茶の湯:時代とともに生きた美 (別冊太陽 日本のこころ)

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茶の湯のビジュアル入門書

2017年上半期に東京国立博物館で開催された特別展〈茶の湯〉と時を同じくして出版された別冊太陽の記念号です。特別展で会した名器が誌面に再集結したかのような貴重な図版と、整然と体系化され、丁寧に紹介された茶の湯の思想や歴史の解説がとても興味深い本です。

別冊太陽編集部 (編集)
出版社 : 平凡社 (2017/5/15) 、出典:出版社HP

目次

茶の湯
時代とともに生きた美

茶の心をたずねる
――茶の湯名言により文=筒井紘一写真=井上隆雄

第一章 茶の湯の前史神津朝夫
〈コラム〉大乗院文書紙背の茶勝負記録

第二章 わび茶の大成 神津朝夫
〈コラム〉茶の秘伝書『山上宗二記』

第三章 武家の茶谷端昭夫
〈コラム〉光悦と鷹峯の風流

第四章 茶道への展開と利休の道統 原田茂弘—
〈コラム〉七事式

第五章 近代の茶道 依田徹
〈コラム》岡倉天心『茶の本』の知的茶道観

〈スペシャル対談〉
林屋晴三さん 千 宗屋さん
想いを重ねて見える「茶の美」
創刊3周年記念エッセイ 茶の湯によせて
お茶の作法 葉室麟
茶室の外観はなぜ印象に残らないのか 藤森照信
「茶禅一味」の心泉田玉堂

逸品の茶道具に出合える美術館
トピックス茶の美にふれる展覧会
茶の湯関連年表 依田 徹
揭載作品一覽

表紙:志野茶碗 銘「卯花婚」
桃山時代,16~17世紀三井記念美術館藏 国宝
大屏;摄影一并上隆雄
目次:茶室「如庵」有栗苑外觀国宝 写真一有棠苑(犬山市)
黑果茶碗 銘「時雨」本阿弥光悦作 名古屋市 博物館藏董要文化財(104頁)

