冤罪と裁判

現在の冤罪について知る5冊 – 他人事でなく知っておきたいことも確認する

はじめに

私は、弁護士登録をしてから20年間、民事、労働、刑事などさまざまな事件を担当してきたが、なかでも冤罪事件を多く担当してきた。どちらかと言えば無名の事件が多いが、とにかく無実の被告人が誤って処罰されてはならないと、必死にひとつひとつの事件をたたかってきた。

日本の刑事裁判は、じつは世の中の水準からみると、いろいろと遅れたところがある。起訴された事件の有罪率は99・9パーセントと驚くほど高いが、有罪とされた元被告人のなかに無実の人々がかなり含まれているのではないか、というのが私の、心の奥底からの関心事である。

私が担当した事例ひとつひとつの経験を『冤罪弁護士』(2008年、旬報社)にまとめたところ、講談社の堀沢加奈さんの目に止まり、今度はもう少し普遍化したかたちで、日本における冤罪と、裁判員制度についてまとめてくれないか、と依頼を受けた。

私の力に余る大きなテーマだし、また2009年ごろから2012年まで、日本の刑事裁判の構造には変わりがないものの、裁判員制度の実施、一、二審の有罪判決を覆したいくつかの最高裁判決、再審無罪判決、取調べ可視化の一部試行などの動きがあり、大きな潮目と感じられた。この変貌しつつある現状を、的確にとらえて描くことはむずかしい。

しかし、ちょうどそのころ、私はいつも冤罪のことを考え、同業者から「冤罪マニア」などと言われる始末だった。そこで「毒を食らわば皿まで」のような心境で執筆を始めた(冤罪事件は、弁護士業務にとっては「毒」なのだ)。

本書では、まず、第1部「冤罪はこうして生まれる」で、ここ20年ほどの冤罪事件の典型事例を、自分の担当事件を含めて、そのおもな虚偽の証拠ごとに各章に分類して述べ、それぞれの誤起訴、誤判原因について考えた。

どのように虚偽の証拠が作られ、なぜ裁判でそれが虚偽とわからないのか、という視点から、虚偽自白、目撃証言、偽証、物証と科学鑑定、情況証拠に分けて考えた。それぞれのケースの記述は、正確性を第一に心がけながらも、物語的に読んでいただけるよう、できるだけ工夫した。
誤起訴、誤判原因の検討は、虚偽の証拠の作成過程、判断過程に視点をおくだけでは足りない。「日本の刑事裁判の構造的なあり方」に視点をおき、例えば、取調べ中心の捜査のあり方、取調べで作られた供述調書が裁判で重視されてきたこと、検察官が証拠を独占して被告人に有利な証拠を開示しないこと、不十分な弁護、裁判官の「有罪慣れ」ゆえの「疑わしきは被告人の利益に」原則の弛緩、などなどの制度的な歪みをあげ、それらが重層的にある「冤罪を生む構造」を形づくっていることを示すことが必要である。

これらについて、本文中の各ケースでそれぞれ断片的に、具体的な記述を通して示したが、そこからおのずと全体像が浮かび上がってくるのではないかと願っている。

私は実務家として、裁判員制度下の冤罪について、とくに強い関心を抱いてきた。第2部「裁判員制度で冤罪を減らせるか」では、まず第6章で、第1部のおさらいを兼ねて日本の刑事裁判の特色をまとめた。裁判官人事制度が根底に横たわっていることを示し、裁判により「人事評価」を受けない市民参加の意義を考えた。

第7章では、裁判員制度の実務がどのように設計されているかを示し、そこに官僚司法の「裁判員に負担をかけられない」という志向が強く働いていることを指摘した。
日本における「捜査のあり方」が冤罪を生み出していることは間違いない。この「捜査のあり方」と裁判員制度における「審理のあり方」との組み合わせは、全体の姿として見たとき、均衡がとれているだろうか。

