ワークマンは 商品を変えずに売り方を変えただけで なぜ2倍売れたのか

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ワークマン初のビジネス書

作業服専門店であるワークマンは、商品を変えずに「売り方」を変えることで売り上げを2倍に伸ばしました。国内店舗数もコスパもユニクロに勝るワークマン、そんなアパレル史上に残る革命の背景について学べます。

はじめに ワークマンとは何者か

アパレル界に革命、作業服専門店が一夜でアウトドアショップに

「企業には歴史がある。歴史にはスタートがある。往々にして、企業の個性はどういうスタートを切ったかによって作られる」
1989年。昭和の終わりに、こんな書き出しで始まる一片の文書が編まれた。タイトルは「ワークマンものがたり」。作業服専門店として知られるワークマンが100店舗達成を記念し、この先「500店舗、1000店舗と発展して行ったときにも創業時の精神を振り返るひとつの記録」となるようにまとめたという、門外不出の社内報である。
当時から30年が過ぎた。平成が終わり、令和が幕を開けた。ワークマンの国内店舗数は500どころか、2020年5月末で869まで拡大。あのユニクロを抜き去り、1000店舗体制も視野に入った。店舗数だけではない。売上高を見ると、その急成長ぶりは抜きんでている。強烈な逆風が吹いていたにもかかわらずである。


2018年9月に誕生した新業態「ワークマンプラス」の1号店。売り場の見せ方を変えるだけで、アウトドアショップに変貌した

19年10月、消費税率が8%から10%に引き上げられた。ワークマンは真っ先に「価格据え置き」を宣言し、実質値下げに動いた。既存店売上高は20年3月まで17カ月連続で前年比2桁成長を継続。20年3月期のチェーン全店売上高は1220億円と、創業以来、初めて1000億円の大台に乗った。新型コロナウイルスが列島を直撃し、アパレル企業が総崩れとなる中、ワークマンだけは順調に収益を積み上げている。なぜ、ワークマンは強いのか。それは、ファンの期待を決して裏切らない経営にある。

「行こうみんなでワークマン」の時代

ワークマンと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。歌手・吉幾三を起用したテレビCMを挙げる人は、意外に多いかもしれない。家族のために働く男(=ワークマン)の日常を、情感たっぷりに歌い上げたCMソングは、世のお父さんの心を打った。
「お前とあの時 出逢ったあの日 季節は春先 ちっちゃな町で 広がる未来と 夢にあこがれて 汗拭き 川沿い ひとり走ってた この町で暮らそう 君が住む町で 行こうみんなで 『ワークマン』」
「どしゃ降り 晴れの日 人生の天気 なんとかなるさと 十年たった 子供の寝顔に 夢が溢れてる 泪(なみだ)を拭く時 パパがそばに居る この町で暮らそう 家族住む町で 行こうみんなで 『ワークマン』」
「愛する家族と 酒飲み友人(とも)と 明日を語れば 更け行く夜も ふるさと話に 子供の頃を 想えば少しは がんばれるはずサ この町で暮らそう みんな住む町で 行こうみんなで 『ワークマン』」

