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6つの切り口からキリスト教を理解できる
キリスト教は、多数の書物が存在することでたくさんの解釈が生まれている宗教です。そこで、本書では、聖書や神学・哲学から文学に及ぶ様々なジャンルの書物を引用し、その解釈について著者2人が討論するという形式になっています。キリスト教についてより理解を深めたいという方におすすめの一冊です。
目次
まえがき 山本芳久
序章 キリスト教とは何か
キリスト教の奇妙さ、難解さ
カトリックであるということ
近代日本の神学者・哲学者
日本におけるトマス・アクィナス
第1章 愛
自己愛が隣人愛の基盤である
愛はどこから生まれるのか
無名のキリスト者
緊密で調和的な個のあり方
「与える愛」と「求める愛」
エロースとアガベー
愛は概念化を拒むものである
恋愛はキリスト教的な愛なのか
家族愛と友愛の概念の広がり
家族愛をめぐって
トマスの中庸な愛の理解
友愛をめぐる二つのテクスト
修道会の中から生まれた友愛の概念
第2章 神秘
キリスト教における神秘とは何か
「受肉の神秘」とは何か
イエスとキリストの関係
信仰はどこから来るのか
「恩寵」はすべての人に及ぶのか
聖書の中における「神秘」
神の名前こそが神秘である
失われた死者と天使
天使的経験とは
天使のいる世界、天使を取り戻すために
祈りを取り戻す
第3章 言葉
初めに言葉があった
「肉」とは何か
ギリシア語において「言葉」を理解する
神の口から出るすべての言葉
大文字の言葉と小文字の言葉
聖書は未完の書物である
聖書とコーランは異なるもの
第4章 歴史
旧約聖書をどう読むか
新約聖書に旧約聖書を読む鍵がある
新約聖書優位の理由は何か
祈りという問題
自己の探求が神の探求につながる
アウグスティヌス『神の国』に書かれる歴史の秩序
日本人とキリスト教
キリストの復活とは何か
第5章 悪
「悪は善の欠如である」
悪とは聖なるものの破壊である
個であること、人間の主体が何かを見つめる
異質なものを認める原理
悪はどのように生まれるのか
悪なるものと聖なるものとの関係
悪は聖なるものを恐れている
日本におけるキリスト教的な言葉の貧しさ
悪を見抜くことができるか
第6章 聖性
聖なるものを考える
再び「理性」と「神秘」を考える
悪とどうやって闘うか――貧しさを取り戻す
聖なる探求とは古典を読むことである
聖なるものとは美である
あとがき 若松英輔
ブックリスト
キリスト教講義
まえがき――「言葉」と出会う、「神」と出会う
山本芳久
ィエス・キリストは、一冊の書物も書き残すことなく、十字架上で短い生涯を終えました。新約聖書は、「イエスが書いた書物」ではなく、「イエスについて書かれた書物」です。イエスについて書かれた書物は、新約聖書のみではありません。神学・哲学から文学や史学に及ぶまで、実に様々なことがらが、イエスとキリスト教について語られてきました。日本語で読めるものだけに限定しても、一人の人が一生をかけても読みきれないほどのキリスト教に関する書物が既に刊行されています。このように多数の書物が存在していることによって、わたしたちは実に多くのことがらを、イエスについて、そしてキリスト教について知ることができます。
ですが、実はそこには落とし穴もあります。あまりにも多くの書物が存在することによって、どの書物から手をつけたらよいのか、どの本に書かれていることを信頼すればよいのか、特別な知識を持たない読者にとっては、判断することがとても困難になっているからです。
キリスト教の教えは、それを必要とする人に充分に届けられていないのではないか。信仰の有無にかかわらず、日本人のキリスト教理解は、あまりにも一面的なものに留まり続けているのではないか。これまでの紹介のされ方とは角度を変えてキリスト教について語りなおしてみれば、キリスト教の存在意義が、より多くの人に伝わりやすくなるのではないか。若松英輔さんと私は、長らくそのような思いを共にしてきました。いっそのこと、わたしたち自身が、キリスト教について語りなおす書籍を公刊するのが最善の道なのではないか。そのような思いが形をとったのが『キリスト教講義』です。
