Newton別冊『学びなおし中学・高校化学 改訂第2版』 (ニュートン別冊)

【最新 – 高校化学を学ぶおすすめ本 – 社会人からでも、受験生基礎にも最適!】も確認する

身近な化学を学ぶ

身近な事例を多く取り上げながら、中学・高校で習う化学の基本を2章立てで紹介しています。身近なことに焦点を当てている点がこの本の特徴であるため、とてもとっかかりやすく、読みやすくまとめられています。これから化学を学ぶ生徒のみなさんや、学びなおしたい大人の方々にお勧めします。

ニュートンプレス
ニュートンプレス; 改訂第2版 (2020/6/18)、出典:出版社HP

はじめに

「化学なんて私には無縁」。そう感じる人もいるかもしれません。しかしあらゆる学問の中で,私たちの暮らしに最も身近で,最も欠かせないものが化学だといっても過言ではありません。化学の成果は,私たちの暮らしを便利に,そして快適にしてくれました。食品・日用品・スマートフォンといった身近なものに注目すれば,私たちの毎日がいかに化学に支えられているかがわかることでしょう。

本書は,身近な事例を多く取り上げながら,中学・高校で習う化学の基本を2章立てで紹介しています。

1章では,キッチン,家電製品,街や環境に目を向けながら,身近にひそむ化学のしくみを紹介していきます。2章では,物質の化学的な基本単位である原子の構造や,化学の“ガイドマップ”である周期表のくわしい読み解き方,化学反応のしくみなど,化学のテーマごとに解説していきます。

中学・高校で習う化学の範囲と本書のページとを示した対照表も収録していますので,本書を読んで道に迷った際には参考にしてください。

これから化学を学ぶ生徒のみなさんや,学びなおしたい大人の方々に,本書を通じて化学の面白さを実感していただければ幸いです。

2020年6月

ニュートンプレス
ニュートンプレス; 改訂第2版 (2020/6/18)、出典:出版社HP

目次

プロローグ
化学は身近なサイエンス
Interview 桜井弘博士

1 “見る教科書”化学
監修 桜井弘
イントロダクション ①~②
PART1 キッチンの化学
アボガドロ定数
浸透圧
酸と塩基
中和と塩
有機化合物
官能基
異性体
ベンゼン環
油脂

PART2 家電製品の化学
レアメタル
リチウムと電池
酸化・還元
ガラス
液晶
ハロゲン
気化熱

PART3 暮らしの化学
超臨界流体
燃料電池
触媒
プラスチック
生分解性プラスチック
炎色反応
同素体

資料編
周期表
無機化合物の反応
有機化合物の反応
本書と学習指導要領の対照表

2 もっと知りたい! 中学・高校化学
協力 玉尾皓平/桜井弘/岡部徹/松本正和/高橋邦夫/川那辺洋
林潤/中村栄一/伊藤章/中坪文明
PART1 原子の構造と元素の周期表
物質の探究
現在の周期表
周期表と電子配置
遷移元素
原子量と同位体
原子の半径
イオンの法則
イオンへのなりやすさ

PART2 元素の性質を知ろう
アルカリ金属
炭素とケイ素
貴ガスと水素
金属と性質と炎色反応
レアアース(希土類)
人体を構成する元素
宇宙の元素存在度

PART3 ものはどのように結びつく?
原子どうしの結合
分子どうしの結合 ①~②
ものの状態の変化 ①~②
気体の状態方程式
固体の構造

PART4 化学反応を学ぼう
化学反応とは
水に溶けるとは
酸・塩基と中和
中和と塩の性質
酸化と還元
炎と燃焼
イオンと電池

PART5 炭素が生み出す有機化学
有機化学と無機化学
周期表で見る炭素の“強み”
有機物の骨格
官能基のカラクリ
異性体
自然界の有機物
細胞の部品
人工の有機物
石油化学
薬学と有機物
有機化学の未来

ニュートンプレス
ニュートンプレス; 改訂第2版 (2020/6/18)、出典:出版社HP

化学は身近なサイエンス

スマートフォンも,紙も鉛筆も,あらゆるものが化学の結晶です!

