IPOの経済分析: 過小値付けの謎を解く

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はしがき

IPO(initial public offering)という言葉は,日本では新規株式公開の略語として使われることが多いが,正確には、企業が公開に先立って不特定多数の投資家向けに株式を発行することを指す。本書はIPOの値付け――すなわちいくらで株式を発行するか――に焦点を絞った研究書である。具体的には、いまの日本における値付けのあり方がいかに異常なものであるかを指摘し,その現象がなぜ起こっているのかを解明し、正常な姿に戻すには制度をどう改善すべきかの提言を行う.これが本書の主たる目的である.

IPOがファイナンス研究者の関心を集めるおそらく最大の理由は,株式が市場で流通する前にいくらで発行するかを決めなければならない点にある.したがって,そこにはどうしても人為的な要素が入り込んでくる.しかし、IPOといえども背後には無数の投資家の需要があるわけで,需給実勢を無視した値付けというのは,本来ありえない、ところが,多くの場合,結果的に需給実勢を大きく下回ったところで値付けがなされている。これを過小値付けという、過小値付けされた株式の配分を受けた投資家は、公開初日に市場で売り抜けることで高いリターンを得る。これを初期収益率という。

本書では,最初に,値付けと配分に関する代表的な方式―具体的には入札方式とブックビルディング方式―を中心に,日本のIPO制度を概観する.次に,なぜ過小値付けが発生するのかに関する代表的な先行研究を展望する.そこで紹介される理論は、大半が米国の制度を前提に生み出されたものである.

そのうえで,日本のIPOに関する2つの謎の解明に取り組む。1つめは、かつて導入されていた入札方式のもとで、平均10%台もの初期収益率が発生しているのはなぜかという「謎1」である。平均10%台というのはブックビルディング方式が支配的な米国でも観察されており,それに対して様々な解釈が試みられている。しかし,後述するように,謎1を米国生まれの理論で説明することはできない.この謎に筆者なりの解釈を提示し,妥当性を検証する。

2つめは、1997年秋に追加的に導入されたブックビルディング方式のもとで、平均60%台後半の異常に高い初期収益率が発生しているのはなぜかという「謎2」である.本書の主題はこちらであり,謎1の考察はそのための準備作業に過ぎない、この謎に正面から取り組み,説得力ある答えを提示した研究は,筆者の知るかぎり,存在しない、初期収益率が高いということは,発行企業が一種の損失を被っていることを意味する。

にもかかわらず,同方式が導入されてから、入札方式を選択した企業は(最初の1カ月余を別とすれば)一社もない。この謎に筆者なりの解釈を提示し,妥当性を検証する.以上2つの謎に筆者なりの答えを与え,それを踏まえて制度改善のための提言を行う.

本書で示した謎1や謎2に対する答えは、至ってシンプルなものである.これは,筆者に複雑精緻な理論モデルを構築する力がないということもあるが,同時に研究上の信念によるものでもあるキザな言い方を許してもらうなら,真理というのはそれを覆い隠している「落ち葉」を取り除けばシンプルな姿をしており,したがってそれをとらえた説明もシンプルなものでなければならないと考えている.本書で示した解釈がはたして真理をとらえているのか,それとも筆者の単なる独りよがりなのかは、読者の判断をまつしかない.

本書には、じつはもう1つの目的がある.それは,あまり認識されていないIPO研究の面白さを知ってもらうということである。IPO研究というのは、第1に,理論・制度・実証のどれが欠けても成立せず,第2に,十分に解明されていない(しかし挑戦に値する)問題が山積しており,第3に,歪みの少ない価格形成に向けての提言等,政策的含意が約束されている。あくまで個人的な感想であるが,学問としてのファイナンスでIPOほど面白いテーマはそうないように思う。このテーマに巡り会えた偶然に感謝するとともに,現役を退いた身として、微力ながらその面白さを伝えることの責務を感じている。

あらかじめ次の2点を断っておきたい、まず,筆者には実務経験がなく,制度に関する知識はすべて公表資料や関係者へのヒアリングを通して得たものである.そのため、IPOの実務家からすると、不適切な記述があるかもしれない。その点はご容赦いただきたい。ただ,本書の中心的論点である値付け制度については,可能なかぎり調べたつもりである。仮に事実誤認があったとしても,それは本書の結論を大きく左右するものではないと信じている。

また,本書の後半部分は、見方によっては,総合証券会社の行動を批判しているように受け取られるかもしれない。しかし、彼らの行動は,行政当局や業界団体の定めたルールのもとでは,何ら違法なものではない。それどころか,わが国の総合証券会社の置かれている立場等を考えると,きわめて合理的な行動である.その意味で,彼らの行動は非難されるべきものではない。ただし,そのことと,かかる行為が国民経済的にみて望ましいかどうかは、まったくの別問題である。もし望ましくなければ,行政当局が主導する形で,値付け方式を抜本的に見直す必要がある.