ワークマンの名を世に知らしめたテレビCM。吉幾三(写真中央)は1987年9月から実に30年近くにわたって「ワークマンの顔」として出演を続けた

雨にも負けず、風にも負けず、来る日も来る日も現場に出続ける職人にとって、安くて丈夫なワークマンの作業服は、人生のよきパートナーであり続けた。
そのワークマンが、装いを新たにしたのは2年前だった。18年9月5日。東京都立川市のショッピングモール「ららぽーと立川立飛」に、新業態「ワークマンプラス」を出店した。それは、日本のアパレル史上に残る革命だった。作業服専門店が一夜にして、アウトドアショップへと変貌を遂げたのだから。マネキンやポップを多用した店構えは「本当にあのワークマンなのか」と目を疑うほど洗練されていた。これまでワークマンに見向きもしなかった一般客が、初めてワークマンという存在を「発見」した瞬間だった。
ここから、ワークマンは怒濤の進撃を始める。店先には連日、入店制限をかけるほどの行列が延び、初年度売り上げ目標をわずか3カ月で達成した。それだけではない。ワークマンプラスが広告塔となり、既存のワークマンにも新規客がなだれ込んだ。19年8月には既存店売上高が前年比154.7%と驚異的な伸びを刻み、その後も勢いは衰えない。「歴史が変わった」。古参社員が、思わずそううなるほどのうねりが列島中を駆け抜けた。
ワークマンプラスを見たとき、誰もがこう思っただろう。ワークマンが、カジュアルウエアの新ブランドを開発した。ワークマンプラスという全く新しい店をオープンしたのだと。実際に、あまりのイメチェンぶりに、昔からのファンは衝撃を受けた。「悲報!俺たちのワークマンはどこに行った」というつぶやきがネット上に飛び交った。しかし、そうではなかった。並んでいる商品は、すべて既存のワークマンで扱っているアイテムだった。
そう、これは壮大な実験だったのだ。ワークマンプラスは、ワークマンが扱う1700アイテムに及ぶ膨大な商品群から、アウトドアウエアやスポーツウエア、レインスーツなど、一般受けするだろうと見た320アイテムを切り出したにすぎない。そのうえで、マネキンや什器を入れ、照明や内外装、陳列方法を思い切って変えた。つまり、ワークマンとワークマンプラスは同じ商品を扱う”同一店”だったのだ。


作業服や安全靴などをぎっしりと並べた、ザ・職人向けの店づくり。実は、街着としても使えるデザインの高機能ウエアを少しずつ増やしていた
従来のワークマンからカジュアルウエアを切り出した新業態店。内外装やロゴ、陳列方法を刷新し、マネキンを入れるなどアウトドアショップ化を試みた

しかし、それだけで売り上げは爆発した。ワークマンプラスの売上高は、既存店平均の2倍に急伸。まさに商品を変えずに売り方を変えただけで2倍売れたのだ。男性の職人中心だった客層は一変し、今やショッピングモール内のワークマンプラスは、女性客が半数を超える。「ワークマン女子」という言葉まで生まれ、SNSでは「#ワークマン」をつけたつぶやきが日々増殖している。
19年には、モーニング娘。が全身ワークマンコーデに変身し、新曲「人生B1ues」のミュージックビデオを撮影した。
「人生ってなんとも無理な場面からなんとかするからなんとかなる」。サビでそう歌う曲は、吉幾三とは別の意味で人生の応援歌として胸に迫って来るものがある。9代目リーダーの譜久村聖は自身のブログでこうつづった。「ワークマン=作業着は、もう違うみたいですよ!」。おじさんから、アイドル、ファミリーまで、まさに「行こうみんなで『ワークマン』」という世界が、本当に押し寄せたのだ。
新型コロナウイルスが猛威を振るい、見えない脅威に世界は翻弄されている。不透明な時代だからこそ、我々が今、ワークマンから学ぶことは多い。なぜなら、ワークマンは、このワークマンプラス誕生のはるか前から、時代を先読みし、進化を重ねてきたからだ。

16坪、14坪で実験を重ね、3号店で「標準化」

ワークマンは1980年9月30日、群馬県伊勢崎市昭和町に「職人の店・ワークマン」として産声を上げた。店名の通り、ザ・作業服の専門店である。1号店は、わずか16坪(3平方メートル)の極小店舗だった。商品が思うように集まらず、作業ズボンに、肌着、靴、軍手、軍足で厚みをつけた程度。作業服専門店をうたうにはかなり不十分で、流通関係者から、品ぞろえの貧弱ぶりを、よくからかわれたという。いざ仕入れを要請しても、「そのような商品はない」と門前払いを受けることはしょっちゅうだった。
その半年後、群馬県大間々町(現在のみどり市)に開業した2号店は、1号店以上に極小だった。普通の住宅を改装した14坪(北平方メートル)の売り場。節約、節約でスタートし、品ぞろえには悪戦苦闘したものの、幸い売れ行きだけは好調だった。82年4月、ワークマンは満を持して埼玉県深谷市に40坪(132平方メートル)の店を出し、埼玉に進出する。驚くべきは、この3号店から100店舗チェーンになることを見越し、店のサイズや棚割りまでこと細かくマニュアル化する「店舗の標準化」に踏み切っていたのだ。
「1、2号店とも非常にいい業績を上げていた。しかし、1号店では業績はともかくとしてまだ商品管理などのノウハウがつかめず、先が読み切れないところがあった。2号店をオープンさせ、1号店で学んだものを実施してみてうまく軌道に乗った。これでいけるな、という自信がついた。3号店まで、時間がかかったのは、標準化するために準備を進めていたからだ」
ワークマンの創業者である土屋嘉雄氏(2019年9月まで会長を歴任)は「ワークマンものがたり」の中で、当時をこう振り返っている。つまり、このときから、店を出すたびに、実験を重ねていた。ワークマンプラスと同じ手法を、当時から実践していたのだ。


