現代アフリカ文化の今 15の視点から、その現在地を探る

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アフリカ文化の「今」がわかる

社会や建築、音楽やファッション、コミックやアートシーンなど、15の領域から、アフリカ文化の“今”を探っています。アフリカに興味のある方はもちろん、視野を広げたいという方にもおすすめの一冊です。

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

現代アフリカ文化の今

15の視点から、 その現在地を探る

CONTENTS

MAP アフリカ大陸
序文 現代アフリカ文化の今—5の視点から、その現在地を探る ウスビ・サコ
座談会 「現代アフリカ・カルチャーの現在地」 ウスビ・サコ/和崎春日/鈴木裕之/川瀬慈
第一部現代アフリカ文化とその根底にあるもの
道端這いから世界を生きるストリート都市カーアフリカ生活力の都市人類学和崎春日
グローバル・カルチャーから見る現代のアフリカの若者 :抵抗か「ポップ」か清水貴夫

第二部 アフリカのカルチャーシーンを視る
アフリカの都市生活とアート緒方しらべ
Column 国際的に活躍する「アフリカ系」アーティストたち 塚田美紀
アートシーンのフィールドワーク 現代アフリカ美術を取り巻く場と人々―中村融子
Column 「Yinka Shonibare CBE: Flower Power」初の日本個展インカ・ショニバレの姿正路佐知子
現代アフリカ建築と建設の今,ウスビ・サコ
アフリカのアニメについて クラベール・ヤメオゴ(訳,補足 遠藤聡子)
よりワールドワイドに発展/躍進を続ける、新世紀のアフリカ音楽 吉本秀純
ボルトガル語圏アフリカのポップス : 無形文化遺産モルナの価値と評価青木敬
西アフリカの「パーニュ」のファッション 遠藤聡子

第三部 グローバル空間で紡がれるアフリカ文化
大陸の外で変容し続けるアフリカ文化を繋ぐ
~フランスにおける新たなアフリカ文化クリエイター達の肖像から~阿毛香絵
日本社会に生きるアフリカ地域出身者たち 菅野淑
いまだ遭遇していない者を織り込んだ「コミュニティ」―香港のタンザニア人の事例から 小川さやか
「私たち」はどこに向かうのか?―まとめにかえて清水貴夫
謝辞
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引用・参考文献一覧

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

序文

現代アフリカ文化の今—らの視点から、その現在地を探る―ウスビ・サコ
アフリカ大陸をどのように捉えたらよいのか? 様々 な分野で頻繁にこの問いに遭遇する。アフリカを考える にあたっては、便宜上、サハラ砂漠を境に北と南に分けることが多い。サハラ砂漠以南のアフリカは、多様な課 題と可能性とを同時に抱えており、グローバル化が進む 現代においても、その位置づけは今なお不明確である。 将来を見据えるなら、アフリカの人口は今後も爆発的に 増加し、2050年までには世界人口の4分の1を占めるのみならず、その半数以上は18歳未満、また大多数は 都市部に居住すると予想されている。地球の未来を左右 する存在になるアフリカをどう理解すべきか、また世界 の各地域、とりわけ同様の条件を備えるアジアとの関係 はどのようなものになるのかが重要な課題となるだろう。

日本におけるアフリカ研究の歴史は長く、すでに8年 以上に及んでいる。その内容は、人類学をはじめとして様々な領域に広がっており、各領域において一定の成果 が挙げられている。アフリカが抱えている諸々の課題に ついても、フィールドワークと分析が同時に進められ、 様々な表現方法でその成果が発表されることによって、 世間でもアフリカに対する認識は深まってきた。しかし ながら、こうした豊かな研究の積み重ねにもかかわらず、 現在、そして将来を視野に入れたアフリカの位置づけは いまだ不明確である。とりわけ現代のアフリカを同時代 の現象として認識している日本人研究者はいまだに少な く、現代アフリカ文化における状況について関心を抱く 者となると、ほぼ皆無だとさえ言えよう。その原因は、 現代アフリカに関する情報へのアクセスが見えづらいことだ。結果、関心や気づきが生まれにくい状況が続いている。

世界の変化とともに、アフリカもまた、その政治的、経済的な立場を変えてきた。世界が期待するアフリカの 役割も徐々に変化し、アフリカはそのつど期待に応えて きたものの、世界が思い描くアフリカとアフリカの自己 認識との間には、なおもギャップが存在している。近現 代史を振り返るなら、9世紀以前の西アフリカでは様々 な王国・帝国が繁栄し、トンブクトゥにはアフリカ初の 高等教育機関となるサンコーレ大学が学問・教育の拠点 として設立され、マリ帝国では世界最古の民主的憲法で あるクルカン・フガ (Kouroukan Fouga or Kurukan Fuga) (Cissé, Youssouf Tata 2003) が公布された。また、アフリカの 東海岸ではアラブ文化と土着文化が融合し、独自の社会・ 経済システムが成立していたと考えられている。しかし 19世紀初頭になるとヨーロッパによるアフリカの植民地 化が始まり、それまでの社会・文化、共同体のあり方は 否定され、過去との断絶が生じてしまった。ヨーロッパ による「アフリカの文明開化運動」の過程では、歴史的 事実だけでなく、アフリカ固有の文化・芸術すら抹消さ れた。植民地時代以降に書かれた歴史においては、アフ リカはその独自性を剥奪され、社会システムすらアジア から移植されたものだと考えられたのである。こうした 見方に異議を唱えたのは、アフリカの考古学者・歴史家のシェク・アンタ・ジョップ(Check Anta Dior) (Dep. Cheikh-Anta 1999)であり、彼は人類発祥の地をエジプトと し、そこに居住していた人種が黒人であったことの科学 的根拠を提示した。また、歴史家のジョセフ・キゼルボ (Joseph KiZerbo) (Ki-Zerbo, Joseph 1978) が ブラック・ア フリカの史実を整理したことをきっかけに、奪われたア フリカの歴史を回復しようとする動きが生まれた。バ ン・アフリカニズムの運動が二度にわたる世界大戦を経て世界的に拡大し、アフリカ諸国の独立とアフリカの自 立につながったと言われている。 _1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では、アフリカとアジアからの代表 者が互いの状況を認識し合い、当時の冷戦構造において、 いずれの勢力にも属さない、第3の勢力(ブロック)の形成に向けて連携することを決意したバンドン・スピ リットに賛同した。しかし、アフリカの年ともいわれる 1960年にはアフリカの多くの国が独立し、旧宗主国 と袂を分かったが、その多くは社会主義路線を選択する こととなった。さらに、1970年代になると、こうした国々でクーデターが相次ぎ、なかには旧宗主国の支援 を受けた独裁政権の樹立を許す国も少なくなかった。冷 戦時代を通じて、アフリカ諸国はいずれの陣営にも与し ない立場から世界政治に参画しようとしたが、その試み が一定の成果を上げなかったことにより、進むべき道を 見失ってしまった。独裁政権下にあった多くの国々は、 旧宗主国への資源輸出のみに頼ることで主要産業の育成 を怠った結果、経済的な困難から重債務国になっただけ でなく、内戦や貧困による社会の混乱に陥ってしまった。 ベルリンの壁の崩壊、アパルトヘイトの廃止といった 1980年代の世界構造や経済の調整を経て、1990 年代以降はアフリカ各地で民主化運動が起こり、ようやく社会的な成熟を見せる国と地域が増加していった。かつてのアフリカ諸国連合や、アフリカ統一機構と、その 後継機関であるアフリカ連合の設立を経て、ネルソン・ マンデラのような指導者が出現したことによって、アフリカの未来はアフリカ自身が作るという機運が高まった のも、この時期のことである。他方で都市人口の爆発的 な増加と国民の消費能力の高まりは、産業の発展とは結びつかない都市化を招き、今日の様々な課題を生み出す ことにもなった。

このように諸々の課題を抱えつつもアフリカが自らの 将来を構想し、その実現に取り組み始めた背景には、ア フリカ連合、すなわちワン・アフリカの理念があった。 すなわち、アフリカが一丸となって世界の他の様々な地 域と関わりを持ち、その責務を果たすこと。さらにこう した理念と並行して、アフリカが持っている文化的・歴 史的な潜在能力を掘り起こし、旧宗主国の基準に従うの ではなく、アフリカ本来の文化を再評価する動きも始 まった。いわゆるアフリカ・ルネサンスの可能性が模索 されるようになったのである。

このアフリカ文化復興の機運において重要な役割を果 たすべく期待されているのが現代文化である。文化や芸 術の価値は誰によって決められるのか――。アフリカの 若者たちによって提起されたこの根本的な問いかけの中 で、これまでヨーロッパの視点から眺められてきたアフ リカ文化が独自の基準で定義し直された。それは現代アフリカの現在地を新たな視点から見つめ直す作業でもある。これまでのアフリカ研究が採ってきた視座に加えて、 同時代のアフリカを検討し、その価値を再発見するため の視座を作ることが本書を手掛けることとなった理由の 一つである。もう一つのきっかけは、2020年4月に 京都精華大学に発足するアフリカ・アジア現代文化セン ターと、2021年4月に同国際文化学部に設置される アフリカ・アジア文化専攻である。センターの設立趣旨 では次のように謳っている。

– アフリカ・アジア現代文化研究センターは、ますますダ イナミックな展開を見せるアフリカ、アジアの現代文化の 動態を捉え、これまで過去の出来事を視野に入れてきた従 来型の学術の枠に収まらない、自らが実践し、未来を志向 した研究を通した文化研究を行うとともに、こうした実践 や研究の当事者との直接的な交流から、新たな世界秩序の 意義やあり方を追求する。 -20世紀が経験した二つの大戦と、その後の冷戦下での復 興、そして冷戦の終焉とともに生まれた新自由主義世界が 9世紀に引き継がれたことで、世界は引き続き激動のさなかにある。大きな戦争こそなかったとはいえ、世界人口の爆発的な増加とグローバル化によって、2世紀は人々と情 報が昼夜の別なく世界中を飛び回る目まぐるしい時代と なった。

