予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

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行動経済学のベストセラー

身近な実例をどう説明すればいいのか、行動経済学の学ぶ楽しさを一気に広めたベストセラーになります。、難しい言葉や数式もなく、どういう実験をしてみて、結果の考察として行動経済学の観点からどのように説明できるかの議論を大切にし、丁寧に物好を色々な角度からの視点を与えてくれます。

目次

はじめに

1章 相対性の真相
なぜあらゆるものは――そうであってはならないものまで――相対的なのか

2章 需要と供給の誤謬
なぜ真珠の値段は――そしてあらゆるものの値段は――定まっていないのか

3章 ゼロコストのコスト
なぜ何も払わないのに払いすぎになるのか

4章 社会規範のコスト
なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか

5章 無料のクッキーの力
無料!はいかにわたしたちの利己心に歯止めをかけるか

6章 性的興奮の影響

7章 先延ばしの問題と自制心
なぜ自分のしたいことを自分にさせることができないのか

8章 高価な所有意識
なぜ自分の持っているものを過大評価するのか

9章 扉をあけておく
なぜ選択の自由のせいで本来の目的からそれてしまうのか

10章 予測の効果
なぜ心は予測したとおりのものを手に入れるのか

11章 価格のカ
なぜ一セントのアスピリンにできないことが五〇セントのアスピリンならできるのか

12章 不信の輪
なぜわたしたちはマーケティング担当者の話を信じないのか

13章 わたしたちの品性について その1
なぜわたしたちは不正直なのか、そして、それについて何ができるか

14章 わたしたちの品性について その2

15章 ビールと無料のランチ
行動経済学とは何か、そして、無料のランチはどこにあるのか

謝辞
共同研究者
訳者あとがき
参考文献
原注

はじめに

一度のけががいかにわたしを不合理へと導き、ここで紹介する研究へといざなったかよく言われるのだが、どうやらわたしは、人とはちがったふうに世界を見ているらしい。おかげで、これまでの二〇年ばかりの研究者人生では、日々の決断に影響をおよぼしているものの正体を探り、(わたしたちが、ときにぜったいの自信を持ってこれにちがいないと思っているものではなく)ほんとうは何が影響しているのかつきとめるのをずいぶん楽しんだ。

ダイエットするぞと心に誓ったはずなのに、デザートを載せたカートが近づいてくると決意がどこかへ行ってしまうのはなぜだろう。べつに必要なものでもなかったのに、気づいたら目の色を変えて買いあさっていたりするのはなぜだろう。一セントのアスピリンを飲んでも治らなかったのに、五〇セントのアスピリンだと頭痛がうそのように消えてしまうのはなぜだろう。

モーセの十戒を思いだすように言われると、そう言われなかった人たちより(少なくとも直後は)正直になりやすいのはなぜだろう。それに、職場の倫理規定が実際に不正を減らすのはなぜだろう。本書を読みおえるころには、こうした疑問だけでなく、あなた個人の生活や、仕事や、世界観にかかわるさまざまな疑問への答えが見つかっていることだろう。

たとえば、先ほどのアスピリンの問題ひとつとってみても、その答えを知ることは、自分の薬をどう選ぶかだけでなく、わたしたちの社会が直面している重大な問題のひとつ、健康保険の費用と効果の問題にもかかわりがある。十戒が不正の抑制にどんな影響を与えるかを理解すれば、第二のエンロン事件を防ぐ助けになるかもしれない。また、衝動的にどか食いしたくなる仕組みを知ることは、人生のなかで衝動的にくだしてしまうあらゆる決断にかかわってくる。たとえば、まさかのときのために貯蓄することがなぜこうもむずかしいのかにも関係している。

この本を通じてのわたしの目標は、自分やまわりの人たちを動かしているものがなんなのかを根本から見つめなおす手助けをすることだ。さまざまな(そして、たいていはかなり愉快な)科学的実験や研究成果、逸話などを紹介することがよい道しるべになるのではないかと思う。ある種の失敗がいかに一貫しているか――わたしたちがいかに何度も同じ失敗を繰り返すかーがわかるようになれば、そのうちの一部は、どうすれば防げるかが見えてくるだろう。

