新しい時代の観光学概論:持続可能な観光振興を目指して

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入門書として最適

筆者は実務経験もあり、観光の過去現在未来を総合的な理解するために必要なテーマを読みやすい分量にまとめ、かつ単独で論じることで、読者の腹落ちできる観光学概論に仕上げています。いずれ復活するであろう観光を支える次世代養成には必要不可欠な一冊です。

島川 崇 (著)
出版社 : ミネルヴァ書房 (2020/10/27) 、出典:出版社HP

はじめに

「観光学は学際的な学問である」。この言葉を何度聞いたことか。社会学,文化人類学,都市計画,経営学,経済学,語学あらゆる分野から研究者が観光学に集っている現状を表した言葉である。
しかし,その出自が確立された学問分野であればあるほど,自分の研究分野(ディシプリン)が「観光学」であると語ることを躊躇する研究者をよく見てきた。今は観光が注目を浴びているから、観光に集ってきているけれど,これがもし世間の観光への注目がなくなったら,または、最悪,世間が観光を目の敵にしたりするような事態になったら,そのような人たちは,自分の観光への関与の痕跡を我先に消すだろう。
観光学を学んで観光学の研究者や大学教員になった人はまだ数えるほどしかいないから,それはある意味やむを得ないのかもしれないが,そこに,観光学というこの新しい学問を確立させようという気概は感じられない。私は,2017年に観光学概論の講義を受け持つこととなり、テキストとなる文献を読み比べた。ほとんどが共著であった。章によって、温度差が否めない。共通言語がない。最初から最後まで一貫したメッセージや大切にしている哲学がない。著者間で想いが共有されていない。それどころか,政策系,計画系の人は,産業のことを知らず、産業系の人は政策のことを知らず,多くの人は世界で起こっていることを知らない。そして,世界で起こっていることを知っている人は,残念ながら、日本はガラパゴスだと、はなから小馬鹿にする。そのような言葉をまた役所が必要以上にありがたがる。これでは、この学問はいつまで経っても一人前にはならない。
観光学そのものを学んだ数少ない人間として,学士課程ではリベラルアーツ,修士課程では経営学と社会学と時々文化人類学からの観光学,博士課程では都市計画と、多分野を知った人間として、産業界とアカデミズム両方に足を突っ込んだ人間として,地方において観光でまちづくりを目指す志の高い人々と協働した人間として,産業界でも,航空業に身を置きながら,旅行業と接し,総合旅行業務取扱管理者資格を有し,総合旅程管理主任者資格も取って添乗業務の内情を中からの視点で見て大いなる理不尽を実感し,旅行業では大手と中小手の両方とビジネスを共にし,旅行業の構成員では真の多数者である中小手で働く人々の代弁者として,単著で観光学概論を書くべきだとの強い想いに駆られた。
今,観光学には一貫したメッセージが必要である。それがないから,外部環境の急激な変化にただおろおろするばかりなのだ。今観光学が考えていかなければならないことは、何よりも観光の持続可能性だ。そして、観光を持続可能にするためには,商業的に成立すること,すべてのステイクホルダーが倫理観を持つこと、歴史や背景,ストーリーを大切にすること,それを語る語り部の存在をもっと大切にすること,地元の雇用創出につなげること,人間の存在と積み重ねてきた業績をリスペクトすること, For Others, Be Professional! これを最初から最後まで貫き通した今までにないテキストとなったと自負している。
2020年6月
島川崇

島川 崇 (著)
出版社 : ミネルヴァ書房 (2020/10/27) 、出典:出版社HP

目次

はじめに
序 章 観光リーダー列伝
1 セザール・リッツ
2 山口仙之助・正造
3 岩切章太郎
4 松下幸之助

第1章 観光の意味
1 「観光」とは――国の光を観る
2 観光と旅行の違い
3 観光研究の潮流

第2章 観光の功と罪
1 観光地化のメリット
2 観光は両刃の剣——負のインパクト
3 観光に蔓延する一見さん商法とブーム至上主義
4 観光客・地域住民・観光事業者の三方一両得