第二次世界大戦後に「開発途上国」と呼ばれていたアフ リカ、アジア、ラテンアメリカの諸地域も例外ではなく、 「アジアのいくつかの地域は五世紀に入って劇的な経済発展 を遂げ、もはや「開発途上」とは呼べないほどに発展した。 そして次にアフリカがアジアと同じステージに立とうとし ている。「世紀を通じてほぼ変わることのなかった経済の 世界地図は、ここ数十年で大きく塗り替えられた。こうした変動の原動力となったのは、インターネットや携帯電話 と行った情報ツールの普及と、比較的安価で安全になった 移動ツールの発展である。結果、人々の生活も大きく変化 した。例えば古典的な民族誌に描かれたアフリカのマー「ケットマミーたちは、今では航空機に乗ってドバイや広州 へと商売に出かけ、牧歌的な光景を残すアフリカの小都市 の七日市には、これらの女性たちが買い付けた商品が並ぶ ようになった。急速に発展するアフリカ・アジアの経済的 ポテンシャルがせめぎあい、グローバリゼーションの爛熟 を迎えつつあるというのが、現代世界の一つの様相である。 他方で、アフリカ発、アジア発の文化が共鳴し、共有され て、新たな文化が誕生しつつあることも間違いない。映画 の世界では、アジアのボリウッド(インド)、アフリカの ノリウッド(ナイジェリア)が、すでに世界で最も映画が 生み出される地として成長し、欧米資本を介さない交流も 生まれている。音楽やファッションなどの分野でも、インターネットなどを通じた交流が複雑なネットワークを形成し始めている。

今後、アフリカとアジアは互いに刺激し合い、絡み合う ことによって、欧米社会が主導してきた世界の中で、経済 的のみならず文化的にも、ますますその存在感を増していくはずである。
アフリカ・アジア現代文化研究センターは、大きく分けて二つの課題を掲げてアフリカ・アジアに関する研究と実武の発展を目指す。第一の課題は、研究の視点と対象の潮新に関わるものである。かつてアフリカは歴史や文明を持 たない「暗黒大陸」とみなされ、欧米、そして日本の研究者は、アフリカを「未開」の地と考えてきた。こうしたオリエンタリズム的な視点はアジアに対してもあてはまり、 これまでアフリカとアジアの歴史の多様性を無視した一方 的な評価を形成してきた。今日、私たちはこれらの地域で 営まれてきた人々の生活や文化の多様性から多くのことが 学べることを知った。すでに世界経済の中心となったアジ ア、そして経済的発展と文化的・社会的な変容を遂げつつ あるアフリカに注目が集まっている。これらの地域の文化 と経済は、欧米とは全く異なる近代化を経てきた。現在の アフリカとアジアのダイナミズムは、かつてのような外部 からの偏った視点から捉えきれるものではなく、この地域 の人々が蓄積してきた文化的・学術的な資産に対する水平 で多元的な視座を新たに構築する必要がある。

二つ目の課題は未来志向の実践的な研究体制の構築である。これまで学術研究の領域では、欧米や日本からアフリ カ・アジアを学ぶことは盛んになされ、またアフリカ人研 究者が旧宗主国である欧米を研究する機会も多かった。そ の一方で、ともに急速に変化したアフリカとアジアの間で 相互に研究が進められる機会は極端に限られていた。近年、アフリカが新たな市場として注目を集めるようになり、ア ジア諸国からアフリカへと経済進出がなされるようになったことに伴い、アジアにおけるアフリカ研究は次第に盛ん になりつつあるとはいえ、アフリカ諸地域でアジア研究を 行っている研究機関はまだまだ数が少ない。両地域の文化 交流も近年ようやく端緒についたばかりであるが、将来に わたって様々な発展が期待される。 – アフリカ・アジア現代文化研究センターは、アジアとア フリカの相互研究、相互理解を促進し、アフリカの人々が アジア、そして日本について学ぶためのプラットフォーム として機能することを目指す。また、従来のアフリカ研究 を踏まえながらも、現代のアフリカ・アジアにおける文化 の諸相や変容について、日本を含めたアジアからアフリカ へ、そしてアフリカからアジアへという環地域的な視点か らアプローチし、双方向的かつ学際的な研究体制を構築し ようとするのである。このプラットフォームを基盤として、アフリカとアジアの社会と文化に関する相互理解を深め、 過去と現代を前提としつつ未来志向型の新たな知の体系の 形成に寄与しようとする。」

急速なグローバル化に伴い、外国、とりわけ旧宗主国からの文化の流入とその消費といった外的要因によって、 「地域特有」の文化を発展させることはますます困難に なっているという指摘がある。本書は、変化の波にさら されているアフリカの多様な現代文化の現在地の特色と 本質を、社会、芸術、現代アート、建築、音楽、ファッ ション、アニメ、映画など、5の領域において形成され てきた在来知を観察することによって探ろうと試みる。 アフリカが抱える諸課題に対する一定の解決策を提案す るというよりは、むしろグローバル化の影響下にあるア フリカについて異なる分野から多様な視点で問いを立て ることに重きが置かれている。そして、これらの問いを 通じて現代アフリカの在来知を体系的に理解することに より、ひいては現代文化の新たな可能性が発見されるこ とを願っている。
Amadou Hampâté Bâ (“En Afrique, quand un vieillard meurt, c’est une bibliothèque qui brûle”).
「老人が一人亡くなることは、図書館が一つなくなるよ うなものである。」

注1. パン・アフリカニズム(PanAfricanism)は、アフリカの黒人の解 放を、アフリカ全土の課題として捉え、 さらに北アメリカやカリブ海域のアフ リカ系黒人とともに進めようという運 動。第二次世界大戦後の1960年のア フリカ諸国の独立につながった。 (https://www.y-history.net/appen dix/wh1503-152.htmlより)
注2.1955年4月、インドネシアの ジャワ島にある都市、バンドンで開催 されたことから「バンドン会議」とも 言う。略称はAA会議議長を務めた インドネシアのスカルノ大統領は、こ の会議を「世界人口の約半数の13億 (当時)を占める有色人種の代表による、 世界最初の国際会議」と位置づけた。 4月18日から24日の7日間にわたって 開催され、29ヵ国(そのうち23ヵ国 がアジア)が参加した。この、第三世 界の存在を世界に示した最初の会議に は日本もオブザーバーとして参加した。
注3. アパルトヘイト(人種隔離政 策とは南アフリカ政府が1910~91年 に実施した人種差別政策。
注4、アフリカ諸国連合(Union des Etats africains)とは、1958年にガー ナ・ギニア連合として発足し、1961年 にマリが参加した西アフリカ三か国に よる国家連合。1963年まで存続した。
注5. アフリカ統一機構(Organisation de fUnité Africaine)とは、新植民地 主義に抵抗しつつ人民の生活向上のためにアフリカ諸国の連帯と相互協力を 促進することを目的に1963年に発足 し、2002年に後述のアフリカ連合へ と発展した国際組織。
注6. アフリカ連合 (Union africaine /African Union)とは、前身のアフリ カ統一機構を改組し、欧州連合(EU) のような政治・経済的統合を目指して 2002年に発足した国家統合体。現在 ではアフリカの全ての独立国家が加盟 している。

座談会

現代アフリカ・カルチャーの現在地
ウスビ・サコ(京都精華大学学長)
鈴木裕之(国士舘大学教授)
川瀬慈(国立民族学博物館准教授)
和崎春日(中部大学名誉教授)
司会 清水貴夫(京都精華大学准教授)

清水:「現代アフリカ・カルチャーの現在地」を、これ から始めさせていただきたいと思います。司会を務めさせていただきます清水貴夫と申します。まず、京都精華 大学学長ウスビ・サコより、本日の主旨をご案内いたし ます。よろしくお願いいたします。
サコ:2020年の4月に、京都精華大学に「アフリカ・ アジア現代文化研究センター」を立ち上げます。現代ア フリカの文化とは何かということは、ひと言で言っても あまり通じない。アフリカ研究の中で見ると、今まで文 化人類学から追求する人が多かったり、地域研究とかも あると思います。ただ同時代のアフリカで、どのような 変化があるのか、その変化をどう評価していくのか、と いうことの話し合いができる場は日本の学問の領域でも 必要かと思っています。新センターでは、現在のアフリ カ研究にプラスして京都精華大学ができるのが、そういう現代文化、また、アフリカが今どういう位置づけにあるのかを研究することではないかと思っています。
今日登壇していただく、三人の先生たちには、アフリ カ現代文化を見る上で、三つの視点を提示していただき ます。それぞれが、アフリカの現代、もしくは現代のア フリカをどういう風に見ているのか。特に文化の面で見ると、実はアフリカの国々というのは、一つは過去から の文化を継承している地域もあれば、また一つはその時 代その時代でかなり文化の内容を変えていく地域もある。そういう両面があると思います。こんなところに気 を配って話をしていただきたいと思います。

鈴木裕之

それでは、始めさせていただきます。私、国士舘大学 の鈴木と申します。今日は「文化の進化 or 変化 or 衰退」 というタイトルで話をさせていただきます。私はマンデ のグリオの研究をしているので、それに関連づけながら、 現代アフリカにおけるカルチャーの特徴およびそれが抱 える問題について考えてみたいと思います。
アフリカのほとんどは無文字社会です。そこでは声の 文化や音の文化が非常に発達しており、声や音がコミュ ニケーションの中心に位置しています。特に西アフリカ では、言葉を操る専門家が発達している文化が広くみら れます。そこではカースト制が存在し、豊富な知識を持って、民族の歴史や一族の系譜とか、故事やことわざなど を覚えて、みんなのために歌ったり語ったりする語り部 が存在します。この語り部をマンデ語では「ジェリ」と言うんですが、一般的には「グリ オ」と呼ばれています。
「マンデ」というのは西アフリ カの民族なんですが、3世紀にス ンジャタ・ケイタという英雄が出 てきて、現在のギニアからマリの 辺りにあった様々な国々を統合してマリ帝国をつくったんです。これは歴史的な事実で、マリ帝国は 300年くらい栄えたんですね。
帝国が滅びた後も、その末裔たち はマンデと呼ばれ、いくつかの民族に分かれますが、似 たような言葉を喋って、似たような文化を保ち続け、同じルーツを持つ者としてアイデンティティも共有しています。

グリオは木琴や、「コラ」というハープのような弦楽 器や、「ンゴニ」というアメリカのバンジョーの起源と なったといわれるリュート系の楽器を演奏します。これ らはグリオだけに許された楽器で、彼らはそれを演奏し ながら、歌と語りで、過去の歴史や、今生きている人々 の家族や一族の系譜などを伝えていきます。
これはいわゆる木琴で、マンデ語で「バラ」と言いま す。ヨーロッパ人がこれをヨーロッパへ持って行って改良し、我々の知ってるマリンバやヴィブラフォンに変化 していきました。マンデでは木琴は手作りで、二台か三 台で合奏することが多いです。

