貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)

【最新 – 金融・貨幣の歴史について学ぶためのおすすめ本 – 日本のお金から各国の経済史まで】も確認する

低成長経済の閉塞感を経済学で読み解く

資本主義社会は、経済を急速に成長させ、人々に多くの恩恵をもたらしました。しかし、近年では、経済の低成長が続き、貨幣のシステムがうまく機能していないような現象が見られます。本書では、低成長でも機能するお金の仕組みについて、経済史を通じて、著者がユニークな解決策を提唱しています。

岩村 充 (著)
出版社 : 新潮社 (2010/9/23)、出典:出版社HP

貨幣進化論 「成長なき時代」の通貨システム 目次

はじめに

第一章 パンの木の島の物語
一 物語の始まり
腐ってしまうパンの実を替える方法
助け合いから契約へ
資本市場の成立
貯蓄と投資そして利子
二 貨幣という発明
貨幣の誕生
シニョレッジの始まり
バンクの誕生
政府とバンクそして国債
未来の物語
三 最後の日の貨幣
船がやって来た
最後の日の貨幣価値
後日譚として
パネル1:ドーキンスとスミス
パネル2:文字の起源
パネル3:需要と供給そして「見えざる手」
パネル4:4000年明の利子規制
パネル5:貨幣としての宝貝
パネル6:リディアの刻印貨幣と中国の布銭
パネル7:中国の交子とストックホルム銀行券
パネル8:国債が誕生したころ
パネル9:貨幣としての銀と金
パネル10-1:最後の日の貨幣
パネル10-2:最後の日の貨幣

第二章 金本位制への旅
一 利子は罪悪か
時間を盗む罪
成長へのギア・チェンジ
中世日本の利子感覚
ヨゼフの黄金
二つの利子率
二 金貨から銀行券へ
金貨と銀貨の時代
イングランド銀行の生い立ち
スレッドニードル通りの老婦人
そして中央銀行へ
三 金融政策が始まる
ニュートン比価と金本位制
金融政策の始まり
ピクトリアの英国
米国、遅れてきた青年
四 戦争の時代に
危機への処方箋
ドイツの奇跡とフランスの奇跡
呪縛にかかった英国と日本
そして大不況に
五 金本位制の舞台裏
黒衣はロンドンにいた
中央銀行は何をしていたのか
パネル11:ウェルギリウスに海かれて地獄を巡るダンテ
パネル12:成長へのギア・チェンジ
パネル13:中世日本人の貨幣観
パネル14:ゲゼルとケインズ
パネル15:自然利子率の発見者
パネル16:価格革命
パネル17:山田羽書と落札
パネル18:歴史に残るバブルたち
パネル19:日本銀行の設立と銀行券
パネル20:ニュートン造幣局長官
パネル21:19世紀英国の鉄道ブーム
パネル22:ブリタニアが波頭を制した
パネル23:合衆国銀行と連邦準備制度
パネル24:図解・金兌換停止と物価のシナリオ
パネル25:ヘルフェリッヒ対ボワンカレ
パネル26:金解禁のお祭り騒ぎと反動
パネル27:高橋財政
パネル28:第二次世界大戦後の金価格
パネル29:マネタリストとフリードマン

第三章 私たちの時代
一 ブレトンウッズの世界
ブレトンウッズ体制の仕組み
幻のバンコール
黄金の六〇年代
不思議の国のSDR
日本は奇跡だったか
三六〇円という規律がもたらしたもの
そしてニクソン・ショック
二 私たちの時代
漂わなかった貨幣たち
貨幣価値とは政府の株価
金利とマネーサプライ
律儀な政府と中央銀行
パネル30:フォートノックスの金保管施設
パネル31:ケインズとホワイト
パネル32:ブレトンウッズ体制の舞台裏
パネル33:IMFとSDR
パネル34:戦争経済の遺産
パネル35:焼け跡と一銭五厘の旗
パネル36:天皇とマッカーサーそしてドッジ・ライン
パネル37:ニクソン・ショックとオイル・ショック
パネル38:変動相場制移行後のインフレ率の推移
パネル39:倒産する国、しない国
バネル40:ヘリコプターとケチャップと不良債権
パネル41:変動相場制移行後の円とドル