第3章 観光で実現する持続可能な発展
1 SDGsと観光の関係
2 サステナブル・ツーリズムが生まれるまでの経緯
3 サステナブル・ツーリズム概念の定着

第4章 日本の観光発展史
1 開国,そして不平等条約改正と観光の関わり
2 喜賓会からジャパン・ツーリスト・ビューローへ
3 外国人観光客誘致の受難と克服,そして戦争の時代へ
4 力強い戦後復興と旅行会社の相次ぐ誕生
5 東京オリンピックを契機に加速した観光基盤整備
6 旅行代金の低廉化によるアウトバウンド全盛
7 旅行の流通革命——HIS と AB-ROAD
8 再び, アウトバウンドからインバウンドへ

第5章 観光産業論I:旅行業
1 旅行業の類型
2 企画旅行における旅行業の6つの義務
3 旅行業のさらなる活用

第6章 観光産業論II:旅行業の流通
1 旅行業界の複雑な流通
2 添乗(旅程管理)業務を担う派遣添乗会社の存在
3 OTAの台頭とそのビジネスモデル
4 OTAとホテルの最低価格をめぐる攻防

第7章 観光産業論III:交通機関と宿泊機関
1航空
2 鉄道
3 バス
4船舶
5 その他の交通
6 ホテル・旅館

第8章 ホスピタリティ論
1 ホスピタリティ=おもてなし?
2 安心保障関係
3 相互信頼関係
4 新たな関係性としての「一体関係」

第9章 觀光行政・政策論
1 観光政策が重要政策課題となるまで
2 観光政策を取り巻く現状
3 観光を担当する組織
4 観光プロモーションの様々な手法
5 観光まちづくりの力
6 MICE

第10章 観光資源論I:人文観光資源と自然観光資源
1 観光資源の類型
2 人文観光資源
3 自然観光資源

第11章 観光資源論II:その他の観光資源と世界遺産
1 複合観光資源
2 社会観光資源
3 無形観光資源
4 世界遺産と観光
5 観光の光と影の資源——被災地観光,戦跡観光
結びにかえて観光のこれから

参考文献
人名・事項索引

コラム
1 横浜市民が誇る震災復興の象徴:ホテルニューグランドのサービス
2 杉原千畝から繋いだJTB の命のリレー:大迫辰雄
3 モルディブ旅行をモルディブ専門の旅行会社にお願いして大満足だった話
4 三陸復興のシンボル:三陸鉄道
5 沖縄の特色あるバスガイド
6 おかげ犬
7 台湾に生きる国立公園設立に向けての日本人の志

島川 崇 (著)
出版社 : ミネルヴァ書房 (2020/10/27) 、出典:出版社HP

序章 観光リーダー列伝

観光に関する理論を学ぶ前に,観光の発展に寄与した立役者の足跡をたどってみることにする。観光にその生涯を賭けた人たちは,何を想ってその志を遂げたのか,そして,その生涯は現在の私たちに何を訴えかけているのかを感じることから,観光学の始まりとしたい。