木を選び、それを削って鍵盤をつくり、バチもつくって、その叩き方を父から子に伝えていくという作業を 延々と700年間も続けてきたのでしょう。そういうことを世代から世代へと継承しながら、言葉と身体を使って語りを伝えています。 – グリオには木琴を演奏する者もいれば、様々なことを 記憶して語る者もいます。グリオは一族経営になっていて、各家族を中心に演奏グループが形成されます。それぞれの子どもの得意技を見ながら、お前は木琴係になれ、 お前は歌う係になれ、お前は語る係になれ、という形で なんとなく各パートが揃うようです。 「語る係は木琴のリズムを聞きながら、それに乗りなが ら喋るんですね。そうすると聞いている人は心地よく語りの中に入っていく。でも、たとえば私なんかが真似してやってもグズグズになっていきますから、木琴の演奏も崩れていくし、お客さんも興味を失っていってしまう。
決まった物語にはそれに付随する楽曲が発達していて、 グリオはそのレパートリーをもとに、アドリブを交えながら臨機応変に演奏してゆきます。もちろん昔はアンプ もマイクもなかったので、声を張り上げて大きな声で歌 いました。こうした歌い方がアメリカに渡ってゴスペル やソウルミュージックのシャウトという歌い方に変化していきますから、アフリカとアメリカの音楽的つながり が深く感じられます。 – グリオにはもう一つ重要な仕事があります。
彼らは結婚式や子どもに名前を付ける「命名式」など の儀礼・祭礼にやってきて、人を誉める「誉め歌」を歌 うんです。その式の出席者を誉めるんですが、誉められた人はご祝儀としてグリオにお金を渡さなければなりません。同様の文化は、マンデのみならずアフリカ各地で 発達しています。

誉められた人は、ご祝儀としてばらまくおカネが多いほど尊敬されます。だからアフリカに行ったら、引っ込み思案になってはいけないですね。とにかく私も、誉められたらばらまきます。もしけちってお金をあげないと、 「ああ、あいつはとんでもない奴だ、こんな奴はもうこ こから出ていってもらいましょう」って話をその場で歌いはじめます。つまり、炎上させられるわけです。アフ リカの無文字社会では、グリオの言葉が一番重要かつパ ワフルですから、炎上させられると翌日からその人はもう町や村を歩けません。三回くらい炎上すると、本当に 自殺するような村人も出てくるくらい、言葉の力が非常 に強いんですね。

〈映像〉

これは私がアビジャンで結婚式をして、その直後に、 妻の故郷であるギニアのカンカンにいって報告をしたときのお祭りの映像ですが、お金が舞ってますよね。誉められたらお金を渡す、という慣習の実際の現場です。グ リオというのはアグレッシブな人たちで、本当に気合を 入れてきます。で、 すから、それに対 して誉められた人 は、お金をばらまくことでやっとつり合いが取れます。 お金のない人はグー リオの前では虫けら同然になります。
今度はひとりの女性が誉められる場面です。誉められる女性の周りに女友達が集まってカンパしてます。お金 足りなくなると困るので、友達がカンパして洋服やス カーフの間にはさむんですね。そして、みんなで踊りながらグリオの前にすすんでゆき、誉め歌が歌われます。 映像に出てくる女性はこの町の有力者の娘なので、数人 のグリオがリレー形式で誉めちぎるんですね。共同作業 で警察の職務質問みたいな感じで、みんなで取り囲んで どんどん攻める。誉められた人は気持ちいいんです。し ばらくすると、彼女はおカネを配り始めます。グリオに もいろんなレベルがあって、コバンザメみたいなグレー ドの低いグリオがたくさん集まってくるので、そういう のに少しずつあげて黙らせておいて、最後に大きな額を メインのグリオに渡すんです。そういう心遣いといいま すか、お祭りの中での作法がいろいろとあるんです。誉める作法もあれば、誉められてお金をどうやって渡すか という作法もあります。

先ほどの木琴はアコースティック楽器でしたが、今度 はドラムスとベースとエレキギターによるバンド形式に なります。こういうエレキ楽器が使われ始めたのは60年代末くらいからですね。
さて、次は現代のショウ・ビジネスに進出しているグ リオの話です。彼らには強力な音楽的才能があるので、 アフリカ社会が変化する中で、ミュージシャンとして活躍するようになります。
例えば、ギニアにウム・ジュバテという有名な歌手が います。彼女はグリオで、私の妻の叔母に当たります。 その妹にあたるミシア・サランも、ギニアのイケイケガー ルみたいな感じのアーティストです。また、パリではモ リ・カンテ、カンテ・マンフィラ、ジャンカ・ジャバテ など、1980年代から30年代のワールドミュージック・ ブームで名を成したグリオが活躍しています。

〈映像〉

これはギニアの人気アーティスト、セクバ・バンビノ がアビジャンに来た時の映像です。みんなヒット曲に合 わせて踊っていて普通のコンサートみたいですが、途中 から伝統的なグリオの演奏になっていきます。彼がグリ オのレパートリーをエレキ楽器でアレンジして歌うんで すが、それはある特定の一族に対する誉め歌なんです。 そうすると、お客さんの中からその一族の方がステージ に上がってお金をあげはじめる。この時はカンテ一族を誉めていたので、カンテの人が上がってきてお金をあげ てるんです。ずっとあげるんです。まだあげてます。ま だあげてますねー。手にはおそらく数十万 (CFA) 持っ ていて、それをあげちゃうんです。お金が終わらないほ どみんな喜ぶんですよね。もう終わるかなと思ったら、 全然終わらない。まだまだっていうんで、またポケット から出して始めるんです。これ、とても盛り上がるんで すね。
グリオは700年前のマリ帝国の時代から、伝統的な アコースティック楽器を使いながら同じことをしていま した。やがて植民地化と共にアコースティックギターが 入ってくると、このギターをいち早く取り入れます。白人に押し付けられたのではなくて、自分たちがギターを 気に入って、木琴の横でギターでも演奏を始めました。 和音とか西洋式の演奏の仕方を知らないまま、自分たち で工夫しながら独自に演奏を始めたんです。

グリオはそうして新たな楽器を手に入れることを厭いません。その後、独立前後からエレキ楽器が入ってきた ので、バンド形式の演奏が誕生し、さらにワールドミュー ジック・ブームでそれがステップアップしていきました。 2000年くらいからはデジタル化の時代に入ってきて、 スマホやらノートパソコンが普及してきて、音楽をダウンロードするようになってきました。いろんなソフトを いじれるようになってきたので、例えばアビジャンの町 の中の結婚式などのお祭りでも、グリオの歌のバックが デジタル化された演奏だったりする。昔は村のお祭りで ジェンベを叩いてみんな喜んでたけど、マリの村落を調査した若手の研究者によると、最近はジェンベよりもそのデジタル化したものを、アンプを通して流したほうが、若者なんだそうです。もはや楽器すら演奏せずに、なにが違う同に向かうということが、今、始まりつつ あるのかもしれません。

たとえば、マンデの人がニューヨークで結婚式をする 時にeラーニングみたいなのを使って、ギニアでグリオ が歌うとニューヨークでもキャッチできて、ご祝儀も電 子マネーで送るというようなこともすでに技術的には可 能なので、将来的にそんな風になるのではないかと思う わけです。エレキ楽器までは、彼らが自分の身体を使って演奏していたんだけども、デジタル機器が普及すると 身体を使って演奏することがなくなっていく。むしろ、 そのほうが今の社会ではヒット曲になる可能性が高い。 デジタル技術と電子マネーの普及によって、誉め歌の伝 統が変わる可能性がでてきています。 そうするとこれからのアフリカは、その文化的特徴として世界の他地域よりも優越しているであろう「身体性」 や「口頭伝承」の伝統を捨てつつあるのかなと思ってしまうわけです。それは、先進諸国においてグローバル化 や経済発展に伴って起こったことが、アフリカでは今始まりつつあるというところにいて、ちょうど日本が明治 維新で経験したような大きな社会変化が、アフリカで起 こりつつあるのかなという気がするんです。

それはたしかに「変化」なんです。しかし、伝統的な アフリカが持つ身体性や即興性が次の段階に「進化」したと捉えるか、あるいは、それらが「退化」していると 捉えるか、それは評価の問題です。ですから、我々が外 からアフリカと関わる際に、彼らの変化する姿を目の前 にして、それをどういう風に感じながら付き合っていくかということが重要なファクターになってくるのではないかと思います。

川瀬慈

私は主にエチオピアの地域社会で活動する楽師や吟遊 詩人の活動を民族誌映画に記録し、発表することを研究 の主軸に据えてきました。彼ら、彼女たちの歌の世界は、 私自身の視点や思考を揺さぶり、変化させていく主体でもあります。研究をすすめるなかで、映像の話法とでも いいましょうか、イメージや音をとおした語りにおいて 様々な方法論を試してきました。まず、拙作を見てください。

〈民族誌映画3作品上映〉
1 『ラリベロッチー終わりなき祝福を生きるー」
2 『僕らの時代は』
3 『精霊の馬』

以上、3作品を見ていただきました。一本目の作品は ラリベロッチと呼ばれる集団を対象にしています。これ は、家々の軒先、玄関の前で歌って人々を祝福して金品 を受け取り、町を移動していく、いわゆる門付けを行う 集団です。二本目と三本目は、アズマリと呼ばれる楽師 の活動を記録しています。アズマリは結婚式をはじめと する地域社会の様々な祝祭、娯楽の場で弦楽器マシンコ を弾き語ります。三本目の映画は、霊媒と人々のやりとりが主題なのですが、本作にみうけられるように、アズ マリは歌と演奏を通して、精霊と人々のコミュニケー ションを仲介していきます。 一本目の『ラリベロッチー終わりなき祝福を生きる』は、歌い手の夫妻と人々が繰り広げる路上のコミカルな やりとりに惹かれ、それを淡々と観察するオブザベーショ ナルシネマのスタイルをとっています。二本目の『僕ら の時代は』では、撮影者である私はカメラの前の出来事 に積極的に参加しています。すなわち、撮影対象のアズ マリの少年たちと意見交換したり、ジョークを言い合ったりして、撮影者の存在を作品のなかで前景化しています。これは、私と対象の心理的な距離の近さが可能にさ せた映像の話法ともいえます。ところどころで、私と少 年たちのコミュニケーションがかみ合わないような場面もみうけられるのですが。

