行動経済学の使い方

-行動経済学を知る6冊 – 入門・基本から最先端・応用まで –も確認する

はじめに

私たちの生活は起きてから寝るまで意思決定の連続である。しかし、そのほとんどは、習慣的になっていて無意識に行われている。何時に起きるのか、何を食べるのか、何を着ていくのか、仕事では何をするのか、買い物は何をするのか、何時に寝るのか。こうした決定のすべてに頭を使って真剣に考えていては、疲れてしまう。それでも、毎日のすべての食事をあらかじめ決まったものにしているわけではないように、意思決定を自覚的にしている部分がある。日々の買い物のようにそれほど重要でないこともあれば、住宅の購入、就職、結婚、病気の治療といった人生の重要な意思決定もある。だれもが意思決定に悩むところだ。

このような意思決定をする際には、私たちは情報を集めれば集めるほど合理的な意思決定がにできると考えて、多くの情報を集めることが多い。しかし、情報が集まれば意思決定をしやすくなるかというとそうでもない。あまりにも多くの情報があると、選択ができなくなってしまうことがある。蛍光灯ランプが切れた時に大型家電量販店に買い物に行くと、あまりにも多くの種類があり、選ぶのに時間がかかったという経験はないだろうか。近所のコンビニなら選択肢が限られているのですぐに買い物ができる。この場合、価格、性能、買い物にかかった時間をすべて考えると、どちらで買うことがよかったのかを判断するのは意外に難しい。

似たようなことは、私たちが病気になって病院で医者から治療方針の説明を受ける時にも感じる。医者は、治療法をいくつか提案して、それぞれのメリットとデメリットを述べる。「後遺症が出る確率は何%、うまくいく確率は何%です」「もう少し検査をすると正確なことがわかるかもしれないですが、検査をするには痛みと傷跡が残ります」というものだ。「終末期になった時に、人工呼吸などの生命維持治療を行いますか?」という深刻な質問を受けることもある。こういう質問に、すぐに答えられる患者や家族は少ない。選択の自由があることは嬉しいが、医療の専門家でもない患者が、医者から与えられただけの情報で正しい意思決定をするとは限らない。もう少し患者が意思決定しやすいように聞いてもらえたら、と多くの人は思っているのではないか。一方で、意思決定ができなかったり、医学的には望ましくない意思決定をしたりする患者がいた場合、医者の方は正確な医学情報さえ与えられれば、患者は合理的な意思決定ができると考えているようだ。実際、医者からこのような考え方を聞いた際に、私は伝統的経済学におけるホモエコノミカス(合理的経済人)を思い出した。ホモエコノミカスとは、利己的で高い計算能力をもってすべての情報を用いた合理的意思決定を行う人間のことである。伝統的経済学では、そのような人間像を前提に経済学を構築してきた。しかし、1980年代から発展してきた行動経済学では、人間の意思決定には、伝統的な経済学で考えられている合理性から系統的にずれるバイアスが存在することが示されてきた。現代の行動経済学では、そのような人間の意思決定を前提にした経済学の構築が進められている。

伝統的経済学が前提とする合理的意思決定者なら直面しないはずだが、私たちが直面している様々な悩みを、行動経済学は分析対象としている。老後の貯蓄が必要だと思っていてもなかなかできない、宿題や仕事の締め切りがあるのにそれを先延ばししてしまう、ダイエットの計画は立てられるのに実行できない、といったことは典型的な行動経済学的特性である。実際、長時間労働をしている人の中には、仕事の先延ばし傾向が強い人がいる。行動経済学を理解することで、私たち自身の意思決定をよりよいものにすることができるだろう。

では、人間の意思決定には、どのような特徴があるのだろうか。行動経済学は、人間の意思決定のクセを、いくつかの観点で整理してきた。すなわち、確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論、時間割引率の特性である現在バイアス、他人の効用や行動に影響を受ける社会的選好、そして、合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックスの4つである。

つまり、人間の意思決定は合理的なものから予測可能な形でずれる。逆に言えば、行動経済学的な特性を使って、私たちの意思決定をより合理的なものに近づけることができるかもしれない。金銭的なインセンティブや罰則付きの規制を使わないで、行動経済学的特性を用いて人々の行動をよりよいものにすることをナッジと呼ぶ。