これから、食事、買い物、恋愛、お金、ものごとの先延ばし、ビール、正直さなど、人生のいろいろな面について調べた、実用的で好奇心をそそるおもしろい(ときにはおいしい)研究を紹介する。だがその前に、わたしがいささか型破りなものの見方をするようになった原点であり、したがってこの本の原点でもあるできごとについて話しておくべきだと思う。悲劇的なことに、わたしがこの世界にはいったのは、何年も前の、愉快でもなんでもない事故がきっかけだった。

何も起こらなければ、一八歳のイスラエルの若者にとってごくふつうだったはずのある金曜日の午後のことだ。一瞬のうちにすべてが取り返しのつかないほど大きく変わってしまった。夜間に戦場を照らすためにかつて使われていたマグネシウム光が炸裂し、わたしは全身の七〇パーセントに三度のやけどを負った。

それから三年のあいだ、わたしは全身を包帯に覆われたまま病院ですごした。その後も、ごくたまに人前に出るような場合は、ぴったりした合成素材のスーツとマスクに身を包んで、できの悪いスパイダーマンのような格好をしなければならなかった。友人や家族と同じ毎日をすごすことができなくなり、社会から半分切りはなされたように感じた。そのため、以前は自分にとってあたりまえだった日々の行動を、第三者のように外から観察するようになった。

まるでべつの文化から(あるいは、べつの惑星から)来たよそ者のように、自分やほかの人のさまざまな行動について、なぜそうするのかを考えはじめた。たとえば、なぜわたしには好きになる女の子とそうでない女の子がいるのか。なぜわたしの毎日のスケジュールは、わたしではなく医師に都合よく組まれているのか。なぜわたしはロッククライミングが好きで、歴史の勉強は嫌いなのか。なぜわたしはまわりの人がわたしをどう思うか、こんなに気にするのか。そして何より、人生の何が人をその気にさせ、その行動をとらせるのかと考えた。

事故のあと、病院で何年かすごすあいだに、さまざまな種類の痛みをたっぷり経験した。そして、治療や手術のあいまに痛みについて考える時間もたっぷりあった。入院当初の毎日の苦痛は、ほぼ「入浴」につきた。この処置では、消毒液にひたされ、包帯をはずされ、死んだ皮膚をこすり落とされる。皮膚がちゃんとあれば、消毒液は少ししみるだけだし、包帯もたいていはすんなりはずせる。

しかし、重症のやけどを負ったわたしのように、皮膚があるかないかという状態だと、消毒液は耐えがたいほどしみるし、包帯は肉にくっついて、それをはずす(というより、むしり取ることが多い)のは、ことばでは言いあらわせないほどの激痛をともなう。「やけど病棟に入院してまだまもないころから、わたしは毎日の入浴を担当している看護師に積極的に話しかけるようにした。治療するときにどんなやり方をするのか知りたかった。

看護師たちは包帯をつかむと、きまってすばやく一気にはぎとった。短めの急激な痛みがくる。これを一時間ばかり繰り返して、すべての包帯をはずす。はずしおえると、体じゅうに軟膏を塗り、新しい包帯をする。そして、翌日にまた同じ作業の繰り返しとなる。

すぐにわかったのだが、看護師たちは包帯を勢いよく引っぱる鋭い急激な痛みのほうが、ゆっくり引きはがすよりも(患者にとって)好ましいという持論を打ちたてていた。ゆっくりはがすと、痛みはそれほど強くないが、処置の時間を長引かせることになるため、全体としてつらく感じるだろうというわけだ。

また、看護師たちは、包帯をはずす順序―体のもっとも痛いところからはじめてあまり痛くないところに向かうか、あまり痛くないところからはじめてもっとも激しく痛むところに向かうか―に差はないと判断していた。

包帯をはずすときの痛みを実際に体験した者として、わたしは看護師たちの(科学的に調べたわけではない)持論に賛成できなかった。そのうえ、看護師たちの理論には、まったく配慮できていない点もあった。処置を控えた患者が感じる恐怖や、時間とともに急激に変化する痛みに対処するむずかしさ、痛みがいつはじまり、いつやわらぐのか予測できないこと、痛みはだんだん治まりますよという元気づけの効果などが考慮されていなかった。しかし、どうしようもない立場にいたわたしは、自分が受ける処置のやり方についてどうすることもできなかった。