1セザール・リッツ

“The King of Hoteriers” “The Hoterie of Kings” セザール・リッツは、“The King of Hoteriers(ホテリエの王)”または “The Hoterie of Kings(王たちのホテリエ)”と呼ばれる伝説のホテリエ(ホテル支配人)である。今も最高級ホテルチェーン「リッツ・カールトン」に彼の名がつけられているように,近代ホテルサービスの礎を築いた人と言っても過言ではない。
セザール・リッツは,1850年2月23日,スイスのニーダーワルト(図序-1)にて羊飼いの13番目の息子として生まれた。父ヨハン=アントン・リッツは、貧しいけれど,村長を務めていた。父は彼に朝から晩まで羊を追う生活に明け暮れることなく,勉強することを勧めた。セザールは、15歳のとき,語学学校に行き,外国語を習得した。セザールはまずウェイター見習いとしてホテルで働き始めるが、上司は彼の手先が不器用なことを指摘し,「お前はこの仕事には向いていない」と言って解雇した。しかし、人から喜んでもらえることの価値を知った彼は、そんな上司の言葉だけではあきらめなかった。彼は、17歳のとき,万国博覧会で沸くパリに移り,万博スイス館での給仕として働くこととなった。万博が終了したあとは、ホテルの給仕や靴磨き、売春宿のボーイ等の仕事を転々として食いつないだ。
その後,ウェイター見習いとして有名レストラン「ヴォワザン」に入り,ここで頭角を現し始める。著名な料理人でその後のホテル運営のパートナーとなっていくエスコフィエとの最初の出会いも,このヴォワザンだ
った。20歳でヴォワザンの総支配人となった。しかし,このとき普仏戦争が勃発し,フランスの敗戦とともにパリは荒れ果ててしまう。そこで,ウィーンで万博が開かれることになったことを機に、23歳でウィーンに移り,万博のフレンチレストランで働くこととなった。これが,世界の人々,特に上流階級の人々と交流を深めるきっかけとなった。
1877年,セザールは念願のホテリエになることができた。モンテカルロ・グランドホテルの支配人になると、ありきたりのサービスではなく、巧みな話術と手の込んだ仕掛けで上流階級の人々を喜ばせ,1年で収益を倍にするなど敏腕を振るった。顧客がリピーターとなり、順調と思われたが,突然南フランスをコレラが襲った。予約はすべてキャンセルになってしまった。そこで,セザールはこの危機的状況をチャンスに変えることを思いつく。どこよりも衛生的なホテルにするという新たな目標を設定したのだ。清掃は入念にし、全従業員の身だしなみも整えた。自身も多い時は1日に4回もスーツを着替えるほどであったという。さらに、彼はトイレや風呂が各階に1つしかなかった時代に,ホテル界で初めて各客室にトイレとバスタブを完備した。この逆境に対してチャレンジしたことが評判を呼び、彼の名は欧州中に轟いた。
セザールは、1880年、スイスのグランド・ナショナル・ホテルの支配人を兼務した。冬は暖かいモンテカルロ、夏は涼しいスイスで彼は過ごした。セザールは、ラジオも映画もなかった時代に,宿泊客のために趣向を凝らした様々なイベントを考え出し,ホテルは盛況を呈する。1884年,盟友エスコフィエをモンテカルロのグランドホテルの料理長に迎え、レストランにも力を入れるようになる。1888年グランドホテルのオーナーの姪でモンテカルロ育ちのマリー=ルイーズとカンヌで結婚した。妻の一族との階級差を意識した彼は、その後一流ホテルを買収するようになる。1889年にはエスコフィエとともにロンドンのサヴォイ・ホテルも担当することになり、モンテカルロ,ドイツ、ロンドンと飛び回る日々が始まった。図序-2は,買収により初めて所有したバーデンバーデンのホテルミネルヴァである。
1898年,セザールはパリのヴァンドーム広場にホテルを建てるための理想的な場所を見つけた。オテル・リッツのオープン時には、イギリス、アメリカ、ロシアなどの各国から著名人,知識階級,富裕層,貴族らが続々と訪れた。その後、マドリードやロンドンにリッツ・ホテルをチェーン展開した。順調に見えた彼の人生であったが,多忙のために家族に会えないことに寂しさを感じ、自分の家柄や教養に関しては劣等感を抱いていた。また、5カ国12ホテルすべての面倒をみなければならず,長いときには10数時間に及ぶ汽車での移動はセザールを肉体的にも精神的にも疲労させていた。1901年,ヴィクトリア女王崩御に伴い,長年親交のあったプリンス・オブ・ウェールズがエドワード7世として即位した。セザールはその戴冠式の式地雷営を一任されたが,エドワード7世の突然の病気で戴冠式は本番2日前に延期された。セザールは失意で精神的に病んでしまった。これ以上ビジネスが続けられないと判断され,1911年には役員を外されてしまったが,セザールのデザインとコンセプトはリッツ・シンジケートで踏襲され続けた。しかし,精神病を発症してから16年後の1918年10月26日,彼は療養所で孤独な死を迎えたのであった。