凡例
・作品の名称は基本的に所蔵館の表記に従った。
・作品データに掲げた法量の単位はセンチメートル。

茶の心をたずねる
――茶の湯名言により

文=筒井紘一
写真=井上隆雄

別冊太陽編集部 (編集)
出版社 : 平凡社 (2017/5/15) 、出典:出版社HP

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さんて涼しかりけり

自然と人間生活との美しい調和を、ひとつの境地にまでおしすすめたのは、いにしえの人々の知恵と教養であった。「春に子の日の松を曳く」ことから始まる四季折々の催しの中で、王朝の人々の美感は豊かに養われ、やがて美の類型を生み出す。冒頭の歌は、いうまでもなく僧道元の一首であるが、ここには平安朝以来類型化された季節の美感と景物とが、見事に詠み込まれている。そして、この類型は、日本文化の土壌の中に伝統的に受け継がれてきた。その中心をなす文化が茶道であった。
移ろうものにおのが人生を重ね、ほのかな色、かすかな音にさえ心の陰影を微妙に映し得た王朝人であったが、こと月に関しては何故か完全な姿の満月を好んだ。それが春の月であれ、秋の月であれ、寒天にかかる冬の月であれ、彼等が憧憬し、美しいと感じたのは「望月」であった。
しかし、十一世紀の中頃になると、この美意識は一変する。末法時代への恐れが、人々を無常観へとかりたてたからである。鴨長明のいう「うたかたの世」という意識が、王朝時代の美意識にとってかわる。すこしあとの兼好法師は『徒然草』の中で、満開や満月を見ることは本当に花や月を見ることになろうかと語る。王朝人との美意識との落差を鮮明にあらわしている。満開の花や満月を否定的に見るような美意識は、国文学者の西尾実によって「期待美」「追懐美」「想像美」という言葉があてられている(『中世的なものとその展開』)。そしてそれは、中世以来の美意識として定着する。
では、兼好は月や花をどのように見ればよいというのだろう。兼好は「すべて月、花をばさのみ目にて見るものかは」という、真に物を見るのは目ではなく、心で感じるのだといっている。なぜなら外見の美だけを見るのであれば、半月や雲のかかった月よりは満月のほうが美しいのは当然であり、満開の花のほうが、しおれた花より美しいのもまた当然である。望月よりは欠けた月のほうがよいというのは、心で感じるからにほかならない。兼好のいう美意識は、その後「不完全美」として、特に茶の湯の世界で重要な役目を荷うことになる。
草庵茶の創始者珠光に関する確実な資料に、室町後期の能役者金春禅鳳の『禅鳳雑談』がある。その中の一条に、
珠光の物語とて、月も雲間のなきはいやにて候、これおもしろく候、池の坊の花の弟子、花のしほつけの事、細々物語り候、是れも、後して面白がらせ候はん事、さのみおもしろからす候
とある。禅鳳は珠光と同時代人で同じょうに大徳寺の一休和尚に参禅したとされているから、どこかで珠光に会ったとも考えられる。その禅鳳が珠光の言葉として、月は雲間から漏れる月でなくてはいやだといったのを取り上げ、面白い見方だと評しているのである。禅鳳自身が持つ能の美もまた、珠光と同じく「雲間の月」をみることにあったことがわかる。
そうした意識を近代になって「不完全の美」と定義した岡倉天心は、『茶の本』の冒頭で「茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、(中略)茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するに在り」(村岡博訳)と書いている。
雲間の月をよしとした珠光以後の茶道界は、唐物趣味を捨てて、高麗茶碗や和物に美を見出してきた。ア・シンメトリー(不均衡)の美はシンメトリー(均衡)の美を超えたところにあるという考え方は、芭蕉が『笈の小文』でいった「貫道するものは一なり」と同様の茶道界を貫く一本の柱であった。
『南方録』の中では、わび茶道の道具の取り合わせは、万事において完全ではなく、不足のある方がよいと利休がいったとされている。利休自身が発した言葉とは言い難いが、これは利休がわび草庵茶の真髄を語った箇所といえる。利休は「不完全」すなわち「わび」の美だと考えていたということになる。
しかし何でも不完全であればよいというのではない。唐物茶入などは漆継をしたものなどをむしろ喜んで使いたいものであるが、楽などの繕ったものは使用すべきではないと述べている。いつでも入手できるからであろうか。『南方録』が書かれた元禄時代の頃の茶道具に対する総体的な意識だと考えられる。
利休の道統である三千家の茶は、利休の茶法を守ることで進展していくことになるが、江戸時代に入ってからの茶道界は大きく展開していく。古田織部、細川三斎、小堀遠州、金森宗和と続く大名茶と千家の茶とは、ある時には交錯し、ある時には離反しながらも、四百年の伝統を守り続けている。

月も雲間のなきはいやにて候―金春禅鳳『禅鳳雑談』より
望月を助めることが美であると感じていた平安貴族の世界に、末法思想の到来によって人生に無借を感じるようになったのは平安末期のことであった。コペルニクス的転回、つまり物事の見方が真逆に変わってしまうことによって、美の世界は不完全なものにこそあるといわれるようになった乳女注師が書いたとされる『徒然草』の「花はさかりに、月は隈なきをのみみるものかは」がその典型である。それが、想像美、期待美、不完全美といわれる中世的な美の世界である。
珠光による草庵茶は、「月も雲間のなきはいやにて候」という美の世界だといったのか能の金者社鷹であった。雲間からあらわれる月にこそ美があるというところには、完全なものに感じる美とは違った世界ではなかったろうか。

仏法も茶の湯の中にあり―『山上宗二記』より
草庵茶の祖珠光は、奈良称名寺の僧でありながら豪華な闘茶などに耽っていたため勘当されて、諸国を放浪した末に上洛し、大徳寺の一休和尚に参禅したといわれる。そこで会得したのが、この境地であった。禅僧が悟りを得るために坐禅をするのと同じように、一休は珠光に対して、茶の湯に心を入れさせることで「茶禅一味」をわからせようとしたのであった。草庵茶が始まった瞬間であった。

