている、と報道されています。牛乳を得るために多くの穀物が牛に与えられ消費されます。第4章でも触れますが、家畜と人が穀物を奪い合う状況を反省した欧米では近年、肉ではなく植物性食品を食べようというムーブメントが起きていました。家畜は大量の穀物を消費して肉や乳製品となるからです。
しかし、新型コロナへの恐怖はそれを覆すかもしれません。先進国がより栄養価、品質の高い食品を志向して新型コロナから我が身を守ろうとし、開発途上国はその煽りを受けて穀物を買えず飢餓、貧栄養に陥る、という構図が起こり得るのです。
途上国の人々が栄養不足となり体が弱くなっているところで新型コロナに感染すると、症状は重くなりがちとなり死の危機にさらされます。そして感染が拡大するとさらにフードセキュリティが脆弱になりパンデミックに拍車がかかり、一部の先進国はより質の高い食を求めて買い占めという悪循環へ……。
これまでも、食料を効率よく生産できたり購入できたりする先進国の人々がたっぷり食べ、残りを廃棄し、途上国は生産できず食料価格高騰により購入ができずに飢えに苦しむという矛盾が大きな問題でした。残念ながら、パンデミックによりその矛盾、不均衡がますます複雑に大きくなっていくことが予想されています。フードセキュリティは危うくなりそうなのです。

品種改良は、フードセキュリティの礎になる

パンデミックに対峙しフードセキュリティを守るためになにができるか?もちろん、先進国と途上国の矛盾を解決する分配策が必要ですが、今後のさまざまな課題を支えるためには技術革新が必要。私は品種改良、つまり新しいタネや子作りがその礎になると考えています。品種改良を専門家は「育種」と呼びます。これまでの農業や養殖漁業などにおいて、育種がさまざまな困難を克服する起爆剤となりフードセキュリティを担ってきたことを、一般の人たちは知りません。
20世紀に入ってから、人類はエネルギーを豊富に用い多様な科学技術を駆使して生活を大きく変えました。食料生産力が上がり、人口も急増しました。国連の推計では、世界の人口は19世紀初め頃に10億人を突破。20世紀初め頃は16億人でした。ところが20世紀半ばに25億人、20世紀末には60億人に急増し現在は78億人です(2020年)。100年あまりで5倍にも膨れ上がったのです。
20世紀になってから普及した化学肥料や化学合成農薬などが食料生産に大きく貢献しましたが、実は育種も大きな役割を果たしました。第1章で詳しく説明しますが、メンデルが遺伝の法則を見出したのは19世紀半ば。当時はあまりにも斬新であったがゆえに評価されず、1900年に育種研究者が再発見し、遺伝学研究が育種の実学に活かされるようになりました。交雑育種、突然変異育種、F1品種、遺伝子組換えなど、分子生物学の進捗も手伝って、次々に新技術による品種が登場しています。1866年から農業統計が記録されているアメリカのデータでは、トウモロコシの単位面積あたりの収量は150年でなんと7倍に達しています。育種技術の著しい進展が人々の暮らしを支えました。
しかし、これから直面するフードセキュリティの危機は、前述したように複雑で、これまでのように食料を増産するだけでは解決できないでしょう。先進国と途上国の配分を変え、人々の嗜好、消費動向を変えてゆく仕掛け、食品の流通ルートの変更、食品自体の質の向上など、さまざまな方策を積み重ねる必要があります。育種も、その目的が収量増から栄養成分の強化、毒性物質を少なくするなど安全性の向上、環境負荷の抑制……等々に研究が広がっています。
2015年の「国連サミット」で採択された持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals=SDGs)では、2030年までに実現すべき17の目標(ゴール)が定められました。「貧困を終わらせる」「飢餓を終わらせる」「すべての人々に健康的な生活を確保し福祉を促進する」「持続可能な消費生産形態を確保する」など重要な項目が並びます。フードセキュリティの確保はSDGsのすべての目標を支える基盤です。
また、SDGsでは今後の世界のありようを示す重要な言葉が提起されました。レジリエンス(resilience)です。打撃を受けてもしなやかに元に戻る弾力性を意味する言葉。パンデミック下で、レジリエンスのあるフードシステムを目指し、複雑化する問題に対処し、フードセキュリティを確保してゆくことがますます重視されるようになっています。そして、ゲノム編集食品は後述しますが、さまざまな特性によりまさに、このレジリエンスを実現するのにうってつけの技術です。

