進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線

『ここまで明らかになった – 【最前線】脳科学を知る5冊』も確認する

はじめに

脳の研究をさらに究めようと意を決してアメリカに渡ったのは2002年2月。私を迎えてくれたニューヨークの街はクリスマスイルミネーションで美しく飾り立てられていました。1年余り前に起こった同時多発テロの衝撃もようやく和らぎ、道行く人々に活気が戻り始めた、そんな時期でした。

「ニューヨークの高校生を相手に脳の講義をしてみてはどうですか」という打診を受けたのは、ちょうどその頃だったと思います。高校生にわかりやすく脳について解説する――「高校生」という対象年齢がとても絶妙な選択だとその時直感しました。好奇心が旺盛で、さまざまな問題意識が芽生える時期。これからの人生の進路を真剣に考え始める時期。そんな多感期の高校生と、私の専門である〈脳〉についてディスカッションすることは、彼らにとっても、また私自身にとっても刺激になるだろうと思い、前向きに返事をしました。

講義では単なる教科書的な脳の解説にとどまらず、最新の知見をふんだんに取り入れ、できるかぎり新鮮な情報を伝えるように心がけました。どんな情報でもそうですが、最新情報というものは、まだ真偽が確定していない内容を含んでいるものです。こうした危険性を知りつつも、ここでは自分の個性を活かし、私にしかできない独創的な講義をすることに努めました。

本書の一部では、私の専門分野である大脳生理学のフィールドから大幅に踏み出して、心理学6や哲学の世界にまで到達しています。「心とは何か、心はどこから生まれるか」といった人類普遍の難題のみならず、「そもそも心が存在する意味は何なのか」といった疑問にまで踏み込んでみました。また、薬学部に所属している私の責務として、アルツハイマー病を例にとり「薬」の意義にも時間を割きました。

とりわけ「意識」の解釈や定義については、脳科学者の間でさえも共通のコンセンサスはなく、形式的に語るのが難しい対象となっています。しかし、ここでも敢えて私は誤解を恐れずに、自分なりの意見を述べました。

そもそも脳科学がまだ脳を十分に理解できていないのは仕方のないことだと私は思っています。脳はそんなに単純なものではありません。しかし、ここには次元の異なる問題もあるようです。〈池谷裕二〉という人間が果たして脳科学という学問をきちんと理解しているか――という疑問です。「高校生レベルの知識層に説明して伝えることができなければ、その人は科学を理解しているとは言えない」とは物理学者ファインマンの言葉です。この意味で、今回の一連の脳科学講義は私にとって試金石でした。脳科学者の端くれである私が本当に脳科学を理解しているかどうか、その判断は読者に委ねたいと思います。

進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線 目次

はじめに
第一章人間は脳の力を使いこなせていない
1-1 講義をはじめる前に
1-2 みんなの脳に対するイメージを知りたい
1-3 心と脳の関係を人間はどう考えてきたんだろう
1-4 ネズミをラジコンにしてしまった?
1-5 脳にはできてコンピュータにはできないこと
1-6 脳は表面積を増やすためにシワをつくった
1-7 イルカは本当に頭がいい?
1−8 哺乳類の大脳皮質は6層構造
1-9 脳は場所によって役割が違う
1-10 目で見たものを見えたと感じるためには?
1-11 WHATの回路、HOWの回路
1-12「いつでも同じ場所に腕を移動させる神経細胞」
1-13 ラジコン・ネズミの〈報酬系〉
1-14 それでも「自分」なのだろうか?
1-15 念力の科学
――ニューラル・プロステティクス
1-16 目に見える形になった意志
1-17 視覚と聴覚のつなぎ替え?
1-18 脳の地図はダイナミックに進化する
1-19 進化しすぎた脳
1-20 運動神経と引き替えに、知能を発達させた
1-21 心はどこにあるのだろうか

