メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

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そもそも「善い」「悪い」とは?

「いじめは悪いこと」「友達に親切にすることは善いこと」など、私たちは日常生活において善悪についての判断をしなければならない場面が訪れる。しかし、そもそも「善い」「悪い」とは何なのか。何を判断基準にしているのか。このような観点から問題を見るメタ論理学を通して、日常生活の問題について考えている。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

目次

はじめに

I 道徳のそもそもをめぐって

第一章 メタ倫理学とは何か
1 倫理学とは何か
2 倫理学の分類
3 メタ倫理学は何の役に立つのか
4 メタ倫理学では何が問われるのか
5 本書の構成

第二章 メタ倫理学にはどんな立場があるか
1 客観主義と主観主義
2 道德的相対主義
3 客観主義と主観主義のまとめ

Ⅱ 道徳の存在をめぐって

第三章 「正しいこと」なんて存在しない――道徳の非実在論
1 道德の存在論
2 錯誤理論――道語の言説はすべて誤
3 道德の存在しない世界で
4 道德非実在論のまとめ

第四章 「正しいこと」は自然に客観的に存在する
1 実在論の考え方と二つの方向性
2 素朴な自然主義(意味論的自然主義) ――もっともシンプルな自然主義
3 還元主義的自然主義――道德を他の自然的なものに置き換える
4 非還元主義的自然主義道德は他と置き換えられない自然的なもの
5 自然主義全般の問題点
6 自然主義的実在論のまとめ

第五章 「正しいこと」は不自然であろうと存在する
1 神命説
2 強固な実在論
3 理由の実在論
4 非自然主義的実在論のまとめ

第六章 そもそも白黒つけようとしすぎじゃないのか
1 準実在論――道德は実在しないが、実在とみなして構わない
2 感受性理論――道德の実在は私たちの感受性を必要とする
3 手続き的実在論――道德は適切な手続きを通して実在する
4 静寂主義――そもそも実在は問題じゃない
5 第三の立場および第Ⅱ部のまとめ

Ⅲ 道徳の力をめぐって

第七章 道徳判断を下すとは自分の態度を表すことである――表出主義
1 道德的な問いに答えること
2 表出主義
3 表現型情緒主義道徳判断とは私たちの情緒の表現である
4 説得型情緒主義道徳判断とは説得の道具である
5 指令主義道徳判断とは勧めであり指令である
6 規範表出主義
7 表出主義のまとめ

第八章 道徳判断を下すとは事実を認知することである――認知主義
1 認知主義
2 内在主義と外在主義
3 ヒューム主義――信念と欲求は分離されねばならないか
4 認知は動機づけを与えうるか
5 道徳判断の説明のまとめ

第九章 そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか
1 Why be Moral
2 道德的に書く振る舞うべき理由などない
3 道德的に書く振る舞うべき理由はある――プリチャードのジレンマ
4 道具的価値に基づく理由
5 最終的価値に基づく理由――理性主義
6 そもそも理由なんていらなかった?――直観主義、再び
7 Why be Moral問題および第皿部のまとめ

おわりに
あとがき

文献一覧

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

はじめに

本書はメタ倫理学の入門書である。とはいえ、「メタ倫理学」という言葉など初めて聞くという人も多いかもしれない。ここでのメタというのは「後ろ」くらいの意味だ。おおざっぱに言えば、倫理について後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる、というのがメタ倫理学である。たとえば、私たちは日常的にさまざまな場面で、倫理にかかわる判断を目にしたり、実際に自分でそうした判断を下したりしている。

「友達に親切にすることは善いことだ」
「約束を自分の都合でドタキャンするのは最低だ」
「たとえ怒られるとしても、正直に真実を言うことは正しいことだ」
「お年寄りからお金をだまし取るなんて、とんでもない悪人だ」
「金持ちばかりを優遇して、貧乏人を苦しめるような法律は不正だ」
「毛皮製品をつくるために動物を殺すことは非倫理的だ」
「恋人同士の間でもプライバシーは守られるべきだ」
「昼間から働きもせずビールを飲んでいるなんて不道徳だ」
「経済発展で大きな利益が得られるのだから、多少の環境破壊は悪いことではない」
「両親に介護が必要である以上、仕事を辞めて実家に帰るべきだ」
「いじめは悪いことだ」

