物語 イスラエルの歴史 アブラハムから中東戦争まで (中公新書)

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イスラエルの長い歴史を学べる

本書は、紀元前からイスラエル王国建国とその後の中東戦争まで、永きに亘ってのイスラエルの歴史が綴られています。しっかり情報量のある本書を読むことによって、イスラエルのバックグラウンドを把握し、特にパレスチナの現状を大きな歴史の流れの中で理解することができます。

高橋 正男 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2008/1/1)、出典:出版社HP

 

目次

序章 イェルサレム
三大啓示宗教の拠点
イェルサレムの語義
古都の起源
旧市街
西壁
コラム・西壁の石組み
安息日と祭り
コラム・日本人巡礼者

第1章 パレスティナ・イスラエルの国土
国土
人口
気象
水資源イェルサレムの気候・景観
オリエント史の時期区分
カナァン・パレスティナ
中東

第2章 王政以前
民族名としてのイスラエル
民族の起源
族長物語の史的背景
西洋文明の源流
イブラーヒーム伝
イブラーヒーム生誕の地
ハラン
イスマーイールは長子か
エジプト脱出
イスラエル人の神ヤハウェ
十誠
コラム・シナイ山(モーセ山)
コラム・過越の祭り
カナァン定着
英雄時代
海洋民族の漂着

第3章 第一神殿時代―紀元前10世紀~紀元前6世紀
三つの時期
王政の誕生
ダビデの生い立ち
ダビデの即位
イェルサレム遷都
ソロモンの治世
コラム・国際街道
ソロモンの治世の晩年
コラム・シェバの女王のイェルサレム訪問
イスラエル統一王国の分裂
北王国イスラエル
分裂両王国の推移
南王国ユダ単立時代(前七二一~五八七年)
ヒゼキヤ以後
イェルサレム陥落(前五八六年)
バビロニア捕囚時代(前五八六~五三八年)

第4章 第二神殿時代―紀元前538~紀元後70年
第二神殿時代の時期区分
第二神殿の竣工
ラビのユダヤ教時代の出発点
「成文律法」と「口伝律法」
コラム・ラビ
アレクサンドロス大王以後
七十人訳聖書(ギリシア語訳聖書)の翻訳の開始
ハスモン家の叛乱
サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派
クムラーン宗教集団暦
真実の暦
重要な祝祭日
日時計
コラム・ユダヤ人
イエスの誕生と裁判
ピラトゥスの審問・判決
刑場へ連行
コラム・ヴィア・ドロローサ
原始キリスト教団の成立

第5章 対ローマユダヤ叛乱―紀元後66~74年/132~135年
第一叛乱・第二叛乱
叛乱の基本史料
第一叛乱の概要
コラム・死海西岸
議会と学府の再編
第二叛乱の勃発
アエリア・カピトリーナの建設
成文聖書の成立

第6章 ビザンツ帝国時代から初期ムスリム時代へ―324~1099年
ビザンツ時代の時期区分
母后ヘレナのイェルサレム訪問
コラム・パレスティナ最古の地図――メデバ・モザイク地図
ペルシア軍の来襲
預言者ムハンマドの出現
正統カリフ以後
正統カリフ・ウマル・イブン・ハッターブのイェルサレム入城
岩のドーム
岩のドームの変遷
アルアクサー・モスク
コラム・セム的一神教の成立

第7章 十字軍時代―1099~1187年
狭義・広義の十字軍
キリスト教徒武装集団「フランク人」と公会議議事録等
城外退去命令西方ローマ・カトリック教会の一部の代表
イェルサレム初代国王
十二世紀のイェルサレム
テンプル騎士団の拠点十字軍の後代への影響

第8章 アイユーブ朝からマムルーク朝へ―1187~1517年
イェルサレム奪取
ダビデの塔の破壊と再建
ラビ・モシェ・ベンナフマン
イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータル
コラム・聖墳墓教会聖堂入口の鍵

