反・観光学: 柳田國男から、「しごころ」を養う文化観光政策へ

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観光学を見つめ直す

柳田國男,内田義彦,宮本常一,司馬遼太郎,白洲正子,柳宗悦,南方熊楠。七賢人の著作と思想に探る,観光学の再出発への手がかりをまとめています。著者の民俗学愛に溢れる一冊となっています。

井口 貢 (著)
出版社 : ナカニシヤ出版 (2018/8/20) 、出典:出版社HP

はじめに

これから本書を通して伝えていくことになる拙文は、あくまでも私見である。ゆえに、異論反論も当然出てくるに違いないが、百の反論がなければ、たった一個の共感もないと信じて綴っていくことにする。そもそも、人とその営為について論じる著作は人文、社会、自然科学を問わず等しく筆者による「作品」でなければならないと思う。
学生時代の恩師の一人であった山田鋭夫先生(一九四二-経済学者、わが国におけるレギュラシオン理論の第一人者)を通して、私が二十歳のころに経済史家・内田義彦(一九一三~一九八九)の名を知り、数年ののちにその著書の一つ『作品としての社会科学」(岩波書店、一九八一年)と出会ったときの記憶は、今も喉元を過ぎてはいない(余談、奇縁かもしれないが、内田、山田ともに私の好きなまちの一つ名古屋の出身である)。
同じく二十歳の夏に私は、中学生三年生のころからその名が心に留まり続けていた柳田國男(一八七五-一九六二)の初期の作品「遊海島記」(初出は雑誌『太陽』、一九〇二年)を大学図書館で見つけることになる。その経緯については、少し前の拙著『くらしのなかの文化・芸術・観光|カフェでくつろぎ、まちつむぎ』(法律文化社、二○一四年)で詳述した。
一方私はその中学生のころ、あるいはそれ以前より日本のポピュラー音楽への興味と関心が抜きがたく、「柳ヶ瀬ブルース」や「帰って来たヨッパライ」などに衝撃を受けたそのときの記憶は今になっても鮮明に残る。特に、小学校六年生の冬に柳ケ瀬(岐阜市随一の繁華街)のお好み焼き店・正村の店頭で「帰って来たヨッパライ」が流れてきたときの衝撃は、昨日のことのように一枚のスナップ写真のごとく心の片隅に残っている。
また生まれて初めて観たライブコンサートもそのころのことで、名古屋・御園座での美空ひばり(一九四九-一九八九)の劇場公演だった。公演の内容は詳細には覚えていないが、二部構成となっており一部がお芝居、二部は歌謡ショーであったと記憶している。一部のお芝居は江戸中期に大奥を発端として世間を揺るがした「江島生島事件」(一七一四年)を主題としたものであった。ホールは満席で熱狂する人々の様子がなぜか強く印象に残った。
作家の五木寛之(一九三二-)は、その著作『蓮如』(岩波新書、一九九四年)のなかで、明治維新史・日本資本主義発達史研究を中心とした経済史学のある大家(前記の内田の著作にもその名が紹介されている)が生前、五木との対談中に「美空ひばりは日本人の恥」と述べていたことを披歴している。五木自身、その発言について詳細に論述批判しているわけでは必ずしもなかったが、もしもその大家が真実そう思っていたとしたら、「日本人の恥」とは何かを美空ひばりという文脈のなかで、しっかり語ってほしかったと思う。戦後間もないころ、十二歳でデビューした美空ひばりは、当初から「天才少女歌手」という名声を受けたものの、詩人・サトウハチロー(一九〇三-一九七三)に代表されるように、知識人階層の人々からの批判は存在した。しかし敗戦で荒む心に晒されていた多くの日本人、あるいは喩えていうならば柳田國男のいう常民や、その概念への反論として赤松啓介(一九〇九~二〇〇〇)が提示する非常民にとって、心和ませ勇気と元気と未来への希望を与えてくれた少女の歌声であったことを否定することはできないのではないだろうか。関連するが、宗教史家の山折哲夫(一九三一-)の『美空ひばりと日本人」(現代書館、二〇〇一年)は、巧まずしてその大家への反論ともいえるだろう。山折にその意図があったか否かは別としても。
歌に関連して、もう一つ。昨年(二〇一七年)紫綬褒章を受章した作詞家の松本隆(一九四九-)は、若いころに「はっぴいえんど」というロックバンドを細野晴臣(一九四七-)、鈴木茂(一九五一-)、大瀧詠一(一九四八-二〇一三)らと結成している(一九六九-一九七三解散)。そのセカンドアルバム『風街ろまん」(一九七一年)は、評価が高く収録曲の一つ「風をあつめて」は今もCMなどのなかでも流れてくる。そして、別の収録曲「はいからはくち」は、日本人による日本人のための日本のロックミュージックを念じた彼らのメッセージソングとみる向きもある。「ハイカラ白痴」(「白痴」とは、今は使ってはいけない言葉であるが)と「肺から吐く血」という二重の意味(掛詞、ダブルミーニング)、もちろん作詞は松本によるものだ。