長期の退院ができるようになると(その後も五年のあいだは、手術や処置のためにときどき病院へもどらなければならなかったが、わたしはすぐにテルアビブ大学で学びはじめた。その最初の学期にとった授業が、研究というものに対するわたしの考えをすっかり変え、その後の人生をほとんど決めてしまった。ハナン・フレンク教授による大脳生理学の授業だ。

脳の働きについての興味をそそられる講義内容に加えて、わたしがいちばん感銘を受けたのは、疑問や異説に対するフレンク教授の姿勢だった。わたしは何度も授業中に手をあげ、教授の研究室に立ちよっては、授業で説明された実験結果はこうも解釈できるのではないかと提案した。すると教授は、わたしの仮説もたしかにひとつの可能性だ(見込みは低いが、それでも可能性は可能性だ)と答えて、その説と従来の説のちがいを示せるような実験を考えてごらんとけしかけた。

そのような実験を考えつくのはたしかに簡単ではなかった。だが、科学は実験の積みかさねであり、これにたずさわる人はだれでも(たとえわたしのような新入生でも)、仮説を検証する実験方法さえ見つけることができるなら新説を打ちたてられるのだという考えは、新たな世界を開いてくれた。あるとき、わたしはフレンク教授の研究室へ行って、てんかんのある症状が出る理由を説明する仮説と、それをラットでたしかめる方法を提案した。

フレンク教授が案を気に入ってくれたので、それからの三か月間、わたしは五〇匹ほどのラットの脊髄に手術でカテーテルを挿入し、そこからさまざまな物質を与えててんかん発作を起こさせたり、緩和させたりすることになった。このやり方の現実的な問題は、やけどのけがのせいで手が思うように動かないため、ラットの手術がむずかしいことだった。さいわい、親友のロン・ワイズバーグが(熱烈な菜食主義者で動物愛好家にもかかわらず)、何度か週末にいっしょに研究室に来て、手術を手伝ってくれた。

真の友情をためすテストがあるとすれば、これはそのひとつだろう。
結局、わたしの仮説はまちがっていることがわかった。しかし、わたしの熱意が消えることはなかった。なんといっても、自分の仮説についてなにがしか知ることができたのだし、たとえ仮説がまちがっていたにしろ、それをしっかり確認できたのはよかった。わたしはずっと、ものごとの働きや人間の行動についてたくさんの疑問を抱いていた。

だから、なんでも興味を持ったことをたしかめる手段と機会を科学が与えてくれると気づいたことで、人間の行動を研究する道にはまっていった。この新しい手段を得たわたしは、まず、人が痛みをどのように経験するかという問題に取りくんだ。当然ながら、入浴治療のように、患者に長いあいだ痛みを与えるにちがいない状況にもっとも関心があった。そのような痛みからくる全体的な苦痛を減らすことは可能だろうか?それからの数年間、わたしは自分や友人や志願者を対象に、熱や冷水や圧迫や大音量などによって引きおこされる肉体的な苦痛、さらには株式市場でお金を失うという心理的な苦痛を使って研究室で実験をおこない、その答えを探った。

研究を終えたときには、やけど病棟の看護師が患者の痛みを最小にする正しい方法論を持っていないことがはっきりした。みんな親切でやさしかったし(まあ、ひとり例外もいたか)、消毒液にひたしたり、包帯をはずしたりという経験は豊富だったが、それでも考えちがいをしていた。たっぷり経験を積んでいるはずなのに、これほどまちがってしまうのはどういうわけだろう。わたしはこの看護師たちを個人的に知っていたから、悪意や愚かさや怠慢のせいでないことはよくわかっていた。そうではなく、特有の先入観が邪魔をして、患者の痛みを正しく認識できないのだろうと思った。どうやらこの先入観は、豊富な経験をもってしても変えることができないらしい。

そんなわけで、ある朝、研究の成果をたずさえて、うきうきしながらやけど病棟にもどった。ほかの患者の包帯をはずす処置に役立てるかもしれない。わたしは、看護師や医師に、消毒液のなかで包帯をはずすような処置をするときは、強い力で短い時間でするより、もっと弱い力で長い時間をかけてするほうが痛みが少ないことが研究でわかったと話した。つまり、包帯を勢いよくはぎとるのではなく、ゆっくり引きはがしていれば、わたしもあれほど苦しまずにすんだ、ということだ。この結論を聞いて看護師たちは心底驚いていたが、わたしのほうも、エティという仲のよかった看護師のことばに同じくらい驚かされた。