ゲノム編集へ高まる期待と暗い影

日本は育種技術では歴史上、世界的な実績を残してきました。民間企業の育種技術にも定評があります。ゲノム編集技術の改善や新品種開発の分野は後で詳しく解説しますが、研究コストがほかの方法に比べてかなり安くなると見込まれています。日本のように資源が少なく現在では研究資金が潤沢とは言えなくなった国でも、世界のフードセキュリティに貢献できる技術を生み出すチャンスがあります。技術をもっと進展させてゆきたい、日本独自の品種開発をさらに発展させ世界に貢献してゆきたい……。今、日本の育種業界ではその機運が盛り上がっています。
国もゲノム編集食品の実用化に向けて態勢を整えました。安全性を守りながらゲノム編集技術を用いた食品や飼料などを利用できるように規制を検討し、2019年度から制度の運用を始めたのです。国としての実践的な制度の構築は、世界的に見てもかなり早いほうです。2020年度にはゲノム編集食品の国への届出が始まるのではないか、とみられています。
ところが、新技術に暗雲が垂れ込めています。市民の反応がはかばかしくありません。ゲノム編集にかんする科学的な情報が市民に届かず理解されず、かなりの誤解を招いています。
NHKの番組「クローズアップ現代」で2019年9月、「解禁!“ゲノム編集食品”~食卓への影響は?」を放送した時に、象徴的な出来事がありました。
いくつかのゲノム編集食品の事例が紹介され、従来の食品と同等に安全だと専門家が説明し、懸念を示す海外の団体なども紹介されました。私から見ると、この海外の団体の主張は根拠が希薄。しかし、スタジオゲストとして招かれていた日本の消費者団体の事務局長が番組の最後に、こう述べたのです。「やっぱりゲノム遺伝子をいじるということは、非常に危険なことですので、きちんと社会的な議論を作っていくということが非常に重要じゃないかと思っています」。そして、キャスターが「議論が大事」と番組を締めてしまいました。
番組に登場して安全だと述べた専門家に後で、番組制作の裏話を聞きました。当初は、消費者団体幹部の言葉に続いて専門家がさらに説明する予定になっていたそうです。ところが生放送の番組の開始直前になって内容変更。専門家が説明するチャンスは失われてしまいました。
「議論が大事」と言うのはその通りで、だれも抗えない言葉です。しかし、この場合には妥当でしょうか?実は消費者団体幹部の「遺伝子をいじるのは危険」というのは、科学的にはナンセンスの一語に尽きます。なぜならば、遺伝子をいじるのはゲノム編集だけに限らないからです。昔から行われてきたおしべとめしべを掛け合わせる育種も、ゲノムの遺伝子をいじっています。
NHKとしては、内容をゲノム編集賛成派と反対派の両論併記にとどめたかったのかもしれません。しかしその結果、消費者団体幹部の明らかな誤解がそのまま公共の電波に乗り、正されませんでした。
残念なことに、私が生協などの勉強会や講演会などで出会う市民の多くも、「遺伝子をいじるなんて!」と述べ、ゲノム編集食品に拒否感を示しています。記事を書くと、反発されます。遺伝子やゲノムなど生殖にかかわる言葉が登場する技術は、拒否されがちです。子どもへの影響などが想起されやすいから、とみられています。人は、大人が影響を受けるよりも子どもが影響を受けるほうを深刻にとらえ、リスクを実際よりも大きく見積もる傾向があります。
実際には、生物は必ずゲノム、遺伝子を持ち、それらを食べて生きています。これまでも、生物のゲノムの遺伝子がいじられ変えられて、新しい品種が生み出されてきたからこそ、今ある米やトマトなどの作物が豊かに実り、家畜からはたくさんの肉や乳などがとれ、どれもおいしいのです。これまでの育種の実態を考慮せず、ゲノム編集食品に対してのみ「ゲノム遺伝子をいじるのは危険」と考えるのは感情的であり、科学的とは言えません。しかし、そのことが知られていません。

