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コロナ時代のイタリアの様子を知る
2020年春、新型コロナウイルスの感染者が急増し、イタリアで非常事態宣言が出され、外出が制限されるようになりました。本書は、イタリアを代表する小説家が非常事態宣言時のローマで書いた感染症のエッセイ集です。
目次
地に足を着けたままで
おたくの午後
感染症の数学
アールノート
このまともじゃない非線形の世界で
流行を止める
最善を望む
流行を本当に止める
慎重さの数学
手足口病
隔離生活のジレンマ
運命論への反論
もう一度、運命論への反論
誰もひとつの島ではない
飛ぶ
カオス
市場にて
スーパーマーケットにて
引っ越し
あまりにたやすい予言
パラドックス
寄生細菌
専門家
外国のグローバル企業
万里の長城
パン神
日々を数える
著者あとがき
「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」
訳者あとがき
地に足を着けたままで
今、コロナウイルスの流行が、僕らの時代最大の公衆衛生上の緊急事態となりつつある。この手の危機は初めてではない。これが最後ということもなければ、もっとも恐ろしい危機となることもないかもしれない。きっと、いったん終息すれば、過去に流行した多くの感染症を犠牲者の数で上回ることもないだろう。だが、今度の感染症はその登場から三カ月ですでにひとつの記録を樹立している。
新型コロナウイルスことSARS-CoV2は、こんなにも短期間で世界的流行を果たした最初の新型ウイルスなのだ。ほかのよく似たウイルスは、たとえば前回のSARS-CoV、いわゆるSARSウイルスもそうだが、発生しても短期間のうちに鎮圧された。さらにHIVをはじめとするほかのウイルスは、何年もかけてひっそりと悪だくみを練り上げてから、ようやく流行を始めた。
ところがSARS-CoV-2のやり方はもっと大胆だった。そしてその無遠慮な性格ゆえに、僕らが以前から知識としては知っていながら、その規模を実感できずにいた、ひとつの現実をはっきりとこちらに見せつけている。すなわち、僕たちのひとりひとりを――たとえどこにいようとも互いに結びつける層が今やどれだけたくさんあり、僕たちが生きるこの世界がいかに複雑であり、社会に政治、経済はもちろん、個人間の関係と心理にいたるまで、世界を構成する各要素の論理がいずれもいかに複雑であるかという現実だ。
この文章を僕が書いている今日は、珍しい二月二九日、うるう年の二〇二〇年の土曜日だ。世界で確認された感染者数は八万五千人を超え、中国だけで八万人近く、死者は三千人に迫っている。少なくとも一カ月前から、この奇妙なカウントが僕の日々の道連れとなっている。
現に今も、ジョンズ・ホプキンズ大学がウェブで公開している世界の感染状況を集計した地図を目の前の画面に開きっぱなしにしてある。地図上で感染地域は灰色の背景に鮮やかな赤丸で示されている。警告色だ。配色はもっと慎重に決めてみてもよかったかもしれない。でもきっと、ウイルスは赤、緊急事態は赤、と相場が決まっているのだろう。中国と東南アジアはたったひとつの大きな赤丸の下に隠れて見えない。しかし、残りの世界も赤いぶつぶつだらけだ。発疹は悪化の一途を遂げるに違いない。
イタリアは、この不気味な競争の上位入賞を果たし、多くの人々を驚かせた。だが、これは偶然の産物だ。数日のうちに、ひょっとしたら突然、ほかの国々が僕たちよりもずっとひどい苦境におちいる可能性だってある。今回の危機では「イタリアで」という表現が色あせてしまう。もはやどんな国境も存在せず、州や町の区分も意味をなさない。今、僕たちが体験している現実の前では、どんなアイデンティティも文化も意味をなさない。今回の新型ウイルス流行は、この世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、からみ合っているかを示すものさしなのだ。
僕はそうしたすべてを理解しているつもりだが、それでもイタリアの上にある赤丸を見れば、暗示を受けずにはいられない。みんなと同じだ。僕のこの先しばらくの予定は感染拡大抑止策のためにキャンセルされるか、こちらから延期してもらった。そして気づけば、予定外の空白の中にいた。多くの人々が同じような今を共有しているはずだ。僕たちは日常の中断されたひと時を過ごしている。
それはいわばリズムの止まった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ。
僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回のすべてを考えるための理想的な方法を見つけるために。時に執筆作業は重りとなって、僕らが地に足を着けたままでいられるよう、助けてくれるものだ。でも別の動機もある。この感染症がこちらに対して、僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくないのだ。いったん恐怖が過ぎれば、揮発性の意識などみんなあっという間に消えてしまうだろう。病気がらみの騒ぎはいつもそうだ。
読者のみなさんがこの文章を読むころには、状況はきっと変わっているだろう。どの数字も増減し、感染症はさらに慶延して世界の文明圏の隅々にいたるか、あるいは鎮圧されているかもしれない。だが、それは重要ではない。今回の新型ウイルス流行を背景に生まれるある種の考察は、そのころになってもまだ有効だろうから。なぜなら今起こっていることは偶発事故でもなければ、単なる災いでもないからだ。それにこれは少しも新しいことじゃない。過去にもあったし、これからも起きるだろうことなのだ。
おたくの午後
高校の最初の二年間、ひたすら数式を整理して過ごした午後のことは今もよく覚えている。教科書から物凄く長い記号と数字の列を書き写し、一歩一歩、式を変形し、0、-1/2、a2、といった簡潔でしかも理解可能なかたちにしていく。窓の外が段々と暗くなり、風景が消え、やがてランプに照らされた僕の顔がガラス窓に浮かび上がる。平和な午後の数々。それは秩序のシャボン玉だった。自分の心の中のことも外のことも―とりわけ中のほうだったが何もかもが混沌に向かうように思えたあのころの僕にとっては。
文章を書くことよりもずっと前から、数学が、不安を抑えるための僕の定番の策だった。今でも朝起きてすぐ、その場で思いついた計算をしてみたり、数列を作ってみたりすることがあるが、たいていそれは、何か問題がある時の症状だ。そんな僕はおそらく、数学おたくと呼ばれても仕方のない人種なのだろう。別に構わない。気まずいが、まあ、自業自得ということにしておこう。でも、この瞬間、数学は単なるおたくの暇つぶしではなく、現在進行中の事象を理解し、自分の受けた暗示の数々を振り払うために欠かせぬ道具となっている。