徳川の幕末 (筑摩選書)

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徳川幕府から見た人物史の正論!

幕末維新の政局中、徳川幕府は常に大きな存在でした。徳川慶喜、勝海舟、松平春嶽、大久保一翁等々幕府の人材はどのようにその地位につき、どんなタイミングで決断したのかを、綿密な考証に基づいて描いています。歴史の原点に触れられる一冊です。

松浦 玲 (著)
筑摩書房 (2020/4/15)、出典:出版社HP

徳川の幕末【目次】

はじめに

第一章 安政の政局
一 阿部正弘の流儀
『昨夢記事』の誤り/浦賀奉行の憤り/ロシア優先の破約/再渡のペリーと和親条約
二 安政元年の和親条約
水野忠徳の硬骨/露艦大坂へ、函館奉行再置/下田津波と日露条約
三 蘭露と通商条約
人材群の一方の核/暫定協定廃棄と日蘭和親条約/香港総督の予告/阿部死去と追加 条約
四 将軍継嗣問題
ハリス下田駐筍/政局中の政局/ハリスの脅し/水野・岩瀬、それぞれ誤算/金流出 が決まる/慶喜に小さな出番/田安家老だが一橋支持/「内勅」ではなく「御英断」を/それぞれの方針転換/井伊大老は家定の真意実現を保証/違勅調印の真相/全面対決/「罪を掖庭に待つ」を使う慶永の能力/慶永処分
五 外国奉行
水野忠徳復活/批准使節派遣予定と別船計画

第二章 井伊政権と久世安藤政権
一 安政の大獄
戊午の密勅/狭義の安政大獄はじまる/「バカ二朱」は拒否された/公家の落飾、評定所第一次断罪/処分されない水野忠徳/第二次、三次の断罪
二 桜田門外の変と久世大和復活
金取得に狂奔/安藤対馬昇進/井伊「罷免」と万延改元/ロシアの対馬占領策/特命 全権公使相当竹内下野守/「又ハ振干戈加征討候乎」

第三章 慶喜後見職
一 坂下門事件以後
退くものと復活するものと/無理筋の慶喜後見職/政事総裁職松平春嶽と顧問横井小南/隠居山内容堂の苦しみ/海舟の自負
二 攘夷奉承後の混迷
海路か陸路か/攘夷期日五月十日/家茂の摂海視察
三 「率兵上京」
仏公使ベルクールの役割/小笠原撤退/晦日に大坂着/将軍海路東帰/八・一八政変/神戸に移る海舟と福井の政変/江戸城本丸焼失
四 参預会議の創設と消滅
朝儀参預/将軍を乗せると過つ海舟/参預と幕府の距離/最後の甲子改元で「元治」 /征長纏まらず/慶喜暴言、去った後は談笑/天皇は幕府を信頼/元参預ら離京/見 廻役と見廻組

第四章 家茂親政
一 老中阿部豐後
池田屋事件/阿部豊後登場/兵馬俊の秋/勝海舟・西郷隆盛初会談と阿部豊後評価
二 第一次征長戰爭
開戦せず/神戸海軍操練所廃止/天狗党降伏/赤ヅラ白ヅラ/慶応改元
三 将軍進発
長州再征は家茂親征のつもり/大坂の戦時下的統制/二老中の官位を続奪/一翁上坂 命令をめぐる混迷
四 第二次征長戰爭 長州処分案/慶喜旅宿と薩摩藩邸と/小笠原長行評価/「公議会」説/追い込まれ開 戦/開戦の直前と直後と/クウレの六百万ドル/海舟の錯覚

第五章 慶喜親政
一 敗戰処理
将軍死去を伏せ代理で出陣/「幕府は今日より無之事」/厳島応接
二 慶喜将軍就位
慶喜徳川家相続/慶応の軍制改革と陸海軍の奉行並/孝明天皇急逝/大坂城が外交の舞台に/機能しない「四候会議」/フランス式の陸軍、海軍はイギリス/総裁は江戸、 将軍は京都
三 ヨーロッパの徳川昭武
フランスの徳川昭武/栗本鋤雲渡仏と昭武の旅行と/昭武の危機