彼女自身がそれを念じたか否かは知るすべもないが、美空ひばりのパフォーマンスと通じるところは少なくない。「日本人の日本人による日本人のための」という文言も今では不穏当な、グローバル化社 会・ボーダレス化社会・多国籍化社会であるかもしれないが、あえていうならば、それであるがゆえに、 再確認し忘れてはいけない何かがあるに違いない。
すなわち本当にグローバルであるためには、自分の国とそれによって育まれてきた自国語と自国の文 化を知り、自分自身を知ることがまずは肝要であって、外国語だけ堪能になって外国人(とりわけ西欧 米)のパフォーマンスを真似ることでは決してはないということだ。
批判を恐れずにいおう。五木寛之の前掲書に登場する大家とそのグループの人々の明治維新史・日本 資本主義発達史に関する優れて多彩な業績を否定するつもりは全くないが、私は学生時代の演習でその 一部に触れたときから「イギリスやフランスの革命の舞台上で幕末と明治が踊っている」という「観」 がどうしても拭えず、日本資本主義論争を学説史で辿ってみても、講座派の見解にも労農派のそれにも 与することはできなかった(この両派の論争については、ここで詳述はしない)。
したがって、修士論文はその「観」を記した。山田先生はその当時はいわゆる「専任講師」で、私の主査でも副査でもなかったが、「ヨコのものを、タテにするだけでは絶対ダメだからね」という激励をいただいた。一方で副査のある先生からは、「君の文章は晦渋で、文学経済学だね」という指摘を受けた (このころ、すなわち一九八〇年代の冒頭は、少なくとも私たちの周囲ではほとんど誰もが「文化経済学」や「文芸社会学」 という文言を知らなかった時代であったように思う)。そのときに思ったことは、「渋と思われてしまう文章を書くのはやめよう」ということと「リベラルな発想に不寛容な国粋主義者やその対極を装っても、実 は……というような人たちはもちろんのこと、はいからはくちにも決してなるまい」ということだった。
同じころ私がその著作を愛読していた作家・劇作家の一人に、井上ひさし(一九四三-二0-0)がい た。彼が自ら創りそして課していた座右の銘がある。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」、これを簡単に実践することはできない相談 ではあるが、少なくとも教育に関わろうとする者にとっては、忘れてはならない箴言として心にとめお きたいものである。
さて、私が修士論文のなかで最も主要な参考文献の一つとして依拠したのは、『遠野物語」(初出一九一〇年)であった。その冒頭で柳田國男は、「この書を外国に在る人々に呈す」と刻んだ。その意味を忘れずにいたいと、併せ思ったことも、ここで改めて付記しておきたい。
ここまでの前口上では、本文というべき部分に対する予告を、本来一球目ではそうすべきはずの直球 (ストレート)というよりも、曲球(ナックル)のように綴ってきたかもしれない。しかしそれでも打者に は届くはずであるし、それをどのように打ち返すかは打者次第であってほしい。しかし決してビーン ボールではないことを伝えるために、タイトルとその副題のなかに示した語句の一部についてはあえて記しておきたい。
「反・観光学」とは、決して「観光学」そのものを否定するものではない。一般的に固定観念(ステレオ タイプ)で捉えられがちと思われる「観光」と「観光学」に対する考え方への再考を促す暗示にすぎな い。ほんの一例であるが、昨今観光用語でしばしば使用されている「コンテンツ・ツーリズム」は、アニメの舞台の聖地巡礼と強く意識され捉えられがちである。それを否定するわけではないが、決してそれだけではないはずだ。同じく、「創造都市」という概念も、しばしばわが国の観光について考える局 面で援用される。もともと英米からを主としたこの輸入学問を、安易に俯瞰しわが国の観光文化に応用 してしまう若い人たちはもとより、観光の現場の実践者も少なくないとしたら危惧を感じざるを得ない。 この発想を主導したある米国の人物は、名古屋を二流都市と称している。そもそも、都市をその文化をベースにして一流・二流と色分けするような創造都市論には、その創造性欠如ゆえに与することなどで きない。私は寡聞にして知らないが、本当に彼は名古屋を訪れその豊かな経済と文化が織りなしてきた、 少なくとも尾張藩徳川家の治政下以来の官民挙げての知性を御存じなのだろうか。英米の誰でも研究者は優れていると考えてしまうとしたら、まさに「はいから……」である。