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キリスト教について理解を深める
日本人著者でよくありがちな知識偏重型のキリスト教論とは異なり、信仰体験やキリスト教の真髄本質を理解されている方の書物です。わかりやすくてとても楽しく読めるので多くの日本人におすすめです。
はじめに
キリスト教の風光
私は一九五一年生まれですが、たぶん典型的な戦後日本の宗教風土の中で育ちました。兵庫県の地方都市にあった父の実家はいちおう臨済宗のお寺の檀家でしたが、法事をするくらいで、祖父も祖母もそれほど仏教というものがわかっていたとは思いません。子供のころ、夏休みに祖父の家を訪れての思い出は、蝉がミンミンと鳴く寺の木立の中のお墓、そして家屋の暗い一室に並べてあった位牌です。暗がりの中に揺れるローソクの灯りと、位牌の金文字が目に残っています。
父は神戸に出て来ていたので、普段はお寺とは没交渉でした。父が子供を連れて行ったのは、むしろ神社です。正月にはよく京都の北野天満宮に家族で行きました。教育熱心だったので、勉強がよく出来るようになって、(漠然としたイメージではあるけれど)ひとかどの人物になってほしいと思ったのでしょう。私が小学生中学生だったのは六〇年代です。「立身出世」という言葉がまだまったくの空語ではなかった時代です。
その私が三十歳になって、カトリック信者になりました。大学の法学部を卒業したあと、典型的な日本の大企業(電機系)に就職したのですが、いろいろ考えるところがあって、入社六年目、一九八一年に洗礼を受けました。そして、さらに一年在社したのち退職して、カトリックの神父への道を歩み始めました。六年間そのための勉強をしてから神父になって、もうすぐ三十年です。
今の私はカトリック信者になって良かったと思っています。大胆に言うと、より幸福になりました。その「幸福」を、できるだけ宗教的な語彙を使わずに、世俗に近い言葉で話してみる。それがこの本の執筆趣旨です。皆がキリスト者(キリスト教の信者のこと)になるべきだとは思っていませんが、私にとって良かったことを「それは自分にも良いことかもしれない」「人生の役に立つかもしれない」と感じてくれる読者がいれば嬉しいと思っています。
キリスト教を唯我独尊、押し付けがましい宗教だと思っている人は多いようです。たしかにそのように振舞った時期があるので、まったくの誤解だとは言えない。しかし、現在のキリスト教の主潮はそうではありません。長い伝統を持つ他の宗教にも敬意を持っており、その宗教の道を歩いても良い人生を送ることができるだろうと考えています。とは言っても、良い人生というその「良さ」は宗教によってやはり違うはずです。「わけのぼる麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」という歌があって、どの宗教も到達する場所は同じようなものだという考え方をする人もあります。しかし、どの宗教の道でも頂上にまで達したと言える人はそういないはずだし、まして複数の道を登り切った人がいるとは思えません。同じ高嶺の月を見たとどうして言えるのか、ちょっと不思議です。それに、宗教は現実に地上を生きている人たちの営みですから、その実体は到達点よりも、実際に歩く道の風光の中にあります。歩く道の風光の中に、いつか到達するはずの頂上の美しさを予感するとも言えるでしょう。キリスト者の歩く道の風光を、本書で紹介したいと思います。
キリスト教信仰の要約
哲学者のフィヒテが言ったことだそうですが、「定式化するということは、人間が人間に対してする最大の親切の一つである」。思想とか宗教とか文学について言われた格言でしょう。ジャン・ギットンがさらにそれに注釈して、こう書いています。
それは知恵のしみとおった定式でなくてはならず、知恵のはたらきを少しもやめないでいて固定する定式でなくてはならない。
(J・ギットン『新しい思考術」中央出版社)