第六章 大政奉還
一 土佐の建白
前史/薩土盟約/建白は高知で確定/建白提出
二 上表
慶喜の記憶/京都永住構想/決意表明/上奏と勅許、討幕密勅/小松帯刀上京せず
三 江戸開戦から鳥羽・伏見戦争へ
摂海に開陽/大坂城の慶喜と春嶽/討薩表/指揮官不在の大軍/開陽で東帰
四 江戸開城
若年寄支配体制/無血開城談判と開城/小栗上野土着/小栗処刑、川路聖謨、水野凝 雲死去/徳川艦隊北行

おわりに
あとがき
人名索引

徳川の幕末 人材と政局

松浦 玲 (著)
筑摩書房 (2020/4/15)、出典:出版社HP

はじめに

将軍家茂の死を悲しむものは僅かに三人。松平春嶽が報じた。
春嶽は越前福井藩の前藩主(隠居)である。手紙の相手は知友の伊達宗城、伊予宇和島藩の隠 居だ。ともに安政五年(一八五八)の政局で当主の座から引きずりおろされたのだが、家茂死去の慶応二年(一八六六)、それぞれの藩では最高実力者だった。
家茂の死を悲しむ三人の内訳は「幕府に二人、幕外に一人」。すぐに続けて「幕外一人とは僕 一人に御座候」と書くから、春嶽は将軍没を心から悼む極微の少数派に自分自身を数えた。
自分の他に悲しむものは幕府内に二人だけ、「二人とは板倉伊賀守・勝安房守」だと手紙文中 で名指す。自身を「幕外」と位置付けたのも刺激的だが、幕府にこの二人との断定には春嶽独特の思い込みが感じられる。
将軍家茂は大坂城で没した。第二次征長戦のため前年(慶応元年)から大坂に滞在し、目的を果さないまま病に倒れた。数えどしで二十一歳の若い死だった。
春嶽が挙げた二人のうち(元周防守で前阿波守の)「板倉伊賀守」勝静は、備中松山(岡山県高 梁)藩主である。慶応二年七月二十日に家茂が大坂城で死んだとき、老中として在坂していた。しかし板倉は、家茂が大軍を率いて江戸を発したときには、老中でなかった。第二次征長戦積極推進派には属していない。だが反対派とも言えないだろう。再任されて大坂城に詰めてからは征長体制を維持することに努めた。
二人目の「勝安房守」義邦(海舟)は、征長反対派である。家茂江戸発のときは罷免閑居中で 見送りもしなかったのだが、それ以前に若い将軍を何度も船に乗せて親近感を持つ。家茂の人柄が良いので好きなのだった。家茂死去のときは軍艦奉行に復任し呼ばれて大坂に滞在中。幕府内に「二人」はともかく、勝海舟が家茂の死去を深く悲しんだのは確かである。
春嶽もさすがに二人では絞り過ぎと思ったか、「川勝美作・永井主水、是等も悲痛之中に御座 候」と追加した。大目付の川勝美作守広運と大目付兼外国奉行の永井主水正尚志を、悲しむ仲間に加えた。しかし続けて「其外は橋公へ阿瞑眩佞実に不忍見為体」と憤慨するのである。春 嶽の見るところ他の幕臣はみな、十五代将軍となる(少し手間取るのだがそのコースに入っている) 一橋慶喜にくっついてしまった。