2 山口仙之助・正造

近代ホテルの創始者であるセザール・リッツと同年代で,世界に通用するホテルを日本に作った男がいた。その男こそ,山口仙之助である。
1851年,彼は漢方医を家業とする大浪昌随の五男として武蔵国橘樹郡大根村(現・神奈川県横浜市神奈川区青木町)に生を受けた。その後,遊廓「神風楼」の経営者・山口桑蔵の養子となった。神風楼は開国後の横浜にあって,外国人が多く利用した。そのときに外国人との関係が作られたのであろう,1872年に米国へ渡った仙之助は、生活難のため皿洗いに従事して金を貯めた。米国で牧畜業の可能性に触発され、牛を購入して日本に持ち帰り,牧畜業を志したが,結局その牛は内務省駒場勧業寮に売り払い、周囲の勧めで慶應義塾に入った。福沢諭吉から今後の国際観光の重要性を説かれ,それがホテル開業の決断につながった。仙之助は当時既に創業500年を経過していた箱根宮ノ下の温泉旅館「藤屋」を買収し、ここを外国人観光客に喜んでもらえる「ホテル」として開業することとした。1878年,旅館は洋風に改築され,外国人客を対象とした本格的リゾートホテル「富士屋ホテル」がオープンした。
オープン後は、苦難の連続だった。特に交通の不便さは想像を絶するほどだった。パンや肉類は横浜から馬車で小田原へ運び、朝の食卓に間に合わせるため、毎朝小田原まで人夫を出して運搬した。輸送だけで、大変な労力を要したのだ。そのような地道な努力の甲斐あって、ようやく富士屋ホテルは軌道に乗り始め、難題だった箱根の道路事情も,後述するように革命的な進展を遂げていくのである。
しかし,開業6年後,宮ノ下で発生した大火により、ホテルの建物とともに,6年間の記録も失われた。それでもその1年後には見事に復興を果たした。
現在も現役で活躍する「本館」が完成したのは,1891年である。その年,ロシアの皇太子ニコライ殿下が宿泊することとなった。大津事件により皇太子は急遽帰国することになり、宿泊は叶わなかったが、ともかくも外国の要人の宿泊所に指定されたことで全国に名を轟かせることとなる。富士屋ホテルは外国人専業のホテルとして発展した。岩崎弥太郎が予約を依頼してきても仙之助はそれを断った。バジル・ホール・チェンバレン,アーネスト・サトウ、ラフカディオ・ハーン等の明治期を彩った外国人に富士屋ホテルは愛された。
仙之助は、本館完成に伴い、火力発電機を導入した。自家発電により、箱根の山に初めて電灯を点した。さらに、水力発電も計画し,宮ノ下水力電気合資会社を設立し、富士屋ホテルだけにとどまらず,地域全体に電力を供給した。さらに,仙之助は自力で宮ノ下に至る道路の整備を行い、これが現在の国道1号線になっている。・明治が終わる頃、かつて一寒村であった宮ノ下は、毎年1万数千人の外国人を集客できる一大観光地となっていた。仙之助は村長として,地域の発展に多大なる寄与をした。その功績に対して藍緩褒章を授けられた。
山口正造は、1882年、富士屋ホテルと並ぶ日本リゾートホテルの草分けである日光金谷ホテルの創業者,金谷善一郎の次男として生まれた。金谷善一郎はもともと武士の出で、維新後は日光東照宮の雅楽師をする傍ら,来訪する外国人を自宅に泊めるのを稼業とした。
正造は立教学校で学んだ後、18歳で米国へ渡り、ホテルのコックや貴族家庭のボーイをしながら各地を放浪した。その後,英国へ渡り、柔道の師範として名を知られるようになる。見知らぬ異国の地で、見事成功を手にしたこの経験は、後年のホテル経営に多大な影響を及ぼした。
1906年,正造は帰国し,山口仙之助の長女孝子の婿養子として山口家の一員となり,富士屋ホテルの経営に参画することとなる。
正造はホテルの設計にもこだわりを見せ、正造自身のプロデュースによって完成した花御殿は世界的にフラワーパレスの名で知られた。43室の客室には部屋番号の代わりに花の名前がつけられ,客室のドア,鍵,そして部屋のインテリアにも各部屋の花のモチーフが使われている(図序-4)。またホテルの長年の懸案であった交通問題に関しても,正造は先を予見して、バス事業を開始する。
すべてが順調に推移していたところに,1923年9月1日の関東大震災が富士屋ホテルを襲った。しかし,数日後には,正造の陣頭指揮により,従業員を総動員して復旧工事に着手し,富士屋ホテルは蘇った。
震災の被害を乗り越えたのち,正造は,食堂の新築に着手する。チーク材を用い,和の意匠を凝らしたメインダイニングルームは「ザ・フジャ」という名の通り,富士屋ホテルらしさが最も色濃く表れた場所として、現在も訪れるお客様の人気を集めている。
1937年,盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。これ以降,富士屋ホテルは長い暗黒の時代へと突入していく。ついに太平洋戦争が始まると、物資の欠乏や増税により、ホテル経営は深刻化した。そのような中、外務省会議に出席するため上京した正造は、帰路の列車内で倒れ、2日後の1944年2月14日に急逝した。
今でも,富士屋ホテルのメインダイニングには、山口正造をかたどった柱の装飾がある(図序-5)。現在の富士屋ホテルのスタッフたちがきちんとサービスできているか、時を超えてにらみをきかせているかのようだ。