世の中には価値のあるもの(そう主張されているもの)がたくさんありますが、それを全部片っ端から自分で品定めしていくことなんかできません。しかし、誰かに「ポイントはこういうことなんだ」と定式的に要約してもらえると、それじゃ門を入ってみようかという気になることがあります。そしてその要約は、さらに深く入って行くための導きの糸にもなります。つまり、要約の中のあるフレーズをさらに展開するという形で理解を深めていくと、迷子にならずにすみそうです。それをキリスト教信仰についてやってみました。私はこう要約します。
キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない。キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むことである。その旅路の終着点は、「神の国」と呼ばれる。
キリスト教は長い歴史を持ち、広大な地域に広がる思想的社会的運動ですから、一つの要約でその全体を網羅することはとてもできません。たとえば、キリスト教とは、「神の子が十字架上で死ぬことによって人類の罪を贖った」と信じる宗教だと聞いている人もあるでしょう。それはそれで間違いではないのですが、日本人にとってのキリスト教信仰への入り口としては適切でないと思うので、私の要約の中ではクローズアップされていません。「神と人がともに旅路を歩む」の中に含ませているつもりです。
私は現代の日本人がキリスト教についていくらか知ろうとするなら、この要約を入り口にするのが最もよいと考えています。人間がこの地上を生きることの最も深い充実は、「一対一」の関係性を深めることの中に見出せると思うからです。本書では、この要約を、手を変え、品を変えして展開していきます。もちろん、別の要約の仕方のほうが適している人もあることは承知です。
映画やドラマのパターンの一つであるロードムービー(Road Movie)を考えてもらうと、「語り合いながら、ともに旅路を歩む」ということのある程度のイメージがつかめると思います。ある事情があって、二人が旅をはじめます。一人で出発して、途中で相棒に出会うこともあるし、最初から二人のこともあります。ロードムービーはアメリカ映画に多いですが、西海岸から東海岸までとか、長い旅をします。だいたい自動車に乗って旅をしています。その途中でいろんなことが起こる。旅に出るということは、人生について何か割り切れないものを抱えているということなんですが、一緒に旅をしながら、事件が起こって考えさせられたり、あるいは人と出会って話をしたりする。その中で、どうしても割り切れなかったものが少しずつ解きほぐされていって、出口が見え始める。同時に旅路もどこかに到着します。これがロードムービーです。
日本で最も有名なロードムービーは、高倉健が主演した「幸福の黄色いハンカチ』です。殺人罪を犯して刑務所に入っていた中年男が、妻の住む家に向かって旅をします。受け入れてもらえるかどうか、不安です。途中で若いカップルと出会って、一緒に旅をすることになります。未熟な二人ですが、彼らと交流することで、中年男も少しずつ心が変わってくる。若い二人も人生の辛苦を額に刻んだ中年男と交流するうちに少し成長していく。そしていつしか、目的地、つまり妻の住む家に到着する。エンディングはもちろん幸福な再会です。「ロードムービーに外れなし」と言いたいくらい、どの作品をとってもそれなりに良いという気がします。人生の根源的なパターンを踏まえているからでしょうね。普通に会社や家でずっと暮らしていても、人生は旅路であると考えることができます。そこには旅路の友というものがある。そして旅路には目的地があるということです。ロードムービーは、もともと日本にはない発想です。弥次喜多道中で人生は変わらない。キリスト教信仰と結びついた人生の見方だと思います。キリスト者にとって、旅の道連れはイエス・キリスト自身です。
神と人間を類比的に考える本書では、「人と人が一緒に旅路を歩む」ということについて、いくらかの自己啓発的な知恵も提供したいと思っています。ノン・クリスチャンの方々の参考にもなることを期待しているので、その根拠を述べておきます。