いずれにせよ、撮影対象の人々と撮影者である私の関 係によって、カメラの動き、映像の話法は変化していく わけです。人類学においては、対象と距離を保ちながら 観察記録し対象を分析するための、いわば、科学的な道 具としてカメラはとらえられがちです。しかし実際は、 撮影者と対象とのかけひきや関係性のなかで、カメラの 動き、映像の話法が規定されていきます。もちろん被写 体は、撮影者の意図を真っ向から覆す力も持ち合わせて います。被写体も、さらには作品を受け取るオーディエ ンスも、決してこちらの意図どおりに客体化し、コント ロール可能な存在ではありません。エチオピアのスト
リートで、あるいは、各国の様々な上映機 会において、制御できえない存在や声にいかに対峙し映像を介して対話していくのか、 という点に試行錯誤してきました。
楽師アズマリたちの歌の魅力の一つとで も言っていいと思うのですが、サムナワル ク、すなわち《〜と金》という歌いまわし があります。これは、彼らが演奏を始める 前に必ず歌う歌、ゼラセンニャのなかに顕 著です。ゼラセンニャは、演奏を始める際 に男性アズマリの独唱によって歌われます。
歌に一定の拍子はなく、いわゆる語りに近いです。

<『ゼラセンニャ』の歌唱の実演>

こんなかんじで、短い歌詞が続いていきます。通常、 蝋は歌詞上で字義通りに理解される特定の単語や節、ひ とまとまりの段落を意味します。一方、金は、蝋が徐々 に溶けることによってあらわれ出る詩の深淵、イメージ の鉱脈を指します。聴き手は蝋を頭の中で溶かし、金、 すなわち歌が包含するイメージの鉱脈を自ら掘りおこさないといけない。言葉を字義通に受け取ったら全然違う 意味になっちゃう。ちゃんと言葉の金を掘らないといけ なのです。そのため、聴き手は蝋のパートを注意深く聴き取る。そして金を導き出すための修辞上の作業、すな わち、特定の語を、似た発音の語と入れ替えたり、一つ の単語を異なる二つの単語に分離させたりと、いろんな 作業を頭の中で行います。そうこうするうちに、金、す なわちある種のイメージが頭の中にうかびあがってくる のです。じゃあ、具体的にそれはどんな内容かって言う と、なかなか簡潔には言語化できないのですが、浮き世 の儚さであったり、人の生死に関する諸行無常のような 観念とでもいいましょうか。あとは権力批判だったり、神への畏敬の念など。神というのはこの場合、キリスト 教エチオピア正教会の脈絡における神です。

エチオピアの地域社会の中で様々な役割を担うアズマ リは、道化師のようなコミカルな楽師として親しまれて います。しかしながら彼らは、歌によって空間を異化し、 蝋と金を通して、我々に語りかける、ある種のスピリ チュアル・リマインダーでもあるのです。金が包含する イメージの世界は一元的で、固定的な答え、わかりやすいメッセージの類いではありません。聴き手は、ゼラセ ンニャを聴きながら、広大なイメージの海を、自らの想 像力のみを頼りに、深く潜行していくのです。 「さきほど、鈴木さんのお話の中に、デジタル技術の革 新や電子楽器の隆盛のなかで、アフリカが持つ身体性や 即興性がどうなっていくのか?というお話がありまし た。アズマリたちは基本的に、マシンコというアコース ティックな楽器を弾き語る楽師なのですが、シンセサイ ザーの演奏やDJのパフォーマンスとともに、歌い演奏 する機会も飛躍的に増えています。演奏のスタイルや脈 絡が変容する中、今後も私は、楽士の活動や生きざまに ついての記録方法を模索していきたいです。同時に、さきほどの蝋と金にように、私が魅了されてきた彼らの詩 やイメージの世界を身体でとらえながら、より深く学んでいきたいとも思います。そして、おせっかいなアウト サイダーの立場から、その魅力について当事者たちにリ マインドしていく。これも私のミッションなのではないだろうかと考えています。

和崎春日

アフリカのカルチャーの現在ということですが、私の 話は文化性よりもやや社会性を帯びた話になります。
日本に来ていたアフリカ人の仲間は、大使館の関係者 だったり、上層関係の子どもたちやその親族だったりしたんですけど、今日ご存知のよう にいろんな形で日本でも出会いが 増えてますよね。日本で会ったア フリカの人たちが戻って、その故 国へ行くと経済的には中層階層、 あるいはローワーだったりします が、アッパーローワーぐらいの人 でもお金をなんとか工面して日本 になんとかやってくるような時代 になっています。その様子を、いろんなところへ行ってるよっていうことを、写真でできる限りお見せします。これは僕自 身の経験、出会いの経験でもあります。 「資料的なものを見てみると、マクロな統計でも、その、 苦しい状況を突破してというよりも、かなりポジティブ な動機があることがわかります。そういう姿を写真から むしろ感じていただけたらなあと思います。 – 中部大学は愛知県春日井市にあるんですけれども、そこで調べてみると、歴史的に関係の深い韓国、朝鮮籍の 人、中国、台湾の人、ブラジル、ペルー、中南米の他に、 いわゆる帝国をつくったり植民地主義を行使したり、経 済的に産業革命があった、市民社会を先につくったよう な人たち、つまり、北側と通称呼ばれるアメリカ、イギ リス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポルト ガル、ロシアのような人たちも来てます。最近多いのは、 ベトナム、ネパール。コンビニで働く人たちのネームプ レートが漢字だった人が、今はこの二つの国がほとんど ですよね。セネガル、南ア、ウガンダ、エジプト、チュ ニジア、ナイジェリアの人も春日井市に住んでるんです よ。だから、合計何か国か、中部大の学生にこれを書か せるんですけど、最初は15か国くらいだろうと思ってましたが、これだけでももう5か国。もうそういう地球規 模交流の時代なんだなということがわかります。

僕はカメルーンに住んで長いんです。1970年代くらいから行ったり来たり。カメルーンには計7年くらい 住んでました。その村はカメルー ンのバムン民族の村で す。以前は、みんな小学校で裸足でしたが、最近は靴も 履いてるし、小学校も整備されている。学校の普及率は タンザニアとカメルーンはアフリカの中でも高いですね。 アフリカ全体が上がっています。でも問題は、学校施設 の数をユニセフとかそういう統計でよく取るけれど、じゃ あ、寺子屋数えてますか?って。じゃあ、クルアーン 学校数えてる?っていうことをやっぱり問われますよ ね。西洋的価値だけで、学校を規定するのはおかしい。

東アジア人っていうのはものすごく実年齢よりも相対 的に若く見られますから、ちょっと張り合わなきゃと 思って、鈴木さんの髭以上にバチっとこういう髭でいったこともあるんです。そしたら、もう、アラブの人たち に見えるかなと思って行ったら、村のちっちゃな子が寄ってきて、本当に僕をアラブ人と思ったのか、アラビ ア語で話しかけてくるんですよね。日本ならアラビア語 は東京外大や昔の大阪外大など、諸外大に通わないとできないでしょう? 相当の知識人です。だから、ユニセ フなどの統計もそこの現地性に即して考えないと。決し て、国連機関がすべて是であるという風には考えられない。常にそこを問うていかねばと 思います。

日本におけるアフリカ人

日本にいるアフリカ人は関東で すと、越谷、北越谷、南越谷、蕨、 それから千葉のほうの野田にたくさん住んでます。それで、中古自 動車とか電機製品とかエレクトロ ニクス、いっぱい買い入れて故国 へ送り返しています。この商売を経て新たなビジネスに 入るんだけど、なかなかうまくいかないと、また中古自 動車業に戻るという人も非常に多いです。彼らは大体2 週間から3週間くらい滞日しますが、日本からのインビ テーションがあって2か月のビザがとれる時もあります。

日曜はオークションないでしょうと、休みということ で六本木に行こうやって言って約束しても、何回もすっぽかされました。ものすごく真面目なんです。あんまり 六本木とかに行かない。話題としてはものすごくよく 知ってますよ。知ってるけど、行かないね。結局、いろんなものを買って帰るかっていうことに賭けてるから。
寝て、起きて、買いに行ってという生活をずっと繰り返 してます。

毎月一回在日本カメルーン人の会があるんですけど、こ の写真(2ページ、下段)、正月に会長選挙をした時のもので、 私はいかにも顧問みたいでしょう? いかにも顧問みた いに、参与として司会の横に鎮座させてもらって、「セ・ ボン(いいじゃないの)」とか言っているところです。 「カメルーンと日本の交流では、カメルーン人男性と日本人女性の結婚が大変増えてます。これは埼玉のカメ ルーン人の女性がやってるレストランで、結婚の祝賀 パーティーがあったところですね。非常に増えてます (4ページ、写真5参照)。 「池袋で会ったナイジェリア人、イボ人の在日協会の会 にも参加しました。日本にいる在アフリカ人ではこのナ イジェリア人が2千数百名でトップです。二位が2千前 後のガーナ人。三位になると一挙に500名とかになり ますね。ナイジェリアでは、イボ人が多くて、しかもこれアナンブラ州に集中している。イモ州、アナンブラ州、 エヌグ州とかいくつか州がありますけど、州だけでも何 百も集まる。アナンブラだけで何百人っておかしいな、 多すぎるって。全部で二千人くらいだからです。それだけオーバーステイの人もいるっていうことですよね。儲けるだけ儲けて帰る。カメルーンの人もコンテナーに自 動車を入れてドアラ港で受け継いで売ります。
カメルーンでは、中古自動車の右ハンドルを左ハンド ルに変えるほうが売れやすい。カメルーンはフランス式 ですので右側通行。日本のハンドルでは上手くいかない ので、右ハンドルを左に変えてます。カメルーンには、 トヨタとか、日産とかあるんですけど、JUDHO AUTOS という風に店名を日本の名前(ここでは柔道) がついているところが多いです(8ページ、写真3参照)。そ のほうが、信頼を得て売れる。