私が若松さんと出会ったのは、キリスト教の日本における「文化内開花」を目指して活動を行っていた井上洋治神父が主宰していた「風の家」というカトリック教会内の一運動においてでした。今からおよそ四半世紀前のことです。今回、対談のために費やした時間は、さほど長いものではありません。ですが、この本のなかには、四半世紀にわたって積み重ねてきた二人の持続的な対話のエッセンスが、凝縮して表現されています。
本書は、『キリスト教入門』でもなければ、『キリスト教概論』でもありません。キリスト教についての入門書や概説書であれば、キリスト教の教義や、二千年に及ぶキリスト教の歴史など、多くの基本的なことがらを、順序立てて体系的に説明するという作業が必要になるはずですが、本書はそのようなことを目的とした書籍ではありません。
今回の対談の大きな特徴の一つは、聖書や神学・哲学から文学に及ぶ様々なジャンルの書物からの引用が数多く含まれていることです。わたしたち二人の声のみではなく、キリスト教について語る多様な著者の声が共鳴することによって、より豊かな言語宇宙の広がりが生まれてくればと思い、対談に際して、毎回、キリスト教について語るための糸口になりそうなテクストをお互いに準備し、対談の場に持参しました。キリスト教に関するかなりの数の書物を読み続けてきた若松さんと私の、数十年間にわたる読書経験のエッセンスが、『キリスト教講義』には含まれています。アウグスティヌスやトマス・アクィナスから須賀敦子にまで及ぶこれらの多彩なテクストによって我々の対話に力が与えられたとも言えますし、我々の対話を通じて、これらのテクストに新たな生命が吹き込まれたとも言えると思います。
キリストは、人々の心を強く動かす言葉を語る力を有する人物でした。キリストの語った言葉という種は、二千年の歴史のなかで数え切れないほど多くの巨木へと育ち、今も人々を神との出会いへと導き続けています。キリストの語った言葉が種となり、アウグスティヌスの『告白』やトマス・アクィナスの『神学大全』といった巨木へと育っていったのです。
数々の巨木を生んだキリスト教の歴史は、引用すべき多様なテクストに充ち満ちています。そのなかには、未だ日本語訳されていないものも多数含まれています。ですが、今回の対談では、邦訳が刊行されている書籍を厳選して、対話の糸口にすることにしました。また、既存の訳をそのまま用いずに訳しなおした部分もありますが、基本的には、既存の訳を使用し、その書誌情報も本文のなかに入れました。引用文を読んで興味を抱いた読者が、引用元の書籍に直接手を伸ばすのが容易になるようにとの配慮からです。
本書におけるキリスト教の取り上げ方のなかには、従来のものとは異なる数々の斬新で挑発的な観点が含まれているかもしれません。ですが、わたしたちは、殊更に新奇なことを述べようとしたわけではありません。むしろ、聖書をはじめとしたキリスト教の古典の伝統へと深く沈潜し、丁寧に読み解くことを試みました。そのことによってこそ、手垢のついた通俗的なキリスト教理解を相対化する観点を提示することができると考えたからです。
キリスト教は意外と面白いのではないか。キリスト教は単なる過去の遺物ではなく現代においても知的刺激をもたらしてくれるものなのではないか。自分が漠然と求めていたものは実はキリスト教のうちに見出すことができるのではないか。そのように感じ取っていただける読者が一人でも多く出てきてくだされば、それ以上に嬉しいことはありません。
凡例
(1)本書における様々な書物からの引用に関しては、各引用文の最後にその出典と頁数を明記した。
(2)引用に際して、既存の翻訳を使用せずに訳しなおした場合には、「若松英輔訳」「山本芳久訳」と明記した。
(3)聖書からの引用に関しては、若松は「フランシスコ会聖書研究所訳」を、山本は「新共同訳」を使用した。あえて統一することはせず、対談の場にそれぞれが持参し読み上げたままの臨場感を生かすことを優先させた。
(4)引用にさいしては、表記などに関して部分的に変更した箇所がある。
(5)引用者による省略は「[中略]」で記した。
(6)〔 〕内は、引用者による補いである。