幕末史 (ちくま新書)

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癌と闘いながら出版した、著者渾身の幕末史。

幕末の書物と言えば、幕府側か薩長側か。大体どちらか一方の視点で書かれることが多いですが、この本は幕府・朝廷・名藩の史料を駆使して客観的に纏められています。教科書的な説明を除外し、独自の解釈が頻出する点はこの時代への著者の想いや熱意が感じられます。「攘夷」というキーワードを深く解釈することによって生まれる筋の通ったストーリーは必読です。

佐々木克 (著)
筑摩書房 (2014/11/10)、出典:出版社HP

目次

はじめに
屈辱を抱きしめながら/挙国一致でなければ/破約攘夷を国家的課題に/清国の道を歩んではならない/内乱の危機/朝廷と幕府の危機的状態/将来のために誓約を/新政府の誕生と課題

第1章 屈辱の出発 1853-1859

1 ペリーショック
パクサンズ砲の威力/砲艦外交の屈辱/大統領親書にたいする意見

2 和親条約と通商条約
日米和親条約の調印/ペリー ショックへの対応/外交に活路を/通商へ踏み出す/不平等条約

3 通商条約調印をめぐって
天皇の裁可を経て発令/勅許を要請/主張する天皇/勅許せず

4 大老井伊直弼と条約調印
エースの登場/調印とイギリスの影/大老の悩み/大老批判

5 破約攘夷の密約
「心中氷解」した天皇/密約/安政の大獄/吉田松陰の激論

第2章 尊王攘夷運動 1860-1863

1 薩摩と長州の政治運動
桜田門外の変/薩摩藩誠忠組/再度の密約/長州の策論/島津久光への内命

2 尊王攘夷論の台頭
密約の公表/尊王と攘夷の合体/幕政改革/四賢侯の結合

3 政治の都・京都の尊攘運動
盛り上がる尊攘論/幕府批判とテロ/攘夷督促の勅使と土佐/諸大名の上京/将軍の上洛と攘夷の国是

4 攘夷の決行
攘夷祈願の行幸/攘夷の期日が決まる/下関攘夷戦争/薩英戦争/日本国家の国防軍が必要だ

5 文久三年八月の政変
姦人を掃除すべし/薩摩の決意/暴走する強硬論者/政変の準備/八月十八日/長州藩の処分|

第3章 遠のく挙国一致 1863-1865

1 新たな国是を定めるために。
攘夷の内容/四侯の上京/天皇が久光に相談/公家と武家の国家最高会議/横浜鎖港の国

2 朝廷と幕府の合体%
新たな長州問題/禁裏御守衛総督/幕府へ庶政を委任/幕府から自立

3 禁門の変
池田屋事件/長州勢の上京/混迷する対応/蛤御門の戦い

4 第一次長州征討
朝敵となった長州藩/四国連合艦隊の長州攻撃/征長総督を辞退する慶勝/勝海舟と西郷隆盛/三家老の切腹

5 第二次長州征討へ
高杉晋作の挙兵/龍馬と西郷隆盛/将軍進発と判断の誤り/薩摩の長州支援

第4章 日本を立ち直らせるために 1865-1866

1 長州征討と条約勅許
なぜ長州支援なのか/幕府は自ら倒れる/長州征討をめぐる朝議/朝廷これかぎり/条約勅許

2 坂本龍馬が山口へ
無力な朝廷/私信の報告書/非義の勅命/長州に伝えたかったもの

3 薩長誓約
木戸孝允の上京/龍馬の提言/薩長誓約の日/誓約六ヵ条

4 日本の将来のために、
龍馬に送った木戸の手紙/誓約の意義/征長に抗議する大坂の民衆/幕長戦争/見えた幕府の末路

第5章 新政府の創設 1866-1867

1 ええじゃないかと踊る民衆
最後の将軍徳川慶喜/孝明天皇の急逝/兵庫開港問題/混乱する朝議/ええじゃないかの発生/大政奉還とええじゃないか

2 薩摩と土佐の盟約 |
新政府が必要だ/薩土盟約/政変で新政府を/討幕はできない/薩長芸三藩出兵協定

3 大政奉還
大政奉還と大舞台/大政奉還の上表/討将軍る視野に/討将軍の偽勅/島津茂久の率兵上京

4 王政復古の政変
土佐の構想/武力を用いなくて色/薩摩の政変路線/政変の始動/政変決行/小御所会議の議論/王政復古の大号令

第6章 明治国家の課題 1868-1890

1 近代国家をめざして
五箇条の誓文/東の都を定める/版籍奉還/廃藩への助走/廃藩断行