ヤウンデで日本との交流が深まったのは、カメルーン 人と日本人との結婚があって、日本にも行き、日本から カメルーンにもやってくる。ただ日本からやってくるの はいつでも個人のレベルだけれども、中国は人がどーん とやってきますよね。 – 日本は精緻な、あるいは技術的にハイレベルなものが 象徴的にやってきます。だから、名古屋大や中部大で国 際シンポジウムしてカメルーン人やヨーロッパ人研究者 を集めると、みんな名古屋の駅前のヨドバシカメラでパ ナソニックとかヒタチとかミッビシとか、うわーっと買 うんですよ。みんなそればっかり写真に撮ります。それ が日本なんです。だから、人じゃない。身体性の逆のもっとも離れた人工的なものが 日本だと捉えられてるんだなっ ていうことも考えていかなくて はいけない。

今日、ヤウンデで日本語コン テストさえ行われています。ポ スターもちゃんとした日本語に なってますね。という風に20 07年に、(ポスターに) 神社の 図案なんかわざわざつけちゃって日本風を謳ってますね。日本 風絵画が描いてあって、こういうものをつくってます。 (他の写真を見ると)在カメルーン日本会の代表チャオさんがいます。慶應の大学院に3~8年前にきて、現地 の三菱商事に勤めていました。三菱はもう引き払いまし たから、チャオさんがカメルーンで拠点をつくってます。 なので、いろんな日本の会社がカメルーンで仕事しよう と思うと、結局彼を通さざるを得ないんですね。ネット ワークを持ってます。そういう人たちがこういう交流会 「Africa Japan House」をつくっています。という風に、 日本がカメルーンに、アフリカに根付いてきてますよっていうことです。

アジア諸国のアフリカ人

中国の広州にはアフリカ人がいっぱいいます。香港の 北側にありますよね。 – 日本社会自体が非インターナショナルなのは、中国の 発展を素直に受け止められない点です。いつもどこかで ルックダウンしてるんじゃないの?と日本社会の人たち にやっぱり問わなきゃいけない。広州、すごい大都市で す。人口規模や国際性など東京以上だなという場面に しょっちゅう出合いますよね。広州は香港の北側にあり ますから、香港の持ってる国際商業性、経済力は、こう いう広州のマニュファクチャーに支えられている。ホン ダや日産など日系企業の部分パーツもたくさんつくって るし、中国で一番売れてるフォルクスワーゲンもある。 そういうものの経済力を支えてるのは広州ですよね。 – 日本には公式に2万人弱とされたアフリカの方が来てるんだけど、広州には10万人いると聞いた。10万人! じゃあ、行ってみようと。現地へ行きました。 – サコ先生もご存知ですけど、アフリカの人、広州のそこら中にいます。それで、英語も聞こえるしフランス語 も聞こえるんですけど、アカン語が聞こえてきたりね、 スワヒリ語が聞こえてきたり、フランス語やカメルーンのバミレケ・バムン系の言葉を聞いたこともあります。

ギニアとベナンの婦人に「何しに来てるの?」って聞 いたら、「観光だよ」って言うんだけど、「誰に会いに行 くの?」って名刺入れを見せてもらったら、もう中国の 商店の名刺がいっぱい一冊の中に入ってる。商売ですよ。 いろんな小物を買いにきてる。おばちゃんたち、観光だって言ってたけど、嘘つけっていう感じです。スモールス ケール、ミディアムスケール、ラージスケールの商売が あって、どんなスケールでも、とにかくアフリカの女性 たちの持ってるインターナショナルな、コマーシャルの 力っていうのはすごいですよ。もとよりその意味での、 男女のアクティビティの平等性というか、お互いのアク ティビティを認める力っていうのはアフリカにはありま す。フェミニズム論でも、アフリカから問う必要がある。
広州のタンキー市場っていう小北っていうところの近くなんですけど、タンキー市場にはアフリカ人ばっかり もう繊維製品の市場だからいっぱい買いに来てるっていう噂を聞いて、行ったら、もちろんいっぱいいました (%ページ、写真7参照)。それで、このビル内に入ると、アフ リカの人が中国のお姉ちゃんを雇い入れて、この中国女 性たち正式レジスターに店舗を借り入れて、二階も三階 もアフリカの人ばっかりです。

エレファントビルという建物にはアフリカ人理容院が あります。アフリカのチリ毛の人たちはパーマの技術が いります。カメルーン人理容師がいます。このお店は人 気があって、いろんな各国のアフリカの人が来ます。
広州で買い物すると、運搬のサービスというのが発達 して、中国とラゴス、ナイジェリアを4日間で結んでいる。これを通してもナイジェリア人が多いというのがわ かるんですけれど、これはナイジェリアの国際空港地ラ ゴスと4日で結びますっていうロジスティックスの戦略で すよね。広州―アフリカ国際輸送が商売として成り立つ。
次にベトナムです。ベトナムの一杯飲み屋街に、最近 よくアフリカ人が現れるよっていうことを聞きました。 社会主義体制から経済開放しています。日本の企業も名 古屋でアンケートをとったんですけど、中国から次どこ に拠点を移すかっていうのは、ベトナムとインドネシア でした。中国から会社の支店や工場を移す計画を立てて いる会社は多いです。だから、日本もベトナムを拠点化 しようとしてるところだし、ベトナムからもいっぱい来 てるという相互状況だったんですね。国際化が進みアフ リカ人にきっと会えるだろうと思ってハノイの飲み屋街 タヒエン地区に行き、アフリカ人に、やはり会いました。 ベトナムではアフリカ人が活躍するサッカーのトヨタ杯があります。トヨタがスポンサーのVリーグ(日本の J1リーグにあたる)、ここのアフリカ人の評判が非常 にいいので行ってみました。今年の得点王はサムソン・ カヨデ。ナイジェリアの人ですけど、その後のチームの Tシャツを買って応援します。僕はだいたい日本とカメ ルーンの試合があると、カメルーン側に招待されますか ら、カメルーンの旗を持って、日本をやっつけろーって 応援するわけです。得点王サムソンは、ナイジェリア人 です。イボですけど、ハウサ圏で育ってるので、ハウサ 語ができます。ハウサ語であいさつすると、一挙に信頼 が増します。

次の時の試合では、南のハイズオンっていうところか ら来たチームなんですけど、アフリカの選手がやっぱり いました。(写真に写ってるのは)ケニアのルヒヤ・ルオ 系人です。ナイジェリア人もいます。イボ系です。こち らにもう一人、ナイジェリアのハウサ人です。ルヒヤ人 選手の奥さんは、ケニア人ですけど、今ウガンダに住んでるという風に、非常に人の動きも国際的だっていうことがわかります。この時にびっくりしたのは、その時、 笛を吹いたのは日本人だったっていうことです。びっくりしました。そういうようにもう交流しているんだ。そういう日越アフリカ交流の時代なんだっていうことがわかりました。
タヒエンに行くと、ちゃんとアフリカのおちんが ベトナムのお姉ちゃんと連れだって、にやにやって きました。彼は、去年、その前の年のベトナムリングの 得点王です(ページ、写真参、キンタイナーら楽だな 手で、僕が織の表面にカメルーンの後はってそれを ぱっと見せると安心してカーっとし、すでに高線して きた交流がわかるわけね。
ハノイのここでびっくりしたのは、出会った数人の選 手が、実はカメルーン人のベトナムリーグの選手かと思 いきや、中国リーグの選手だったことです(ページ、写真 1参照)。だから、中国とベトナムとのネットワークがあっ て、選手間のネットワークがあって、シーズンの時期が 違えば二股もできます。それから、この写真は、ちょう と試合の間の休みの時に、重慶と上海と北京の三チーム のカメルーン人選手が今のベトナムの繁華街に来たとこ ですね。この世界も、ものすごいネットワークがあるんだなっていうことがわかりました。

ベトナムのサッカーリーグにアフリカ人がどれだけ進 出しているかを整理してみると、選手は東アフリカから 6か国、西アフリカから9か国、中部アフリカから2か 国、南部アフリカからは7か国からと、多数来ています。
ちなみに、ベトナムでは、トリニダード・トバゴやジャ マイカなどのカリビアンの選手もアフリカ人扱いです。
それで、そのタヒエンで、僕がどこから来たの?と 聞いた人たちの中には、カメルーン、セネガル、モザン ビーク、ナイジェリア、コンゴ、タンザニア、スーダン ケニア、ガーナの人がいました。彼らには中国やロシア にもネットワークがありますよ。この中のカメルーン人 は、最初ドバイに行って、そこでロシア人に出会ってモ スクワに行って、商売をして、その旧社会主義ネット ワークが現在化されて、ベトナムに来ていた。こういう グローバル状況です。 _FPTというベトナムのコンピューターの電気・電産 関係の最大手がありますけど、それが私立大学をつくったんですよね。ハノイ国家大学は国立のトップなんです けど、アフリカの人たちがFPT大学にいっぱい留学し に来ていました。カメルーンのユニフォームをFPT大 学のアフリカ人大学生に見せると、いっぺんに打ち解け ます。

最近はハノイの街でトラベルエージェンシーが目につくようになって、ケニア旅行も出てるんですよ。ああ、 そうか、もうベトナムの経済力も上がって、ケニアへサ ファリ観光に行く時代なんだって思ったら、ケニアエアラインがハノイにダイレクト便を出していた。ケニア人 もこっちへ来ている、そういう国際交流の時代なんだっていうこともわかりました。
僕はカタカナのグローバルという言葉は軽くて好んで は使いませんけれど、地球規模に人々の活動が動いているというのは好ましい状況です。それをもってまたみなさんとのディスカッションの中で、じゃあ、カメルーン ではどうなんだっていうことね。つまり、今までのカッ コ付き伝統とされるものも現代的に変容していくわけ でしょう。それと、変容と持続ということを問うわけで すけど、これだけマイナス要因ではないディアスポラが あります。ポジティブな動機による国際移動を行った後 に、どういう風に自分の認識なり、自分を維持していく のかっていうことをまあ、 問われている、そんなこ とも議論していきたいと 思います。ありがとうございました。

注1.東アフリカはウガンダ、ケニア、 タンザニア、ルワンダ、ブルンジ、エ チオピア、西アフリカはナイジェリア、 シェラレオネ、マリ、トーゴ、セネガ ル、ガンビア、ガーナ、コートジボ ワール、中部アフリカからはカメルー ン、DRコンゴ、南部アフリカからは 南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、 アンゴラ、ナミビア、マラウイ、モザ ンビーク

