実践 行動経済学

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ナッジの原点

シカゴ大学のリチャードセーラー教授(2017年にノーベル経済学賞)とハーバード大学のキャス・サンスティーンによる、「ナッジ」がタイトルとなった本です。今でこそナッジという言葉が広く知れ渡っていますが「コツっとひじを軽くたたく」という意味で、強制的な指示に頼らず、インセンティブ設計をどう作っていくかのかを理解できます。

リチャード・セイラー (著), キャス・サンスティーン (著), 遠藤 真美 (翻訳)
日経BP (2009/7/9)、出典:出版社HP

 

実践 行動経済学
健康、富、幸福への聡明な選択
リチャード・セイラー
キャス・サンスティーン 著
遠藤真美 訳

人生のすべてを、そしてこの本でさえ、より良いものに
してくれるフランスへ - RHT
毎日を喜びに変えてくれるサマンサへ ➖ CRS

読者のみなさん、ナッジ(nudge;原著タイトル)をnoodgeと混同しないでいただきたい。政治ジャーナリストのウィリアム・サファイヤがニューヨーク・タイムズ・マガジン誌(二○○○年一〇月八日号)のコラム「オン・ランゲージ」で説明しているように、「イディッシュ語のnoodge」は、「『厄介者、うるさく小言を言う迷惑者、不平ばかり言っている者』を意味する名詞である。一方、nudgeは『注意や合図のために人の横腹を特にひじでやさしく押したり、軽く突いたりすること』である。

そのような形でnudgeする人、つまり、『他人に注意を喚起させたり、気づかせたり、控えめに警告したりする』人は、はた迷惑な泣き言をこぼしてばかりいるnoodgeとは似ても似つかない」。nudgeはjudgeと同韻で、noodgeのooはbookと同じように発音する。

謝辞

本書の研究は、シカゴ大学経営大学院、シカゴ大学法科大学院の法学・経済学プログラムの資金によって可能になった。また、ジョンテンプルトン財団からも意思決定研究センターへの助成金を通じて多大な支援を得ている。

本書を執筆するに当たっては、数多くの方々にご助力をいただいた。エージェントのサイデル・クレイマーは終始一貫してすばらしい助言を与えてくれた。編集者のマイケル・オマリーは原稿に対して貴重な意見を述べてくれた。二度の夏を越える時を共に過ごしてきた愉快で優秀な研究アシスタントチームの面々、ジョナサン・ベルッ(私たちのために二度の夏を耐えてくれたことに二重に感謝する)、レイチェル・ディザード、キャシー・フロンク、ハイジ・リュー、マシュー・ジョンソン、ブレット・レイノルズ、マシュー・トクソン、アダム・ウェルズに心から感謝する 。

本書はたくさんの同僚の力によって磨き上げられた。なかでもシュロモ・ベナルチ、エリザベス・イメンズ、ニック・エプリー、ダン・ギルバート、トム・ギロビッチ、ジョンサン・ガーヤン、ジャスティン・ヘイスティング ス、エリック・ジョンソン、クリスティン・ジョルス、ダニエル・カーネマン、ディーン・カーラン、エミール・カメニカ、デービッド・レオナルド、 マイケル・ルイス、ブリジット・マドリアン、フィル・メイキン、ケイド・マッシー、センディル・ムッライナタン、ドン・ノーマン、エリック・ポズナー、リチャード・ポズナー、デニス・リーガン、ラグ・ラジャン、トム・ ラッセル、ジェシー・シャピロ、エルダー・シャフィール、エドナー・ウルマン・マーガリット、エイドリアン・バーミュール、エリック・ワナー、エルケ・ウェバー、ローマン・ワイル、スーザン・ウッドワード、マリオン・ ローベルは、数々の洞察、示唆に加えて、友情と義務の領域を超えるナッジまで与えてくれた。

最も厳しく、最も思慮深い助言をしてくれたのが、フランス・ルクレールとマーサ・ナスバウムだった。フランス、マーサには、数えきれないほどの改良を加える手助けをしてくれたことに厚く感謝する。ビッキー・ドロッドはいつものようにあらゆる手助けをしてくれた。研究アシスタント全員が確実に報酬を受けとるようにしてくれたことにはみな感謝していた。有用な議論、忍耐、行動経済学に関するセンスと感興、温かい励ましを与えてくれたエリン・ルディックーサンスティーンにも感謝している。

五七番通りにあるレストラン、ヌードルズの全スタッフにも心から感謝の意を表したい。何年ものあいだ、私たちのために食事をつくり、私たちが本のプランを練り、議論するのに熱心に耳を傾けてくれた。来週またおじゃまする。
国際版に関しては、本書のアーキテクトとして欠かすことのできない存在であるジョン・バルツに改めて謝意を示したい。クリス・シー、ダン・マル ドゥーン、キアラ・モンティコーネ、アデール・ターナーにも感謝を捧げる。