などなど。
普通の倫理や道徳の議論はたいてい、こうした発言に対して「どうして?」と問いかけることからはじまる。「どうしていじめは悪いことなの?」「あなたがいじめられたらどう思う?いじめられると、とても辛くて悲しいんだよ」というように。
しかし、ここで、相手がこんな風に食い下がってきたらどうだろう。
「いじめは悪いことだと言うけれど、そこで言われている悪いってそもそもどういう意味?」とか「はいはい、いじめは悪いですよ。で、そもそも悪いから何なの?」というように。
そんな風に言われたら、私たちはどう答えられるだろうか。こうした問いは、「いじめは善いことか、悪いことか」という具体的な問いから一歩後ろに下がって、「そもそも善いとは、悪いとはどういう意味か。なぜ善いことをしなければならないのか、なぜ悪いことをしてはいけないのか」ということを考えるものだ。あるいはもっと遡って、「そもそも、何が善いことで何が悪いことなんて、本当に決められるの?」「善いこと悪いことなんて人それぞれじゃないの?」などという問いもありうる。
おそらく、人によっては、そんなこと考えたこともない、考える方がおかしいと思うかもしれない。悪いことをしてはいけないのは当たり前だし、詐欺犯が悪人なのも当たり前だ。しかし、現に世の中にはいじめも、詐欺も存在している。彼らはそれらが悪いことだとわかっていないのだろうか。それとも悪いとわかっていてやっているのだろうか。悪いとわかっているのなら、どうして彼らはそんなことをするのだろうか。こうしたことを考えるためには、悪いことをしてはいけないのはなぜ、どういう意味で当たり前なのか、ということを問う必要がある。そして、そうした問題を扱うのが、メタ倫理学だ。そのため、本書は倫理学を扱う著作ではあるが、「いじめは悪いことだからやめよう」などの直接的な主張を行うものではない。代わりに、本書で扱う問題は以下のようなものである。

「善・悪、正・不正、~すべき、などといった倫理にかかわる言葉は、本当はいったい何を意味しているのだろうか」
「「これは善いことなのだろうか」とか「これは間違ったことなのだろうか」「私はどうすべきなのだろうか」のような倫理や道徳の問いに正しい答えはあるのだろうか」
「正しい答えがあるとすれば、それはどうすればわかるのだろうか」
「正しい答えがあるとすれば、それはすべての人にあてはまる唯一絶対のものだろうか。それとも文化や社会ごとの ものだろうか。あるいは答えは人それぞれの心の中にあるようなものだろうか」
「正しい答えがないとすれば、それでも道徳や倫理は私たちにとって大事なものであり続けるだろうか」
「そもそも、道徳や倫理はそんなに大事だろうか」
「悪いことや、不正なことはなぜしてはいけないのだろうか」
「倫理的、道徳的な判断と他の判断の違いは何だろうか」
「倫理や道徳は科学によって説明ができるようなものだろうか」
「倫理や道徳について述べたり、書いたりすることにはどんな意味があるのだろうか」