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP

ディスカッション

サコ:現代アフリカをどう見るのかというところで、最 後の和崎先生の話の中では、アフリカからグローバルに、 地球規模にアフリカが拡がっていると。でも、先の二名 の話を聞くと、アフリカ内のグローバル化が指摘されま した。例えば、それが伝統音楽であっても、徐々にやり 方が伝統からグローバル的な視点が取り入れられてる んじゃないかという話をされました。
鈴木さんの話の中で出てきたグリオに関してはですね。 実は最近私がマリに行って間違いを起こしてしまいまし た。グリオには誉められたらお金を出すんだけど、お金 を出す前に、私のことを応援する人たちからお金をもらうんですよ。私が出すお金が足りないかもしれないから。 足らないと恥になるので、いろいろくれるんです。でも その時、私はちょうど到着した日で、弟の結婚式だった んで、みなさんがお祝い金をくれたのかなという風に 思っていて、私は一切グリオに出さずに…。二日間分の ガソリン代を稼げたなと思って、本当に出さなかったんですよ。次の日、町中で「日本から来たやつはお金ない のかよ」と。「この人なんで30年間海外にいるんや」という風に言われました。それで、そのグリオを日本に呼ぶということを無理でも約束しました。ババニ・コネという人なんですけど、3~4年前に京都へコンサートに呼 びました。それでなんとか今、私もマリを歩けます。 – おもしろいのが、ここにテクノロジーが入ってきても、 人間関係やコミュニティは変わらないんじゃないかなと 私は思ったんですよね。そこをどういう風に三人が考え るのか、と。現代アフリカでいくらグローバル化されて も変わらないものはなんでしょうか、と。例えば和崎先生の話で、タイやベトナムへ行っても、実はアフリカン コミュニティは、アフリカにいる時と同じ人間関係や生 活様式、つまりコミュニティのあり方を継承するんです。 変わらないものとは何なのかを、三人から聞きたいと 思っています。では、鈴木さんから。

鈴木 : 変わらないもの? アフリカ人ってあまり変わらないですよね。世界中どこに行っても、基本的に保守的だ と思います。日本に来て、積極的に日本料理とか食べようとしませんし。サコさんも私の妻も和食を食べますが、 他のアフリカ人はあまり食べたがらなかったりする。常 にアフリカ人同士でつるむし、アフリカ人でいることに 対して安住しているような気がします。それでも徐々に 変わっていることはたしかです。それは、和崎先生のお話にあったアジアに対する積極的な展開を見れば明らか で、サコさんのような学長が日本で生まれたなんていう のも、変化の一つですよね。

川瀬 : 現在、葛飾の四ツ木駅界隈を中心にエチオピア人 が百人ぐらい暮らすと言われています。ここには、エン クォファートゥ、通称リトルエチオピアと呼ばれるエチ オピア料理店があります。エチオピアの主食インジェラ をみなさんもご存知かと思います。インジェラはテフと いうイネ科の穀物を主体につくるパンケーキ、クレープ のようなものです。ただし、日本ではインジェラの材料として極めて重要なテフがなかなか手に入りにくい。そのため、米 粉をはじめ、エチオピア現地で使わないような様々な材料をまぜあわせてなんとかつくっている。変 えないように見せつつも変えていく。そういう創意工夫に僕は ちょっと注目しています。変える か、変えないかっていう二者択一 の世界ではなく、ブリコラージュ とでもいいましょうか。

和崎:今、サコさんが言われたことの答えとして思い浮 かべるのは、六本木のアフリカ人です。僕も清水さんと 一緒に調査しましたけれども、六本木にいるアフリカン の人たちの生活につきあったことがあるんですが、そこ で、勉強してて博論を書こうとしてる女性がナイジェリ ア人と結婚したんですよね。それで、結婚してからもなかなか食えないからね。ナイジェリアに進出してる企業 いっぱいあるから、日本の企業のどこか、あるいは関係 企業でもいいし、日本の大きな商社はどうだと言ったら、 まったく関心ないんですよ。つまりね、アントレプレナー シップ(起業家精神)というか、自分で商売していくっていうことには関心があるけど、大企業にはあんまり関 心がない。六本木で会った多くのアフリカン、そういう 野心的な人が多いですよ。根っからの商人であり、文化 をまたぐメディエーターであるっていう感じはしますね。 その才も持ってるし。

そして、基本的にポリグロットでしょ。カメルーンの 週に一回あるマーケット市場で、揚げパンみたいな小麦 でつくったのを揚げてる村から町に出てきたおばちゃん は、英語が喋れる、フランス語が喋れる、バムン語が喋 れる、ハウサ語が喋れる、フルベ語が喋れる。四つか五つ言葉を喋るのは当たり前ですよ。そのおばちゃん、外 に出たことないけど、国際的に生きるっていうのはそう いうことですよ。日本で言ってる、与えられた完成形みたいなのがあってね、それに近づいて、外国語を習得するなんてことはまったく道筋が逆で、生きるためにメディ アとしてどういうものを獲得していくかっていうのが生 きる姿なのであって、変化と持続はかならず両方生まれるということだと思うんです。メディア化した生き方を しているわけであって、本質は僕らにとってもそうある。 日本の教育はそうじゃないけど。特に英語教育だって、 外国語教育は逆だと思うけど。生きることをそのまま追及すれば、持続と変化が同時に起こると僕は思いますね。
サコ:少し話題を変えますが、中国でもタイでもそうなんですけど、最近アフリカのマーケットに行くと、中国 製品が多いんですね。中国製品が多いことが悪いかどうかは別として、非常にアフリカの人たちの消費能力というか、購買能能力は高くなっている。物を買うお金も増 えてきている。でも、自分たちで使うものをつくらない。 それは何なんだろうと思ったんですよね。
最近私はおもしろい傾向を観察しているんですけど、 今、パリにアフリカ人がたくさん住んでいるんですよね。
実は彼らが使っている食材というのは、バングラディシュ 人とか中国人とかが売ってるんです。アフリカ人が売ってないんです。日本では新大久保に行くと、アフリカ人 が持っている店ってないんですよ。新大久保にも。でも、 基本的にはアフリカの食材は買えるんですよ。ネットで 買えるものもあるんですが、アフリカ人が売ってるのだ と、1店舗前後しかなくて、ほとんどがブラジル人とか。 なんで、こんな現象があるのかなという風に思うんです よね。この、結局は自分たちがある意味で姿勢を変えず に、でもいろんなものを持続したいっていうことは、何 から来ているんでしょうか。文化人類学の視点からちょっと語っていただきたい。

鈴木:自分たちの姿勢を変えずに、他の国の人が売って いるものを消費者として買うということですか?
サコ:変えずに、持続性を重んじるんですよ。だから、 日本に来てもアフリカの料理を食べたいんですよ。もっ とね、アフリカから取り寄せたり、買ったり売ったりし たらいいのに。でも、別にそうしないんですよね。

鈴木:自分たちでそれを売るようなネットワークをつくったりしないってこと?
サコ:そう。すればいいのになと思って。これが実はいろんなところで起るんですよ。どこに行っても、アフリ カ人は消費してるけど、売る立場にならないんですよ。何でだろうなと思って。

鈴木 : なぜでしょうかね。たしかに私もそうだなって思 いますが、どうしてやらないんでしょうかね。でも、白 人が来る前からアフリカの中で商業ネットワークは生まれていました。アフリカの中で職人たちがいろいろな物 をつくるということは、今は衰退してきていますが、伝 統社会ではずっと継続されてきました。だから、そうした手工業や商業のシステムをつくりあげて、自分たちが オーガナイズしてやってきたんだけども、どこかでやめちゃったんですかね? もしかしたら、植民地化と奴隷 貿易によってイノベーションのレベルで何かの断絶があっ たのか。アフリカに行って、どうしてあなたたちは働か ないんですか、と聞いてみます。そうすると、我々は我々 なりに働いていると答える。でも日本人の私から見ると、 それは働いているカテゴリーには入らない、といった見 解の相違がでてきます。だから、働くとかオーガナイズするということに関して、ある種の国際標準というか、あるいは日本人の考える世界観における労働のレベルを彼 らは認識していないのかなと思ってしまう。自分たちの 社会をつくる際に、何か向こう側から、すでにできたものが落ちてきて、その中で自分たちの使える部分だけを 使うというようなスタイルをとっているような気がします。

川瀬 : 最近、東京をベースに活動するエチオピアのビジ ネスマンがエチオピアのワイン、リフトヴァレーを売り 込み始めました、都内のレストランやバーに。そこそこ 話題になっているのではないでしょうか。エチオピア産 のワインをご存じでしょうか。今後展開を見ていきたい のですけど、例外的な事例、あるいは突出したイノベー ターのような存在が、全体の流れを変えていくこともあるのではないでしょうか。

和崎 :今、川瀬さんが言ったようなことと似たような感じの感触を僕も持っていて、これは、カメルーン人じゃ なくてナイジェリア人ですけど、越谷にアフリカンレス トラン、ナイジェリアン・レストランがあって、そこは 食材をいっぱい持ってるんですよね。だから、いろんな 国の人が買いに来ます。そこで、フランス系のアフリカでは、通称クスクスと呼ばれる、 それはトウモロコシとかヤムを粉 にしたものです。ヤムをパウンド して、練り団子にするような食方 式ですけど、彼らものすごく好む んですよ。カメルーンの英語圏や フランス語圏へ行ってもその系統 は、ずっとナイジェリア、それか らガーナの方、ずっと西アフリカ、 中部から西アフリカに広がってます。それは、東アフリカのスワヒ リの世界に行っても、その食べ方をするんですね。もち ろん、日本のNPOなりNGOなり、手を貸そうと一緒 にやろうという人たちの協力なんだけど、パウンデット・ ヤムを沖縄産のヤムに置き換えて売ろうという動きがあるんです。今、全部ガーナとナイジェリアから輸入してるんですけれども。ダイジョって、大芋って書くんです けどね、ダイジョていう沖縄琉球国にあるヤムを入れて みると、結構うけるんです。アフリカの越谷にあるレストランで。みんなアフリカの人たちです。ナイジェリア 人も、カメルーン人も、ガーナ人もサウスアフリカンも 来るし、ケニア、ルワンダ、タンザニアからも来ますけれど、そういう人たちが、これは結構いけるじゃないか と。ただちょっと水分が多いんです、日本のは。でも今 3キロ2500円だったかな、まだ商売にならないんです。だけど、そのリーダーが突出した人で、そういうも のを売っていこうという動きが始まりかけてるというところがありますね。実はパウンデットヤムを食べるという食生活、もっとも嗜好の強い食生活の伝統性、維持性、 連続性の中に、日本産、沖縄産みたいなものが混じって くる可能性があって。まだ水分多いんだけど、粉にして パウンデットするのはもういいんですね。だけどその ガーナとナイジェリアから来たヤムですね、ギニアヤム でつくったパウンデットャムを食べると、もう王様、神 様を見るような目つきになって、うっとりと食べるんで す。そのくらいまあ、嗜好の強い食文化、その中にも一 種の可能性、フュージョンの可能性が出てきてるというような現状です。