松永和紀 (著)
出版社 : ウェッジ (2020/11/18)、出典:出版社HP

「遺伝子組換えでがんになる」の顛末

私は、番組を見ながらある光景を思い出しました。2006年7月4日、私は福岡市にいました。市民団体などが招いたロシア人の女性科学者が、遺伝子組換え食品の危険性を訴えたのです。全国縦断講演会の第1回でした。
400人が詰めかけ満員となったホールで、女性科学者は遺伝子組換え大豆の危険性を訴えました。遺伝子組換え大豆を食べさせたラットで攻撃性が高まったうえ、子どもが異常に高い死亡率や低体重を示した、というのです。著しく小さいラットの写真やグラフが、いかにも科学的な雰囲気。会場は「こんな危険な食品を許してはならない」という怒りと熱気に包まれました。
女性科学者が語った危険は、科学的には事実にほど遠いものでした。実験のやり方に問題がありすぎたのです。飼料として生の大豆を与えていたことは致命的。生の大豆は遺伝子組換えの有無にかかわらず有害です。ほかにも数多くの不備が実験にはあり、論文にもなっていませんでした。
多くの国際機関が危険の根拠とはならない、と2005年の段階で声明を出しています。こうした動物実験は非常に難しいのに、不慣れな科学者が手を出してしまったのです。日本でも、東京都立衛生研究所が遺伝子組換え大豆を動物に長期に与える試験を行い、異常がなかったとする研究成果を2002年に公表していました。にもかかわらず、日本の市民団体は2006年にロシア人科学者を招聘し、全国紙がその主張と講演会をそのまま報じました。日本では彼女がしばらく反遺伝子組換えのシンボルでした。
同じようなことが2012年にも起きました。衝撃的なドキュメンタリー映画が公開されたのです。ラットに遺伝子組換えトウモロコシを食べさせたところ、体中にがんができたという実験をとりあげたもの。映画は、遺伝子組換え技術の恐ろしさを伝え、オーガニック食品などを褒め称える内容でした。日本で公開された時のタイトルは、「世界が食べられなくなる日」です。
この実験にかんする論文も学術誌に掲載され、書籍も出版されました。実験を行ったのはフランス人科学者で、論文公表と同時に映画や書籍も出すことで、社会にインパクトを与えようとしたようです。通常、学術論文は試験を行った動物の外見写真など出しません。ところが、論文には、大きながんで体がぼこぼこになったラットの姿が掲載され、一般の人たちも論文の内容はわからなくても衝撃を受けました。
当初はフランス首相も「研究が確かなら、遺伝子組換えの欧州全土での禁止措置を要請したい」と発言し、世界各国のメディアも「遺伝子組換えの危険性」として報じました。
ところがこの実験、世界中の科学者から「トンデモ」と猛批判を受けたのです。欧州の食の安全の総元締め組織である「欧州食品安全機関」(EFSA)が否定して、フランス政府も急にトーンダウン。ドイツ連邦リスク評価研究所や日本の食品安全委員会など、主要な国の科学機関が、試験に提供されたラットの種類や数が適正でないことや飼料の調製の仕方など、数々の疑問を指摘しました。
学術論文は、さまざまなデータが省かれてわかりやすく整理されて発表されます。論文に疑問が持たれた場合には、生データの提出が求められます。ニュージーランド政府当局が、フランス人科学者に生データを提出するように求めたのですが、科学者が提出を拒否しました。こうしたことから、研究結果は遺伝子組換えの毒性の根拠とはならない、というのが、各国の結論となりました。翌年には学術誌も掲載を撤回して、騒ぎは学術的には終了しました。研究を行ったフランス人科学者は、その後、レベルの低い学術誌に論文を再掲載していますが、国際機関、各国機関の評価はまったく変わっていません。
でも、日本のメディアの中には、科学的なチェックの甘いところが少なくありません。論文投稿や取り下げ、各国機関の見解など、英語で公表されておりインターネットを少し調べれば出てくるのに、メディアの基本作業が疎かになっています。日本の週刊誌やテレビ番組が、食品安全委員会などによる否定の後もその事実には触れずに「遺伝子組換えでがん」と煽りました。
遺伝子組換えは実用化されて20年以上がたち、安全性審査を経て利用を認められた遺伝子組換え食品では、安全性に疑念が生じた例はありません。ラットなどを用いた何世代にもわたる摂取試験で問題がないことが確認されていますし、世界中の人たちが遺伝子組換え食品を食べるだけでなく、飼料として遺伝子組換え品種を食べた家畜の肉や乳を食べています。にもかかわらず、いつまでたっても誤情報は残り、人々の不安が消えない、という不幸な状況が続いています。