3岩切章太郎

宮崎県民が「観光宮崎の父」と親しみを込めて称えているのが、岩切章太郎である。宮崎県はかつて新婚旅行のメッカとされて、多くの新婚カップルが訪れたが,岩切章太郎がまさにその基盤を作った。戦後の日本が経済発展ばかりを望み,海岸という海岸が埋め立てられて工場の建設が進む中、自然保護の重要性を説き、自然を生かした観光事業の発展のために生涯を賭けた。その名は全国に轟き、当時の総理大臣佐藤栄作や元総理大臣の岸信介から全日空の社長になってほしいと三顧の礼で迎えられたにもかかわらず、故郷宮崎から離れず、その要請を断った。気骨の人,岩切章太郎とはどのような人物なのだろうか。
岩切章太郎は1893(明治26)年,ちり紙輸出や石油業を営む地元の資産家っあった岩切與平,ヒサの9人兄弟の長男として現・宮崎市中村町に生まれた。
宮崎中学校(現・大宮高校)時代は、学業は首席で通し,望洋会(生徒会)を組織するだけでなく,柔道や相撲の選手となり,文武両道を極めた。第一高等学校から東京帝国大学法学部に進んだ。
卒業前に,前宮崎県知事で当時神奈川県知事だった有吉忠一を横浜の知事官舎を訪ねたときのこと,有吉に「岩切君,いよいよ卒業だね。卒業したらどうするの?」と聞かれ,岩切は「郷里に帰ろうと思います」と答えた。それに有吉は驚き、「宮崎に帰っても仕方がないじゃないか。いったい宮崎に帰って何をするつもりか」と聞くと,岩切は「民間知事をしようと思います」と言ってしまった。それを聞いた有吉は笑いだして「岩切君の考えそうなことだ。まあしっかりやってみるんだね」と激励した。岩切は晩年振り返って,このとき「馬鹿な考えはよせよ」などと言われたら民間知事構想は立ち消えになったであろうと言っている。このときに咄嗟の思いで出した「民間知事」という言葉が、その後の岩切の一生を貫く言葉になった。岩切は故郷に帰るにあたって、以下の3つの方針を立てた。それは、
第一世の中には中央で働く人と、地方で働く人とあるが,あくまで地方で
働くことに終始する。第二上に立って旗を振る人と,下に居て旗の動きを見て実際の仕事をする人とあるが,仕事をする側になる。
第三人のやっていること,やる人の多い仕事はしない。新しい仕事か,行き詰って人のやらぬ仕事だけを引き受けてみよう。人のやっている仕事を自分がとって代わってみても,それはその人と自分との栄枯盛衰でしかない。しかし、もし新しい仕事を一つ付け加えたり、行き詰った仕事を立て直したりするならば、それだけ世の中にプラスになる。
「岩切は1926年に帰郷し、4台のバスで宮崎市街自動車株式会社(宮崎交通の前身)を創立し,大淀駅(現・南宮崎駅)と宮崎神宮間に市内バスの運行を始めた。
その後,観光事業に力を注ぎ,1931年に定期遊覧バスの運行を開始した。自ら率先してバスガイドの採用と養成に尽力し,1933年に開催された「祖国日向産業博覧会」では,遊覧バスに乗れば,「純真な娘さん」のバスガイドの解説で,その地方のすべてがダイジェストで分かる仕掛けが大好評を博し,宮崎バスの名前が全国的に一躍有名になった。バスガイドの原稿は,岩切自身が調査して執筆したものだった。その後も宮崎バスのバスガイドは人気を保ち続け,コンクールでも優秀な成績をいつも収めている。
1939年に「こどものくに」を開園した。その当時,入園料は大人も子供も一律10銭で,「おじいさんもおばあさんも、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも,今日は子供になって子供券をお買いください」と,ここにも岩切の愛情溢れる想いが表れている。