「化学」のことを,遠いどこかの研究室で行われている,むずかしい学問だと思う人がいるかもしれません。しかし,それはあまり正しくありません。スマートフォンはもちろんのこと紙や鉛筆も,そして生きているあなた自身も,実は化学の結晶です。化学は,身近なサイエンスなのです。日々の生活を思い返して,ふだん何気なく見のがしている身近な化学をいっしょにさがしてみましょう。

執筆 桜井弘
京都薬科大学名誉教授

21世紀に生きている学生のあなたや化学を学び直そうとされるあなたと今日は身のまわりの化学について,少し考えてみることにしましょう。

あなたはきっと,スマートフォン(携帯電話)を毎日使っていることでしょう。スマートフォンで最もよく見るところは,文字や画像を映しだす画面ですね。この画面は,液晶という物質からできています。液晶は,炭素や水素,窒素,酸素などからなる有機化合物がつながった,大きな分子です。画面をより美しくみせるために,液晶にはいくつかの物質が加えられていて,中でも「インジウム」という元素がとくによく用いられています。
電車の中などでスマートフォンをマナーモードにしているとき,友達から電話やメールを受信すると,スマートフォンが振動してあなたに知らせてくれます。これは,スマートフォンの中に入っている,ごく小さなモーターが振動するからです。モーターを強く振動させるために,モーター内部にあるネオジム磁石には,「ネオジム」や「ホウ素」といった元素が加えられています。

スマートフォンには,ガリウムやリチウムも必要

スマートフォンの話を少ししただけなのに,日ごろあまり耳なれない。インジウムやネオジムなどの言葉がでてきました。でも,これでおどろいてはいけません。

スマートフォンをおおっているカバーを取りはずすと,とても複雑で小さな部品や回路があらわれます。これらの部品や回路には,骨格となるプラスチックや鉄,チタン以外に,タングステン,ニッケル,パラジウム,タンタル,ジルコニウム,ガリウム,リチウムなど,もうめまいがしてしまうような名前の元素が使われています。もしこれらの元素がなければ,スマートフォンはできないし,またすばらしい機能も生まれないのです。
スマートフォンに限らず,最近の薄型テレビやパソコン,ハイブリッドカーなどは,すべてこのような多くの種類の元素を必要としています。つまり,精密な機器や乗り物は,こんなにも多くの元素がなくてはできないものなのです。
精密な機器という言葉を使いましだが,実は,あなた自身こそ生きている精密機器です。あなたには,いったいどんな元素が含まれていると思いますか?
ヒトの体には,酸素や炭素,水素,窒素,カルシウム,リンなどの元素が,とても多く含まれています。さらに,硫黄やカリウム,ナトリウム,塩素,マグネシウムがその次に多くあります。しかし,ヒトは,これらの元素だけでは生きていけません。鉄,亜鉛,マンガン,銅,セレン,モリブデン,クロム,コバルト,ケイ素,ヨウ素,ホウ素などの元素がごくわずかにないと,ヒトは生きるエネルギーをつくることも,空気中の酸素を使って呼吸することもできません。
スマートフォンの高い機能を引きだすためには多くのめずらしい元素が必要であるように,あなたが生きていくためにもたくさんの種類の元素が必要なのです。
※:薄型テレビは,フラットパネルディスプレーを採用し,液晶パネル,プラズマディスプレーパネル,有機ELディスプレーパネルなどを使ったテレビのことで,極めて薄く,大型画面で大変見やすい。