第二章
人間は脳の解釈から逃れられない
2-1 「心」とは何だろう?
2-2 意識と無意識の境目にあるのは?
2-3 前頭葉はどうやって心を生んでいるのか
2-4 立体は片目でも感じられる
2-5 なぜ長さが違って見えるのだろう?
2-6 風景がガクガクに見えないわけ
2-7 世界は脳のなかでつくられる
2-8 脳の時間はコマ送り
2-9 「いま」は常に過去
2-10 目ができたから、世界ができた
2-11 視神経は半分だけ交叉している
2-12 目が見えなくても「見えている」
2-13 「見る」ことは無意識
2-14 表現を選択できること、それが意識
2-15 「クオリア」は表現を選択できない
2-16 言葉は意識の典型
2-17 表情のパターンは世界共通
2-18 人間は言葉の奴隷
2-19 「ウェルニッケ失語症」
2-20 「ミラー・ニューロン」の驚き
2-21 ミツバチの「8の字ダンス」
2-22 無意識に口にすること
2-23 自由意志と脳の指令
2-24 「悲しいから涙が出る」んじゃない
2-25 「恐怖」の感情がなくなったら
2-26 脳の構造は先天的か後天的か

第三章
人間はあいまいな。記憶しかもてない―――
3-1 「あいまい」な記憶が役に立つ!?
3-2 なかなか覚えられない脳
3-3 言葉によって生み出された幽霊
3-4 記憶の「あいまいさ」はどこから生まれる?
3-5 神経細胞に電気が流れる?
3-6 神経細胞は増殖してはいけない
3-7 暗記そのものは生命の目的にはなりえない
3-8 細胞は内側がマイナス、外側がプラス
3-9 神経の信号の実体は「ナトリウムイオンの波」
3-10 神経細胞と神経細胞のすき間
3-11 シナプスが神経伝達物質を次の細胞に放出する
3-12 シナプスこそが脳のあやふやさの原因だった
3-13 ナトリウムイオンはアクセル、塩素イオンはブレーキ
3-14 神経細胞は出口と入り口を持っている
3-15 「脳がいかにあいまいであるかのミクロな理由」
3-16 分解したら「わかった」と言えるのだろうか
3-17 全体として秩序が起こること
―自己組織化
3-18 しびれるくらい美しいメカニズム
ー「ヘブの法則」
3-19 ミクロがマクロを決定する
3-20 神経の活動はランダムではない

第四章 人間は進化のプロセスを進化させる――
4-1 神経細胞の結びつきを決めるプログラム
4-2 ウサギのように歩くネズミ
4-3 情報のループを描く脳――反回性回路
4-4 脳の情報処理には上限がある
――1100ステップ問題
4-5 神経に直接効く薬
4-6 薬は「科学のツール」だった
4-7 アルツハイマー病は神経の病気
4-8 老人斑に猛毒βアミロイドを発見
4-9 βアミロイドはどこから生まれる?
4-10 プレセニリンがβアミロイドを生み出している
4-11 βアミロイドがシナプスに攻撃をしかけている?
4-12 神経伝達物質を回収して伝達の効率を悪くする
4-13 アルツハイマー病の治療法を見つけたい
4-14 毒をもって毒を制す
4-15 アセチルコリンを壊すハサミを抑制する
4-16 「裁きの豆」
4-17 人間は「体」ではなく「環境」を進化させている
4-18 改造人間
4-19 いままでの講義をまとめてみよう
4-20 ヒトの脳は〈柔軟性〉を生むために発達した
4-21 ドリアンや納豆を最初に食べた人間はすばらしい
4-22 人間の脳がそんな簡単にわかってたまるか

第五章 僕たちはなぜ脳科学を研究するのか——
5-1 なぜ脳科学を研究しようと思ったのか?
5-2 手作り感覚こそが科学の醍醐味
5-3 脳は常に活動している
5-4 脳で見えているものは、目で見ているものではない
5-5 脳は省エネか?
5-6 ジャンケンでチョキを出したのはなぜか?
5-7 質問に答える2秒前から、正解か不正解かがわかる
5-8 ゆらぎを変えることができるか
5-9 脳が見る風景は、本当に見ている風景なのか?
5-10 不確実性を生み出す脳のしくみ
5-11 意識とはなにか?
5–12 植物状態の患者に意識があるか
5-13 脳科学でどこまでヒトの心がわかるか?
5-14 対応関係と因果関係
5-15 信脳科学の限界
5-16 科学は役に立たなければいけないのか?

付論 行列をつかった記憶のシミュレーションー ブルーバックス版刊行に寄せて――
参考文献
さくいん