リチャード・セイラー (著), キャス・サンスティーン (著), 遠藤 真美 (翻訳)
日経BP (2009/7/9)、出典:出版社HP

目次

謝辞
はじめに ● 「自由放任」でも「押しつけ」でもなく

第1部 ■ ヒューマンの世界とエコノの世界
第1章 ● バイアスと誤謬
第2章 ● 「誘惑」の先回りをする
第3章 ● 言動は群れに従う
第4章 ● ナッジはいつ必要なのか
第5章 ● 選択アーキテクチャー

第2部 ■ 個人における貯蓄、投資、借金
第6章 ● 意志力を問わない貯蓄戦略
第7章 ● オメデタ過ぎる投資法
第8章 ●借金市場」に油断は禁物

第3部 ■ 社会における医療、環境、婚姻制度
第9章 ● 社会保障制度の民営化―――ビュッフェ方式
第10章 ● 複雑きわまりない薬剤給付プログラム
第11章 ● 臓器提供者を増やす方法
第12章 ● われわれの地球を救え
第13章 ● 結婚を民営化する

第4部 ■ナッジの拡張と想定される異論
第14章 ●一二のミニナッジ
第15章 ● 異論に答えよう
第16章 ● 真の第三の道へ

あとがき ● ヒューマン投資家と二〇〇八年金融危機


参考文献

はじめに――「自由放任」でも「押しつけ」でもなく

■最良のカフェテリアとは
あなたの友人、キャロリンは大規模な公立学校給食サービスを統括する責任者である。何百もの学校を担当しており、何十万人という子どもたちが毎日キャロリンのカフェテリアで食事をする。キャロリンは栄養学の正規教育を受けていて(州立大学で修士号を取得している)、既成の枠にとらわれないやり方で物事を考えるのが好きな創造的なタイプの人間である。

ある日の夕方、キャロリンは友人のアダムとおいしいワインを飲んでいた。アダムは統計重視派の経営コンサルタントで、スーパーマーケット・チェーンを担当している。そのとき、二人は面白いアイデアを思いついた。カフェテリアのメニューはいっさい変えず、陳列の仕方や並べ方が子どもの選択に影響を与えるかどうか、学校で実験して確認してみるのである。キャロ リンは何十校ものカフェテリアの責任者に食品の陳列方法を具体的に指示した。デザートを最初に置いた学校もあれば、最後に置いた学校もあり、別のところに離して置いた学校まであった。食べ物を置く場所は学校ごとに変え、ある学校では目線の高さにフライドポテトを置き、別の学校ではニンジンスティックを置いた。

アダムにはスーパーマーケットのフロア計画を立案した経験があり、実験は劇的な結果を示すだろうと予測した。アダムの見立ては正しかった。カフェテリアの配列を変えるだけで、数多くの食品の消費量を最大で二五パーセ ントも増減できたのだ。キャロリンは大きな教訓を学んだ。生徒たちは大人と同じように、文脈のちょっとした変化に大きく影響されうるのである。そうした影響力は良い方向にも悪い方向にも使うことができる。キャロリンなら、体に良い食べ物の消費量を増やし、体に悪い食べ物の消費量を減らせる。

この実験には何百もの学校が協力し、大学院生のボランティアを募ってデータを収集・分析した。自分には子どもたちが食べるものを大きく左右する影響力があることを知ったキャロリンは、新しく見つけ出した力をどう使おうか思案しているところだ。キャロリンのもとには、日頃はまじめだが、たまにいたずら好きな一面をのぞかせる友人や同僚からいくつかの提案が寄せられている。

1 総合的に判断して、生徒たちにとって最善の利益になる食品を並べる。
2 食品を並べる順序をランダムに選ぶ。
3 子どもたちが自分で選ぶだろう食品を選べるように並べる。
4 最高額の賄賂を差しだす供給会社から調達する食品の売上高を最大化する。
5 儲けを最大化することに徹する。

1は誰の目にも魅力的に映るが、押しつけのような感じがしなくもない。パターナリズム的でさえある。しかし、それ以外の選択肢はもっと悪い!

食べ物をランダムに並べる2は、公正で筋が通っているように思われるかもしれない。ある意味では中立的でもある。だが、食品を並べる順序をすべての学校に対してランダムに決めると、一部の学校の生徒はほかの学校の生徒よりも健康に良い食べ物を食べられなくなってしまう。これは望ましいといえるだろうか。キャロリンは健康を増進するという点で大半の生徒の効用を容易に高められるのだとしたら、その種の中立性を選ぶべきなのだろうか。

3は押しつけを避ける賞賛すべき取り組みのように見えるかもしれない。子どもが自分で選ぶだろう食品を並べるようにするのである。それは真に中立的な選択であるかもしれないし、キャロリンは人々の望みを(少なくとも 高学年の生徒を相手にする場合には)中立的な立場でかなえるべきなのかもしれない。しかし少し考えれば、この選択肢を実行するのは難しいことがわかる。アダムの実験で、子どもたちの選択は食べ物の陳列順序に左右されることが実証されている。そうだとすると、子どもたちの真の選好とはどのようなものになるのだろう。キャロリンは生徒が自分たちで、選ぶだろうものを把握しなければならないのだろうか。カフェテリアでは食品をなんらかの形で系統立てて並べなければいけない。