氷の水分子は,整列して空洞をつくっている

ここでもう一度確認してもらいたいのは,あなた自身だけでなく,あなたが日ごろ使っている身近なものは,すべて元素でできているということです。私たちの身のまわりのものや自然界の物質をつくっている元素には,約90の種類があって,それぞれの元素は同じ名前の原子からできています。
そして,スマートフォンや私たちの体をつくっている元素(原子)は,それぞれ独立して存在しているのではなく,いくつかの元素(原子)どうしが結合して,分子として存在しています。水やアルコール,あるいはアミノ酸などは,すべて分子です。
私たちが住む地球には,一体どれくらいの種類の分子があるかを想像できますか?これまでにみつかった自然界に存在する分子と,長い時間をかけて人々が歴史の中でつくってきた分子を合計すると,2020年現在,約2億個以上にのぼります。この数は,毎日ふえていく一方です。私たちは日々,無数の元素と分子の組み合わせに囲まれて生きているのです。つまり,私たちの身近にあるものや現象は,すべて化学の対象なのです。いくつかの例を見てみましょう。
あなたは朝おきると,歯をみがいて,口を水ですすいで,それから朝食をとるでしょう。あなたが使っている練り歯みがきは,炭酸カルシウムやリン酸水素カルシウム,水酸化アルミニウムとよばれる分子を主成分としています。そしてそれにさわやかな香りをつけたり,虫歯予防のためのフッ化ナトリウムを加えたり,ある種の殺菌剤を加えたりしてできています。
次に,口をすすぐ水です。水は,1個の酸素原子(0)と2個の水素原子(H)からできている水分子(H2O)の集団であることは,すでに知っていますね。水分子は,「H-O-H」の順番で結合しています。この「H-O-H」は直線ではなく,104.5度の角度で,結びついています。
水分子どうしは水分子中の水素原子を仲立ちにして,長くつながるか,大きなかたまり(これを「クラスター」とよんでいます)をつくっていることがわかっています。しかし,水がどれくらい大きなクラスターをつくっているかについては,まだ十分にわかっていません。このことから,水は不思議な物質といわれています。
ところで,あなたは,氷も石油も水に浮かぶことは知っているでしょう。この二つの物質は,水の密度よりも小さいために水に浮かびます。でも,水と石油はまったくことなった物質です。
水は常温ではさらさらしていて,水分子が自由に動きまわっています。ところが0℃以下になると,水分子が規則正しく整列して,結晶(氷)に変化します。水も氷も同じ水分子なのに,分子の並び方がことなると,まったくちがった性質の物質に変化するのです。
氷は水分子と水分子の間にたくさんの空洞があるため,水よりも密度が小さくなります。同じ体積でくらべたとき,水の質量を1とすると,氷の質量は0.92です。氷が水に浮かぶのは,このためです。
一方の石油は,炭素原子の数が10~15個つながり,そのめいめいの炭素に水素原子が結合した分子です。同じ体積でくらべたとき,水の質量を1とすると,石油の質量は0.8~0.9です。これが,油が水に浮かぶ理由です。ついでに,石油に氷を入れたらどうなるかも,考えてみましょう(答はこのページの下)。
石油からつくられるものに,ペットボトルがあります。あなたもたまには,ペットボトルに入った天然水やジュースを買うはずです。このペットボトルの「ペット」の正式な名前は,「ポリエチレンテレフタラート」といいます。英語で表記した名前「polyethylene terephthalate」の略号が「PET」であることから,ペットとよんでいるわけです。
ペットは,エチレンテレフタラートという小さな分子が,およそ160個も直線状につながった大きな分子です。ペットボトルのほかに,写真のフィルムや磁気テープ,衣服などの繊維としても使われ,私たちの身のまわりに実に多くの製品があります。

1年に平均1トンもの食品がヒトの体を通過

さて,朝食にしましょう。私たちが毎日食べる食品は,おどろくほど多くの元素や分子でできています。大ざっぱにいえば,「炭水化物」,「タンパク質」,「脂質(油)」があり,これらは「三大栄養素」とよばれています。
炭水化物の一つであるデンプンは,「アミロース」と「アミロペクチン」という2種類の物質からできています。アミロースはブドウ糖が数十個から数千個直線状につながったもの,アミロペクチンは数万個のブドウ糖が枝分かれしてつながったものです。
タンパク質は,アミノ酸がいろいろな組み合わせで数珠つなぎになった物質です。アミノ酸は全部で20種類あり,中には硫黄を含むものもあります。血液の赤い色素は,「ヘモグロビン」という大きなタンパク質で,酸素を肺からとりこみ,全身に酸素を送っています。脂質は,「脂肪酸」と「グリセリン」という2種類の物質からできていて,高エネルギーです。
私たちは,三大栄養素だけでは健康を保てません。ビタミンやミネラルとよばれる無機元素をごく少量必要とし,さらに食物繊維なども必要です。たとえば,ビタミンAやビタミンB1が不足すると,それぞれ夜盲症や脚気という病気になります。鉄や亜鉛が不足すると,それぞれ貧血や味覚異常があらわれます。
私たちは,1年に平均して1トン(1000キログラム)の食品を取り入れています。ヒトの平均寿命を84年とすると,一生の間に84トンもの食品をとることとなります。これらがすべて元素や分子の形で体を通過して,そしてそれらが24時間中体内で化学反応を受けると考えると,想像をこえるものがあります。

