雪ぐ人 えん罪弁護士 今村 核

現在の冤罪について知る5冊 – 他人事でなく知っておきたいことも確認する

目次

序章 破滅
第一章 何者
第二章 暗闘
第三章 毒
第四章 心
第五章 壁
第六章 立証
第七章 不屈
終章 理由

あとがき
参考文献

序章 破滅

佐々木 健一 (著)
出版社: NHK出版 (2018/6/21)、出典:出版社HP

「無罪一四件」の現実

99・9%。
言わずと知れた日本の刑事裁判の有罪率である。
無罪は、約1000件に一件。何年も無罪判決が出ていない地裁がある。そうした現実があることは、多くの国民も知っている。最近では、人気アイドルが演じる刑事専門弁護士のドラマもヒットした。
だが、何も分かっていなかったのだ。
冤を雪ぐー。
それが、いかに苦難と失意に満ちているか。
絶望的な刑事司法の壁に挑み続けた人間が、どんな人生を送ることになるのか。
真に理解してはいなかったのだ。

そのことを痛感したのは、ある日のランチがきっかけだった。
「これだけ体重が増えたから、炭水化物ダイエットの真似事みたいなこと、やってるんですよ。あまり米を食い過ぎないようにね。これでも努力してるんです」
身長は一八〇センチメートル近くあり、体重は優に一○○キログラムを超えていると見える”巨漢弁護士”は、そう言って行きつけの中華料理店へ私と撮影スタッフを連れて行った。その日は、仕事の合間のリラックスした昼食風景を撮影していた。

――「よく、先生が番組に出てくれたね」と、いろんな人から言われます。
「まあ、ある人に『お前のためじゃなく、えん罪がどんなものか知ってもらうために出るんだぞ』と忠告されたのもあって」

――テレビ番組に出るメリットは?
「それがまったくないかと言うと嘘ですね。俗人ですからね」
そう言いながら、自分が取材対象になることを少しも歓迎していない男。
それが、えん罪弁護士今村核だった。
どことなく浮世離れし、近寄りがたい雰囲気を漂わせている五三歳(取材当時)、独身。
そんな今村がこれまでに築き上げた実績は驚異的だ。

無罪一四件――。
法曹界の誰もが舌を巻く圧倒的な数字である。
私はこのとき、ディレクターとして、今村の足跡を追うNHKのドキュメンタリー番組(『ブレイブ勇敢なる者』の第二弾「えん罪弁護士」二〇一六年一一月二八日放送)を制作していた。

一週間ほど毎日のように顔を合わせ、自宅でのロングインタビューも行い、撮影は中盤にさしかかっていた。
今村との仲も、次第に打ち解けてきたように感じていた。
しかし、和やかなランチの空気は、私が発した次の質問によって一変した。
――先生のご専門って、何になるんですか?

「….あんま、いじめないでくださいよ」
突如、今村は表情を曇らせ、いかにも気怠そうに答えた。
そのときの話題は、弁護士の専門分野についてだった。
私は当然、彼が自らの専門を「えん罪事件」か「刑事弁護」などと答えると思い、あえて問いかけた。なぜなら、私の目の前にいるのは、無罪一四件という比類なき実績を築いた男なのだ。
ところが、なぜか今村は自身の専門分野を明言しない。不思議に思い、質問を重ねた。
――「刑事弁護」って毎回、扱うジャンルが幅広いということですか?
私の問いかけに深いため息をつく。
沈黙が流れ、張り詰めた空気が漂う。
しばらくして、体全体で不快感を示しながらこう言った。
「……いや、もう、ちょっと答えたくない」
事態の急変を飲み込めなかったが、ひとまず引き下がった。
――すみません……。一旦、(撮影を)止めます。

今村に向けられていたカメラが下ろされた。
私は混乱した頭で、自分の質問の何がいけなかったのか、振り返っていた。しかし、何が彼をここまで不機嫌にさせたのか、見当がつかなかった。
こちらの困惑を察するように、今村が口を開いた。
「『専門は、えん罪事件です」って言ったらさ、その瞬間に、俺の商売生命は終わりだから。……他の依頼が来なくなるから。いちばん困るような質問なんだよ!」
――それを言ってしまうと……ということですか?
「いや、絶対に成り立っていかない」

そう言って、苦悶の表情を浮かべた。
“えん罪弁護士”として今村核の名は法曹界に轟いている。過去には、自ら「冤罪弁護士』(旬報社)という書名で本も出版している。それなのに彼は、
「専門は、えん罪事件です」
と、カメラの前で明言するのを避けた。これは一体、どういうことなのか。
私は戸惑いと動揺のせいか、このあと、どんな話を交わしたかよく思い出せなかった。
この会話の続きは後日、編集室で聞いた。

長年、私が担当する番組で相棒を務めている藤田岳夫カメラマンは、録画を止めずに音声を録音し続けていた。先ほどまで今村の姿を捉えていたカメラは、テーブルの下の私のズボンを映したまま、会話は記録されていたのだ。
私は、尚もしつこく質問を続けていた。