心の師とはなれ心を師とせざれ―村田珠光「心の一紙」より
珠光は、奈良の豪族で茶人の古市播磨に対して、およそ草庵茶を志すほどの人ならば、心が師匠だと考えて、それに盲従してはいけない。心を支配することによって、慢心や我儘を抑えなさいと教えた。心のおもむくままに行動してはいけないという教えは、古今東西変わらないものではなかろうか。

藁屋に名馬繋ぎたるがよし―『山上宗二記』
東山文化の足利義政の時代は、唐物一辺倒の書院の茶であった。そこに和物の美を混在させたのが珠光であった。珠光は「心の一紙」で*和漢のさかひを紛らかすこと肝要々々。といっている。唐物の中に、備前焼や信楽焼を取り合わせるところに、草庵茶の妙味があるというのだった。
これを敷衍させたのがこの語である。藁屋は二畳敷、三畳敷の小間のことである。ここに、伝来の唐物の名物を置くことによって不均衡の美が生まれる。

座敷よきほどかろかろと―珠光「お尋のこと」より
珠光が古市播磨の質問に対して応えたのが「お尋のこと」である。香の焚き方についても、強く匂わない程度に抑えるようにといっている。草庵の美は、目立たない軽い所作にあると教えた中の一つか座敷の広さに応じて花を軽く入れるのが良いということであった。
この教えを踏襲した利休の花の入れ方は「花はかならず一色を一枝か二枝かるくいけたるがよし」(『南方録』)であったという。

正直につつしみ深くおごらぬさまをわびという―「解賜門弟への法度」より
茶の湯の世界で「わび」の語を使った最初の文章である。和学を重んじる武野紹介鸚だからこそ発したことばであろうが、生きる姿勢を述べているといえよう。茶の湯をたしなんでいくうちに身についた豊かな人間性を紹嶋は「わび」だととらえていたことになる。
それゆえに筆者は、「わび」を体感の美だと考えている。わびの体感は、各人によって異なることになる。すなわち、千利休、古田織部、小堀遠州、金森宗和、それぞれの茶人によって「わび」の感じ方が異なっているはずである。象徴概念としての、「幽玄」「ひえ」枯れ」「さび」などとは違う世界だと考えられる。

珍客たりとも茶の湯相応に一汁三菜に過ぐべからざる事—「紹鳴門弟への法度」より
いかなる珍客が訪れてきても、茶会の料理は一汁三菜を超えないように出しなさいと言ったのが紹鷗であり、それを守ったのが利休による「もてなし」であった。
ちなみに一汁三菜とは、一種の汁と館(向付)、平皿(煮合物)、焼物の三種の菜のことである。

心の内より綺麗好き―『山上宗二記』より
茶の湯をたしなむものは、心の中がきれいでなければならないという利体の教えである。
草庵茶は、「わび」を最高の美として発展してきたが、「わび」はむさくるしさとは一致しないものであった。それゆえ、心の中だけがきれいだからといって、表面がむさくるしくては「わび」にならなかった。画面の一致が必要であるというのである。しかし表面の「きれい」とは美しい衣装を身に着け、良い物を持つということでは決してなく、むしろ心を清潔にするということであった。

万事に嗜み、気遣い―『山上宗二記』より
「茶湯者覚悟十体」という教えが『山上宗二記』にある。その中の一条である。「たしなみ」とは身に足されたものである。生業は生きていくための職業であり、たしなみとはいえない。心を豊かにする芸や技を身につけることが、たしなみであった。まず、茶人のたしなみとは礼を欠かないことであった。それ故に、前礼、後礼を始め、茶会が一座建立するように、亭主と客がともに「気」を配ることが大切である、と教えたのであろう。