第2次世界大戦の後,観光事業をいち早く復活させる。1947年,宮崎観光協会会長に就任。1950年には,観光バス新車14台を連ね,「東海道五十三次,声の旅」観光宣伝隊が東京から宮崎まで宣伝行脚し、全国に話題を呼んだ。その後,日南ロードパーク(こどものくに,堀切峠,サボテン公園),えびの高原,都井岬等,「大地に絵を描く」の想いを込めて、宮崎の面的な観光開発を進めた。
岩切の慧眼ぶりは、景観保護,自然保護ということが言われていなかった時代に、日南海岸の復活と保護,自然景観を生かした観光資源の発掘と開発を行ったことである。特に第2次大戦後,日本は経済成長ばかりを望み、海岸という海岸が埋め立てられて、工場の建設が相次いで進められた。太平洋ベルト地帯を中心に、日本の沿岸は工場からの排水で汚染された。日本全国でそのような開発が進む中、岩切はまさに「民間知事」としてリーダーシップを発揮し、自然美を生かした観光資源を生み出し,それを丹精込めて育てていった。特に,全国に先駆けて、屋外広告物の規制や優れた景観を形造っている樹木の伐採規制などを目的とした宮崎県沿道修景美化条例の制定に向けて県民運動を率先して展開した。また,365日花のある観光地であるように沿道に植栽したり,赤松の自然林やミヤマキリシマの群落が鑑賞できる地点を整備したりした。
その結果,新婚旅行に宮崎を選ぶカップルが後を絶たなかった。1972年の婚カップルは100万組を超え,そのうちの約4分の1が新婚旅行に宮崎を選だ。その人数は57万人に達し,当時の宮崎県の人口の半分以上に相当する新婚旅行客が訪れていた。
岩切の発言は,現在の観光振興にも大いに示唆に富むものに溢れている(富田,2018a;20186)。
・宮崎の観光の特徴はロードパークであり,また会員バスの発展のためにも次々と新しい観光地作りが必要であるが,コスモスと梅林,梅の茶屋もきっと、その一翼を担ってくれるであろう。それにしてもコスモスでさえ10年がかりである。何事も10年,20年と黙々として努力を続けることが必要であるとしみじみ思うことである。
・経済発展と環境汚染,観光開発と自然破壊,この2つはどうしても両立し「難いものであろうか。いやそうでは決してないのである。私共は既に自然破壊のない観光開発をいくつかやって来た。
・花好きの人は一本の花でも直ぐ気がついて,心にきざみつけていただくが,一般の人々は見ることは見られても、直ぐ忘れて仕舞われるらしい。ところが大群落があると凡ての人が,これは驚いて下さるばかりでなく,その時,今まで見て忘れていた沿道の花も一緒に思い出して,すばらしかったといい心に強く印象づけて下さるものらしい。だからどうしても,どこかに中心拠点になる大群落が出来ないと駄目だと言うのが私の考えである。
・自分が感心しないと人が感心するはずがない。観光とはそういうもので,地元で評判にならないものが、どうして他県人の共感を呼びますか。「あなたそこへ行ったか、いやまだいっていない。行ってみなさい,それはすばらしいところだ」そんなことを常に思っている。観光は常に工夫しなければならない。見どころをつくらなければいけない。何度いってもいい観光地にはそれだけの魅力がある。
観光宮崎の父,岩切章太郎は、1980年に軽い脳血栓で倒れて体調を崩し,1985年に死去,92歳であった。