サコ:一番冒頭にお話ししましたけど、現代アフリカを 見るっていうのは、別に過去とかではなくて、今のアフリカを見るっていうのが前提なんですよね。その時代の アフリカを見ていく中で、私は依存関係をつくったらいけないなと思ったんです。
アフリカの人口は爆発していくし、この人口が自給自 足できないと、アジアも食われると思います。これはもう間違いなく。3年後くらいに、アフリカの農村の人たちが都市に移動して食料生産ができなくなって、これか らも食材をいろんなところに依存するんだったら、多分、 食材だけじゃなくていろんなものを依存していくんじゃ ないかなと。だから、その中で音楽とか伝統とか、いろんなものがどういう風にこれから変化していくかという ことは、この現在の時代で見ていかなきゃいけないなっていうのを私は思ったんですよね。

もう一つは、和崎先生に写真を見せていただきました が、一緒にガーナへ行ったんですね。夜になると、飯食 おうって言った時に、なぜか、これ悪口じゃないんです けど、和崎さんたちは中華行こうって言うんですよ。私 たちはガーナに滞在している間に中華に5~6回行って るんです。アフリカのちゃんと接待ができるレストラン はないのかと。今もやっぱりいいレストランに行こうと 思えば、ヨーロッパ風のレストラン、フレンチに行くか、 イタリアンに行くか、中華に行くかということになって くるんですよね。さらに私も周ってみてびっくりしたの が、今、ベトナム料理とかコリアン料理、タイ料理もで きてるんですね。マリでも日本大使館の人とはタイ料理に行きました。これからの現代アフリカの中で、さっき 食文化の話もあったけど、なぜもうちょっと独自の食文 化なども展開して定着しないのかなと。現在とこれから を見ていくと、アフリカの独自性で発展していくべき文 化は何があるのか、みなさんにひと言ずついただいて、 そのあとフロアからコメントいただきたいと思います。

鈴木: 難しい問題ですね。たしか昨年だったと思います が、ケーブルテレビでフランスのテレビ局のニュース番 組を見ていたんですね。すると、ブルキナファソの村に 紡績機が設置されたというニュースが流れました。綿を 紡ぐのに、今までは、昔のマハトマ・ガンジーの写真を 見たことある人もいるかもしれませんが、一人ひとりが 一本一本手でやってたんです。そこに機械が入ったというんですが、見ると四個の糸巻きのようなものがとりつけられていて、それが一気に綿を紡いでいくという、非 常に「初期的」な感じの機械なんです。そしたら村のおばあちゃんが出てきて、私たちは一本一本紡ぐような大 変な仕事はもうできない、ほら、見てくれ、四つ一緒に できるようになった、ってドヤ顔で言うんです。すごい ことですよね。だって、何百年も前にイギリスで産業革 命が始まったのは、その紡績の機械が発明されて、何十個、何百個といっぺんにできる工場ができたからだという事を、たしか中学で習ったと思うんだけど、2017 年か2018年に、ブルキナファソの村では四つできたっていうことでニュースになってるわけです。それを見て、 アフリカにおける産業化の現実を実感しました。

最近は、グローバル化のなかで最先端のアフリカの産 業や文化が生まれているというような報道や研究が目立ってきています。それは確かに大切なことで注目しなければなりませんが、ブルキナファソのニュースを見て私が 思ったのは、こうした最先端のトピックは「お祭り」なんだということです。つまり、アフリカが4世紀にはいって発展しているという祝祭的側面がある一方で、村人の 日常生活とか、あるいは、アビジャンのゲットーの若者 たちの生活は全然変わらないわけです。たしかに、スマ ホだけ持つようにはなりましたが。そうした格差が存在 する中で「上」の方の話だけする。たとえば、中国の資 本が入って、エチオピアでモノレールが…という風に。 こうした差がなくならない限り、アフリカ社会の安定は ありえない。サコさんがさっき「世界がアフリカに食われる」って言いましたけど、問題は食糧だけではありま せん。彼らの人口は増えるけど、ブルキナファソの村で は紡績機はまだ「四つ」なんだから、生きるためには外国に行くしかないじゃないですか。だからこれは食べ物 だけではなく、移民の話につながります。神崎先生が結 介してくれた移民は自分で何とかしていく商人根性を 持った移民ですが、人口爆発が起きる中で、商人の才覚 のない人々も地中海をわたってヨーロッパに行くという ことがどんどん増えていく。私は個人的にアフリカ人が 好きだから、これから日本にいっぱい来てくれてもいい んだけど、そういう状況がどんどんひろがっていくよう な気がするんですね。

川瀬:現代アフリカを見るということ。僕はエチオピア を対象にした映像作品をつくってきましたが、作品を公開するといろんな意見をいわれます。作品が巻き起こす 議論の中には、もちろん厳しい意見や感情的な反応もあります。例えば僕の場合、調査地のエチオピア北部の人 たちに拙作を見せる分には、それほど問題はありません。しかしエチオピア文化保護行政に関わる役人たちや、エ チオピア外に拠点を置くディアスポラの中には、エチオ ピア文化の表象のありかたに対して極めて強い理想を持つ人が多い。僕がこれまで撮ってきた、路上に生活の基 盤を置く子供たちであるとか、路上で音楽行為をする職 能者は、そういった人たちから見れば、現代アフリカどころか、後進的な世界であり、それを作品にするという のは、けしからん、となる。役人たちはユネスコ世界遺 産の遺跡であるとか、オーソライズされたものをできれば見せたい。それで拙作の撮影対象に対して眉をひそめ 僕と激しい議論になることもある。でも、この表象をめぐる議論もおもしろいんですよね。僕が正しいわけでも なければ彼らが正しいわけでもないし、僕が間違っているわけでもなければ、向こうが間違っているわけでもない。黒と白をはっきりさせることが大事なんじゃない。 映像を上映することによって喚起される視聴者のいろんな想い、感情の深淵を探求することも、僕はある種の フィール ドワークだと思います。作品を介したコミュニ ケーションの中で、お互いの立場・視点を比較していく。 そういうエンドレスのコミュニケーションしかないんじゃ ないかと思ってます。そういう意味では、僕はなんらか の作品をつくることをゴールに設定しません。公開を通 して、新たなコミュニケーションを創発させるデバイス として映画を位置付けています。 和崎 : サコさんの問いが非常に難しかったから、どういう風に答えたらいいのか。

具体的にね、経済活動や生産活動でなくても、カカオ にしてもコーヒーなどの農業もそうだし、農業生産物に対するそのいろんなヨーロッパや日本からの引き合いは あるから、それはできている。それは減退しているので はなくて、できているからそれを輸入しているんで、最 近コーヒーでも裏を見たらカメルーン産のものがありま す。僕のいるバムンはカメルーンの中でもコーヒーの産地 なんですよ。バムンとかバミレケっていうのは。だから 例えば、スイスのコーヒーのメーカーであるネスレの商品 の裏を見たら、原産国カメルーンと入っていることがあります。というように、工業生産性という風にはまだ直 接に結びついてないけど、例えばナイジェリアだったら ノックダウンでたくさんつくっていましたよ。自動車とかオートバイとか、日本と提携の工場もたくさんあるし。 カメルーンからわざわざ国境を越えてナイジェリアに買いに行くんですよね。そこでつくっているから。マークは 日本のマークですけどね。そういう風に徐々に、経済とか工業とかいう面でも徐々には上がっている。徐々には。
もう一つ、サコさんがさっき僕に言ってくれましたが、 文化的な創発性っていうのも生きるんじゃないかって思っています。どこに行ってもアフリカ人は固まるじゃない かと。それは、海外の日本人会だって、在日チャイニー ズだって、在外国コリアンだって、さっき話したナイジェ リアのも、カメルーンのバミレケも。どの民族も集まって相互扶助しようとするアソシエーションがありますよね。だから同じ村でできた相互扶助と、病気を治す、死 に至った残念な困難状況と、相互に助け合うかとか。バ ミレケでトンチンという伝統的な貯蓄方法があるんだけど、それは日本に来ても生きてるし、国際的にもそのア ソシエーションは国を越えて広がってるというか輪を持ってる。その村の知恵のデバイスが、それぞれのコンテク ストに適応しながら、広がったり縮まったりして生きてると考えれば、一種の文化的な創発です。しかし、それ によって経済的な生きぬき、食っていくということが可 能になるのだから、それもまた大事なことかなという風 に思います。

サコ:ご存知のように大体アフリカの要人が日本に来て、 帰っていく時に、援助を求めるんですよね。村を発展さ せようとか、村の文化を維持しようとかは一切出ないんですよ。どっちかというと、もっとデジタルなものを入れようとか。この間マリの大臣が来て、デジタルライブ ラリーをつくるので、日本にお金出せ、とかね。でも、 じゃあグリオの歌をアーカイブ化しようという話もない し、もっと大事にしていこうという話もない。だから現 代アフリカっていうのは、衰退なのか進化なのか、言い換えたら、西洋の真似事になるのか。もしかしたらアフ リカが先進国のセカンドハンドになるのか。みなさんの いらないものがどんどんアフリカに入っていて、それが 現代アフリカを成しているのではないかと。ご存知のようにタンザニアに行くと、10%近くの車が日本製なんで すよね。日本からの中古で、しかも幼稚園の名前が書いてある車も走っているわけですね。

でも、現代アフリカっていうのは独自性やもっといい ものがあるはずなんです。今、鈴木さんも言っていたよ うに、昔はこういうことがあった、ああいうことがあっ たと。でも、そこに向かっていくというより、西洋の真 似をすれば、自分たちの生き残る道が見えるというのが、 結構多くのアフリカの政治家の考えていることかなと思うんですよ。だからアフリカは、ちょっと早く気づいて もらわないと、アフリカに(第2の)日本をつくる、ま たは(第2の)フランスをつくるということになってしまうんじゃないかと、私はちょっと心配しています。
最後にひと言ずついただきたいのですが、その前に澤 田先生からコメントをいただけませんか?