「職人の店」を掲げてオープンしたワークマンの1号店。16坪の極小店舗で、当時はロゴも青と赤がイメージカラーだった。

1、2号店は経営委託方式で出店し、3号店で今に続くフランチャイズ(FC)システムを導入した。米国の流通制度を視察し、FCシステムこそが今後の小売業界の主流になると読んだからだ。
「小売業は地域密着が大原則。したがって、地域のことを最もよく知っている地元の人が運営していくのが、一番いい。地元の人が持つ地域密着のノウハウと、ワークマンの持つ経営ノウハウが一体となるシステムが、FCシステム。小売業の理想的なシステムといっても過言ではない」(土屋氏)
現在、ワークマンの店舗のお%以上はFCで成り立っている。その礎は10年近く前に完成していたことになる。

始まりは、スタートアップのように

ワークマンの源流は、1959年、群馬県伊勢崎市に創業した「いせや」という衣料品専門店にある。この名前にピンと来る人は少ないかもしれないが、このいせやこそ、現在のベイシアグループの前身である。
|ベイシアグループは、スーパーマーケット「ベイシア」を筆頭に、ホームセンターの「カインズ」、そしてワークマン、コンビニエンスストア運営の「セーブオン」、家電量販店の「ベイシア電器」、カー用品店の「オートアールズ」という物販チェーン6社を中心に計3社で構成する。その総売上高は9435億円(2020年2月末時点)と、1兆円が目前に迫る一大流通企業グループだ。これを一代で築き上げたのが、土屋氏である。特筆すべきは、創業以来、吸収や合併を一切せずにここまで成長してきた点にある。
ワークマンは、そのいせやの新規事業として、まさにスタートアップのように立ち上がった。きっかけは、関西に大繁盛しているワーキングウエアの専門店があるらしい、という情報を聞きつけたこと。土屋氏はすぐさま営業部長に調査を命じ、第2陣、3陣と視察チームを送り込んだ。1980年6月8日、新業態に向けたプロジェクトが立ち上がり、その3カ月後には1号店の開設に踏み切った。
「創業の地」に選んだのは、いせやの地元伊勢崎市。ネーミングは当時の販売本部長が考えた。自信があったため、複数候補がある中で一番上にワークマンと書き、決裁をもらいに行った。この作戦が功を奏したのか、土屋氏も「これがいい」と即決したという。
「働く人、職人だから、ワークマンがいいんじゃないかと、案外簡単に決めた。響きから言うと、衣料品の名前には『ン』がつくのが多い。私は、化学繊維の素材名を頭に思い浮かべた。『レイヨン』『テトロン』『ナイロン』など。いせやは衣料品からスタートしているので、衣料品の名前は聞きなれているし、覚えやすい」(土屋氏)
ちなみに名づけ親となった販売本部長は、薬の名前を連想したという。
「薬で売れている商品は『ン』がつくのが多い。『アリナミン』『パンビタン』『パンシロン』『リポビタン』……『ワークマン』もそうだったのでいいなと気に入った」
とにもかくにも口にしたときの響きが決め手となり、ワークマンは船出した。2年後の82年8月19日には「株式会社ワークマン」として、いせや初の分社、独立企業となる。このとき、土屋氏はこう語っている。
「経営者の育成ということが、第一の目的。それには分社して経営を任せていくほうがいい。いせやも、これから大きくなっていくためには、経営者を育てていかなければならない。人を育てるにあたって、松下幸之助氏も言っているが、1000億円の企業を経営できる人材を育てるのは難しいが100億円の企業を経営できる人を10人育てることはあまり難しくない。いせやも積極的に分社化し、経営者を育てていく時期に入ったと考えた」
新会社設立から3カ月後、埼玉県寄居町に10号店がオープンした。と同時に、店舗面積を60坪(198平方メートル)にスケールアップした。「小売業の場合は、常識的に考えた大きさよりも、一段大きくしたほうがいい結果を出す。これは、これまでの私の経験から言える。これに対してフードサービスの場合は、一段小さくしたほうがいい」(土屋氏)。
やはり、経験に基づいて、試行錯誤を重ねていたのだ。83年7月には月商1億円を達成する。ところが、順風満帆に見えた83年4月1日、土屋氏はあっさりと代表権のない会長になり、児島尉公氏が社長に就任する。「経営者育成」を有言実行すると同時に、本部ビルの建設に着手した。いせやの傘を外れ、ワークマンは完全に独自の歴史を歩み始めた。