「裁判員に負担をかけられない」ことの過度の強調は、権力を抑制するどころか、人権を制約する方向に働かないだろうか。そうした審理では、捜査の過程(冤罪が作られる過程)が十分に見えず、誤判の危険の芽が生じるのではないか。私は、裁判員の本心は「負担を軽くしてほしい」ことだけでは決してないと思う。

第8章では、実施後3年近くたった裁判員裁判における無罪、一部無罪の判決を検討し、裁判員裁判の判決と、裁判官裁判の判決とに違いが見いだせるのかを探った。もちろん、検討できるケース自体がまだ少ないし、そこに一般的な傾向を読み取ろうとすることに無理があるのだが、それも承知で試みた。

例えば、職業裁判官の誤判においては「可能性」という言い方が幅をきかせている。裁判官が頭の中で想像したことが、「こうした可能性がある。だから必ずしも被告人が無罪とは言えない」という形で、有罪方向に使われている。

私は、こうしたやり方は、評議の過程で一般市民である裁判員に対して説得力を持たないだろうと思っていた。この点は、はたしてどうなっているだろうか。
裁判員制度は、複眼的に見る必要がある。2012年5月21日に裁判員制度実施3年後となり、3年後検証見直し(裁判員法附則第九条)が開始される。最後にこの点についての提言を述べた。市民の常識がより活かされ、官僚司法の権力の保持が冤罪を生む原因とならないように提案をした。

本書は、専門用語をできるだけ避け、できるだけむずかしくなく書くよう努めた。冤罪、刑事裁判の入門書の一冊として、気軽に読んでいただければ幸いである。

今村 核 (著)
出版社: 講談社 (2012/5/18)、出典:出版社HP

目次 – 冤罪と裁判 (講談社現代新書)

はじめに

第1部 冤罪はこうして生まれる――冤罪の事件簿

第1章 虚偽自白
なぜ自分に不利な嘘をつくのか、現実感のなさ/インボー方式
〈ケース1》下高井戸放火事件―――虚偽自白の作られ方
白昼の出火/ 「私がやりました」と言わされるまで/「どうやったのか」と聞かれて
〈ケース2〉神奈川県の死体なき「殺人」事件――被疑者の社会的抹殺
不倫相手の失踪/真実を語る椅子/「その手で殺してるんだよ!」/ 「毎朝体調の確認に来ますか ら」/Mの社会的抹殺/警察が全力で虚偽自白を迫るとき/ 「3日あったら、お前に、殺人を自白させてやるよ」
〈ケース3〉志布志事件――複数名の虚偽自白
何名もの虚偽自白を一致させる/架空の「会合」/6名の自白はどうやって作られたか/検察官調書 の役割/否認するほど、身柄拘束期間が長くなる/内部告発と取調べ小票

第2章 目撃者の証言
記憶は変わる
〈ケース4》地下鉄半蔵門線内のスリ、脅迫事件――記憶の不確実性
3つの「仮眠者狙い」事件/東京拘置所からの手紙/甲府刑務所で真犯人?と面会/バイアスのかかった写真帳/目撃証言の心理学/ラインアップの構成/そっくりでない人を取り違えるか/塗り替えられる記憶/「猿顔の男」の共犯者
〈ケース5〉板橋強制わいせつ事件―目撃証言と虚偽自白の複合
小学4年生の女子がマンション敷地内で/犯人は同じマンションの住人?/管理人の言動/弁護人 は、しばらく体の震えが止まらなかった/「おかしいな。Yは捕まっているはずなのに」/目撃証言 の捜査はどう改革されるべきか

第3章 偽証
嘘をつき続ける/組織ぐるみの偽証
〈ケース6〉「浅草4号」事件――警察官による偽証
深夜のカーチェイス/警察官2名の証言/遺留指紋/車内遺留品のおにぎり/現場照度と車内の明るさ/全然似ていない2人
〈ケース7〉引野口事件――同房者による偽証
代用監獄での落とし穴/妹を別件逮捕/同房スパイ/「またMがんばりましたよ」/鑑定医による死 因の変更/「秘密の暴露」はあったのか/黙して過ぎ去った男/犯行告白の証拠能力を否定した判決