本書ではこのような問いを考えていくことで、倫理や道徳の問題について悩み、葛藤し、答えを求めて議論し、選択し、決断する、私たちの道徳的な営みを、一歩下がったところから、検討していく。そして、単に「当たり前」で済ませられないような倫理的な問題に現実に直面したときに、少し立ち止まって考えるヒントを伝えようとするものである。
本書は三部構成となっている。第1部ではメタ倫理学とはどういうことを考えるものかとか、倫理や道徳は人それぞれのものかといった基礎的な事柄を確認する。第1部では具体的なメタ倫理学の議論として、道徳的な問いには答えがあるのだろうか、ということを検討していく。第Ⅲ部では、道徳的な判断を下すことや道徳について考えることがもつ意味の検討を手がかりに、最終的に、私たちは本当に道徳的に正しい仕方で振る舞わねばならないのか、どうして悪を避けて善いことをしなければならないのかを考える。
様々な議論を紹介していくにあたり、本書は入門書ということで、可能な限り、倫理学についての予備知識がなくとも理解できるような書き方を心がけた。特に哲学・倫理学における専門用語については、その都度の解説を行った。それでも、議論の運びなどに関して、ところどころやや難しく感じられる箇所もあるかもしれない。それについては、一度ではわからなくても諦めずに、二度、三度読んでもらえると、おそらくだいたいの意味はわかるものと思うので、粘り強くお付き合いいただけるとありがたい。
また、登場する様々な論点について、基本的に、肯定的な意見と否定的な意見の両方を取りあげた。その際、本文中では、必ずしも、この立場は正しい、この考え方は正しくないといった結論は下していない。そのため、読者によっては、結局、どっちなのだという不満を覚える人や、むしろ自分の今までの考え方が揺さぶられてもやもやするという人もいるかもしれない。しかし、(メタに限らず)倫理学を学ぶということは、そういうことである。倫理とは私たちの真剣な生 き方を問うものであり、そうである以上、その答えは簡単には手に入らない。誰の人生だってそんなに単純なものではないのだ。
とはいえ、悲嘆する必要はない。自分がこれまで当たり前だと思っていたことは本当は自明ではないのかもしれないと気づくこと、自分とは違う立場の人も様々な理由があってそう考えているんだと知ること、こうした営みは、私たちの中の凝り固まった偏見や先入観を打ち破ってくれる。そうやって考え方の幅を広げることは、生き方の幅を広げること、今の生き方だけに縛られない、別の生き方も可能なんだと気づくことにもつながりうるだろう。そして、そのようにして得た広い視野は、いろいろな「当たり前」に縛られた私たちの生を少しだけ楽にしてくれるかもしれない。本書を手掛かりにして読者のそれぞれが「そもそも……」と問いを発することで、自分の倫理についての考え方を問い直し、自分なりの倫理の捉え方を探究してもらえれば幸いである。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP

I 道徳のそもそもをめぐって

第一章 メタ倫理学とは何か

1 倫理学とは何か

私たちは日々の暮らしの中で、倫理、道徳にかかわる様々な問題に出会う。それは嘘をついたり悪口を言ったりしてもいいか、友人の不正を見逃すべきかなどのやや個人的なものから、医療資源の配分や差別にかかわるものなどの公的なもの、そして戦争犯罪、宇宙開発の公正さなどのスケールが大きなものまで多岐にわたる。
そうした倫理や道徳にかかわる様々な事柄を、学問として考えていくのが倫理学だ。

学問というと大仰に聞こえるかもしれない。しかし、要するに、問題を整理して、なぜそうなっているのかを考え、必要な論拠を提示しながら、倫理とは何なのかを誰にでもわかるようにしていくことであり、それを通じて、倫理にかかわる問題を解きほぐしていく作業である。たとえば、次のような場面を考えてみよう。
ある小学生が交通事故に遭って頭部を強く打ち、意識不明となる。医師はいわゆる脳死状態という診断を下した。嘆き悲しむ家族に対し、医師は臓器提供についての説明を行う。臓器提供を行えば、心臓病などで苦しむ他の子どもたちを救うことができる。だが、家族の目の前でベッドに横たわる子どもの身体はまだ暖かく、今にも目を開けてくれそうだ。この子の身体にメスを入れるなんて耐えられない、でも、この気持ちを優先させることは自分のことしか考えていない、利己的だと批判されるかもしれない、いや、批判されることを恐れて提供を申し出るなんて、それこそ非倫理的じゃないか、と家族は煩悶する。

家族はいったいどうすべきだろうか。
現在の臓器の移植に関する法律では、本人が拒否していない場合、家族の同意によって臓器の提供が可能である。そのため、子どもの意思が不明であるなら、決定は遺された家族に委ねられることになる。
このような難しい状況について、倫理学は様々な角度から分析を加える。たとえば、このケースで考慮しなければいけない要素は何だろうか。他の子どもたちの幸福は言うまでもないだろう。だが、家族自身の気持ちはどうだろうか。医師や看護師などの医療関係者たちの気持ちはどうだろうか。