第四章 貨幣はどこに行く
一 統合のベクトルと離散のベクトル
統合のベクトル
離散のベクトル
競争する政府たち
ユーロからの教訓
二 貨幣はどこに行く
金融政策のルール
技術と人口
フィリップス曲線の異変
水平化と消失、二つの脅威
貨幣を変えられるか
キーワードはシニョレッジ
カエサルのものだけをカエサルに
パネル42:ユーロを生み出したもの
パネル43:良貨が悪貨を駆逐する
パネル44:通貨はどこにあるか
パネル45:囚人のジレンマ
パネル46:フィッシャー方程式とイスラム金融
パネル47:テイラールール
パネル48:技術と人口
パネル49:フィリップス曲線の異変
パネル50:愚者の船
パネル51:貨幣に金利を付ける方法

おわりに――変化は突然やってくる

岩村 充 (著)
出版社 : 新潮社 (2010/9/23)、出典:出版社HP

はじめに

貨幣の何かがおかしい。そう思うことはありませんか。格差、金融危機、デフレ、バブル経済、今日の私たちの悩みの多くに貨幣がかかわっています。それは貨幣というシステムの何か本質的な欠陥によるものではないか。貨幣を変えた方が良いのではないか。そうした疑問が、金融や経済あるいは社会のあり方を巡って繰り返される論争の根底にあるように感じるのは私だけではないでしょう。その答を、貨幣の歴史を振り返りながら探してみたい。そう思いながら私はこの本を書き始めました。

貨幣はシステムです。コインの一枚一枚、紙幣の一枚一枚は、それだけでは何の意味もありません。貨幣の意味は、それを貨幣だとみんなで認める、その仕組み自体にあります。だから貨幣はシステムなのです。便利なシステムです。そして困ったシステムでもあります。貨幣を変えたいと私たちが思うことがあるのは、その困った面が行き過ぎていると感じることが少なくないからなのでしょう。
では、問題は貨幣が作り出したものなのでしょうか。貨幣を変えれば問題は解決するのでしょうか。それを問うのならば、まずは貨幣というシステムの便利さとは何かを考えておく必要があります。
貨幣は便利なものです。貨幣があれば、いつでもさまざまなものを手に入れることができます。私たちが、外出先でお腹が空いたとき、ステーキを奮発しようかラーメンで済ませようか、そう迷うことができるのもポケットにオカネがあるからです。あるいは、ちょっと多めの残業手当をもらった給料日に、将来の結婚や出産に備えて貯金をしておこうかと考えることができるのもオカネつまり貨幣があるからです。もし貨幣がなかったら、今日は何をするか、明日にどう備えようか、それを計算しつくさなければ、家から一歩も出られないかもしれません。私たちが財布を持ちさえすれば気軽に外出できるのは、貨幣というシステムのおかげなのです。
しかし、貨幣は悩みの種にもなります。貨幣を持っていると、いろんな人に出会うことになります。出会うのは、おいしいランチを作ってくれる親父さんや真面目な銀行員ばかりではありません。スリにも詐欺師にも強盗にも出会います。でも、それは仕方がないことでしょう。
昔、鉄道が世の中に登場したとき、反対する人たちは、鉄道に乗って多くの悪いものが運ばれて来るだろうということをその理由にしました。平和に暮らしている町や村に鉄道が開通すると、悪しき心を持った人や不道徳な文化の産物が流れ込んで来るのではないかと案じたのです。それは必ずしも間違った予想ではありませんでした。でも、そうした反対は、鉄道に乗って便利な商品や新しい働き口など、良いものがたくさん運ばれてくると感じる人が増えるにつれ消えて行ったのです。
貨幣も同じことです。貨幣とは要するに「価値の乗り物」ですから、鉄道と同じで一定の手順を踏めば何でも乗せてしまいます。良いものも悪いものも乗せてしまうのです。ですが、それで貨幣を批判するのはお門違いというものでしょう。批判されるべきは、悪しきものや悪しき心であって、その「乗り物」ではないのです。
貨幣に対する批判のなかには、貨幣そのものへの批判ではなくて、貨幣が何でも乗せてしまうことへの批判、要するに貨幣が便利すぎることへの批判もあります。私は、そうした批判に反論したいとは思いませんが同調するつもりもありません。貨幣という「価値の乗り物」の乗客のうちで、「良き」と評価すべきものが多いか、「悪しき」と評価すべきものが多いと思うかは、突き詰めれば個人の価値観の問題だからです。信念に基づいて貨幣どころか商品経済全体を拒否して農村で自立生活をする人々がいます。そうした人々の理想の高さと意志の強さは尊敬に値しますが、彼らに合流する人は多くないでしょう。それは世界観あるいは価値観が違うからです。貨幣に対する批判のうちのいくらかは、そうした世界観や価値観の持ち方の相違から来るものであるように思えます。