一期一会―『山上宗二記』より
わび茶の真髄は、生涯で一度限りの会という考えのもとに金をかけるものとされてきた。『山上宗二記』に路地へ入ヨリ出ルマデ一期二一度ノ会ノヤウニ亭主)可敬畏とある。客として招かれた人は露地へ一歩足を踏み入れた時から、会が終わって席を立つまで、一生に一度の会だと思って臨まなければならないというものである。『南方録』「滅後」でも、この心をとらえて「一座一会」ということばで表現している。同様のことは幕末の大老井伊直弼の著書『茶湯一会集』にも見られる。
一抑茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、聊も鹿末なきやう深切実意を尽し、客にも此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべきなり、是を一期一会といふ
茶会では同じ主客が何度顔を合わせることがあっても、その会は一生一度の会だと思い、亭主は客に対して、客は亭主に対して最大限の心配りをし、迎える側も、もてなしを受ける側も、ともに心を尽くし、実意をもって交わることが肝要である。最初であって最後だという心で茶会をするのが「一期一会」だということである。「一期一会」とは白刃をつき合わせた二人の真剣勝負と同じことである。それは他念のない心ということである。他念のない心とは、すなわち「無」の境地であり、茶道でいう「自他一如」のことである。「一期一会」とは、その自他一如の境地に入るための手段だと考えられる。
※「滅後」利休自刃後に南坊宗啓が記録した回想録。

守・破・離―「利休道歌」ほか
利休道歌とされる和歌に
規矩作法守りつくして破るとも離るるとてももとをわするなという一首がある。茶道ではこのように、点前作法の進行を段階的に称して「守・破・離」という言葉でいいならわしている。横井淡所の『茶話抄』には、点前の上手下手について次のような一節が伝えられている。
――或時、武家万上手下手を問ふ、予答ていふ、守破離と云事軍法用、応用方違ひ候へ共、茶道二取て申候ハ、守ハ下手尤常琳ノ下手トハ違ヒ候、事サチシテ夫二ツナカレタル物也、守株待兎破(株を守りて兎を待つ)ハー手先常琳ノ破トハ違申候、守テ破ル也、時二寄テ守ルモ法、破ルモ法也、見風遣帆(風を見て帆を遣う)離ハ名人常ノ離タルトハ違候、事サチ尽シ、離レテ守し、応無所住而生其心(ま「さに住する所無くしてその心を生ずべし)
ある武士があらゆる物事の上手下手の相違を尋ねてきたので、軍法で使う「守破離」を参考にしながら答えたというものである。茶の方では軍法とはいささか使い方は違っているけれども、「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人の位をいう。「守」は『韓非子』でいう「株を守って兎を待つ」ようなもので、点前にばかり縛られていて他の事が目に入らない下手な状態である。規矩作法にばかり固執している茶人である。「破」は上手の位であり、規則を守りつつも、そこから一歩出た状態にあって、茶室内でもその場に応じた臨機の作法ができる茶人をいう。帆走の途中で、風の状態に応じて帆を張れるような作意ができる茶人である。「離」は名人の位であるから、一見規矩には合致していないようでありながら、そのくせきちんと法にかなっている状態がつくれる茶人のことである。これは『金剛経』にある「まさに、住するところなくして、その心を生ずべし」の精神と同様に、何物にもとらわれない心をいったものである。
『山上宗二記』に、利休の創意になる一畳半の茶席のことを述べた部分がある。
宗易、京二テ一畳半チ始テ作ラレタリ、当時ハ珍敷ケレトモ、是平人、無用他、宗易ハ名人ナレハ、山ヶ谷、西チ東ト、茶湯ノ法ヲ破り、自由セラレテモ面白シ、平人ソレチ其儘似セタラハ、茶湯ニテハ在ルマシキソ
利休は名人の位に達しているから、自分の作意でもって茶室を極小にしても、風ではなくなるが、他の人がそれを真似たならば、茶の湯ではなくなるというのである。一畳半の茶席は一道に達した人の作意としてのみ適用するものであった。
(つつい・ひろいち。千家今日庵文庫賞)

別冊太陽編集部 (編集)
出版社 : 平凡社 (2017/5/15) 、出典:出版社HP