あるいは、父親はふと、以前、臓器移植について話した際に、子どもが臓器提供を拒否するようなことを言っていたことを思い出すかもしれない。しかし、そのことを知っているのは父親だけなので、黙って提供の承諾書にサインすることもできる。実際、子どもは臓器移植についてよくわからないままで、あるいは辛い境遇にある他の子どものことを十分に想像することなく、ただなんとなくのイメージで拒否の意志を示していたのかもしれない。そんな場合でも、真実を告げることは正しいことだろうか。
こうした問題に答えを出すためには、実際に家族がどう思っているかなどの事実だけでなく、そもそも死とは何か、幸福とは何かについても考えていかなければならない。あるいは、子どもには判断能力があるのか、そもそもどのようなことがわかっていれば、まっとうな判断と認められるのか、などのことも考える必要があるかもしれない。そして、もっと言えば、「正しい」とはどういうことなのだろうか、ということすら問題になるだろう。ここで求められているのは「正しい選択」なのだろうか。私たちはとかく「正論」を嫌いがちである。私たちは「正しいこと」と自分の気持ちがぶつかった場合に、「正しいこと」の方をしなければならないのだろうか。

いずれにしても現実では、限られた時間の中で家族が自ら、何らかの答えを出さなくてはならない。倫理学はそのときに彼らが少しでも後悔の少ない選択をできるように様々な考え方を提案したり、法制度の設計に関して助言を提供したりしている。
このような倫理をめぐる様々な問題に対して、哲学や数学、論理学を活用するのに加えて、心理学、社会学や生物学、果ては医学などあらゆる分野の知識を総動員して答えようとしているのが、倫理学という学問である。そして究極的には、倫理学は「人はいかに生きるべきか」という問いに答えを出そうとしている。

2 倫理学の分類

倫理学はおおよそ三つの分野から成り立つとされている。規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学の三つだ。これらの区別や相互の関係は必ずしも明確なものではなく、重複している部分もあって、なかなか厄介なものではあるのだが、それがどんな問いに答えようとしているのかを見ることで、大まかな違いは理解することができる。まずは以下で、順に見てみよう。

規範倫理学と応用倫理学

まず、規範倫理学というのは、一般的には「私たちは何をすべきで、何をしてはいけないか」「私たちはどんな人になって、どんな風に生きたらいいか」などの問いに答えることを通じて、倫理的に目指すべき振る舞い、生き方を考える学問である。代表的な理論には、もっとも多くの人をもっとも幸福にすることが正しいことであると考える功利主義、私たちに課された様々な義務や責務をしっかりと果たしていくことが私たちのなすべきことであると考える義務論、親切・優しい・勇敢などの優れた性格を身につけて生きることが大切だと考える徳倫理学などがある。

次に、応用倫理学とは、規範倫理学の考え方を基礎として、「現実のこの場面で私たちは何をすればいいのか」「この実社会においてこのような職業にある私たちはどんな風に生きたらいいのか」など、現実に私たちが直面している問題を考える学問である。先述した臓器移植の問題などを含む私たちの誕生や死にかかわる問題を考える生命倫理学、環境問題を中心として人間と自然、動物との関係などを考える環境倫理学、プライバシーの問題や情報の共有、医療情報の扱いなどを考える情報倫理学、エンジニアや科学者、医師などの専門的技能をもった人たちがとるべき振る舞いを考える専門職倫理学などがある。たとえば、生命倫理学の研究者は、医師や看護師などの医療従事者らと協力しながら、実際の医療現場で、どうすれば患者や家族が幸福に過ごすことができるかを考えたり、あるいは法律家や政治家らと議論して、先に挙げた脳死臓器移植などにかかわる法制度の在り方などを探究したりしている。

規範倫理学と応用倫理学の関係は、たとえば物理学と工学の関係と似ている。物理学は様々な物体の性質や働きなどを解明し、工学は物理学の成果を利用して実際に工業製品を作り出す。同様に、規範倫理学は正しいこととは何かを探究し、応用倫理学は実際の現場で正しいことが行われるように助言や提言を試みる。この二つの営みは倫理学の両輪となっている。現場で応用できないような理論は机上の空論となって役に立たないし、基礎理論を欠いた応用は浅薄で場当たり的なものになってしまう。