文面のうち勝海舟については保証できる。海舟が家茂に惚れ込んでおり、慶喜に阿誤診仮する仲間に入らなかったのは春嶽の言う通りだ。この時点でも他の多くのときと同様(常にではないが)春嶽と海舟は同志なのだった。
川勝と永井について、海舟(が悲しんだ事実)ほどの保証はいたしかねるが、春嶽にはそのように見えていた。ただし春嶽の力点は、他の幕臣がみな慶喜を担ぐ側に回ってしまったと悲憤するところにある。慶喜が好きなら、ここまでは怒らないだろう。嫌いなのである。しかし徳川家 の中心に坐する資格と能力を備へているのは慶喜しかない。嫌いな慶喜を我慢する苦しみの一端 を漏らしたのが、家茂発喪(八月二十日死去公表)から間もない九月七日付の、この伊達宗城宛 書簡だった。
春嶽は嫌いな慶喜を我慢する。板倉勝静は春嶽ほどには慶喜を嫌っていない。家茂の後は慶喜だと早く決めて積極的に動いた。家茂の死去を悲しむ余裕があったとは感じられない。春嶽が家茂の死を悲しむ第一に「板倉伊賀守」を挙げたのには賛成しかねる。しかし春嶽にそのように見えていたことは計算に入れなければなるまい。
海舟は慶喜擁立の動きに加わらず純粋に家茂の死を悼む。家茂死去を和宮に報告に行く役目の 側衆室賀伊予守正容が同じ気分ではないかと察せられる。室賀は小姓組番頭から大目付を経て側 衆となったところだ。江戸へ向う直前の室賀に呼ばれて海舟は密談している。海舟は日記に室賀伊予のことを「作州」「作州」と繰返すのだが(「美作守」だと誤認)、この困った傾向については別に述べる。
春嶽は室賀伊予にまでは目が届かなかった。それで(幕府內に二人では少ないと思い)川勝と永井を追加した。ここで川勝と永井を引入れたことは、その板倉観と共に、春嶽の対幕府姿勢や幕 臣評価を考える上での参考材料となる。
慶喜を支持した幕臣は阿瞑眩佞の徒ばかりではない。この手紙には登場しないが、家茂生前の大坂に水野凝雲が来ていた。大久保一翁も来ていた。それぞれ本論で重要な役割を果す人物、いま詳しくは述べないが、水野凝雲は「玉の取替え」を企んでいると大久保一翁が春嶽宛の手紙に 書いた。家茂では無理だと水野は見ていた(と一翁が判断)。春嶽は驚くのだが、その件は、いま 問題にしている伊達宗城宛書簡には全く現われていない。