黒鉛が鉛筆の芯から紙へ,紙から消しゴムへ

朝食を食べ終わると,学校へ,社会へ飛び出していきます。社会人生活をリタイアされた方もいらっしゃるかも知れません。学生のみなさんは,学校でたくさんの勉強をすることでしょう。
本やノートをつくっているのは,紙です。紙は,紀元前2世紀ころに中国で生まれ,蔡倫という人が実用化したと伝えられています。紙は,「セルロース」という物質からできています。セルロースはブドウ糖が直線状につながった大きな分子で,炭水化物の一つです。
授業中,黒板の文字をノートに写し取ったり,教科書の問題をノートで解いたりします。もしうっかりまちがえてしまっても,鉛筆やシャープペンシルの文字は消しゴムで消せるから安心です。
1770年イギリスの化学者ジョゼフ・プリーストリー(1733~1804)は,鉛筆の文字が天然のゴムで消えることを発見しました。その2年後の1772年,ロンドンで初めて消しゴムが販売されると,またたく間に世界中に広まったそうです。プリーストリーは,さらに2年後の1774年に,空気中に酸素分子があることを発見して有名になりました。ではどうして,鉛筆の文字は消しゴムで消えるのでしょうか?
鉛筆の芯は,黒鉛(炭素のみからできていて,「グラファイト」といいます)と粘土を,1000~2000°Cで焼き固めたものです。鉛筆の芯を紙に押しつけると,黒鉛が紙の表面に移り,文字となってみえます。このとき,鉛筆の芯はかたいため,黒鉛が紙の凹凸の中にはあまり入っていきません。その上を消しゴムでこすると,今度は黒鉛が消しゴムにくっついて,紙をはがすことなく文字を消すことができるのです。
最近では,ゴムのかわりに「ポリ塩化ビニル」とそれを固まらせる物質(可塑剤といいます)でできたプラスチック字消しが使われています。あなたも,きっと使っているでしょう。ゴムが含まれていないのですから,もはや“消しゴム”とはよべないことに注意してください。このプラスチック字消しは,わが国で考えられたものです。

これまで,いくつかの身のまわりの化学のことを紹介してきました。私たち自身や私たちの日々の生活が,歴史と化学の結晶でなりたっていることをわかっていただけたと思います。そして化学のことを,前よりも好きになっていただけたのではないでしょうか。

ニュートンプレス
ニュートンプレス; 改訂第2版 (2020/6/18)、出典:出版社HP

Newton Special Interview 桜井弘博士

真っ白な紙に絵をかくように,物質をつくりだす

高校のころは化学の授業に興味をもてず,ついにはきらいになってしまった。そんな桜井博士は,一転,大学で薬学を学び,化学の道へ進んだ。現役の研究者時代には,新薬のもとになる化合物を生みだし,「元素」に関する書物をいくつも世に送りだしてきた。現在は,子供から大人まで幅広い世代に元素や化学のおもしろさを伝える活動を行っている。桜井博士に化学の楽しさをうかがった。