メタ倫理学

では、最後に残った、メタ倫理学とは何だろうか。メタというのは、もともとギリシア語で「後ろ(deta)」という意味である。ここでは、まずは規範倫理学や応用倫理学を一歩後ろから眺める学問くらいのものだと思ってもらいたい。後ろから眺めて、それらが前提としていることを、本当にそうなのかな、そもそもそれってどういう意味なんだろう、と問うてみるのがメタ倫理学の役割である。

先ほどの物理学と工学のたとえを思い出してみよう。たとえば熱力学の研究をする物理学者は様々な実験をしたり、理論を組み立てたりして、物体の間で熱が伝わり運動を生み出す仕組みを解明する。そして、工学者はその成果を応用して冷蔵庫や車のエンジンを設計したりする。このとき、当たり前のことだが、彼らは基本的に物体が存在することを前提としている。

しかし、そもそも私たちの目の前にある物が本当に存在している、ということはどうして言えるのだろうか。確かに、私が今読んでいるこの本は目に見える。だが、目に見えることが存在の規準であれば、各種の気体は存在していないことになる。しかも、目に見えたとしても、それは幻覚かもしれないし、私は夢を見ているのかもしれない。古来、形而上学や存在論、認識論と言われる哲学の分野ではこうした物理学などの自然科学が当たり前のこととして前提にしていることを、一歩下がって、後ろから本当に正しいことだろうかと問うてきた。

倫理学についても同じようなことが当てはまる。規範倫理学や応用倫理学は基本的には、何らかの意味で、正しいことやなすべきことがある、という前提でその探究を行ってきた。さらに、なすべき正しいことがわかれば、それが推奨され、行われるはずであり、逆になされるべきではない不正なことがわかれば、それは避けられるはずであると考えてきた。研究者たちは、それらの前提に基づいて、主に「(この場面で)正しいこととは何か」という問いに答えようとして、規範倫理学においては「最大多数の最大幸福を実現することだ」「義務をしっかりと果たすことだ」などと論じ、応用倫理学においては「インフォームドコンセントをしっかりと得て、患者の希望を可能な限り叶えることだ」「動物が感 じる苦痛にも十分に配慮した畜産施設を作ることだ」などと論じてきた。そして、実際に様々な専門家が守らねばならない倫理綱領などの策定に従事してきた。

しかし、メタ倫理学においては、そもそも規範倫理学が前提としている様々なことが疑問に付される。たとえば「正しいこと」など本当に存在するのだろうか、そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか、私たちはなぜ「正しいこと」をしなければならないのだろうか、などである。

もちろん、そんなことを考える必要はあるのか、と疑問に思う人もいるだろう。冷蔵庫が現実に存在しているかどうかを私たちが疑わねばならないような場面は想像しがたいように思える。同じように、正しいこと、やってはいけないことが世の中に存在することも明らかではないか、と。しかしながら、よくよく振り返ってみると、私たちは意外と日常的にメタ倫理学的な観点から物事を考えている。たとえば、最初に挙げた臓器移植の事例を思い返してみてほしい。当該箇所 を読んだとき、次のようなことを思った人はいないだろうか。

「そもそも倫理なんて人それぞれだから、臓器移植をすべきかどうかなんて問題に正解はないんじゃないの?」
「利己的に振る舞うことはよくないことだって言うけど、そもそも人間の行動なんて全部利己心に基づいていると思うな」
「そもそも非倫理的とか、そんなことはどうでもよくない?この場合に大事なのは、結局、自分がどうしたいかでしょう」
こうした問いかけは、何が正しいことか、どうすれば正しいことができるかを問う規範倫理学や応用倫理学の前提そのものに疑問を投げかけている。そしてこのような「そもそも」を冠する問いかけこそが、メタ倫理学の扱う問いである。

佐藤 岳詩 (著)
出版社: 勁草書房 (2017/8/31)、出典:出版社HP