――その部分を改めてお訊きしたいんです。「成り立たない」。それでも続けるんですか?
「……まあ、他にやることがないからですね」
力なく、吐き捨てるように語る。
そしてまた、長い沈黙が流れた。
「五名様、ご来店で~す!」

重苦しい空気の中、ウェイトレスの元気のいい声だけが響く。
しばらくして今村は、独り言のようにつぶやいた。
「……なんでだろう。私も普通の人権派弁護士になるつもりだったんです。えん罪事件ばかりやるんじゃなくて、他の人権問題や多種多彩な事件に取り組んで、民事事件も、金になる事件もやって、事務所に貢献して。そういう幅の広い活動ができる弁護士になりたいと思っていました。一〇年くらいそういう感じでやって、結局、自分がいちばん力を発揮できる分野がハッキリしてきたんです」

――それが「えん罪事件」だった?
「そのうち、そうなっちゃったんです。それしかできなくなっちゃった……」
――それは本音ですか?
「本音です」
――僕の訊き方が悪いから、「答えたくない」とおっしゃったわけじゃなく?
「うん。他の簡単な事件だったらいくらでもできますよ。現にやってますしね。ただ、本気で取り組めるのって、この種の事件しかないんですよね。他の事件ではそんな気になれない」

えん罪事件の弁護は、他の弁護活動とはまるで違う。
しかも、望んでその道に進んだわけではない。
神妙に語る声から、今まで心奥にしまっていた気持ちを吐露していることが、こちらに伝わってきた。

「この辺の話って僕、いちばん苦手なんですよね。すごく一般的なことを訊かれていると思うんですが……、嫌なんですよ」
――それは、どうしてですか?
「………..この先は、”破滅”しかないから」
今村が発した「破滅」という言葉が耳に刺さった。
だが、その時点ではまだ、その言葉の重みを深く理解できてはいなかった。
えん罪弁護を続けることが、なぜ破滅へと向かうのか。
それは、その後の取材で噛みしめていくこととなった。

――続けられない、ということですか?
「いや、最後まで続けますけど、今まで以上の困難が待っていそうな気もしますし。まあ、やればやるほどそうなっていきますよ。えん罪事件ってどういうものか、一般の方は表面的にしか分かっていない。手間、報酬、期間については知らない。現実を知らない。あまりにも厳しい現実……」

そしてまた、自分自身に語りかけるようにつぶやいた。
「『俺は破滅していくよ』ってことを、自ら言いたい人はいないと思うんだよ。……あと、二〇年もつかな。その途中でダメになるかもしれないし、それは分からない。二〇年やれればいいと思うけど。一応、頭と体が健康なままで。そしたら、自分を許してやる」
――「自分を許してやる」?「うん。まあ、『よくやったな』って」

ここまで語りきって、今村の声は先程とは打って変わって明るくなった。
そして、映像には彼が食べ残したライスが映し出された。
――すみません、お昼に訊くような話じゃなかったです。
「いやいや。こちらの反応が重すぎた」
そう言って巨体を仰け反らせ、
「カッカッカッ」
と屈託のない笑い声を上げた。

「私が生きている理由」
今村が言うように、私たちは「えん罪弁護」の現実を知らない。
多くの人は、えん罪事件を担当するような”人権派弁護士”は、貧しくとも崇高な理念の下、自ら進んでその道を歩んでいるものと思い込んでいる。だが、現実には、
「それしかできなくなっちゃった………」
と語る男が、無罪一四件を獲得してきた。
その男が抱える苦悩を私たちは知る由もない。

「絶対に成り立っていかない」
本気で有罪率99.9%と対峙し続けるとどうなるのか。
えん罪弁護は、たとえ人権派弁護士であっても軽々しく手が出せない領域なのだ。
「この先は、”破滅”しかない」
それが分かっていながら踏み止まり、二〇年以上も闘い続けてきた今村核。
“えん罪弁護士”の異名を持つその男は、破滅へ向かうことを知りながらそこに漂い続けるという、大いなる矛盾を抱えていた。
私は取材中、何度となく同じ質問を投げかけた。

――それでも、なぜ、えん罪弁護を続けるのですか?
多くの人が想像する答えはこうだろう。
「無実の罪の人を救うため」
「健全な司法なくして、健全な社会は成り立たないから」
当然、今村もそうした気持ちを抱えている。
だが、そのような答えなら、他の弁護士からも聞けるに違いない。
彼がえん罪弁護を続けるのは、そうした理由だけではない。私にはそう思えてならなかった。なぜなら、この男はあまりに多くのものを犠牲にし、その代償として一四件もの無罪判決を手にしてきたのだから。

今村は、えん罪弁護を続ける訳をこう語った。
「私が生きている理由、そのものです」
その言葉の意味を真に理解できたのは、彼の弁護士としての暗闘を追い、生い立ちや苦悩、そして、あまりに厳しい司法の現実を知ったあとだった。
これは、一人の男が、有罪率99.9%の壁に挑み続けた、絶望と希望の記録である。

佐々木 健一 (著)
出版社: NHK出版 (2018/6/21)、出典:出版社HP