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ゴッホ作品をより深く楽しめる
本書は、ゴッホの生涯を振り返り、彼が絵画の世界に狂気とも言える情熱を落とし込むことができた背景を解説しています。彼に大きな影響を与えたエピソードはいくつかありますが、暗い部分が多かった生涯を終えた後に、絵画が高く評価されるようになるパラドックスが読者に、多くのものを問いかけます。
本物のファン・ゴッホ作品は?
問
次の三点の作品のなかで、ファン・ゴッホの「真作」は一点だけです。
ご自分の眼だけをたよりに真作を選んでください。
贋作を世にばらまいた画商
ベルリンのオットー・ヴァッカー画廊は1925年頃から、少なくとも30数点のファン・ゴッホ贋作を世に送り出し、個人コレクターなどに売りさばいていた。まもなく、画廊関係者がヴァッカーが扱うファン・ゴッホ作品の質の低さ、真作との違いを指摘し、購入者たちがヴァッカーを告訴した。ヴァッカーには有罪判決が下されたが、この裁判で断罪されたのはヴァッカーひとりではなかった。当時、ファン・ゴッホ研究の権威とされていた名だたる「目利き」たちが、ヴァッカーの真っ赤な偽物に「真作」という鑑定書を書いていたからである。美術史的観点から見れば、ド・ラ・ファイユ、マイヤー・グレーフェといったファン・ゴッホの「権威」たちこそが、この裁判の主役、被告人だったのである。
裁判のほとぼりもさめた1935年、倉敷(岡山県)にある大原美術館がアステルダムのハインク&スヘルヨン画廊から①の作品を購入した。当時のファン・ゴッホ研究の最高権威だったド・ラ・ファイユは、ヴァッカー事件発覚後、一度はこの作品を真作からはずしたものの、大原美術館が購入した頃には再びこの作品を真作としていて、やや歯切の悪い鑑定書らしきものを書いている。鑑定書は今もカンヴァスの裏に貼りつけられている。
ちなみに“ヴァッカー贋作”は現在、オランダのクレラー・ミュラー美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリーなど、世界の主要美術館にも入っている。
③は福田美蘭(1963-)が大原美術館のヴァッカー作品を見て描いた作品。「これが本物であると感じるためには何が足りないかということを、また、これが真作だとしたらゴッホの作品をもっとゴッホらしくするとはどういうことか、を描きながら考えてみたかった」という。
①《アルピーユの道》 作者不詳 油彩・カンヴァス 54×45cm倉敷、大原美術館
20世紀の初頭、ドイツのオットー・ヴァッカー画廊がばらまいた贋作のひとつ。
②《アルピーユの道》 フィンセント・ファン・ゴッホ作 油彩・カンヴァス 61.6×45.7cmクリーヴランド美術館
真作。ファン・ゴッホのサン・レミ時代(1889年)の作品。
③《ゴッホをもっとゴッホらしくするために》 部分 福田美蘭作 アクリル絵具・パネル 74×65cm 倉敷(岡山)、大原美術館
福田美蘭がヴァッカーの贋作をもとに、「もっとファン・ゴッホらしく」描いた作品。全図は額縁が描き込まれている。
はじめに
一八歳の夏に大原美術館の《アルピーユの道》前頁①を見た。何をかくそう、私が生まれて初めて見た「ファン・ゴッホ」のオリジナルはこの作品である。ずいぶん前のことでよく覚えていないが、長々と絵の前に立っていたことは記憶している。美術館の隣の喫茶店「エル・グレコ」でアイスティーとともに感動の余韻も味わい、たぶん、家に帰ってからも余韻を反芻していたと思う。
その後まもなく、あの「ファン・ゴッホ」が贋作だったらしいことがわかった。感動のやり場に困った。
私が感動したのはまぎれもない事実だったが、いったい私は何に感動したのか。絵そのものになのか。絵のキャプションに書かれていた「ファン・ゴッホ」という文字が引き起こすさまざまな観念や連想になのか。「炎の人」「耳切り事件」「狂気」「天才」「自殺」……私たちが「ファン・ゴッホ」だと信じてきた画家は、実は虚像、ひとつのフィクションに過ぎないのではないかとうすうす感じたのはこのときだったと思う。
ともあれ、このほろ苦い経験は不思議に多くのことを教えてくれた。感動の複雑なメカニズムとその危うさ、そして、「眼」の頼りなさと大切さ……。この経験は、その後も何となく尾を引いて、私が美術とつき合う上で大きな意味を持つことになったように思う。美術作品に絡みつくさまざまな「語り」「騙り」「虚像」を括弧に入れ、剥がしていくことが、当面の私の課題になった。大原美術館にあるヴァッカーの「ファン・ゴッホ」作品は私の美術体験の原点のひとつだったかもしれない。
その後、何の因果かアムステルダムにまで留学してファン・ゴッホを研究する羽目になった。そこでは、これまで見ていた「ファン・ゴッホ」像が大きく揺らいだ。虚像と実像の境界線が混沌のなかに溶け始め、自分なりに実像だと信じられるイメージが輪郭をあらわすまでに数年を要した。まずは、そのきっかけになった、アムステルダム大学図書館でのささやかな発見の話から始めることにしたい。
大阪大学教授 圀府寺 司
目次
本物のファン・ゴッホ作品は?
はじめに
Prologue 〈神の言葉を種まく人〉にぼくはなりたい
Chapter 1 画家への「改宗」
たった一度だけ持った自分の「家族」
「掘る人」――楽園追放のテーマ
構成画(タブロー)への挑戦
父の死、朽ちていく教会
Chapter 2 光の世界への入り口 パリ
印象派に学んだ色彩表現
浮世絵との出会い
太陽の花、「ひまわり」の登場
Chapter 3 日本の夢、あるいは芸術家のユートピア アルル
光あふれる、地上の楽園
芸術家の共同体をつくる夢
「教会」が消え、「太陽」が出現
「日本人」の顔を持つ肖像
ユートピアの崩壊
Chapter 4 神か自然か――壮絶な葛藤の軌跡 サン・レミ
「楽園追放」ふたたび
「宗教」と「自然」の間で苦悩する魂
創作としての「模写」
愛しい人びとに贈るメッセージ
Chapter5 オーヴェール・シュル・オワーズから終わらない終章へ
自殺、そしてつくられた絶筆神話
流転する絵画
Column
忘れられた、オランダ牧師たちの文化 ドミノクラシー
現実を見ていたゴーガン
兄を失った 弟テオの悲しみ
膨大な遺産を守ったヨハンナの功績
おわりに
ファン・ゴッホ作品を所蔵する主な美術館
本書に掲載したファン・ゴッホの作品索引
凡例
●作品は原則として慣例に従い、必要に応じて著者が改めました。
●作品データは制作年(制作場所)、技法、サイズ、所蔵先の順で掲載しています。
●「画家の言葉」は宛名を記したもの以外はすべて、ファン・ゴッホから弟テオに宛てた手紙です。
●収録したファン・ゴッホと家族、友人との書簡は、『ファン・ゴッホ書簡全集』(二見史郎ほか訳、みすず書房、1969~70年)を参考に、著者が翻訳しています。書簡番号もこの全集に準じています。ほかの画家の言葉、および海外の文学作品の引用も著者の訳によるものです。
●聖書の引用文は日本聖書協会『聖書 文語訳』にもとづいています。