この本では、行動経済学の考え方をわかりやすく解説し、行動経済学を使ったナッジの作り方と、仕事、健康、公共政策における具体的な応用例を紹介する。読者は行動経済学の基礎力と応用力を身につけることができるだろう。

本書のもとになった研究については、文献解題で解説し文献リストもつけたので、関心を持たれた読者は参考にしてほしい。

大竹 文雄 (著)
岩波書店 (2019/9/21)、出典:出版社HP

目次 – 行動経済学の使い方

はじめに
第1章 行動経済学の基礎知識
1プロスペクト理論
リスクのもとでの意思決定/確実性効果/損失回避/フレーミング効果/保有效果
2現在バイアス
先延ばし行動/コミットメント手段の利用
3 互恵性と利他性
社会的選好/互恵性
4 ヒューリスティックス
近道による意思決定/サンクコストの誤謬/意思力/選択過剰負荷と情報過剰負荷/平均への回帰/メンタル・アカウンティング/利用可能性ヒューリスティックと代表性ヒューリスティック/アンカリング効果/極端回避性/社会規範と同調効果/プロジェクション・バイアス

第2章ナッジとは何か
1 ナッジを作る
軽く肘でつつく/行動の特性を考える/行動変容を本人が望んでいるか/ナッジの選び方
2ナッジのチェックリスト
Nudges/EAST/MINDSPACE
3ナッジの実際例
老後貯蓄の意思決定/自然災害時の予防的避難/ナッジは危険なのか?

第3章 仕事のなかの行動経済学
1 三つの例から
バイトのシフトをどう入れるか/タクシー運転手の行動予測/行動経済学で解釈すると/プロゴルファーの損失回避
2ピア効果
優秀な同僚が入ってきたら/スーパーマーケットのレジ打ち/競泳のタイム決勝

第4章先延ばし行動
1賃金について考える
参照点による効果/伝統的経済学による年功賃金の説明/行動経済学による年功賃金の説明
2 バイアスに着目する
失業期間を短くする/長期失業を防ぐナッジ/社会保障給付申請の現在バイアス/長時間労働と先延ばし行動

第5章 社会的選好を利用する
1贈与交換
贈与交換で生産性は上がるか/負の贈与の影響/贈与のイメージを意識させる。
2昇進格差はなぜ生まれる?
競争選好に男女差はあるか/マサイ族とカシ族での実験
3多数派の行動を強調する
女性の取締役を増やすナッジ/無断キャンセルを減らすナッジ

第6章 本当に働き方を変えるためのナッジ
1仕事への意欲を高める
際限なく続く仕事/「シーシュポスの岩」の実験/意味のある仕事
2 目標と行動のギャップを埋める
達成できない目標/実行計画を書き出す/量ではなく時間で/合理的行動の落とし穴/習慣化できるルールを作る/次善の策がベストの策

第7章 医療・健康活動への応用
1デフォルトの利用
ナッジで変える健康活動/大腸がん検診の受診率向上ナッジ/ワクチン接種率の向上ナッジオブ・イン/終末期医療の選択
2 メッセージの影響を考慮する
必利得フレームと損失フレーム/治療法の説明
3成果の不確実性を考慮する
ダイエットのナッジ/ジェネリック薬品への切り替え
4臓器提供のナッジ
イギリスでの実験/日本での実験

第8章 公共政策への応用
1 消費税の問題
重く見える消費税負担/同じ税負担でも消費行動が変わる/誤計算バイアス/軽減税率はなぜ好まれるのか/軽減税率は補助金と同じ/軽減税率の行動経済学
2保険料負担の問題
一般の人の理解/伝統的経済学での理解/現実はどちらか
3 保険制度の問題
公的年金・公的健康保険の必要性/モラルハザード/法案提出と損失回避/少数派として意識させる
4 O型の人はなぜ献血をするのか。
血液型性格判断/献血行動と血液型/血液型の特性に着目する

おわりに
文献解題

大竹 文雄 (著)
岩波書店 (2019/9/21)、出典:出版社HP