第4章 物証と科学鑑定
供述証拠/非供述証拠/「物→人」型の捜査と「人→物」型の捜査/「物の関連性」についての供述 /科学鑑定
〈ケース8〉弘前大教授夫人殺し事件――付着させられた血痕
交錯する鑑定結果/鑑定者から引き上げられた白シャツ
〈ケース9》鹿児島夫婦殺し事件――陰毛すりかえの疑念
陰毛と轍/馬鍬のゆくえ
〈ケース10》浦和の覚せい剤事件――尿のすりかえの疑念
逮捕された捜査協力者/電子手帳の中から覚せい剤を発見?/情報提供者の話
〈ケース11〉足利事件――DNAの取り違えの疑念
4歳幼女への暴行殺人容疑/科警研の鑑定/覆った鑑定結果/ひとつの鑑定機関だけにゆだねること の危険性
〈ケース12〉下高井戸放火事件再び――誤った鑑定
自白と出火箇所との矛盾/本当の火元はどこだったのか/起訴と自白の「信用性」をめぐる鑑定/1 枚の写真が検察側鑑定を崩した/「正しいことだけが結論になる」/燃え広がり方を推理する/警官 の証言「火災実験は2回行いましたが……」/検察側の第二鑑定/「最初はあの鑑定を信じていた」

第5章 情況証拠
間接事実/間接事実は確実に証明されているか/間接事実の推認力はどれほどか
〈ケース13〉大阪母子殺害放火事件――情況証拠だけの事件
疑われた夫/間接事実同士の相互補強/吸い殻のDNA鑑定への疑問/最高裁判決が示した「総合評 価」のあり方/間接証拠A→B→C→Dの順次推認

第2部 裁判員制度で冤罪を減らせるか

第6章 日本の刑事裁判の特色
有罪率99.9パーセント/「有罪への流れ作業」/再審無罪、再審開始決定、最高裁の一、二審有罪 破棄が増えている/冤罪の「暗数」/調書裁判/人質司法/否認すれば10日間の勾留決定/裁判官の 人事制度/事件処理数で評価される/判検一体/検察官控訴/すぐれた職業裁判官による裁判/想像 による可能性判決

第7章 裁判員制度の導入で、日本の刑事裁判の特色は変わりつつあるか
「裁判員に負担をかけられない」/冤罪事件はどうなるか/「捜査のあり方」は依然変わっていない/なぜしゃべりもしないことを作文したのか/捜査の過程が見えなくなる/取調べの可視化/「調書裁判」は克服されるか/参考人調書―甲山事件の例/証人の記憶は「汚染」される/「人質司法」 はなくなったのか/裁判員裁判に可能性はあるか

第8章 判決文を通して、裁判員裁判の特色を読み解く
有罪率は変わったか/裁判員裁判の無罪判決
〈ケース14〉立川の少年の詐欺事件――裁判員の常識感覚が活きた
「Aのお母さん優しいから大丈夫だよ」/判決文の紹介/「疑わしき」点について考え抜かれた判決
〈ケース15〉鹿児島老夫婦殺害事件――情況証拠についての視点
情況証拠のみから被告人を犯人と推認できるか/「基本的な視点」/消極的事情/情況証拠のみで有 罪とするには/「想像による可能性判決」との違い

第9章 冤罪・誤判防止のために、裁判員制度はどう変わるべきか
施行後3年を経ての見直し/「証拠の量を減らす」ことが「捜査の不可視化」を招く/捜査の全過程 の「記録化」と「証拠開示」を/捜査過程を明らかにするための9つの提案/公判前整理手続がフィ ルターとして正しく機能するために/審理では、裁判員に対する適切な説示を/評議・評決について /裁判員制度の下における上訴審のあり方/対象事件を否認事件に限り、被告人に選択権を/裁判員 に量刑判断を求める必要はない/厳罰化傾向/冤罪・誤判の防止のための国民参加に/裁判員経験者 の提言

謝辞

今村 核 (著)
出版社: 講談社 (2012/5/18)、出典:出版社HP