○N 今日は京都大学総合博物館でお話しをうかがうことになりました。現在,桜井先生は,ここで毎週土曜日に開催されている「子ども博物館」というもよおしにボランティアとして参加されているそうですね。
桜井 子供たちに「えれめんトランプ」というカードゲームを紹介しています。もともと京都のある高校の先生が発案されたもので,それを株式会社化学同人が制作し,発売しているものです。私は監修者として協力しています。
118ある元素それぞれのカードと,素粒子のカードがあり,それらを使って「UNO」のような遊びをします。子供たちは夢中になって遊んでくれますよ。なかにはすべての元素を覚えてしまっている子もいて,私も負けることがあります。
○N 子供の記憶力はときにおそろしいほどすごいことがありますね。
先生ご自身は,どのような子供だったのですか?
桜井 私は絵をかくのが大好きな少年でした。クレヨンや水彩絵の具でいろんなものをえがいていました。将来は画家になりたいと漠然と思っていました。今でも絵をかくのは好きで,最近よくやっているのは木の板にえがくことです。
○N化学の道に進もうと思われたのは,いつのことなのでしょうか?
桜井 大学です。高校のころは,授業に興味をもつことができなくて,ついには化学がきらいになってしまいました。ただ,デンプンとか脂肪とかの化学構造を立体的にえがくことは好きでしたね。大きな紙に何度もえがいてながめているうちに,その構造の美しさやユニークさにひかれていきました。
高校を卒業したあとは,美術系の大学か文学部へ進みたいと思っていたのですが,父のすすめにより,薬学部へ行くことにしました。「これからは化学の時代だ」といわれたのを覚えています。

「錯体」と出会った日は感動で眠れなかった

○N京都大学の薬学部に入られたわけですが,最初から研究者を志していたのでしょうか?
桜井 いいえ,就職しようと考えていました。
○Nどうして研究者の道を歩むことになったのですか?
桜井 どうしてでしょうね,だんだんとそう思うようになったのでしょうか。
印象的なできごとがあったのは,薬学部に入って3年目の実習のときのことです。助手の方が自分で合成したばかりだという新しい化合物をもってこられて,それと金属イオンとを反応させる実験を見せてくれました。二つを混ぜたとたんパッとあざやかな色が試験管いっぱいに広がり,まるで手品を見ているようでした。おどろきと感動でその日は眠れませんでした。化学には,こんな世界が広がっているのだと夢見る思いでした。
これが「錯体化学」とのはじめての出会いでした。
○Nその後,半世紀近く研究者として関わることになる「錯体」ですね。錯体とは,どのようなものなのでしょうか?
桜井 錯体は,金属とおもに有機化合物が結合した化合物のことです。「錯塩」ともいいます。
身近なものなら,血液中の赤血球に含まれている「ヘモグロビン」が錯体です。タンパク質という有機化合物に,金属の鉄がくっついたものです。
「シスプラチン」という化合物を知っていますか?がんの治療薬で,アンモニアと白金が結合したものです。これも錯体です。シスプラチンは,私が大学院生のころにアメリカで開発されていた薬です。
また,そのころヨーロッパやアメリカでは金属と生体との関係をあつかう「生物無機化学(bioinorganic chemistry)」という新しい学問が生まれようとしていました。私は生物無機化学こそが将来の薬学に必要な学問だと思い,生物無機化学を研究することを決意しました。とくに私は,「錯体そのものを薬にしよう」と考えていました。
○N錯体が薬になることは今ではよくあることなのでしょうか?
桜井 いいえ,今ある薬の99%は有機化合物です。錯体の薬はめずらしいといえます。
○N先生はどのような薬の研究にたずさわってこられたのでしょうか?
桜井 いろいろな研究をしてきましたが,定年までの10年間くらいで成果が出たのは,亜鉛やバナジウムを使った錯体です。ニンニクから抽出される「アリキシン」という有機化合物を骨格に使います。
調べてみたところ,この錯体は,血糖値を下げるインスリンの分泌を促進する効果があることがわかりました。細胞やマウスを使った実験では,糖尿病やメタボリックシンドロームを改善できました。製薬会社から「薬にしましょう」という話をいただいたのですが,定年後はのんびり暮らしたいと思い,実用化はめざしませんでした。
○N有機化合物と金属をくっつけて錯体をつくることは,むずかしいことなのでしょうか?
桜井 それ自体は簡単です。むずかしいのは,いかに薬として有効な錯体を生みだすかです。
まずは,化合物の形を設計し,それをもとに合成します。合成できたら,細胞や実験動物を使って,それがどのようなはたらきをするのかを確かめます。京都薬科大学の私の研究室では,学生や大学院生たちもこの流れで実験を行っていました。
膨大な数の実験をして,そのうち効き目のある化合物がいくつできるか,というところです。失敗の方が多いですよ。