4はキャロリンと取引する悪徳業者には魅力的に映るかもしれず、影響力を行使する手段を格納する兵器庫に「食品の並べ方を操作する」という武器がまた一つ加わることになるだろう。だが、キャロリンは高潔で誠実な人物であり、この選択肢は切り捨てる。2、3と同じく、5もなかなか魅力的である。最高のカフェテリアとは最高に儲かるカフェテリアだ、とキャロリン が考えているならなおさらだ。しかし、そのために子どもたちの健康が脅かされるのだとしたら、キャロリンは儲けを最大化することを追求するべきなのだろうか。キャロリンはほかでもない学区のために働いているのだ。

キャロリンは「選択アーキテクト (設計者)」である。選択アーキテクトは人々が意思決定する文脈を体系化して整理する責任を負う。キャロリンは 想像上の人物だが、現実の世界でも実は選択アーキテクトだという人はたくさんおり、そうとは気づいていないケースがほとんどだ。有権者がどの候補者に投票するかを選ぶ際に使う投票用紙をデザインする人は選択アーキテクトである。患者が利用できる治療方法の選択肢を提示しなければならない医師も選択アーキテクトである。新しい社員が会社の医療制度に加入する際に記入する書類をつくる人だって選択アーキテクトである。自分の子どもに考えられる教育の選択肢を示す親も選択アーキテクトだ。セールス担当者も選択アーキテクトなのである(改めて言うまでもないことだが)。

従来からある建築と選択アーキテクチャーには類似点がいくつもある。きわめて重要な類似点は、「中立的」な設計などないということだ。新しい大学の校舎を設計する仕事を考えてみよう。設計者にはいくつかの要件が与えられる。新校舎には一二〇の研究室、八つの教室、一二の学生集会室などがなければならない。校舎は決められた場所に建てなければならないー。

それ以外にも、法律の問題、美観の問題、実用上の問題など、何百という制限がある。設計者は最後にはドアと階段と窓と廊下のある現実の建物をつくらなければならない。優秀な設計者なら知っているように、トイレをどこにつくるかという、これといった根拠がなさそうな意思決定が、校舎を使う人々がどのように相互交流するかに微妙な影響を与える。トイレに行くたびに同僚に偶然出会う機会が生まれるからだ(良い意味でも、悪い意味でもだが)。良い建物は魅力的なだけではない。「機能」も備えている。

後で明らかになるように、なんでもなさそうな小さな要素が人々の行動に大きなインパクトを与えることがある。そのため、「あらゆることが重要な意味をもつ」という想定をおくことが優れた経験則になる。利用者の注意をある特定の方向に向かせると細部が力をもつようになるケースは多い。この原理を示す秀逸な例に、アムステルダム・スキポール空港の男性用トイレがある。空港の小便器には黒いハエの絵が描かれている。男というものは用を足すときにはどうも注意が散漫になるようで、周囲を少しばかり汚してしまいがちだが、目標があると注意力が格段に高まり、精度も大幅に向上する。

発案者の話では、このアイデアは目覚ましい成果を上げているという。「これがあると狙いを定めやすくなります。男はハエを見つけると、それを狙い たくなるものなのです」と、アード・キーボームは語る。キーボームは経済 学者で、スキポール空港の施設拡張計画を統括している。スタッフがハエ実 験を行った結果、ハエマークの効果で飛沫の汚れが八〇パーセントも減ることが明らかになった注1。

「あらゆることが重要な意味をもつ」という洞察は、機能を麻痺させるものにも、力を与えるものにもなる。優れた設計者は、完璧なビルを建てることはできないが、有益な効果をもたらす設計選択はできると考える。例えば、吹き抜け空間を取り入れれば職場内の交流が促されるだろうし、人々が頻繁に行き来するようにもなるだろう。どちらも望ましいことだといえる。そして、ビルの設計者が最後には特定のビルを建てなければならないのとまったく同じように、キャロリンのような選択の設計者、つまり「選択アーキテクト」は給食の食品の選択肢を並べる特定の順序を選ばなければならない。キャロリンはそれをどう選択するかによって、人がなにを食べるかに影響を与えることができる。キャロリンはナッジ”できるのである。

■リバタリアン・パターナリズム
総合的に判断すると、キャロリンは子どもが自分たちにとってより良い食品を選ぶようにナッジする機会を利用するべきであり、1の選択肢を選ぶべきだ――。そう思われたのなら、われわれが提唱する新しい潮流「リバタリアン・パターナリズム」の世界にようこそと申し上げたい。この言葉は読者の心を引きつけるようなものではないことは重々承知している。

「リバタリアン」も「パターナリズム」も少し嫌悪感をもよおさせるところがあり、大衆文化や政治の固定観念が重くのしかかって、多くの人には魅力に欠けるものになっている。しかも、この概念は矛盾しているように感じられる。どうして悪く言われている相反する二つの概念を組み合わせるのだろう。正しく理解されれば、リバタリアンもパターナリズムも常識的な考え方であり、別々に見るよりも組み合わせたほうがはるかに魅力的になる。