第9章 オスマン帝国時代―1517~1917年
オスマン帝国興亡史
コラム・東方問題
十九世紀の国際関係
コラム・ステイタス・クオ
コラム・電信・鉄道の開通
第一次世界大戦勃発

第10章 ツィオニズム運動の開始
ツィオニズムとは
アンティ・セミティズム
テオドール・ヘルツェル
ツィオニスト会議開催
コラム・ヘルツェルの丘
三つの協定・密約の締結
「フサイン・マクマホン往復書簡」(一九一五年七月十四日~一六年三月十日)
「サイクス・ピコ協定」(一九一六年五月九日、十六日)
「バルフォア宣言」「同返書」(一九一七年十一月二日/十一月四日)
コラム・アラビアのローレンス
アレンビー将軍の入城
ファイサル・ヴァイツマン協定(一九一九年一月三日)
パリ講和会議
サン・レモ会議
第一次パレスティナ分割
パレスティナの境界の劃定
パレスティナ委任統治システム
軍政から民政へ
エリエゼル・ベンイェフダー

第11章 反ユダヤ暴動から建国前夜まで
最初の暴動(一九二〇年三月)
地下自衛軍
イェルサレム・ヘブライ大学の創設(一九二五年)
パレスティナ問題調査団の派遣
委任統治放棄

第12章 イスラエル国誕生
イスラエル国誕生前夜
独立宣言/新生イスラエル国誕生
イスラエル国独立宣言
新生イスラエル国承認
第一回総選挙
初の国会
コラム・国造りの骨子

終章 中東戦争
中東戦争の呼称
第一次中東戦争
第二次中東戦争
第三次中東戦争
コラム・黄金のイェルサレム
第四次中東戦争
コラム・殉教者記念堂
中東戦争後
コラム・ダヴィッド・ベングリオン(一八八六~一九七三)

あとがき
参考文献抄


イスラエル要図


イェルサレム旧市街

高橋 正男 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2008/1/1)、出典:出版社HP

 

序章 イェルサレム


イェルサレム市の紋章

三大啓示宗教の拠点

イェルサレムは古くは「ダビデの町」と呼ばれた。ユダヤ人にとってイェルサレムは、旧い都だったというだけでなく、古代のヤハウェ宗教、のちのユダヤ教の中心、第一神殿(現在の神殿の丘にソロモンが建立した神殿。前十世紀~前六世紀)・第二神殿(バビロニア捕囚後、前六世紀に再建~後七〇年。後七〇年にローマ軍に破壊されて以来いまだ再建されていない)建立の地だったという事実がかれらユダヤ人の共通の記憶のなかに脈々と生き続けている。
ユダヤ教を母体とするキリスト教徒にとっては、晩年のイエス(前四ころ~後三〇ころ)とも関係が深く、多くの聖蹟をもつ聖なる都である。
次いでユダヤ教、キリスト教と同根の神アッラーを拝するイスラーム教徒にとっては、預言者ムハンマド(五七○ころ~六三二)がここから天界へ飛翔、旅立ったという伝えから、イェルサレムはマッカ(メッカ)、アルマディーナ(メディナ)に次ぐ第三の聖地であり、最初は礼拝の際に向かう方角(キブラ)でもあった。これら同根の三大啓示宗教(セム的唯一神教とも)にとって共通の聖域として古来親しまれてきたイェルサレムは、イスラエル人、パレスティナ人それぞれの拠点でもある。