2 岩倉遣外使節
その目的/視察の旅/ドイツ・ビスマルクの発見/内務卿大久保利通

3 国会の開設を一
文明開化の軌道修正/自由民権運動/政府批判の嵐

4 立憲国家の成立
伊藤博文の憲法調査/近代内閣制度の成立/条約改正交渉/大日本帝国憲法/近代日本が選んだ道

あとがき
参考文献
索引

佐々木克 (著)
筑摩書房 (2014/11/10)、出典:出版社HP

はじめに

屈辱を抱きしめながら

幕末の日本は、ザワザワと波立つ国際社会に、屈辱を胸に抱きしめながら、漕ぎだしていかねばならなかった。しかし失意に沈み込んでいたのではない。
日本を立ち直らせるために、屈辱をバネにして、強い決意のもとに、意欲的に立ち向かっていったのである。
日本に開国を求めるアメリカ大統領の国書を携えて一八五三(嘉永六)年六月三日に来航したペリーは、翌四日には江戸湾内海に無断で入り込んで測量を始め、六日にはミシシッピ号が護衛する測量船が小柴沖まで接近した。
ミシシッピ号には新型のパクサンズ砲が搭載されていて、江戸城はその射程距離の内にあった。当時の日本は、一番大きな船が千石船で、大砲を搭載した軍艦というべきものはなかった。測量を阻止する手段はなく、小船に役人が乗って抗議したのがせいいっぱいの行動だった。

挙国一致でなければ

ペリーショックの実態は、巨大な軍事力の差を見せつけられたことであり、戦う前に敗北するという屈辱だった。
このたえがたい現実に対応する手段は、しかし限られたものだった。開国・通商に断固として反対する前水戸藩主の徳川斉昭は、アメリカにたいする回答をのらりくらりと引き伸ばすという、しかし今何よりも必要なことは、武家はもとより百姓・町人にいたるまで 心と力を一つにすることだと主張する。
また彦根藩主の井伊直弼は、策略として開国・通商して、軍艦を購入し、軍事技術を学ぶべきだというが、重要なのは人心を一致させることだと提言した。開国か否か、正反対の意見だった二人だが、日本の将来のため、今なすべき緊急の課題は、人心を一致させ挙国一致の体制を築くことだと主張していた。幕末の日本をつらぬくスローガンであり、国家的最重要課題となった「挙国一致」がこの時に誕生したのである。
第二の屈辱は日米修好通商条約にあった。欧米の近代国家は、国家独自の立場から、輸出入品に課税する権利(関税自主権)があるという共通理解の上で貿易がおこなわれていて、現在でも変わらない原則である。しかしハリスは日本にはその権利を認めなかった。
その理由は、日本は文明開化半ばの国(半開の国)だから、欧米近代諸国と対等なレベルで条約を結ぶことはできない、というものだった。

破約攘夷を国家的課題に

この屈辱的な条約を全面的に破棄し、そのうえで対等な条約を結びなおす。
そのためにこの方針を国家の最重要課題(国是)と定め、天皇を中心とした挙国一致の体制を築いて外国側と交渉し実現をめざす。このような主張が一八六二(文久二)年の半ばから京都を中心に燃え上がった。尊王攘夷論である。
幕末には条約改正という言葉がない。条約を改めようという主張る、そのための外交交渉も、一言で表現すれば〈攘夷〉となる。幕末の攘夷論は明治の条約改正論なのである。
挙国一致で列強にたちむかわないと、屈辱の根を断つことができないとわかっている。
朝廷、幕府、藩が密接な協力体制を築き、公家と武家と庶民が一体となることで挙国一致の体制となるのだが、実現に至るのはたやすくなかった。
破約攘夷をめぐって強硬論の長州と現実論(穏健論)の薩摩が対立し、禁門の変で朝敵となった長州の処分をめぐっては、幕府が世論に耳をふさいで長州征討戦争を強行する。
これでは挙国一致とならない。一致ではなく分裂である。
幕末の日本を、このままでは「新アメリカ」になってしまうと、岩倉具視の同志である公家の中御門経之が強くうったえていた。アメリカの植民地になってしまうという意味になるが、アメリカに特別な動きがあったからというわけではなく、欧米列強の代名詞として用いられているのである。