しかし、貨幣の問題はそれだけではなさそうです。私たちが貨幣の何かがおかしいと感じることがある背景には、現代の貨幣が、それが本来持つべき機能を果たさず、果たすべき目的からの逸脱すら生じているという認識も隠れているからです。

この本を書いている二〇一〇年の今、世界は二〇〇八年の秋に始まる「リーマン・ショック」と呼ばれる経済危機から立ち直っていません。危機の原因が何であったかについての議論はさておきましょう。しかし、危機の発生と連鎖のメカニズムに貨幣というものが深く介在していたことを否定する人はいません。それは貨幣というものに対する人々の見方や考え方にも大きな傷を与えたと思います。貨幣は人々の感情を傷つけたのです。
もっとも、感情と勘定は別ものです。危機の発生と拡大に貨幣が介在していたにもかかわらず、人々が実際に取った行動は石油や不動産などの実物的な価値を捨て、とりあえず貨幣の世界へと逃げ込もうというものでした。経済危機の発生と同時に、これらの価格は大きく値を下げたのです。危機を通じて、貨幣は「感情」の世界でますます嫌われるようになり、「勘定」の世界でますます強く抱き寄せられるようになったわけです。

ところが、そうした危機の過程で別の動き方をした資産もありました。それは「金」です。金は、危機勃発の時点では、他の実物資産と同じく大きく売り込まれました。しかし、二カ月もしないうちに値を上げ始め、危機の一年後には史上最高値を更新するまでに高騰してしまったのです。これは何を示唆するのでしょうか。
かつて金は貨幣そのものでした。金貨の時代の話です。それが、金を支払準備として金庫に納めたままにし、代わりに銀行券を流通させる制度である「金本位制」へと移行したのは一九世紀半ばのことです。金本位制の下で人々の請求に応じて銀行券を金へと交換することを「兌換」といいます。金本位制では金そのものが貨幣として使われることは少なくなったのですが、金は兌換という仕組みを通じて貨幣の価値を支えていると信じられていたのです。
しかし、現在は違います。現在の貨幣制度は「管理通貨制」といって、貨幣価値の体系のなかに金を介在させません。貨幣を発行する仕組みそのものへの信用によって支えようというシステムなのです。それは第二次世界大戦中の一九四四年に開かれた国際会議、いわゆるブレトンウッズ会議での合意を始まりにするものですが、現代の貨幣が金と完全に縁を切ったのは、一九七一年に米国のニクソン大統領がドルと金との交換を停止すると宣言したことによってです。後に「ニクソン・ショック」と呼ばれるようになった事件ですが、以来、金は貨幣という劇場から退場したことになっていたのです。
その金が危機に際して急速に値を上げた背景には、現在の貨幣たちに対する不信があるように思います。それどころか、それは単なる不信の現れではなく金本位制復活の予兆に違いないとまで言う人たちもいます。しかし、私はそうした金価格の高騰を金本位制復活の予兆とみるのはナンセンスだと思っています。
金本位制の歴史というのは、戦争や恐慌などの危機に際しての兌換停止と、危機後の再開の繰り返しだったといえます。金あるいは金貨の輝きは危機の時にこそ魅力を発揮しますが、金本位制という制度そのものは危機に弱いのです。ですから、現在の貨幣たちの成績が芳しくないからと言って、引退したはずの金という役者を、危機再発の恐れが消えないうちに貨幣劇場の舞台に呼び戻そうというのは賢い選択ではありません。私たちが考えるべきは、ドルをはじめとする現役の貨幣たちが評判を落とすと、理由ははっきりしないままで金が買われたということの方でしょう。その原因の多くは、貨幣価値の基礎がどこにあるのかを分かりにくくしてしまった現在の貨幣制度の側にあると思えるからです。
それをどう直すか、そもそも直すことが可能なのか、それがこの本に私が託したいテーマです。