前に「刺激的だ」と書いた話、慶応二年九月、家茂発喪直後の書簡で、春嶽が自身を「幕外」と位置づけていた件に戻る。家門藩の隠居で、このときは幕府の要職から外れているのだから、当人はそのつもりなのである。第二次征長戦には反対だった。大反対だった。
それでも春嶽に自分は「幕外」だと書かれると、いささか違和感がある。四年前の文久二年 (一八六二)幕政改革に際しては、隠居のままながら政事総裁職という大老相当のポストに就任した。「幕内」の中枢ではないか。ただし春嶽は一年足らずで辞めてしまうのだが。
春嶽の政事総裁職と同じ時、一橋慶喜は将軍後見職になった。将軍家茂数えどし十七歳で田安 慶頼後見職を辞めさせた直後だから大いに紛糾したが、それもいまは略す(本論で述べる)。慶喜後見職と春嶽総裁職で、幕府に「慶喜春嶽政権」ができたかに見えた。ともに仕事をするうちに、春嶽は少しずつ慶喜が嫌いになっていく。
春嶽は総裁職を辞め、慶喜は後見職を続けた上で禁裏守衛総督に転ずるけれども、二人の接触はとぎれはしない。春嶽の慶喜嫌いが増幅する事件も続く。
将軍家茂についての春嶽の気持は、海舟ほどの強烈な記録(賞めるあまりに記述に食い違いが生じた例を本文で挙げる)が残らないけれども、やはりその人柄を愛するようになったのだと思われる。それで死去に際して悲しむ三人のうちに自分を数えた。家茂の死を悼まない幕臣が慶喜にくっつくのと対照させた。慶応二年の春嶽は、家茂が好き、慶喜は嫌いなのである。
かつてはそうでなかった。安政年間(一八五四十五八)将軍継嗣をめぐる争いで紀州藩主の家 茂(そのときは慶福)と、慶喜が対立候補だったとき、春嶽(隠居させられる前の福井藩主松平越前 守慶永)は徹底的な一橋派だった。一橋派の旗頭だった。春嶽は慶喜を担いで紀州派と争って敗北し、隠居謹慎させられたのである。大きな政局だった。春嶽はその中心にいた。
越前福井藩主が敗退し隠居謹慎処分を受けたことに代表される政局、それに続く安政の大獄で幕府は、日本を条約の相手国(米蘭英仏露)と相似の近代国家へと引張る力を、みずからそこね た。有能な人材を殺し、また第一線から退かせた。日本を西欧型の国民国家的な統一国家に造り替える作業の主導権が怪しくなっている。
大獄から三年ないし四年後に、生き残っていた人材を復活させ、あるいは抜擢したのだが、いかにも遅かった。将軍が条約上の主権者であり続けたにもかかわらず、幕府の正統性は内外から疑われていた。
国民国家的統一国家に造り替えることの是非、また幕府の正統性の問題は独自の議論を必要と するが、いまはやらない。本論で何度も触れることになる。
安政五年に隠居させられ越前守の称を失った松平慶永は、万延元年(一八六〇)九月四日に謹 慎処分の一部を許され、文久二年(一八六二)四月二十五日には残る接客通信の禁が解除された。次いで同年の五月七日には隠居のままで幕政参与の命を受ける。
隠居させられる前、その処遇について幕臣に種々の案があったが、実情は幕府のことを心配する家門藩主に留まり、幕政に関わることはなかった。四年後には幕政に参与し、更に政事総裁職にまで進む。しかし春嶽(隠居させられてから使用する雅号)の力で挽回できる局面ではなかった。
春嶽と大久保一翁(このときは越中守忠寛で大目付兼帯外国奉行→側衆→左遷)が着想した政権返上論(大政奉還)が、恐らく唯一の奇策だったろう。しかし文久二年の将軍家茂には、それを実行する力が無かった。将軍後見職になっていた一橋慶喜は、はぐらかして逃げた。
春嶽が提起し慶喜がはぐらかすという場面は、四年後の慶応二年(一八六六)、家茂死去直後 にまた繰返された。詳しくは本論で述べるが、春嶽が政権返上論を提起し、慶喜はそれを採用するふりをした。窮地を脱するための時間かせぎに使ったのである。先程の伊達宗城宛の松平春嶽 書簡は、慶喜が裏切ることにまだ完全には気付いておらず、しかし疑いが兆した気分を示すものだと言える。
このときは逃切った慶喜が、翌慶応三年には本当に大政奉還して幕府は終わる。
安政年間に松平慶永が擁立に努めた一橋慶喜、途中で関係が怪しくなったが、ともかく当初期待の候補者が将軍位に昇ると、その翌年に幕府は消滅した。慶喜が自発的に消滅させた。春嶽の 好き嫌いはともかく、慶喜には大政奉還を断行する力があった。遅まきながらやっと期待に応えたのだ。歴史が動いた。徳川将軍が歴史を動かした。家茂には動かす力がなく慶喜にはあった。
ただし幕臣の多くが慶喜に大政奉還を期待したわけではない。安政の慶喜支持派で大獄に引掛 からず文久期に春嶽と対立して引退した水野忠徳(凝雲)は、さきに少し触れたように慶応期に も慶喜支持で家茂との取替えを目論んだ(と大久保一翁に推測された)。その水野も大政奉還を期待した訳ではなかった。安政の政局で、田安家老の水野忠徳に頼ること多かった春嶽の方が、慶 応期には嫌いになった慶喜に大政奉還を求め続けた。この対照も本論の目玉の一つとなる。春嶽 の構想は、幕府が巨大大名の一つとして公議に加わることだった。慶喜のは少し違い徳川中心の「近代化」である。これも本論の最後で述べる。
本論は「安政の政局」から始める。

「はじめに」で使った宗城宛春嶽書簡は、渋沢栄一『徳川慶喜公伝 附録六』が「附録第三文書記録六一八」として収録するのだが、この時期の春嶽書簡を多く控える『続再夢紀事』の五にはこの書簡だけが 欠ける。附録資料として収録した徳川慶喜公伝も、伝記本文ではこの書簡を使わない。そのためか研究書や論文でこの書簡に触れたものを見たことがない。もちろん管見の限りだが。