清国の道を歩んではならない

日本と通商条約を最初に結んだアメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オランダの諸国に、日本を植民地にしようとする政策方針があったかどうかという点は別として、東アジアにおける現実の国際環境をみるかぎり、列強による植民地化の方向は強まっていた。
孝明天皇が、インドの轍を踏まないよう、強い気持ちを持たなくてはならないと、廷臣に呼びかけたのは、東洋の覇者であった清国が大きく傾いた現実をふまえてのものだった。
清国は太平天国の民衆反乱を、イギリス軍隊の力をかりてようやく鎮圧したが、その結果イギリスの介入が一段と強まり、あたかも植民地化が進んでいるかのような状態に見えていたからである。
長州藩士高杉晋作は一八六二(文久二)年の夏に、幕府の上海市場調査団に加わって二カ月ほど滞在した。そこで目にしたのは清国人がイギリス人の前で卑屈にふるまう姿だった。清国は大きく傾きつつある、と高杉の目に映った。そして対外戦争よりも内乱が国家を傾ける原因だと確信する。この思いは高杉だけではなく、広く日本の人々に共有された。そして清国と同じ道を歩んではならない、これが合言葉となったのである。

内乱の危機

日本にも内乱の危機があった。一八六三(文久三)年八月、長州藩の下関攘夷戦争(外国船砲撃と列強の報復攻撃)の際に、対岸の小倉藩が長州を応援せず傍観していたという理由で、小倉藩の処分(藩主小笠原忠幹の官位剥奪と領地一二万石没収)を朝廷の会議(朝議)で内決した。京都に滞在する長州藩士や真木和泉らの強硬論者が、同志とする三条実美らの朝廷内攘夷強硬論者にせまったことによる。
しかしこの処分には、在京していた鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政、米沢藩主上杉斉憲らが強く反発した。このような過酷な処分では小倉藩が受け入れるわけがなく、小倉と長州の対決・戦争となり、ひいては内乱にまで突き進む恐れがある、と心配したからである。彼らは攘夷論に理解を示していた諸侯だったが、内戦・内乱を避けることを何よりも重視したのである。京都の政局はきわどいところで理性をとりもどし、八月十八日政変により攘夷強硬論者が京都から追放されて、小倉藩処分はおこなわれなかった。
幕府と長州の戦争(第二次長州征討)は、よりいっそうの危機をはらんでいた。譜代、外様を問わず有力藩は戦争に反対の声をあげ、その背景には民衆の動きがあった。大坂と江戸の民衆が、米価の急騰を理由に蜂起したのである。パンをよこせと声を挙げて暴動となった、フランス革命とロシア革命の民衆に通じる動きで、内乱の赤い火種が見えていたにもかかわらず幕府は征長戦争を強行した。

朝廷と幕府の危機的状態

しかも朝廷がこの戦争を支持していた。直接には一橋慶喜の剛腕に押し切られた結果だったが、朝廷は相次ぐ政争のあげくに人材が枯渇し、幕府と同様に理性的な判断ができなくなっていた。挙国一致の中心となり、日本国家を支えるべき幕府と朝廷が、このように 深刻な状態におちいっていたのである。
この危機的状況をどのように打開するのか。緊急の課題だったが、方向は見えていた。
「幕府は自ら倒れる」と西郷隆盛は言い切っていたが(一八六五・慶応元年八月、大久保利通・蓑田伝兵衛宛書簡)、大久保利通は「朝廷これ限り」もう何も期待しないと、朝彦親王に言葉を投げ返して去った(『朝彦親王日記』一八六五・慶応元年九月)。幕府も朝廷も自力で回復することはないと見切ったのである。
頼りになるのは有力藩(雄藩)なのだ。雄藩がどれだけ結集できるのか、日本再建のカギはここにある。西郷隆盛と大久保利通の構想はこうだ。まず薩摩と長州が手を結ぶ。薩長二藩だけで日本を再建するには力不足だから、同志の輪を広げなければならない。