元素の物語から「生きた歴史」を学ぶ

○N 先生が編集された1997年出版の『元素111の新知識』は,元素の性質や発見の歴史について一般の人むけに書かれた一冊です。2016年に元素周期表の第7周期までのすべての元素名が定められたことを受けて,2017年に『元素118の新知識』としてリニューアルされました。
桜井 この本では元素それぞれの発見や研究について,その物語をていねいに紹介しています。改訂版の冒頭では,日本発の元素である「ニホニウム」の名前が決定したときの記者会見や,さまざまな鉱物の写真をのせました。
○N 先生は元素というのものをどうとらえていらっしゃいますか?
桜井 宇宙の起源,地球の起源,生命の起源は,現在ではすべて元素から語られています。「私たちは星のかけら」とよくいわれるように,私たちの存在は星の起源までさかのぼり,生命は元素から考える時代になっています。
宇宙をつくっている元素,人をつくっている元素,身のまわりのすべてをつくっている元素,すべての基本となっている元素を身近に知り,感じることは化学を好きになる原点ではないか思います。
○N 元素は一つ一つにちがった物語があって読んでいて興味がつきません。
桜井 そうですね。それぞれの元素が発見された経緯や歴史的背景を調べていくと,元素が発見された時代の社会構造,文化・芸術・社会生活の高さ科学技術の発展の度合い,そして元素発見にたずさわった人々のふるまい方などを知ることができます。すなわち,元素の世界から生きた歴史を学ぶことができると思います。
○N 生きた歴史,ですか。
桜井 そうです,そこがいちばん楽しいところだと思います。
そして,重要なことは,これらの歴史を知ることによって,科学に対する考え方がみがかれるという点です。ひいては,自分はどう生きればいいか,そのヒントが得られることにもなります。
○N具体的にはどのような話がありますか?
桜井 たくさんの話がありますが,ダイヤモンドがおもしろいかもしれません。
ダイヤモンドは,炭素のかたまりです。今の私たちは知識として知っていることですが,何世紀も前にはだれも知りませんでした。では,それを確かめるにはどうしたらよいか?それは,燃やしてみることです。
フランスの大化学者であるアントワーヌ・ラボアジエは,ダイヤモンドを実際に燃やしてしまいました。炭素でできていることを確かめるために,高価なダイヤモンドを燃やしてしまう,その化学者の心はどのようなものでしょうか。化学に対する姿勢が問われるようなエピソードだと思います。

リチウムについても興味深い話があります。リチウムを発見したのは,アルフェドソンというスウェーデンの化学者です。アルフェドソンは,新しい元素をみつけたことを師匠であるベルセリウスに報告します。ベルセリウスは,新元素は「石」からはじめてみつけられたため,その名前は,ギリシャ語で「石」を意味する「リトス」にちなんで,リチウムにしてはどうかと提案するのです。
この場合,現代でしたら,リチウムの発見者は「アンフェドソンとベルセリウス」になるでしょう。アンフェドソンは,ベルセリウスの下で研究を行っていたのですから。でも,ベルセリウスはそうはさせませんでした。発見したのはアンフェドソンなのだから,自分の名前は入れなくてもよいと告げたのです。
このような師弟の心温まる話を聞くと,自分も生き方を問われるような気がします。
○N子供たちにとって,元素は化学の入り口として最適かもしれませんね。
桜井 元素の楽しさ,おもしろさを知るには,文部科学省が発行している「一家に1枚周期表」や「えれめんトランプ2.0」があるといいですね。これらを利用して,子供たちとともに遊び,元素の世界へ,そして化学の世界へ入りこみ,子供たちが自ら化学のおもしろさに関心をもってくれればと願っています。