問題は、それぞれの言葉が教条主義者たちのもつ強固なイメージのなかにとらわれてしまっていることだ。「人は一般に自分がしたいと思うことをして、望ましくない取り決めを拒否したいのなら、オプト・アウト(拒絶の選択)する自由を与えられるべきである」――。このストレートな主張がわれわれの戦略のリバタリアン的な側面である。リバタリアン・パターナリストは、故ミルトン・フリードマンの言葉を借りるなら、人は「選択の自由」をもつべきだと強く訴える注2。われわれは選択の自由を維持したり、高めたりする政策を設計しようと懸命に努力している。

「パターナリズム」という言葉の意味を限定するために「リバタリアン」という言葉を使うときには、自由を維持していることを意味するにすぎない。そして、「自由を維持する」と言うときには、まさにその言葉通りのことを言っているのである。リバタリアン・パターナリストは人々 が思い通りに行動できるようにしたいと考えているのであって、自由を行使 したいと思っている人に重い負担をかけようとは考えていない。

「人々がより長生きし、より健康で、より良い暮らしを送れるようにするために、選択アーキテクトが人々の行動に影響を与えようとするのは当然であ る」―。これがわれわれの戦略のパターナリズム的な側面である。言い換 えると、われわれは、民間部門の組織だけでなく、政府も自覚的な取り組み を進めて、人々が自分たちの暮らしが良くなるような選択をするように誘導するべきだと主張しているのである。

われわれの理解によるなら、選択者が自分自身で判断して自らの効用を高めるような選択に影響を与えようとするのであれば、その政策は「パターナリズム的」である注3。個人は様々なケースで、もし十分な注意を払い、完璧な情報をもち、非常に高い認識能力を備え、自制心を完璧に働かせていたなら、しなかっただろうと思われるような間違った意思決定をする。本書では、社会科学の分野で確立されている知見を活用して、それを示していく。

リバタリアン・パターナリズムは相対的に弱く、ソフトで、押しつけ的ではない形のパターナリズムである。選択の自由が妨げられているわけでも、選択肢が制限されているわけでも、選択が大きな負担になるわけでもない。タバコを吸いたいとか、キャンディーをたくさん食べたいとか、続けられないような医療保険プランを選びたいとか、老後の資金を貯められなくてもかまわないとかいう人がいても、リバタリアン・パターナリストはそうしないように強制することはないし、そうしづらくすることさえしない。それでもわれわれが勧めるアプローチはパターナリズムの一種とみなされる。

民間部門や公的部門の選択アーキテクトは、ただ単に人々がどのような選択をするかを突きとめたり、予測される選択を実行させようとしたりしようとしているのではない。人々をより良い生活が送れる方向に進ませるように自覚的に取り組んでいるのである。選択アーキテクトはナッジしているのだ。

われわれの言う「ナッジ」は、選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する。純粋なナッジとみなすには、介入を低コストで容易に避けられなければいけない。ナッジは命令ではない。

果物を目の高さに置くことはナッジであり、ジャンクフードを禁止することはナッジではない。われわれが勧める政策は、政府のナッジがあるかないかに関係なく、民間部門で実行できるものが多く、実際に実行されている。例えば雇用主はこの本で論じる様々な事例の重要な選択アーキテクトである。医療保険プランや退職貯蓄プランに関する分野では、雇用主は従業員に有用なナッジを与えることができるだろう。儲けながら良いことをしたい民間企業であれば、環境ナッジを与え、大気汚染(そして温室効果ガスの排出量)を減らす後押しをして、利益を上げることだってできる。しかし後で明らかになるように、民間企業のリバタリアン・パターナリズムを正当化する論理は政府にもそのまま当てはまる。

■われわれ「ヒューマン」と完璧な経済人「エコノ」
パターナリズムを認めない人はたいていこう主張する。人間は高い選択能力をもっていて、すばらしい選択はしていないとしても、ほかの誰かがするであろう選択よりも良い選択をしていることは間違いない、その誰かが政府 の人間である場合は特にそうだ――。経済学を学んだことがあるかどうかに 関係なく、「私たちの誰もが間違うことなく適切に考えて選択しており、経済学者が示す教科書的な人間モデルに合致する」という「ホモ・エコノミクス」(経済人)の仮定に、少なくとも暗黙のうちに与している人は多いように思われる。

経済学の教科書を見ると、ホモ・エコノミクスはアルベルト・アインシュタインのように考えることができ、IBMのスーパーコンピューター「ブルージーン」と肩を並べる記憶容量を備え、マハトマ・ガンディー並みに強い意志をもっていることがわかる。本当にそうなのだ。しかし市井の人々はそうではない。現実の人間は電卓がなければ長い割り算に悪戦苦闘するし、配偶者の誕生日を忘れることもあるし、二日酔いで新年を迎えたりもする。こんな人はホモ・エコノミクスではない。ホモ・サピエンスである。ラテン語 の使用を最小限にするため、これから先はこの想像上の種を「エコノ」、実在する種を「ヒューマン」と呼ぶことにする。