この本では、まず貨幣というシステムが、どうして成り立っているのかを説明したいと思います。説明の仕方はいろいろあるでしょうが、ここでは経済とか社会というものが生まれ発展する過程を一つの物語として描いて、そこに貨幣というものが入って来るシナリオと、貨幣価値の決まり方について考えてみようと思います。それが第一章「パンの木の島の物語」です。少しの事実と少なくない想像から作り上げた仮想世界での物語ですが、いわゆる思考実験の一種だと思ってそこはお許しください。
第二章「金本位制への旅」では、今の私たちの貨幣制度の直接の源流である金本位制が成立するまでの貨幣の歴史を辿ります。旅のテーマは貨幣価値と時間との関係、具体的には金利の問題です。貨幣が金利を生むということには二千年を超える歴史がありますが、それは貨幣が人々の懐疑と憎悪の的となる理由にもなってきました。『モモ』そして『はてしない物語』などで知られる作家ミヒャエル・エンデは、時間や価値あるいは貨幣というものについての洞察でも多くの人の心をとらえています。その彼の感性のなかにも金利への重い疑念があるように思います。私は、そうした疑念の全部が正しいとは思いませんが、それでも彼が訴えようとした事柄の多くは貨幣を論じる者として無視すべきでないと思っています。ここでは、この金利という概念をキーワードにして、金貨や銀貨の時代が銀行券と中央銀行の時代へと移り変わった過程を追ってみましょう。そのなかで、銀行券と中央銀行とが生み出した金融政策という仕組みについても考えてみたいと思います。扱う時代は、金本位制が終局を迎える第二次世界大戦の前夜までです。
第三章「私たちの時代」で扱うのは現在の問題です。この章では、第二次大戦後の固定相場制時代とその崩壊から始まった変動相場制の時代におけるさまざまな出来事を辿りながら、金と訣別した現代の貨幣の価値の拠り所とは何か、そこでの政府と中央銀行の役割はどんなものなのかを考えます。そして、そうした世界の動きを踏まえて、第二次大戦後の日本に何が起こったのかと、その日本が抱える問題とは何かを探ります。マネーサプライとかインフレターゲットというような話題についても触れておこうと思います。
第四章「貨幣はどこに行く」は本書の締めくくりです。貨幣の未来を考えるうえで見落としてはいけないことは、世界経済が「成長」といえるほどの発展を示し始めたのは一九世紀の出来事であり、それは現代の貨幣制度の前身たる金本位制が世界に普及していった時期に重なるということです。このことは、貨幣と金融の制度が大発展した一九世紀そして二〇世紀という時代が、実は人類史の中では特殊な時間だったのかもしれないということを示唆するものでもあります。現代の貨幣制度は一九世紀に始まった「経済の持続的な成長」ということを大きな前提とするものなのかもしれないのです。しかし、二一世紀の世界がこれまでと同じやり方では成長を続けられないことは、人口や技術進歩の状況そして環境制約からみても明らかでしょう。もちろん、人類はそうした制約を乗り越え、新しいやり方で経済成長を続けさせることができるかもしれません。でも、できなかったとき貨幣をどうすべきか、それは、貨幣の問題を真剣に考えるのならば、一度は思いを巡らせるべきテーマなのではないでしょうか。この章では、そうした大きな歴史の流れをも踏まえて、私たちの貨幣がどこに行くのかを考えていくことになります。これにはいろいろな考え方ができます。いろいろな考え方ができますから、考えることの中身はここには書きません。どうか最後までお読みください。そのうえで貨幣というシステムを変えることができるかどうか、それを皆さん自身でお考え頂けたらと思います。

では、第一章の物語を始めます。

岩村 充 (著)
出版社 : 新潮社 (2010/9/23)、出典:出版社HP