今までこの世になかった新しい物質をつくりだす

○Nあらためてうかがいます。化学の楽しさ,おもしろさはどのような点にあると思われますか?
桜井 化学の楽しさは,真っ白な紙に絵をかく,あるいは青空の下に一戸の住宅を建設することと同じように,元素どうし,化合物どうし,あるいは元素と化合物を結合させて,今までこの世になかった新しい物質をつくることだと思います。
文献を調べ,合成方針を考えて決め,失敗をくり返しながらの作業は,ときには苦しいことがありますが,未知への憧れにあふれています。合成に成功し,論文として世界の人々の目にふれ,評価されたときの喜びと充実感は,何事にもかえがたい貴重な体験となります。
○N 今までこの世になかった新しい物質をつくると聞いて,金や不老不死の薬を生みだそうとした錬金術を思い浮かべてしまいました。
桜井 錬金術は化学の祖先のようなものです。元素の中にはただ一つだけ,金術師によって発見されたものがあるのをご存知ですか?それは,リンです。偉大な科学者ニュートンも錬金術師だったのですよ。私たちが今使っている化学の実験器具の多くは,錬金術師がつくったものが元になっています。
○N現代の化学は錬金術の系譜にあるわけですね。実験器具の話が出ましたが,実験というのも化学の楽しさの一つですね。
桜井 私も実験は大好きです。蒸留なんかはやりはじめるととても楽しいですよ。昔はガラスを買ってきて,バーナーでとかして器具を自作したこともありました。
○N楽しそうですね。
桜井 現代はあらゆる化学の分野が花ひらき,あふれるばかりの情報を得ることができます。しかし,まだ人類が知らない化学がかくれているかも知れません。かくされている不思議を見つけようとする姿勢が,化学の楽しさ,おもしろさではないでしょうか。

身のまわりのことは化学で話ができる

○N小中学校へ出前授業をされることもあるとうかがいました。そんなとき,子供たちにはどのようなことを伝えていますか?
桜井 イギリスの化学者マイケル・ファラデーが1860年から61年にかけて講演した「少年少女の聴衆のためのクリスマス講演」の記録は,『ロウソクの科学』として出版されて,世界中で読まれています。私もこの書物を大学生のころに読み,ロウソクはいかに燃えつづけるかを知り,感激しました。機会があるたびに,私はこの書物を読んでごらんと子供たちにすすめています。
この講演の最後で,ファラデーは子供たちに「来るべき皆さんの時代において,ロウソクのようになってほしい」といっています。皆さんは,ロウソクのように光り輝いて,世界を照らしてくださいと願っているのです。この言葉はとてもすばらしく,私が大事にしている言葉です。私は,ロウソクを化学の力に置きかえられると思います。化学の力で世界を明るくしてほしい,そう願っています。
○N2018年6月には先生ご自身が執筆された『宮沢賢治の元素図鑑』が刊行されました。
桜井 実はそうなんです。小さいころから宮沢賢治が好きで,詩集などをよく読んでいました。学生になって,元素の名前を教科書で目にすると,「どこかで聞いたことがあるな」と思うのですが,それは賢治の著作に登場するものだったんです。
定年したのを機に全集を買って,どこにどんな元素が出てくるのかを調べてまとめてみました。おもしろいほどたくさん登場するんですよ!そういう目で賢治の作品を読み直してみると,またちがった風に感じられて,楽しいものです。

○N昔,宮沢賢治にふれた世代の人たちがもう一度読みたいと思ってくれるかもしれませんね。
桜井 ちょうど今,おもにそういった世代の人を対象に講座をひらいているところです。
食品は化学の対象ですか,という問いかけからはじめて,元素の話,薬の歴史,日本のお香の話など,いろいろな話題をもりこんでいます。元素には118種類あって,私たちの体もそのうちのいくつかの元素からできているんですよという話をすると,おどろかれる人もいますよ。
その講座の最終回では,文芸と化学というテーマでお話しをします。宮沢賢治と元素の話もしています。
○Nいろいろなことを化学の視点で語ることができるのですね。
桜井 身のまわりのことはほとんどすべて化学で話ができるのではないでしょうか。ニュースや新聞に出てくる用語の意味やその背景にあることがわかるようになって楽しいという声をいただいています。
○N今日はたくさんのお話しをありがとうございました。

ニュートンプレス
ニュートンプレス; 改訂第2版 (2020/6/18)、出典:出版社HP