肥満の問題を考えてみよう。アメリカの肥満率はいまや二〇パーセントに達しつつあり、アメリカ国民の六割以上が肥満か太り過ぎだと考えられている。世界全体では太り過ぎの成人は約一○億人いて、そのうち三億人は肥満である。肥満率は、日本、中国、一部のアフリカ諸国の五パーセント未満から、サモアの都市部の七五パーセント超まで幅がある。世界保健機関(WH 0)によると、北アメリカ、イギリス、東ヨーロッパ、中東、太平洋諸島、オーストラリア、中国の一部の地域では一九八〇年以降、肥満率が三倍になっている。

肥満が心臓病や糖尿病のリスクを高め、早死にする確率が高いことを示す証拠は数えきれないほどある。これでは誰もが適切な食事(いくつかのナッジを与えることによって生みだされるであろう結果よりも望ましい食事)を選んでいるとはとてもいえない。もちろん、良識ある人々は健康だけでなく、味にも注意を払っている。食べることはもともとそれ自体が快楽の源泉である。われわれは太り過ぎの人はみんな合理的に行動していないと主張しているのではない。すべてのアメリカ人、あるいはほとんどすべてのアメリカ人は食品を最適に選んでいるという主張を退けているのである。

食事に当てはまることは、喫煙や飲酒など のリスクを伴う行動にも当てはまる。喫煙や飲酒が原因で毎年五〇万人以上が早死にしている。食事、喫煙、飲酒については、人々の現時点での選択がそれぞれの幸福を増進する最高の手段になっているとはいいがたい。実際、多くの喫煙者、飲酒者、過食者が第三者にお金を払って、より良い選択ができるように手助けしてもらっている。

これに対して、本書では新たに台頭しつつある選択の科学が基本的な情報源になっている。選択の科学は過去四〇年間の社会科学者による綿密な調査を基礎としている。こうした研究によって、人々が行う様々な判断や意思決定の合理性に対して、重大な疑問が投げかけられている。エコノとみなされるには完璧な予測をする必要はない(それには全知が求められる)。必要なのはバイアスのない予測をすることだ。

つまり、エコノは予測を誤る可能性はあるが、予測可能な方向性を系統的に誤る可能性はない。エコノと違ってヒューマンは誤りを犯す。この点を「計画錯誤」を例に説明しよう。計画錯誤とは、計画を実行するのに必要な時間を過度に楽観的に見積もってしまう体系的な傾向を指す。請負業者を雇った際、計画錯誤について知っていたのに、すべてにおいて考えている以上に時間がかかってしまったという経験のある人なら、こう聞いても少しも驚かないだろう。

何百という研究によって、人間の予測には欠陥があり、バイアスがかかっていることが確認されている。人間の意思決定もそんなにたいしたことはない。ここでも一つだけ例を挙げて、「現状維持バイアス」と呼ばれる傾向を考えてみよう。現状維持バイアスとは「惰性」のしゃれた言い方である。人はいくつもの理由から現状維持やデフォルト(選択者がなにもしなかったら選ぶことになる初期設定)の選択肢に従う強い傾向を示す(この問題については後で検討する)。

例えば、新しい携帯電話を買うときには一連の選択をする。携帯電話の機能が高まれば高まるほど、背景画面からの呼び出し音、電話をかけてきた相手にボイスメールを送る呼び出し音の回数まで、突きつけられる選択肢は増える。メーカー側はこうした選択ごとに一つの選択肢をデフォルトとして設定している。デフォルトの選択肢がどのようなものであるかに関係なく、大勢の人がデフォルトに固執することを示す調査がある。着信音の選択よりずっと利害の大きい重要な選択のときでもそうするのだ。この研究から二つの重要な教訓を導き出せる。一つは「決して惰性の力をあなどってはならない」、もう一つは「その力は利用できる」――である。

民間企業や政府当局がある政策のほうがより良い結果を生みだすと考えている場合には、それをデフォルトに選べば結果に大きな影響を与えることができる。後で示すように、デフォルト・オプションを設定するなど、一見するとなんでもないようなメニュー変更戦略は、「貯蓄が増える」「医療が向上する」「患者の命を救う移植手術に臓器が提供されるようになる」といった 非常に大きな影響を生みだすことがある。

デフォルト・オプションをうまく設定すると大きな効果が生まれるが、これはナッジが緩やかな力をもっていることを示す事例の一つにすぎない。われわれの定義に従えば、「ナッジ」とは、エコノには無視されるものの、ヒューマンの行動は大きく変えるあらゆる要素を意味する。エコノは主にインセンティブに反応する。政府がキャンディーに課税すると、エコノはキャンディーを買う量を減らすが、選択肢を並べる順番のような「関係のない」要因には影響されない。ヒューマンもインセンティブに反応するが、ナッジにも影響される*。インセンティブとナッジを適切に配置することによって、人々の生活を向上させる能力が高まり、社会の重大な問題の多くを解決できるようになる。しかも、すべての人の選択の自由を強く主張しながらそうできる。