本書は,筆者が1990年代から取り組んできたIPO研究の成果を,一度すべて分解し,一冊の本となるように全体の構想を練り,それに沿って書き直したものである.必要に応じてデータを更新し,計測作業をやり直している。そのため,初出論文といえるようなものは特にない、出版にこれほど多くの時間を要したのは,ひとえに筆者の要領の悪さゆえである。

ここに至るまで、じつに多くの方々にお世話になった、間違いなく最大の恩人は,大学院時代の指導教授の田村茂先生である。先生からは,大学に残ってからも,あらゆる面で折に触れ的確なアドバイスを頂戴した.理路整然と説得力のある話し方や書き方をされる先生は,常に私のお手本であったこの本で少しでも恩返しができればこれほど嬉しいことはない。
学部時代の指導教授である故大熊一郎先生は,財政学がご専門であるにもかかわらず、ゼミの学生には卒論で好きなテーマを選ばせてくれた。そのおかげで,私は金融論に関心をもつことになるのだが,先生は私の無謀な大学院挑戦を認めてくれたばかりか、別の学部に所属する田村先生を紹介してくださった、このご恩がなければ、いまの私は存在しない。

37年来の親友であるRichard H. Pettway教授(元フロリダ大学)は,日本のファイナンスについての共同研究を何回ももちかけてくれ,論文投稿や学会発表を通して私の目を海外に向けさせてくれた彼と執筆した論文は本書で直接的には使用されていないが,問題意識や分析視点は間違いなく彼との共同研究で養われたものである。IPO研究の世界的第一人者であるJay R. Ritter教授(フロリダ大学)は、私にこのテーマの面白さと奥深さを教えてくれた私の稚拙な質問にいつも親切に答えてくれる彼からのメールは、私にとって大きな財産となっている。

大学院時代の兄弟子である大村敬一氏(早稲田大学)や,かつての職場(慶應義塾大学)の同僚である辻幸民氏,和田賢治氏,富田信太郎氏からは,さまざまな機会で貴重なアドバイスを頂戴した,記して謝意を表したい、同じIPO研究者である池田直史氏(東京工業大学)は,共著の一部を転載することを快諾してくれただけでなく,原稿の一部に目を通し,改善に役立つコメントを数多く寄せてくれた彼の惜しみない協力がなければ本書は完成に漕ぎ着けなかったと思われる。

日本ファイナンス学会,日本経済学会,日本金融学会関東部会、各種セミナーなどで報告の機会を得たときには,討論者の先生方をはじめとして多くの方々から貴重なコメントを頂戴した。とりわけ,鈴木健嗣氏(一橋大学),濯林爾氏(大阪市立大学),平木多賀人氏(国際大学),米澤康博氏(早稲田大学)から頂戴したコメントは、内容の改善に大きく役立った.

日本証券経済研究所主任研究員の若園智明氏は,私の質問に答えてくれただけでなく,各分野の専門家への橋渡し役を務めてくれた、日本証券業協会の山内公明氏と岩瀬哲也氏からは,制度や慣行に関する日米の違いについて,いろいろとご教示いただいた、証券分野の第一線で活躍している私のゼミの卒業生からも,多くの教えを請うことができた.
お名前をすべてあげることはできないが,お世話になった方々にこの場を借りて厚くお礼を申し上げたい.もちろん、本書に残された誤りは私個人の責に帰すものである。

本書のもととなった各種研究は,科学研究費補助金(基盤研究(B):課題番号17330074,21330079),日本経済研究奨励財団(当時),財団法人清明会(当時),公益財団法人石井記念証券研究振興財団,慶應義塾大学グローバルCOEプログラム(市場の高質化と市場インフラの総合的設計),慶應義塾大学学事振興資金(研究補助(個人,共同),研究科枠,特別研究費補助)による補助を受けている。記して謝意を表したい。

東洋経済新報社の伊東桃子氏は、呆れるほど遅筆の私を温かい言葉で励まし,原稿の完成を辛抱強く待ってくださったそして、岡博惠氏とともに厄介な編集と校正の労をとってくださった心より感謝申し上げた

最後に,私事で恐縮だが、家業の町工場を継がずに学問の道に進むことを許し、応援してくれた両親と,安心して仕事に打ち込める環境をつくり,献身的にサポートしてくれた妻・惠美子に,最大限の謝意をもって本書を捧げたい。2019年6月3日金子隆