「ワークマンものがたり」の挿絵から

「私はまだ、時期尚早ではないかとずいぶんためらった。しかし、土屋会長から『いせやの中に間借りをしていたのでは結局、いつまで立っても自主独立の精神が育たない。自分の本部を持つことが取引先やオーナー、パートナーへの信用力を高めることになり、発展のベースになるのだから』と説得され、建設に踏み切った」と児島氏は述懐する。
84年3月にはワークマン専任のバイヤーが誕生し、独自の仕入れルートを確立した。結果的に本社ビルの建設で信用力が増し、加盟店のオーナーからも「この事業に命を懸けている」ことが伝わったという。FC展開は軌道に乗り、1号店開設から7年半後の88年3月25日、山形県酒田市への出店で100店舗を達成。押しも押されもせぬ、業界のリーディングカンパニーになっていた。
「企業には歴史がある。歴史にはスタートがある。往々にして、企業の個性はどういうスタートを切ったかによって作られる」
この書き出しに照らせば、ワークマンは極めて戦略的に事業を立ち上げ、時代を読んで着実に手を打ち、ファンを広げてきたことが分かる。それは、バブル崩壊も平成不況も物ともせず、一切の企業再編を伴わず、独立経営で成長してきたことで証明されている。
だからこそ、この会社には、激動の時代を生き抜くヒントが詰まっている。2020年、ワークマンは創業40周年を迎えた。円熟期に差し掛かってなお、ワークマンから飛び出るアイデアはスタートアップのように生き生きとしている。創業の精神を受け継ぎ、あっと驚く手法で、ワークマンを時代の最先端に押し上げた男がいる。そう、彼こそがワークマンを変えた男。「ワークマンものがたり」の続きを、次章以降で、ひもといていきたい。

目次

はじめに ワークマンとは何者か
アパレル界に革命作業服専門店が一夜でアウトドアショップに

第1章 ワークマンを変えた男
「ユニクロ、ニトリを目指せ」
ついに見つけた4000億円の鉱脈
商社出身の「ジャングルファイター」
群馬から全国へ、目覚めた素養

第2章 大躍進の裏に「データ経営」あり
全社員がエクセルの達人
ワンタッチで「仕入れ完全自動化」
出店も加盟店募集も「ABテスト」
日本初「善意型サプライチェーン」の革命

第3章 ものづくりは売価から決める
打倒Amazon!「原価率65%」への執念
1900円で”弾む”厚底?値札を見ずに買える靴

第4章 ファンの「辛辣な文句」は全部のむ
バイク乗りの声がワークマンを変えた
インフルエンサーも開発部隊「捕獲作戦決行」

第5章 変幻自在の広報戦略
マスコミも踊った?「西宮戦争」を生んだ”名文”
「令和フィーバー」より上へヒット予測ランキング1位に
日本初?過酷ファッションショーの舞台裏

第6章 店づくりは壮大な実験
2分で看板、店内早変わり「変身店舗」登場
まだまだある「第2、第3のワークマンプラス」
楽天からあっさり撤退「店舗受け取りの時代が来る」
新型コロナで見えたワークマンの強さ

第7章 継続率99%!ホワイトFCへの道
「加点主義」でやる気を引き出す
「緊急事態」発生!直営店を削減せよ
ワークマンはもう「家業」?
親子2代、つながるバトン ロードサイドの現場から

第8章 「変えたこと」と「変えなかったこと」
「5年で目標全達成」成果が出る組織づくり

第9章 アフターコロナの小売りの未来
新型コロナは何を変えたのか
小売りの未来へ3つの提言

あとがき