わが国の都市の創造性を、京都や横浜、東京など文化が豊かで多彩な、創造性に満ち満ちたもののみに限定して捉えてしまってそれ を模倣するかのような、お洒落でカタカナ語のまちづくりを地方で展開するとしたら、日本の地域文化 そのものの創造性に対する忘却の偽装に他ならない。そもそも柳田が『都市と農村』(初出一九二九年) で診て取った両者の相互補完的な関係性を鑑みたとき、特定の大都市のみでなく小さなまちや農村にも、 ささやかかもしれないがその創造性が存在することを看過してはならない。同じ柳田の書、『後狩詞記」 (初出一九〇九年)で詳述された宮崎県椎葉村の経済と文化の濃密な所在をみたとき、それは明らかである。また稀代のエッセイストでもあった白洲正子(一九一〇 – 一九九八)は、『近江山河抄」(初出一九七四 年)のなかで「近江は日本の楽屋裏」と表現する。京都や奈良の陰に大きく隠れてしまっているが、大 舞台を演出する楽屋裏にも負けずとも劣らない創造性が存在してきたことを私たちは忘れずにいたい。
あるいは流言飛語のような話で恐縮であるが、昨今「IR法とカジノは、日本の観光にとって最後の切り札」といった人がいるという。改めて「観光とは何か?」と問いたい。それでインバウンドを増大させ ようという発想があるとしたら、わが国で二十二世紀に生きていく子どもたちの観光とくらしと幸福はどうなるのだろうか、またどう保障すればいいのかと、「観光」概念の再考を通してさらに問いたいと思う。
副題の「柳田國男から、「しごころ」を養う文化観光政策へ」とは、柳田が「日本の祭」(初出一九四二 年)で私たちに伝えようとした「史心」の大切さにヒントを得た私は、駄洒落のように同じ音の「ご ころ」を「誌心」と「詩心」という言葉を使って、文化・観光を思考、志向するうえでその三者が、鼎立することの必要性を読者諸氏に伝えたいと念じたものである。いずれにしても本文中(とりわけ第1章)で詳述していくこととする。
さてタイトルと副題について一定部分を記したのであるが、本文について語るもう少しの冗長をお許 しいただきたい。すでに、内田義彦、柳田國男、白洲正子という名は紹介した。彼ら三人に加え、本文 での主な登場人物は宮本常一(一九○七-一九八一)、司馬遼太郎(一九二三 – 一九九六)、柳宗悦(一八八九1 一九六一)、南方熊楠(一八六七 – 一九四一)である。この七人の思想家は稀代の読書家であり、それゆえ に膨大な著作を遺した人たちでもあった。改めて、読むことは書くことであり、書くためには読まねば ならないと痛感させられる。
昨今、若い人たちの読書離れがいわれて久しい。ときおり「大学生の一日の読書時間は?」ということで、アンケート調査の結果が報じられたりすることもある。私自身の経験則でいうならば、アンケートということで集約されてしまうが、実際は読んでいる人とそうでない人との格差(あまり好ましい言葉ではないが)が年々広がっているにすぎないような気がしてならない。そしてそうした彼らもやがて社 会に出て、中高年という年齢に達していく。現実に中高年の人々の間での読書時間の格差も、年々広がっていくに違いないだろう。あるいは社会人の読書というと、仕事の必要に駆られたビジネス書やハウツーものが多くなり、それもやむを得ないことではあるが、読書時間のアンケートにはおそらくプラ スの時間としてカウントされていく。
少し取り留めもないことを記してしまった。ここで登場する七人の思想家は、何らかの形で日本の文化はもちろんのこと、狭義ではなく広義のそして真義としての観光とは何かについて考える(ありがちな、ステレオタイプの「観光ビジネス論」ではなく)うえで、大きなヒントとなることがらを言及してきた人たちである。膨大な著書群の氷山の一角のさらにその一部分を掠めるにすぎないが、それを通して何が 考えられるかという一例を、この拙著を通して大学生(所属する大学・学部を問わず)から中高年以上の 方々(職業や立場を問わず)に至るまで広く伝えてみたいという思いがあった。
「「七人の思想家」を導きの糸としながら、日本の文化や観光について自身なりに考えてみませんか。 そして改めて、現代の古典を読むことの愉しさを味わうきっかけとしませんか?」というのが、読者の 皆さんへの私からのメッセージと考えていただければ幸いである。
このささやかな拙著であるが、生まれるきっかけとなったのは、私が勤務する同志社大学が二〇一八 年度より全学共通科目として「クリエイティブ・ジャパン科目」を開設することになったことである。 そこには、二○二一年度までに文化庁の京都への全面移転も大きな視野に入っている。本学・全学共通 教養教育センターでは、それに向けて、二〇一七年十二月六日に、科目開設記念シンポジウムとして 「日本のブランド力としての文化創生」を一般公開で行なったことに起因している。そのさらなる詳細については、あとがきで謝辞とともに記したい。