*鋭い読者ならインセンティブの形が変わる可能性があることに気づくだろう。果物を目の高さに置き、キャンディーをもっとわかりにくい場所に置くなど、人々の認知努力を増やす方法がとられると、キャンディーを選択する「コスト」は高まるといえるかもしれない。われわれが提案するナッジのなかには、ある意味で認知コスト(物質的コストではない)を課し、その意味ではインセンティブを変えるものがある。いかなるコストも低い場合にのみ、ナッジはナッジとみなされ、リバタリアン・パターナリズムと認められる。

本文の注が登場したところで、本書の注と参考文献一覧に関するアーキテクチャーに少し触れておきたい。読む価値があると思われる注は、見つけやすいように*記号をつけて本文の近くに置いている。注は最小限に抑えた。番号がついた注のほうは巻末に基礎資料に関する情報として記載しており、この部分については学究肌の読者以外は読みとばしていただいてかまわない。本文のなかで引用した文献の著者に言及するときには、「スミス (Smith [1982])」のように年号を括弧書きで記して、後注に当たらなくても参考文献一覧で直接調べられるようになっていることもある。

■一つの誤った前提と二つの誤解
選択の自由を支持する多くの人々はパターナリズムをいっさい拒絶し、政府が市民に自分の意思で選択させるようにすることを望む。こうした考え方に基づくなら、できるかぎり多くの選択肢を与えて、最も気に入った選択肢を選ばせるようにすることが標準的な政策提言になる。政府の介入やナッジはできるかぎり少なくする。この考え方の長所は、複雑に入り組んだ様々な問題にシンプルな解が提示されることだ。

「選択肢(の数と種類)を最大化しろ、以上!」である。この政策は教育から処方薬保険プランまで様々な領域で推進されている。「選択肢の最大化」が政策の呪文になっている分野もある。この呪文に対する唯一の代替策は「画一的アプローチ」と揶揄される政府命令だとされるときがある。「選択肢の最大化」を支持する人は、自分たちの方針と一律的な命令とのあいだに大きな余地が残されていることに気づいていない。パターナリズムに反対するか反対派を自認し、ナッジに疑いの目を向ける。そんな疑念は、一つの誤った前提と二つの誤解から生じていると考えられる。

誤った前提とは、「ほとんどすべての人が、ほとんどすべての場合に、自分たちの最大の利益になる選択をしているか、最低でも第三者がするより良い選択ができる」というものである。この前提はどう見ても間違っている。実際、よくよく考えた上でこの前提を信じる人などいないだろう。

チェスの初心者が経験豊富なプレーヤーと対戦すると仮定してみよう。初心者はまさに「選択能力に劣る」という理由で負けることは予測がつく。役に立つヒントがあれば、選択能力はすぐに高まるだろう。多くの分野で一般消費者は初心者であり、そこにモノを売り込もうとする経験豊富なプロが住む世界でやりとりしている。

もっと一般的な話をすると、どれだけ上手に選択するかは経験に左右され、答えは領域によって違うものになる公算が大きい。人は自分が経験をもち、十分な情報があり、即座にフィードバックを得られる文脈では適切な選択をするといってよい。一例がアイスクリームの味の選択である。人は自分がチョコレートやバニラ、コーヒー、甘草などが好 きかどうかわかっている。

ところが、経験がなく、情報が多くなく、フィードバックが遅かったり少なかったりする文脈になると、うまく判断できなくなる。果物かアイスクリームのどちらかを選ぶケース(長期的な効果が表れるまでに時間がかかり、フィードバックが乏しい)や、治療方法や投資の選択肢を選ぶケースがそうだ。多種多様で様々な特徴をもつ五○種類の処方薬プランを提示される場合には、ちょっとした手助けがあると役に立つだろう。

人は完璧な選択をしていないのだとすると、選択アーキテクチャーを少 し変えれば、人々の生活は(官僚の選好ではなく、人々の選好を基準に判断して)より良いものになる可能性がある。これから明らかにしていくように、人々の効用を高める選択アーキテクチャーを設計するのは可能なだけではない。多くの場合、簡単にできる。

一つ目の誤解は、「人々の選択に影響を与えないようにすることは可能である」というものだ。様々な状況で組織や行為者がほかの人々の行動に影響を及ぼす選択をしなければならない場合がある。そうした状況では、なんら かの方向にナッジすることは避けられず、意図的かどうかに関係なく、ナッジは人々の選択に影響を与える。キャロリンのカフェテリアが例証しているように、人の選択は選択アーキテクトが選ぶ設計要素に全面的に影響される。もちろん、知らず知らずにナッジしている場合があることは事実である。

雇用主が従業員に月一回給与を支払うか、隔週にするかどうかを、ナッジを与えるという意図をいっさいもたずに決めるとする。ところが、隔週で給与をもらうと、給与を三回もらえる月が年二回あるため、貯蓄が予想外に増える、といったケースがそうだ。また、民間組織や公的組織が、無作為に選ぶ、大半の人がなにを望んでいるか把握しようとするといった形で、なんらかの中立性を確保しようと尽力することがあるのも事実である。しかし、意図せぬナッジが大きな影響を与えることがあり、そうした中立性に魅力がない文脈もある。本書にはそんな事例がたくさんでてくる。