イェルサレムの語義

イェルサレムへ上るには二つのメインルートがある。ひとつは西方のテルアヴィヴ・ヤッフォからイェルサレムに至る街道のルート、もうひとつは東方のヨルダン渓谷から上るルート。イェルサレムは標高およそ八百メートルの高地にあるため、それぞれの道のりはかなり険しい。同地は起伏に富んだ天然の要害で、北側を除く東、南、西の三面はそれぞれ深い峡谷に囲まれ、これらの丘陵を景観とする美しい町である。加えて、イスラエルの南北を結ぶ中間に位置し、東はヨルダンに国境を接し、首都アンマンを経てシリアのダマスカスに通じ、西は地中海沿岸の肥沃な平原に面し、近代都市テルアヴィヴ・ヤッフォとは鉄道(一八九二年に開通)、道路で結ばれている。テルアヴィヴはヘブライ語で「春の丘」の意である。
イェルサレムの全域は約百二十六平方キロ(行政上は東、西という概念はない)。現在の人口は約七十二万(イスラエルの総人口約七百十五万)、うちユダヤ人約六六%、イスラーム教徒、キリスト教徒、ドゥルーズ派他約三四%、小さな町である。
イェルサレムは、ヘブライ語(ヒブル語、ヘブル語とも)でイェルシャライム、アラビア語では七~九世紀ころにはイーリヤーウ(ローマ植民都市「アエリア・カピトリーナ」の訛)、次いでアルバイトルマクディス(「聖なる家」「聖域」の意)、現代ではアルクドゥス(アルコッズとも。「聖なるもの」「イェルサレム」の意)と呼ばれる。「イェルサレム」の名は、民間語源伝承によると、長い間、ヘブライ語の「イール・シャローム」、「平和(平安)の町(都)」(日本流にいえば「平安京」か)とか「平和の礎」という意味をもつと考えられてきた。「基礎」「礎」を意味する「イェルゥ」と、「平和」を意味する「シャローム」に繋がる「シャライム」あるいは「シャレーム」(ヘブライ語と同系のアラム語)という二つの語から構成されているように解されていたからである。しかし、西方セム語の語彙イェルゥとシャレームとの複合語とされるイェルシャライム(またはイェルシャレーム)をシャロームと結びつけるのは無理があり、近年では、「イェルサレム」を指す語は、シャレームという名の神の玉座、すなわちシャレーム神殿の所在地から由来すると解されている。とすれば、イェルサレムはシャレーム神礼拝の中心地、「シャレーム神によって礎石が据えられた場所」であったということになる。「(神)シャレーム」は、古代セム人にとって、曙の神シャハルと並んで、黄昏の神シャレーム、「美しくしかも優雅な神」と形容された神だった。旧約聖書創世記その他に言及されている縮小名「サレム」も古い呼称である。その昔、山岳地イェルサレムに移り住んだ人びとは毎夕黄昏の光景を眺め見ては「神サレム」の臨在と加護とを身近に感じとって日々暮らしていたことであろう。
イェルサレムはイスラエル国の基本法上の首都であるが、国際社会はこの措置を認めていない。それぞれ大使館をテルアヴィヴ・ヤッフォに残している。

古都の起源

古都イェルサレムの曙期は太古の霧に包まれている。過去百五十年余の国内外の調査隊による考古学の踏査・発掘調査によって明らかにされた成果によれば、イェルサレムに最初の聚落が建てられたのは紀元前第三千年紀(前三○○○~前二〇〇一年)の初頭、オフェルの丘の東斜面の上だった。キドロン峡谷のギホンの泉に近かったからである。
イェルサレムの名が旧約聖書以前の記録にはじめて見えるのは、それより一千年後の紀元前十九世紀前後に土器片や土偶に書き誌された、エジプト中王国第十二王朝末期もしくは第十三王朝に属する呪詛文書(サッカラ他出土)で、そのなかに「カナァン人の町」として言及されている。時代が下って、紀元前十四世紀のエジプト新王国第十八王朝時代の外交文書アルアマルナ書簡(テル・アルアマルナ出土)のなかにも言及されている。これまでの考古学・文献学の成果から、イェルサレムが、紀元前十九世紀から同十四世紀にかけて、ユダ丘陵地帯のもっとも重要な戦略上、政治上の中心だったことが明らかにされている。イェルサレムは都邑としてもすでに四千年の歴史を有することになる。現存世界最古の都市のひとつである。
イェルサレムがカナァン(シリア・パレスティナの古名)においてもっとも重要な町となったのは紀元前十世紀にさかのぼる。その経緯については第3章を参照されたい。

高橋 正男 (著)
出版社 : 中央公論新社 (2008/1/1)、出典:出版社HP