新型コロナで現実化したインフォデミック

NHKの番組を見て、心配になりました。遺伝子組換えとゲノム編集は、同じものと誤解されがちです。このままでは、遺伝子組換えの二の舞になるのでは?ゲノム編集食品も、科学的に理解されず、人々は感情的な判断に流されるのではないか。メディアは非科学的で間違った情報を拡散したり、安易な両論併記を繰り返したりするのではないか。
現代社会において科学的な情報がいかに重要であるか。これも、新型コロナによって明白になったと考えます。流行初期には、こうしたら新型コロナを予防できる、という類いの情報が駆けめぐりました。にんにくが効く、熱いお湯を飲めば大丈夫などの情報が氾濫しました。アルコール性の消毒薬が効く、という情報を信じ込んだ人々がメタノールを飲み、死亡事故も起きました。学術論文は、効果のない消毒薬やサプリメントなどにより800人が亡くなり5800人が病院に搬送された、と報告しています。
また、携帯電話の5Gネットワークが新型コロナウイルスを拡大しているという情報を信じ込んだ人々が、5Gの基地局を襲撃して破壊する事件が世界各地で起きました。言うまでもなく、ウイルスは電波では広がりません。「あり得ない」とだれにでも考えてもらいたいところですが、パニックに陥っている人たちには通用しませんでした。
WHOは、情報が氾濫し正しい情報と誤った情報が拡散し、人々が信頼に値する情報源や指針にたどり着けず混乱している状態をインフォデミック(infodemic)と呼んでいます。インターネット、ソーシャルネットワーサービス(SNS)の普及に伴い、だれもが大量の情報を発信、伝達できるようになり、情報の真贋が吟味されることなく拡散しています。パンデミックはインフォデミックをも引き起こし、死亡事故や健康被害につながっているのです。
イリノイ大学の健康情報センターによれば2020年3月の1カ月間で、新型コロナウイルスやその感染症を指す言葉(coronavirus,COVID-19など)やパンデミックを含むツィートが全世界で約5億5000万も発せられました。その35%はアメリカから、7%は英国から。その後にブラジル、スペイン、インドと続きます。性別はあまり変わらず男性がわずかに多い程度。そして興味深いのは発した人の年齢で、全ツィートの70%は35歳以上の人が出しているのです。若者が間違った情報を広げている、と考えられがちですが、そんなことはありません。
日本でも流行初期にはトイレットペーパーの買い占め騒ぎが起こり、納豆が感染を予防するかも、と品薄状態になりました。2020年7月には吉村洋文・大阪府知事の発表をワイドショーが大々的に取り上げたことにより、「イソジンによるうがいが新型コロナを予防?」とイソジンが店頭から消える騒ぎとなりました。若者から高齢者まで、情報に振り回されたことがうかがえます。

