ページコンテンツ
【最新 – 日本文学について理解を深めるためのおすすめ本 – 前提知識から日本文学史まで】も確認する
日本文学研究者による日本文学の入門書
本書は、日本文学研究者であるドナルド・キーン氏のケンブリッジ大学時代の講義をもとに、日本文学論について書いたものです。『万葉集』『源氏物語』から、松尾芭蕉、正岡子規など、後年のキーン氏の研究の核となる日本文学のエッセンスを論じた日本文学の入門書です。
目次
日本の文学
緒言
Ⅰ 序章
Ⅱ 日本の詩
Ⅲ 日本の劇
Ⅳ 日本の小説
Ⅴ 欧米の影響を受けた日本の文学
海外の万葉集
近松とシェイクスピア
近松と欧米の読者
啄木の日記と芸術
日本と太宰治と『斜陽』
解説 三島由紀夫
ドナルド・キーン氏のこと 吉田健一
キーワード一覧
カバー画 与謝蕪村筆「野ざらし紀行図」(部分)
カバーデザイン 細野綾子
緒言
この本を書いた時、私の目的は欧米の読者、というのは、欧米の文学上の傑作を楽しむのに馴れたものに、私が日本の文学で驚嘆し、また、美しいと思った作品を紹介することにあった。本の枚数が限られていたので、私は日本の文学の長い、複雑な歴史のきわめて大ざっぱな輪郭を描くに止めるか、その作品の幾つかを選んでこれをもう少し詳細に亘って検討するか、その何れかに決める他なかった。私は限定された作品について語る方を取って、それはしかし日本、及び欧米の批評家たちが最も高く評価している傑作の一部には触れないことになることを意味し、そのために例えば私は日本の詞華集の中で疑いもなく首位を占めている『万葉集』について書くことを諦めなければならなくなり、それはこの詩集について書き出せば、連歌と俳句を論じる余地がなくなることは明らかで、私はその連歌と俳句をどうしても取り上げたかったからだった。他の理由から、私は『枕草子』『徒然草』『方丈記』などの傑作も無視しなければならなかった。それ故に、この本は日本の文学について組織的に論究したその概観でもなければ、その代表作を網羅した参考書でもなくて、私が欧米の読者にとって特に興味があるのではないかと考えた日本の文学の或る幾つかの面についての、きわめて個人的な評価を試みたものなのである。
私はこの本がいつかは日本語に訳されるということを思っても見なかった。その目的は欧米の読者の大部分にとって未知の文学を彼等に紹介することにあったのだから、その文学を子供の時から知っている日本の読者にこういう本を提供するのは筋違いかも知れない。しかし日本の友達が私に語ったことによれば、前にも外国人が日本の美術とか、劇とかについて発表した意見が(何かの形での)刺戟になり、日本の文明の伝統について新たな検討が行われるきっかけを作ったことが何度かあるということで、もしこの本の訳がそういう役割を果すことになれば、私としては何も言うことはない。
この本を私は一九五二年に書いた。その後、私は日本文学についてさらに多くのことを知って、この本で強調されていることの中には、今の私が考えていることとは少し違っているものもある。しかし私は今度、訳が出るのに当って、この本の内容にほとんど手を入れなかった。私にとってこの本は思い出が多いもので、これを私はまだ実際に日本というものを知らず、またその頃私が教職にあった英国から京都その他、私が文学を通して知った日本の各地に行けるだけの金を手に入れることはまずなさそうだった時代に書いた。その当時は日本から本を取り寄せるのが容易なことではなかった。そして私は、自分が関心を持っている国からあまりにも遠い所にいて、その上に、私の日本の文学についての講義に誰も何の反応も示さないので落胆していた。私は日本の文学の研究を全然止めてしまって、何かもう少し大学で人並に通用する仕事に転じようかとさえ思い、それでそういう私と、私の講義を聞きに来るものに私がやっている仕事が価値あるものであることを証明するためにこの本を書いた。もし私が今こういう本を書くならば、その後、さらに十年間、勉強を続けただけの違いをそれは示しはするかも知れないが、私がこの本で最初に日本の文学に傾けた情熱を再現することは難しいのではないかと考える。
附記
この本が筑摩書房のグリーンベルト・シリーズに入ってからまた八年間が経ち、その間、日本の文学はめざましい成果をあげ、この本を書いた当時と違って西洋でも翻訳を通じて日本文学の偉大さをより正しく鑑賞できるようになった。特に一九六八年に川端康成氏がノーベル文学賞を受賞されたことで日本現代文学が高く評価されてきて、私をはじめ外国人の日本文学者は大いに喜んでいる次第である。もしも現在この本を新しく書こうと思ったら、きっと違う表現はたくさんあるだろうが、一九六三年の緒言に書いた通り、この本の原型は私にとって特別な意義のあるもので、もう一度もとの形で発表させていただきたい。(一九七一年十一月)
中公文庫版附記
この本が文庫版になると聞いて感慨に堪えない。この本のすばらしい翻訳者吉田さんも、あまりにも親切な解説者三島さんも既にこの世にはない。御冥福を祈るのみだ。(一九七九年十一月)