エティは、自分たちが痛みについての理解に欠けていたことや、やり方を変えるべきかもしれないことを認めて、さらにこうつづけた。入浴治療で引きおこされる痛みを議論するときは、痛みに絶叫する患者を前にして看護師が経験する心理的な苦痛も考慮する必要がある。勢いよく包帯をはぎとるのも、ほんとうは看護師自身の苦痛を軽くするためだと考えれば(たしかに看護師たちはよくつらそうにしていた)、もっと納得がいくのではないか、というのだ。それでも、最後には処置のやり方を変えたほうがいいということで意見が一致し、実際に何人かの看護師はわたしの提案どおりに処置するようにもなった。

わたしの提案で包帯はがしの方法が(わたしの知るかぎり)もっと大々的に変わることはなかったが、このできごとは特別な印象となって心に残った。経験豊富な看護師たちが、これほど患者を気にかけているにもかかわらず、患者にとっての現実を取りちがえてしまうのだとしたら、ほかの人も同じように自分の行動の結果を取りちがえたり、そのせいで、繰り返し判断を誤ったりするのではないか。そう考えて、痛みの研究から視野を広げ、経験を積んでもそこから学ぶことなく失敗を繰り返してしまう状況について研究しようと決めたのだ。

というわけで、わたしたちがみんなどんなふうに不合理かを追求しようというのがこの本の目的だ。この問題を扱えるようにしてくれる学問分野は、「行動経済学」、あるいは「判断・意思決定科学」という。

行動経済学はわりあい新しい分野で、心理学と経済学の両方の面を持っている。わたしも行動経済学を応用して、退職後に備えての貯蓄が思うようにできないことや、性的に興奮していると頭がしっかり働かないことなど、あらゆる行動を研究してきた。といっても、わたしが理解したかったのは、行動だけではない。

その行動の背後にある、あなたやわたしやほかのみんなの意思決定という営みを理解しようと努めてきた。先をつづける前に、行動経済学とはなんなのか、ふつうの経済学とどうちがうのかを簡単に説明しておこう。まず、シェークスピアの一節からはじめたい。

人間とはなんとすばらしい傑作か!その崇高な理性!限りのない能力!形と動きのなんと的確でみごとなことか!その行動は天使のごとく、理解力は神のごとく!この世の美しさそのもの、
まさに生き物の鑑。
「ハムレット」第二幕第二場
人間性を優れたものととらえる見方は、経済学者も、政策立案者も、専門職でない人も、どこにでもいるふつうの人も共通に抱いているが、それがこの引用に反映されている。もちろん、この見方はだいたいにおいて正しい。

わたしたちの心と体は驚くべきことをなしとげる。遠くからボールが投げられたのが見えれば、その軌道と衝撃を瞬時に計算し、体や手を動かしてボールを捕ることができる。子どものうちはとくに、簡単に新しい言語を学ぶこともできる。チェスを習得することもできる。何千もの顔を混同することなく見わけることもできる。音楽、文学、科学技術、芸術を生みだすこともできる。あげていけばきりがない。

人間の心を高く評価しているのはシェークスピアだけではない。もっと言えば、わたしたちはみんな、自分のことをシェークスピアが言ったとおりの人間だと考えている(そのくせ、隣人、夫や妻、上司のこととなると、かならずしもこの基準にかなっているとは言えないと気づいている)。科学の領域では、わたしたちが完璧な理性を持っているというこの仮定が、経済学にはいりこんでいる。経済学では、まさにこの「合理性」とよばれる基本概念が経済理論や予測や提案の基盤になっている。

このように考えると、人間の合理性を信じるかぎり、わたしたちはだれもが経済学者だ。わたしはなにも、だれでも複雑なゲーム理論のモデルを直観的につくりあげたり、顕示選好の公理などというものをさらりと理解したりできると言っているのではない。そうではなく、経済学が基盤にしている人間性についての基本的な考えをだれもが持っているということだ。本書では、「合理的な」経済モデルと言った場合、経済学者の大半とわたしたちの多くが信じている人間性についての基本的な仮定を指す。つまり、わたしたちが自分について正しい決断をくだせるという、単純で説得力のある考え方のことだ。