民間組織についてはこの点を進んで受け入れても、人々の生活を向上させる目的で選択に影響を与える政府の取り組みには猛反対する人もいる。そうした人は、政府は能力が高いわけでも、慈悲深いわけでもない、選挙で選ばれた公職者や官僚は自己の利益を第一に考えたり、利己的な民間団体の偏狭な要求に注意を向けたりするかもしれないと恐れているのだ。われわれもそう危惧している。政府が間違いを犯し、バイアスをかけ、行き過ぎてしまうリスクは現実にあり、ときに深刻であるという点には強く同意する。

われわれが命令や要求、禁止よりもナッジを支持するのはそれが一因である。しかし、カフェテリアと同じように、政府はなんらかの起点を示さなければならない(政府がカフェテリアを運営していることもよくある)。これは避けられない。本書で強く主張していくように、政府は自ら定めたルールを通じて日々そうしており、結果的に選択や結果に影響を与えている。この点で、ナッジに反対するのはまったく無意味である。

二つ目の誤解は、「パターナリズムには常に強制が伴う」というものだ。先のカフェテリアの例では、食品を並べる順序を選んでも誰にも特定の食品を食べるように強制することはないが、キャロリンのような立場にある人は、われわれが言う意味でのパターナリズム的な見地から、食品の並べ方を選ぶかもしれない。小学校のカフェテリアでデザートの前に果物やサラダを置き、結果的に子どもたちがリンゴを食べる量を増やして、スナック菓子を食べる量を減らすように誘導したとしても、誰がそれに異議を唱えるだろう。この問題は、顧客が一○代の少年少女、さらには大人だと根本的に違ってくるのだろうか。

このパターナリズムは強制をいっさい伴わないため、ある種のパターナリズムは選択の自由を強く信奉している人にも受け入れられるはずだと思われる。本書では、貯蓄、臓器提供、結婚、医療などの様々な領域で、われわれの基本的なアプローチに沿って具体的な提案をしていく。選択の自由を尊重すると強く主張することで、不適切な設計や、さらには不正が横行するような 設計が行われるリスクを減らせるだろう。選択の自由は、ずさんな選択アーキテクチャーが構築されるのを防ぐ最高の安全装置になる。

■選択アーキテクチャーの実例
選択アーキテクトは、利用者に優しい環境を設計することによって、人々の生活を目覚ましく向上させられる。繁栄している企業の多くは、まさにそうすることで人々を助けたり、市場で成功したりしている。選択アーキテクチャーがはっきりと目に見え、それによって消費者や雇用主が大きな満足を得るときもある(iPodやiPhoneはその好例である。スタイルがエレガントであるだけでなく、ユーザーは自分の思い通りのことが簡単にできる)。

また、選択アーキテクチャーが当たり前のものとされていて、注意深く見るとわかるようなケースもある。われわれ自身の雇用主、シカゴ大学の実例を考えてみよう。大規模な雇用主の例にもれず、シカゴ大学は毎年一一月、健康保険や退職貯蓄などの給付に関する選択を変えることができる「一般登録」期間を設けている。選択は オンラインで行わなければならない (インターネットにアクセスする手段をもたない人は公開端末を利用できる)。従業員には選択肢とログオン方法を説明する資料が郵送されるほか、紙と電子メールの備忘録も送られる。

従業員は人間の常として、なかにはログオンするのをうっかり忘れてしまう人もいる。そのため、多忙で忘れっぽい従業員のためにデフォルトの選択肢をどのようなものにするかを決めることが非常に重要になる。話を簡単にするために、検討されている選択肢が二つあると仮定しよう。能動的に選択をしていない人については「前年と同じ選択が継続されるものとする」か、 「選択を『ゼロ』に戻すものとする」か、である。従業員のジャネットは前の年に退職貯蓄プランに一○○○ドルを拠出したとしよう。

ジャネットが新年度の拠出金を能動的に選択しない場合には、新年度の拠出金は一○○○ド ルか○ドルかのどちらかに設定される。前者を「現状維持」オプション、後者を「ゼロ設定」オプションと呼ぶことにする。選択アーキテクトはこの二つのデフォルトをどう選ぶべきなのだろうか。

リバタリアン・パターナリストなら、ジャネットのような思慮深い従業員に本当はどうしたいのか聞いてデフォルトを設定しようとするだろう。この方法だと必ずしも最適な選択ができるとはかぎらないが、デフォルトをランダムに選んだり、「現状維持」か「ゼロ設定」かを一律に選ぶよりも良いことは間違いない。例えば、従業員のほとんどは高額の補助が出されている健康保険をキャンセルしたいとはまず思わないだろう。そのため、健康保険については現状維持デフォルト(前年と同じプラン)のほうがゼロ設定デフォルト(健康保険なしでやっていくことになる)よりも強く選好されるのではないか。