4松下幸之助

松下幸之助の名前は,松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)を一代で世界企業にまで拡大した人物として内外に有名である。また,PHP研究所を設立し,日本が戦後の荒廃から脱却し、物心ともに豊かな社会を構築するにはいかにすべきか,研究と実践に生涯を捧げた。さらに,松下政経塾を設立し,門閥や官僚組織によらない,志がある若者を次世代のリーダーとして育成することにも尽力した。
そのような松下幸之助だが、戦後の工業化、高度経済成長下において、いち早く観光の価値に気づき、観光立国を唱えていたことはあまり知られていない。2009年9月に発足した鳩山内閣で国土交通大臣となった前原誠司は,就任記者会見の中で、公共事業の見直しとともに,「観光立国」のさらなる推進を図っていかなくてはいけないと述べた。さらに前原大臣は自身が松下政経塾で学んだことを引き合いに、「観光立国」という名前を初めて使ったのは松下幸之助であることを紹介した。この記者会見で,観光分野でも松下の発言が脚光を浴びることとなった。
松下が観光立国について持論を披露したのは、『文藝春秋』1954年5月号に掲載された「觀光立國の辯——石炭掘るよりホテル一つを」である。この論文における論点を整理すると,以下の通りである。
1観光に対する理解が官民ともに低調で、心なき人によって不調和な建物や施設が建設されて本来世界的に見て価値のある日本の景観が損なわれている。
2日本の美しい景観を日本人は今まで自国のみで独り占めしてきた。相互扶助の理念に立って広く世界に開放されるべきだ。
3物品の輸出貿易は日本のなけなしの資源を出すが、富士山や瀬戸内海はいくら見ても減らない。運賃も荷造箱もいらない。こんなうまい事業は他にない。
4観光予算に200億円が必要だ。観光は観光業界にとどまらず,他産業に大きな波及効果がある。
5観光客を迎えることで日本人の視野が国際的に広くなる。すなわち居たがらにして洋行したと同じ効果を挙げることができる。
6観光は最も大きな平和方策である。持てるものを他に与えるという博愛の精神に基づいている。全土が美化され,文化施設が完備されたら中立性が高まる。
7観光省を新設し,総理,副総理に次ぐ重要ポストとして観光大臣を任命す「べし。各国に観光大使を送り,国立大学を観光大学に切り替えるべし。
松下は観光立国の根幹に流れる思想を「相互扶助」「持てるものを他に与える博愛精神」にあると説いている。この思想こそまさに現在の観光行政および観光事業者に欠けている考え方である。観光は今までいつも,有形・無形の「資源」からベネフィットをもらうことしか考えていなかった。しかし,これからは、観光が観光客に何らかの貢献ができないか,そしていつもベネフィットを享受するだけだった「資源」側に対しても何らかの貢献ができないかという発想を持つことを,松下は奨励しているのではなかろうか。この観光側の発想の転換こそが、観光という産業が一人前の産業として認知され,さらに資源も観光も持続的に共存していく要諦であると思えてならない。
日本が「観光立国」として世界にアピールをするためには,単に国内の観光地を外国人に紹介することにとどまらず,観光の意味を再考し、名実共に「観光は平和へのパスポート」となる必要がある。松下はPHP(Peace and Happiness through Prosperity:(経済的)繁栄による平和と幸福)を主張したが,観光がそのPHPに関わるとするならば,PHPT(Peace and Happiness through Prosperity by Tourism:観光による経済的繁栄を通しての平和と幸福)といった観光の効果を単に経済的指標だけで計るのではなく、PHT(Peace and Happiness through Tourism:観光そのものがもたらす平和と幸福)でなければ、松下幸之助の思いを具現化することはできない。私も松下政経塾の一卒塾生として、平和と幸福を追求できる観光のあり方を追求していきたいと強く感じている。


(1) Peace and Happiness through Prosperity:(経済的)繁栄による平和と幸福。

島川 崇 (著)
出版社 : ミネルヴァ書房 (2020/10/27) 、出典:出版社HP