原発事故後、情報災害が起きていた日本

実際のところ、誤情報が氾濫し人々の不安を煽り問題行動につながってしまう現象は、これまでもたびたび起きてきたように思います。日本は、諸外国よりももっと非科学的、感情的、と言えるかもしれません。私は10年間の新聞記者生活の後、フリーランスの科学ジャーナリストとして独立し、食の安全や環境影響を専門フィールドとして20年あまり活動してきましたが、とくに食の分野ではそれが顕著だと思います。
さまざまな科学技術が駆使され検査が行われて、現在の食の豊かさや安全性を支えています。ところが、その新規性と複雑さが大きなハードルとなり一般の人たちの理解にはつながらず、わかりやすい誤情報が氾濫しています。さらに、食は市民・消費者のあまりにも身近にあり日々の暮らしと結びついているせいか、感情的な判断につながりがち。「昔はよかった」になりがちです。
前述の遺伝子組換えの事例はもとより、農薬や食品添加物への根拠なき反対運動など、人々の安心感のために科学的な安全が損なわれたり、社会が莫大なコスト負担を強いられたり、という現象が実際に起きています。
とりわけ、東日本大震災後の福島第一原子力発電所事故により食品の放射能汚染が起きた際、誤情報が氾濫しました。福島県産食品が危険視されたのです。そのような説の根拠となるデータ、検査値は出ていませんでした。
私は当時、「第四の災害である情報災害が起きている」と述べ書籍や講演などで注意を促していました。地震、津波、原発事故という三つの災害だけでなく、科学的に間違った情報が人々に無用の不安を呼び起こし風評まで招くという第四の災害につながっている、と考えていました。
原発事故後の情報災害はまさに、インフォデミックだったのではないでしょうか?福島県産食品の風評被害や、不当な批判を受ける遺伝子組換え食品や食品添加物などの問題と、新型コロナをめぐる誤情報を信じ込んで健康被害を受ける人々の姿が、私の中で一つに重なります。情報を科学に基づいて理解し判断することの難しさは、現代社会の非常に深刻な課題なのです。

パンデミックを超えレジリエンスを獲得する

ポストコロナを見据え、フードセキュリティのために科学技術を発展させ、さらに努力
しなければならないのに、情報災害、インフォデミックにより、すぐれた科学技術が軽んじられ葬り去られることになりはしないか。まずは、科学的に適切な情報を伝え、多くの人たちの理解を求めてゆきたい。
そこで、科学者や国が大きく期待するゲノム編集食品、ノーベル化学賞の栄誉に浴する革新的な技術が用いられる食品の科学的な真実を通して日本の食を見つめ直し、未来の姿を考えてみたいと思います。とかく消費者の感情が優先され、「昔ながらのやり方」がよきものとされ、科学技術が軽んじられる日本がなにを変え、レジリエンスを獲得してゆくべきなのかを考えます。
本書前半では、ゲノム編集食品はどんなものなのかを、なるべく平易に解説します。第1章では技術の概要を、第2章で現在研究開発中の主な食品を紹介します。第3章は、もっとも関心の高いゲノム編集の安全性問題と国による規制の概要を説明します。
第4章からの後半では、技術革新を求めゲノム編集食品に期待を抱かざるを得ない世界の食の危機を伝えます。第4章は、新型コロナウイルス感染症の食分野への影響、人口増加が進む地球の危機、温暖化が及ぼす食への甚大な影響を、第5章はなぜ、人々がデマを信じ込み新技術に不安を抱くのか、心理学や行動経済学などからわかってきた人の気持ちと、誤情報が流れやすい日本特有の事情を具体的な事例を挙げて解説します。
第6章は、日本が置いてきぼりにならないため、食の科学をめぐる情報の取扱いのどんな点に注意を向けるべきなのか、“処方箋”を示します。食の科学と情報は極めて複雑です。情報を読み解き、総合的な判断を下すことが求められています。
本書が将来を見通す目を持つ読者のみなさんの冷静な判断の一助となることを願っています。

松永和紀 (著)
出版社 : ウェッジ (2020/11/18)、出典:出版社HP