澤田(京都精華大学): 先ほどサコ学長のおっしゃっていた話なんですけど、僕は、最近はそんなにアフリカに行ったり来たりしていないので、感覚的にちょっと遅れてるか もしれないのでお尋ねしたいんですが、身の回りのいろいろ頑張ってる人とか頑張りそうなアフリカの人たちを 見てると、資本の蓄積が難しいのではないかと思います。 現代は送金が容易になっているので、資本を蓄積する度 に世界中からむしり取られて、なにも残らないということはですね、学長も私もひょっとすると鈴木先生もそう いう目にあってるんじゃないかんと思うんですけど。
つまり資本を蓄積して大きくしていこうということが できない。逆に言うと助け合いをしているうちに、お互い貧しい平等に戻ってしまうというところがあるかと思 います。繰り返しになりますけど、デジタルによる送金 が容易になったので、なおさらですね。外国に行って働 いていても、結局は自分でその行った土地で何か事業を 起こすよりは、お金はみんな大陸のほうに送金されていくということになっているんじゃないでしょうか?そういうようなことを思いました。

鈴木 : まさにその通りでね。私は日本人で、私立大学の 先生で、給料もらってボーナスももらっています。でる 調査と妻の里帰りを兼ねて毎年アフリカに帰るんですが、 すると飛行機代、お土産代、現地での生活費、親族・友人への資金援助などの出費が重なり、一年たつと収支が ゼロになってしまう。つまり、貯金がないんです。だか ら、私、退職金が出ないと老後は大変困るんです。こん な風に、私も同じ状況に陥る訳ですね。ですから、資本 の蓄積がなくて、次の事業が展開できないというアフリ カ人の気持ちがすごくよくわかります。

サコ・澤田先生が言ってるのもごもっともで、私も当然 毎月家族に仕送りするんですけど、この間、学長になってからも何で仕送りが同じ額なのか、って来たんですよ。 しかもお母さんから。なぜかというと、最近の仕送りは 自分たちの家族だけじゃなくて、親戚のおじさんもプラ スにしたので、額を増やせと。学長になったんだからと。 意味がわからないですよね。私はサラリーマンなので、 お金がないと言ったら、じゃあそれだったら学長やめて マリに帰ってこいと。もし帰ってきたら、もっとお金も らえるかもしれないからって。 「何言ってるのかよくわかんないですけど、こういう共 同体の維持っていうのが変わらない。相互依存というの は大事なことかもしれないけれど、でもこれが少しでも 「進歩するというのはどういう意味なのか。東京のマッ 「人と話した時にその人が、マリで個人が給与だけで成功するためには、悪い人になるしかないと言ったんですよ ね。いい人でいると、とことん依存されるので。最近で いうと、電話が Whatsapp というSNSでかかってくる。 おじさんが今病院に行って、薬の処方箋をもらったので、 お前明日中にお金送ってこいと。でも、そのおじさんって3~4年も会ってないような人なんですよね。
私は、コミュニティは大事だと思うんですけど、こう いう依存体質は変わらないといけない。その意味で、現 代アジアとアフリカのコミュニティとが、どういう差が あって、アジアのほうがちゃんと資本を蓄積できて発展 してきたのか、アフリカではできなかったのか、という 点に関心があります。
それでは、先生方からひと言ずついただいて終わらせたいと思います。和崎先生から行きましょう。

和崎 : サコさんがずっと言われてる産業化、工業化って いうことでは、例えばザンビアの宝石、ダイヤモンド業っていうのは、ご存知のようにオランダの1家族ぐらいネットワークが牛耳ってたんですよ。それでザンビアとかジ ンバブエとか南アフリカは、ダイヤモンドを買って、それを国内で新たに山を開く時に使って、民衆と政府は頑 張ったわけ。簡単に言えば、株を国内化することに成功したわけですよ。だから今、その研磨産業が、ザンビア の中で起こっていて、かなりの金額。ザンビアはそのお金によって、今は、小中高まで教育無償ですよ。 ・ だから、そういう形で結ばれる文化のデバイスによって、もしくは社会的な戦略によって、結んでいった暁に ね、産業発展していくんじゃないでしょうか。だから、 みんな騙して真似して、それをいろんな産業的な技術に 根を張って、そしてそこから芽生えていくわけでしょう。 全部が全部じゃないけれど、そういう面も出てると。

それから、お金をむしり取られてますと、澤田さんも、 サコさんも鈴木さんも言うけど、逆に言うとね、バミレ ケのやってるトンチンていう共同貯金、そこで積み立て たものは、誰かが病気になった、誰かに不幸があった時 に、そこからまとまったお金がいくわけですよ。それに 十人、百人とくっついていくということは、一人の幸せ なりというものをみんなで共有するということです。と いうことは、リスクを全員が持つんだよという形になる ということです。ということはね、幸福の方式が一人の 富士山をつくるんじゃなくて、その範囲が広がっていく。 だから、むしられる幅が拡がっていくわけですよ。という形で集団のボトムがちょっとずつ上がるのか、その中の代表が金持ちになるのか、ということで言えば、ちょっとずつ上がってるのは現代アフリカの現代だと思うんで すよね。ザンビアのように。
という風に考えていけば、文化的知恵、生きる力って いうのは、やっぱり役に立つで、と言いたいし、アフリカの人たちはそうやって生きていけると言いたい。(座 談会が始まる前に)入試の話を鈴木さんがおっしゃって たんですけど、ポリグロット、マルチ、多様性を持って ますよ、アフリカの一人ひとりの個人が。だって、宗教 で言えば多宗教、多民族、多言語、多国籍にさらされて 彼らは生きてるもの。一人の人がダイバーシティをいっぱい持ってますよ。だから、多言語でポリグロットです よ。それは、財産ですよ。文化的財産は必ずどっかね、 経済的な幸福に、一人の栄達かその幅がひろがってく形 で結びついていくんではないのかなと期待してます。

川瀬 : エチオピアにひきつけてちょっとお話すると、みなさんもご存知の通り、この1、2年でエチオピアの政 治、経済、社会の状況はものすごいスピードで変化して います。先日アビィ・アハメド首相がノーベル平和賞を もらった話はニュースになりました。アビィが首相に就 任して間もなく、敵対してきたエリトリアのエサイアス 政権との対話の機会が頻繁に設けられ、様々な問題がものすごいスピードで解決されました。弾丸外交と言って いいのかな。そのスピードの早さは驚くべきなのですが。 「それはさておき、撮影を長時間行っていると、うまく いえないのですが、カメラを通して、私と撮影対象の相 互の存在が貫入しあっていくような、不思議な感覚にと らわれることがあります。他者としてのアフリカをまなざすということは、同時に、私とは何かということを省 察的にとらえ考えることでもあります。アビィの外交姿 勢ではありませんが、対象との切磋琢磨した対話の中に、 日本の、あるいはアフリカの、互いの魅力とは何かを考 え、引き出しあうような可能性があるんじゃないかと 思ってます。究極の正しい答えを出すことを急ぐのでは なくて、むしろ、互いに議論する場を設け、その機会を 増やすことが重要なのではないでしょうか。

鈴木:和崎先生が経済の話をして、川瀬さんが政治の話 をしたんで、私は精神世界の話をしようかと思います。 アフリカに行ってね、アフリカの人と付き合っていて一 番おもしろいのは、神を信じて、精霊を信じて、呪いを 信じてることなんです。だから、彼らと一緒に過ごす時 間は、日本人と過ごす時間とは質的に異なっている。感 発的にすごく違う。例えば、昔、グリオがですね、本巻を叩くと精霊がやってきて、隣に座って、木琴を聴いて いたと。えらいグリオじゃないとその姿が見えないとか、 そういう言葉がいっぱいありました。それがだんだん町 に明かりがついてくると、精霊がいなくなってくるんで すね。そうすると、デジタル化していったら、本当に精 霊もいなくなるんじゃないかと思いますよね。でも、私 はホラー映画が好きなんだけど『リング』だと呪いがビ デオテープで伝染するんですね。あと、『着信アリ』っていうホラー映画が一時流行ったんですけど、これは携 帯電話を通して、呪いが伝染ってくんです。だから、デ ジタル化しても大丈夫かなっていう…アフリカでデジタ ル化が進んでいったとしても、例えば、貞子のような キャラクターが生まれるようなことがあれば、デジタル 化されてもアフリカ人の精神世界は、安泰なんだろうな と思ってます。ちょっと今日はアフリカ版貞子に希望を 託して、デジタル化した後もその先にまだアフリカ人の 精神性は損なわれずにいけるような道もきっとあるんだろうなということで、観察していきたいなと思います。

サコ:ありがとうございました。和崎先生が言ってたような話で、トンチン、実は私も入ってるんですよ。いわ ゆる知らないもの同士のつながりと、一個のファミリーのつながりと実は立場が違うんですよ。トンチンに入ってでも、例えば京都に、あるいは日本に住んでいるマリ人同士、アフリカ人同士で支え合ってるんですよ。でも、 一族の話とはまた別なんですよね。これ、ダブルなんで すよ。そういう意味でこれからはもっとアフリカの多様 性というのは個人の中にもあるけど、アフリカ人同士が 混ざることによって、もっと力強くなっていく面がある かなと。この潜在力をどのように認識し、これからのア フリカをつくっていくべきかを考えていかないといけ ないと思います。今日はありがとうございました。
※本内容は、2019年1月29位に京都精華大学にて行われたシンポジウムを、編集したものです

川瀬恋(かわせいつし)
国立民族学博物館准教授。エチ オピアの楽師、吟遊詩人の人類 学研究、民族誌映画制作に取り 組む。主な著作に『ストリート の精霊たち」(世界思想社、2018 年、第6回鉄犬へテロトピア文 学賞)、『あぷりこーフィクショ ンの重奏/遍在するアフリカ」 (編著、新曜社、2019年)等。
鈴木 裕之(すずきひろゆき)
国士舘大学教授。文化人類学。 西アフリカの音楽・文学を研究。 妻はギニア出身の歌手ニャマ・ カンテ。主な著書に『ストリー トの歌:現代アフリカの若者文 化(世界思想社、2000年)、 恋する文化人類学者:結婚を 通して異文化を理解する(世 界思想社、2015年)など。

ウスビ・サコ (著), 清水貴夫 (編集)
出版社: 青幻舎 (2020/5/27)、出典:出版社HP