ここで板倉伊賀守が元周防守・前阿波守で、城は備中の高梁にあるという類のことを、何となく呑込んでいるけれども得心まではしていないという読者のために、少しだけ解説を挟む。熟知される方々はとばしてください。
この本が対象とする徳川幕末期の大名や上級旗本は「伊勢守」「上野介」「掃部頭」「兵部大輔」などの律令制度の官称を持つ。京都の公家は任地(任国)や役所が有名無実化しても令の官制の定員に制約されるのだが、徳川幕末期の武家は全くの定員外で同じ官称を持つ大名や旗本が何人もいる。ただし日常 的には称だけを使うので、紛らわしいときは後輩が改称するというルールがある。老中に二人「美濃守」がいては困るので岡崎藩主本多美濃守が再任されると後輩の淀藩主稲葉美濃守が兵部大輔と改称し、本多美濃守が辞めると稲葉兵部大輔が美濃守に戻るという具合である。御用部屋では「美濃殿」「兵部 殿」と呼合い姓を使わず、日常的な記録も姓抜きの称だけで済ますことが多いから、同じ称は絶対に困るわけである。目付→軍艦奉行並→軍艦奉行(寄合)開成所頭取→目付(寄合)軍艦奉行並→軍艦奉行→海軍所頭取→勘定奉行という珍しい経歴の木村喜毅は、二度目の目付のとき、小笠原摂津守広業が日 光奉行から目付に戻って来たので「摂津守」を「兵庫頭」と改めた。日記の刊本名『木村摂津守喜毅日 記』が強烈なので気附かずにいる人があるけれども「兵庫頭」になったのだ。ランクや部署が違い日常 的に呼合うことがなければ、同じ称が何人いてもかまわないので「摂津守」に戻る機会は多かったのだが最後まで「兵庫頭」で通した。
国守号(守名・受領名)の場合、福井の松平越前守や高知の松平(山内)土佐守のように称が領国と重なる人があるが、それは例外で、たいていは関係が無い。「越前守」にしても「土佐守」にしても、越前国や土佐国と全く無縁の大名や旗本が、同時に何人もいるのである。史料に「越前守」「土佐守」とだけ出て誰のことか確定するのに手間取るのは、ごくごく普通のことである。歴史書や歴史小説に官称を多用するタイプと、全く使わない人とがある。この本では引用史料に出るときは本文でも重ねて使い、その人物を官称ごと印象づけるように工夫する。前後関係で解り易ければ官称だけで済ませることもある。
さきほど「領国と重なる」と書いたのは、福井松平の場合は越前国のうち大きな部分を領しているけれども全部ではないからである。大野の土井氏、鯖江の間部氏、勝山の小笠原氏、丸岡の有馬氏が分立、以前は研究書や小説で「越前藩」と書く人が多かったが、今は「福井藩」が普通になった。高知の山内 家は土佐一国を領している。例示で「松平(山内)土佐守」としたのは高知の山内家は幕府から松平姓 を許されており、「松平土佐守」と称するからである。浅野長訓の「松平安芸守」が同様の例だが幕末大 詰で活躍する世子浅野長勲は「紀伊守」だからややこしい。有名な島津斉彬は「松平薩摩守」だが次の 茂久(忠義)は「松平修理大夫」で薩摩守を称することはない。
所領と守名が一致する例を挙げすぎるとかえって混乱する。一致しないのが普通である。一致せず且つ松平姓が絡むのを幕末期老中で挙げておくと、丹後国宮津の本荘宗秀が「松平伯耆守」、陸奥国棚倉の 松井康直が「松平周防守」、いずれも本文で出るときに重ねて注意する。老中以外では京都守護職で知られる岩代会津藩主の松平容保が「肥後守」で、肥後熊本藩主の 川慶順が「越中守」というように、一致しないのが普通なのである。
幕末期に活躍する旗本には昇進して官称の資格を持つようになったものが多い。勝海舟は元治元年 (一八六四)五月、正規の軍艦奉行に就任して安房守を称する。それまでは麟太郎である。「麟太郎」と いう称(通称)が「安房守」という称に変るのである。略して「安房」を通称とすることもできる。春嶽により家茂の死を悲しむ幕臣として追加された永井尚志は「岩之丞」という称が「玄蕃頭→主水正!玄蕃頭」と変化する。春嶽が伊達宗城宛書簡で名指したのは「主水正」のときである。当時の人々は、これを間違えないのだ。ただし知るのが遅れたり通じ易かったりで暫く旧称が使われることはある。勝海舟は異例で「はじめに」本文でも触れたように変な間違いかたをする。あの例では側衆の室賀伊予守正容を「美作守」だと思い込んで日記に「作州」「作州」と書いたのである。海舟の記録・文書には、他の人が絶対にやらない類の間違いが多出して、人物を考える上での特異な材料を提供してくれる。

松浦 玲 (著)
筑摩書房 (2020/4/15)、出典:出版社HP