二〇一八年二月七日
日本文化の楽屋裏、淡海の寓居にて入試期間の監督業務が終わりに近づきつつ始めた着稿の日に
井口貢

井口 貢 (著)
出版社 : ナカニシヤ出版 (2018/8/20) 、出典:出版社HP

目次

はじめに
序章 文化と観光と人文知
1 「観光」再考
2 忘れてはならない人文知
3 内田義彦が残した言の葉を手掛かりに
4 「脱観光的」観光力

第1章 柳田國男の警鐘
1 経世済民、学問救世と民俗学
2 「遊海島記」の世界に観る文化と警鐘
3 今一度再考したい、文化とは?
4 文化政策再考
5 まちつむぎと観光の所在

第2章 宮本常一の憧憬
l 民俗学への旅
2 観光文化論の創始者
3 観光資源と常在観光のススメ
4 「若い人たち・未来」のために

第3章 司馬遼太郎の葛藤
1 日本とは、文化とは、文明とは?
2 街道と文化
3 もう一度、近江に
4 絶筆『濃尾参州記』の旅

第4章 白洲正子の愛情
1 美をさらに輝かせるもの、それは楽屋裏
2 湖北(江北)をゆく
3 湖北とかくれ里

第5章 柳宗悦の美学
―対峙して談じる柳田國男――
1民藝と用の美というくらしの流儀
2民藝と民俗学
―対峙して談じる柳と柳田――

第6章 南方熊楠の地平
――交して信じる柳田國男
1 南方のまなざし
2 神社合祀令に抗して
3 真摯な遊び心と真実

おわりに-謝辞に代えて-
事項索引
人名索引

井口 貢 (著)
出版社 : ナカニシヤ出版 (2018/8/20) 、出典:出版社HP