カトリック・キリスト教は、神について語ろうとするとき、人間との類比(アナロジー)を用います。人間の事情から推し量って、神の事情を理解して、それを語ろうとします。類比的思考の一つは属性に関わる類比です。「神は自由である」と言うなら、それは「人間は自由である」こととの類比で言っているのです。もちろん、神について言われる自由と、人間について言われる自由がまったく同じであるはずはありません。しかし、重なり合う部分が相当あるはずだと考えるのが、属性の類比的思考です。聖書によれば、人間は「神の似姿」として創造されたからです(創世記1章8節)。
そこから出発して、どこが重なり合い、どこが違うのかを考察するという仕方で理解を深めていきます。考察といっても、安楽椅子に座って哲学的な思考をめぐらすだけではありません。人間社会の中で実際に自由を生きようとするのです。また、神との関係を生きようとします。本論で詳しく述べることですが、キリスト者にとって神との関係は、単なる理念ではなく、現実の関係です。そうする中で、「神の自由」と「人間の自由」を体得していきます。神の自由について理解が深まるだけでなく、そこからの照り返しで、人間が自由であるとはどういう意味かについての見方も深まります。
もう一つの類比的思考は、関係性に関するものです。神と人間のあいだの関係は、人間Aと人間Bのあいだの関係になぞらえて理解することができます。比例式にすると、こうなります。
神:人間=人間A:人間B
人間と人間が一緒に歩む経験から、神と人間が一緒に歩むことについて理解を深めていきます。また一方で、キリスト者が神と共に歩んだ経験に支えられて、人間と人間が一緒に歩むことについての洞察を深めていきます。この循環の中で、キリスト者の生き方はスパイラル的に少しずつ深まっていくものです。そして、後者、つまりキリスト者が体得した「人と人が一緒に歩む」ことについての実践的な知恵は、キリスト教信仰を共有しない方にも何らかの参考になるのではないかと期待しています。
目次
はじめに
第1章 キリスト教は役に立つか
1 キリスト教も現世利益を祈る
2 「祈り」とは「対話」である
3 神と人間はどのように語るのか
4 「神との対話」は自問自答ではない
5 神は、いつもそこにいる
6 神と交渉できるのか
7 神にはユーモアも通じる
8 神には文句も言える
9 神が人間に質問する
10 神は全能者・全権者である
11 神とは誰のことか――三位一体を考える
12 願い事は叶うのか
13 願い事の叶い方にはいろいろある
14 祈りの時間感覚
15 祈りを向上させるのは、祈ることそのもの
16 奇跡がなければキリスト教じゃない
17 キリスト教は肯定する
18 なぜ世界には悪や不幸が溢れているのか
19 神と折り合いがつかない
20 神との対話が始まらない場合
21 なぜ願いが叶わなくても信じる人がいるのか
22 キリスト教信仰のパラドックス
23 神と和解するということ
第2章 キリスト者はイエスの存在をどのように感じるのか
24 イエスが部外者であったとき
25 イエスが自分の世界に入ってきたとき
26 イエスが旅の伴侶になるとき
27 イエスが「自分の世界」の中心になるとき
28 遠藤周作「侍」を読む① イエスが部外者であったとき
29 遠藤周作「侍」を読む② イエスが視界に入ってくるとき
30 遠藤周作「侍」を読む③ イエスが旅の伴侶になるとき
31 遠藤周作「侍」を読む④ イエスが世界の中心になるとき
32 強烈な回心体験はなくてもいい
33 イエスと話をすると自分が変貌する
34 イエスと「まれびと」
35 定期的な祈り
36 経験と言葉
第3章 「共に生きる」とはどういうことか――キリスト教の幸福論
37 他人への怖れ
38 世界への怖れ
39 自分への怖れ
40 「不安に満ちた世界観」にどう対抗するか
41 なぜ「独りでいるのは良くない」のか――「自己幻想」と「共同幻想」
42 なぜ「共に生きる」のか――「対幻想」を重視する
43 「共に生きる」とは「助け合う」ことではない
44 キリスト教はなぜ結婚を重視するのか
45 知る喜び、知られる喜び
46 技芸職能と「共に生きる」
47 「人を動かす」のはやめる
48 「受ける」ことの意義
49 死との向き合い方
50 旅の到着地
おわりに