金子 隆 (著)
出版社: 東洋経済新報社 (2019/7/26)、出典:出版社HP

IPOの経済分析: 過小値付けの謎を解く——目次

はしがき

第1章 日本のIPOの何が問題か
——本書の目的と概要
1. 本書の目的
2. 予備知識
3. 特徴的な観察事実
4. 過小値付けによる損失と利益の発生:仮設数値例
5. 2つの謎とそれに対する基本的考え方
6. 本書の構成と概要
データの出所一覧

第2章 日本のIPO制度
——値付け方法と配分方法を中心に
1. 固定価格方式(~1989年3月)
2. 入札方式(1989年4月~)
2-1. 導入の経緯
2-2. 入札方式下の公開価格決定方法
2-3. 入札方式下の配分方法
3. BB方式(1997年9月~)
3-1. 導入の経緯
3-2. BB方式下の公開価格決定方法
3-3. BB方式下の配分方法
3-4. BB方式の日米比較
3-5, 抽選配分制度の導入(2006年8月~)
3-6. 配分のあり方等に関するその後の見直し
4.まとめ——入札方式とBB方式の差異を中心に

第3章 過小値付け現象に関する先行研究
1. 情報の非対称性に着目した解釈
1-1. 逆選択仮説とその発展系
1-2. 情報獲得(情報顕示)仮説
1-3. シグナリング仮説」
1-4. 利害対立仮説
2. 発行企業・引受業者間のリスク配分に着目した解釈
3. 制度的要因に着目した解釈
3-1. 訴訟回避仮説
3-2. 安定操作仮説
4. 発行企業の所有・支配構造に着目した解釈
4-1. 支配権維持仮説
4-2. エージェンシーコスト削減仮説
5. 行動ファイナンスに基づく解釈
5-1. 情報カスケード仮説
5-2. プロスペクト理論
5-3. 投資家センチメント仮説
6. 価格決定方式の優劣に関する議論
7. まとめ—— 2つの謎に対する説明力を中心に

第4章 入札方式下の主幹事の「適正値付け」行動
1. 主幹事による過小値付けの誘因:理論的整理
2. 入札方式下における適正値付けの可能性
3. 「公開前」需要曲線と均衡価格の推定方法
3-1. 推定を可能にするための前提条件
3-2. 投資家のビッド分布と集計需要関数の関係
3-3. 需給均衡価格の推定方法
4. 公開価格と推定均衡価格の関係
5. 結び

第5章 不正確性プレミアム仮説
—— 謎1の解明
1. 「公開前」需要曲線と「公開後」需要曲線
2. 仮説の前提条件
2-1. 前提条件1—— 対称的情報下における意見の相違
2-2. 前提条件2—— 平均的意見を反映した株価形成
3. 不正確性プレミアム仮説
3-1. 仮説の基本的考え方
3-2. 不正確性プレミアムの決定要因
3-3. 実証的含意
4. 実証計画
4-1. 不正確性の指標としての意見分散度
4-2. 検証方法
5. 検証結果
6. 結び

第6章 現行方式の特異性に関する観察事実
1. 初期収益率に関する観察事実:再確認
2. 仮条件に関する観察事実
2-1. 仮条件と公開価格の関係
2-2. 仮条件の中間値とレンジに関する観察事実
2-3. まとめ
3. 値付けの的確性に関する観察事実

第7章 利益相反仮説の提示とその根拠
1. 利益相反仮説
2. 仮説の根拠
2-1. 総合証券会社の収益構造と顧客構成
2-2. 主幹事の裁量の余地
2-3. IPOのコスト構造
2-4. まとめ
3.補論——初値が高すぎる可能性について

第8章 利益相反仮説の検証
——謎2の解明
1. 仮説から導かれる実証的含意
2. 利益相反誘因の規定要因3.利益相反誘因の代理変数
4. 実証計画
4-1. 検証方法の概要
4-2. 回帰分析で使用する変数の定義
4-3. データと計測方法
5. 検証結果
5-1. 利益相反誘因が初期収益率に及ぼす影響
5-2. 利益相反誘因が機会損失額に及ぼす影響
6. 結び
主幹事証券会社の一覧

第9章 結論
1. 分析結果の要約——2つの謎に対する答えを中心に
2. 利益相反行為の何が問題なのか
3. 制度改善のための提言
4. 健全なIPO市場の発達にとって真に重要な視点

参考文献
用語一覧

金子 隆 (著)
出版社: 東洋経済新報社 (2019/7/26)、出典:出版社HP