人間の能力に畏怖の念を感じるのはたしかにもっともなことだが、人間の能力を心から感嘆することと、人間の理性が完璧だと仮定することのあいだには、大きなちがいがある。実を言うと、この本は、人間の不合理性、つまり、わたしたちがどれほど完璧とはほど遠いのかについて書いている。どこが理想とちがっているのか認識することは、自分自身をほんとうに理解するための探求に必要だし、実用面でも大いに役立つ可能性があると思う。不合理性を理解することは、毎日の行動と決断に役立ち、わたしたちを取りまく状況や、そこで示される選択肢がどのようにつくられているかを理解するうえでも重要になる。

もうひとつ、わたしの考えでは、わたしたちは不合理なだけでなく、「予想どおりに不合理」だ。つまり、不合理性はいつも同じように起こり、何度も繰り返される。消費者であれ、実業家であれ、政策立案者であれ、わたしたちがいかに予想どおりに不合理かを知ることは、よりよい決断をしたり、生活を改善したりするための出発点になる。

このことは、ふつうの経済学と行動経済学とのあいだでわたしをひどく悩ませる(シェークスピアなら*それが問題だ。と言ったかもしれない)。ふつうの経済学では、わたしたちはみんな合理的なため、日々の生活で直面するすべての選択肢について価値を計算し、最善の行動をとっていると予想する。

もし、まちがいを犯して、なにか不合理なことをしてしまったら?そんなときも、ふつうの経済学は答えを用意している。「市場原理の力」が降りかかり、わたしたちをただちに正しい合理的な道に押しもどすのだ。この仮定のもと、アダム・スミス以後、何世代もの経済学者たちは、課税から健康保険制度、商品やサービスの価格設定にいたるまで、さまざまなものに結論を与えてきた。

ところが、本書でこれから見ていくように、わたしたちはふつうの経済理論が想定するより、はるかに合理性を欠いている。そのうえ、わたしたちの不合理な行動はでたらめでも無分別でもない。規則性があって、何度も繰り返してしまうため、予想もできる。だとすれば、ふつうの経済学を修正し、未検証の心理学という状態(推論や、考察や、何より重要な実証的な研究による検証に堪えないことが多い)から抜けだすのが賢明ではないだろうか。これこそまさに、行動経済学という新しい分野であり、その小さな一端を担う本書の目指すところだ。

これから読んでもらう各章は、長年にわたってすばらしい研究仲間とおこなってきた実験にもとづいている(この優秀な共同研究者の面々を巻末で簡単に紹介している)。なぜ実験なのか?人生は複雑で、複数の力が同時にわたしたちに影響をおよぼしている。この複雑さのために、それぞれの力がわたしたちの行動をどう左右しているか正確に見きわめるのはむずかしい。社会科学では、実験は顕微鏡やストロボのようなものだ。

人間の行動のペースを遅らせてできごとをコマ送りで見られるようにし、それぞれの力を切りわけて、ひとつひとつ念入りに細かいところまで調べることができる。実験によって、わたしたちを動かしているものがなんなのか、じかに確実に検証できる。
もうひとつ、実験について強調しておきたいことがある。どんな実験も、その実験の条件にだけあてはまる教訓しか得られないのなら、実験の価値もかぎられたものになってしまう。そうではなく、実験は一般的な原理をあきらかにし、わたしたちがどのように考え、どのように判断をくだすのか――実験という状況にかぎらず、そこから推測して、人生のいろいろな状況においてどうなのかを見きわめる手がかりになるものと考えてもらえたらと思う。

そのため、どの章でも、実験から得られた結果を一歩進めてべつの状況にあてはめ、生活や仕事や政策にどうかかわりうるかという例を示した。もちろん、この例はほんの一部にすぎない。
ここから(そして社会科学一般から)真の価値を引きだすには、実験であきらかになった人間の行動の原理が自分の人生にどうかかわるか、読者であるあなた自身が少し考えてみる必要がある。そこで、一章読みおえるごとに立ちどまって自問することを提案したい。実験であきらかになった原理で、あなたの人生がよくなったり悪くなったりするだろうか。そして、もっと重要な問いはこれだ。人間性について新たに理解したことで、何かちがったやり方ができるだろうか。そこに、本物の冒険が待っている。
さあ、冒険に出発だ。