これを従業員の「フレキシブル支出口座」と比較してみよう。フレキシブル支出口座は、従業員が毎月、給与天引で自己負担の医療費や保育費などの費用を貯めておく制度である。この口座に入れたお金はその年に使わないと失効するが、必要な金額は年によって大きく変わるかもしれない(例えば子どもが学校に入ると保育費は減る)。このケースでは、現状維持デフォルト よりもゼロ設定デフォルトのほうがおそらく理にかなう。

これは単なる仮定上の問題ではない。われわれは以前、シカゴ大学の三人 の事務部門の幹部職員と会って、同じような問題について話し合ったことがある。その日はたまたま、従業員の一般登録期間の最終日だった。われわれはそれを指摘し、三人に締め切りを守ることを覚えていたかどうか質問した。一人はその日中に処理するつもりだったと答え、今日が締め切り日だと思い出させてくれたことに感謝していた。

もう一人はすっかり忘れていたことを認め、残る一人は妻が忘れずにそうしてくれただろうと言ったのだ!その後、補助的な給与天引プログラム(節税対策となる貯蓄制度)のデフォルトをどのようなものにするべきかという問題に話題を移した。それまでのデフォルトは「ゼロ設定」オプションだった。しかし、この制度はいつでも利用を中止することができたため、「前年と同じ」現状維持オプションに切り替えたほうがいいだろうという点で意見が一致した。これで大勢の忘れっぽい教授たちは、間違いなくより快適な老後を過ごせるようになるだろう。

この例は良い選択アーキテクチャーの基本原則を示している。選択者は人間なので、制度設計者はできるだけ問題が起こらないようにしなければならない。備忘録を送り、あなた(あるいは本人たち)としては最善を尽くしているにもかかわらず、ぼんやりやりすごしてしまったことに対するコストが最小限になるようにする。後で明らかになるように、こうした原則(これ以外にもたくさんある)は民間部門にも公的部門にも適用でき、現在のシステムを改良する余地は大いにある。

■より望ましい社会への新たな道
民間のナッジについて言いたいことはたくさんある。しかし、リバタリアン・パターナリズムのきわめて重要な応用例の多くは政府に関連しており、 本書では公共政策や法律に関す様々な提言をしていく。本書の提言は左右両派の政治家の注目を集めると期待される。実際、リバタリアン・パターナ リズムが提唱する政策は保守派にもリベラル派にも受け入れられるだろう。一部は既にイギリス保守党党首、デービッド・キャメロンや、アメリカのバラク・オバマ新大統領に支持されている。こうした政策の多くはコストがきわめて低く、納税者には負担がかからない。

多くの共和党議員は政府の行動にただ反対するだけでなく、その先を見すえ始めている。ハリケーン「カトリーナ」の経験が示しているように、政府はしばしば行動を起こすように求められる。必要な資源をかき集め、整理し、配置するにはそれ以外に方法がない。共和党議員は人々の生活をより良いものにしたいと考えている。共和党議員は選択肢をなくすことに懐疑的なだけであり、それにも正当な理由がある。一方、多くの民主党議員は野心的な政府計画を打ちだそうとする強硬な姿勢を転換しつつある。良識的な民主党議員が公的制度によって人々の生活を良くすることができると信じているのは確かだ。しかし、様々な領域で、選択の自由は善であり、公共政策に不可欠な基盤であるとさえ認めるようになっている。これは党派の垣根を超える真の基盤になる。リバタリアン・パターナリズムは共和、民主両党の協調路線を実現する礎になると期待される。

本書では、環境保護や家族法など、様々な領域で統治能力を高めるには、政府による強制や制約を減らし、選択の自由を増やす必要があることを論じていく。インセンティブとナッジが要求と禁止にとって代われば、政府は小さくなると同時に、より穏当になるだろう。ここで要点を明確にしておこう。われわれはより大きな政府を求めているのではない。より良い統治を求めているだけである。

実際に、われわれの楽観的なシナリオ(バイアスがかかっているかもしれないことは認める)は単なる夢物語ではないことを示す証拠がある。第6章 で論じる貯蓄に関するリバタリアン・パターナリズムは、ロバート・ベネット(ユタ州選出)、リック・サントラム(ペンシルベニア州選出)などの保守派の共和党上院現職議員・元議員、リベラル派のラム・エマニュエル民主 党議員(イリノイ州選出)をはじめ、議会で超党派の熱烈な支持を幅広く集めている。

二〇〇六年にはいくつかの主要なアイデアが平穏無事に立法化された。新法は数多くのアメリカ国民がより快適な老後を送る手助けになるとみられるが、納税者のコスト負担はないに等しい。要するに、リバタリアン・パターナリズムは右でも左でもなく、民主党寄りでも共和党寄りでもない。様々な分野で、非常に思慮深い民主党議員は選択を排除するプログラムを推進しようとする強硬路線を超えようとしており、同様にとても思慮深い共和党議員は建設的な政府の取り組みにやみくもに反対することをやめるようになっている。民主、共和両党が路線の対立を乗り越えて歩み寄り、緩やかなナッジを支持するようになることを願っている。

リチャード・セイラー (著), キャス・サンスティーン (著), 遠藤 真美 (翻訳)
日経BP (2009/7/9)、出典:出版社HP