将来のために誓約を

その方法を坂本龍馬はこのように提言する。自分が東西を奔走するのは薩長のためではない。日本の将来のことを思うからだ。薩摩と長州が日本の将来のために固く誓うことを出発点とするべきだと。西郷隆盛と木戸孝允は龍馬の提言を理解した。そして薩長の誓約となったのである。
薩長誓約(薩長同盟あるいは薩長盟約と言われてきたが、後に命名されたものである)は秘密協定ではない。日本の将来のためであることを、有志の藩や人物にアピールすることを主旨としていた。身分を問わず、雄藩、幕府、朝廷、庶民にいたるまで、薩長誓約の高い 志を本当に理解する人材に声をかけるのだ。
幕府が朝廷をまきこんで長州征討を強行し、日本分裂の危機を強めたことで、幕府にたいする批判とともに大政奉還の声が強まった。有力藩の連携と有志の同志的結合は着実に広がっていた。一八六七(慶応三)年六月二十二日に結ばれた薩摩と土佐の盟約は、以上のような状況を背景に、将軍職を廃止したうえで、新しい政府(日本国家の行政府)を創設することを目標に掲げたもので、幕末の国家構想・政権構想の到達点であった。

新政府の誕生と課題

王政復古(一八六七・慶応三年十二月九日)はこの構想を実現したものだった。幕府と朝廷という政治組織を廃止し、この両者を母体としない、全く新しい行政府が誕生したのである。諸藩全体の合意には時間を要するから政変の形となったが、政変に連なった有力諸侯は、各々その政権構想に温度差があったものの、新政府創設という基本線で合意がなされており、最後の将軍徳川慶喜もこの点では異論がなかった。新政府は薩長討幕派の政府などではなかったのである。
将来のため、という言葉がむなしく響くほど今の日本は動かない。幕末は違った。幕末の危機的状況がしぼりだしたこの言葉は、人と国を大きく動かした。長州に声援を送りたい者、幕府に恩義を感じる者、立つ位置を超えて日本の将来のために肩を組んだ。幕末の日本は多少の異論は大きく包み込んで、前に進んでいったのである。
新政府は年明け(一八六八・慶応四年)の一月十五日、外国との交際は「和親」の方針であること、ただし通商条約には弊害があるから「改革」を目指す方針であることを公布した。幕末の国家的最重要課題であった破約攘夷(条約改正)が新政府の方針として引き継がれたのである。条約改正がきわめて困難であることを政府は承知している。欧米列強が日本を近代国家と認めなければ、条約改正交渉のテーブルに着くことさえ難しいとも認識していた。
ここに近代化が国家的重要課題となり、官民一体となって近代化の達成をめざすことになった。廃藩置県によって一つの国家・一人の元首の体制が成立し、政府と国民が重要な国家目標を共有して、挙国体制で近代化の達成にまい進した。そして幕末の駕籠の時代から、わずか十数年で汽車の時代となる、世界でも類を見ないスピードで近代化を達成したのである。
一八八九(明治二十二)年に国会を開設し、その前に憲法を制定すると宣言した。イギリスが条約改正に応じょうとしたのは、日本の近代化を評価したからだった。ペリー来航以来、胸中に張り付いていた屈辱感を剥がし取る、その時が見えてきていたのである。

本文中で史料からの引用と、部分的に現代文にあらため言葉をおぎなったものをカギカッコに人れて示した。また年齢は、満年齢または満年齢に近い数を表記した。

佐々木克 (著)
筑摩書房 (2014/11/10)、出典:出版社HP